第三話 血の絆

「そうか……ミハイルを見つけたか。でかしたぞ」


 ミハイルとノエルが町から山へと移動して暫く経った頃。


 ミハイル達がいた町の外れで、純白の鎧に身を包んだ女性がミハイルと話していた孤児と話していた。女性は輝く様な金紗の髪とヴァイオレットの瞳、そして雪の様な荒れ一つ無い肌をしており、華奢な身体はとても戦士のそれには見えない。


 貴族の令嬢が騎士の真似事をしている様に、道行く人には見えることだろう。実際、街の誰もが彼女を戦士であるとは露ほどにも思っていなかった。


 不用心なことに、彼女は誰も護衛を付けていない。しかし誰も彼女を襲うことはできない。全てを支配する様な圧倒的な風格を、彼女が放っていたからだ。


「ミハイルの来そうな場所にお前を雇っていて良かったよ。私の部隊はど゛こにでも動かせる訳じゃないからな」


「へへ……でも騎士さん、あんたが近いの町に用事無いかったら多分兄ちゃん捕まったいない思うよ?」


 孤児の言葉に、女騎士がくつくつと笑う。


「ふふふっ……君は面白い事を言うな。まあいい、それは私を知らない人間の言う事だ。誰も君を責めたりはしないよ」


「どういう意味?」


「彼はなんだ。ミハイルがどこにいても、私は彼を捕まえるよ」


 ぽかんとする孤児に銀貨を渡して、女騎士が踵を返す。


「とはいえ、君が首尾よく仕事をしてくれて助かったよ。もし君がしくじって、私の回し者だとバレていたなら……私は君を殺さなきゃいけなかった」


 薄く冷たく笑って去っていく女騎士を、少年は黙って見つめていた。


 魔の山の中に、三つ目の勢力が踏み込む。



 それは、遠い過去の追憶。


 その日、サラは遅くまで友達と遊んでいた。何度も何度も童歌マザーグースを口ずさみながら、友達数人と日が暮れるまで『薔薇の花輪になって踊ろうよ』や『ロンドン橋落ちた』で遊んでいた。


 一見すればいつもと何も変わりない、いつもの一日。しかしサラの心は満たされず、そうやって遊んでいる時間でさえ苦痛に感じる。


 サラは遊んでいる間中ずっと、もやもやとした気持ちを抱えていた。自分を見る周りの目が、最近おかしなものへと徐々に変わっていっていたからだ。一緒に遊んでいる友達は笑顔だったが、どこか貼り付けたようで上の空だった。


 どうしてと尋ねたくても、尋ねることはできない。それを知ってしまうと、きっと全てが崩れてしまうから。今の生活を壊したくなかったから、尋ねなかった。


 やがてあたりが暗くなり、その日は解散となった。明日また遊ぼうね、と手を振りながら言ったことを、サラはきっとこの先もずっと忘れないだろう。誰一人としてサラのその言葉に、返事をしなかったのだから。


 ――明日があればだけどね――


 誰かがぼそりとそう呟いたのが、いやにサラの耳にこびり付いて離れなかった。


 ――こんなことになるなら、尋ねてしまえば良かったのだろうか。


 全部どの道壊れてしまうのならば、自分の手で壊してしまえば、こんな気持ちも味わわずに済んだのだろうか。何もかも失って手ぶらになってしまえば、身軽で気楽になれたのだろうか。


 自分がもう少し強ければ、こんな所で全てに絶望しなくても済んだのだろうか。


「……なんて考えても、もう遅いのにね」


 誰にも聞こえないような小声で、サラが独り言を呟く。


 サラは歩いている間、ずっと昔のことを考えていた。今となっては考えるだけ無駄なはずの、昔の思い出に浸っていた。


 辺りは濃霧に包まれていて、一寸先は白一色である。少しでも大人たちと離れてしまえば最後、霧が晴れるまでサラはずっとこの谷を彷徨うことになるだろう。それが少し恐ろしくて、サラはジョージの袖を強く掴んだ。


 一向は既に谷底へと到着して、アラクネのいる場所へと向かっている。谷底全体が瘴気の様な嫌な空気に覆われていて、サラはその空気を吸うたびに何度かえづいた。


 地面には妙な色の苔が生えていて、シダが生い茂っている。岩肌は何者かによって抉り取られた様な跡があり、進むにつれて黒ずんだものが多くなっていた。


 考えるまでもなく、サラの知らないナニカがこの谷にいる。


 猛烈に嫌な予感を感じて離れようかと一瞬サラは考えたが、すぐにその考えを改めた。霧が濃すぎて逃げる場所が分からない上に、どうせ逃げたところで逃げ場など無いのはさっき学習したのだから。


「……着いたぞ。ここがアラクネ様の巣穴じゃ」


 ジョージがサラの方へと向き直り、サラが持っていた鉄のナイフを取って鞘から抜く。鋭利な刃が濃霧の中できらりと輝き、サラの背中を冷たいものが走る。


 不意に、近くにいた二人の男女がサラの身体を押さえて動けなくした。突然のことに戸惑ってもがくサラを感情の無い瞳で見つめながら、ジョージが口を開く。


「これより儀式を執り行う。二人が見つからなかったのは残念じゃが……今年はサラだけを供物とするとしよう、異論はないな?」


「勿論ありません」


「これも全て、この町の為ですもの」


 誰一人として、異議を唱える者はこの場にいない。誰一人として、サラを助けようとはしていない。


 ――ああ、やっぱりそうなのか。


 その時サラに芽生えた感情は、恐れでも悲しみでもなく……諦観だった。


「……やっぱり皆、嘘を吐いていたんですね。町の人間になれるって話も、全部」


 サラを囲む大人たちが、くつくつと声を殺して笑う。


「ええそう、。貴女は最初からその為だけに連れてこられたの」


「お前もここに来る前から気付いていたんだろう? 俺達の町が軍にアラクネ様の討伐を依頼する気なんてことも、餌になりそうなフリーランスの魔物狩りばかり選んで依頼を出していることも」


「生贄を貧しい連中から買い上げて、俺達の代わりに死んでもらう。どうせ放っておいても死ぬ奴が死んで、死ななくていい奴が生きるんだ」


「死ね。町の為に、俺達の為に死ね」


 げらげらと笑いながら、大人たちが口々にサラへと言葉の矢を射かける。


 ジョージがナイフを逆手に構え、サラの身体が五人がかりで固定された。


 ――こんなことになるなら。


「あの人たちに……連れて行って貰えば良かった……」


 俯いたサラの目尻から涙が一筋零れる。


 全てに絶望した筈なのに。何もかも諦めた筈なのに。この期に及んでまだ何か助けがあると期待している自分がどうしようもなく愚かしかった。


 サラが涙を流しても、サラが何をしても、ジョージは何も変わらない。ただ機械的に――サラを殺すだけだ。


「それではこれより……サラの心臓をアラクネ様へと捧げる」


 ジョージがナイフを振りかぶり、殺意の籠った目でぎろりとサラの胸を睨んだ。


 ナイフが振り下ろされ、肉の裂ける音が響く。




「着いたぞミハイル、ここが奴のおる場所じゃ」


 崖の前でノエルが止まり、崖の下の濃霧を指さす。ミハイルの目には霧以外何も見えないが、ノエルの目には谷底の苔までつぶさに見えている程だった。


 そして見えているということは、当然……今行われている儀式の様子も見えているということだ。


 ――これは、ミハイルが見たらいかんかもしれんのぅ。


 儀式を見降ろしながら、ノエルが険しい表情をする。それはノエルが想像していた通りの生贄の儀式が行われていた。サラが大人に囲まれ、洞穴の前に立っている。


「……下はどうなっている?」


 ミハイルがノエルの肩を叩き、ノエルの身体がびくんと小さく跳ねた。


「ん、まあ降りてみんと何とも言えんじゃろ。下は普通の谷底じゃ」


 曖昧なノエルの返答に、ミハイルが怪訝な顔をする。谷に近付いた辺りから嫌な胸騒ぎが収まらない。その胸騒ぎの正体が何なのか、ミハイルは早く知りたかった。


「ノエル、をくれ。どうにも嫌な感じがする」


 谷へと続く道を指さすノエルに、ミハイルが手を差し出す。差し出された手を見て、ノエルの顔がさっと曇った。


 今ミハイルが望んでいるものを渡してしまえば、ミハイルは谷で行われているものを見てしまう。見てしまえばそこから先はどうなるのかノエルでも予想がつかない。それだけは、避けなければならないのだ。


「……ぬしは下の様子を見んでええ。魔物が出てきたら渡す」


「いいから渡してくれ。もやもやするんだ」


「…………こういう時に限って強情じゃのぅ、ぬしは」


 頑として譲らないミハイルに、ノエルは大きく嘆息した。


 どうなっても知らんぞ、とノエルがぼやき、懐から赤い液体の詰まった親指くらいの大きさのガラス製の小瓶を取り出す。ミハイルはノエルからその小瓶を受け取ると、蓋を開けて中の液体を舌の上に落とし、音を立てて飲み干した。


 刹那、ミハイルの身体がどくんと脈打って視界が赤くなる。数秒すると視界から赤みが引き、脳内で何かが繋がる感覚がして爆発的に何かが広がっていく。


 目を閉じてもう一度開くと、ミハイルの目に映る世界は全く違う物になっていた。


 否、目だけではない。耳も鼻も、肌に感じる感覚も――それまでとは比べものにならないほどに鋭敏になっている。


 ――見える。


 今のミハイルには、全てが見えていた。

 霧があることなど全く障害にならない。霧を透かす様にして、薄い白に包まれた谷底がくっきりとその姿を露わにしていた。


 それはごく少量のノエルの血液をノエルの涙で希釈したものだった。摂取すれば一時的に、ノエルに近い感覚を得られる。しかしノエルの血には穢れの上位種、高濃度の魔力である呪いが入っているので、並の人間では反動で死んでしまう。強靭な身体を持つミハイルでなければ使えないモノだ。


 そしてミハイルにはもう一つ、ノエルの血を扱える理由がある。


「……ここの真下付近を見てみるんじゃ。何でわっちが言わなかったか分かる」


 言われた通りにミハイルが崖下を覗き込み――大きく目を見開いた。


 ジョージがサラめがけてナイフを向けており、サラが大人に取り押さえられている。サラの顔は絶望一色に染まっていて、涙が一筋零れていた。


ざわり、とミハイルの中で何かが疼く。


「……あの野郎!」


「あっ、おい待てミハイル! 余計なことを……」


 ノエルの制止も聞かずにミハイルがフルティングを抜き、崖から飛び降りる。


「あんの馬鹿、じゃからぬしには話さなかったのに!」


 ミハイルの後を追うようにノエルが飛び降り、ふわりと宙に舞う。


 普段のドライな性格とは裏腹に、ミハイルは正義感の強い人物だ。一般的に悪だとされる行為は決して見逃さずに介入してしまう。その無鉄砲な姿勢にノエルは苦労していた。


お互いに頭を悩ませ合うと言う奇妙な絆は、そんな二人を今の今まで不思議と繋いでいる。何ともおかしな話だ。


 最も、二人を結ぶ絆とはそれだけではないのだが。


「やれやれ……仕方が無いのぅ。久方ぶりじゃが……もとよりを使わない道は無いじゃろう。手早く済ませた方が良いに決まってありんす」


 すぅ、と息を吸い込んで、ノエルが括目する。


 どくんとノエルの胸が鼓動を打ちならし、瞳が深紅に染まる。猫の様に細くなった瞳孔が、静かに谷底を見降ろしていた。


 ノエルの背中には血と呪いで形作られた翼と深紅のドレスが纏われており、その手には血を呪いでより上げた斧が携えられている。見る者を惑わせる艶やかな唇からは一対の長い犬歯が覗いており、鈍い輝きを放っている。


 彼女はその言葉通りに――吸血鬼だった。血と呪いを操る、高位の魔物だ。


「最古の吸血鬼と最高の人間のロンドじゃ、しっかりと見届けろよ……アラクネ」


 翼をはためかせて宙へと一度舞った後、ノエルは谷底へと降下を開始した。

 


「これより……サラの心臓を、アラクネ様に捧げる」


 ジョージがナイフを振りかざし、サラの胸へと振り下ろす。


 誰もが、これで生贄の儀式が終了したと感じていた。その場にいた誰もがジョージによるサラの死を感じていた。


 これで、アラクネは満足する。自分達は何も犠牲を出さず、余所者を殺すことで一年間の平穏を得られる。大して情も移っていない小娘だ、殺すのは容易い。


 いつも通りになると、誰もが考えていた。……そう、突如としてその場に現れたただ一人の青年を除いて。


「やめろぉおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!」


 絶叫と同時に、肉の裂ける音。


 ナイフを振り下ろそうとしたジョージの腕が、巨大な咢によって突如砕かれた。


 事切れたジョージの骸が、力なく倒れる。悲鳴を上げる間も、痛みを感じる間もなく、ジョージの命と呼べるものは全て消失していた。


「……あなた、は」


 突如振ってきた銀髪の青年を、サラが見つめる。


 恐怖は感じなかった。彼が誰なのか分かっていたから、自分が助けを求めた相手だとしっかり理解していたから、サラは目の前で人を殺した彼を怖いと思わなかった。


 魔物狩り。彼――ミハイルは、確かにそう言っていた。


 たじろぐ群衆にフルティングをびたりと突き付けて、ミハイルが前方を睨む。


「お前ら……やっぱり生贄を出していたんだな! 俺達諸共アラクネの食い物にして、自分達だけ助かろうとしていたんだろう、違うか!?」


「ああ違わないとも、その通りだ!」


「俺達にだって生活があるんだ、行き場の無い魔物狩りと貰い手の無いガキを餌にして何が悪い? 数人で村一つ救えるなら安いものだろう!」


「てめぇら……!」


 ミハイルが腰だめに剣を構えて、振り抜こうとする。一度振り放てばフルティングは確実に、その場の全員の命を喰らい尽くすだろう。


 フルティングが喰らう命は、魔物だけではない。人間であっても命がある以上は、その例外ではないのだ。攻撃した対象の命は、例外なく一瞬で奪われる。そして喰らった命はストックされ、更なる力へと変わるのだ。


「全員この場から生きて――」


 生きて返さない。そうミハイルが言おうとした時だった。


 洞窟の中から長い一本の赤黒い蜘蛛の足が突き出されて、ミハイルから少し離れた場所にいた中年の男性の腹を突き刺した。かふ、という乾いた声だけを漏らして男が息絶え、ずるずると洞窟の中へと引きずりこまれていく。


「Ah……Ah……」


 洞窟の中から、ぞっとする程怪しく妖艶な声がする。その中にはくちゃくちゃという咀嚼音が混じっていて、引きずり込まれた男の末路を物語っていた。


「くくくくく、くけけくくくくけくけけ……Ah-…Ah-…」


 洞穴の中から無数の糸束が飛来し、その場にいた村人達の肌に着くと同時に身体中へと巻き付いて、纏めて洞窟の中へと引き込んでいく。飛んできた糸をミハイルが斬ったので、ミハイルとサラだけはそれを逃れることができた。


「……サラと言ったな。早くどこかに隠れていろ、巻き添えを食らうぞ」


 ミハイルが強めの口調でサラに告げて、サラが弾かれたように岩陰へと移動する。


 ――さて、ここからが本番だな。


 フルティングの影響で、全身が昂ぶってきている。大きな命の気配を感じて、剣が悦んでいるのが伝わってきた。冷静にする様努めながら、ミハイルが深く息を吐く。


 何かが、ケタケタと笑っている。笑い声がどんどん近くなってきている。


 今までに見たことも無いような何かが、ミハイル達の方へと近づいてきていた。


 突然、中の魔物が走り始め、こちらへとあっという間に接近した。耳をつんざく様な咆哮が、どんどん近づいてくる。


「Ahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!!!!!!!」


「来たか……!」


 ミハイルがフルティングを握る手に力を込め、全身に気を張り巡らせる。


 一撃必殺。ただそれだけを考えて、ミハイルはアラクネを待ち構えた。


 そして、洞窟の奥にいた魔物が、姿を現す。


 それは、巨大な蜘蛛の身体に女神像の様な身体のついた異形の怪物だった。赤黒く肥大した蜘蛛の身体の正面には大きな口があり、村人達の手足が何本か覗いている。歌うように話す女神像には返り血が幾つも付着しており、それが却って美しかった。


 高さ三メートル、全長六メートルを超える巨体がミハイルを見降ろしている。


「お前が……アラクネか」


 フルティングによる興奮を抑えながら、ミハイルが問う。ミハイルの問いに、アラクネの蜘蛛の口と女神像の顔が笑みで歪んだ。


 答えは、無い。だがその笑顔だけで、全てが分かった。奴は間違いなくアラクネだ。今まで何人とも知れない人を喰ってきた、魔物の顔である。


「答える必要は無いか……いいだろう!」


 ミハイルが跳躍し、足の一本にフルティングを振り下ろす。牙が足に直撃し、紫色の体液を勢いよく噴き出しながら足が千切れ飛んだ。


 命を絶ち切った十分すぎる程の手ごたえが、全身に伝わってくる。


「お、お、お……おァおおおおおおぁあああああああああああああああっっっっ!」


 アラクネが絶叫し、女神像が紫色の涙を流す。しかし一向に絶命する気配はない。


 瞬く間に足は再生し、ミハイルの方へと向かってきた。


「なっ……!」


 回避している時間は、無い。


 咄嗟にフルティングで受け止めるも、魔物の力を受け切れる筈も無く、ミハイルの身体はさながら木の葉の様に軽々と吹き飛ばされた。


 ――こいつ……っ!


 受け身を取って岩壁を背にアラクネを睨みながら、ミハイルが舌打ちする。


 フルティングの力は『今まで喰らってきた数と同じだけの命を喰らう』である。ミハイルが今までにこの剣で喰らってきた命の数は人間と魔物を合わせて千前後。それを凌ぐと言うことは、アラクネは今まで千を超える命を喰らってきたということになる。二撃目が凌がれればその三倍以上だ。


 つまり千を超える人間を、この化け物は殺してきたのだ。中には魔物を喰らって手に入れた命もあるのだろうが、それでも得た命が人間のものであることに変わり無い。魔物は共食いによって、喰らった魔物が得ていた魔力と命を受け継ぐのだから。


「Ahhhhhhhhhhh!!!!!」


 アラクネが糸の束を吐き出し、ミハイルが横へと転がって躱す。岩肌へと付着した糸は複雑に絡み合った後に一本の糸へと依り合せられ、網の様になった糸が岩を削り取ってアラクネの下へと引きずられていった。


 ばきばきと蜘蛛の口で岩を噛み砕きながら、女神像が微笑む。見ているだけで怖気が走る様な、禍々しい笑みだった。


 ――さて、どう戦う……?


 今になって一人で突っ込んだ事を少しだけ後悔する。一撃で倒す前提での突貫だったのだが、それが破られてしまったとなると次の手を考えなければならない。


 アラクネが再び、今度は身体を大きくのけ反らせて上へと向かって糸を吐き出す。吐き出された糸束は空中でほどけ、谷一帯に蜘蛛の巣を形作った。


 触れれば恐らく先程の岩の様になる、辺り一面に張り巡らされた罠だ。これでは迂闊に移動することができない。


「それで動きを封じたつもりか!」


 ミハイルが短銃を腰から抜いてアラクネの女神像に狙いを定め、引き金を引く。放たれた弾丸は真っ直ぐに女神像の額へと飛んで命中し――呆気なく弾かれた。


「何っ!?」


 大きく目を見開いたミハイルを、傷一つ無いアラクネがにやにやと見降ろす。


 今使ったのは魔物にも十分に効果のある法儀礼済みの弾丸だ。当たれば即死という事は無くとも、多少は傷が入り暫くは再生しない筈である。


アラクネが足を持ち上げて振り下ろし、ミハイルがそれをギリギリで飛び退き回避。続けざまに放たれる踏み潰しを躱しながら、ミハイルが岩陰へと身を隠した。


 どくん、と強い鼓動が、腕を通してフルティングから伝わってくる。


強大な命の気配を間近にして、これまで見た事のない程に咢は昂ぶっているのだ。殺せ、喰らえ、こちらに寄越せと、引っ切り無しにミハイルへと訴えかけている。


 どうやらこの状況を打開するには、フルティングの力が必要らしかった。


「……仕方が無い、か」


嘆息しながら、ミハイルが岩から身を出す。


 短銃を腰に仕舞って、ミハイルがフルティングを構え直した。


 静かに目を閉じて、殺意の奔流へと身体を任せる。


 刹那、ミハイルを繋ぎ止めていた理性という堰は完全に決壊した。


 沸き立つような興奮と快感が瞬時に全身を貫いて蕩かし、頭がすっきりと冴える。身体から信じられないような力が湧いてきて、高揚が限界を突きぬける。


 そして零れるのは、笑み。


「ふ……く、ははははは……はははははははははははははっっっっ!!!!」


 目を見開き、口を裂けそうな程に開いて、ミハイルが大声で笑う。突然の変化に対応できず、アラクネが怪訝そうな顔でミハイルを見つめた。


 服がはち切れそうなばかりに筋肉は隆起し、双眸は紅く染まっている。肌には所々魔方陣の様な紋様が浮かび上がっており、フルティングも赤く染まっている。


 そこに在るのは、一匹の獣。血に飢えた獣が、蜘蛛を喰らおうとしているのだ。


「さァ、始めよウか……アラクネェエエエエエ!!!!」


 笑いながらミハイルが跳躍し、一瞬にして女神像の顔の間近にまで接近する。


「――――――!」


 咄嗟にアラクネが飛び退き、ミハイルのフルティングが空を切る。着地地点を狙ってアラクネが糸を吐くが、フルティングを先に地面に着けて着地点をずらす事でミハイルは回避。再び跳躍して高速戦が展開される。


 地面に着地し岩壁を蹴って追ってくるミハイルを、時に足で弾き時に逃げながらアラクネがいなす。一歩踏み間違えば死に至る足場の限られたフィールドをものともせずに、ミハイルは谷底を縦横無尽に動き回っていた。


 命に対する渇望と己が身を顧みない狂気だけが、今のミハイルを動かしている。


「もっとだ……もっと、もっと! もっとタノシマセロォオオオオ!!!!!」


 ミハイルがフルティングを片手で振りかぶり、アラクネが振りかぶった右腕へと糸を吐く。しかし右腕が絡み取られる寸前にミハイルがフルティングを離し、左手でフルティングを掴んだ。こちらを引きよせる糸を利用してミハイルが近づき、身体を斜めに回転させて糸を切り、そのまま勢いを利用して女神像に斬りかかる。


 しかし牙は女神像の皮膚を食い破る事ができず、大きくヒビを入れただけだった。肉まで喰らわなければ、肉を喰らって血を浴びなければ、命を喰らう事はできない。


「畜生が……!」


 驚愕するミハイルを見て、にいとアラクネが笑う。


 落下を始めようとするミハイルの身体を女神像の腕が掴み、宙へと放り投げる。何が起こるか察知したミハイルがフルティングで防ごうとするが間に合わない。大きく振り上げられた足がミハイルの腹に突き刺さり、轟音を立てて踏み潰された。


 ……踏み潰されたと、サラもアラクネも確信していた。


「……やれやれ、だから勝手に行くなと言ったんじゃ。ぬしはまだ青いからの、その咢を使いこなせる筈が無い」


 アラクネの隣には、片腕で気絶したミハイルを抱えたノエルが立っていた。深紅のドレスに身を包み、槍を携えた吸血鬼がアラクネを睨んでいる。


 アラクネは、その場に縫い付けられた様に動くことができない。先に戦ったミハイルよりも更に小さい相手なのにも関わらず、下手に動けば死ぬことをアラクネの全本能が告げていた。圧倒的な格の差が、その場を支配している。


「久しぶりじゃなアラクネ。会うのは七百年ぶりかの?」


「ア……ああああああ……」


 アラクネが狼狽えて、数歩後ずさる。ノエルはミハイルを抱えたまま、ゆっくりとアラクネの方へと近づき続けている。


「どうしたんじゃ、何を驚いておる? 七百年前の『深紅の月蝕』の前夜に魔族総出で倒したのに、お前は何で生きている……とでも言いたげな顔じゃな」


 くつくつと笑ながら、ノエルがアラクネを睨む。


「わっちがで滅ぶ筈が無いじゃろうが。じゃが滅ばなかったと言って、ぬしらがやった事をわっちが許すと思うか? 三百年かけたわっちの願いを砕いたぬしらを……わっちが許すと思うか?」


 その笑みに隠されたのは、恨み。七百年間育てられ続けた、深い深い恨みである。


 そしてその恨みで育てられ練り上げられたどす黒い魔力こそが――呪いなのだ。


「じゃが、ぬしを殺すのはわっちじゃありんせん。……ほれ、起きなんし」


 ノエルがミハイルのこめかみをとんと叩くと、一瞬でミハイルが覚醒した。血の混じった咳を数回した後で、ミハイルが立ち上がる。肋骨が数本折れているのがぼんやりとした意識の中でも分かった。狂化による負荷も身体のそこかしこに残っている。


「ぬしを殺すのはわっちの相棒……ミハイルじゃ。ミハイルがぬしを討つ。わっちとミハイルの力を合わせて――殺し尽くしてやる」


「……をやるつもりなのか。正直気は進まないんだが」


「やるより他に良い手も無いじゃろう。一気に決めるぞ」


「やれやれ……仕方が無い、か」


 ミハイルが立ち上がって短銃を外し、シャツのボタンを一つ外して首筋を曝け出す。無防備に晒された白い肌にはいくつもの歯型が付いていた。


 ミハイルの身体にノエルが腕を絡め、首筋に舌を這わせる。びくんと跳ねたミハイルの身体を妖艶な笑みを浮かべながらノエルが押さえつけ、ゆっくりと口を開いて首筋に牙を突き立てる。


「あっ……あああぁあぁ……っ!」


 全身を伝う快感にミハイルの身体ががくがくと震え、首を中心として赤い紋様が身体中に広がっていく。吸血によってミハイルの身体の中に呪いが伝染し、血管を通して全身へと広がっているのである。


 ミハイルの血――命がノエルの中に混じり、ノエルの呪いが混じる。二人を結ぶえにしは魂にまで深く繋がり、ノエルとミハイルは文字通りの一心同体となる。


 必要な分の血を吸い終わったノエルがミハイルから離れ、ミハイルが首の血を指で拭きとる。拭った血でミハイルが右手に魔方陣を描き、ノエルの左手にも同じ魔方陣が浮かび上がった。二人が互いの掌を合わせる様に手を繋ぎ、ノエルが嗤う。


「――誓約せよ。汝の身体は我のもの、汝の心は我が手中」


「誓約する。我が全ては汝へ、我が勝利は汝の手へ!」


 ミハイルの叫びと共に、繋いだノエルの掌から血が流れ出し、瞬く間にミハイルの全身を覆い鎧となった。兜が頭部を覆うとともに、ミハイルの意識が赤へと消える。


 ノエルとミハイルの手が離れ、ミハイルがフルティングを拾い構えた。


 同時にアラクネの足がミハイルへと振り下ろされ、轟音と共に砂煙が立ち上り霧が振り払われる。ノエルは間に合っていない。今度は確実に踏んだという確かな手応えがアラクネにはあった。間違いなく肉塊に変えたという確信でアラクネの顔が綻ぶ。


 しかし直後に、アラクネの足の関節より先がぼとりと落ちた。再生は――しない。切断面の細胞が完全に死んでいる為に活性化しないのだ。


明後日の方向へと折れ曲がったミハイルの腕が捻れて元に戻り、アラクネの足を掴む。


「ふぅーーーーーーー……」


 千切れた足を払いのけて、赤い騎士が大きく息を吐く。辺りには何かが腐敗した悪臭が立ち込めている。そしてその臭いを放っているのは……アラクネの足だった。


 何も分からないといった顔をするアラクネを、ミハイルが静かに見つめる。足が振り下ろされた時、ミハイルは何もしていなかった。……そう、ミハイルは。


 ミハイルはただ、振り下ろされた足を受け止めただけだ。腐敗は鎧の効果である。


 今ミハイルの着ている甲冑はノエルが蓄えた血を呪いで編み上げ、ミハイルだけが使えるように仕立てたものだ。常人であれば触れるだけで即死するものであり、魔物であっても触れれば触れた箇所が腐り落ちる。また全身を呪いで繋ぐことにより痛覚を遮断する上、劇的なまでの再生能力とそれに伴う身体能力の強化を行う。


 人間でも魔物でも、この鎧を着ることはできない。ミハイルだけが、呪いに対して先天的な耐性を持っているミハイルだけが、この鎧を着て戦えるのだ。


「さっさと決めてこい、ミハイル」


 ノエルが短く命じ、ミハイルが動き出す。それに連動してアラクネが口を開いた。


 始めはまるで歩く様にゆっくりと――そして爆発的な速度でアラクネの後ろへと回り込み、アラクネの背丈を飛び越す程高く跳躍する。無茶な駆動の代償で右足が明後日の方向へと曲がるが一瞬で修復され、血の兜から覗く赤い瞳がアラクネを睨む。


 同時にアラクネが糸を吐き出し、糸が束ねられて左腕に絡みついた。呪いの腐敗にもある程度耐えるものだ。宙を舞うミハイルと地を這うアラクネが、一本に依り合せられた糸によって結び付けられる。もう互いに――逃げる事はできない。


 獲物を捉えた残忍な捕食者と、その捕食者に捉えられた哀れな獲物。


 しかし獲物となったのは、ミハイルではなくアラクネの方だった。


 糸を掴んだミハイルが、身体を捻って左腕一本で糸を引っ張る。次の瞬間、家ほどもあるアラクネの巨体が軽々と宙に浮き、振り回されて岩へと激突した。糸が腐敗して千切れ、アラクネが明後日の方角へと吹き飛び岩壁へと轟音を立てて衝突する。


 ――相変わらず、こうなると完全に人間ではないのぅ。


 勝鬨の様に雄叫びを上げるミハイルを見て、ノエルがにやりと笑う。今のミハイルはノエルの呪いとフルティングの殺意に全身を浸した状態だ。並の魔物ではまず太刀打ちする事ができない。ノエルとの誓約を終えたミハイルの力は魔物の上位種――魔王と同等なのだから。


 砂煙の中からアラクネが足を突き出し、ミハイルがそれを掴んで引き千切る。すかさず千切り取った足を捨てて断面を掴んでアラクネの身体を砂煙の中から引きずり出し、噛みつこうと開かれかけた蜘蛛の口に拳を突き込んで牙をへし折る。女神像が悲鳴を上げてその場に崩れ落ち、動きが止まる。


 勝負はこの時、完全に決まった。


 ミハイルがフルティングを握りしめて跳躍し、限界まで身体を捻じる。全身を呪いの力とフルティングによるリミッターの外れた力が駆け巡り、フルティングの牙がアラクネを映してぎらりと輝く。時間が止まった様な緊張が辺りを包みんこでいた。


 アラクネは、動くことができない。捕食者に囚われた獲物は逃げる事ができない。


 命を捉えたミハイルが、にやりと嗤う。そして止まっていた時は動き出した。


 ミハイルが落下しながら全身に力を溜め――狙いを定めて一気に解き放つ。


「オ……おおおおおおおおおおっっっっ!」


 乾坤一擲。


 アラクネの腹部へと、フルティングが叩き付けられた。紫色の血が勢いよく吹き出し、アラクネが絶叫する。腹を食い千切られたアラクネは暫くのた打ち回った後、びくびくと痙攣して動かなくなった。


穢れの大元である大型の魔物が死ねば、魔物の生命である穢れを他の魔物達は供給されなくなる。ノエルが辺りの匂いを嗅いでも、もう穢れの匂いもアラクネの匂いも露ほども感じられない。この山の魔の気配の全てが死に絶えていた。


「終わった……か」


アラクネの死を確認したノエルが、ぱちんと指を鳴らす。


 ミハイルの身体から血の鎧が流れ落ちて、ノエルの掌へと吸い込まれていく。ノエルの服もドレスから以前のものに変わり、翼も体内へと戻っていた。


 命を失い大地へと吸い込まれていくアラクネの死体を見つめながら、元の姿に戻ったノエルが大きく息を吐く。やっと終わった、という安堵から来るものだ。


「……一件落着、じゃな」


「いや、まだ後始末が残っているさ。……サラの事だよ」


 ミハイルがフルティングを背中のベルトへと納刀し、コートを羽織り直す。


 出発の用意を終えたミハイルが、岩陰からこちらの様子を伺っていたサラの方へと歩み寄る。サラは一瞬、身体をびくんと震わせたが、すぐに立ち上がってミハイルの方へと駆け寄った。ミハイルの差し出した手を、サラが力強く握る。


「サラ、君はこれからどうしたい?」


「……連れて行って、欲しいです。ここじゃないどこかへ」


「ここじゃないどこか、のぅ……また中々に難しいお願いじゃな」


「どこでもいいんです! ここやあの町みたいな場所じゃなければどこでも……絶対に邪魔はしませんから……!」


 むう、とノエルが唸る。町で会った時とは違ってサラは意外と強情だった。強情にならざるを得ない程にあの町が狂っていたと言えばそれまでだが。


 ノエルがミハイルに目配せすると、ミハイルはどうしようもないと云った様子で大袈裟に肩を竦めて見せた。


「……仕方が無い、探してみよう。もう少し大きな町に行けば、そこでどうにかなるじゃろ。それまでの付き合いじゃぞ」


 ノエルがこめかみを抑え、ミハイルがサラの肩をぽんと叩く。


 今までサラが感じた事の無いような、優しくて温かい手だった。とても先程アラクネをただの二撃で打ち倒していた男だとは思えない。


 まだ少しだけ血の匂いを漂わせている彼は、サラを見ながら微笑んでいる。


 その姿はまるで一枚の絵の様に美しくて――ほんの少しだけ、恐ろしかった。


「さあ、ここを出よう。俺達の仕事は終わりだ」


 霧が晴れ、雲の隙間から陽光が一筋差し込む。


 三人はサラがやって来た道の方へと向き直り、ゆっくりと歩き始めた。

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Scarlet -スカーレット- 楪葉奏 @kanade07

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