第15話 陽炎は廃墟に
ドアノブに触れる。ピリッ、と静電気のような痛みが指先にはしった。痛みを逃すように手を振って、栞はもう一度ドアノブに手をかけた。
「この奥の部屋に、なおちゃんと兄貴がいる」
「とっととぶちのめして、なおを連れて帰ります」
「……気をつけろよ」
千蔭の言葉に頷き、栞はガチャリとノブを捻った。ギィイ、と軋む扉が開けば、そこはかつて使われていたと思しき荒れはてた教室だった。机や椅子はボロボロに風化し、触れただけで崩れ落ちそうなものもある。むき出しのコンクリートの壁は苔に覆われ、まさしく廃墟に相応しい。ところどころひび割れたガラス窓には鉄の格子が嵌められていて、差し込む夕陽を受けて網かけの影を床板に映している。教壇には後ろ手に手を縛られ、意識を失っているなおの姿。それから、そんな彼女をしゃがんで見つめる少年がひとり。茶色くてふわふわした髪の彼は、栞の方を振り向くと三日月に笑った。
「『よお、白鳥』」
そこに居たのは、五位鷺千蔭だった。栞は背後にいる千蔭をちらりと横目で確認して、もう一度立ちはだかる少年を睨みつける。
「五位鷺が、もう一人……?」
訝しげに呟けば、いやらしい笑みを浮かべている方の千蔭の姿がゆらりとぶれる。
「『なーんてね』」
ゆら、と影が揺れる。陽炎のようにぼやけたシルエット、焦点が合わないことを不審に思って瞬けばそこには男がひとり。
「やあ、白鳥ちゃん。数学の課題は終わったかな?」
グレーのスーツにオレンジ色のネクタイをした数学教師が、にまにまといやらしい笑いを浮かべてそこに立っていた。五位鷺陽一、五位鷺家の恐らく次期当主。承認判を持つ、倒さなければならない相手。美しい顔の男を油断なく見据えながら、栞は眉根を潜めた。
「まだですけど」
「それはいけない。早く家に帰って、課題を進めてくれなくちゃ。白鳥くんの成績がつけられないじゃないか」
「あなたから判子を貰ったらそうします」
魔術師として対峙しているはずなのに、教師として男は言葉を紡ぐ。教壇に立っている時のように、生徒を諭すような声色がこの場にそぐわない。朽ち果てた教室で教鞭をとるように語る姿がおぞましい。怖い、と栞は手のひらに爪を立てた。負けないよう、男が何かを言う前に栞は声を張った。
「なおを返して。それから、わたしを最高位候補だと認めてください」
威圧するように低い声色を使えど、男は興味深そうに栞のことを見つめるだけで怯む様子は見られなかった。
「どっちもできないねえ。俺は君をここから返すつもりはないからさ」
「……どういう、意味ですか」
うんうん、と頷きながら五位鷺陽一は腕を組み、天井の方を指差す。すらりとした長い指が示すのは、うっすらと透けた翡翠の色に覆われている天井だった。どこか、舞台の幕に似た印象を受ける。
「この部屋、ちょっと仕掛けを施しておいたんだよねえ。ある条件を満たすまで、白鳥ちゃんがこの結界の外に出られない仕組みにしてあるんだよお」
入り口の扉の前から、部屋全体を覆うように結界が張られている。言われるまで気がつかないなんて、と少女は眉を潜めた。栞が用いるよりも数段レベルの高い魔術が施されているようだった。結界は千蔭と栞の間を分断するように張られている。自分の弟が、栞の手助けをしないようにだろうか。
「ほら、もう6月だから、ここに君を閉じ込めておけば、自動的に烏丸家の次期当主が最高位の称号を得る。烏丸生徒会長はもう、君よりスタンプ集めてるからねえ」
「なっ……!」
「ああ、殺すつもりはないから安心してよ。白鳥ちゃん魔力強いんでしょ、生命維持のために割けばここから出られなくとも、ご飯が食べられなくて死ぬことはないだろうし。7月になったら解放してあげる。……あるいは、俺と戦う? それでもいいよ、いい暇つぶしにはなるだろうし」
完全に舐められている。最高位候補を決めるための儀が行われるのは6月30日まで、つまり栞の16歳の誕生日がタイムリミットだ。彼の言う通りにしてしまえば、残る判があと少しというところで時間切れがきてしまう。あるいは栞が全力で目の前の男に立ち向かっても、勝てなければ出られずに時間切れだ。絶対自分には勝てないだろうと、五位鷺陽一が暗にそう告げているのが栞にはよくわかった。
「卑怯者ッ! こんな手段に出るなんてあなた、人の心ってものがないんですか!?」
ごっそりと感情が抜け落ちた瞳が、栞を見つめていた。
「それ、役に立つ?」
「っ……!」
絶句した。何がおかしいのかわからない、と言うような五位鷺陽一の表情に栞は言葉を失う。眼前の男は、まるでテレビのバラエティ番組を見ているみたいにけらけらと笑いながら、栞に語りかけてくる。
「正直誰が最高位になろうと俺はどうでもいいんだけどさぁ。でも困っちゃうんだよね、任務遂行しないで烏丸のお偉いさんに怒られたら、仕事干されちゃうかもしれないし」
ぺらぺらとよく回る口だ、と嫌悪感をむき出しに陽一の話を聞く。
「……それにしても、白鳥くん可愛そうだねえ。せめて旧校舎に立ち入らずにいたら、閉じ込められずにすんだのに。千蔭の嘘に騙されて、俺のところにたどり着いちゃったんだもんねえ」
「う、そ……?」
ふと気になる単語が耳に飛び込んできて、栞は呆然としながら問い返した。
「あ、気づいてなかったんだ? 千蔭に俺を倒して欲しいとか、なおちゃんを助けて欲しいとか言われたんでしょ? それ全部嘘だから。俺がそう言う風に言えって指示したの、白鳥くんをここに閉じ込めるためにね。筋書き通りに演じてくれて、お兄ちゃん嬉しいなあ、いい子の千蔭くん?」
くつくつと笑う声が、朽ちた教室を揺らす。反射的に千蔭の方を振り向いて、栞は彼の体を掴んで揺さぶろうとして、結界に阻まれる。どん、どんと結界を叩いても、硬質なそれはびくともしない。それでも栞は、一枚壁を隔てた向こう側の少年に問う。
「答えて、五位鷺千蔭ッ! 嘘だったんですかッ!?」
千蔭は応えない。ただ黙って、目を伏せている。
「なんとか言ってくださいッ!」
「『騙される方が悪いんだよ、白鳥』」
ぽつり、と呟かれた言葉は小さい。微かに瞳が煌めいたような気がした。俯きながら、千蔭は栞から目線をそらす。結界の外側にいた少年は、そのまま扉の向こうへと去ってしまった。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。もはや確認する術を失った栞は、悔しさをこめて再び結界に拳を振り下ろす。鈍い痛みが返ってくるだけで、何も起こらない。隔壁はビクともせず、栞は出て行く手段を失った。
苛立ちをこめながら、再び陽一の方へと振り返る。
「……まあ、いいです。どのみちあなたを倒せば、全部解決です」
術を解除するには、術者の意識を失わせるか、術者本人に解除してもらうしかない。目の前の相手を倒して、忌々しい結界を解いて、早くここから出て行かなくては。
「おっ、そうくると思ったよ。加減はしないから、楽しもうねえ、白鳥ちゃん。じゃ、ちゃんと名乗っておこうかな。俺は星謳学園高等部数学科教師、名を五位鷺陽一。魔術師としての名前は五位鷺
再び、陽一の姿がゆらりと揺らめく。
「もっとも――」
姿がみるみるうちに小さくなり、髪が伸び、体つきが柔らかく、まぁるくなって行く。毎日見ているポニーテール、豊かな胸、プリーツスカートから伸びる健康的な足。全部、全部知っている。髪に結ばれたリボンも、意志の強そうな瞳も、全部、彼女と変わらない。
栞は息を飲み、体をぶるりと震わせた。
「『見た目がなおでも、栞ちゃんは私を倒せるのかな?』」
小首をかしげながら五位鷺陽一は雨燕なおの姿でそう言った。
「この、下衆野郎……ッ!」
あは、と笑うなおの笑顔は相変わらず可愛らしいのに、漏れ出す強大な魔力は、ただただ栞を強張らせる。絶対的強者に対峙している時の怖気だった。けれど怖気よりも、栞の心を燃やすのは激しい怒りだった。大切な友人に変化されては、本気で戦えない。たとえ目の前で笑う少女が偽物だとわかっていても、友人の姿だと認識してしまえば栞の闘志は減ってしまう。そんな風に戦いたくないと叫ぶ自分を押し殺して、怒りに身を任せて両足を踏みしめた。
「『じゃあ、はじめよっか』」
くるくる、と少女が指で円を描く。瞬きする間もなく、宙空に描かれた魔法円から火球が飛び出してくる。間一髪で避ければその次には雷撃が落ち、それをも躱せば着地点にある栞の足を鎌鼬が襲って行く。詠唱無しに発動してくるあたり、大層な技量の持ち主だった。
「ぐッ……!」
次から次へと属性魔術を繰り出されるのを避けきれず、鋭い風に切り裂かれて靴下が真っ赤に染まっていった。相当できる術者だと、栞は確信した。教室に落ちている木材を無理やり陽一の方へと投げつければ、一瞬前に栞がいた場所に無数の鋏が突き刺さっていた。
「『栞ちゃんダメだよ、逃げないで』」
やりにくいったらありゃしない! 栞はぎり、と奥歯を噛み締めながらなおの姿で放たれる魔術を間一髪で避けていく。魔力量が桁違いの人物から放たれる量産された蟹ばさみはいつもよりも鋭さを増していて、直撃したらどうなるかなど考えたくはない。魔術師として、相手は圧倒的に強者だった。
避ける。避けては走る。走っては、机の影に隠れる。けれどそれも限界で、途中で小石につまづいた。
「あぅっ……!」
少し足を捻ったかもしれない。だがここで立ち止まっては本気で剣山のように鋏まみれにされるだろう。血だらけで痛む脚を庇いながら、次の机へと転がり伏せる。
「『ちょこまかちょこまか、めんどくさいよ』」
ひゅっ、と飛んできた鋏が髪の毛をかすめていく。ぱらぱらと切られた髪が床に落ちていった。一瞬気を取られた隙を、五位鷺陽一は見逃さない。なおの姿で走り寄る男は栞をコンクリートの壁へ押し付け、セーラー服に鋏を突き立てた。
「『捕まえた』」
「ちぃッ」
壁に追い込まれ、制服を縫いとめられては身動きが取れない。悔しげに舌打ちをする栞の眼の前で、ぐにゃり、となおの姿が歪んだのはその時だった。陽炎が真っ黒な影を彩って、歪んだ瞳が栞を見下ろす。
「『また会ったね、栞ちゃん』」
「ひっ……!」
喉からか細い声が漏れた。心に消えない傷をつけた少年が、栞の前に立っている。声も、見た目も、そっくりそのまま、片桐七緒その人だった。ただ一つ違う点があるとするならば、目の色が赤くないところだろうか。翡翠の色をした悪夢が、眼の前で嗤っている。するりと顎を撫でられて、恐怖が一気に振り返した。
「『俺に昨日何言われちゃったの、栞ちゃん。……ふふ、可哀想に。いじめられちゃったんだ』」
体の震えが止まらない。昨日の今日、抉られた心の傷口を無理やりこじ開けられている。はく、はく、と息が速くなって、心臓が早刻みに拍動する。強がるように、目の前の男はそのものじゃないと言い聞かせるように、栞はぎゅっと目を瞑った。
「あなたなんて怖くありませんっ」
「『本当に?』」
顎を掴まれる。痛みに、思わず目を開けてしまい、無理やり瞳を合わせられる。毒々しい鮮やかな緑色が、光り、輝く。目と鼻の先にある美しい顔から目を背けたいのに、魅入られるように見つめてしまう。ちらちらと緑色が踊る。
「絶対、負けない、です」
陽一の暗示にかかるまいと、声を振り絞って拒絶する。視界が潤むけれど、泣くわけにはいかない。泣いてたまるか。たとえ嘘をつかれたって、心を痛めつけられたって、こんなところで挫けてたまるものか。
「『強情だなぁ。……じゃあ、痛い目見てもらおうか』」
七緒の姿をした男は、学生服のポケットから鋏を取り出して、ひたり、栞の頬へと冷たい刃をあてる。男が手を軽く滑らせるだけで、栞の柔い肌に大きく傷ができるだろう。
瞬間。
ヒュン、と鋭く何かが飛んできた。何か、黒い影のようなものは陽一の眼前を勢いよく横切っていく。思わず眼前の男は仰け反った。床に突き刺さったのは黒い羽。陽一は愉快そうに唇を歪めて、胡乱な眼差しを入り口に向ける。
「よくも、やってくれたな」
低い声、陽一を威嚇するように怒気をはらんだ声がした。そこに立っていたのは、ある人影。ぐしゃぐしゃに乱れた学生服を整える姿を見て、栞は驚きから目を見開く。眼前の男と、同じ姿の闖入者。思わず、彼の名前を呼んでいた。
「片桐、七緒……?」
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