Scarlet -スカーレット-
楪葉奏
プロローグ 彼岸花の咲く丘で
「どうして……こんなことになってしまったんだろうな」
口から血の泡を吐き出しながら、青年が呟く。傷だらけの身体からは絶え間無く血が流れており、今にも降り出しそうな黒い曇天の空と血の赤がよく似合っていた。
血と殺戮は晴れた日にはあまりに似合わない。そういう意味では青年は、この日が曇りであったことをほんの少し嬉しく思えた。
青年は、もう動けない。もう戦えない。
壁にもたれ掛かり座り込んだ青年には、傍らに落ちた異形の長剣を掴む力はおろか立ち上がる力すらも残っていなかった。
鉄塊に巨獣の牙を直接生やして
だが、その剣が化け物の血を吸うことは恐らくもうないだろう。
青年は、今まさにその生涯を終えようとしていたからだ。
辺り一面は真っ赤な彼岸花が咲いており、青年の血を吸ってより赤くなっている。青年のシャツの腹の辺りは破れ、温かい血液が水たまりを作っていた。
あまりにも明確で疑いようのない、致命傷。助かるはずもない。
青年の命は、もう幾ばくも無いだろう。血は彼の命そのもので、体温そのものだった。やがて青年は死に、彼岸花の咲くこの丘の一部になるだろう。
朦朧とする意識の中で、凛とした声が青年の耳に届く。
「わっちにも分かりんせんよ。じゃが……こうするしかないんじゃ」
涙を流しながら、一匹の怪物が青年に近付く。無表情のまま涙を流す真っ赤な瞳と白い髪。背中から生えた蝙蝠の様な漆黒の翼、口を開くたびに覗く二本の牙と左手に生えた五本の長い爪、そして身体を覆う呪詛の紋様は紛れもない化け物そのものだった。この世のものとは思えない程に美しい怪物が、青年の命を求めている。
二人はほんの少し前まで、共に旅をしていた。
青年は、化け物の事を誰よりも知っていた。化け物もまた、彼の事を誰よりも知っていた。お互いがお互いのことだけを考え思っていた。
それ故に――二人は今、この彼岸花の咲く丘にいる。二人を取り巻く全ての事柄に、今終止符が打たれようとしていた。
怪物がこちらへと歩み寄るのを霞む視界で確認しながら、青年が唇を動かす。
「ああ……綺麗な場所だ。ここでなら、死んでも……悪くない」
化け物は何も言わないまま青年へと近づき、屈み込んだ。首筋をなぞり、顔を撫でて、五指で丁寧に血に濡れた髪を梳く。
優雅な仕草はそれだけで一枚の絵の様になっていて、現実離れしている。
慈しむ様な所作だが、そこには絶対に青年の命を奪えるという確固たる余裕があった。肉食動物が獲物を甚振るように、ゆっくりゆっくりと髪を梳いている。
振り払うこともままならないまま、青年が怪物に嘆願する。
「殺……せ……」
声の限りに叫ぼうとするも、血の泡が喉を塞いで上手く話せない。
「こんなことになっても、ぬしはわっちの特別じゃ。それは変わらん」
怪物が青年の口元に付いた血液を拭い、舐め取る。甘美で芳醇な血液の味は一瞬で怪物の舌を蕩かせ、渇きを満たした。
だが、渇きを満たせても心は満たせない。血を舐めれば舐める程――怪物の心はきりきりと痛んだ。怪物はそれが悲しくて涙を流していたのだ。
怪物にとって、青年は何よりも特別な存在だった。掛け替えなど他の何物でも出来ないほどに特別だった。
故に、殺さなければならない。青年を殺さねば、青年のこれまでの人生を否定することになってしまう。迷っている時間は、ここに来た時点でもう与えられていなかった。
怪物が髪を梳く手を止め、立ち上がる。
「許してくりゃれ……とは言わん。ぬしはわっちを恨んでもええ。それが当たり前の人間の感情じゃ。わっちはぬしになら恨まれても構わん」
怪物が右手を広げると、手首から深紅の血が流れ出て一振りの剣へと姿を変える。
ぴたりと刃を当てるとそれは紛れもない鋭利な刃物で、皮膚に当てるだけで青年の皮が薄く切れた。金属では為し得ない、呪いの切れ味だ。
ぽつ、と雨滴が二人の肩を叩き、瞬く間に豪雨となって世界を濡らした。
雨は二人の身体に着いた血を洗い流し、冷たく清めていく。
「のぅ、ミハイル」
悲しげな表情で、怪物が青年の名を呼ぶ。その声はとても無機質だ。
「のぅ、ミハイル。ぬしは……わっちと共にいて、幸せだったかや?」
あまりにも切ない、ただ一つだけの問い。
答えを聞けばすぐに命を絶てるよう、怪物が剣を振りかざす。振り下ろせば青年のうなじまで一直線に剣は届き、確実に青年――ミハイルの生涯に幕を降ろす。
最期の言葉を、怪物に伝えなければならない。
――俺は……。
「おれ、は……お前と……一緒に、いられて……」
雨風の吹き荒ぶ中、彼岸花が揺れている。雨の冷たさは加速度的にミハイルの命を削り、残された時間を捥ぎ取っていく。
薄れゆく意識の中で、ミハイルは懸命に唇を動かす。
ミハイルの返答を、怪物は何も返答せず黙って聞いていた。
長い時間を掛けて、ミハイルは最期の言葉を怪物へと伝えきった。
返答し終わったミハイルが、笑って怪物を見上げる。その顔は未練など欠片もなく、晴れ晴れとした……それでいて少し諦めた様な、そんな疲れた表情だった。
「終わりだ……殺れよ、ノエル」
最後まで唇を動かし終わったミハイルを見て、怪物――ノエルは薄く微笑んだ。
その全てを隠す様に雨はその勢いを増し、いつ果てることもなく降り続く。
二人以外にその結末を知るのは、そこに咲く彼岸花達と涙を流し続ける空だけである。
雨に濡れた彼岸花はより鮮やかな色となり、まるで血河の様だった。
それはいつか、二人を引き裂く血塗られた旅。
誰にも知られず歴史に残ることもない、二人の紅い血の物語である。
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