後編

◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 程なくして、バイト先のスーパーに着く。

 小さい店舗ながら、駅前というめぐまれた立地により、そこそこの集客力がある店だ。

 その分、忙しいという欠点もあるが、それなりにやり甲斐がいは感じている。


「おはようございまーす」


 ノックをして事務所に入ると、溌剌はつらつとした挨拶が一声。M子さんだ。


「お、おはようございます!」


 僕も、いつもより大きめの声で挨拶を仕返す。

 それは、何となくつられて、というのもあったけど、チョコを貰えるかもしれないという、謎の緊張感から出るものでもあった。


「まだまだ寒いですねー」

「そうですねー。くもってるってのもありますけど、まだ冬って感じですよね」


 着替えながら、他愛たあいもない天気や気温の話。

 いつもはこんなやり取りに何かを感じることもないのだが、今日はやはりと言うべきか、何とはなしにソワソワしてしまう。


 ちなみに、着替えるといっても、エプロンと三角巾を着けるだけなので、基本的に男女同じ更衣室である。


「おはようございます」


 ノックと同時に扉が開く。S美さんだ。

 彼女はM子さんとは違い、僕には話しかけてくれない。

 僕から話し掛ければいい話なのだが、何となく話し掛けづらい雰囲気があるのだ。


 しかし、意外なことに、正反対の性格であるM子さんとS美さんはかなり気が合う。

 実際、S美さんがやって来てからM子さんは、先程まで話していた僕には目もくれず、彼女と親しげに会話を交わしている。

 基本的にはM子さんが会話の主導権を握っているという感じで、S美さんは聞き手に回っている。

 僕はバイトの開始時間まで孤立を極めるわけだが、案外そこまで苦ではない。


 しかし、今回に限っては、やきもきしながら彼女達をチラチラと視線を送らずにはいられなかった。

 そんなことをしながら、僕は傲慢ごうまんにも「いつチョコくれるんだろう」なんて事を思っていたのだ。


(いかんいかん……!)


 あまりの軽率な考えに、即座に僕はかぶりを振る。

 流石にバイト前に飲食するのはまずいだろう。その場で食べないにしても、それを誘発させるような行動はつつしむべきだ。その辺りを、互いに勤続年数4年目を迎える彼女達は、よく理解しわきまえている。

 もうすぐ2年目に入ろうとしている僕なんかとは大違いだ。


「そろそろ時間ですね。行きましょうか」

「あ、はい」


 我に返って、M子さんの声に返事をする。

 いつの間にか時間が迫っていたようだ。


 それから、僕はバイト中にも関わらず、上の空になっていた。

 頭からチョコの事を追い出そうにも、レジ前にでかでかと飾られたバレンタインデー用のスペースに気を取られ、どんな風にチョコを受け取るべきか考えていた。


 ――変に喜びすぎると勘違いされるし、素っ気なさすぎても失礼だ。

 ――嬉しい、という感情表現は相手に見せつつ、しかし、それでいて冷静に。

 だが、そんな余計なことを考えているせいで、レジの打ち間違えを連発し、隣のレジにいたS美さんにフォローして貰いっぱなしになるのだった。


 ミス連発続きのバイトも終わり、上がる時間帯になる。

 僕は鼓動こどうを少し早めながらも、緊張を気取られないようにポーカーフェイスで事務所に引っ込む。

 先に戻っていた彼女達は、「今日も疲れたね」などと互いをねぎらいながら、エプロンと三角巾を外している。


 その時の僕はと言うと、何事か考えふけっているような表情をしながら、その実、彼女達の会話がバレンタインデーの話題にならないだろうか、というようなことを考えていた。

 そして、しばらくして、


「お疲れ様でーす」

「お疲れ様です……!」


 更衣を終えたM子さんが僕に一瞥(いちべつ)をくれてから、事務所を後にする。


「お疲れ様です」

「お、お疲れ様です……!」


 その後、彼女を追うようにして、S美さんは目もくれずに出ていった。


「………………」


 最後に、誰もいなくなった事務所に静寂せいじゃくが降りてくる。

 アレ? と思った。

 故に更衣を終えてから少し待った。誰が来るやも分からないのに。


「………………」


 しかし、結局……、というよりも、やはり、誰も戻っては来なかった。


「………………あぁ」


 火照ほてった脳みそに直接水をぶっかけられたように、僕は急激に冷静さを取り戻す。


 そう言えば、バイトに行く前に僕には関係ないとか何とか、自分で言っていたような気がする。

 あ、あれー? おかしいなー? 全然期待しているつもりは無かったのに、何だか途轍もなく虚しいぞー……?


 そして、半ばうつろな目をして、事務所を出る。その足取りは、先程までのバイトの疲れを、唐突とうとつに思い出すように重さを増していた。まるで、泥濘ぬかるみの中を歩いているようだった。


「お疲れ様です……」


 引き継ぎをしたバイトの人に一言。

 彼は一応挨拶をしてくれたが、僕の様子に一瞬ギョッとしたようだった。

 それもそうだろう。今の自分は、幽霊のような蒼白そうはくな顔色で、尚且なおかつゾンビみたいな力の抜けた表情をしているのだろうなと、手に取るように理解出来た。


 バイト先のスーパーを後にして帰路を歩む途中、携帯を取り出す。

 やることは決まっていた。ブラウザを開き、履歴を選択する。


「………………っ!」


 僕は心の中で慟哭どうこくした。それと同時に、ホワイトデーに関する履歴を一つずつ消してゆく。

 履歴の全てを一度に消すようなことはしなかった。一つずつ消すことに何らかの理由はない。強いて理由を挙げるとすれば、きちんと自分が履歴を消したという事実の確認をしたかったのと、こんな勘違いは二度と起こすものか、という自分へのいましめだろうか。


 帰宅後、妹がくれたチンパンジーの立体チョコを、僕はむさぼるように食べた。


「バレンタインデー……最高」

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バレンタインは妄想の中で 練田古馬 @rise_2313

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