#05-2 謎の少女


 止血を終えた後、このまま土手に寝かせているわけにもいかず、始貴は仕方なく少女を家に連れて行くことにした。

 見た目以上に軽い少女をおぶって、歩き出す。


 少女はすっかり眠ってしまったらしく、始貴の背中で安らかな寝息を立てていた。その顔は青白いが、少女自身が病院など行かなくていいと言ったので、大人しく従うことにしたのだ。

 特にこれといった不幸が降りかからなかった事に始貴は安堵する。


 始貴が家に辿り着いた頃には、既に周囲は真っ暗になっていた。

 とりあえず自室のベッドに少女を寝かせて、始貴はこれからどうしようかと考える。

 幸い、というわけではないが、この家は始貴一人だけだ。

 両親が帰ってくることはない。

 帰ってこれるはずがないのだ。

 木野枝始貴の両親と妹は、彼が七歳の時に亡くなったのだから。


 家族を失った時、まだ幼かった始貴は親戚の家に預けられた。しかし、彼の不幸体質のせいで気味悪がられ、親戚中をたらい回しにされた。

 そして、中学二年の時。当時、彼が預けられていた家で起こったある事件を切っ掛けに彼は生まれ育った家で、一人暮らしをすることになったのだ。


 親戚の人は時々、彼の様子を知るために電話をしてくるか、彼が生活できるぐらいの必要最低限のお金を振り込むだけだった。しかし、始貴にとってはその方が良かった。

 それほど関わりが薄ければ自らの不幸に巻き込まれることなどないのだから。

 物思いに耽っていた始貴の意識を引き戻したのは、彼自身のお腹の音だった。


「……ご飯、作るか」


 小さく呟いて、台所に向かう。そこで、始貴は気がつく。

 夕飯の為に買った食材をカラスに奪われた事を。


「……なにか、あったっけ?」


 冷蔵庫を開けて、中身を確認する。

 きちんと整理された冷蔵庫内は彼の几帳面さを表しているようだ。そして、肝心の食材といえば……。


「卵、鶏肉、玉ねぎ……オムライスが作れるな」


 何とか料理を作ることが出来そうで、始貴は安堵の息をついた。

 近くに掛けてあるエプロンを羽織り、調理を開始する。

 手慣れた手つきで作り上げたオムライスを一人で食べていると、不意にリビングの扉が開かれた。


 この家には始貴と怪我をしている少女しかいない。それならば、必然的に扉を開けた人物はたった一人しかいない。

 始貴が扉に視線を向ければ、そこには予想と違わぬ少女が立っていた。

 その顔は青白いままだ。


「起きて大丈夫なのか?」

「…………」


 始貴の問いに少女は何も言わない。

 彼女の視線は始貴……ではなく、彼が食べているオムライスへと向けられている。


「……それ、何?」

「え?」

「その黄色いの」


 彼女の視線は相変わらずオムライスに向けられたまま。その瞳はどこか興味深そうだ。


「何って……ただのオムライスだけど……それより、怪我は?」

「これくらい寝てれば治るわ」

「なら、寝てろよ」


 思わず言ってしまった言葉に始貴がしまったと思った時にはもう遅い。

 紫苑の瞳が始貴を睨みつける。

 その迫力に始貴は体を強張らせた。

 硬直する始貴に少女は肩を竦めてから、歩み寄ってくる。


「ご、ごめ――」


 咄嗟に謝ろうとした始貴だが、歩み寄ってきた少女が対面の椅子に座った事により、言葉を止めた。

 少女の行動の意味が分からず、呆けたように彼女を見つめる始貴に対して、眼前の少女は不機嫌そうに始貴を睨みつけている。


「…………」

「…………」


 沈黙が落ちる。

 少女は何も言わない。

 始貴は何も言えない。

 暫く、二人の間に妙に重苦しい沈黙が流れたと思ったら、少女が呆れたように溜め息をついた。


「……ないの?」

「え?」

「それ、あたしの分ないの?」


 少女が指差す先にあるのは始貴の食べかけのオムライスだ。

 彼女の言葉にようやく始貴も彼女が何を求めているのか分かり、慌てて立ち上がった。


「あ、ああ。ある」


 予め作り置きしておいたもう一つのオムライスの皿を台所から持ってくる。

 寝ている少女が食べるかなんて分からなかったが、一応作っておいて良かったと思いながら、始貴は少女の前に皿を置く。

 少女は眼前に置かれたオムライスに興味津々といった様子だ。

 始貴がスプーンを渡せば、少女はそれを不思議そうに眺める。


「なにこれ?」

「何って……スプーン。それないと食べれないだろ?」

「食べれるの?」

「食べるなよ!?」


 始貴の言葉は遅かったらしく、始貴の制止も虚しく、少女はスプーンをかじった。途端に眉を寄せて、口を離す。


「硬いわ」

「金属だからな」

「まずいわ」

「食べ物じゃないからな」


 少女はどこか不満そうに始貴を睨みつける。

 その睨みには迫力があり、始貴は表情を強張らせた。


「そ、それで、オムライスをすくって食べるんだよ」

「すくう?」


 怪訝そうな顔をしている少女に始貴は手本を見せるように自らのオムライスにスプーンを突き立てて、一口サイズほどをすくった。


「ほら、こうやる」


 少女は始貴の手本に倣うように同じ要領で、自らのオムライスをスプーンに載せる。そして、恐る恐るといった様子で、それを口に含んだ。


「っ!」


 途端に少女の表情が明るくなる。

 勢い良くオムライスを食べだすと、あっという間に皿の上にあったオムライスが姿を消した。


「なによこれ。美味しいじゃない」

「あ、ありがとう」

「……人間の食べ物も侮れないものね」

「え?」

「ねえ。これ、もうないの?」


 その言葉に始貴は頭の中で冷蔵庫の中身を思い出す。

 先程見た食材は二人分で無くなってしまった。残るは卵とご飯ぐらいしかない。


「もう食材がない」


 始貴が首を振ると少女はムッとした。不満そうに眉を寄せる表情はどこか幼く、前に少女を見た時の強気な印象と全く重ならなかった。


「……お腹、空いたわ」

「…………」

「始貴。お腹空いた」

「…………」

「お腹空いた」

「ああもう! 卵かけご飯ぐらいしかないぞ!」


 その言葉に不満そうな顔から一転。たちまち瞳を輝かせた少女に始貴は溜め息をついた。

 再び台所に向かい、お茶碗にご飯をよそい、冷蔵庫から卵と醤油を取り出す。卵を割って、醤油と合わせてかき混ぜたものをご飯に掛ける。

 その様子を少女はまた興味深そうに観察している。


「ほら」


 箸と一緒にお茶碗を渡す。すると、やはり少女は箸を見て不思議そうな顔をする。

 けれど、少女は箸を一瞥するだけで、すぐにスプーンで卵かけご飯をすくって食べ始める。

 その事に始貴は何か言いたげな視線を少女に向けるが、彼女はその視線に気づかないのか、それとも無視しているのか分からないが、卵かけご飯を勢い良く食べている。


 少女の顔は先程よりも赤みを帯びており、初めて会った時に近い顔色に戻っていた。

 そんな少女の顔をじっと見つめながら、始貴は口を開く。


「……怪我、本当に大丈夫なのか?」

「大した怪我じゃない。すぐに治るわ」

「で、でも、あんなに血が――」

「問題ない。始貴が気にする事じゃない」


 始貴の言葉を遮り、これ以上何も言うなとばかりに素っ気なく告げる。

 そんな少女の反応に始貴は何も言えなくなる。

 確かに少女は先程よりも元気になっている。本当に心配ないのかもしれない。


 始貴は無言で少女を見つめる。

 卵かけご飯を食べている彼女はどこからどう見ても普通の人間だ。

 先程見た黒い羽はどこにもない。

 あれは始貴が見た幻ではないかと思ってしまうほど、目の前の少女は普通だった。しかし、始貴が見たのは幻でも何でもない。

 確かに始貴の目の前で起こった現実だ。

 ただ眼前の少女が普通に会話できることで、始貴の中にあった恐怖が和らいでしまっていた。だからこそ、始貴は聞いてしまう。自分から非日常に関わる言葉を言ってしまう。


「……さっきのは、なんだったんだ?」


 ピクリ、と少女が動きを止める。

 そんな少女の反応に気付かずに始貴は言葉を続ける。

 今まで溜め込んでいたものを吐き出すように言葉を紡ぐ。


「それに君は一体何者なんだ? なんで、俺の名前を知ってる? 俺が狙われてるってどういう意味? 狙われてるって、誰に? なんで?」


 細められた紫苑の瞳が始貴を射抜いた。

 その瞳に始貴はビクリと体を揺らして、引き下がろうとする。

 一気に捲したてて聞いてしまったことを謝ろうとする。けれど、始貴が口を開くより先に少女が口を開いた。


「……もう、無理か」

「え?」


 少女が発したのはあまりにも小さな声で、始貴の耳には言葉として届かず、彼は不思議そうに聞き返す。


「始貴、貴方は『奴ら』に狙われてる」

「奴ら?」

「貴方も見たでしょ。……『天使』。そして、『悪魔』。貴方は奴らに狙われてる。いまはまだ低能しか来ないけど、最近は頻度が多い。そのうち大物が出てくる可能性もあるわ」


 実際に始貴自身も目撃したのだから、少女が言う『天使』や『悪魔』という言葉にはすんなりと納得できた。けれど、何故自分がそんな非現実的なものに狙われなければいけないのか分からず、始貴はただただ困惑する。


「……なんで、俺を?」

「上からの指示よ。木野枝始貴を殺せってね」

「は?」


 少女の言葉の意味が分からず、始貴は目を丸くさせる。

 何度も頭の中で少女の言葉を反芻はんすうする。


(……どうして俺が狙われる? しかも天使とか悪魔とか俺には関係ないものに)


 いくら考えた所で何も分からない。それはそうだろう。

 木野枝始貴は普通の人間だ。

 不幸体質なだけのただの人間なのだ。

 何か特別な力を持っている訳でもないただの人間なのだ。少なくとも始貴自身は自分が普通の人間だと思っている。

 それなのに何故非現実的な存在に狙われるのか、どんなに考えた所で皆目検討がつかない。

 俯いて考えこんでしまった始貴に少女は溜め息をつく。


「とにかく貴方は狙われてる。だから、気をつけなさいって言ってるのよ」

「ま、待って。なんで、君はそんな事を知ってるんだ?」

「……見てたなら分かるでしょ。私が何者かくらいなんて」


 思い浮かぶのは漆黒の翼をはためかせて、宙に浮かぶ少女の姿。

 あの姿を見た時、始貴は既に理解していた。

 彼女が人ならず者だということを。けれど、あまりにも普通に会話できるから、気のせいだと思い込もうとしていた。しかし、いま少女自身から言われてしまったことにより、その考えを否定出来なくなった。


「……悪魔」


 自然と零れ落ちた言葉。

 その言葉に少女は口角を上げる。

 酷薄な笑みを浮かべた少女は妖艶な声で頷いた。


「正解」

「っ!」


 分かっていたが、肯定されてしまうと恐怖が蘇る。人ならず者に恐怖を覚える。

 顔を青ざめさせる始貴に少女は言葉を続ける。


「まあ、正解と言っても半分は、だけど」

「え?」

「とにかく、あたしは貴方の敵じゃないから、怖がらなくても平気よ」

「な、なんで?」

「なんでも」


 それ以上は何も言う気はないとばかりにそっぽを向いてしまう少女。

 そんな少女に始貴は困惑したように眉を下げて、彼女の横顔を見つめる。

 その顔はやはりどこかで見たことがあるような気がして、始貴は大きく溜め息をついた。


 少女は始貴の反応を気にした素振りなく、卵かけご飯を食べている。そして、彼女の持つ器が空になるなり、唐突に立ち上がった。

 何の前触れもなく急に立ち上がった少女に始貴は驚いたように目を丸くして、少女を見上げる。


「世話になったわね。あたし、もう行くわ」

「え? い、行くって……」

「何よ? 文句ある?」

「い、いや、文句っていうか……怪我……」

「問題ない。完治した」

「いやいや、そんなわけないだろ! あんなに血が出てたんだぞ!?」


 思わず声を荒らげてしまった始貴に少女は目を丸くさせる。その反応に始貴はバツが悪そうに俯く。そして、俯いてしまった始貴の耳に届いたのは笑い声。


「始貴は他人に優しすぎるわ。……あたしは貴方に心配してもらえるような人じゃないから、だから、心配しないでちょうだい」

「けど――」

「始貴」


 まだ何か言いたげな始貴の言葉を遮って、少女は名前を呼ぶ。

 その声音が先程と僅かに変わっていたことに気付き、始貴は口をつぐむ。

 力強い、凛とした声。

 その凛とした声に惹かれるように顔を上げた始貴の視界に飛び込んできたのは少女の笑顔。

 強気な自信に溢れきった笑顔。

 その笑顔は前にも見たことがある気がした。


「あたしを誰だと思ってるの? あたしは天下無敵のセラ様よ! あたしは強い。貴方に心配されるほど弱くないわ」

「……セラ……?」


 それが少女の名前なのだろうか。そう思って、始貴はその名を呟く。

 どこか懐かしい響きを感じる。

 始貴の脳裏に何かが過りかけ――。


「うぁああああああああああああ!」


 突如響いた少女の叫びに始貴の脳裏に浮かびかけていたものが弾けて消えた。


「な、なに?」


 突然叫んだ少女――セラに視線を向ければ、彼女は何故か頭を抱えている。


「馬鹿か、あたしは! なんで自分から名前バラしてるのよ! ああもう! 絶対に言わないって決めてたのにー!」

「あ、やっぱりそれが君の名前なんだ」

「っ!?」


 始貴の言葉にセラは言葉を忘れたかのように口をパクパクと動かし……顔を真っ赤にして、指差した。


「い、いいこと木野枝始貴!? あ、あたしは、セラなんて名前じゃないんだからね! 断じて違うから! セラであって、セラじゃないから!」

「意味が分からないんだけど……とりあえず、落ち着けよ」

「落ち着いてるわよ! この上なく冷静で沈着ですけど何か!?」

「全然冷静じゃないし。口調変だし」

「う、うるさいうるさい! いいから! あたしはセラじゃない! 忘れなさい! 忘れるの! さん、はい、ハイ、忘れた!」

「無理があるぞ」

「うう、うっさいバカ! 忘れろバカ! おまけにバーカ!」

「子どもか」


 あまりの動揺っぷりについ冷静に言葉を返してしまう始貴に少女は顔を赤くさせたまま、脱兎の如く駆け出してしまった。

 あっという間に姿が見えなくなってしまった少女。

 彼女が出て行った扉を始貴は呆然と見つめていて、動揺しまくっていた少女の姿を思い出すと、自然と口角が緩んだ。

 ひどく懐かしい。

 ぼんやりとそう感じたのだった。

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始まる世界に終焉を 蒼野 棗 @aononatume

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