第2話

 おにいちゃんは死んで可愛くなった。

 生きているうちのおにいちゃんは、私にイジワルはするわ、一緒に遊んでくれないわで、私からの評価は低空飛行を続けていた。今考えるとそれも一般的な兄の在り方だと納得できるけど、その頃の私はなんせ十歳だったものだから、そんなの納得できるわけがない。誤解されるかもしれないけど、憎さあまっておにいちゃんの人生を終点に導いたわけじゃない。普通に事故死だった。ただし、その事故を目撃したのは私一人だった。

 深夜。私を無理やり旧校舎へと肝試しに連れ出したおにいちゃんを、圧倒的な力でもって十メートルくらい吹っ飛ばしたトラックは、一度も止まることなくその場を後にした。雨が降っていた。コンクリートからアルカリ臭が立ち上っていた。溶け出す鮮血は薄まりながら広がっていった。ビー玉みたいな目がどこかを見つめていた。

 おにいちゃんは死んで、初めて可愛くなった。

 どこからそんな力が出たのかもわからないし、目的もはっきり覚えていなけど、とにかく私はすぐさまおにいちゃんを小学校の旧校舎に引きずり戻した。

 おにいちゃんはその日から行方不明になった。嘘泣きで帰ってきた私の証言によると、二人でこっそり使われなくなったトンネルへ肝試しに行き、気づいた時にはおにいちゃんだけ消えていたということだ。トンネルは山の斜面にあったものだから、その日から大規模な山狩りが始まった。だけど一ヶ月経っても、半年経ってもおにいちゃんの遺体は見つからなかった。

 私は旧校舎の理科室で、いるはずのないおにいちゃんを使ってお人形遊びを始めた。おにいちゃんは優しかった。私の話をずっと聞いてくれた。おままごとにも付き合ってくれる。ただ、三日を過ぎたあたりからおにいちゃんの下腹部は不自然に膨れ上がり、血管が浮き出て、眼球がへこんでいった。おにいちゃんの腐敗が始まったことは当時の私にも理解できた。とてもじゃないけど一緒の空間にはいられない。でも、それでも私はおにいちゃんを諦めたくなかった。そこで図工用の彫刻刀で腐敗した部分を剥ぎ取り、代わりに粘土を貼り付けていくことにした。酷い匂いと、地上波では絶対に放映されない人体の構造に直面して、子供らしく最初は泣きながらやっていたけど、結局最後まで……人肉を全て油粘土で換装するに至った。どこからそんな原動力が出てきたのか。どうしてそこまでおにいちゃんを手元に置いておきたかったのか。記憶の薄い当時の気持ちを、すっかり今のおにいちゃんを見慣れてしまった私が想像するのはなかなか難しい作業だけど、あえてそこに理由をつけるとしたら、こうだ。

 おにいちゃんは、私の初恋の人だった。

 伏線というかその変態嗜好の前触れは思い返してみると確かにあった。お人形よりも掃除機とお話している場面の方がずっと多く目撃されていたし、カメラに名前をつけて親友ごっこをしたり、クリスマスにはシルバニアファミリーより最新電化製品をねだって親を困惑させたりしていた。

 物体になって初めて、私はおにいちゃんへの恋をはっきり認識するようになった、ということだろう。

 その熱病は中学に上がって、まぁありきたりな理由から引きこもりを始めるようになってからも治ることはなかった。どころかそれはどんどん酷くなっていた。

 元々凝り性だった私はおにいちゃん遊びに行き詰まりを感じ始めていた。それまでも飽きてくると変形可能なおにいちゃんの顔をイケメンにしたり、逆に人外にしてみたり、DVDを一時停止してハリウッドスターに変えてみたりと色々マンネリを防ぐための努力をしていたのだけど、ついにそれもネタ切れしてしまった。抜本的改革が必要だった。

 私はそこからおにいちゃんが自律動作する方法を探し始めた。医学、機械工学、構造力学などなどなど。様々な分野からアプローチをかけてみたが、わかったことと言えば、私のやろうとしていることは古今東西何億人という科学者たちが夢見ながらも結局その完成を目にすることなく散っていったという事実だけだった。

 よく映画なんかでマッドサイエンティストが科学を突き詰めて研究していった結果最終的にオカルトに落ち着くなんていうストーリーが出てくるけど、例に漏れず私も行き着いたのはそういう方向だ。

 その段になってくると私も半ば諦め始めていて、気分転換のつもりで始めたことだった。ほとんどカウンターの回っていない黒と赤で画面構成された胡散臭さで鼻の曲がりそうなサイトから、ゴーレムを生み出せるというお札のようなものをはした金で購入し、読ませる気のない落書きみたいな文字が躍るお札が届くと本当に届いたと爆笑しながらおにいちゃんの口の中に貼り付け、一緒に送られてきた『取扱説明書』を手に、雰囲気作りのために照明を落とし蝋燭を並べた部屋で一人、半笑いのままカタカナで振り仮名のついた呪文を読み上げた。直後、おにいちゃんは身体を痙攣させながら上体を起こしのっぺりした顔をこちらに向けて「やあ、僕生き返ったよ」と笑いかけてくるわけもちろんなく、仰向けに倒れたままだった。

 仰向けに倒れたまま、おにいちゃんは絶叫したのだ。

 筋肉の代わりに粘土で肉付けされた口を大きく広げて、黒板を刃物で引き裂くような身の毛もよだつ産声を上げたのだ。

 人体解剖も済ませた怖いもの知らずの私でも、その瞬間は呼吸を忘れて立ち尽くした。産声でありながらもはや断末魔に近い絶叫は部屋全体に共鳴し、そのまま軒下から屋根まで震え上がらせた。

 おにいちゃんはこうして自立駆動可能になった。

 私のいうことを何でも聞いてくれる自動人形となった。

 ただ、私はまだそれを「おにいちゃんが蘇った」と安易に定義づけすることができない。

 あとにも先にもおにいちゃんが声をあげたのはそれ一度きりだけで、その後どれだけ命令しても、声を出すことだけはなかったからだ。

 ……まるで、地獄から呼び出された悪魔が、肉を得た痛みでつい声を上げてしまった事実をなかったことにしようとしてるみたいに。


  *


 おにいちゃんの下半身を作り直す作業で疲れていたせいかもしれない。

 早めに床ついたのが悪かったかもしれないし、昼間のドタバタで気分が昂ぶっていたのかもしれない。

 何を恨めばいいかわからないけど、とにかく私は深夜、またそのかすかな物音に目を覚ますはめになった。こうなるともう今夜は眠れないことは知っていたから、できるだけ呼吸を浅くして、ぎゅっと目をつむった。

 背後のクローゼットは、私が開けゴマの手拍子を打たない限り決して開かない。開かないはずだった。でも私が深夜に目を覚ましてしまうとき、そのあり得ないことが起こっているらしく、戸がするするとレールを滑った。

 ぺたん。ぺたん。と粘土が床を踏む音が聞こえてくる。何かを探すようにクローゼットをまさぐると、硬い素材の衣類を羽織って、部屋を出て行った。

 階段を下りていくおにいちゃんの足音が完全に消え去ってから、私は溜まっていた息を吐いた。

 ――おにいちゃんは私が寝静まった後、なんかしてる。

 それに気づいたのはつい最近のことだ。

 初めてそれが起こった時、私は寝言でおにいちゃんに何か命令をしているんだろうと思った。あえて検証するまでもなく、そうとしか思えなかったから気にも掛けていなかったけど、寝つきが悪くて眠気がやってくるまでベッドでじっとしていた日に、この深夜徘徊が始まってしまって、ようやく私は事実を正しく認識した。

 おにいちゃんは明らかに、私が寝静まったのを確認してから出歩いてる。

 薄っぺらい説明書にはそんなこと一行も書かれていなかったし、私が起きている間のおにいちゃんは命令を忠実に実現してくれる自動人形だ。

 夜の間だけ自由に歩き回り、何かをしている。その理由を直接問いただしたり、調べたりしたことはない。どうせ直接聞いてみたところでおにいちゃんはいつもの無垢な瞳で見つめ返すだけだっていうのがわかりきっているせいもあるけど、それ以上に、私自身がどうしても気乗りしないのだ。

 おにいちゃんも粘土人間になったとはいえ、たまには気分転換したいとことだってあるだろうし、全然週刊連載しない漫画の続きが今週こそ載るのを期待してコンビニに行くことだってあるだろう。小腹が空いた可能性だってある。私の前では恥ずかしがっているだけで、本当は人並みにお腹が空いてちょっとつまみ食いに行っているかもしれない。ああ……でも。おにいちゃん。その粘土の身体で、一体何を食べるんだろう? 粘土? 土? それとも……別の何か?

 ……うん。わかった。素直になろう。

 私は事実を知るのを恐れてるみたいだ。

 だからこうして目を覚ましても、おにいちゃんを引き止めたり問いただしたりもせずに、じっと息を潜めて、早く用事を済ませて帰ってくることを願っている。それがどんな用事であろうとも。翌朝になればいつものおにいちゃんだから。

 だから、私は目をつむるんだ。

 胎児みたいに身体を折り曲げて、早くこの夢が覚めることを一生懸命願うのだ。

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