第3話
引きこもりといえど、朝七時に起きることがある。めったにないことだけど、確かにある。それが前日に部屋の汚さを再認識したりとか、部屋中にかすかにアンモニア臭が漂っていたりなんかすると、朝もはよから爽やかな日の光を浴びて、情報番組を流しっぱなしにして掃除なんかしちゃったりなんかして、若奥様気分を満喫したりするのだ。ママさん奮闘記始めちゃうのだ。
「あらあら、誰がこんなところにドクペを零したの? もう、しょうがない子っ。こんなに洗濯物を溜め込んで、いつまで経っても子供ねぇ……あらあら? ワンちゃんったらどこかでお漏らししたわね? まったく、だから私反対したのよぉ」
なんて。……本人は楽しんでるんだから放っておいてほしい。
外の世界は色々恐ろしいことが起こっている。昨日も女子高生が行方不明ですって。今月に入ってから二人目ですって。あらまぁ世も末ねぇ。なんて言いながら平穏な朝の一コマを再現してるんだって。
「……」
ゴミ袋を抱えてぽいっちょと部屋の外に不法投棄して戻ってくると、私の可愛い坊やが部屋中を駆け回っていた。
ルンバちゃんとの掃除は楽しい。ついつい後ろを追いかけて、障害物を取り払ってあげたくなる。そのせいで普通に掃除するより時間がかかってしまうことは間違いないんだけど、私のモチベーション維持には貢献してくれるだけで満足なのだ。
おかげで「やれやれ相変わらず掃除しがいの部屋だぜ」なんて言いそうな疲れた様子でルンバちゃんが充電機に戻った頃には、部屋の掃除はあらかた終わってしまった。
終わってしまった。
私はぺたんと床に座ってファブリーズの匂いがする部屋でぽかーんと天井を眺めていた。
多分、気の迷いだったんだと思う。生まれ変わったような部屋を前にして、心機一転再出発を図りたいような、そんな気分になってしまったんだろう。部屋も綺麗になったし、気にかかることはこのノリで終わらせちゃおう的なよくわからない謎理論が構築されてしまったんだと思う。
私は二度、拍手を打った。
「……おにいちゃーん」
ごつん、といかにも痛そうな。「おっといけね。寝ちまってた」みたいなリアクションの後に、クローゼットの戸が開かれた。
膝を抱えた状態で、昨日の夜からずっとそうしてましたといわんばかりの体育座りをしていたおにいちゃんは、すっと立ち上がってこちらに歩いてくる。
おにいちゃんの目は宙を見ている。私を見ていない。どこか、遠い何かを見ている。
私もおにいちゃんを見ていなかった。今日はもうおトイレを済ませたのに太ももと太ももをすり合わせて、顔を上げられなかった。
「……おにいちゃんが私の寝ている間に何かしていることは知ってるんだ」
ちらとおにいちゃんの反応をうかがう。おにいちゃんは見事な仁王立ちで、動揺したそぶりは見せなかった。
「おにいちゃん、別に、とがめるわけじゃなくて、ただ安心したいだけで、だから、嘘でもいいんだけど、いや、明らかに嘘だっていうアレは困るんだけど、でも、なんでもいいから、答えてほしい」
バンジージャンプする直前も、きっとこうなんだろう。考えを纏める前に、危険を熟慮するに、ふとした意識と意識の間隙に、一歩踏み出すという命令が、隙を掠め取るように身体に伝わるのだ。
「……おにいちゃんは、私が寝ている間、何をしてるの?」
おにいちゃんは、動かなかった。しゃべらなかった。
溜まっていた息を吐き出した。初めてまともな呼吸ができた気がした。予想通りの結末に、ちょっと安心している自分がいた。
「……はぁ……まぁいいや。別に『吐けぇ! 吐けぇ!』なんて刑事ドラマみたいに詰問する気もないし……」
ぐっとおにいちゃんが身体をくの字に折ったのはその時だ。
はっとして見上げた私の前で、おにいちゃんは人を飲み込みそうなほど大きく口を開いていた。内臓でヘビが暴れているみたいにお腹がぐねぐねと波打って、そのたびおにいちゃんは無音でえづいていた。
「お、おに……」
声をかけようとした私の前に、ごとん、と何かが落ちてきた。
お医者さんとか、そういう人でなければそれは見慣れたものじゃないだろう。なのに、十八歳で引きこもりしてる私には、その物体はよく目にするものだった。
ていうか、まさに、昨日見た。
親指と人差し指で輪っかをつくって、ふたつくっつけてみて欲しい。それが私の前に転がり落ちてきたものだ。
材質としては、サンゴの化石に似ている。白く、ごつごつとしていて、触るまでもなく硬いなにかでできている。手に取る勇気なんてない。そんな恐ろしいこと、できるわけがない。
私は震える指で、おにいちゃんの腰の辺りを触った。
……ある。
ぐにょりと埋まる粘土の奥に、確かに硬い感触が返ってくる。ある、ということは、吐き出した「これ」はおにいちゃんのものではないということだ。
ということは。
ということは、どういうことになるの?
「うっ……」
口いっぱいにすっぱい味が広がって、顎の付け根につんと痺れが走った。問答無用の生理現象が、腹の底からせり上がり、駆け上り、上の出口から一気に床にぶちまけられた。
突っ立ったままのおにいちゃんは、私の背中を撫でるでも、心配そうに見つめるでもなく、ただ中空に視線を固定したままだ。まるで自分の突きつけた事実が、どんな問題をはらんでいるか、わかっていないみたいだった。
……おにいちゃんは骨盤を吐き出した。
自分のものではない、誰かの。
この骨盤は、一体誰のなの?
おにいちゃんはどこで、これを飲み込んだの?
どうやって、飲み込んだの?
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