curtain falls
hiyu
curtain falls
真夜中に重たい足を引きずって何とかアパートまで帰って来たのはいいけれど、結局玄関の鍵を開けるだけで力尽きて、ドアが閉まるか閉まらないかの間に俺は顔面から床に倒れ込んでいた。
締め切った部屋の中はじめじめと重く鬱陶しい空気が充満していて、息苦しさに喘いでいたら、どこからか饐えたにおいが漂ってきて、酒の飲みすぎで痛む頭がさらにずきずきと痛んだ。
手にしていたのは24時間営業の牛丼屋の大盛り牛丼だった。ぶっ倒れても右手にしっかりとその袋の持ち手を握りしめたままだったのがまた笑える。
息苦しくてなんとか気道を確保しようとして、そこでようやく鼻で息するたびにぷくぷくと不思議な音がしているのに気付いた。ぼんやりと目を開けた俺の視界には薄暗い部屋がカーテンの閉まった窓から淡い月明かりで浮かび上がっているのが見えた。そして目の前で何かがしぶきを上げ、ぱちんと割れた。
大きく口で息をしたら、甘い、鉄の味がした。
どうやら顔面から倒れ込んだ際、強打した鼻から鼻血が出ているらしい。
ここのところ掃除なんてものは一切していなくて、一応フローリングと銘打たれている、ただの安っぽい板張りの床はべたついていた。素足で歩くと皮膚に貼りつくその感覚が嫌いだと言って、マメに掃除していたあいつはもういない。
汚れた床に広がる血液を、俺は二重三重にぶれる視界の中で見つめていた。
1LDKなんて聞こえはいいけれど、玄関から板張りで続く少し広めのキッチン、申し訳程度の仕切りで仕切られたリビングは、どう考えても元々ひとつの空間で、頼みの1LDKの1の部分は、畳敷きの6畳間だった。
玄関のすぐ横に設置された台所のシンクは、汚れた食器でいっぱいだ。床には大量のゴミ袋。捨てても捨ててもゴミだけが増えていく。いつの間にかそれをきちんと回収日にゴミ捨て場へ運ばなくなった。
何もかも面倒くさい。
掃除も、料理も、ゴミ捨ても、みんなあいつがしていた。
ゴミ袋だらけのキッチンの床には、謎のシミ。それは多分、山のように並んだゴミ袋のどれかから漏れたものなのだろう。
分別なんてものを一切したことがない俺が、ゴミ捨ての作法なんて知るはずもなく、コンビニで一応買ってはみた指定ゴミ袋には、カップラーメンの容器やコンビニ弁当の容器、缶ビールやペットボトルまで一緒くたになって詰め込まれている。
中身が残っていようといまいと関係なく、口の開いたそのゴミ袋にいらなくなったものを次々に突っ込んでいく。だから、床にできたそのシミを作った元凶の液体が、はたして何なのかは分からない。
飲みかけだった缶コーヒーか、ペットボトルのドリンクか、カップラーメンの残ったスープか。
ぼんやりと、鼻の付け根から目元が熱くなってきた。鼻で息を出すたびに、まだぶつぶつと鼻の奥から血が溢れていた。それを拭うのも面倒なくらい、身体中が重い。
酔って帰って来ると、あいつがいつも俺を介抱してくれた。玄関先で力尽きた俺を必死で引っ張って、服を脱がせて、ベッドに運ぶ。冷えた水を飲ませ、心配そうに俺の顔を覗き込む。
焦点の合わない目であいつを見上げると、その頼りなげな顔が酔った俺の加虐心に火をつける。
きれいなあいつを汚したい。
酒臭い息を吐く俺にキスされて、あいつが身体を固くする。無理矢理押し倒し、準備もないまま突っ込む。逃げようとする腰を引き寄せて、悲鳴にも似た声を抑えるために手のひらで口をふさぐ。
泣きながら意味もなく俺に謝り続けても、聞き入れるつもりは一切ない。
優しさなんて、とうに、捨てた。
うまくいかないことがあれば殴ったし、拘束した。
それでも俺から逃げないあいつが悪い。
足を動かしたら、砂埃まみれの玄関に擦った靴の先がざらりと音を立てた。
立ち上がる気力はない。血まみれの床の上で、べたつく鼻血にまみれてする呼吸は早く、きちんと肺に十分な酸素を取り入れられない。
このまま死ぬか。
口で息を吸い込んで、なんとか危機から脱する。そしてまたうとうとと意識を手放しそうになり、その息苦しさで再び口を開く。
せめて仰向けに倒れていれば、こんなに苦しい思いをしなくて済んだ。
吸い込んだ空気を口から吐き出したら、舌が床に触れた。甘苦い血の味。しょっぱくてざらついた感触は、きっと、掃除されないまま汚れた床の味。
俺はまた、口で大きく息をした。
肺が膨らみ、ゆっくりとその空気を吐き出したら、そのまま意識が遠くなって、落ちた。
目が覚めたら、血は止まっていた。
床とキスしていた俺の頬は、大量の鼻血が固まり貼りついていた。べりりとその頬を剥がすと、まるで殺人現場みたいに血液のシミが広がっていた。
死ななかったらしい。
俺は身体を起こし、履いたままだった靴を脱いだ。玄関に靴を投げ捨て、右手に持ったままだったレジ袋を持ち上げてみた。牛丼は中身が偏っていたが、ふたはきっちりと閉まったままで、こぼれてはいなかった。
俺は四つん這いでずりずりと部屋に入り、名ばかりのリビングまで進み、散らかったその部屋の真ん中で、小さなテーブルの上に乗った空き缶やら灰皿やら食べ終えたカップラーメンの容器やらを腕で薙ぎ払った。汚れた床は、今更テーブル一つ分のゴミが増えたところで変わりない。
俺はテーブルに牛丼を置き、床に座った。自分を見下ろすと、盛大に噴いていた鼻血でシャツがどす黒く染まっていた。ボタンを外すのももどかしく脱いだ。肌にもその血は染みていて、ぱりぱりと音がしそうなほど血が固まったそのシャツで拭っても、それは取れなかった。ごしごしこすっても意味がなく、俺はシャツを投げ捨て、うなだれた。
暑い。
窓は閉め切られ、空気は淀んでいる。
立ち上がる気力はなく、座ったこの位置からじゃ窓に手は届かない。だから諦めて薙ぎ払ったゴミの中から、空き缶やペットボトルを探し出して持ち上げ、左右に振ってみた。
重く腫れぼったい瞼が持ち上がらず、ようやく中身の入ったペットボトルを見つけてラベルを確認しようとしたが、その文字を読み取ることすらできなかった。
俺はボトルに口をつけ、残っていた液体を飲み込む。
甘い。
炭酸の抜けた、人工甘味料の味がした。生ぬるいそれが喉を通り、少し潤った。
髪はべたついて四方八方に跳ねている。
汗臭さが鼻につき、さっき放ったシャツを再び拾い上げて身体を拭ってみた。やっぱり、何が変わるというわけでもなかった。染みついたにおいも、汗やほこりでべたつく感覚も、肌で固まる血も、みんな落とせない。
テーブルの上に牛丼がひとつ。
俺は、部屋の酸素量の少なさに、口で忙しなく息をしていた。
伸ばした手、間接に硬いタコ。
殴る。
殴る、殴る、殴る。
ごめんなさいと繰り返し縮こまるあいつを殴る。
いつから、そうなったのかは、覚えていない。
あいつが悪い。何もかも。
俺を甘やかした、あいつの責任だ。
暑い。
俺はバスルームに目をやった。
暑いシャワーを浴びて、身体をさっぱりさせたかった。けれど、俺は立ち上がれない。テーブルの前で座り込んだまま、荒く息をしているだけだ。
殴られても逃げずに俺といることを選び続けたあいつが悪い。
ペットボトルを拾い上げ、あおる。空っぽのそこから、一滴、二滴、舌の上に落ちた不味い水分を唾液とともに飲み込む。
バスルームの扉は、ガムテープでしっかり目貼りしていたはずなのに、扉の一番下、床に面したその一部に貼られたテープがぺろんとめくれあがっていた。ほんのわずかの隙間なのに、そこから逃げ出したそれがいる。
俺はしばらくそれを見つめていた。
注意しなければ分からないほどわずかに、もそりと動く、それを。
暑い。
床に散らばったゴミの中から、再びペットボトルを選り分けようとした。中身はほとんど空っぽで、手を伸ばしてようやく引き寄せたビールの缶に、まだ少し中身が残っていた。俺はそれを飲み、もう炭酸のかけらもない、変なにおいと味のするその液体でのどを潤す。
テーブルの上の牛丼を袋から取り出し、ふたを開けた。偏ったそれに手を突っ込んで、そのままむさぼるように食った。舌にわずかに酸味を感じたが、空腹だった俺は気にせず食べ続けた。汚れた手をさっきのシャツで拭って、俺はまたずるずると這ってキッチンへと向かった。
バスルームの前、めくれたテープを押さえる。ぷち、と嫌な音がした。転がっていたガムテープを手に取り、めくれたその上から頑丈に貼りつけた。床の隙間をなくすように、長く切ったテープで念入りに。
床の上をもぞもぞと這うそれを、俺はつぶした。
ぷち、ぷち、ぷち。
でろりと醜い液体を飛ばし、それは死ぬ。
バスルームから逃げ出したそれを、一匹たりとも外へ出してやるわけにはいかなかった。
俺はその場にひっくり返るように仰向けになり、口で大きく息をする。
鼻で息をしなくても、その饐えたにおいは分かるようになっていた。
もう、時間の問題だ。
バスルームの窓は、内側からしっかりと目貼りしてあるが、この扉のように、いつそのテープがめくれてもおかしくはない。大量派生しているであろうそれも、きっと、近いうちに外へ逃げ出し、誰かが見つける。
暑い。
窓を開けるわけにはいかなかった。
この部屋の惨状を、気付かれてはいけない。
この部屋から漂うこのにおいを、漏らしてはいけない。
俺は短く呼吸を繰り返す。
仕事を辞めて、どのくらい経っただろう。
毎日、平衡感覚をなくすほど酒を飲み始めたのは、いつからだっただろう。
この汚れた部屋に帰るたび、その空気の重さに窒息しそうになったのは、いつからだっただろう。
頭はずっとずきずきと痛んだままだ。二日酔いのせいなのか、暑さのせいなのか、濁った空気のせいなのか、もう、何が原因かすらわからない。
天井を見つめたまま、俺は息を吐く。
とっくに切れたままの電球は、蜘蛛の巣の温床。何重にもめぐらされた白い糸が綿のように絡まり、そこに小さな羽虫がたくさん捉えられていた。
最後にあいつを殴った日のことを、俺は覚えていた。
そのまま真後ろに倒れて頭や肩を床に打ち付けたあいつが、怯えたように俺を見ていた。
あいつのちょっとした言葉や態度にイラつくのはいつものことで、その延長線上に暴力があった。俺が殴っても、あいつは俺から離れない。あいつが俺に惚れている。
だから、俺は何も悪くない。
あいつのその目が気に食わなくて、俺は飲んでいた缶ビールをゆっくりと傾け、あいつの頭からかけてやる。ぽたぽたと髪からビールを垂らしながら、あいつが俺を見る。さっきまでの怯えは消え、どこか寂しそうに。
逃げればよかったんだ。
ただ、それだけだ。
そんな目をして俺を見るな。
俺は空になった缶をあいつに投げつけ、家を出た。それから2日、家には帰らなかった。
3日目、酔って帰ってきた俺が見たものは──
あの日も、同じように酔っていた。ふらつく足元でアパートまでたどり着き、鍵を開け、部屋に入って瞬間、ぶっ倒れた。いつもならあいつがやってきて、俺を介抱する。けれど、いつまで経ってもあいつが現れない。
ついに逃げたか。
俺は自嘲した。
俺は重い身体を引きずって、酒臭い身体を流そうとバスルームに這って行く。扉を開けたら、ぽたん、と蛇口から水滴が落ちる音がした。
浴槽の中で、あいつが死んでいた。
脱衣所にあったのは、俺が出て行ったときにあいつが着ていた服だった。ビール臭いそれを脱衣かごに入れ、傍らにはきちんと畳まれた着替えが、用意されていた。
まるで眠るように。
自殺とは思えなかった。浴槽の中、まるで転寝するかのように、あいつが死んでいる。殴って、倒れたときに、頭を床に打ち付けていた。それが原因だったのだろうと思われた。
あいつの頬に触れたら、冷たかった。髪を撫でたら、ずぶずぶとその身体が傾いて浴槽に沈んだ。
部屋にあったガムテープで、バスルームの窓を目貼りする。鍵もしっかりとかけた。バスルームの扉を閉め、外からガムテープを貼りつける。何重にも重ねた。ガラスとアルミサッシでできたその扉が薄い茶色のテープで縁取られ、俺はその扉に背をつけてずるずると座り込んだ。
逃げればよかったんだ。
ただ、それだけだ。
その日から、俺はただ、生き続けているだけの人間になった。
毎日飲んだくれ、もうすぐ金も尽きる。
この扉の向こうで、きっとどろどろに溶け、どこからか沸いた小さな虫たちに侵されたあいつの身体が、浴槽に漂っている。
このにおいはもう、ため込んだゴミのせいだと言い切れないだろう。
見上げていた天井が、ぐらりと揺れた。
暑い。
饐えたにおいが、俺を取り囲む。
こみあげてくるおう吐感に、俺は体を起こした。慌ててトイレのドアを開き、四つん這いのまま便器に顔を突っ込んで、吐いた。
ペットボトルの人工甘味料。
缶に残った妙なにおいと味のするビール。
酸味を感じた牛丼。
どれでもいい。
俺は胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
どれでもいいから、俺も死なせてくれ。
あいつと一緒に、どろどろに溶けてしまいたい。内側からもそりとうごめくそれにむさぼり尽され、異臭を放ち、そのまま腐敗してしまいたい。
胃液も残らず吐いてしまうと、身体中が脱力した。ぐらりと目が回り、俺は仰向けにぶっ倒れる。口から垂れる胃液と、鼻からあふれる鼻水が、俺の頬に貼りついて干からびていた鼻血を溶かすように流れる。手の甲で鼻と口を一気に拭ったら、溶けた血が甲に移った。
息ができない。
暑い。
俺は大きく口で呼吸を繰り返し、天井の蜘蛛の巣を見つめた。
その饐えたにおいが、バスルームから漂ってくるのか、俺自身から発しているのか、もう分からなくなっていた。
天井から蜘蛛が一匹、するすると糸を垂らして降りてきた。俺のにおいに嫌気がさしたのか、途中まで降りてきたその蜘蛛は、まるで逃げるようにしゅるんと天井へと戻って行った。
了
curtain falls hiyu @bittersweet
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます