第二話 命を喰らう牙

「おお、これはまた派手に暴れておるのぅ」


 ミハイルが魔物達を倒した少し後。


 山道に転がった骸の山を見つめながら、ノエルが一人くすくすと笑っていた。


 辺り一面は紫色の血で染まっており、何とも言えない怪しい香りが山を満たしている。穢れそのものに色はないが体内の穢れによって血液が変質している為、血が紫色になるのだ。それ故その匂いも人間のものとは大きく異なる。


「……わっちが直々にくれてやったモノとはいえ凄まじいものよの。骸から命が欠片も残っておらん」


 流れる血を一滴指ですくって舐めながら、ノエルが呟く。人間の血に比べれば魔物の血など大して味はしないのだが、命の残っていない血は格別に味気なかった。


 ノエルは血ではなく、血のなかにある命を糧としている。そしてミハイルの使うフルティングはノエルが与えた「命を喰らう牙」だ。命の入っていない血などただの色つきの水でしかなく、喉の渇きすら癒えはしない。


 その牙の名はフルティング。ノエルが創った魔界の兵器であり、ミハイルの剣である。命中すればその牙に蓄えられた「命」より弱い命を無条件に食らいつくし、強い場合は蓄えられた魂の合計された強さと同じだけ命を削る吸血鬼の剣だ。


「さて、そろそろ本腰を入れてミハイルに協力してやるかの」


 ぴちゃりと音を立てて血溜まりの中に立ち、ノエルが目を閉じる。


 ノエルが目を閉じて天を仰ぐと、ノエルの足元から赤黒い霧が湧き出し、瞬く間に山の中へと広がっていく。


 暫くノエルはずっと霧を出していたが、やがて目を開いて歩き始めた。つい先ほどまでそこにあった筈の血溜まりは影も形もなく消え失せていた。


 これからどうすべきか、ミハイルがどこで何をしているのか、全てノエルは見通している。後は計画の通りに――ミハイルを導いて依頼を達成するだけだ。


「精々踊ってくりゃれ、わっちを飽きさせぬ様にな」


 遠くにいるミハイルを感じながら、ノエルはにやりと笑った。




「……畜生、キリがないな」


 狼を三体まとめて薙ぎ倒しながら、ミハイルが吐き捨てる。


 進めば進むほど、異常なまでに小型中型の魔物が大量に出てくる。普通の山では考えられない程の量だ。加えて山なので見通しが悪く、剣も振り回しづらい。


 狼の群れを走って切り抜け、オークの頭蓋を叩き割る。低空飛行しながらこちらへと飛んできた巨大な蜂を踏みつぶし、その骸を踏み台にして後ろに控えていたトロールを逆袈裟に両断する。間髪いれずに前進し、魔物の群れを突っ切る。


 ミハイルは今、ただこの群れから逃れることだけを考えていた。


 例え弱くとも数が多ければ、こちらがどれだけ強くとも不利になる。相手の的は一つだがこちらは複数の敵から無数のパターンを常に想定して戦わなければならないからだ。経験と力と機転が無ければ即死である。


 ――くそ、何だったんださっきのは!


 狼とトロールを倒したことを思い出しながら、ミハイルが小さく舌打ちする。


 身体が火照って、脳が興奮で焼き切れそうだった。この剣を握って魔物と対峙するとどうしようもなく心が昂ぶってしまう。目の前の魔物全てを斬り倒してしまわないと気がすまなくなってしまう。


 余計なことをしている暇はない。これは仕事であって慈善事業ではない。今はこの山から魔物を全て放逐する為に戦っているのではない。


 相手はこの先にいる蜘蛛の魔物だけだ。それ以外の雑魚を相手にしている場合ではない。そう言い聞かせても――身体は戦いを求めている。今すぐ踵を返して敵の一軍へと突っ込んでいけとフルティングが叫んでいる。


 ――ほら、引き返せよ。これだけの獲物はいつまた食えるか分からないぞ?


 頭の中に直接、声が響いてくる。どこかで聴いた様な、少し懐かしい声だ。

 ずきりと頭が痛んで、ミハイルの顔が少しだけ歪んだ。


 ――戦いたいだろう? 血が騒ぐだろう? それがお前の本質さ。


「……違う……黙れ……!」


 声を振り払うように、走り続ける。すぐ後ろからはこちらを追ってくる魔物の足音が聞こえてきていた。


 焦るミハイルをあざ笑うかのように、剣は語りかけ続ける。


 ――違わないさ。お前は生まれ落ちたその時から戦いの中でしか生きていけないんだ。真祖に選ばれるということはそういうことさ。


 ――お前はずっと戦ってきた。たった一人でずっと殺してきた。魔物を、人を、己を。夢も野望も希望も平和も全てかなぐり捨てて、ただ血だけを求めて。


 ――それ故にお前は、あの時からずっと……。


 黒い何かが、ミハイルの心をじわじわと蝕んでいく。


「黙れって言ってるだろう……!」


 首を振って必死に振り払おうとするが、フルティングの声は消えない。けたけたとあざ笑う声が頭全体に反響して消えない。心を蝕む何かも止まらない。


 早く行かなければならないのに、こんなところで遊んでいる時間はないのに。


 ミハイルがやらずとも、ノエルが残りの魔物は片付けてくれる。ミハイルはただ、目当ての魔物を見つけて倒せばいいだけだ。


 しかしその声は、を許さない。撃滅しろ、喰らい尽くせとミハイルに向かって繰り返し繰り返し語りかけている。まるでそうするのが自然である様に、それがミハイルにとって一番良いことであるかの様に、だ。


 それはまるで心地よい音色の様で、或いは心身を鼓舞させる歌のようで……。


 そしてミハイルの耳元で、何者かが囁く。


 ――あの時からずっと、彼女を苦しめてきたんだから。


「黙れぇえええええ!!!」


 ミハイルの中で、何かがぶちんと音を立てて切れた。


 振り返りざまに狼と巨大な蟻を薙ぎ倒し、左手で短銃を構えてこちらへと飛び掛かってきたオークの眉間を撃ち抜く。脳幹を破壊されて絶命したオークの死体とすれ違いざまにミハイルが跳躍。魔物達の群れの中に飛び込んでフルティングを振り回して暴れ回る。打ち砕き切り刻み撃ち抜き踏み潰し――フルティングに命を与える。


「黙れ黙れ黙れ……あははっ黙れって言ってるだろひひひひひっ!」


 血と肉と悲鳴の飛び交う中で乱舞しながら、ミハイルが吠える。


 ミハイルは今、完全にフルティングの支配下にあった。頭の中に響いていた声そっくりのけたけた笑いを山中に響かせながら、次から次へと湧いて出てくる魔物達を相手に思う存分殺戮を愉しんでいる。その場にいる何よりも、ミハイルは獣だった。


 立ち塞がる魔物達を身体全体を使っての回転斬りでねじ伏せ、生き残ったもの全てを順繰りに丁寧に叩き潰していく。血飛沫と肉飛沫をまき散らして容赦なく殺戮を繰り返すミハイルに、かつての面影は無かった。


 あっという間にミハイルが群れを壊滅させ、敗走する残りの魔物達を狩り始める。先程までのドライさが嘘の様に、ミハイルは笑いながら魔物達を殺していた。一匹も残さずに、肉の一つも残さない程……徹底的に鏖殺おうさつしている。


 渇望したものを手に入れた悦楽で、ミハイルの思考が蕩けた。


「ああああああ、あはあはあはあはあは、ははははははははっっっ!」


 嗤いながら、ミハイルが最後に生き残った数匹に斬りかかる。


 残り三匹、残り二匹、そして……最後の一匹。サイズの大小を問わず、生きているものは全てミハイルによってみなごろしにされていた。


 そして獲物を食い尽くした今、ミハイルがここにとどまる理由はない。


「あー……アー……ああああ……」


 低く唸りながら、フルティングをざりざりと引きずりながら、ミハイルがにたにた顔で歩く。満面の笑みは紫色の血液に塗れ、ぎらぎらと照り輝いていた。


 もはや思考は吹き飛んでいる。ただ目に付いた生き物全てを喰らい尽くすだけだ。


 野性。今の彼を表現……あるいは揶揄するのに、それ以上ぴたりと当てはまる言葉はない。人のカタチをしたケダモノが、餌を求めて山をふらふらと歩いていた。


「――――――あ」


 ふと何者かの気配を感じて、ミハイルが振り返る。すぐ後ろによく知った姿――険しい顔のノエルがいた。


「えらい楽しんでおるのう、


 ぷつんと意識が一度途絶え、すぐに戻る。


 ノエルがミハイルの腕を強く掴むと、ミハイルがはっと息を漏らしてその場に膝を着いた。忘れていた疲労感が一気に押し寄せてきて、上手く思考がまとまらない。


 額に浮かんだ汗をぬぐいながら、ミハイルがノエルの方を見る。


「…………おれ、は……」


「またフルティングにのぅ。こんな調子で狩って狩ってを繰り返していると目当ての蜘蛛を狩る前に死ぬこともありんす。久しぶりの仕事で舞い上がっておるのかもしれんが、あまり冷静さを欠かんでくりゃれ?」


「……分かっている、次からは気を付けるよ」


 フルティングを杖にしてミハイルが立ち上がり、ふらふらと歩き始める。


 ――思ったより、難儀しておるようじゃのう。


 ミハイルの数歩後ろに続きながら、ノエルがぽりぽりと頬を掻く。


 フルティングは文字通りの【命を喰らう牙】だ。持ち主に強く働きかけ、命の在処を探して食い散らかす。その衝動を飼い慣らしてそれを使いこなしてこそ一人前の使い手だが、フルティングを使い始めてまだ日が浅いミハイルはまだフルティングの持つ血肉への衝動に随分と苦労していた。


 先程ミハイルがノエルを置いて行ったのも、恐らくはフルティングの影響だろう。これだけ魔物や動物の気配のする場所で、強く影響しない筈がない。


「……ミハイル、まだやっぱりその剣は使いにくいかや?」


 ノエルの問いに、ミハイルが振り返って薄く笑う。少し疲れた顔には汗がにじんでいて、つい先ほどまでの狂戦士ぶりとは全く違う印象だった。


「本当に大丈夫だよ。ほんの少し……意識が飛んだだけだ」


 朦朧とした頭も次第に明瞭になっていて、鍛え抜かれた身体は回復も早かった。身体を包んでいた疲労感は殆ど失せている。十数分もする頃には山に入ったばかりと遜色ない程に颯爽と山道を歩いていた。


 すたすたと歩きながら、ミハイルがノエルの方を首だけで見る。


「……で、何か分かったのか」


「うん? 何がじゃ?」


「何がって……例の魔物の場所だよ。【探査】は使ったんだろう?」


 木立の方を親指で指しながらミハイルが尋ねる。


 ミハイルの近くの木立の陰に赤い霧が薄く残っている。ここへ来る最中にノエルが山中に撒いたものだ。


「おお、気づいておったかや。大分頭はすっきりしたようじゃの」


 ノエルが悪戯っぽく笑って、ミハイルの隣へと足早に移動する。


 基本的にノエルは、探索においてはあまり前に出て動こうとはしない。ミハイルがどうやってそこを切り抜けるのかを見て愉しんでいるだけだ。


「……じゃあ、探査で何を見たのか教えてくれ」


「うむ、この先をずっと進んで脇道に逸れたところにある谷底にかなり大きいのがおる。その道に出るのはここ以外にもう一つあるんじゃが――」


 一度言葉を切ってノエルがミハイルの顔を覗き込む。悪戯っぽい笑みの奥底に隠された真剣さを汲み取って、ミハイルがその足を止めた。


「そこにどうやらあの村人共が向かっておるようじゃ。使用人の娘の、何といったかや……ああ、サラじゃ。町長がサラを連れてその中に混じっておる」


「あの子が……?」


 浮浪児の男の子が「町長が連れて来た」と言っていた、使用人の女の子。


 家を出る時に見せた、サラのあの寂しげな瞳が記憶に蘇る。同時に……ノエルがジョージに言っていた、あの言葉も。


 ――ぬしら、定期的に生贄を出しとるじゃろう?――


「あの子を、生贄にするつもりなのか……?」


「この山へ登るのにわらべは必要ありんせん、そう考えるのが自然じゃろう。

 しかし解せんのは……何故今なのか、じゃな。討伐を頼んでいるなら何故わざわざ餌をやりに行く。これでは言ってることとやってることがあべこべじゃ」


 考え込むノエルの肩を、ミハイルが軽くぽんと叩く。


「今考えても仕方がない。その蜘蛛のところに行けばおのずと分かるだろ」


「……む、それもそうじゃな」


 ノエルが肩を竦めて、ミハイルの前をすたすたと歩き始める。あちこちで見られていた赤い霧は、もう随分と薄くなって殆ど見えなくなっていた。


「【探査】を使った影響で恐らくこちらが攻めてきたのは向こうにバレた。あの霧は穢れよりももっと濃いからの」


 ノエルの言葉に、ミハイルが顔をしかめる。


 ――やはり、相当強い魔物か。


 先刻ノエルが使ったのは【血呪けつじゅ】と呼ばれるノエル固有の呪術だ。身体の中の生命力を『呪い』と呼ばれる高濃度の穢れに変換し、摂取した血液を媒介として攻撃や防御、索敵を行う。霧を出して周囲の状況を探るのは【探査】と呼んでいるもので、霧の中に微量に含まれている呪いを介して感覚を共有し状況を知る事ができる。


 しかし呪いは穢れよりもさらに毒性が強い為、高位の魔物であればすぐに察知できる。そして呪いの一番濃いところが……唯一血呪を使える、他ならぬノエルの居場所だ。故に使用するのは基本的に一度きりで、それ以降は使うことはできない。


「だがまあ案ずるな、既に道は覚えておる。これは言わば宣戦布告じゃよ」


「宣戦布告……ね」

 ミハイルが不服そうに、ノエルの言葉を舌の上で転がす。

 こちらはまだその魔物のことを露ほども知らないのだ。相手がどんなものか分からないうちに戦うのは得策であると言えない。大型の魔物がどれだけ強大で、人間がどれだけあっさりと死んでしまうのか……ミハイルは誰よりも知っていた。

 しかしミハイルの前を歩くノエルに不安そうな素振りは全く見当たらない。軽やかな足取りはまるで自宅の庭でも歩いているかの様で、これから死地に向かっているなどと言った緊張感は塵ほどにもない。不老不死の怪物だからと言ってしまえばそれまでだが、少なくともミハイルだけを死なせてしまおうという風には見えなかった。

 ――まあ、ノエルがこれだけ言うんだ。きっと何か、秘策があるんだろう。

 頭を過った一抹の不安を片隅に留めたまま、ミハイルはノエルの後を追った。




 谷の近くにあるその山道は春だと言うのに冬の初めの様に寒く、歩きながらサラは小さなくしゃみを一つした。


 ミハイル達が館を出てから、サラたちはすぐに街を離れて山の中にある谷へと向かっていた。しかしその目的地を、当のサラ本人は知らないままでいる。


 町は今、忽然と消えてしまった二人の旅人を探して大騒ぎの状態だった。指定した宿屋にも二人の姿はなく、町のどこにもその影は見当たらない。だが魔物のうろつく山だけは捜索されていない。山狩りでも行おうものなら町が損をするだけだからだ。


 しかしこの道だけは違う。山の神――討伐の依頼が出ている魔物――が指定している道だけは、魔物は近寄ることができない。それがこの山の決まりだった。


「旦那様、私は……何でここに連れてこられたんですか?」


 身体を小さく震わせながら、サラが隣を歩くジョージに尋ねる。ジョージはその質問にはすぐに答えず、自分の着ていた毛皮のジャケットを脱いでサラに羽織らせた。ぶかぶかのジャケットがサラの太ももまですっぽりと覆っていて、それがおかしくてジョージは少しだけ笑った。


「山の神様に会う為だよ。お前もここに来て長い。だから正式に私達の仲間になれるよう、山の神様にお願いしに行くんだ」


「……そうですか」


 嘘だ、とサラは思った。そんなしきたりは町の誰からも聞いたことがない。


 きっと自分は何かに利用されているのだろう。自分も、そしてあの二人も。


 ――あの時旦那様は随分と怒っていたけれど、何に怒っていたんだろう。


 そう尋ねてみたかったが、尋ねることはできない。ジョージも、町の人達も、何よりサラ自身が……それを尋ねることを拒んでいた。訊いてしまえば何かが壊れてしまうような気がして、サラは肝心なその一言を発することができない。


 ジョージが立ち止まり、サラに止まるように手で指示する。


 まだ町にいた時から感じていた嫌な予感が、どうやら的中しそうだった。


「ああ、そうだ……サラ、ちょっと手を出しなさい」


「? はい、分かりました」


 言われた通りにサラが手を出すと、ジョージが懐から鉄製のナイフを取り出してサラに手渡した。ナイフは革製の鞘に入っていて、持つとずしりと重たかった。ところどころ錆びていて、それが年季の入ったものであることを物語っている。


「神様に会った時に使いなさい。使い方は追って伝える」


「……あの、旦那様。神様って何なんですか? さっきから何のことを言っているのか私さっぱりわからなくて……」


「…………………」


 ジョージは、何も答えない。着いてきた町の人間も何も答えない。


 時々憐れむような目やにやにやとした顔がちらついて、サラは俯いてぎゅっと目をつぶった。直視しているとおかしくなりそうな狂気が、霧の様に蔓延している。


「行けば分かるわよ。きっとにすぐに、ね」


 サラの後ろにいた中年の女性がサラの背中を優しく押し、一同が歩き始める。

 どれだけの間、黙って歩き続けただろうか。何かが聞こえた気がして、サラは歩く速度を遅めて耳を澄ませた。小さくではあるが確かに、何か聞こえる。


 ――London Bridge is broken down,broken down, broken down.……――


「……え?」


 ふと、サラの耳に聞き覚えのある歌が飛び込んできた。ここに連れてこられる前、よく友達と遊んでいた時に口ずさんでいた歌だ。


 そしてこの歌のルーツは何なのか……サラは知っている。


 後列にいる誰かが小さな声で歌い始め、次第にそれが前へ前へと伝播し始めた。


 暗い谷の中で、陽気な歌声が煩い程に響き渡る。誰もが笑いながら、誰もが貼りつけた笑顔でサラを見ながら、陽気に楽しそうに歌っている。繰り返し繰り返し、誰もが口ずさんだことのあるあの生贄の歌を。


 ――London Bridge is broken down,

Broken down, broken down.

London Bridge is broken down,

My fair lady……――


「嫌ぁあああああああああああああっっっっっ!!!!!」


 絶叫しながら、サラが後ろの女性を突き飛ばして脱兎の如く走り始める。


 何も考えられなかった。ただ、目に映る全てが恐ろしかった。今まで優しいと思っていた町の人達も、それまで何とも思っていなかったこの山も、全部全部怖かった。


 ――逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと……っ!


 逃げないと、殺される。幸いにして突然の出来事に皆は対応できていない。呆気にとられた人々を突き飛ばして逃げるのは、そう難しいことではない。


 走る。ただひたすらに、元来た道を駆け戻ることだけを考える。この山を抜けて、町を走り抜けて、走って走って逃げて逃げて……。


 ――逃げて、どこに行くの?


 一瞬、サラの脳裏をそんな小さな疑問がよぎる。


 それは思考という湖の水面に落ちた一滴の雫だった。そして雫は波紋となり、湖全体を静かに揺り動かしていく。


 一度始まった揺れは収まらず、堰を切った様に疑問が噴出する。


 ――私は逃げて、どこに行けばいいの?


 思考に気を取られてほんの少しだけ、サラの走る速度が遅くなる。大人たちの荒い息がすぐ傍まで迫ってきている。


 ――逃げる場所なんて、もうどこにもないのに。


 息が切れて、走るのがつらくなってくる。焼けて溶けてしまいそうな思考に連動して、過去の思い出が頭に浮かんだ。


 貧しい我が家、どこかよそよそしくなっていく友達、大金を持って家に突然やってきたジョージ、そしてジョージに手を引かれて連れて行かれる自分。


 あなたは奉公に出るのよと言った母と、お前は淫売だと罵った幼馴染。


 どんな用事があっても町を出ることは絶対に許されなかった一年間。


 その間、誰一人として……サラに手を差し伸べる者はいなかった。


 ――誰も、助けてくれないじゃない。


 サラの足が、自然と止まる。その足はもう、これ以上逃げようと動くことは無かった。ゆっくりと振り返り、追ってくる村人達の方へと力なく歩いて行く。


 息を切らしてサラの方を見ているジョージに、サラが頭を下げる。


「……ごめんなさい、旦那様。気が動転してしまって……」


「良い、分かった上で戻ってきたのなら何も問題はないわい……。さあ、行こうか」


「…………はい」


 サラの返事にジョージが満足そうに頷き、逃げられないようにサラの手を握る。


 再びサラとジョージを囲む様にして町人達が列を組み、谷の方へと歩き始めた。


 歌を歌い、あるいは憐憫の眼差しを向けながら、サラを谷底へと連れて行く。


「後はあの二人を神様……アラクネ様に喰ろうて貰うだけじゃ。何としても見つけ出して、にしてしまわねばなるまい……」


 歌声はさらに大きくなり、歩く速度はどんどん早くなっていく。


 ――London Bridge is broken down,

Broken down, broken down.

London Bridge is broken down,

My fair lady……――


 それは未来の死者を弔うための、明るく哀しい葬列だった。

 


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