第16話 小さきものは足元に

 ぐにゃり、とカーテンが揺らめくように、結界がブレた。烏の羽が結界を突き抜けるのを冷淡な瞳で見届けた七緒は、間髪を容れずに姿を転じる。黒い鳥になって羽ばたき、鋭い嘴の先を突破口にすべく、結界を穿つ。ひびこそ入らないものの、烏はぐんにゃりと、柔らかくたわんだ結界に取り込まれた。勢いを殺さぬまま、弾かれるように飛び出した烏は、そのまま人の姿を取り戻す。人の顔を取り戻し、人の体を取り戻す。最後に黒い羽根が腕に戻って、その右手に赤く光る宝石のついた杖を持っている。七緒は息を切らしつつ、油断なく陽一を見据えていた。

 吐き捨てるように、彼は言う。


「栞ちゃんのことは全部俺に任せるって約束は」

「『ああ、そんなこと言ったかな』」


 しゅるりと魔術を解いて、陽一は元の姿へと戻る。スーツを身にまとった姿で栞の顎をくすぐりながら、陽一は七緒に視線を向けた。指先から伝わる怖気に、栞は身じろぐ。


「何人たりとも、俺の許可なしにこのに上がる事はあたわず——そういう術式なんだけどねえ」

「あんたがその術式を得意にしてんの、いつも間近で見てるからね。って盲点に気がつかないなんて、陽一さんらしくないけど——おかげで潜り込めた」


 陽一は返事をしない。鋏をしまうかわりに栞の首筋に反対側の手をかけて、七緒の言葉に唇を歪めた。少年は怜悧な眼差しを数学科の教師に向けている。七緒は薄い唇を開いて、


「もう一度聞く。白鳥栞の対応は俺に全部任せるって言うのは、嘘?」


 底冷えするような声音でそう尋ねた。はらはらとした面持ちで、栞は二人のやりとりを眺める。昨日栞の心をひどく痛めつけた少年が、今は何故だか栞の味方をしてくれている。喜ぶべきか、警戒するべきか。どちらを信じるべきか、あるいはどちらも信じないべきか。呼吸がうまくできないせいで、少しずつ酸素が減っていく頭。ぐるぐると考えても、答えは出ない。


「ごめんごめん、七緒くんには言ってない計画があってね。でもほら、ごらん。こうして烏丸家のご注文通り、白鳥の後継者を無力化できたんだ。喜びなよ、これでもう君の弟が危なくなることなんてない」


 演説をするように、朗々と陽一は語る。ぎり、と七緒の歯軋りの音が、朽ち果てた教室に響いた。弟、と言う言葉に栞は引っかかった。陽一の口調は、何か七緒の弱みを握っているような物言いだった。少年は言葉を発さない。その様子に、陽一は満足げに頷く。能面のように張り付いた笑顔のまま、栞の頸に力をかける。


「っ……ぐ、ッ……!」


 息ができない。このまま頸を絞められたら、きっと死ぬのだろう。諦観と悲嘆、そして怒りが混ざって、ごちゃごちゃの感情で脳がパニックになる。兄は助けに来ない。なおは気絶して目を覚まさない。千蔭はここにいない。《王子》など以ての外だ。栞のことを助けてくれる人間は、ここにいない。喘ぐように息をしようとして、ゆっくりと強くなっていく指の力を引き剥がそうと、両手で陽一の手を掴む。必死になってもがく栞の姿を愉快そうに見つめて、陽一は鼻を鳴らした。


「あとはこのボロボロの醜い鳥を、煮るなり焼くなり好きにしていいよ。欲しかったんだろ、この子が」


 酷い物言いだ、と栞は思った。あまりにも下衆な言い方に、少女は思わず笑ってしまった。瞳からは生理的な涙が溢れていくのに、唇は自然と弧を描く。こんな終わりは、あまりにも滑稽だ。目の前が霞みゆく中で、刹那、赤い光が瞬いた。

 どさり、と栞の体が床に落ちる。叩きつけられた衝撃で体の左側が痛む。肩と骨盤を庇いながら、げほげほとむせ込んだ。肺に空気を取り込みながら、薄目で少年の方を見る。


「……栞ちゃんから手を離せ」


 七緒の杖の効果だろう、陽一の両腕の肘から先が蜘蛛の糸でぐるぐる巻きに固定されていた。栞の首から手を無理やり引き剥がしたせいで落下したのだ、少女は状況を把握した。 


「あは、あははははははははははははははっ!」


 陽一は笑う。魔術師は目を緑に輝かせて、ぶちぶちと蜘蛛の糸を千切った。嘲るような響きが、栞の嫌悪感を煽った。きんきんと、耳の奥で耳障りな笑い声が響いている。


「なに、傑作だねえ七緒くん。遅れてやってきて騎士ナイトのつもり? つい昨日、白鳥ちゃんの心をズタズタに引き裂いたのは、君なのに!」


 パチパチと手を鳴らして、男は傑作だと宣う。素晴らしい喜劇だとでも言うように、その顔には恍惚の色が滲んでいる。七緒は無表情のまま、陽一のことを睨みつける。二人が対峙している間に、栞は動かない体を叱咤して、無理矢理男から距離をとる。壁伝いに這いずりながら、すこし、またすこしと離れていく。


「黙れ」


 七緒が杖を振りかざす。溢れる蜘蛛の糸を難なく避ける様子は、幼子と遊ぶ親のようだった。


「それとも、王子様ごっこ? そういうおままごとはもう卒業する時期だよ?」


 憐憫に満ちた手振りで、陽一は少年に語りかける。これは優しさであり、慈悲だと言わんばかりの表情がちぐはぐで、栞は底冷えするような恐ろしさを感じた。陽一の言葉に、七緒はしばらく沈黙して——そして、宣言する。


「俺が、栞ちゃんを守るんだ」


 きらりと光る瞳は赤く、しかし昨日のようなおぞましい気配はどこにもなかった。栞にはわからない。なぜ彼が栞を傷つけるのか、そのうえでなぜ彼が栞を守ろうとするのか。どちらの彼が本当なのか、少女には判断がつかない。


「『七番目の烏セブンス・クロウの名において、力を貸せ、大蜘蛛』」


 ぶわり、と七緒の魔力が上昇する。苦しげに眉根を潜めて、杖先の宝石が赤黒く光る。杖を振りかざせば、糸が陽一の四肢を拘束しにかかる。一歩二歩と後ずさり糸を避けようとした陽一はしかし、三歩下がったその足元で蜘蛛の巣に引っかかる。へぇ、と呟きその手のひらから火球を放てば、粘つく糸は燃え上がる。その隙を逃すまいと、七緒が杖を振りかぶる。直接陽一を殴ろうとするその動きを、男は間一髪のところで躱した。


「暴力はよくないなァ!」

「うるさい、『縛れ』」


 へらへらと七緒の縛を避けていた陽一も、七緒の杖を躱した瞬間に足元を掬われてはバランスを崩す。両の足をぐるぐると縛り付ける糸はきつく絡みついて、男を縫い止める。どさり、倒れ込んだ陽一に馬乗りになって、七緒は杖のつかを思い切り男の顔のわきに叩きつける。陽一の両の手が、床に縫いとめられた。


「詫びて。俺と、栞ちゃんに」


 低い声で、七緒は命じる。ぎらぎらと光る瞳はわずかに揺らいで、炎を連想させた。


「ふ、ふふ。あはは、ははは!」

「何がおかしいの」


 七緒が訝しげに陽一を睨みつける。瞬間、七緒の体が宙に浮いた。鈍い音が響く。陽一の膝がみぞおちを蹴り上げて、七緒の口からこひゅう、と空気が漏れる。陽一の脚を縛りつけた糸が解けてしまっていた。魔力切れだ、と栞は目を見開いた。兄と戦った影響が出ているのだ。


「っぐ……こんな、ところで」


 這いつくばった七緒がもう一度烏に変化して、空から襲いかかろうと試みる。陽一はスーツから埃を払う動作をして、大仰に語る。


「『天は地に、地は天に。まさか逆さま、逆しまに』」


 ぐらり、と鳥の体が揺らぐ。つられて栞の足元もふわふわとあやしげなものになる。天地がひっくり返ったような感覚。


「詰めが甘いねぇ、七緒くんッ」


 一筆書きで素早く魔法円を描くと、鎌鼬が七緒の翼を傷つけんと襲いかかる。避けながら羽ばたいたところに、思い切り石の礫が降り注いだ。


「ぐぁッ……!」


 直撃した礫に押しつぶされ、不時着した烏が床を転がっていく。陽一の足元で身動ぐ鳥を、男は容赦なく蹴り飛ばした。


「あーあ、靴が汚れちゃった。出来損ないがうつりそう」


 穢らわしいものを見る目で、陽一は傷つき倒れる七緒を一瞥した。男の瞳は翳っている。敵対するものを全て屠るような、暗澹たる闇がそこにあった。


「烏、が」


 傷ついた烏が、力なく栞の目の前に横たわっている。かあ、かあ、と力なく鳴く声、懸命に羽ばたこうとするその仕草。

 知っている。前にも同じことがあった。


「あなた、の烏なんですか」


 びくり、と烏が体を震わせた。躊躇うように。けれどしっかりと、嘴が上下する。頷きだった。

 瞬間——

 欠けていたパズルのピースがカチリと嵌るように、色褪せていた記憶が次々と鮮やかに浮かび上がる。景色の本流にクラクラとしながらも、その充足感が体を満たしていくのを感じていた。わかる、解る、判る、分かる。栞は目を閉じて、想い出を呼び起こす。






 それは、かつての物語。


「栞さんに、友人なんて必要ないと思うの」


 青天の霹靂のような、祖母の発言。そんな単純な言葉が、栞の生活を粉々に打ち砕いた。十歳を過ぎて少し経った頃、栞は友人を作ることを禁じられた。両親が傷つき倒れて眠りにつき、兄が家から追い出され、跡取りとして育つのに友人の存在が不要とされたのだ。


『最近、栞ちゃん冷たいよね』『わたしたちと遊びたくないんだって』『えー! 何それ、ひどーい!』『俺たち白鳥に優しくしてやってたのに』『いいよ、もう仲間はずれにしちゃおうよ』『そうだね』『そうだそうだ』


 聞こえるように投げられる悪意。得体のしれないものを見る目線。小学校に通えども必要なとき以外口を開く事はなかったため、いつしか周りから遠ざけられ、一人ぼっちで日々を過ごしていた。


(だれか、助けて)


 広い教室の中でぽつん、と自分の席に座るのは堪え難いくらい辛い。けれど涙を流すこともまた、できなかった。上に立つべきものが孤独感で泣くなどみっともないと、祖母がきつく罰するのだ。その監視の目は担任教師にも伝わっていて、不用意に友人と話したり涙を流せば、栞は担任からも叱られていた。学校に、いや、世界に、栞の居場所などどこにも無かった。


(こんなの、耐えきれない)


 両親が眠ってしまうまでは普通に友人も居て、泣いたり、笑ったり、怒ったり喜んだりだってできていた。温かな夕飯があり、優しい両親、そして頼りになる兄が栞を愛してくれていた。けれど、想い出に縋るように毎日毎日逃げるように学校から帰っても、祖母の近くでは安堵の溜息さえ吐き出せない。祖母へ愛を求めても、彼女は結果しか理解してくれない。白鳥家を存続させる事、それしか頭にないのだから当然だった。


「この、出来損ないッ!」


 疲れと憔悴、それに睡眠不足から魔術修行をしくじれば、祖母から容赦のない怒声を浴びせられる。そんな日々を送っているうちに、ふと、限界が訪れた。いつもなら寄り道もせず、まっすぐ帰途につくはずが、家から逃げるように栞の足が帰り道の公園に立ち寄った。狭い、少し奥まったところにある公園だ。遊ぶ子供達はいないけれど、遊具はそれなりに揃っている。すべり台、ジャングルジム、シーソー、そしてブランコ。栞はきょろきょろと辺りを見回してから、そっとブランコに腰をかける。ゆら、ゆら、と何回かブランコを漕ぐ。柔らかな風が頬を撫でる。ぽた、ぽた、と目から何かが溢れるのを、栞は必死に拭った。ブランコの動きが、止まる。


「ないて、ません」


 袖が、じわじわと温かい液体で湿っていく。お気に入りの洋服を褒めてくれる人はもういない。赤いランドセルの重みがずしりと肩に乗っかって、泥沼の奥へと引きずり込まれるようだった。嫌な気持ちを拭おうと、自分にエールを送ろうと栞はもがいた。


「だいじょぶ、です。わたし、『出来損ないの白鳥アグリーダック』なんかじゃ、ないですっ……!」


 それでも涙は止まらない。溢れて、このまま湖ができるほどに次から次へとこみあげてくる。喉の奥が詰まって、苦しい。目頭が熱くて、呼吸が浅くなる。漏れる嗚咽を噛み殺す事ができなくて、みっともなくぐすぐすと泣きじゃくる。鼻水をすすりながら、ティッシュで鼻を思い切りかんだ。その時だった。


「かぁ」

「……だれ?」


 小さな、黒い鳥がそこにいた。栞の足下にちょんちょんと飛び跳ねて、嘴で靴下をつついている。それは、まだ幼げな見た目をしている。カラスの雛、だろうか。


「かあ、かあ」


 鳴き声につられ、視線を下にやる。見れば、何かが烏の近くに落ちている。可愛らしい花が栞の目に映った。


「お花……?」


 あげる、という仕草で、烏はまた小さく鳴いた。栞は小さな手で花を拾い上げる。金魚のような形の、小さな花だった。見たことのない形だったが、可愛らしい。


「かぁ!」


 つぶらな瞳の黒い鳥の鳴き声を聞いている間に、いつしか栞の涙は止まっていた。自分のことをみつけてくれた存在に安心したのか。家に帰るや否や、少女は久々に部屋でぐっすりと眠ることができた。夢も見ないほどの深い眠りは、栞の心に幾ばくかの余裕を与える。目覚めてから祖母に小言を言われても、数少ない使用人とすれ違っても、精神的なショックはいつもよりも少ない。

 その日から、小さな烏との交流が細々と続けられた。

 春、夏、秋、冬。季節が巡るたびに花が贈られる。毎週、金曜日。その日があるから、栞は挫けそうな中でも学校へ通えた。陰口を叩かれても、ヒソヒソ話をされても。腫れ物に触るような扱いをされても、人前で涙を流せなくても。烏が味方をしてくれていると思えば、辛い時間もあっという間に過ぎていった。

 ある日、いつものようにブランコで烏を待っていると、近くの茂みからばうばうと何かの鳴く声がする。がさごそと音がして、現れたのは野良犬だ。首輪のない犬はどこか目つきが虚ろで、だらだらとよだれが垂れている。異様な雰囲気に、栞は後ずさった。


(怖い……!)


 栞に気がついた犬が、こっちに駆けてくる。大きな口が開いて、鋭い歯で、栞に噛みつこうとする。咄嗟に栞が取れた行動は、しゃがみこんで自分を庇うことくらいだった。痛みを覚悟して、ぎゅう、と目を瞑る。その時だった。

 鈍い音がする。ばさばさと何かが羽ばたく音に何事かと目を開けば、きゃうん! と犬が鳴き、どこか遠くへ駆けて行く。先ほどまで犬がいたところには、地べたに、黒い塊が落ちていた。傷ついた烏が、力なく栞の目の前に横たわっている。かあ、かあ、と力なく鳴く声、懸命に羽ばたこうとするその仕草を目にした瞬間。咄嗟に、歌っていた。


「『天におります女神さま、どうか、どうか力を貸してください。まことの幸いのため、小さき命をお救いください』」


 柔らかな光に、小さな鳥が包まれる。血を流す翼を癒して、烏のことを抱きかかえる。苦しげだった呼吸が落ち着いて、栞はひたいに滲む汗を拭った。冷や汗がどっと溢れて、目の前がくらくらする。目眩をこらえながら、烏を茂みの中に隠して、小さく手を振る。さよなら、さよなら。そう呟いて、ふらついた足取りで家へ戻る。

 日本家屋の引き戸を開ければ、白鳥綴が仁王立ちで待っていた。帰宅が遅くなったことに加え、魔力切れの状況を見透かされ、ばちん! と大きく頬を叩く音が玄関に響いた。ワンピースに付いていた烏の羽を指差して、何か、文句のような言葉を言われているのはわかったが、祖母の言葉が栞の耳にうまく届かない。


(ああ、烏さん。元気に、していてくださいね)


 そのまま栞はへら、と笑って、意識を失った。

 以来、祖母より外で不用意に魔術を使った罰として、一切の寄り道が禁止された。烏の安否は気がかりだったが、そうこうしている間に中学を受験する時期になる。優秀な言詠ならば星謳学園に進学すべきだという綴の主張は頑なで、栞は勉強に忙殺されていた。そんな中でも、栞の心にはいつも一羽の鳥が居た。その鳴き声を聞くだけで、その姿を見るだけで、凍てついた心に柔らかな灯りがともる。

 そうして入学した星謳学園で、栞は《王子》に出会った。《王子》との約束に執われるがあまり、いつしか忘れてしまっていた、けれど大事な想い出。

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