もしも小説を書けなくなったら

hiyu

もしも小説を書けなくなったら



 頭が痛い。

 左の眉尻の上、こめかみに近い部分が、ずっと。

 ずきずきと、まるで神経を先のとがった金属で絶えず弄り回されているような感覚。

 吐き気がする。

 左胸に近い、みぞおちの奥。

 ぐるぐると回り、下降を繰り返すジェットコースターに乗っているみたいに。

 目が覚めるといつも、泣いている。

 365日のうち、350日、悪夢を見る。

 せりあがってくる恐怖を飲み込むと、いつも、目覚めた時よりもずっと、止めどなく涙がこぼれる。

 両手で顔を覆って、うまく継げない息を繰り返す。

 どうしたらいいか、分からない。

 毎日がただ、苦しかった。


 一時期、私は多分、生きていなかった。

 普段は、ごく普通に生活をして、当たり前のように会話し、笑っていた。だから、私の異変はきっと誰にも分からない。

 けれど、いつも頭が痛い。

 吐き気がする。

 そして、夢の中でそれを再認識する。

 誰にも気付かれないよう嗚咽しながら、毎朝。

 息苦しさを抱えながら、このまま呼吸が止まればいいと思っていた。

 そうしたら、きっと、楽になる。

 私の人生がこのままふつりと途切れたとしても、世界は何ひとつ変わらない。


 子供の頃から、本が好きだった。

 たった2歳の私が、寝る前に枕元に、親に読んでもらうための本を何冊も重ねた。父親は閉口し、一冊を読み終える前に力尽きて眠ってしまう。

 お前は下りてくる父親の腕をつかんで、支え続け、続きを読んでとせがんでいた、と今も親が笑う。

 小学校の高学年になる頃には、物語の断片のようなものを書き始めていた。

 誰に読ませるわけでもない、自分自身の自己満足でしかなったそれを、机の引き出しの奥にしまい込んでした。

 始めは、書いても、書いても、うまくいかないかった。

 起承転結の意味すら分からなかった私が、きちんとした物語を書けるはずはなかった。

 それでも、中途半端なその物語の切れ端は、引き出しの中に大事に閉じ込めていた。

 中学を卒業する頃には、少しは勝手が分かってきて、物語としての体をなしてきた。

 書くことは、私のすべてだった。

 狭い自室に閉じこもり、ひたすら書き続けた。

 学校へ行かなくなったときも、毎日のように遠出して、書くための素材を探した。

 学校に戻ってからも、誰にも知られないように書き続けていた。

 友人は、私が小説を書いていることを、知らなかった。

 私はいつも、たった一人で、ひたすら文字を書き連ね、その世界に浸っていた。


 そんなある日、突然、世界が一変した。

 最初は息苦しさ。

 周りがみんな、敵に見えた。

 頭が痛い。

 うまく呼吸ができない。

 吐き気がする。

 そして、泣きながら目が覚める。

 それでも、その異変に気取られないよう、慎重に毎日を過ごした。

 まともにものが考えられなくなった。

 そして、私は書くことができなくなった。

 正確には、ものを書く余裕がなくなった。

 書きたい、と思うのに、どうしても手が動かなかった。

 頭が痛い。

 談笑していても、ずっと。

 吐き気がする。

 必死で平静を装おうとするたびに、とめどなく。

 悪夢は、日に日にその恐怖を増す。

 目が覚めて、嗚咽して、両手で顔を覆って、このまま消えてしまいたい、と思っていた。

 もう忘れる。

 好きだったことも、やりたかったことも、みんな。

 私は一切書くことをやめ、必死で生きているフリをし続けた。

 気が付けば、何年も。

 あんなに積み重なる文字でいっぱいのノートも、壊れて動かなくなってしまったワープロも、開くことはなかった。

 書けなくなる日が来るなんてあり得ないと思っていた。

 もしも、小説が書けなくなったら──

 そんな風に考えたことが、一度もなかったのだと気付いて、驚愕した。


 数年後、私は一台の古いパソコンを購入した。

 頭痛は、いつしか薄れていた。

 ごうごうとうるさいくらいうなるパソコンは、しばらくネットにつながなかった。

 指は、キーの位置をしっかりと覚えていた。

 数年のブランクを経て、私が一番最初に書いたのは、物語とも言えないような、心の叫びだった。

 書ける。

 そう思ったら、急に、呼吸が楽になった。

 その日から、毎日パソコンを立ち上げる。

 書きたいものを、書きたいだけ、書いた。

 書ける。

 それだけで、幸せだった。


 小説が書けなくなったら、どうなるだろう、などと、考えたことがない。

 けれど、書けない数年、私は生きていなかった。

 苦しさに押しつぶされそうで、それに耐えるために、何もかも排除した。

 書くことがその中のひとつになって、ますますその苦しみが増した。

 今は書ける。

 書けなかった数年を取り戻すように、ひたすらキーを叩く。

 古いパソコンは、それから2年経って、ようやくネットにつなげた。

 狭く暗い部屋の机の上、世界が少し、広がった。

 思考が停止するか、指が動かなくなるか、もう飽きたと思ったら、書くことを止めようと思う。

 そんな日は、当分訪れそうにないけれど。


 頭は時々痛む。

 吐き気も必死。

 それでも、書ける。

 生きているフリをしなくても大丈夫な今は、それが救いだ。


 もちろん、悪夢は今も、350日、見ている。

 嗚咽して、息が止まればいい、と思うことはなくなったけれど。

 私は今も生きていて、そしてやっぱり、世界は何ひとつ変わらないでいる。


 了

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