エピローグ

 一九三一年九月十九日夕方。

「小龍(シャオロン)!」

 四馬路の新聞社街の建物からでてきた青年に、ひとりの中年婦人が黒い旗袍から腕をのばして追いかけ、呼びかけた。

「ねえシャオロン、ねえって」

 青年記者は無反応だ。いかつい背をむけたまま、前かがみで歩き、通りすぎようとした。はじめは無視しているのかと疑ったが、ほんとうにきこえていないらしい。だからスーツの上からやさしく叩いてみたが、筋肉が厚いせいか、それさえも気づいてもらえなかった。しかたなく、こぶしですこし強めに突くようにしたら、やっと気づいてもらえた。

ふりかえった青年をみて婦人は意外な顔をした。思ったより元気そうだったからだ。ただ青年の表情は冴えない。深い物思いに沈んだ顔をしている。

「ひさしぶりね」

 婦人はいった。青年はいつかのように作り笑いはうかべず、

「呉太太」

 なつかしそうにいった。呉太太はそれよりも心を占めていることがあるらしく、いきなりいった。

「ねえ、たいへんなことがおきたわね。昨夜日本が奉天を攻撃したって」

「ごぞんじですか」

「だって主人が各国大使とつきあいがあるから情報が入るのよ。奉天、日本軍に占領されたんでしょう? 死者もいっぱいでてすごいことになってるって。中国軍はいまのところ不抵抗の方針みたいだけど、戦争になる可能性だってあるでしょう」

「ええ、それで僕もちょっと焦ってるんで、いまから用足しにむかうところです」

「さっきそこの建物からでてきたけど、小龍、記者に復帰したの?」

「いえ、そういうわけでもないんですが。――呉太太こそ、ここにはどうして」

「私はそこの天主堂(教会)に行った帰り」

 キリスト教徒の呉太太はいった。その目は赤く、泣き腫らしたようなあとがある。龍平は遠慮がちにいった。

「――調子、どうですか?」

 呉太太は四か月前に長女の麗生を失った。そのため以前とは別人のようだった。小肥りだった体はやつれ、顔には皺がたたまれている。おしゃれだったのに化粧も衣装もありきたりになり、自慢のアクセサリーはひとつも身につけていない。目に力はなく、ぬけがらのようだ。日々を満喫していたころの面影はどこにもない。

「ええ、なんとか、おかげさまでね・・・・・・」

 時間がたっても悲しみの深さはすこしも変わらなかったが、呉太太はいった。

「小龍こそ、傷は、だいじょぶなの? ミス上海をきめる会場で撃たれたってきいたわ」

「もう平気です。あれから六日もたちましたし」

「たった六日でしょ。なにもなかったみたいに体を動かしてるけど」

「もともと、かすり傷程度でしたから」

 ウソだった。弾丸は急所でこそなかったが、体内に深くくいこんだ。だが傷は一日もたたないうちに治癒し、傷痕まできれいに消えている。あの日みなが病院につれていこうとするのを思いとどまらせ、あやしまれないようにするのに苦労した。龍平を助けたものがなにか、人に知らせるわけにはいかなかった。

龍平を助けたのは花齢巧のもっていた白い石だった。それを龍平に使ったがために、花齢巧は死んだ。今度こそほんとうに死んだ。母の魂は、のりうつった巧月生の肉体ごと死に、永遠に消えた――。

「小龍を撃ったの、ルドルフだってね」

 呉太太はいった。ルドルフのこととなると感情のブレーキがきかないので、路上にもかかわらずヒステリックな声をだした。

「あの男、前にもあなたに銃をつきつけたわよね、チャリティ・イベントで・・・・・・」

 そこまでいうと急に声をつまらせた。むりもない。チャリティ・イベントで麗生はルドルフに殺されたのだ。

「あの男、どうして死刑にならないの。くやしくてくやしくて、いくら呉が華界で力をもってても、イギリス人相手じゃ、なにもできないんだから。また釈放されたじゃない。しかも今度は上海から逃げるようにアメリカ行きの船にのったって話でしょ」

「あいつは、あれで、かわいそうなやつではあるんですよ」

 龍平はなだめるようにいった。太太はかえって気色ばんだ。

「どこがよ」

「ルドルフは十九のときにパリの演劇学校でロレーヌに惚れて、生まれて初めての告白をしたらしいんですね。でもあいつは生徒ではなく学校の掃除人だったせいか、頭から相手にされず、ばかにされた。それで女性不信となって、女性とみると復讐せずにはいられない性分になったらしいんです」

「だからなんなの。復讐ならロレーヌにすればいいでしょ。どうしてうちの子が犠牲にならなきゃいけないの。ロレーヌといえば、ルドルフと同じアメリカ行きの船にのったっていうわね。どうしてなの。せっかくミス摩登になったのに賞ももらわないで」

「ロレーヌは責任を感じてるらしいです、自分がルドルフをおかしくしたんじゃないかって。ふられてからルドルフの態度が一変したので、ロレーヌもあとから惜しくなって『やっぱりあなたとつきあう』と申し出たそうなんですが、そのときはすでに遅く、ルドルフは人間不信の塊みたいになっていた。ロレーヌは彼の心をなんとかとり戻したいと思い、以来ずっとルドルフを追いかけている。パリからロンドンへ、ロンドンから上海へ、上海からアメリカへと――。執念ですね」

「人を殺めた男によくもまあ。私には理解不能よ、白人の考えることなんて。ハルトンもIAAも、合宿中に死人をだしたのにいまだに一言も謝罪もせず、なにを考えてるんだか」

「たしかに――」

「小龍、怒ってくれたわね。あの船で立ちあがって『打倒イギリス人』っていって、デモをおこして先頭にたって。新聞にも連日ハルトン批判の記事をのせてくれた。なのに拘置所にいれられて、たいへんな目に・・・・・・。巧先生が釈放に動いてくれたから、よかったものの。その巧先生も亡くなったなんて、信じられないわ」

「・・・・・・ええ」

「釈放といえば、蘇丁香と江田夕子も今日釈放されるって話じゃない」

「あ、ええ。ふたりの行動についてはIAAが責任を負うということで、ハルトンが代表で保釈金をだしたらしいですね」

「副会長なのに変にでしゃばってね。うちの娘の死にはなんの責任ももってくれなかったのに。銃をふりまわした娘たちは、なんで助けるのよ」

「ふたりとも人は撃たなかったからでしょう」

「でも丁香も江田夕子も妙な茶壷を使って変身したとかいってたじゃない。私はみてないから信じられないけど、江田夕子はその茶壷で白蘭に変身してたっていうわよね。もしかしてハルトン、その茶壷とひきかえに、釈放したのかしら」

 龍平は返事に困ったが、太太はかまわず、ひとりでしゃべった。

「丁香もほんとは日本人だったっていうじゃない」

「ええ・・・・・・」

「ねえ小龍、ミス摩登コンテストって、いったいなんだったの?」

「・・・・・・」

 龍平は返す言葉がなかった。

呉太太と別れたあと、大急ぎで四馬路からバンド通りにでた。右手には平和の女神像。龍平はそれとは反対側の左手、ガーデン・ブリッジ方面へ歩いている。

税関の五時をつげるチャイムの音が鳴った。それに呼応するように各国旗がはためいてみえる。埠頭にずらりとならぶ商船、軍艦、客船。洋館のようにそびえる船の下を無数の人が蟻のように蠢いている。バンドは今日もにぎやかだ。苦力のかけ声、乗降客のざわめき、客寄せの声――。

「メークイホー、バーレーホー、バーレーホッホ、バーレーホー!」

 花売り娘が、髪に結んだピンク色のリボンを秋風になびかせて、声をはりあげている。その娘の黄色い繻子の靴下と白い竹かごに龍平はみおぼえがあった。龍平が近づくと、相手も気づいたとみえて、恥ずかしげに微笑んだ。龍平はその娘から一輪の花を買った。

「メークイホー、バーレーホー・・・・・・」

 客寄せの声をあとに龍平は先を急いだ。サッスーンハウスをすぎた。パブリック・ガーデンぞいを北上し、ガーデン・ブリッジに入った。

市街電車が対岸から鈴を鳴らしてやってくる。その両脇を黄包車や、天秤棒をかついだ行商人、各国人が織るように流れている。そのなかで、ひとりだけ、静止している者があった。橋の真中に立っている少女だ。手すりにもたれ、河を眺めている。その服装をみて龍平は目を疑った。白いブラウスに紺のスカート――江田夕子にしかみえない。龍平は早足になった。早足が小走りになり、小走りがかけ足になった。

あと三歩の距離になったとき、ふいに少女がくるっとこっちをむいた。まぎれもない、江田夕子だった。夕子は顔を輝かせた。龍平も顔を輝かせた。

「こんにちは」

 ふたりはとっさにそれだけいった。どちらもよろこびをおさえている。視線だけ、はげしくからみあわせた。

「どうしてここに・・・・・・」

 夕子のほうから先に口をきいた。

「龍平さん、傷はだいじょぶなんですか?」

「うん、いまじゃすっかり」

「どうして――」

「それより、でてきたんだ?」

「はい、さっき」

「おめでとう。今日の夕方釈放ってきいたから、実はいまから虹口の拘置所にむかうところだった」

「ほんとですか。私、拘置所をでてから、真っ先に河むこうに行こうと思ってガーデン・ブリッジにきたんですけど、いろいろなつかしくなって、つい立ちどまってしまって・・・・・・」

「これ」

 龍平は甘い香りのするものを夕子ににぎらせていった。

「もらってくれるとありがたい」

 夕子は目を輝かせた。龍平がくれたのは一輪の白蘭花だった。白い蕾はほころんでまもない。

「あ、ありがとうございます」

 花の首に通してある針がねを、さっそく髪に飾ろうとしたが、躊躇した。似合う自信がなかったし、龍平の目の前でつけるのには照れがあった。龍平も恥ずかしいのか、照れかくしのように話題を変えた。

「釈放、夜じゃなくてよかったな」

「はい。でもどうして急に釈放になったのか・・・・・・なにがなんだか」

「IAAが保釈金を払ったんだよ。コンテストから逮捕者を出したというんじゃ体裁が悪いっていうんで。丁香も今日釈放されるらしいね」

「そうみたいですけど、いっしょじゃなかったんで。でもどうせ釈放するなら、六日もたってからじゃなくて、もっと早くにしてほしかった」

「ハルトンは今日になって急に保釈金を払う気になったらしいから」

「どうして」

「昨夜おこった事件が関係あると思う」

「え、事件て、なんかあったんですか」

「満州に満鉄ってあるだろ。日露戦争以来、日本のものになってる。その満鉄の線路が昨夜十時半ごろ、奉天の柳条湖付近で爆破されたんだ。中国軍のしわざだって日本軍は主張して、それからすぐ中国軍の駐屯地を攻撃、占領した」

「ほんとですか」

「元同僚記者の葉俊が電話でいってた。日本軍は一晩のうちに奉天の主要な場所を次々に占領したってな。あらかじめ計画していなければ、こうも一瀉千里にことを運べるわけがない。日本軍の行動はどう考えても計画的だ。中国軍が爆破したというのはおそらく方便」

「じゃ・・・・・・?」

「満鉄線はおそらく日本軍が満州侵略のきっかけ作りのために自分たちでやったんだろう。その爆破に例の二茶壷が使われたふしがある」

「え」

「日本軍の爆破班は、中国軍に変身して爆破作業にあたったと思われる。中国人にばけるといえば狐仙茶壷と麒麟茶壷」

「でもあの二茶壷が、奉天に・・・・・・? そもそもあの二つは、日本特務の手からハルトンの手にうつったんじゃ? コンテストの最終選考会で」

「それがまた日本特務のものになったんだ。コンテストのあと、ロレーヌがIAA役員からだましとって日本特務員にわたしたらしい」

「ロレーヌが?」

「彼女はハルトンのスパイだったんだけど、土壇場になって裏切ったんだよ」

「それで二茶壷を手に入れた小山内駿吉が奉天に・・・・・・?」

「葉俊によると、小山内駿吉は三日前の十六日から奉天にいる。二茶壷をまさか戦争に悪用するとはな。日本特務は二茶壷ほしさに中国軍をよそおってリラダンを爆破し、今度は満州ほしさに二茶壷を使って満鉄を爆破した――」

「そんな。せっかく私が苦心して鳳凰茶壷を破壊して六神通を使えなくしたのに、結局戦争をはじめたんじゃ意味がないです。狐仙と麒麟も破壊しないと、やっぱりだめですか」

「だな。もっとも、俺たちがそう思うのがハルトンのねらいなんだろうけど」

「どういうことですか」

「これはあくまで俺の憶測なんだけど、ハルトンが今日急におたくと丁香を釈放する気になったのは、俺と組んでまた小山内駿吉から二茶壷を奪いにいくとみこしたからじゃないかと思うんだ」

「え」

「漁夫の利ばっかりねらってるハルトンのやりそうなことだ。昨夜の事件で日本特務が二茶壷を活用してると考えて、また惜しくなったんじゃないかな。それで人に奪わせに行こうと考えて、二茶壷に因縁のあるふたりを野に放とうという気になったのかもしれない」

「まさか」

「実際俺は奉天に行く気になってる。もちろん二茶壷は奪ったら上海には持ち帰らず、その場で破壊するつもりだけど。やっぱり三霊壷は三つぜんぶ破壊しなきゃな。アレーさんもいってたよ」

「え、アレーさんが? アレーさんの行方、わかったんですか」

 夕子は目をみひらいた。龍平はニヤニヤしていった。

「わかったもなにも、最初から上海にいたよ」

「え、でも」

「吉永義一として拘置所にいた」

「なにいってるんですか」 

 夕子が驚くのはむりもなかった。なにも知らないのだ。龍平は吉永義一とアレーが同一人物だと教えた。

「おたくには真実をいわなくちゃな」

 そういって龍平は両親の秘密をうちあけた。吉永義一が父親であること。父吉永義一と母李花齢の過去。ふたりと三霊壷の関係。三霊壷の歴史。白い石の秘密。二十五年前、東京であったこと。小山内駿吉と蒋介石とハルトンとの因果な関係。李花齢はリラダン事件後巧月生にのりうつっていたこと。

「そうなんですか? 吉永さんはリラダン事件のあった日に花齢さんの遺体を運びだしてその白い石の処置をほどこしたんですか」

 夕子は目を驚かして、

「それじゃあの日、三月三十日、私が就職の面接帰りにみた、黒眼鏡をして碗帽に長衫といった中国人みたいな格好でリアカーをひいてた男の人は、吉永さんだったのかもしれない。あのリアカーのなかに花齢さんの遺体が入ってたんだ。桜のある屋敷跡に入っていったのは、そこで処置をしてたってことか」

「そういうことだな」

「黒眼鏡の男の人がそこから出てきたとき、体型が変わってるようにみえたのは、錯覚じゃなくて、アレーさんに変身したからだったんですかね」

「おそらく」

「信じられないです、アレーさんの正体が吉永義一という日本人だったなんて。でもいわれてみれば思いあたることが。式典のとき、アレーさんの入った箱から吉永さんがでてきたこととか」

「俺もいま話したことは、つい一か月前知ったんだ。最初は信じられなかったよ。なにせいきなり巧月生邸につれこまれて、押し問答してたら、アレーが二茶壷をみせてきて、狐仙茶壷で吉永義一に変身して俺の父親だと名のり、巧月生があの顔で俺の母親だって名のりだしたんだからな」

「それは頭がおかしくなったかって思いますよね。それでよく最終的に信じられましたね」

「まあ、いろいろありまして。――それより、吉永さんはもう釈放されたよ」

 龍平は恥ずかしいのか、吉永を父親なのに「さん」づけにしていった。

「え。ハルトンが保釈金払ったんですか?」

「いや。白い石を渡したんだ」

「どういうことですか」

「白い石はぜんぶで三つあった。うち二つはもう使えない。一つは以前李花齢の魂をよみがえらせるのに、二つ目はこの前俺を蘇生させるのに使われた。残る一つ、未使用のぶんは吉永さんがもってた。それが拘置所に入ったことでハルトンに知られた」

「身体検査でばれたんですね」

「ハルトンは拘置所に足をはこんで、ゆずってくれ、とたのんだ。そしたら釈放に手を貸すっていってね。しつこくいってきたらしい。でも吉永さんはずっと拒否してた。もしものときのために白い石はゆずれないって思ってたんだ。自分が死んだら、李花齢の魂を守れなくなる、この世に李花齢の魂が生きてるかぎりは自分も生きていたいからって。それがコンテスト決勝の日に花齢巧が死んだと知って、考えを変えた。これ以上白い石をもっていても意味がないってね」

「それでいま、アレー――吉永さんはどこに?」

 龍平は蘇州河に目をむけた。なにもこたえない。欄干にもたれ、夕子に横顔をむけた。蘇州河から黄浦江をのぞんでいる。夕子もしかたなく河をみた。水の上は夜にふった雨の影響でけぶっていた。

「『カササギ、いないかな』って、前にいったの、覚えてる?」

 ふいに龍平がいった。

「え、あ、はい」

 覚えている。彼と出会った晩のことだった。名前をきこうとしたら、いわれた。あのときは、はぐらかしてるだけだと思ったけど、なにか意味があったのだろうか。

「日本にカササギの伝説ってあるよな」

「カササギの伝説・・・・・・?」

 夕子は日本人なのにきいたことがなかった。龍平は夕子の顔をみずにいった。

「七夕の日、カササギは天の川に翼をならべて橋をつくるっていう伝説」

「カササギが橋を? 織女と牽牛のためにですか?」

 反射的にきいて、夕子は胸がどきどきした。龍平さんはカササギをガーデン・ブリッジにみたて、織女と牽牛を私たちにみたてたのだろうか。

龍平は黙っている。

ふたりは前と同じように無言で河を眺めた。あのときは夜だったが、いまは夕方だ。くもっていて太陽は隠れているが、遠くの船が白くかすんでみえる。

波が河にうちよせ、岸にあたってしぶきをあげる。

龍平のネクタイが風になびき、ワイシャツがはためく。

 永遠にこの時間がつづいてほしい――夕子がそう思ったときだった。

「おふたりさん」

 声をかけられた。夕子はふりかえって目をみひらいた。そこにいたのは、長衫姿に椀帽と黒眼鏡が特徴の、あのリアカーをひいていた男の人だった。その人物は口をあけて笑いながら近づいてきて、夕子の前にくると、

「ひさしぶりい」ニヤニヤして、なれなれしく、

「おいおい、僕がだれかわかんない?」

 と、きいてきた。まぎれもない、アレーの声だった。夕子はびっくりして何度もまばたきをした。そのようすを黒眼鏡の人物は面白そうにみていう。

「アレーのニセモノじゃないよ。龍平にきいてみな」

「本物のアレーさんだよ」

 龍平がひきとって夕子にいった。周囲をはばかって小声でささやく。

「吉永義一だと、うかうか街も歩けないっていうので変身を」

「万が一に備えて茶の予備はたくさんとっといたんですよ。アレー用の茶をね。もっともアレーだってうかうかとは歩けない。なにしろ有名人なんだから。それでこれとこれしてる」

 碗帽と黒眼鏡をさしていった。あいかわらず口は達者だが、よくみると、それほど元気そうでもなかった。なにか気落ちしているような感じが体全体からただよっている。拘置所に一か月近くいたのだからむりもないと思ったら、アレーがいった。

「この手紙読んだんだよ」

 封筒をふたつ、手のあいだからのぞかせた。苦笑いを龍平にむけた。

「リラダンの事務所Aの金庫に保管してあったんだ。巧月生に万が一のことがあって、花齢がほんとうに亡くなったら読むようにって、いわれててさ」

読書室リラダンは爆破事件後も残っていた。事件後に閉鎖されたのを六月に花齢の巧月生が買いとり、そのままにしていたのだ。営業を再開する予定はもとより、店をたてかえる計画もまったくなく、焼けた建物がそのまま残っているだけに、ぶきみな廃墟と化している。それでも巧月生の土地ということで、街のゴロツキは手出しをしなかった。事務所Aは半分焼けたが金庫のある方は残っていた。そこに花齢が巧月生にのりうつったあと、手紙を保管していたのである。

「読む?」

 アレーは分厚いほうをふたりにさしだしていった。

「いいんですか」

「どうぞどうぞ。こっちの手紙から、読んでごらん、ふたりで」

「こんなところで読んでだいじょぶなんですか」

「だいじょぶ。僕がみはってるから」

 「いままで黙っていて、ごめんなさい」という前置きからはじまる懺悔の手紙だった。麒麟茶壷があった時代に書かれたものか、文章は日本語で、いくつもの罪を告白していた。コンテスト決勝で龍平をうらぎったことにもふれ、ハルトンに寝返った理由なども書かれてある。母とハルトンの関係の内実は龍平にショックを与えた。

が、より衝撃だったのは以下の三つの告白である。

一つは、三霊壷と白い石のことで、花齢が西太后から盗んだのは、けっして人びとを六神通から守るためなどではなく、単純に出来心にかられたからだったこと。

 もう一つは、一九〇六年の東京に関することで、中国革命同盟会の活動を警察に密告したのは、ほかでもない裕如莉――花齢だったこと。

花齢は手紙でこう告白している――「あのころ私はどうしても被害妄想からぬけだせなかった。富士見楼の犬は私をおびえさせるために存在してるとしか思えなかった。三霊壷と白い石を頤和園から盗みだしてきただけに、どこにいっても西太后のスパイの目が光っている気がした。富士見楼に行けば、小山内駿吉や蒋介石がひと癖もふた癖もある人間に感じられ、スパイと思え、こわくなった。私はつかまったが最後、殺されると思った。恐怖に耐えられなくなった。

 でも恋人の吉永さんには相談できなかった。吉永さんは私の過去を知らなかった。だから上海からいっしょにきたハルトンに相談した。ハルトンは私に密告をすすめた。私はそれにしたがった。ハルトンはこのことをずっと黙っていてくれた」。

三つ目は、今年の三月三十日のことで、これにはいちばん驚かされた。リラダンで李花齢に小刀をつきたてたのは、李花齢自身だというのだ。

――「私は地位も名誉も失い、李花齢として生きるのに疲れていた。裕如莉から李花齢に生まれ変わったように、もういちど生まれ変わりたいと思った。だから自殺した。死んでも、どうせべつの人間にのりうつって生きられる。白い石をつけているから安心。必ず若い娘にのりうつれる、そう思って小刀を自分の胸につき刺した。のりうつるのが中年男のしかも巧月生とは思わなかった」。

 夕子と龍平は目をみあわせた。

「ここに書いてあるの、ほんとですかね」

 龍平の声はふるえをおびていた。

「なら、なめてますよね、死んでから真実を伝えるって――」

「はは・・・・・・」

 アレーは力なく笑っている。龍平は怒ったようにいった。

「くやしくないですか? 李花齢って人間は結局自分のことしか考えてなかったんですよ」

「それが、怒れないんだよ・・・・・・。彼女は最後には自分を犠牲にした、自分を犠牲にしておまえを生かした」

「でも・・・・・・それとこれとはべつですよ。あの人がもっと早く真実をうちあけていれば、どれだけの人間が救われたか。千冬がファッション・ショーで実行犯にしたてあげられたりすることもなかったろうし、俺が母を殺したのはだれかって血眼になる必要もなかった。まったくばかにしてますよ。三霊壷を守りたいなんていってたのも、口先だけだったんでしょうね」

「まあ僕もな、正直いうと裏切られた気分だよ。最後の最後に真実を話してくれたぶんマシだと思ってもね。二十五年間彼女を思いつづけてきただけに――でも、しかたない」

 アレーはあきらめたような、さびしげな口調で、

「なんかボアンカがなつかしくなってきたなあ。僕もボアンカの気持ちをわかってて傷つけるようなことしてたからか・・・・・・」

そういったかと思うと、カラ元気をよそおって夕子にいった。

「あなたは李花齢みたいに、なっちゃいけないよ。ほら、これあなた宛」

 もうひとつの封筒をわたした。たしかに江田夕子宛になっている。

「花齢さんから私に? 李花齢さんにはいちども会ったことないのに」

「花齢の魂ののりうつった巧月生には会ってるだろ」

「そうですけど」

「龍平にもみせてあげて」

 夕子はおそるおそる便箋をだした。たしかに江田夕子宛になっている。これもまた日本語だ。文章は「二十五年前、私が東京にいたとき、富士見楼によく行きましたが」と、夕子には縁のない話ではじまったので首をかしげた。あとには次のような文章がつづいた。

――「富士見楼には当時長野県出身の十八歳の女中がいた。私は子どものとき父の仕事の関係で日本にいたので日本語が話せたのもあって、彼女とはすぐに仲良くなった。いい友だちだった。気に入らなかったのは、私がきらいだった小山内駿吉とつきあっていたことぐらいだった。彼女の名前は宇佐見徳子」。

そこまで読んだとき、夕子は目をひろげた。夕子の母の名は徳子、旧姓を宇佐見という。吸われたようになって文字を追った。

 「徳子には夢があった。彼女は私にいった、『秋瑾って女性いるでしょ、女なのに革命運動をしてる。すごいよね。私も女志士になろうかな』。富士見楼で働く徳子は、中国革命同盟会に感化されていた。すこしでも革命の役にたちたいと思って、はりきって会員の世話を焼いていた」

これは私の母親のことなのだろうか。母が富士見楼の女中で小山内駿吉の恋人で中国革命同盟会のメンバーと関わってたなんて――信じられない。

 「そんな徳子の夢をこわしたのは私だ。私が同盟会の活動を密告したせいで、富士見楼に警察がのりこんだ。徳子が会の活動を支援していたことも世間に知られた。彼女は世間に白い目でみられるようになった。結婚が噂されていた相手の小山内駿吉は急によそよそしくなり離れていったという。徳子は厳しい現実にさらされ、安心感を求めるようになった。女志士になるよりも、人並みの幸せがほしくなった。結婚を心から願うようになった。ふつうがいちばんと思うようになった」

夕子の母の旧姓を知らない龍平は次の段落を読んでハッとなった。

「徳子は江田貞介さんと出会って救われた。ふたりは困難をのりこえて結婚し、長女夕子をもうけた。それからは長女夕子が徳子の生きがいになった」。

夕子はそんなつもりはないのに目に涙をあふれさせている。

 「二年前、江田一家が上海に住んでいることを知ったときは、私はほんとうに驚いた。リラダンの客のなかに徳子がいたので知ったのだった。徳子は昔よりすこし太ったけれど、あまり変わっていなかった。私には気づいていないようだった。リラダンの経営者で写真家の李花齢と、四半世紀近く前東京にいた十八歳の裕如莉とは容易に結びつかなかったのかもしれない。徳子は夫婦できていた。私は自分が昔したことを思うと、徳子にあわせる顔がなかったから、接客は従業員にまかせた。従業員にそれとなく探らせて、夫の仕事の関係で娘ふたりをつれて上海に住んでいることがわかった。住所を来訪客リストに書いてもらった。

 その住所をたよりに、私は彼女の家をのぞきにいったことがある。一回ではない、複数回、李花齢とわからないよう変装していった」。

 「私が江田夕子さんをミス上海コンテストの予選に通過させたのは、罪ほろぼしの意味がある。

 世間の人は忘れていると思うが、私李花齢は審査員だった。肉体が三月三十日に死んだため、書類選考にしか携われなかったが、そのときに私はたくさんの応募書類のなかに、徳子の長女の名をみたのだった。たちまち私は江田夕子を推しに推しすことにきめた。

『この子は予選はぜんぶ通過させて絶対にファイナリストにさせるべき』と、IAA副会長のハルトンにいうと、変な顔をされたが、私はこういって説得した。

『こういう平凡な娘がひとりぐらいファイナリストにいてもいい。ミス上海コンテストは幅があるって世間に思わせられるし、世界の平凡な娘に希望を与えられる。なによりこんな平凡な娘がファイナリストになれば、話題をよぶのはまちがいなし。この平凡娘がどこまで成長するかって、ファイナリストの合宿も注目される』――そう保証すると、こすからいハルトンは『さすがは写真家、目のつけどころがちがう』などといって、私のいうとおりにした。そして私の肉体が死んだあとも、江田夕子さんは無事一次、二次、三次予選を通過し、ファイナリストになった。

でもそれが果たして徳子への罪ほろぼしになったかというと、私には自信がない。

夕子さんはファイナリストになって、どれだけ成長したか。

これを書いているいまは一九三一年八月一日、まだコンテストの途中で最後はどうなるかわからない。でも私は夕子さんの二重生活を知っている。白蘭としての生活のほうを楽しんでいることを知っている。白蘭という中国人美女に変身させることは、義一さんがきめたことだから、私の口にだすことではない。けれども――。

私はあなたをみていると自分を思いだす。劣等感が強い半面、おそろしくプライドが高いところや、被害妄想が強くて強迫観念にとりつかれてる半面、自己顕示欲が強いところなどが。

すべて自分を特別と思いたい心からくるのだと、私は考える。

 私は自分だけが特別だと思っていた。でもそうではないことが、当たり前のことが、恥ずかしいことに、いまごろになってわかった。

自分だけが特別ではない、とあなたにはいまから気づいてほしい。

あなたは特別ダメでも、特別優れているわけでもない。ほかのだれとも同じ、いいところも悪いところもある、みんなと同じ、ひとりの人間。

あなたはお母さんにだいぶひどいことをいわれたようだけど、お母さんもそのことはわかっているはず。お母さんも昔はいまのあなたのようだった」。

夕子は読みおわってもしばらくは便箋をみつめたままでいた。そこに書いてあることは意外なことばかりで、衝撃だった。

お母さんも私と同じだった・・・・・・?

ふいに横でボンッと音がして、閃光が走った。カメラのフラッシュだ。みるとアレーがカメラをかまえている。

「アハハ、びっくりした?」

「こんな顔、撮ったんですか」

「記念記念。蘇州河をバックにガーデン・ブリッジでボーイ・フレンドと再会したところを残しておかなきゃ」

 「ボーイ・フレンド」ときいたとたん夕子も龍平も赤くなった。

「おやおや、おふたりさん、笑って笑って」

 夕子が戸惑っていると、アレーがいう。

「そんな顔してたら、お母さんが泣くよ。写真できたら、実家に送ってあげようと思ってるのに」

「え、送らないでください」

「男の子とふたりでうつってたら、大目玉くらうか。でもお母さんにずっと手紙もだしてないんだろ」

 だしてない。母親どころか妹にも、この二か月ろくに連絡もしていない。丁香と話すようになってからだ。しかも白蘭に変身したことは、妹にもまったく教えていなかった。この四か月自分がしたことを教えたら、どう思うだろう。

「母の日はとっくにすぎたけど、しばらく日本に帰る気がないんだったら、写真を送っておいて損はないよ。どんな写真でも」

 またひとつ、フラッシュがひらめいた。ふいに夕子は決意したようにいった。

「送ります」

「じゃ手紙も書かきゃな。あることないことなんでもいいから両親を安心させるために」

「ほんとうのことを書こうと思います」

「よし」

 レンズにあてたアレーの目が笑った。そのときだった。

「おい、あのカメラかまえてる人、アレーだよな」

 通行人が足をとめていった。長衫姿の大学生ふぜいの中国人青年だった。連れの青年がこたえた。

「ほんとだ、アレーだ。撮られてるのは、男は李龍平で、女は・・・・・・江田夕子?」

「江田夕子だ。あいつ、釈放されてたのか。のんきに写真撮影なんかして。あの顔で、まだファイナリスト気どりかよ」

「あいつ、ずっと白蘭に変身してたんだよな。アレーの力をかりて」

「ああ。日本人のくせに中国人のふりして、みんなをだましてたんだ。しかもコンテストに銃をもちこんで賞品を撃ったんだろ。日本軍のスパイじゃないのか」

「かもな。釈放されたのは、昨夜の奉天の日本軍の行動と関係あるんじゃねえか」

 近くの通行人が何人か足をとめ、この大学生のいうことに注目した。

「日本は満鉄線を中国軍が爆破したとかいって、それを口実に奉天を攻撃して占領してるんだよな。無抵抗の住民がたくさん犠牲になってるって」

「しかも日本軍は奉天にあきたらず東北ぜんぶに侵略するつもりらしい」

 大学生ふたりと、そのまわりにいた中国人の視線は自然と日本人の江田夕子にむいた。日本人への怒りが夕子ひとりに集まる。

「打倒日本(ダーダオ・リーベン)!」

 突然通行人のひとりが叫んだ。

夕子は真っ青になり硬直した。男は憎悪と怒りをむきだしにしていった。

「日本人は出てけ」

 だれもとめない。まわりに集まった中国人はみな夕子をにらんでいる。

 夕子は体をふるわせた。みな興奮して叫びだした。

「打倒日本! 打倒日本!」

「やめろ」

 龍平が叫んだが、効果はない。かえって冷やかされた。

「李龍平、日本の味方するのか」

「『打倒イギリス』はいえても『打倒日本』はいえねえのか」

 体格のいい男がふたり前にでて龍平をつきとばした。横にいた夕子はびっくりしたはずみでよろけて、その場に尻もちをついた。笑い声があがった。

「自分から倒れてくれりゃ、わけねえや」

「これでもくらえっ」

うずくまった夕子の頭上に石がおちてきた。ひとつではない、いくつもだ。夕子めがけてたくさんの中国人が石を投げてきた。石だけでない、泥だかなんだかわからないべチャッとしたものが飛んできて、体を汚した。夕子の頭はパニックになった。

破滅――。

その二字が、瞬間なぜだか夕子の頭にうかんだ。もうおしまいだ、と思った。

そのとき、凄まじい笑い声が耳にとびこんだ。

「ハッハッハッハ!」

 まわりの中国人も驚いて笑いの主をみた。アレーだった。アレーが豪快に笑っている。

「たいしたことない。ほっときゃ、そのうちおさまるよ」

 夕子と龍平にむかって日本語でいった。たちまち若い中国人がたけりたち、

「こいつ、日本語しゃべってるぞ、敵だ、やっつけろ」

 と、わめいて、みなで石を集中的に投げたが、アレーは動じる気配もない。平然と笑っている。その落ちつきぶりをみて、夕子はハッとした。

さすがはアレー――吉永義一だ。済南事件のとき路上で暴兵暴民に縛りあげられ「殺せ殺せ」と叫ばれ、銃やナイフをつきつけられても生き延びた人。日本特務の拷問に何度あっても耐えぬいた人。修羅場を幾度もくぐりぬけてきた人はちがう。夕子は胸をうたれた。式典以来アレーを「卑しい、たよれない、単なる親父」ときめつけ、見下した自分が恥ずかしくなった。アレー――吉永義一は肝がすわっている。私はかりにもそのアレーに教育をうけたことがある。ならば私だって――。

 次の瞬間、夕子はすっくと立ちあがった。

たちまち黒いものが猛烈な勢いでとんできた。

「くたばれ」

 泥が頬でつぶれた。夕子はもはやひるまなかった。石ころと泥をあびながら、龍平にもらった白蘭花を髪に挿した。そして日本語でいった。

「行きましょう」

龍平とアレーに呼びかけた。

「気どるな。白蘭花なんかつけて、まだ白蘭のつもりか」

罵声と石が雨あられとふりそそぐなか 夕子は龍平の腕をひいて、橋のたもとにむかって歩きだした。頭をまっすぐあげ、胸をはって――。

私は負けない。

 私は母親みたいに迫害に負けた人生は送りたくない。花齢さんみたいに、華やかにみえても後悔だらけの人生なんて送りたくない。

人間いつかは死ぬ。どうせ死ぬなら、自分の力をだしきりたい。生きているかぎりは、全力ふりしぼって自分の道をすすみたい。でないと、もったいない。

私にはまだ眠っている力がある。その力をひきだせば、なにもできないことはない。自分の思ったことを、したい。千冬のいったことが、いまになってわかる。自分の思うことは、人に好かれたからって、なし遂げられるわけではない。人に嫌われたからって、できないことではない。他人の思惑は関係ない。

「龍平さん、私、奉天に行きます」

 ふいに夕子はいった。

「どうしたの、急に」

「日本軍がほんとに二茶壷をもってるなら、奉天に行って、どうにかしなくてはすまない気持ちになったんで」

「じゃ、行くか」

「でもその前に――千冬のお見舞いしてもいいですか? 千冬の両親は奉天にいるし、いろいろ気がかりでしょうし、話したいことがあるので」

「もちろんいいよ。俺も千冬にききたいことがあったから」

 いつしかふたりは手をにぎっていた。「打倒日本」の声は遠ざかっていく。橋の真中にかけつけたインド人警官たちが騒ぎをしずめていた。

「おーい」アレーがうしろから呼びかけた。

「僕も忘れるなよ。病院行くなら、いっしょに行く」

「病院? 行きませんよ。千冬は三日前に退院してフランス租界の自宅で療養してるんですよ」

「なんだ、そうなのか」

「なにがっかりしてるんですか。アレーさんはボアンカのお見舞いしたいんでしょう。千冬がいたのと同じ病院に入院してますからね」

 龍平がいうと、アレーは顔を赤くしていった。

「ボアンカは家族もだれもいないから」

「遠慮しなくてもいいですよ。ボアンカを特別な目でみても、天国の李花齢は許してくれますって」

「大人をからかうと痛い目にあうよ。彼女との記念写真、あげないよ」

 今度は龍平の顔が赤くなる番だった。夕子も赤くなっている。そのとき北岸のほうから、ひとりの少女が歩いて三人に近づいてきた。突然夕子に声をかけた。

「夕ちゃん」

 夕子は目をみひらいた。

「丁香ちゃん」

 丁香は汚れたドレスをき、化粧もしていない。顔つきもどことなく前とちがう。拘置所では顔をあわせたことがなかったので、以前とのちがいに夕子は目をみはった。

「釈放されたんだね」

「うん。夕ちゃんのあとに」

 丁香は日本語でいった。

「――あ、日本語でびっくりした? 私が使うと違和感あるかな。でも私は久保田友子だから。トモコって呼んで」

「トモ、ちゃん・・・・・・」

「なに、夕ちゃん」

「私、あやまらなきゃ。丁香――トモちゃんを、殺人犯あつかいしたこと。リラダンで李花齢さんをやったっていったこと・・・・・・」

「・・・・・・もう、すぎたことだよ」

「ううん。ごめんなさい」

 夕子は腰をおり、心からあやまった。すると丁香は、

「顔あげて。千冬のとこに行くんでしょ」

 いつ知ったのか、いった。

「私もいっしょに行っていい?」

 夕子がうなずくと、横から龍平がひやかすようにいった。

「これは丁香殿、どういった風のふきまわしで」

「千冬ともっと仲良くなろうと思ってね」

 丁香――久保田友子は照れくさそうにいった。

「なんか、たくらんでないか」

 そういった龍平の声はしかし明るかった。

「どうかしら」

 丁香はあやしげに微笑んでみせると、夕子にいった。

「――関係ないけど、私の名前、音読みするとユウコで、夕ちゃんと同じになるんだ」

「ほんとだ!」

 夕子は笑った。丁香も笑った。龍平もアレーも笑った。

 四人のほうへ近づいてくる人間がふたりあった。黄昏どきの橋は、行き来する人波でごった返している。埃っぽい、黒ずんだ行商人や苦力たちのなかで、そのふたりの白い顔はくっきりときわだっている。ひとりは白い麻の上下をきた白人青年、もうひとりは白い旗袍をきた白人女性。ふたりは親しげに寄りそうようにしてやってくる。

「ロレーヌ・・・・・・」夕子がいった。

「ルドルフ・・・・・・」龍平がいった。

 ふたりは四人の前で足をとめた。ルドルフがいきなり龍平にむかっていった。

「奉天に行くってアレーさんにきいた。私たちも、いいかな?」

「てっきりアメリカに行ったかと」

 龍平がいうと、

「いや」ルドルフは首を静かに横にふっていった。

「私たちは船にのらなかった。まだ中国ですることがあることに気づいたんだ」

「することって?」

 龍平は思わず目を光らせた。ルドルフは日本特務の人間だったからだ。だがルドルフはいった。はにかんだ笑みをうかべて、

「奉天に行くなら、私たちも使ってほしい。償いをしたいんだ」

「そういうことなら、ぜひ。ただしその前に仲間たちの見舞いに行くけど、いいか?」

「もちろん」

鉄の橋桁が赤く光っている。雲がきれて夕陽がさしている。鉄骨の上にとまっていた鳥が、黄浦江にむかってとんでいった。みあげる空は青い。どこからか、のどかな歌がきこえた。自動車のラジオか、英語の歌を流している。

  Day is ending, birds are wending (日が暮れる、鳥たちは帰る)

Back to the shelter of (それぞれの愛する)

Each little nest they love (小さな巣へと)


Nightshades falling, lovers calling (宵闇がせまる、恋人たちはいう)

What makes the World go round (世界を動かすのは)

Nothing but love (愛だけだと)

When whipporwills call (夜鷹が鳴く)

And evening is nigh (日没が近い)

I hurry to my Blue Heaven (急ごう、マイ・ブルー・ヘブン(自分の青い天国)へと)


I turn to the right (右を曲がって)

A little white light (小さな白い光に導かれていけば)

Will lead you to my Blue Heaven (そこはマイ・ブルー・ヘブン(自分の青い天国))


A a smiling face, a fireplace, a cosy room (笑顔と暖炉、楽しい部屋)

A little nest that nestles where roses bloom (薔薇の花咲く小さなすみか)

 タイトルは「My Blue Heaven(私の青い天国)」。「私の青空」の原曲だった。

夕子はその歌にききいり、龍平の手を強くにぎった。

橋をおりると、横からまばゆい白い光が 目にとびこんだ。黄浦江が夕陽を反射している。細波のひとつひとつにきらめく光が、ひとつひとつの命の輝きのようにみえる。きらめきが目をとおして体内にしみとおっていくようだ――。

夕子は初めて感じた。黄浦江は泥水のような茶色く濁った河だけれども、はきだめのように人間のくずや垢や汚濁を吸いとっているような独特の匂いをはなつ河だけれども――それだからこそ、輝きがある。

みていると、生きる力を与えられる気がした。

                                     了

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好かれたい病 吉津安武 @xianglaoshe

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