第一話 魔物狩り

 王国の東にある山岳地帯は、春になると木々や草花が一斉に芽吹いて鮮やかに色づく。若々しい草木を見ればまだ寒い空気も少しだけ温かく感じられる程だ。


 北の方はまだ雪が解けていないが、比較的温暖な東から南にかけては既に雪解けは終わりそろそろ初夏の風が吹き始めるころである。


 遠くでは羊飼いの笛の音が響き、時折まだ少しだけ冷たい風が吹き抜ける。一見すれば何も悩みの種などこの世界に存在しないのではないかと疑ってしまう程、その風景は牧歌的で平和そのものだった。まるで世界から切り取られたかのように、そこだけがあまりにも眩しい。


 見渡す限り緑ばかりの平野にぽつんと立った広葉樹に、一つの人影がある。


 眩しい春の日差しを浴びながら、一人の青年が木陰に腰かけて眠っていた。


 まだ二十代後半と見える精悍で若々しい顔立ちと、革製の胸当てを付けた服の上からでも分かる筋骨隆々とした傷跡だらけの身体。脇には長大な、獣のあぎとの様な異形の剣を置いている。手入れのされていない少し荒れた白い髪が、春風に吹かれてさらさらと揺れていた。


 青年の名はミハイル。王国を旅する一人の戦士だ。


 異形の大剣以外にも、ミハイルはナイフや短銃、手斧や火薬の類をその身に携えている。まるで一人で戦争でも始めようとしているかのような重装備ぶりだ。


 革と鉄でできた胸当てを付けたシャツの下には帷子かたびらの様な細い金属で編まれたものが着込まれており、膝当てやブーツの金属部分にも無数の傷がある。彼が幾つもの死地を切り抜けながらこの世界を渡り歩いてきたのは、誰が見ても想像に難くなかった。


 さながら眠れる獅子。不用心な人間が近づけば一瞬で食い殺されてしまいそうな風格がミハイルからは漂っている。


 そしてそんな眠っているミハイルに、一人の女性が音も無く近づいていた。


 女性は美しい紫紺の髪と翡翠の瞳を煌めかせ、ビスクドールの様に華奢で滑らかな肌の、すらっとした肢体を赤いワンピースで包んでいる。まるで絵画の世界から抜け出して来たかの様に、綻び一つないその容姿は余りに完璧で現実離れしていた。



「おお、寝ておる寝ておる。不用心な奴じゃの全く……」


 愉しそうに、歌う様に女性が呟きながら、ミハイルの様へと静かに歩み寄る。気配や足音は全く無く、ミハイルが気づいている様子はない。


 ちょうど二歩程手前まで近づいて、女性がミハイルに声を掛けた。



「いつまで寝ておるんじゃ、ミハイル」


「――――っ」



 ばっ、とミハイルが目を覚まし、腰に差してあった短銃を引き抜いて女性に向ける。引き金にはしっかりと指が掛かっていた。


 しかし女性は驚いた素振りを見せず、喉の辺りに突き付けられた銃口を見つめながらただニコニコと笑っている。



「何だ……ノエルか」



 まだ少しぼんやりとしている様子でミハイルが女性を見つめ、銃を降ろした。ふふんと女性が得意そうに鼻を鳴らす。



「誰かと思ってびっくりしたじゃないか……脅かすなよ」



 ぼやきながらミハイルが短銃を腰のベルトに戻し、剣を掴んで立ち上がる。ノエルは終始にやにやとした表情でその一部始終を見ていた。



「わっちがこんな近くに来るまで気付かないなんてぬしもまだまだよの。わっちじゃなくて魔物だったら今頃腹の中じゃ」



 けらけらとノエルが笑い、ミハイルが少しだけ不機嫌そうな顔をする。



「……例の街に向かおう。約束の時間は今日の四時だ」




 剣を胸当てに縫い込んである磁石で固定すると、ノエルの方を一瞥してミハイルはすたすたと歩き始めた。くすくすと笑い続けながらノエルが後ろに続く。


 二人は今、魔物を狩る為の旅をしている。そして今、ある町から依頼を受けて、その近くの山に巣食う大型の魔物を討伐する為に町へと向かっていた。


 現在、王国には――否、王国だけではなくこの世界の全てには、魔物と呼ばれる怪物が居る。


 この世界は遠い昔から、違う世界――魔界と繋がっている。そして魔界から来る異形の怪物、通称【魔物】は、古くから人を喰らい町や田畑を蹂躙し毒してきた。現在も魔物たちはこの国の至ところに点在していて、軍隊や正規討伐隊がその駆除に当たっているもののあまりあてにならないのが現状である。


 勿論軍隊が弱いのではなく、魔物が強い上にその母数が多いのだ。大型のものであると一体一体が一個中隊で掛からなければ対処できない上に、その数は千とも万とも言われていてはっきりとしない。広大な国土を持つ王国を、軍隊も縦横無尽に駆けまわることはできないのだ。一度の遠征でも途方もない費用が掛かってしまう。


 魔物を駆逐するには、組織よりも大きな力が必要になる。国庫の金を使わずに倒してくれる人間が沢山必要だ。そして何より、魔物の殲滅は全人類の共通の目的である。


 つまり魔物討伐において最も向いているのは、軍ではなく民間人なのだ。正規の戦闘訓練、あるいはそれに匹敵する訓練を受けた人間はごまんといる。それらの人間に任せてしまった方が何かと効率が良い、というのが初代の巫女が授かった神託だった。


 そして魔物を狩ることを生業としている人間は、昔から存在している。魔物を殺すエキスパートである魔物狩りと呼ばれる人々は、今や王国の拠り所の一つとなっており、最高位の魔物狩りは討伐隊を束ねる騎士長や神託を授かる巫女と並んでこの国の重要なポストの一つとして認定されていた。


 殺し殺される修羅の世界を、明るみに出ることなくひっそりと駆ける。その暗闇の世界に、ミハイルは幼い頃から身を投じていた。ノエルと出会い共に旅をする様になったのには少々込み入った事情があるのだが、それはまた別の話である。



「しっかりしてくりゃれミハイル。春の陽気にてられて気が抜けて死ぬなんて笑い話にもなりんせん。寓話のネタが関の山じゃ」



 ミハイルは、何も答えない。彼が自分の発言で露骨に機嫌を悪くしていることに、ノエルはそこでようやく気が付いた。


 不安そうな声色で、ノエルがミハイルに問う。



「ぬし、怒ったかや?」


「……別に」


「これ以上責めはせんよ、春の暖かさは野性を鈍らす。ぬしだけではありんせん」


「あんたが言うと言葉の重みが違うな」



 ぶっきらぼうにミハイルが返す。その返事にノエルはわざとらしく肩をすくめてみせた後、また先程と同じ笑顔に戻ってミハイルの隣に早足で移動した。



「まあそう怒らんでくりゃれ。わっちはぬしのそういう少し抜けたところも可愛くて好きじゃ。人間はそういう雑味がある方が可愛げがあって良い」



 ノエルが眩しそうに目を細めながら、太陽の光を手で遮る。


 ちりちりと焦げる様な微かな痛みが、ノエルの肌を突き刺していた。



「……ミハイル、少し急いで貰っても良いかや? 眩しくて敵わん」


「はいはい……やっぱり今でも昼間はキツいのか?」


「うむ、何せわっちは――」



 ノエルがミハイルの背にもたれ掛かり、耳元でささやく。



「世界でただ一人の純粋な吸血鬼、真祖じゃからな」



 ――真祖、ね。


 少しだけ、ミハイルが苦い顔をする。


 真祖。最古にして唯一のオリジナルである吸血鬼の原点。陽の光でも灰にならず、十字架や聖水の類も効かない不老不死の存在。それが彼女ノエルだ。


 ミハイルは数年前にノエルと出会い、とある理由から彼女に魅入られた。それは彼自身ではどうすることもできない理由であり、ノエルを何よりも喜ばせるものである。



「からかったのは謝るが、心配しておるのは本当じゃ。ぬしに死なれるとわっちは辛い」


「かなり自分勝手な理由ではあるけどな。今でも本当に理不尽だと思うよ」


「わはは。その代わりぬしを助けてやるのがわっちとの契約じゃろうに。世界最高の相棒をぬしは連れ回しとるんじゃぞ?」


「吹いたな、死んだら地獄で恨んでやる」


「おお、その代わり死ねたらじゃがな」



 二人が同時に笑い、平原の彼方へと走り始める。


 彼方の山のふもとにうっすらと見えるのが今回の目的地の街だ。そしてこの街を見下ろす山に――その魔物はいる。




 春だというのにその街には全くと言っていい程に活気がなく、人の往来さえも無かった。どの家も戸と窓をしっかりと閉め、時折こちらをちらっと覗いている。


 実に殺風景な、いるだけで気分の悪くなるような閉鎖的な空間がそこにはあった。山のふもとにあるので陽光も見えず、どこか薄暗い。



「嫌な雰囲気の場所じゃの。辛気臭いのはあまり好かん」


「俺だって好きじゃねえよ。静かな場所は好きだけどな」



 誰に道を尋ねるでもなく、二人はずかずかと町の中を進んでいく。人に訊かずともこの手合いの街の構造は非常に分かり易かった。


 ぐねぐねと路地を曲がって大通りに出て、あとは一直線に進むだけ。すると自然と一軒の建物が見えるのだ。


 街の最奥に、一際大きな屋敷が立っている。それが今回の依頼主である町長の屋敷である。



「……いつも思うが、どんな町でも長の家はデカいのう。同じところに住んでいてもそんなに変わるのかえ?」


「税の仕組みの都合上、上の人間は自然と豊かになる様に出来ているからな。この辺りの税率だと、取れた作物の三割は税として徴収されるがその内一割は長に納める分だ。残りの二割はこの地方の領主に納められ、集まった作物を貨幣に替えて一定の金額が王族に献上される仕組みになっている。長はその一割を市場で貨幣に替えて蓄えるんだ」


「ほうほう、それでその穀物は最終的にどこへ行くのかや?」


「飢饉が発生した時まで蓄えこんで法外な値で売る奴もいるが、大抵は軍に兵糧として売られるな。軍がいつでも動けるのは安定した供給があるからさ」



 ふうん、とノエルが考え込む。ミハイルの言っていることに嘘は一つも無かった。


 上に行けば行くほど得をするシステムが、この王国を回している歯車の実態だ。その上領主が納める金額はどんな不作の時でも一定の為、数年に一度はどこかで必ず飢饉が発生する。

 だがそれでも、誰も王国のやり方に異を唱える者はいない。王国のやり方に沿っていれば、少なくとも飢えるだけで済むのだから。軍や正規討伐隊がなくなり魔物に食い尽くされることを考えれば、誰も王国そのものを変えてしまおうとは考えないのである。


 需要と供給は一致しており、歪ではあるが完成されてしまっている。それが現状だ。


「さて……人の家の前で長々と話すのも何だし、そろそろ仕事の時間としよう」


 ドアに付いた金属製のノッカーでミハイルがドアを叩くと、中から一人の痩せた女性が出てきた。歳は十代だろうか、あまり手入れのされていない赤毛と虚ろな瞳がきれいに仕立てられた服と驚く程似合っていない。恐らく町長の身の回りの世話をする為に雇われた使用人サーヴァントだろう。


「…………どなたですか?」


「俺はミハイル、こっちはノエルだ。魔物狩りが来たとだけ町長に伝えてくれればそれでいい」


「……分かりました。玄関で少々お待ちくださいませ」


 使用人は広間を早足で通り過ぎ、奥へと引っ込んでしまった。残された二人を、言えに使われている古木の薫りが包む。



「良い木を使っておるな、この家は」壁をぺたぺたと触りながらノエルが呟く。


「見ればわかるよ。……それよりノエル、依頼の通りにこの近くに魔物はいそうか?」



 ミハイルの質問にノエルが黙り込み、ドアを開けてすんすんと匂いを嗅ぐ。



「んん、そうじゃな。おるかどうかと言われれば……間違いなく。山の方から濃い穢れの匂いがするわい。これはかなりの大物じゃな」


 ノエルの言葉で、ミハイルの顔がさっと険しいものになる。


 魔物は【穢れ】と呼ばれる毒素を身体にもっており、大地や生き物には害となる。穢れが含まれるのは主に唾液や血液などの体液で、穢れ自体は人間には無臭に感じる。しかし真祖であるノエルは人間を超越する嗅覚と感知能力を持っている為、これをかぎ分けることができるのだ。


「ううむ、しかし妙じゃの。山から生き物の匂いがするんじゃが、こんな山間にいる魔物が獣抜きでそこまで大きくなるとは考えられん。獣を入れても餌が足りん」


「……どういうことだ?」



 怪訝な顔でミハイルが尋ねる。


 魔物は他の動物を喰らうことでその細胞を取り込んで成長する。人の多い場所や死体の多い古戦場の近くでは大型の魔物が観測されるものの、確かにこんな山の中で大型の魔物が観測されるというのはあまり聞かない話だ。



「肉も血も獣ではまるで足りん。量ではなく質の話じゃ。良質な魂の残滓がなければわっちも魔物も強くはなれん、つまり――」



 そこでノエルが言葉を切り、ミハイルに目配せした。


 一拍遅れて使用人と厚手の皮袋を持った町長と思しき太った老人が現れ、ミハイル達の方を見て軽く会釈した。



「おお、これはこれは。遠路はるばるよくぞ来てくれなすった。ささ、どうぞお掛け下さい」

「……お言葉に甘えさせて頂きます」


 町長に案内されるまま二人が長椅子に腰かけ、向かい側の椅子に町長が腰かける。使用人はそれを確認するとどこかへと消えて行ってしまった。


「自己紹介が遅れましたが、私はこの町の町長を務めておりますジョージという者です。ご存じかとは思いますが――」


 ジョージが皮袋を机に置く。ごとりという重い音に混じってじゃらじゃらと硬貨の動く音がした。


「【ミツバチ】を仲介した手紙でお伝えした通り、我々は貴方達に魔物の討伐を依頼します。報酬は全部で金貨八枚と銀貨三十枚。前金で金貨五枚、達成を確認した後に残りをお支払いします」


 貴方達はどこのギルドに属していないので探すのが骨でしたよ、とジョージが苦笑し、袋の中から金貨を取り出してミハイルに渡した。


 常に多大な危険が伴う以上、魔物狩りと言えど徒党を組まなければならない。その組織こそがギルドで、政府から正規の魔物狩りとして認められるにはギルドに属していなければならない。彼らに依頼を届ける人間達【ミツバチ】は、通常であればギルド以外には依頼の手紙を届けない。それでも二人の下に手紙が届くのは、その良し悪しはさておきひとえに二人が行く先々で人に知られる有名人だからに他ならない。


「生憎と首輪に鎖付きの身分は性に合わなくての。わっちはこいつとふらふらしておる方がよほど性に合っとる」


 ふんとノエルが不機嫌そうに鼻を鳴らして、ジョージが訝しげにノエルを見つめる。二人が暫し睨みあい、見兼ねたミハイルが間に入った。


 ――どうにも嫌な雰囲気だな。


 ノエルを椅子に深く腰掛けさせ、ミハイルが町長の方へと身を乗り出す。ノエルが言いかけた様に、この町長が何かを隠しているのは明白だった。


「話を元に戻しましょう。その魔物というのは何ですか?」


「……神様ですよ。私が生まれる前からあの土地で祀られている、大きな蜘蛛の魔物です。人語を話し、山の奥にある開けた場所を巣にしています」


 ジョージの額に汗が浮かび、目線があちこちを彷徨う。見るからに挙動不審なその態度を、二人は見逃さない。


「討伐隊には依頼したのですか?」


「はい、領主様に相談して何度か小隊を送っては貰いましたが、どれも全滅です。それであなた達の噂を聞き、貴方達なら何とかなるのではないかと」


「……買い被りですよ。魔物について他に何か知っていることはありますか?」


「いえ、それ以上は私にも分かりません。あの魔物がどこから来て、どんなものなのか、私には何も……」


「自分から餌を与えて育てておいてか?」


「な……っ!」


 ミハイルが目を見開いて呆気にとられ、今度はノエルがミハイルを座り直させた。


 う、とジョージが呻き、ノエルが身を乗り出す。



「ど、どうしてそれを……」


「ぬしら、決まった時期に生贄を出しとるじゃろう。あの山は穢れの多い割に命の匂いは濃い、となるとどこかから餌が入るから魔物が獣を襲わないと考えれば自明じゃろうて。それに獣では大きくならん、人間の……とりわけ若い女の肉か屈強な男の血が良く選ばれるじゃろうな。女の肉からは知性を、男の血からは力を得られる。奴らの好物じゃ」


「おいノエル、依頼主への詮索はするなといつも――」



 ミハイルの静止も、ノエルの耳には届かない。


 ノエルにはおよそ気遣いという概念が無いので、こういった立ち入りづらい話題にもずかずかと踏み込んでいく。ミハイルはノエルのこの姿勢にいつも胃を痛めていた。


 ――どうしてそう、いつも空気が読めないんだこいつは。


 なおも話し続けるノエルに、ミハイルは嘆息せざるを得なかった。



「何が目的かえ? 軍に要請して大規模な討伐隊を出さないということは本気で討伐する気はなかろう。罪人の処刑か、伝統か、それとも……」


「それ以上喋るな小娘!」



 怒鳴ったジョージの額から汗が噴き出し、握られた拳がぶるぶると震える。


 その顔は怒りに満ちており、獰猛な無物の様だ。ミハイルの顔が、すっと冷たいものに変わる。



「お前達に……よそ者のお前達に何が分かる! は到底私達の手に負えるものではない! やつを怒らせずに生きていく為には誰かが犠牲になるしかなかったんじゃ!」


 だん、とジョージが机を叩き、その音に驚いた使用人が持ってきたティーセットを落とした。磁器の割れる甲高い音が響き、ジョージがはっと我に返る。



「も、申し訳ありません旦那様!」


 使用人が慌てて破片を拾い、指を切って手を跳ね上げる。赤い血が一本の線を引き、ノエルがごくりと生唾を呑み込んだ。


 真祖の鼻は良い。人間には鉄錆の匂いとしか感じられないその匂いも、ノエルにはさながら上等な葡萄酒の様に感じられるのだろう。



「大丈夫か、サラ。怪我は無いか?」ジョージが立ち上がり、サラと呼んだ女性の方へと近寄る。


「ええ……ですがティーセットが……」


「そんなものはまた買い直せば良いだけの話だ。さあ、向こうに行って手当てをしよう」



 首だけを捻ってミハイル達の方を見て、ジョージが口を開く。その目には爛々と怒りの炎が燃え盛っており、憎悪に満ちている。



「すみませんが、ここからお引き取り願えますかな? 期間は遅くて二日いっぱい、それを過ぎれば残りの報酬は出しません。街の外れの宿屋の一室を貸切にしていますので、今日はそちらでお休みください」


「承知しました。それではこれで」


「ええ、神の御加護が貴方達にあらんことを」



 忌々しげにジョージが吐き捨て、サラと共に広間を出て行く。扉が閉まる一瞬、サラが少しだけ寂しそうな顔をしていたのがミハイルの胸に引っ掛かった。


 サラが零した紅茶の匂いだけが、彼らがここにいたことを証明している。




 玄関の扉を開けても、外は相変わらず閑散としていた。まるで村全てが二人を拒んでいるかのように、固く扉を閉ざしている。


 町長の家を出るとすぐに、ミハイルは宿屋ではなく山の方へとまっすぐに向かい始めた。ノエルがそれに続き、二人が町を静かに横切っていく。


 じっとりと粘りつくような嫌な予感が、ミハイルの背中に張り付いていた。この町にいてはいけないと、彼の本能が全力で告げている。



「宿には向かわない。一刻も早くここを離れるぞ」


「奇遇じゃな、わっちもそう思っておったところじゃ。これだけ妙な雰囲気の場所で宿を取るなんて自殺行為も良いところ、十中八九罠じゃ」


「……しかし、何故魔物を討伐する俺達を連中が罠にかけるかが分からないな。どうしてだと思う?」


「どこにでも人を騙して得をする奴はいるってことじゃよ、例えこんな世の中でも、の」



 ノエルが意味ありげに笑い、ミハイルが小首をかしげる。


 その時、細い路地の陰から一人の男の子がひょこっと顔を出した。汚れた服や肌を見る限り、あまり裕福な家庭に住んでいる様には見えない。近くからは村人が食べ残しを捨てるゴミ捨て場のすえた臭いが漂っており、彼がそこでゴミを漁っていたのは容易に想像できた。


「……お兄ちゃん達、知ってるだよ。村の大人たちが話すしてたんだ、近いうちにこの村に魔物狩りさ来るって」


 ひどく鈍りのきつい舌足らずな言葉で、少年が話す。少年はにこっと笑うと、そっと路地から出てきて二人の前を歩き始めた。


 無言で歩かれるのも何だか落ち着かなかったので、ミハイルが少年に話しかける。


「お前、この村の人間だろ? 何か知ってるか?」


「ううん、オラはこん村でゴミ漁ってるだけ。親もいねえし口止めもされるしてないだ」


「この村はわっちらに何をするつもりじゃ?」


 さあ、と少年が答えて、ノエルを見ながら肩を竦めた。


「でもここん町長、よく余所から人さ連れてくるだよ。家で働いてるサラって奴も余所から買われてきた孤児だって村ん女どもが噂してただ」


「ふぅん……道理であの家とは不似合な訳だ。連れてこられた人はどうなってる?」


 ミハイルの問いに、少年がクビを横に振る。


「いんや知らん。夜に酒ば呑んで朝にはおらんようなっとるだよ。帰ってるじゃないか?」


 ――なるほど、そういうことか。


 何となく、嫌な予感が的中した様な気がした。そしてノエルの言っていたことも朧げながら辻褄が合った。


 この町は狂っている。それが少年の言葉からミハイルの感じた第一印象だった。



「……ありがとう、君のお陰で色々と分かったよ。少ないけどお礼だ、取ってくれ」


 ミハイルが腰に提げていた皮袋から硬貨を三枚取り出し、少年に握らせる。それらが全て銀貨であると分かった時、少年の目が今までに見たことがない程に輝いた。


「これくれるのか? お兄ちゃん達良い奴だな! また何か訊きたくなったら呼ぶしてくれよな!」


 ぶんぶんと手を大きく振りながら、少年が元いた路地の方へと駆けていく。少年の姿が消えた時、ノエルが大きなため息を吐いた。


「浮浪児に銀貨三枚もくれてやるとはぬしもつくづくお人好しじゃの。今の相場ならナイフが一本買えるから刺されて身ぐるみ剥がれるとは思わんのか」


「情報への対価だよ。あの金をどう使うかはあのガキ次第さ」


 ぶっきらぼうにミハイルが返し、山へ向かって走り始めた。


「全く……甘っちょろい奴じゃの。まあそこが面白いんじゃが」


 遠くなっていくミハイルの影を目で追いながら、ノエルがゆっくりとそれに続く。



 山は、街の雰囲気を数倍悪くしたように薄気味悪いものだった。匂い立つ若葉や花はそこには無く、濃く暗い緑の針葉樹だけが天を覆っている。土は荒れていて、所々地中から木の根や石が剥き出しになっていた。


 獣の気配は微かにしか感じられない。数が少ないのではなく他の気配が強すぎるのだ。よく見知った気配――魔物のそれである。そして魔物の気配は、ミハイルのすぐ近くにまで来ていた。


 ここまで穢れが強い場所に来れば、人間であるミハイルでも魔物の存在は感じられる。これまでの生涯で鍛え抜かれた五感が、ぴりぴりと張り詰められていた。


 町長からはその魔物がどこにいるかは教えて貰えなかった。なので今回は自分で探さなければならない。魔物が跋扈するこの森の中をしらみ潰しに、だ。


「――――――」


 何かの視線を感じて、ミハイルが異形の長剣の柄に手を掛ける。


 ――早く出てこい、早く出てきて俺と戦え。


 ミハイルの口元が、ほんの少しだけ緩む。


 がさ、と遠くで物音がして、さささささ、とミハイルの周りを何物かが動き回った。かなり俊敏な動作で、恐らく複数体いる。逃げようにも完全に包囲されているようで逃げることはできない様だった。


 ミハイルが長剣を抜き、正眼に構える。その目は殺意で真っ黒だ。


「……来い」


 その声と同時に、木陰からミハイルの身長程もある大きな狼が出てきてミハイルに飛び掛かった。その目は赤黒く濁っており、毛皮は真黒である。それは動物ではなく、狼の形をした小型の魔物だった。


 山岳地帯ではよく見られる、そして山における死因において最も多いのがこの狼の襲撃だ。迅く獰猛で残忍なこの狼は、一人の時に山で出会えば必ず逃げる様、軍では教えられる。必ず少数の群れで狩りを行うからだ。


 涎を垂らしながら咢を開き、狼がミハイルの喉笛へと迫る。だがミハイルの目に、動揺は見られない。


「しっ!」


 二メートル近くあるものを振るったとは思えない速度でミハイルが長剣を振るい、巨大な牙の乱立する咢が狼の身体の右半分を消し飛ばす。それは斬るというよりも叩き潰すと言った方が正しいような、出鱈目な破壊力だった。


 更にもう一体出てきた狼の頭蓋を叩き潰し、木立の陰に隠れていた二体の狼を樹の幹ごと薙ぎ倒す。文字通りの一瞬で、四匹の魔物をミハイルは倒した。


 ミハイルは、笑っていた。狼をその剣で叩き潰した時、魔物の命を砕き壊す感触をその両手で感じた時、噴き出す血を見た時、ミハイルは笑っていた。


 更に一体の狼を叩き潰して、ミハイルが反対側の繁みの方を見つめる。五体の狼を殺している最中、確かに何か動くものが彼の視界に映っていた。


 長剣をずるずると引きずりながら、ミハイルが道を横切って繁みへと近づく。血に塗れた刀身に血が吸われ、牙が怪しく輝いた。


「……まだいるんだろ? もっと……もっと俺を……」


 にい、とミハイルが禍々しい笑みを浮かべる。


 見えないほど遠くから、何かが木々を薙ぎ倒しながら突き進んでくる。


 ミハイルの全身が歓喜で粟立ち、剣を構える手に力がこもった。


「もっと俺を愉しませろ!」


 心底嬉しそうにミハイルが叫び、その魔物が現れた。


《オオオオオオオッッッッ!!!!!》


 二・五メートルはあろうかという巨大なトロールが姿を現し、突進力を利用してミハイルへと殴り掛かる。しかし、馬車程度であれば粉々にしてしまうその突きですら、ミハイルを満足させることはできない。


 ――遅すぎるな。


 一発目からの二発目、一拍置いてからの三発目と四発目。一発でも当たれば即死なのにも関わらず、ミハイルの顔から笑みは消えない。


 彼は今、その場の何よりも……命のやり取りに愉悦を感じていた。


 軽やかな足捌きでトロールの突きを全て紙一重で躱し、ミハイルが三歩分後ろへと飛び退く。間合いは充分。居合の様に長剣を腰だめに構え、一気に振り抜く。


 一斬必殺。剣の中心がトロールの腰を捉え、牙が分厚い脂肪に包まれたトロールの腹を食い千切る。勢いの充分乗った斬撃はその丸太の様な背骨すら断ち、両断され下半身と分かたれたトロールの上半身が宙を舞った。


 辺りが静かになり、遅れて落ちてきたトロールの半身が力なく地に叩き付けられる。ミハイルの顔からは再び、笑みが消えていた。


 全身の血を沸き立たせる戦いの熱は、思いのほかすぐに冷めてしまった。深いため息を吐いてつまらなさそうにミハイルが剣についた血を振り落し、再び元に戻す。


 ただ、戦いたかった。血湧き肉躍る死闘だけを、彼は渇望していた。


「……お前は楽しませてくれよ、蜘蛛の魔物とやら」


 微かに見える頂を睨みながら、ミハイルが低い声で呟いた。

 

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