お兄ちゃん水溶性

佐藤一郎

第1話

「……やばい。トイレ行きたい」

 ぎゅんぎゅん下腹部で膨張していく、にっくき体内水圧。

 自分の家なんだからさっさと開放すればいいところなんだけど、困ったことにうちは二階にトイレがない。一階の居間を通って行くしかない。でもわんちゃか騒いでいる親戚たちの視線をかいくぐってトイレにたどり着くのは不可能だ。

 つまり私にとれる選択肢はたった二つしか残らない。

 一つ、我慢する。

 二つ、漏らす。

 ……うわ、一つしかなかったよ。漏らすはないって。乙女のおしょんはトイレ限定。本当は第三の選択肢『ペットボトル』っていうのがあるけど、これでも私は女の最終防衛線を、十八年間犯すこと生きてきた。誰も見てなくたって、それはナシ。理屈を捨てても守りたいものが、私にだってあるんだもんっ。

「ぐえっ……」

 余計なこと考えてるうちに立ってられなくなってきた……。本能でなんとか尿を体内に押さえ込もうとしてるのか、身体はひとりでに膝をかかえた。

 ドスン、ドスンと一階の振動が、私のお尻にまで伝わってくる。小っちゃな怪獣がソファーで飛び跳ねてるのかもしれない。やれやれ。今年もおばさんとこのわんぱくお殿様ははご乱心らしい。

『あれー?! 莢香おねえちゃんは?! おねえちゃんどこ?!』

 声変わりしてない天使みたいな声で、破滅の呪文を唱えるおぞましき八歳児……。お母さんファイト。

『え? えぇ……お姉ちゃん、予備校があるって言ってたかしら』

 ……うん。まぁ、いつもの逃げ口上。

 さすがにソレもそろそろ限界だけど。奥さん? 娘さんの年齢考えたら四浪ってことですよ? どんだけその志望高校いきたいんだよって話ですよ。働かせたほうがマシですよ、マジで。

 ……なーんて。

「……ってヤバいっす。いい加減、なんとかしないと」

 現実逃避はここまでにしとこう。そろそろ具体的な解決策を考えなきゃいけない。

 だけど困った。尿意に占領されて考えがまとまらない。早くあのクジラ型のお口に座りたい。愛しい愛しいTOTOちゃん。ストレスのない快適なお便所ライフが送りたいよ。今ならオマルがあっても喜ぶところだけど、贅沢言わせてもらえるならやっぱりTOTOちゃんがいいな。ドア開けると「お待ちしておりました」とばかりにぐわーんってお口を開けるのがとってもキュートなんだもん。もうちゅーしたいくらい。……あ、いやさすがにそれはないか。TOTOちゃんだってトイレだもん。さすがに最終防衛線に近づきすぎてる……いやでもまって、それでも……新品なら?

「うっ……」

 問答無用のリアルが下腹部を蹴ってきて正気に戻った。

 そうですね。こんな現実逃避ばかりだから四年も引きこもりなんですよね。すんません。でも、そんなすぐにこのクズ根性が直ったら今まで自宅警備してないわけで。クズはいつまでたってもクズなわけで。

 ってわけでお待たせしました。引きこもりは引きこもりらしく他力本願の精神で、最終兵器さんにご登場を願っちゃおう。

 私はお腹を刺激しないよう、慎重にお尻を動かして背後のクローゼットと向き合う。

 っていうか視点が下がると部屋の汚さを実感する。洗濯物が山をなし、ペットボトルが林立して、こぼれたドクペが川を成す。これはちょっとした大自然ですよ? ……あとでルンバちゃんとお掃除頑張ろう。

 膝を抱えて忙しい両手で、ぺちぺち拍手を打つ。

「……おにいちゃーん、たすけてぇー」

 ゴン! と、いかにも痛そうな音とともに、クローゼットの扉が揺れた。

 するとわずかに開いた扉の隙間から、土気色した指が這いでてくる。人差し指から順にゆっくり扉を掴むと、横に滑らせていった。

 カーテンをしめきり電気もつけないせいで、クローゼットの中は濃い暗闇になっている。

 闇の中には、能面みたいな顔が浮かんでいた。表情がないとか、感情に乏しいとか、そういう次元じゃない。おにいちゃんの『つくられた』顔は、人形のそれに等しい。

 私と同じ格好でうずくまっていたおにいちゃんは、無言で腰をあげる。

 吊ってあった服に頭を盛大につっこんだけど、払いのけるそぶりすら見せずに歩きはじめる。ひっぱられた服がハンガーから外れて落ちてもお構いなしだ。洗濯物の山を蹴りくずし、ペットボトルの森を乗り越えて、ドクペの川を踏みつけまっすぐ私の目の前にやってくる。感情の見えない瞳は中空に固定されていて、私を見もしなかった。

「おいらに任しときな」といいたげな見事な仁王立ちだった。頼もしい。

「この尿意をどうにかして、おにいちゃん」

 なむなむーっと両手をこすり合わせて拝むと、お兄ちゃんは「カッ!」と目を見開いて魔法を炸裂! たちどころに尿意を吹き飛ばした! わけじゃなかった。「よっこいしょ」って(言ってないけど)腰を落として膝をつく。

 視線が合った。

 たぶん、もちろん見たことなんてないけれど、きっと二十二世紀とかそんな途方もなく未来にアンドロイドが発明されたらこんな目をしていると思うんだ。

 おにいちゃんの目は、なにも見ていない。あえてその対象を仮定するとしたら、私の背中の後ろ。あるいはそのずっと向こう。目は口ほどにものを言うなんていうけど、おにいちゃんの目に限ってそれは当てはまらない。まん丸くてつぶらな瞳には、感情も、人間味も、そのどれもがごっそりと抜け落ちていて、防犯カメラのレンズとかの方がまだその人を見ている気がした。

「はうぅぅん……」

 思わず肩を抱いて、身を捩ってしまう。おにいちゃんの目を覗きこむと、我慢ならない愛おしさが熱量をもって体中を駆け巡る。端から見たら全裸のショタを縛って息を荒くする痴女みたいな顔してるんだろうけど、全然かまわない。ここには私とおにいちゃんしかいないんだから。

 おにいちゃんは、可愛い。

 抱きしめて、ちゅーしたいくらい。

 ……っていうかもうしてる。おにいちゃんの首に手をまわして、首もとに顔をこすりつけちゃってる。おにいちゃんの首筋からは油の混じった土の匂いがして、それを肺いっぱいに吸い込むと「でへへ」と頬が緩みっぱなしになる。だってしょうがない。おにいちゃん、こんなに可愛いんだもん。TOTOちゃんも、ルンバちゃんも、そりゃもう毎日かいぐりかいぐりしてる私だけど、やっぱりその中でもお兄ちゃんの可愛さは次元が違う。

「はぅぅん……おにいちゃぁん……しゅきぃ……」

 脳内がお花畑になって鼻頭をこすりつけていると、おにいちゃんの冷たい手が腰にそえられた。ドキリとする暇もくれずに、そのまま膝の裏に腕を通して持ち上げたらお姫様だっこの完成だ。

「ひゃっ?! お、おにいちゃん?!」

 抱き上げられた瞬間、おへそのすぐ下を甘い痺れが走った。これで反応したのがほんとに子宮だったら私も女としての本能残ってんじゃんって、まだまだ捨てたもんじゃないぜこの十八歳も、なんてわずかばかりの誇りを取り戻すこともできたんだろうけど、そこはやっぱり現実さん。ことごとく私の希望を打ち砕いていく。

 現実さんが、じわっと。ほんの、ちょっぴりだけ、染みこんでしまったのだ。

「ストォォップ! ストップ! ストップ! おにいちゃん! それはいけない! 今、動、か、され、た、らぁぁ……」

 ぎゅうううっと、首に抱きついて体内水圧をコントロールしようと努力してるんだけど、おにいちゃんがのしのし歩くたび、コップに入れた水が揺れるみたいに私の中のアレもソレして大変まずい状況になっていった。走馬灯らしき、多い日も安心のCMが繰り返し頭の中で流れてる。

 タオルを投げ込んでも、おにいちゃんは決して止まらない。

 おにいちゃんは頑強な精神の持ち主で、一度命令されたことはそれが遂行不能になるまで決して諦めることがないのだ。そりゃもう最初に命令した私の言葉であっても、全くお構いなし。

 おにいちゃんはどうやらこのまま私を抱えて下に降りるつもりらしい。私におしょんをさせるために。冗談じゃない。野良猫みたいに髪はハネ放題だし、っていうか顔洗ってないから目やにだってついてるだろうし、なにより必死に存在を隠してきた私が親戚の前に出て行ったらどれほどお母さんを苦しめるかなんて、そんなことは実に些細な問題で。

 おにいちゃんが。

 存在するはずのないおにいちゃんが。

 家族だけじゃなく、親戚にまで目撃された時、なにが起きるのか。

 想像できない。したくない。

 ……怖い。

「おにいちゃん、ごめん」

 突破口は一つしかなかった。おにいちゃんの停止条件はたった一つ。任務遂行を不可能にすること。つくづく私も馬鹿なお願いをしたものだなぁなんて後悔の念は尽きないし、これからされることを考えたらおにいちゃんに一万回謝っても足りないけど、背に腹は代えられない。

 ドアノブに手をかけたおにいちゃん。私はその頬に両手を添える。陶器みたいにつるつる滑る頬だった。女としてちょっぴり嫉妬しないでもないけど、こんな皮膚に張りつきそうなほど冷たい体温が代償だっていうなら許してあげなくちゃいけないんだろうな。

 ワタクシこれでも割り箸を割るのにも時間がかかっちゃう可憐な少女なので。それをするのは骨だった。そう。骨が問題なの。硬いの硬くないのって。やっぱり人の構造っていうのはよくできてて、ちょっとやそっとじゃ変な方向に曲がらないように骨がストッパーになってるんだ。最終的に頭を胸に抱えこむようにしておにいちゃんの視界を塞ぎ、うろたえてるうちにゆっくりそのストッパーを壊していった。私の胸に、みしみしっていう軋む音が響いてくるけど、でも悲しいかな、密着しているはずなのにおにいちゃんの口は私の胸を一度も吐息で湿らせなかった。

 五分くらい掛かったかもしれない。発見したんだけど、人ってなによりも優先すべき懸案事項があると、生理反応は後ろに引っ込んでくれるみたい。私は成果を確認するために胸を顔から離してみる。上出来だった。おにいちゃんは後ろを向いてくれている。っていうか真後ろを向いている。ゴム人形に悪戯した時くらいしかお目にかかれない太い皺が首に寄っていて、そこから先は後頭部だ。視界が暗闇から抜け出したら、いつの間にか背後にあったはずの光景が広がっていてうろたえたのか、おにいちゃんはその場で足踏みしていた。……可愛い。

 私を抱えたまま振り返った。おにいちゃんの目にはドアが映っているはずだ。そのまま前に進む。進んでるんだけど。あれあれ、おかしいね? どうしてドアが遠のいちゃうんだろう? 変だねぇ? おにいちゃんも変だと思ったのか立ち止まった。そのまま数秒考え込むように停止していたけど、やがて前に向かって歩く。でもさっきよりドアは遠のく。また考え込む。

 もうこのおにいちゃんを見れただけで個人的には大満足なんだけど、だけど一番の問題はまだ解決してない。私の尿意だ! さてさて本当に困った。おにいちゃんの前後運動メリーゴーランドに揺られながら、私も本格的に考え込み始めた。

 その時だ。おにいちゃんはまるで刺客に狙われたゴルゴみたいな俊敏さで、振り向いた。私の頭は超高速コーヒーカップに乗ったようにぐわぁんと遠心力に振り回され、一瞬息が止まる。

 すごい音がした。映画館でしか聞けないような、とにかくすごい音が。

 おにいちゃんは振り向きざま、回し蹴りを放っていた……ようだ。水平に上げていた足を下ろすと、手ごたえがあったのか満足げにしばらく動かなかった。私は変なところに偏ってしまった血のせいで視界がぐわんぐわん揺れていたけど、そのうち視界がはっきりしてくると、ドアノブ周辺が吹き飛んだ我が家の最終防衛ラインが目に飛び込んできた。

「げっ……」

 ……やばい。

 やばいやばいやばい。やばいってこれは本当に。どうする? いや、どうしようもない? あ、下の方が騒がしい。いやそりゃそうか。こんな音がすれば何事かと思うよな普通。ああ、お母さん気持ちはわかるけど気にしないでくださいじゃ通じないって。なんか適当な理由つけてさ、一つ頼むよ。ってかうるさいなぁ、あの小僧はぁ。お母さんが誰もいないって言ったら誰もいないんだよ。いやいや、本当に。あんまりしつこい男は嫌われるよ? ちょっとお母さんお願いしますわ。どうにか上手い言い訳を……いやいやいやいや。「ゆ、幽霊よ!」じゃ通じないって。さすがに八歳児もその手には乗らないって……乗ったか。むしろ興味津々か。さようか。こらこら階段は駆け上がるもんじゃないよ? それに親戚の皆々様もそれを追わなくていいんですからね? なんにも面白いもんはないんですから……ああ。どうしよう。ドア叩かれてる。お母さんヒステリックになんか言ってる。良かったぁ。足でドア押さえといて。いやー、でもこれそろそろ限界かなぁ。おにいちゃん今にもドア蹴りそうだし。これ蹴られたら全部終わるよなぁ。いっそドア蹴っ飛ばしたらドアの前にいる人も一緒に吹っ飛ぶとか、そういう漫画的展開はないんでしょうかねぇ。ないですよねぇ。うわぁ。寒気してきた。尿意って行くとこまで行くとこうなるんだ……やばいなぁ……。やば……い……なぁ……。

 ……打開策が……必要だ……おにいちゃんを止める……尿意を止める……どっちも……両方一挙に解決する……なにか……なにか……ないの…………あるある……あるって……今まさに閃光のようにアイデアが浮かぶから浮かばせてみせるからうわぁぁまずいまずまずいまずいこれはやばいどうしたらいいのちょっとやめてやめてくださいおねがいしますたすけておにいちゃんたすけていやだいやだいやだいやだぁ……………………待って……待ってぇ……。

 ………………………………………………あ。


 *


 薄く開いたドアの向こう側で、洗濯物をヤドカリみたいに下半身に盛ってうつむいている私は、きっと誰の目から見ても異様で、どっ引きする有様だったに違いない。だって皆絶句してたし。明かりを消した部屋で一人、ぼそぼそお経を唱えるリズムと音程で、いかな偶然と突発的な事件が重なってドアノブを吹き飛ばすに至ったかをとつとつと語り聞かせている間も誰も口を挟まなかった。その場で考えた即興だったから何を言ったかはまるで覚えてないけど、説得力のあるなし関わらず誰も突っ込んで聞きたがらなかったせいで、五分少々でその場は解散となった。

 特有の虚脱感が、私をドアに寄りかからせた。そのままずるずると頭の位置が下がる。

 足を覆っている洗濯物と目線の高さが同じなったところで、私はそれを一つ一つ部屋の隅に放り投げていった。一枚一枚洗濯物の山を剥いでいくたびに独特の匂いも強くなっていく。脚の付け根が見えるまで発掘したところで、おにいちゃんの灰色の手が私の太ももを掴んでいるのが確認できた。前屈の姿勢になって、さらに取り除いていくと、こてんと頭を傾けて動かないおにいちゃんの頭と、上半身があらわになる。さらにさらに取り除いていくとその先は……なかった。おにいちゃんは都市伝説テケテケとなって私の下半身を欲しがってるみたいにすがりつく格好で停止していた。ただし完全に下半身が消失しているわけじゃなくて、肉(?)に覆われている脊椎が半分あたりから白い正体を剥き出しにしていて、その下に骨盤、足の骨と続いている。下半身の肉が消失しているというのが正しかった。

 おにいちゃんの主成分はカオリン鉱物、雲母粘土成分、スメクタイト、及び混合層鉱物だ。ググらせるのも気が引けるから言ってしまうと、おにいちゃんの骨の周りを覆っているのはキロ七百十四円のレオンクレイS(標準高度)で、一般的な言い方をしてしまうと、油粘土だった。それが何とは言わないけれど、下半身だけ水分を浴びて溶け出し、こんな状態になっている。おかげでおにいちゃんは活動を停止して、洗濯物に隠すことができたし、私の尿意も解決した。

 ……私のおにいちゃん。可愛い可愛いおにいちゃん。

 私のおにいちゃんは、水溶性だ。

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