第十章 ミス摩登・最終選考会 〈対・江田夕子〉

「がっかり。いままでの選考はなんだったの」

「ファイナル審査に残ったのが、いつものメンツじゃ」

「ほんと。ミス摩登コンテストはここまであんなに波乱づくめだったのに」

「死者だってでたのに。麗生、不幸な死に方したよね。コンテストとは直接関係ない場でのことだったけど」

 額を集めてささやきあっているのは上海娘三人。うちひとりは庶民風の外見だが、残りふたりは華やかで良家の令嬢風。さっきから文句をいってるのは、このふたりである。

「犯罪者とまちがわれた人もいたっけね」

「特になにもないのに脱落したのもいた」

「ああ江田夕子? あの平凡女。あれがファイナリストになったと知ったときは私ほんと卒倒しそうになったわ。むしろ脱落しないで残ってたら問題」

「脱落といえば、小山内千冬、今日出場してなかったね」

「ね。決勝は辞退したのかもよ」

「グランプリは無理だと気づいてあきらめたのかな」

「おちぶれたからね。自業自得」

「にしても、ファイナルに残ったのが――あの3人じゃあねえ」

「一次の審査員を一般人がつとめた意味がない」

 令嬢風のふたりはどっとため息をついた。

「私は王結に票をいれたのに」

「私は風果に――」

 ふたりがいうのを、庶民風の娘がふいにさえぎった。

「私は馬秋秋が落ちて残念だった。ほんとに応援してたから。でもふたりは――」

 そういって令嬢風のふたつの顔を、探るような目で交互にみつめていった。

「王結や風果がファイナル審査に残らなくて、ほんとに残念だったと思ってる?」

「それは・・・・・・」

「この際だから正直にいいなさいよ。なんのために、ここにきたのか」

 三人の視界には、舞台が、金色の電球にふちどられた看板があった。そこにはでかでかと英語の飾り文字がおどっている。

 ――「第一回ミス摩登コンテスト最終選考会」

 その下には主催団体IAA(国際芸術協会)の名と、さらに「工部局財政局/上海納税人協会/ケンブリッジ財団」とスポンサーの名があった。

 ここは上海屈指の英国系豪華ホテル、アスター・ハウスの一間。その名をピーコック・ホール(孔雀の間)というのは、天井のドームが孔雀の羽の模様になっているからで、ふだんはダンスホールとして使われることが多いのだが、いまはそれよりオペラハウスのようだ。

 あちこちに絢爛豪華たるシャンデリアがつりさげられ、一階をうめつくす椅子と観客、精緻な浮彫をほどこされた柱、二階の桟敷席を思わせるいくつものバルコニー等、すべてが金色に輝いている。

「ねえ、白状しなってば。どうしてわざわざここまでみにきたか。なんのためにチケットを苦労して手にいれたのか」

 庶民風の娘がいたずらっぽい目をむけると、令嬢風の娘のひとりがあきれ顔になって、

「もう、応募してない人は気楽なんだから。――いうわよ、いえばいいんでしょ」

 ヤケ気味の口調でいった。

「白蘭の最後をみとどけにきたの」

 令嬢風のもうひとりもうなずいていった。

「そうそう、私たちはね、白蘭が落ちるところをみにきたの」

「私たちみたいにこのコンテストに応募して、まともに審査をうけて、ファイナリストになる一歩手前で落選した人間はね、書類選考もうけずに途中からいきなりファイナリストになって、しかもトップ3に選ばれて好き勝手やってる人間は許せないの」

「ほんとほんと、どうして白蘭だけが例外あつかいなのかって話。それでもこのごろやっと落ち目になったから、今日の決勝は絶対一次審査で落ちると思って、白蘭が身のほど思い知った顔をみられると思って楽しみにきたの」

「なにしろ白蘭は一昨日、ハルトンが主催した夕食会でとんだ狼藉を働いたらしいし」

「なのにまさか、最後まで残るなんてねえ」

「一次に通って、ファイナル審査までいくなんてねえ」

「ほんと、どうなってんの」

「みんなどうして白蘭に票入れるの」

 口をそろえるふたりに、庶民風の娘がたしなめる。

「まあまあ、白蘭だって同じ中国人なんだから、すこしは喜んであげてもいいんじゃ」

「日本人に勝ったのは評価してあげてもいいよ。日本人にファイナルの舞台に残る余地を与えなかったことはね。だけど同じ中国人だからって喜べると思ったらおおまちがい」

「ほんとほんと。同じ中国人だからこそ白蘭が通ったのが気にくわない。どうして選ばれた中国人が私じゃなかったの」

「まったくね。白蘭のなにが私より魅力的だっての」

 敗北者のひがみはつきることがない。彼女たちはあとすこしでファイナリストになれるというところで、ふり落とされたのだ。

 ミス摩登コンテスト出場者募集の告知がでたのは昨年の十二月である。彼女たちはポスターをみたとたん、ミス摩登になった自分を想像した。栄光を勝ちとるのは自分しかいないと思い、応募書類を送った。書類はみごと通った。応募総数は四千百六十一人だったが、書類選考通過者二百八十三人のなかに入った。

そのあと四月に行われた一次予選にもとおった。二百八十三人のなかの百人に残った。つづく二次予選にも通った。百人のうちの五十人に選ばれた。

 だが、ファイナリストをきめる三次予選にはとおらなかった。五十人のなかの十二人にはなれなかった。

 一方、ファイナリストに選ばれた十二人の娘たちは、五月九日、上海じゅうが注目するなか合宿生活に入った。

 それからおよそ四か月――呉麗生の死、江田夕子の脱落、白蘭の飛入り参加を経て、ついに最終選考会の日を迎えた。当日になって小山内千冬が突然辞退を申しこんだため、当初十二人だったファイナリストは十人にまで減った。

十人は最終選考会の一次審査にのぞんだ。審査内容は、ドレスを着てのウォーキングと、歌と踊りだった。十人が美と努力の成果を競いあった。審査は一般審査員二百名にゆだねられた。二百名は人種の偏りがないよう、各国人で構成されている。

そしてつい先ほど、一般審査員によって選ばれた三名の名が発表された。その三名だけがファイナル審査にすすむことができる。

 選ばれた三名はロレーヌ、丁香、白蘭――「いつものメンツ」だった。

中国人の目には白蘭の通過が意外とうつった。が、賛否はあれど、多くの人間が白蘭を選んだのは事実だった。中国人以外の審査員は、中国語の芸能紙やゴシップ誌に目をとおさないので白蘭の最近の悪い噂を知らない人もすくなくなかった。だから純粋に舞台をみて判断したのだろう。たしかに今日の白蘭は魅力的だった。

 さて、いよいよこのあと、ファイナル審査で三人が一人にしぼられる。

たった一人だけが四千百六十一人の頂点に立てるのだ。たった一人だけが、正賞はもとより、以下の副賞を手にできるのだ――高級時計、高級ブランドの衣装一式、靴一式。映画主役出演権、一流ファッション誌モデル採用、ロンドンで二年間演劇を学ぶための奨学金。これだけのものを、だれがほしがらずにいられよう。

 さあ、いまや上海じゅうが注目するこのコンテスト。

ファイナル審査は休憩時間終了後、まもなく開始される。

 出場順は、一番が白蘭、二番が丁香、三番がロレーヌ。

審査は一般審査員にかわって特別審査員が行う。

はたして栄冠はいったいだれのものに!?

 ところで、この華やかな舞台の裏で、グランプリ争いとは無関係の暗闘がくりひろげられていようとは、ほとんどの人が知らずにいた。

 ましてコンテストそのものをつぶしかねない計画がたてられていようとは、人びとの想像を越えていた――。


「私たち、コンテストが終わったら、はなればなれになっちゃうのかな」

 白蘭が丁香にいった。ここはファイナリスト控室。中央のテーブルには両サイドに五つずつ、計十のスタンドミラーが背をあわせてならんでいる。うち電球が黄色く光っているのは、いまでは三つだけだ。右側の一台はロレーヌ、左側の二台はそれぞれ白蘭と丁香の顔がうつっている。

「どうしたの? これからファイナル審査なのに」

 花瓶にさしてある露草の花かげで、丁香はパウダーのふたをあけつつ、驚いたようにきいた。

 それにしてもふたりとも、このまえのことなどなかったかのような口ぶりではある。この二日間白蘭――夕子はあの晩日本特務のアジトであったことは、丁香に釘をさされたとおり、おくびにも出さなかった。その白蘭がいま急にどうしたのか、感傷的な声でいった。

「私ね、急にさびしくなったの、丁香ちゃんとの合宿生活が今日で終わっちゃうと思うと・・・・・」

 声がふるえているのを異様に思ったのだろうか、頬にパフをおしあてていた丁香はいまやっと視線を鏡から夕子に移動させたが、とたんに目をみひらき、いった。

「白蘭、泣いてる?」

「だって私、丁香ちゃんと離れるなんて・・・・・・」

 大粒の涙が、白蘭の黒曜石のような瞳からこぼれおちた。いったい夕子の白蘭はどうしたのか? このまえいやというほど丁香の裏の顔をみて丁香に敵意を抱いたはずなのに、泣いて別れを惜しむとは。

「このまま永遠に、コンテスト、終わらなければいいのに・・・・・・」

 白蘭は、しゃくりあげるようにいった。だがこれは演技だった。夕子の白蘭は、いま初めて丁香をだまそうと演技しているのだった。

 その目的は、例の二茶壷(狐仙と麒麟)のありかをききだすことにある。李龍平の作戦の一環だった。夕子は夕食会の翌日、つまり昨日、龍平に電話をして「摩登コンテストの決勝をつぶす気になった」と決意を伝えた。

 同時に白蘭の罪を告白した。龍平にもらったレコードを悪用し、龍平を逮捕にみちびいたのは自分だといった。なぜ告白したかというと、「山高きがゆえに貴からず」といわれたのがショックだったからだ。いくらとりつくろっても彼には通用しない。隠すよりも、自分のしたことをすなおにいったほうがいいという結論にたっしたのである。

「こんな私でも協力できますか」ときくと、彼はいさぎよくいった――「過去のことは過去のこと。いまはいま。やるといったからには、次の作戦、死ぬ気で役目をはたしてもらいたい」と。

次の作戦とはもとより、摩登コンテストの最終選考会を中止させる作戦のことだ。

参加者は千冬、ルドルフ、ボアンカ、巧月生。夕子は参加者全員の話し合いには参加していない。だから龍平は作戦の目的を電話で教えてくれた。そのときに夕子は初めて三霊壷の名をきいた。三つの茶壷の総称で、それぞれ狐仙茶壷、麒麟茶壷、鳳凰茶壷とよぶことも、狐仙と麒麟がアレーの持っていた茶壷の呼び名であることも初めて知った。鳳凰茶壷はコンテストの正賞になっている可能性が高いという。現在二茶壷を持っている者が、残り一つを手に入れたら、どんなことになるか。三霊壷がそろうと、どんな災難がおこりうるかを、龍平は夕子に話した。コンテストを中止させるのは、それを避けるためだという。そのためには二茶壷をまず奪い返す必要がある、ということだった。

狐仙と麒麟の二茶壷のありかを丁香にききだすことが、今日夕子に与えられた最初の任務である。

だから夕子――白蘭はいま演技している。丁香に油断させ、口をひらかせるために、丁香を心から慕う親友のふりをしている。内心は敵意と憎悪でいっぱいだったが、演技は難しくなかった。愚かしく臆病な、いままでの自分を演じればいいのだから。涙はつらいことを思いだすと自然にあふれた。

「私をみすてないでね、丁香ちゃん」

 白蘭はすがるようにいう。ロレーヌをはばかって中国語を使うことは忘れていない。

「コンテストがおわっても、グランプリになっても」

「みすてないよ」

 丁香は力のこもった声を返した。

「たとえ私がグランプリになったとしても」

 白蘭の演技に気づいているようすはない。あの気の弱い夕子が自分をだまそうとは想像もしていないにちがいなかった。丁香ははげますようにいった。

「友情誓約があるでしょ。私の気持ちは変わらない」

 露草の横で、丁香は自分も花の一部であるかににこりと微笑み、いった。

「でも考えてみればふしぎね。どんな友情も環境が変われば薄れてしまうと、最初に不安がったのは私のほうだった。あのときは白蘭のほうが私をなぐさめてくれて、永遠の友情を誓いあおうっていってくれて、『友情誓約書』ができたんだよね」

 ロレーヌがそばにいるから、さすがに「夕ちゃん」とはいわず「白蘭」と呼んでいう。

「あは、いわれてみれば、そうだった」

 白蘭は泣き笑いのような顔をした。涙をぬぐいながらいった。

「八月七日だったね、『友情誓約書』つくったの。たった一か月前なのに、すごく昔みたい・・・・・・あのとき、おたがいの秘密を交換したよね」

「うん」

「いままた秘密交換しない? そしたら私、きっと勇気がでると思う」

 実はこれを白蘭は薄氷をふむ思いでいった。たがいの秘密を教えあう機会を利用して、丁香の秘密――茶壷のありかをききだそうという腹だった。丁香が許可するかどうか、白蘭はどきどきして返事を待った。

「いいよ」

 丁香はあっさりと承知した。白蘭はうれしくて、とびあがらんばかりになった。丁香の気が変わらないうちに、と思い、急いでいった。

「じゃ、私からいうね、秘密」

「秘密じゃなくて」

 丁香がさえぎるようにいった。

「やっぱり髪飾りがいいな」

「え」

「交換するのはなにも秘密でなくてもいいと思う。これからファイナル審査にでるんだから、交換するなら身につけるもののほうが、おたがい心強いでしょ?」

 心強いもなにも、髪飾りを交換しても、知りたいことをききだせない。

「でも・・・・・・」

 白蘭は反論しようとしたが、それより先に丁香がいった。

「どうぞ、これ、友情のしるし」

 丁香は自分の頭から髪飾りをはずし、白蘭にさしだした。白蘭が戸惑っているうちに丁香はそれを白蘭の頭に挿し、白蘭の髪飾りをかわりに自分の頭につけた。あっというまだった。

「うふ、交換完了」

 丁香は満足そうに微笑んだ。いま白蘭の波うつ髪には丁香の真珠の冠のような髪飾りが、丁香のクレオパトラのような髪には白蘭の白蘭花が飾られている。丁香は目を細めていった。

「みんなびっくりするね。私たち、ファイナリストとして競いあう立場にあるのに、すごく仲いいって」

 またいつもの「親友アピール」か、と白蘭は思っただけだった。まさか髪飾りがあとで悪用されるとは、このときは思ってもみなかったのである。

それよりも「秘密交換」の機会が失われたいま、いかにして茶壷のありかをききだすか、その方法を考えるので頭がいっぱいだった。

「ファイナル審査、おたがいがんばろうね」

 丁香はいった。幸い上機嫌だ。そこにつけこむしかない。ロレーヌの目がなんとなく気になるが、みたところ、こちらに注意をはらうよゆうはなさそうだ。表情やメイクの確認、スピーチの復唱など自分のことでせいいっぱいのようだ。夕子は第二の演技に入った。

「丁香ちゃんがそんなに優しくしてくれると、ほんとにうれしい」

 感動したような声をだした。

「私、この前、あんなによくないことしたのに・・・・・・千冬さんといっしょに勝手なこと」

 次の言葉を白蘭は勇気をふりしぼっていった。

「しかも私、千冬さんがあれを・・・・・・茶壷をとろうとしたときも、黙ってみてた」

 この二日間タブーにしていたことを、あえていった。丁香の目をまともにみられなかった。だが返ってきたのは、思いのほか、おだやかな声だった。

「べつにいいよ。千冬にとられたわけじゃなし」

 二日前「今夜のこと、だれにもいわないでね」と冷たい声で夕子に釘をさしたのがウソのような声だった。しかも丁香はみずから、いった。

「いまもあれ、ちゃんとあるから」

「ほんと? いまどこに?」

 白蘭は動悸が鳴った。興奮がおもてにでた。腹を読まれてもおかしくなかった。――が、丁香は意外にもあっさりといった。

「あれはいま、最強の人がもってる」

 最強の人とはだれか、こちらからたずねるまでもなく、丁香のほうから教えてくれた。その名が耳にふきこまれたとき、白蘭は瞳孔をひろげた。

 実はこのときロレーヌも瞳孔をひろげていたとは、ふたりとも気づかずにいた。ロレーヌは実は中国語が堪能だった。丁香はロレーヌと最近あれほど親密にしていたのに、そのことを知らずにいた。ロレーヌはさっきからのふたりの会話をすべてききとっていた。審査の準備で頭がいっぱいのふりをしながら、茶壷の話になると耳の穴をひろげ、小声でささやかれた現在の持ち主の名をききとった。そんなこととは知らない丁香は、

「その人がもってれば絶対安全。盗もうたって盗めないでしょ?」

 と白蘭の反応を楽しむ目つきをしていった。

「たしかに・・・・・・なかなか盗めないね」

「『なかなか』じゃないよ。『絶対に』だれにも奪えない」

 白蘭はだれの手にあるかを知って驚愕したが、とりあえずこれで丁香から茶壷のありかをききだすという最初の任務は果たしたわけだから、ほっと息をついた。すると丁香が、

「やだ、忘れるとこだった」

 そういって鞄からなにかとりだした。

「これ、夕ちゃんにあげなきゃ」

 さしだされたものに白蘭は目を吸われた。それは大きな四角形の厚紙だった。ひと目でレコードが入っているとわかった。とはいえ、なんのレコードかは不明だった。厚紙は既製のジャケットではなく、なにも書かれてなかった。

「今朝白蘭に渡そうと思ってたのに忘れて、また忘れるところだった。よかった、いま思いだして。これ、龍平さんからもらったものだけど、あげる」

「え、なんで」

「私たち、もう別れたから」

 丁香はいった。ウソだ、と白蘭は思った。丁香と龍平はははじめからつきあっていなかったと千冬からきいている。龍平さん自身がそう証言したとのことだ。だが白蘭はまさかそうはいえないので、驚いたふりをしていった。

「ほんと?」

「ほんと。小龍ね、ほかに好きな人がいるって私にいった」

「ルドルフでしょ」

「ううん」

 丁香は言下にかぶりをふった。そしていった。

「小龍が好きなのは、江田夕子さん」

「・・・・・・!?」

 白蘭は耳を疑った。

「ウソ・・・・・・」

「ウソじゃないよ、ほんとう。小龍は江田夕子さんが好きなんだって」

 丁香はおだやかな目をしている。嫉妬は感じられなかった。「江田夕子さん」と他人行儀ないい方をしたのは、ロレーヌの前をはばかってのことだった。 

「江田さんのどんなところが好きかまで、教えてくれたよ。不器用な感じがいいんだって。かわいいって。世慣れてない感じで、人と会うと困った顔をして、すぐ真っ赤になるところなんかがこたえられないって」

「・・・・・・」

「べたぼめだよ。たしかに私にはない美点が江田さんにはあると思う。私も納得するしかなかった」

「・・・・・・でも、ほんとなの?」

「ほんとだよ。小龍にきけばわかる」

 なんとこたえていいかわからなかった。龍平さんが江田夕子を好き!? 私を「かわいい」といった!? 信じられなかった。丁香はもっともらしい顔をして、またウソをついているのかもしれなかった。でも、悪い気はしなかった。かりにウソだとしても、丁香は私をほめてくれた。私が自分では欠点だと思っていたことを、

 そう考えると、丁香を裏切るのが悪いような気がしてくる。敵意と復讐心を隠して演技してるのが申しわけない気がしてくる。

「私のことなら気にしないで」丁香はいった。

「小龍への気持ち、実はけっこう前から冷めてたから」

 これは丁香の手だった。丁香は小山内駿吉にこのあとのファイナル審査で、あることを実行するよう命じられていた。成功させるためには、白蘭の出場をとどこおらせる必要があった。それには白蘭の恋心を利用するのがいちばんだと丁香は考えた。

丁香は夕子が龍平に気があることをとっくの昔に看破していた。友情誓約をかわす前、丁香が龍平とつきあってるといつわる前からである。だからこそのレコード、だからこその龍平の好きな人の話。ふたつの要素が白蘭の心をゆさぶるのは確実だった。

いまさっきの白蘭の演技がみぬけなかったとはいえ、一筋縄ではいかないのが丁香である。白蘭にいった。

「せっかくだから本番前にきいてみたら? レコード」

「なんの曲が、入ってるの」

「実は私も知らないの。いちどもきいてなくて。でも白蘭がきけば感動すると思う。そんな気がする」

 すると白蘭は顔を真っ赤にして、照れくささに耐えかねたようにいった。

「ちょっと李さんに・・・・・・きいてくる」

 酔ったような足どりでドアにむかった。

「それがいい、ぜひそうしてあげて」

 ファイナリスト控室をふらふらとあとにする白蘭の背中を、丁香は目を細めてみおくっている。これで駿さんの命令は、このあとうまく実行できるだろう、と思った。

 丁香にたくらみがあるとは知らず、白蘭は龍平のいる場所へむかう。自分でもよくわからずにでた白蘭であったが、もともと伝達事項があり、どちらにせよ途中でぬけださねばならなかったからちょうどいいと思っていた。

李龍平はファイナリスト控室のすぐ隣の控室にいる。彼はファイナリスト白蘭の協力者のひとりとして出演を控えていた。

 協力者とはなにかというと――、

 ファイナル審査のパフォーマンスでは各ファイナリストはアシスタントを四人までつけることを認められていた。アシスタントの使い方で、そのファイナリストの指導力、コミュニケーション力をみるためだというが、ほんとうのところはよくわからない。ともかくもこのアシスタントのことを、協力者という。

だれを協力者にするかは、十一人のファイナリストたちがそれぞれあらかじめIAAに申請し、認可をうけていた。もっとも実際に協力者が必要になるのは一次審査に通った三人だけである。

 三人のそれぞれの協力者たちはファイナル審査開始前、ライバルには絶対にわからぬよう手順をふんで、それぞれ「白蘭協力者控室」、「丁香協力者控室」、「ロレーヌ協力者控室」と名づけられた三つの控室に分散して送りこまれた。各協力者控室同士の行き来は禁じられている。たがいにライバルの協力者がだれだか、事前に把握してはならないことになっている。もし破ると、そのファイナリストは失格になる。

 だからさっき白蘭が「李さんにきいてくる」と丁香にいったことは、自分の協力者のひとりが龍平と明かしたことになるから、実はおおいにまずかったのだが、白蘭はそのことに気づかないほど上気していた。

「私です、白蘭です」

白蘭は自分の協力者控え室のドアをたたいた。

 各協力者控室のドアは内側から鍵がしめてある。入るときは、なかの者にノックして自分が身内だと声で知らさねばならない。身内でなければドアは絶対にあけてはならないことになっている。

「白蘭です」

 何度目かでいったとき、ドアが内側からひらいた。龍平の顔があらわれた。青白い、凄愴ともいえる顔である。白蘭をいれるなり、いかにも外を警戒するようにドアをしめ、そそくさと鍵をかけていった。

「で?」

 はりつめた語調だったが白蘭は龍平との対面にのぼせて、気にとめるよゆうがなかった。手に持ったものをさしだして、伝えるべきことより先にいった。

「このレコード、丁香ちゃんにあげましたか?」

 龍平は鳩が豆鉄砲をくったような顔をしていった。

「いや。みたこともない」

「丁香ちゃんは李さんにもらったといって私にくれたんですけど・・・・・・本番前にきいたらいいとかって」

「なんのために」

「それがよく・・・・・・」

「あいつのことだ、なんかある」

 そういうと龍平はなにを思ったか、表情をやわらげ、

「まあおもしろそうじゃないか」と、以前のような口調でいった。

「蓄音機ならある、とりあえずきいてみよう」

 電気蓄音機は控室の奥にあった。白蘭協力者はぜんぶで三人だが、龍平以外の二人はパフォーマンスの稽古に忙しく、白蘭たちにみむきもしない。龍平が蓄音機にレコードをかけても気にかけるようすもない。レコードはプチプチと音をたててまわりはじめた。音楽が流れだした。うっとりする音色、甘い歌声――。

ききおぼえのある歌だった。それどころか、ふたりがよく知っている――、

 まちがいない、マレーネ・ディートリッヒの『イッヒ ビンバン カッフ ビフーザウ リーベ アインゲシュタルトゥ』だ。――いや、あれとは歌詞かちがう、あれはドイツ語だったが、これは英語――世界的に有名な曲だ。『イッヒ・・・・・・』の直訳は『Head to toe, I'm ready for love(頭からつまさきまで、愛の準備ができています)』だが、英語版は直訳とはちがう、その曲名は『Falling in love again(また恋におちて)』という。

「なんで、あいつは、これを・・・・・・」

 龍平はそういって言葉をつまらせた。大事の前にもかかわらず、この曲をきくと意識せずにはいられない。この曲にまつわる思い出を。甘くも苦い思い出を。白蘭も同じことを意識した。

たちまちふたりのあいだに気まずい沈黙が流れた。その空気を払いのけるように白蘭はべつの話題を口にのぼせた。

「あの、私、丁香ちゃんから、例のもののありかをききだしました」

「お、でかした」

 救われたように龍平はいった。「例のもの」とはもとより二茶壷のことである。

「丁香ちゃんは、最強の人がもってるって・・・・・・」

「最強の人って?」

「それが、アレーさんだそうです、茶壷をもって、いま丁香協力者控室にいるって・・・・・・」

 龍平は顔色を変えた。アレーが会場にいるはずがない。アレーはいまこの世に存在しない。吉永義一として拘置所にいる。だが丁香によると、アレーが二茶壷をもって丁香協力者控室にいるという。丁香はなぜそんなことを白蘭に伝えたのか。ほんとうだとしても真意をはかりかねる。協力者の名をライバルに教えたことになるからだ。龍平はしばらく沈思黙考していたが、やがていった。

「いまのこと、とりあえずボアンカに伝えよう」

 ボアンカは今回の作戦のメンバーだ。だからボアンカに丁香にきいたことを伝えて、話の真偽をたしかめさせようというのだろう、と白蘭は推測した。

「でも、ボアンカどこにいるんですか」

「ロレーヌの協力者として、ロレーヌ協力者控室にいる」

「ウソ、そうだったんですか」

 白蘭は作戦のほかのメンバーの動きをほとんど知らされていなかった。

「ロレーヌの協力者はふたりいる。そのうちのひとりがボアンカ。もうひとりはルドルフ。ライバルの協力者を知るのは禁じられてるけど、知るどころか、ふたりとも俺が送りこんだんだ。正確には俺が、ロレーヌがふたりを協力者にするようしむけたんだよ」

「だいじょぶなんですか、ばれないですか」

「だいじょぶ、ロレーヌはだまされてる。ふたりともうまく潜入してるよ。あのルドルフも夕食会前からハルトンに忠実な顔してるから、こっちに通じてようとは夢にも思ってないだろうよ。知ったらたまげるだろうな」

 龍平は愉快そうにいった。

「だけど表向きはロレーヌ協力者なのに、どうやってこっちと接触するんですか」

「もうすぐルドルフが情報交換のために、ひとりでぬけだして、ここにくることになってる」

「ロレーヌ協力者を、白蘭協力者控室に入れられますか」

「ばれないようにする。ボアンカへの指示はルドルフにたくすしかない。ボアンカには丁香協力者控室に探りをいれてもらう。場合によっては奪還の任務にあたってもらう。なにしろ、あっちのふたりには、こっちとちがって出番まで時間がある」

 龍平は真剣な顔になった。

「やってくれると俺は信じてる」

 自分にいいきかせるようにいった。その顔はふたたび厳しくひきしまっている。

「おたくも舞台での役割、果たしてくれるよな?」

 そうきかれ、白蘭は吸いつくようにこたえた。

「はい」

 ふたりの目と目があった。曲はあいかわらず流れている。

  Falling love again (また恋におちた)

  Never wanted to (恋なんて二度としたくなかった)

  What am I to do? (どうしたらいい)

  Can't help it (どうにもできない)

まるでいまの自分の気持ちを歌いあげられているようだった。それを龍平がきいていると思うと顔が真っ赤になった。これではまるで告白のためにレコードをかけたみたいだ。丁香はいったいなんのために本番前に私にこれをきけ、といったのか。恥ずかしくてならない。

ごくり、と唾をのみこむ音がした。みると龍平さんの目のふちも赤らんでいる。丁香によると彼は江田夕子を好きだという。ほんとうなのだろうか。いま私は江田夕子でなく白蘭の外見をしているけれども、彼は夕子と白蘭が同一人物なのを知っている。彼はいま白蘭に江田夕子を意識しているのかもしれない。たしかめたくなった。心臓が音たてて鳴った。白蘭は口をひらいた。

「あの・・・・・・」

「ん」

「李さんは、ほんとうにルドルフとつきあってるんですか」

 そこから彼がほんとうに好きなのはだれか、探りをいれようと思った。

「あは」

 龍平は破顔した。

「嫉いた?」

 からかうようにきいた。白蘭は自分がとんでもなくうぬぼれていたように思えて、穴があったら入りたくなった。龍平はいった。

「嫉かないか。ルドルフにほれてるのは、もうひとりのほうだったな」

 もうひとりとは、江田夕子のことをいってるのはまちがいない。白蘭は江田夕子がルドルフを好きということにしてあるのをやっと思いだしていった。

「ルドルフが好きなときもありましたけど・・・・・・」

「あいつの恋人になりきるのは苦労するよ」龍平はいった。

「え?」

「俺が演技してるの、みぬけなかった?」

 そのときドアノブが外側からかすかにまわった。だが話に夢中なふたりは気づかなかった。

「・・・・・・演技?」

 白蘭はきき返した。

「俺が男に惚れると思う? ぜんぶ作戦のためだよ」

 いまいったとおり、龍平はルドルフが自分に惚れているのを利用しているだけだった。白蘭にはいわなかったが、ルドルフは日本特務である。下っぱだが、それでも日本特務の情報をある程度は知っている。それらをすべて教えてくれるのだ。ルドルフは日本特務よりも龍平に忠誠を誓っている。しかも自分が利用されているとは思っていない。龍平はあくまでルドルフに惚れていると思いこんでいる。今後もあつかいしだいでは、いくらでも日本特務を裏ぎってくれそうだ。だからつきあっている。龍平自身はルドルフに恋心など微塵も抱いていなかった。

「ここだけの話、俺はそっちの気はぜんぜんないから」

「李さん・・・・・・」

「なに」

「私、あの・・・・・・」

「どうしちゃったのよ」

 龍平はくすっと笑っていった。

「あれれ、本番前だからって緊張してる?」

 おどけた顔で白蘭の顔をのぞきこんだ。ああ、この感じ。久しぶりだ、と白蘭は思った。白蘭は一瞬、時間がチャリティ・イベント前に逆戻りしたかと錯覚した。五月の花園を思い出す。あのときとちがって私はいま白蘭の姿をしているけれども、龍平さんはあのときと同じように私の顔をのぞきこみ、ピエロの顔をしている。滑稽な顔を左へ右へかたむけている。白蘭は泣きたいぐらいうれしくなった。涙があふれ、頬を伝った。

ふたりはみつめあった。ふたりのあいだには甘い空気がたちこめた。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 白蘭は自分の気持ちを伝えようとして、ふたたび口をひらいた。

「私、ずっと・・・・・・」

 いいかけたときだった。ドアがドンドンと鳴った。だれかが外から狂ったようにノックしている。龍平がハッとしていった。

「ルドルフだ」

 龍平が内側から鍵をあけるやいなや、外からドアが猛烈な勢いでひらいた。ルドルフがあらわれていった。

「龍平、いまきいたからね。私を好きといったのは演技だってね」

 無限の怨みをこめた口調だった。白蘭を指さし、

「その女と好きなだけいちゃつくがいい」

 いいすて、きびすを返した。

「あ待て!」

 龍平は呼びとめ、いった。

「約束は? メッセンジャーになるっていったろ。せめて報告だけでもたのむ」

 ロレーヌ側に変わったことがないか報告してくれ、という意味でいった。

「うるさいっ」

 ひっさくようにルドルフは叫んだ。

「知るものか。龍平なんか二度と信じない、金輪際!」

 そういって狂ったようにとびだしていった。

困ったことになった。これではボアンカに連絡できない。ボアンカはロレーヌ協力者控室にいる。現段階で龍平が危険をおかして、そこに行くというわけにはいかなかった。

かといって、このままなにもしないでいたら、二茶壷の所在をたしかめられない。二茶壷はほんとうに丁香協力者控室にあるのか。そこでアレーがもっているのか。そもそもアレーはほんとうに丁香協力者控室などにいるのか。たしかめなければ、二茶壷をとりもどせない。

時間は無情にもすぎていく。ボアンカに連絡もできず、丁香協力者控室の状況もたしかめられないまま、ファイナル審査の時間になった。


「ただいまよりファイナル審査をおこないます。一番目はエントリーナンバー三一六二番、白蘭さん」

 司会がいった。

 ピーコック・ホールの大勢の視線が舞台の一点に集まる。記者席のカメラのシャッターがいっせいにきられる。オーケストラボックスから囃子の音が鳴る。華やかなひびきにあわせるようにして、いままさに舞台上手から颯爽と白蘭は登場した。

 特別審査員たちの目が光る。いや、彼らばかりでない、たくさんの目がいっせいに光をおびた。

客席には三百近くの人がいる。一次審査を担当した一般審査員二百人。はやくに戦いにやぶれた娘たち。それから指導にあけくれたエドワード・アンドリュー、ミス・ウォーカー、マダム・ペガニーといった花園の講師陣。彼らの目には特別な思いがこもっている。

だが以下の三人ほど特別な思いを抱えている人間は客席にはほかにいなかったかもしれない。

ひとりは小山内駿吉である。

小山内駿吉は審査員席から二列分うしろの列にいた。細い上品な手をくみあわせ、舞台にあらわれた白蘭を眺める目つきは夢みるようで、むしろ悲しげでさえあった。両唇をかすかにひらき、官能的とさえいえる小さな溜息をついてみせながら、この男はひたすらこれからしかけることを思って冷たい思考をはたらかせていた。

 もとより思うのは正賞――鳳凰茶壷のことである。丁香がグランプリになれれば願ったりかなったりだが、なれなくても、最終的に今日ここで鳳凰茶壷を掌中に入れる策謀はたててある。

そのため表面のおっとりした感じとは裏腹に、目の奥はつねに光らせ、あたりいったいにすさまじい観察眼をひそかに働かせていた。その観察の対象になっているひとりに、ひからびた悪魔のような顔をした男がいた。巧月生である。

 巧月生は、駿吉と同じ列のほぼ右端にいた。ニセモノではない。李花齢の魂のとりついている巧月生本体だ。解放されたのではない、依然小山内駿吉の管理下にある。花齢巧は舞台の白蘭をみてもまるで目に入らないようだった。その目にはただ緊張と恐怖があった。

 小山内駿吉はあるたくらみをもって、花齢巧をわざわざここに、こさせたのである。

駿吉はハルトンの夕食会後も巧月生になりすまし、蒼刀会員や家人をあざむきとおしていた。あの晩いっしょにつれ帰った本物の巧月生は、覆面をはずしてニセモノということにし、座敷牢に放りこんだ。

今朝、駿吉巧はその座敷牢をおとずれた。人ばらいを命じて格子越しに花齢巧とふたりきりになると、次のようにいった。

「今日おまえにミス摩登コンテストに出席してもらう」

 駿吉は小山内駿吉として出席する必要があったから、巧月生として出席するわけにはいかなかった。花齢巧に出てもらう必要があった。もっとも狐仙茶壷を使えば、日本特務のだれかに巧月生に変身させて行かせることもできた。だがそうしなかったのは、花齢巧の苦しむさまをみたかったからだ。

駿吉は二十五年前から李花齢――裕如莉にいい感情を抱いてなかった。自分と反対で犬嫌いというせいもあるが、ほんとうのところは、ふられたことを怨みに思っていた。若い駿吉は富士見楼の女中宇佐見徳子とつきあう前に裕如莉を食事に誘ったが、断られたのだった。それ以来ずっと裕如莉――李花齢は駿吉にとって虫の好かない女だった。

その女は死んだはずだった。だがその女の魂はどうやら巧月生の肉体にのりうつって生きている。それがわかったからこそ思いついたことといえる。今日この会場で、花齢の魂のみている前で、丁香が――日本特務が正賞を手に入れる。すなわち三番目の茶壷を手にする。三霊壷をそろえる。そうなったときの花齢巧の顔がみものだと思った。

「コンテスト会場にいって妙なまねをしたら、おまえの大事な人間らの命はないと思え」

 駿吉巧は座敷牢でそういって花齢巧を脅しておいた。花齢巧は顔色を変えた。「大事な人間」とは、吉永義一と李龍平のことだと通じたにちがいなかった。駿吉巧はさらにいった。

「おまえにつける『護衛』が私の目となり耳となり手足となる。妙なまねをしようとしたら、すぐわかる」

 そうはいっても駿吉巧は花齢巧に自分の正体が小山内駿吉だとあかしたわけではなかった。花齢がみぬいているとしても、証拠を与えるようなバカな真似はしない。つねに慎重に行動している。今日この会場にも花齢巧とはべつの手段でべつの時間に到着した。小山内駿吉として客席についてからは、自分がニセ巧と同一人物とはおくびにも出さない。

かといって花齢巧の観察はおこたらない。本人に気づかれないように、つねにようすをチェックしている。巧月生の顔はここ一両日の監禁のせいもあろう、憔悴し、こわばっている。花齢巧はいま大事なふたりの命を危険にはさらせないという思いと、ふたりのために小山内駿吉から茶壷を奪いたいという思いとで板ばさみになっているのかもしれなかった。

 いい顔だ、もっと苦しめ、このあともっと苦しむことになる。だが油断はできない。あいつは、どこやらにひそんでいるにちがいない息子に渡すため、すきをみてこっちが所有するふたつの茶壷の情報を得ようとするかもしれない。しかしまわりの護衛に情報収集しようとしてもムダだ。あいつらは護衛ではない。長衫を着ているが、蒼刀会員をよそおった日本特務だ。駿吉がひそかに送りこませた配下である。あいつらがいるかぎり安心だ。

 だがそんなニセ蒼刀会員たちに、三列うしろから不審の目をむけている一団があるとは駿吉も知らなかった。その一団こそ、本物の蒼刀会員たちだった。彼らは巧会長をとりまく長衫をきた男たちをうしろからみて首をかしげている。あいつら、ほんとうに蒼刀会員だろうか。どうもみおぼえのない連中に思える。もっとも背中だけでは判断しがたい。だから確信はない。だいいち蒼刀会員ではない連中を会長がまわりにはべらせておくわけがない。そう考えると自信がなかった。そもそも彼ら下っぱ蒼刀会員は、邸づきの連中とちがって会長とまともに口すらきけない立場にあったし、すべての蒼刀会員を把握しているわけでもなかった。

だが彼らの直感が「あいつらはクサイ」といっている。こんなときアレーさんがいたら断をあおげたろうに、とみな残念がった。彼らはアレー派の蒼刀会員たちなのだ。アレーさんはせっかく上海に戻ってきたと思ったら、ボスに謀反をおこして、パレスホテルをでたというが、あれからどこへいったのだろう。あの人ならきっと適確な判断をくだしてくだすっただろうに。彼ら本物の蒼刀会員はなにもできず、ただ首をひねるばかりだった。

花齢巧と小山内駿吉のほかにもうひとり、この客席で三霊壷のことに思いをめぐらしている人間がいた。ハルトンである。ハルトンは巧と駿吉の一列まえで、ふたりのちょうど中間の位置に悠然と座っている。

満足そうな笑みがうかんでいるのには、わけがあった。特別審査員たちも知らないことだが、グランプリはすでに、ハルトンが指定した人間になることがきまっているのだ。

 審査員たちは自分たちの評価の総合がグランプリを決めると信じて疑っていない。しかし総合評価はハルトンによって発表直前にすりかえる手はずができていた。IAA副会長のハルトンだからできたことといえる。ほかの役員の目の届かないところでそのような不正行為をすすめられた。もっとも実際に動くのはハルトンではなく、ハルトン子飼の人間たちだ。

ハルトンがグランプリにさせる予定なのは、丁香である。その目的はただひとつ、狐仙茶壷と麒麟茶壷を奪い、ハルトンのものにすることにある。

丁香が日本特務に属し、日本特務が狐仙茶壷と麒麟茶壷を所持していることをハルトンは知っている。夕食会でわかったのだ。丁香が日本特務である確証は、ロレーヌに探らせてつかんだ。ロレーヌはハルトンが合宿所に送りこんだスパイである。合宿初日、ハルトンにいわれてIAAに「麗生がリラダン事件の実行犯」と密告したのはロレーヌだった。

 ただしロレーヌはハルトンが丁香を優勝させようとしていることは知らない。自分が優勝させてもらえると信じている。

だが優勝は丁香にさせる。二茶壷を奪うためには、正賞の「鳳凰のかたちをした茶器」、すなわち鳳凰茶壷を日本特務に一時的にもたせる必要があるからだ。正賞を授与された瞬間、丁香は――日本特務は鳳凰茶壷が手に入ったと思うだろう。三霊壷がついにそろったと思うだろう。ついに六神通をモノにできると狂喜するだろう。

しかし正賞は今日の帰宅時までにいったんIAAに返さねばならないことになっている。正賞の正式授与は半年後とIAAはあらかじめ発表してある。グランプリの名前を茶器に刻む時間が必要のためというのが表向きの理由である。だからグランプリ発表の場でいったん渡されても、丁香は今日の帰宅時までには正賞は返さなくてはならない。

日本特務としてはぬかよろこびの状態におかれたのと同じ。六神通をモノにするのを半年も待てないと思うだろう。となると、やつらはどうしようと考えるか。帰宅するまでに、そろった三つの茶壷で茶をいれて六神通をモノにしようとするだろう。鳳凰茶壷を控室かどこかにもちこんで狐仙茶壷、麒麟茶壷をひろげるだろう。そのときをねらって、ハルトンは狐仙茶壷と麒麟茶壷を奪おうと考えている。そのための計画はたててある。

だから三人のファイナリストがこれからひとりずつ行うパフォーマンスの内容などは、実は興味の外にある。はじめから結果のわかっている試合をみてもおもしろくない。さっさとはじまって、さっさと終わればいいと内心では思っている。だから舞台を興味津々の顔で眺めているのはお愛想なのだが、にもかかわらず自然と頬がゆるむのは、これから望みがとげられるという満足のためだけではなく、舞台上の白蘭が美しいからでもあった。

 まさしくファイナル審査の舞台にふさわしい美女といえた。一次のときと同じ白絹のシンプルなドレスをまとっているだけなのに、演台のまえに立った姿は内部から光を発しているように輝かしい。髪に挿している白蘭花はこの世のものでない冠のようにみえる。

 ところがその白蘭がマイクにむかって最初に発した一言には、さしものハルトンが度肝をぬかれた。

「私は今日この場をかりて、私の秘密を暴露します」

 開口一番、白蘭はそうきっぱりと英語でいった。

「いままで私はいろいろなことを秘密にしてきました。自分の経歴でさえいっさいふせてきました。けれど泣いても笑ってもミス摩登コンテストはこれで最後」

 決然とした顔で客席をみわたした。

「どうせなら、最後にありのままの白蘭を知ってもらいたい。なにもかもさらけだして、みなさんの審査をあおぎたい、そう思うにいたったのです」

 両手をまえでにぎりあわせた。

 特別審査員たちはみな不審な目になった。イギリス領事も、フランス租界公薫局理事も、ドイツ人映画監督も、フランス人デザイナーも、なにをいいだすか、という顔をしている。例外は唯一の中国人審査員、蒋介石夫人・宋美齢だった。この人だけは目を好奇心に輝かせた。

好奇心といえば記者も同様だった。最近夜の租界でなにかと人騒がせな行動をとり、つい先日もハルトンの夕食会でとんだ粗相を働いたという白蘭ではあるが、ファイナル審査の場でこんなふるまいにでるとは、どう考えても異常で、興味をそそられる。とにかく、ただならぬことをいいだしそうな気配なので、記者たちはいっせいにペンをとり、身をのりだして次の言葉を待ちかまえた。白蘭はいった。

「私は自分が何者か、もう隠しません。この場をかりてすべてを発表する――それが私のパフォーマンスになります。ではまずさっそくですが私の家族構成を発表いたしましょう。

 私の母は李花齢。李龍平は兄にあたります」

 客席がどよめいた。カメラのシャッターがすさまじい勢いできられた。

「兄も私が妹ということは隠してきました。兄妹とはいっても、種ちがいです。私の父は巧月生です」

 会場はさらに騒然となった。人びとの視線はしぜんと客席にいる巧月生にもむいた。

 巧月生は雷電にうたれたような顔をしている。人びとはそれを真実を暴露された人間の顔とうけとったが、そうでないことを小山内駿吉は知っている。あれは藪から棒をだされた人間の顔だ。事実無根の発表に衝撃をうけた顔だ。まさにねらいどおり。駿吉は腹のなかでしたり顔をうかべた。舞台上の白蘭は発表をつづけた。

「母は私が生まれてから次々といろいろな男の人を夫にしました。元米領事ジョン・ホワイト氏、フランス人ビジネスマンのミシェル・スピールマン氏、フランス人国際弁護士マルスリ伯爵の順に、それぞれ五年間ぐらいずつです。しかもそのあいだ巧月生との縁もきれていなかったといいます。私が十二歳になったとき、ぜんぶ母は直接教えてくれました。しかもとても自慢げに」

 白蘭の顔にカメラのフラッシュが明滅する。

「そんな母の影響を、私は自分の意思に反して、強くうけてきました。李花齢という人間に、私がどんな影響をうけたか?

 それを知っていただくにはまず、母が私にした仕打ちをお話ししたほうがよろしいでしょう。母がけっして世間には語らなかったところを、娘の私の口から語らせていただきます」


 舞台裏では四人の人間が棒立ちになっていた。李龍平と白蘭、それから白蘭の協力者二名である。――そう、白蘭は舞台上と舞台裏とふたりいた。

 舞台裏の白蘭のほうは、江田夕子の白蘭である。夕子の白蘭は、龍平たち三人の協力者とともに、いざ出場しようとここへきて、すでに舞台にもうひとりの白蘭が立っているのをみたのだった。

四人とも気死したように、舞台上の白蘭をみつめている。

「私の出番が・・・・・・」

 夕子の白蘭がいった。その顔は真っ青で、ひきつけでもおこしそうにみえた。

「俺が白蘭の兄だと?」

 龍平がいった。舞台をのっとっている白蘭をにらんでいる。

「ちくしょう、デタラメぬかしやがって。白蘭に親も兄弟もあったものか。さては丁香、こっちの白蘭を白蘭協力者控室で俺に会わせてるあいだに狐仙茶壷で白蘭に変身したな」

 いまさら気づいても遅かった。龍平たちは、コンテストを中止させる前に丁香に舞台上で復讐するという計画を立てていたのに、先手をとられたかたちになった。

「この期におよんでニセ白蘭にやられるとはな」

 龍平は自嘲気味に笑った。丁香の――日本特務側の――小山内駿吉の、なんという執念ぶかさか。こりずに白蘭をおとしめるのみならず、母の名に泥をぬる発表をしようとは。

「私も思いませんでした。丁香ちゃんが、こんなひどいことをするつもりだったなんて・・・・・・髪飾りを交換したのは、このためだったんですね。やっぱりおそろしい人・・・・・・」

「小龍(シャオロン)、舞台にのりこもうか」

 協力者のひとりが、たまりかねたようにいった。協力者たちも三霊壷の存在と、狐仙と麒麟の機能は知っており、それらがいま丁香とその仲間の手にあることを知っていた。だから舞台にいる白蘭がニセモノで、その正体が丁香だとあたりをつけている。

「ここでぐだぐだしてても、はじまらないよ、小龍」

 協力者のひとりはいった。

「いや。いま舞台にのりこんだりしたら、こっちの不利になるだけだ」

 とはいえニセ白蘭にこのままめちゃくちゃな発表をつづけさせるわけにもいかない。なんとしても、やめさせなければ。とはいえ勝算なくさえぎることはできない。 

「控室に侵入して丁香のあら探しでもしようか」

 協力者が思いつきでいった。龍平は目をきらっと光らせていった。

「それは、ありだな」

 二茶壷がもしほんとうに丁香協力者控室にあるのなら、いまは奪うのに絶好のチャンスといえた。いまニセ白蘭――丁香は舞台から動けない。いま四人が力をあわせれば、丁香協力者控室に難なく侵入でき、茶壷を確実に奪い返せそうな気がした。たとえそこにアレーに扮した人間がいて、命がけで茶壷を守っていようと。

だが龍平はいま舞台から目を離したくはなかった。だからいった。

「ボアンカに伝言をたのむ」

 龍平は協力者のひとりに伝言の内容をいった。

「ボアンカにこう伝えてほしい――ファイナリスト控室に行って、丁香の席にあるものがないか、探ってほしい。あれば、盗むのは難しくないだろうから、即刻盗んでここに持ってきてほしい、と」

「あるものって?」

 協力者はきいた。龍平はこたえを耳打ちした。それは茶壷ではなかった。なにかがわかると協力者は、

「私が直接盗んだほうが早いと思うけど」

 といったが、龍平はかぶりをふっていった。

「いや、おたくでは危険だ。ファイナリスト控室にはまだロレーヌがいるはずだから、妙な行動をみられてはまずい」

 協力者はうなずいた。この協力者がだれかは、あとで知れる。龍平はいった。

「ボアンカなら表面上はロレーヌの協力者だから、なんとかごまかせるだろう」

「わかった。でもボアンカに伝言をつたえるのに、私がロレーヌ協力者控室に行くのはいいの?」

「そのへんはうまくやってくれ。この際ほかに手段はない」

「承知した!」

 いうなり、その協力者は飛鳥のように舞台裏の通路を控室にむかってかけていった。


「私は子どものころ、母・李花齢のようにだけは、絶対になりたくないと思っていました」

 舞台上の白蘭は声をはりあげている。

見物は半ばあっけにとられつつ、話にひきつけられていた。白蘭は怨みに燃えるような目を客席にぶつけていった。

「九歳のころ、私は母親の言葉の暴力をうけるのが日課になっていました。母親は――李花齢は、そのころ写真の腕を世間に認められて、銀華デパートの専属カメラマンとして働きはじめたばかりでした。仕事に慣れない母は、家に帰るとストレス発散のために、私にひどい言葉をたくさん投げつけるようになりました。

 あの人は私の個性を認めず、あの人の思いのままに、人形のように従うことを求めました。反発すると、いえ、しなくとも母の機嫌さえ悪ければ、子どもの心を必ずえぐる言葉をわざとのように矢のように投げつけてきました。『あんたのせいで私の自由が奪われる』、『好きで生んだんじゃない』、子どもだった私に『泣くんなら男をつくって、その人のまえで泣きなさい』・・・・・・。

兄は男だからひいきされていたのか、理不尽な目にはあまりあいませんでした。 母の不満はすべて女の私にむけられたといっていい。それは習慣となり、私が思春期になってもつづきました。あの人の写真が表彰され写真家として名が売れてからも。むしろ年々ひどくなりました。忘れられないのは、『あんたなんて人間失格』といわれたことです。思春期だった私の心はズタズタに引きさかれました。

 あの人からは愛情のかけらも感じられなかった。あの人はあの人なりに思うところがあったかもしれないけど、すくなくとも私に愛情を感じさせることには失敗してます。

 まともな愛情を知らずに育った私は、非情な人間に成長しました。

 みた目には人なみの情があるようにみえたかもしれません。母もそう思っていたでしょう。なぜなら私は特別目だった反抗はしなかったから。ある程度の反発はしましたけど、言葉にだすというよりも、思春期にはよくあるように、不機嫌な態度をとったり、ぶっきらぼうな口のきき方をしたといった程度におさえてました。なぜなら子どもなりに、独裁者に抗っては生きていけないことがわかっていたからです。

私は心をおさえつけ、怒りや恨みをどんどん内にためこんでいきました。

 毎日が真暗でした。

 あの人と血がつながってるとは思えなかった。李花齢はほんとうの母親ではない、ほんとうの母親はどこかべつのところにいて、いつかその母親が優しくつつんでくれるにちがいない、いまの自分は仮の姿だ、と思って、私は自分をなぐさめるようになりました。

考えるのは家出することばかり。家出すれば、私のほんとうの人生がひらける――それだけを望みとして、あのころは生きていました」

 ニセ白蘭は、まるで真実のように話している。が、すべてデタラメだ。舞台袖の李龍平と白蘭、客席の花齢の巧月生は知っている。白蘭の母親が李花齢とは、とんでもないウソだ。白蘭には母親などいない。

にもかかわらずニセ白蘭は実に生々しく「母親」の話をしている。なぜか。それは丁香が役者だからでもあるが、いちばんの理由は丁香自身が母親と不和で、いま発表したような経験をしているからだった。丁香は自分の母親の話をもとに李花齢の過去をでっちあげ、自分の過去をもとに白蘭の過去をでっちあげていた。

「一九二七年の春、十五歳になった私は念願の家出をはたしました。

 もちろん十五歳の娘がひとりで自由気ままに生きられるほど世のなか甘くはありません。

 それからはおきまりのコースでした。

 持参したお金がとぼしくなると、私はダンスホールで男性のお相手をして踊るダンサーとして働くようになったのです。

 二年後の十七歳の誕生日を迎えたころには、平然と春をひさいでくらす身におちていました。――ええ、いまさら隠すつもりはありません。なにもかも告白すると最初に約束しました。私は街娼になったんです。

 幸い自分の素性を知ってる人には会いませんでした。私も用心して知りあいがこないような場所を選んで活動してましたし、みられたとしてもわからないように厚化粧してました。十五歳のころの私しか知らない人にはたぶん別人にみえたでしょう。私は十九歳になってました。

なんという青春だったことでしょう。

 ですが私には夢がありました。家出してから、できた夢なのです。その夢をたよりに生きてきました。

 正直にいいます。私はスターになりたい。

 スクリーンをかざる女優でも、スポットライトをあびる歌手でもなんでもいい、私は華やかな舞台に立ちかった。

 体を売ってすごした十代後半でした。それでも昼間はあいてましたから、ロシア人に歌をならったり、演技を勉強したりして、すこし自信がついてくると、映画や舞台のオーディションをうけるようになりました。でもどれにも、なかなかうかりませんでした。十代もあとすこしで終わりというときになると、さすがに焦りました。

そんなときです、ミス摩登コンテストの募集がはじまったのは――」

ニセ白蘭は客席をまっすぐみつめていう。

「とはいえ私は当初、募集のことをまったく知りませんでした。知ったのは、応募がしめきられたあとでした。それで私はのちに奇策を弄してファイナリストにさせてもらおうと考えることになるのですが、いまはそれよりも募集があったころの私の状況を話しておきたいと思います。

そのころ私はひどい精神状態にありました。だからもし募集のことを知ってても、どうしようもできなかったと思います。

 そのころ母が李花齢が――まだスキャンダルがもちあがるまえでしたが――どこで居場所を知ったか、三年半ぶりに私に接触してきて、なにかと思ったら、変ないいがかりをつけてきたんです。

『私の過去が人に知れた。あんたがいいふらしたんでしょう』

 女夜叉そのものの顔でいったものです。あとで知ったことですが、そのころ花齢は――『乙報』に最初のスキャンダル記事がのる前のことでしたが――本名が裕如莉ということが、あるすじの方にばれ、脅されていました。母は情報がだれからもれたかを考え、だれも思いあたらなかったので、私しか考えられない、といいました。私は母の過去などきいたことがなかったから、人にいいふらすわけがないのに、母は私が実家時代に自分の留守のあいだにいろいろ詮索して知ったんだろうとかいって責めたんです。あの人は私に『自白』を強要しました。私があくまで拒否すると、昔のように私の人格を否定しだしました。私の職業をもちだして、非人間あつかいしだしたんです。

あの人は私にあたって自分の恐怖と不安をまぎらわしたかったんです。最初からそれが目的で、三年半ほうっておいた娘を探しだしたものか、あの人はそれから毎日私の住んでいたアパートにやってきて、そのたびに私を否定しました。

三年半私なりに一生懸命生きてきたこと、目標にむかって努力したこと、すべて否定されたようで、私の自尊心、存在そのものが否定されたように思えて、体を売ることでたださえ消えかかっていた自信は、それでも夢をかなえようと努力することでやっと芽ばえはじめた私の小さな自信は、もろくもくずれていきました。

だいぶ上達してきたと思っていた歌も、そのときはまるきり歌えなくなりました。声さえろくにでなくなったほとです。

 去年の冬から今年の春先にかけてが私の第二の暗黒期となりました。

 母に自分を全否定され、私は自分でも自分という人間にまったく自信がもてなくなっていたんです。

 昼間、人と会うときは、表面だけはそれまでの私と変わらない態度でいたけど、ぬけがらのようだと自分では思ってました。

 二月、李花齢のスキャンダルが『乙報』にのってからは、それこそ地獄でした。花齢の私への暴力は言葉だけではなくなったんです。

 いちどは反抗しようと思いました。復讐の意味もかねて、花齢には十九歳になる娼婦の娘がいると、いっそ自分から新聞に名のりをあげようかと考えたこともありました。兄の龍平は花齢の息子としてとりあげられていたけど、娘の私の存在はなぜか知られていませんでしたから。

 でも私は鷹にみこまれた雀みたいなものでした。反抗したって逃げたって、母に前よりもっとひどい目にあわされるだけ――そう思うとこわくて、心が呪縛されて、なんにもできませんでした。

ほんとうにその第二の暗黒期のことは、トラウマになっています」

客席はしんと静まりかえった。ニセ白蘭は暗い顔をむけていたが、演台のコップの水を口に含むと、ひと息ついたようにいった。

「それだけに三月末、あのリラダン事件で母が死ぬと、正直私はうれしく、無情なようですけど自由が戻ったと思いました。死んでいた心は生きかえり、自信はよみがえり、とじていた目は外にむかってひらきだしたのです。

 摩登コンテストのことを知ったのは、ちょうどそのころでした。四月になっていました。応募書類のしめきりは二か月前に終わり、一次予選もすでにおわっていました。

でも私はあきらめませんでいた。ミス摩登になるのは自分だ、と思ったからです。

 母が消えたことで、私は絶大な力をえたように錯覚していました。私を否定する人、邪魔する人はもういない。だからやりたいことはなんでもできる、なろうと思えばなんにだってなれる、ファイナリストにすべりこもうと思えばすべりこめる、そう思ったのです。

 私はそのための策謀をたて、実行にうつしました。はたして私は、人気のあるファイナリストをひそかに失墜させ、かわりに自分の名をあげ、世間に白蘭こそファイナリストになるべきだと思わせることに成功しました。

そこからはもうやりたい放題でした。私はそれまで苦しんだぶん、好きにふるまう資格があるように思いこんでいたのかもしれません――。

 いまになって考えると、私のしたことは、私があれほどいやがっていた母のしたことと大同小異でした」

ニセ白蘭の顔にフラッシュが光る。

「みなさんはきっと、あやしんでおられるでしょう。白蘭はなぜあと一歩でグランプリというところまできて、自分の損になるどころか、自滅するとしか思えない告白をしたのかと。

 おこたえしましょう。

私は寝覚めの悪さにたえられなくなったのです。最後まですまし顔でグランプリをねらえるほど、私の神経はずぶとくはありませんでした。

グランプリのためにしてきたあくどいことを思うと、たとえグランプリになれても心からはよろこべない、それどころか、いままで以上の寝覚めの悪さに苦しむことになるだろう、という気がしてきたんです。

だったらみなさんに真実を告白し、おわびしたほうがいい、そう思うにいたったのです。

 ですから私はいまから、自分がおかした罪を告白します――」


 ファイナリスト控室は、協力者控室とはちがい、ドアに鍵がかかっていなかった。

 ボアンカは、ファイナリスト控室のドアをあけた。白蘭協力者からきいた龍平の依頼にしたがってのことである。あるものがないか、探りにきた。それは丁香の席にあると思われるから、あったら盗んで舞台袖の李龍平に届けてほしい、という依頼だった。

ボアンカは作り笑いを顔に彫りこんでから、ドアをあけた。なかにはロレーヌがいるはずだった。丁香の席を探るにはロレーヌの目をごまかさなくてはならない。

だが、なかは無人だった。ファイナリスト控室にはだれもいなかった。ロレーヌがどこにいったのか、気になったが、考えているひまはなかった。ボアンカは大急ぎで丁香の席らしきテーブルに目をつけ、近寄っていった。


「おききください、私白蘭は三つの大罪をおかしました」

 舞台上のニセ白蘭は、観客相手にとんでもないことをいいだした。

「私のパフォーマンスは、いわばこれからが本番」

 そういって演台の前におどりでたかと思うと、

「三つの大罪をいまからひとつひとつ発表していきます。では第一の大罪」

 堂々たる声をはりあげた。

「みなさんおぼえておりましょうか。五月にあった銀華劇場のファッション・ショーで、司会者でもあった麗生さんとルドルフ・ルイスさんが大トリをかざりましたとき、客席から小山内千冬さんが舞台に乱入したこと。そのあと小山内さんの頭から日本の簪のかたちをした小刀が発見され、ために彼女がリラダン爆破事件の犯人にしたてあげられたことを」

 見物たちは戸惑いつつ、一応うなずいた。するとニセ白蘭はいたずらをみつかった子どものような顔をして、

「あれは実は、私のしわざだったんです。私は当時のトップ3、グランプリ候補のひとりといわれた小山内千冬さんをハメたんです」

 あっさりいってのけると舞台下手に体をむけて、声をはりあげた。

「ねえ、そうですよね?」

 突然の呼びかけを見物があやしむまもなく、

「ねえアレーさん!」

 呼ばれた名前と、それにこたえた声をきいて、人びとは騒然となった。

「はいはい」

 そういって舞台下手から登場したのは、あろうことか、失踪したはずの魔術師アレーだった!

 息をひいた見物に、白蘭の横にならんだアレーは、

「どうもみなさんお久しぶりで」

 もみ手をし、たぬき顔に愛想笑いをひろげて、

「突然の登場、驚かせて申しわけありません。巧廟式典中、箱から消えたきり行方をくらましていた魔術師アレーでございます」

 人をくったようなあいさつをした。

「なにしろ魔術師、神出鬼没も芸のうちということで、本日は愛弟子のため一協力者としてあらわれたしだいでございます」

 おなじみのまろやかな口調で、いつものショーの前口上のようにいってのけ、

「ではでは、白蘭の質問におこたえいたしましょう。ええ、ええ、白蘭が小山内千冬さんをハメたのはまちがいございません。実はあのファッション・ショーに白蘭をつれていったのは、この私ですが――といいますのも、私は特別ゲストとして出演することになっていましたので、当日になって白蘭にみせてやろうという気になりまして。ところが、白蘭は私に誘われなくてもあのファッション・ショーに行く気でいたとは、当時はまったく知りませんで」

 そこまでいうとたぬきそっくりの目を、いっぱいにみひらいて、

「いやまさかまさか、あの白蘭が小山内千冬さんをハメるための計画をたてていようとは。私は白蘭が会場につくなり小山内さんに懸命に話しかけているのをみても、なにも気づきませんでしたのです。魔術師としたことが、なんとも不覚。すべてはあとでわかったことでした。――そうです、いまではすべてわかっています。この白蘭が小山内千冬さんに致命的打撃を与える行為を働いたことは、まちがいございません」

 そういってドンと胸をたたいてみせた。

その芝居がかったようすに――いや、アレーの存在そのものに、舞台袖の白蘭と龍平が不審な視線をむけたことは、いうまでもない。四人はアレーがでてきたのとは反対側の――上手側の舞台袖にひかえていた。四人ともただただ目を驚かしている。

 あれが本物のアレーのはずがない。本物なら、ニセ白蘭に協力してこの場であんなことをいうはずがない。龍平は思う。そもそも本物は吉永義一として拘置所にいる。それは自分がいちばんよく知っている。舞台にいるアレーは丁香の協力者かだれかが狐仙茶壷で変身したニセモノにちがいない。だがニセモノのアレーは、丁香協力者控室で茶壷を守っているはずではないのか? それが舞台にいるとなると、現在丁香協力者控室には茶壷を守る人間がだれもいないということにならないか? そう考えると龍平は胸がどきどきしてきた。

「ただいまアレーさんが証明したとおり」舞台上のニセ白蘭は演説をつづけている。

「小山内千冬さんをけおとしたことが、私の第一の大罪です」

 しめった声で、心から罪に感じているといった顔をして、ニセ白蘭はいった。

「第二の大罪をおかしたのは、それからまもなくのことでした。今度は麗生さんが邪魔になったのですね。そこでさっそく次なるはかりごとをめぐらしました。小山内さんで味をしめて調子にのった私は、とんでもないことを考えだしたのです――」

 泣いているようなきらきらした目を虚空にむけてニセ白蘭はいった。

「麗生さんを文字どおり葬ろうと考えたんです、しかも自分はヒーローになろうと。

 あらためて説明するまでもないかもしれませんが、つまりこういうすじ書きでした――ファイナリスト一、人気者だった麗生さんを他人に殺させて、人びとが恐怖し憤慨したところで私があらわれ、殺人犯を倒す、私は正義のヒロインとしてあがめられ、世論の力でミス摩登ファイナリストに推される――。

計画の実行は注目があつまる時と場所がいいと思ったので、五月十六日のチャリティ・イベントを選びました。麗生さんを殺させるのは、麗生さんを憎んでいて、かつ市民の反感をかいやすい人がいいと思ったので、ルドルフ・ルイスさんを選びました。もっとも私の計画などはいっさい知らせませんでした。つくり話をして、その気にさせたんです。麗生さんを殺さないとルドルフさんの身が危ないようなことをいって。――ねえルドルフさん、そうですよね?」

 ニセ白蘭は舞台袖に呼びかけた。すると下手から、いかにも、ルドルフ・ルイスが登場した。龍平はあいた口がふさがらなかった。ルドルフはいつのまに白蘭協力者から寝返って丁香の協力者になっていたのである。ふたたび日本特務側についたのだ。龍平にたいするあてつけなのはまちがいない。

そんなことは知らない人びとは、アレーのときに比べると驚いていない。お騒がせ男ルドルフだけに、またでたか、という感じでみている。そうした反応にルドルフは気を悪くして、アレーのまえにズカズカとわりこみ、ニセ白蘭をむいて指をささんばかりのいきおいで叫んだ。

「そのとおり。真相をきくにつけ、あなたを恨んでも恨みたりない。よくも人の心理を利用してくれたものだ」

 例のおおげさな口調でいったか思うと、腰に片手をあて、クルッと九十度ターンして客席に体をむけ、

「みなさん、きいてください! 当時私は麗生を憎んでいた、そこにつけこまれたんです。

 私は麗生と交際していましたが、交際とは名ばかりでした。麗生はファッション・ショーで親密さを強調しようとしましたが、私のほうは嫌気がさしていました。憎悪するまでになっていたんですが、別れようにも、むこうで別れてくれない、離してくれない、そういう状況でした。それをこの白蘭という人はどこで知ったか、自分の策謀に利用しようと考え、あのイベントで私にこうふきこんだんです――『麗生があなたを、いまそこにみえる蘇州河の小型荷船につれこんで暴行しようとしている』、と。

 きいた以上、どうして平静をたもてましょう。

 激怒した私が理性を失い、麗生め、今日という今日は許せぬ、という気持ちになったのは是非もないことです。

それまでは麗生を殺すつもりなど皆無だったのに、私は殺す気にさせられました。すべては、しくまれていたんです!」

 怪気炎をあげた。客席はしんとしている。みなの目は冷めていた。ニセ白蘭は人びとの心を読んだようにいった。

「ルドルフさんの発言はけっして大げさではありません。この人に裏づけしていただきましょう」

 そういってまたも手のひらを舞台袖にむけた。すると下手から馬秋秋があらわれた。きびきびとした足どりでやってきて、

「はい。ルドルフさんの発言内容は事実です」

 冷静な口調でいった。それにしても馬秋秋はいつのまにニセ白蘭の協力者――というより丁香の仲間になっていたのか。龍平たちの疑問とは関係なく馬秋秋は証言する。

「チャリティ・イベントの日、私はたしかに目撃しました。事件前、ふたりが蘇州河河岸のベンチにいるところを。ルドルフさんは白蘭さんになにごとかをささやかれていました。そしてブーツからなにか黒いものをとりだしていたんですが、それが短銃だったとは、あとで思い返したときに初めてわかりました。

 なにしろそのときは私もルドルフさんが麗生さんを殺そうとは想像もしていなかったし、麗生さんが殺されたあとはルドルフさんを河につきおとした白蘭さんの『英雄的行為』にすっかり目をくらまされていたものですから、しばらくは真実に気づかなかったんです。

 でも、いまは、わかっています。白蘭さんがルドルフ・ルイスさんをそそのかして、私の大切な友人麗生を殺させたと」

馬秋秋はうったえるように客席をみた。ニセ白蘭は馬秋秋の肩に手をのせ、ご苦労さま、といったような目をした。それから悲愴な表情をつくり客席にむかっていった。

「そうなのです。しかも私はそのあと、麗生さんの死に憤って声をあげた人を邪魔に思い、社会的に葬ろうと画策しました。その人こそ真の英雄であったにもかかわらずです。

 ――そうです、私は兄、李龍平にたいして第三の罪をおかしたのです」

舞台裏の白蘭には、ここでニセ白蘭が自分をみてニヤッと笑ったようにみえた。ニセ白蘭――丁香は、白蘭――夕子が李龍平に恋してるのを知っているからだ。夕子が龍平の名に敏感に反応するのをひそかにうかがって楽しんでいるように感じられた。

ニセ白蘭はきこえよがしいう。

「兄龍平は六月半ば、逮捕、勾留され、つとめていた新聞社も解雇されました。共産党のビラを大量に保持していた、という理由でです。

ですが兄は共産党員ではありませんでした。兄は正義を愛する新聞記者にすぎなかった。前にだれかが『筆を武器に闘う志士』といってくれましたけど、そのとおりで、兄はつねに弱い者の味方でした。

それが共産党員にしたてあげられたのです。

だれによって? 私、妹白蘭によってです。――ねえ、そうですよね?」

 呼ばれて四人目の証人が下手から――熊のような大男がのっしのしとあらわれた。

 これには龍平、白蘭ともに、いままで以上に意表をつかれた。

でてきたのは劉虎だった。かつて巧月生の右腕といわれただけあって、今年の春、巧月生に花齢がとりつくと、いち早く不審を感じとった男である。巧廟式典で巧の異常なふるまいをみてからは完全にみきりをつけたか、巧はおろか、蒼刀会にもすっかりよりつかなくなった。それは知っていたが、まさかニセ白蘭――丁香と接触していたとは。

「まさにそのとおり。当時私は白蘭さんと親しい立場にありましたので、よく存じています」

 大きな体にふさわしい声を劉虎ははりあげた。

「白蘭さんは李龍平さんをハメました。共産党のビラが入っていたというレコードは、李龍平さんが白蘭さんに贈ったものでした。そのレコードのジャケットに白蘭さんは共産党のビラをしこんで、警察に渡したのです。警察はそれを李龍平さんが共産党という証拠に利用しました。まちがいありません」

 政治家でもめざしているのか、貫禄たっぷりにいって聴衆をみわたした。それにしても、かりにも蒼刀会員の幹部が、内情暴露にあたる行動にでるとは。ニセ白蘭の正体が丁香で、丁香が蒼刀会と敵対する日本特務関係者だと知っての上での行動なら、完全な裏切り行為といえる。

ニセ白蘭は劉虎に軽く礼をのべると、ふたたび人びとにいった。

「私の三つの大罪は以上、お話したとおりです。兄龍平、小山内千冬さん、特に麗生さんに私がしたことは、償おうとしても償いきれるものではありません。けれど三人にたいしてはもとより、私が迷惑をかけた多くの人、みなさんにたいして、私はいま謝罪せずにはいられません」

 凛然と象牙のような顔をしていう舞台上のニセ白蘭を、舞台裏の白蘭は生気のない紙のような顔をしてみつめている。

 夕子の白蘭は思う。三つの大罪――たしかに自分は結果的に罪となる行為を働いた。だけど私はグランプリになろうと思ってはかりごとをめぐらした覚えはない。

 なのにニセ白蘭の丁香は、アレー、ルドルフ、馬秋秋、劉虎を証人にして、白蘭を悪辣な犯罪者にしたてあげた。その上いま勝手に謝罪までおこなおうとしている――。

「たのまれたもの、あったよ」

 ふいにそばで声がした。いつのまにボアンカが戻ってきている。

「でかした」

 龍平がふりかえってこたえた。

 ボアンカは両手をひらいた。くるむようにしてもってきたのは、小さな壜だ。龍平はうけとると、ふたをあけ、手のひらで香りをたぐりよせ、満足そうにいった。

「うん、たしかに例のやつだ。よかった、ほんと助かった。なにしろこっちの手持ちは金曜でなくなってたから。ごくろう」

「ファイナリスト控室にあってよかったよ」ボアンカはいった。

「だれもいなかったのも、ついてた」

 すると龍平はすこし妙な顔をして、

「ロレーヌもいなかった? それは妙だな」

 そういったが、すぐもとの口調に戻り、顔をひきしめていった。

「ともかく例の重要ミッション、これからたのんだからな」

「まかせて。二茶壷はあの人が、丁香協力者控室で持ってるんだよね」

 そういったボアンカは舞台にいる人間をみて、たちまち顔色を変えた。目が一点に釘づけになった。そこにアレーがいることにいま気づいたのである。こわばった唇を動かして、

「あの人が、どうしてあそこに・・・・・・。舞台にいるってどういうこと・・・・・・」

「俺も不審に思った。だけどいまあのアレーにたしかめに、舞台にいくわけにはいかない。それより丁香協力者控室だ。いまこそ、しのびこむチャンスだよ」

「了解・・・・・・」

 ボアンカは蒼白な顔でこたえ、廊下をすべるように去っていった。

「こっちもこっちでいくぞ。手に入れるべきものは入ったんだ」

 龍平は白蘭にいった。ボアンカからうけとった小さな壜と、それに自分がもっていた簫(※竹製縦笛)をくわえて、

「行けるな?」

 と、きいた。

「・・・・・・」

 白蘭は面上に思わず迷いをあらわした。ふたつのものを使って龍平が自分になにをさせたがっているかは、いわれなくてもわかっていた。――ニセ白蘭との正面対決だ。

けれども白蘭にはまだ覚悟ができていなかった。勇気がなかった。この状況では、舞台にのりこむだけでも相当の勇気がいる。その上に、あれだけの大勢の人間の前で、自分がいちばん苦手とすることを、できるかどうか。

丁香との対決は、いままでずっと避けてきた。丁香とぶつかりあうと考えただけで、白蘭――夕子の心はおそろしさにちぢみあがる。

でも昨日、私はやると決めたはずではないか。いまやらなければ龍平さんは二度と私を信用しないだろう。私はなによりも彼の心を、自分にひきよせたいのではなかったか。

「どうした?」

 龍平がいった。白蘭は深呼吸していった。

「行きます」

 すると龍平はなにもいわずに小壜と簫を白蘭の両手ににぎらせた。それから白蘭の目をみて、にこっと笑った。

白蘭は目でうなずいた。事前にいわれたとおり、小壜を襟くびにさしこみ、スポットライトのあたるほうへと歩みだした――。

舞台のニセ白蘭は、いままさに謝罪を行おうとしていた。

「ほんとうに申しわけありませんでした」

 そういってニセ白蘭は頭をさげ、腰をまげようとした。ところが折り曲げかけた上体がふいに妙な角度で静止した。

「アッ!」

 見物が叫んだ。叫んだのは、白蘭の上半身が中途半端な角度で静止したせいではなかった。そもそもそんなことには気づいていない。人びとの視線は別方向の舞台袖に吸われていた。さっき「白蘭の罪の証人」たちがでてきたのとは反対側の舞台袖である。

 最初はみな、自分の目がおかしくなったのかと疑った。

 どうも白蘭がもうひとりいるようにみえる。

 目がかすれて舞台が二重にみえるのだろうか。

 でも、いくら目をこすっても、白蘭がふたりにみえるのは変わらない。

 よくみるとふたりは別人だ。顔から体型から服からなにもかも同じだが、髪飾りがちがう。ひとりは白蘭花をさしてるが、もうひとりは真珠の冠のようなものをさしている。しかも白蘭花をさしてるほうが舞台中央から動かないのにたいし、真珠のほうは舞台袖から歩いてくる。

そのことに気づいて、舞台上の劉虎も馬秋秋もルドルフもアレーも気死したようになっている。

この舞台に白蘭がたしかにふたりいる。

白蘭には双子の妹でもあったのか? だが白蘭は兄はいても姉妹がいるとはいわなかった。双子でなければ、この白蘭に生き写しの娘はいったいだれなのか? 

場内が驚愕のどよめきにつつまれるなか、ニセ白蘭は上体をゆっくりとおこしている。さっきいったん折り曲げかけた腰が途中でとまったのは、のりこんでくるはずがないとたかをくくっていた白蘭を目のはしにとらえた衝撃と動揺のせいだった。が、いまはもう体勢をたて直しつつある。ニセ白蘭は頭をむくむくとおこしつつ、隣にやってきた白蘭を横目で冷静に観察するまでのよゆうをとり戻している。

 かくして、白蘭と白蘭が相対した。

うりふたつの華麗な顔と顔とがにらみあった。

はた目には美女と美女の競演。だが実に奇怪な競演ではないか。このふたりは髪飾りをのぞいては、なにからなにまでそっくり同じなのだ。顔も体型も華麗な雰囲気も、そっくり同じ。まるで同型の大輪の牡丹がふたつならんだよう。

 この豪勢かつ怪異な光景をまえにして、審査員たちは異議をとなえたい気持ち以上に、好奇心にとらえられていた。見物もいったいなにがおこるのか、といったように息をのんでみまもっている。

突然、真珠の髪飾りをさしたほうが、もうひとりの白蘭を指して叫んだ。

「この人はニセモノですっ」

 脳天からでたような声だった。夕子の白蘭は叫んだものの、ニセ白蘭と目をあわせられなかった。指はふるえていた。客席をみる勇気もなかった。それをみてとったニセ白蘭は失笑と冷笑を同時に目元にきざみ、

「大成功ですね?」

 声をはりあげて舞台上のアレーに視線をうつした。

「魔術で私にそっくりな人をつくり、私と共演させる。おかげで会場のみなさんを驚かせられましたね。ねえアレーさん、私のニセモノにニセモノと呼ばれたときは、それでもちょっとドキッとしましたよ」

 笑顔でいって仲間のアレーと握手をかわしてみせた。

「じゃ、自分が本物だというんですね?」

 そういったのはアレーではない、夕子の白蘭だった。声をふるわせつつもいった。

「自分がニセモノでないと、証明できますか」

 手にもっていた簫を、ニセ白蘭の胸もとにつきつけていった。

「本物の白蘭なら、これで美しい曲を吹けるはずです。吹いてください」

 ニセ白蘭の顔にかすかに狼狽のさざ波がたった。が、それは一瞬で、ニセ白蘭はすぐにニコッと笑って、夕子白蘭の意気ごみなど歯牙にもかけないような気楽な態度で、

「簫を吹くぐらいなら」

 そういって簫をうけとった。

人びとは注目した。真珠の髪飾りをした白蘭は客席からみて左に、白蘭花をさした白蘭は右にいたが、いまは右の白蘭に視線が集中している。

 その白蘭がいま簫の縦にならぶ穴に指先をあてた。花のような唇を、笛の口にあてがった。会場は簫の調べを待って、水をうったように静まりかえった。

その瞬間だった。簫をくわえた白蘭の顔が奇妙にゆがんだ。一瞬ののち、その顔は炎のように真っ赤になった。のどでもつまったのか、耐えられぬ苦痛に襲われたようで口を笛からはなした白蘭は、しかしみんながみているだけに、それでも一息二息、肩で息をしてこらえたが、やがて背に腹はかえられなくなったか、うしろがえって演台のグラスをひっつかみ、半分残っていた水を一気にのみほした。

 白蘭はいったいどうしたのか? いまのことだけでも見物は十分動揺したが、その上さらに信じられないことが起きた。

だれも簫をにぎった白蘭から目を離せなくなった。

 一般客や審査員はおろか 舞台上の劉虎も馬秋秋も、とびだすような目でその白蘭をみている。いや、彼らがみているのは、もはや白蘭ではなかった。

 水をのみほしたあと、右の白蘭の体には変化がおきていた。

 西洋的な彫りの深い華やかな顔が一瞬にして東洋的な楚々として涼しい顔に変わり、ウエーブのかかった髪がストレートの髪にかわり、肉感的な体がすらりとしたかよわい体に変わっている。

 転瞬の間にありうべからざることがおこっていた。さっきまで白蘭だった人間が、まったくべつの人間に姿を変えている・・・・・・!

 それはまさに変身だった。

 おお、しかも変身後の姿に人びとはみおぼえがあった。みおぼえがあるどころか、あれはこのあと二番目に出場する予定の蘇丁香ではないか!

 いったいどういうことだ、白蘭が丁香になるとは?

だれもが目をぱちくりさせた。

そのようすから丁香はなにが起きたかを察して、さすがに色を失っている。顔こそみえないものの、手足をみれば もとの姿に戻ったことはわかる。

夕子の白蘭は会心の笑みをもらした。うまくいった、と思う。変身は自分がしかけたことなのだ。ニセ白蘭が簫をかまえた一瞬のすきに、自分の襟から小壜をぬきだして中身を演台のコップにうまくそそぎいれた。小壜の中身は白茶だった。ボアンカがファイナリスト控室の丁香の荷物から盗みだしてきたものである。

 簫はあらかじめ龍平が用意していたものだが、その口には仕かけがしてあった。ニセ白蘭が水をのまずにはいられなくなるよう、刺激性の強い調味料が龍平たちの手によってぬられてあった。だから簫に口をつけるなりニセ白蘭はのどをつまらせた。そして水を欲し、白茶入りの水をのんだために、もとの姿にもどったのだ。

 いまやだれの目にも、右の白蘭がニセモノで、その正体が丁香なのはあきらかである。舞台にあとから登場した白蘭こそが本物とわかったはず。

 ――そう夕子の白蘭は思ったが、人びとは実はよくわかっていなかった。そもそも変身がおこなわれたということ自体、信じられずにいる。かりに信じたとしても、白蘭が丁香になったのか、丁香が白蘭だったのか、そのへんのことがよくわからない。

丁香をみて口をぽかんとあけるばかりだった。

 だが例外もいた。小山内駿吉とハルトンである。このふたりはなぜか丁香にはみむきもしていない。それよりも左の白蘭に視線をはわせていた。顔にはあくまで微笑をはりつけつつ、目の奥は鋭く光らせ、白蘭の体に彼女が隠しもっているはずのもの(白茶)を懸命に探していた。


 丁香協力者控室にはなぜか、鍵がかかっていなかった。

 強行突破する気でいたボアンカは首をかしげつつ、それでも威勢よくドアをおしあけ、なかにとびこんだ。

二茶壷を奪いにきたのである。夕子の白蘭が丁香にきいたところによると、二茶壷はアレーがこの部屋で守っているという。

 だが室内は閑散としている。アレーはおろか、ほかの丁香協力者もいない。それもそのはず、丁香協力者たちは舞台に総出演中である。では茶壷はどこにあるのか。ボアンカが室内を入念にあらためようとしたときだった。

「助けて」

 テーブルの下から声がした。ボアンカは耳を疑った。それはロレーヌの声だった。

 ボアンカは腰をかがめてテーブルの下をのぞきこんだ。ロレーヌがこの部屋にいることも信じられなかったが、それ以上に驚いた――床にはみたこともない男がふたり血を流して倒れていた。ロレーヌはそのふたりのあいだにはさまっていた。負傷はしていない。なのにでてこないのは、うしろからべつの人間に銃をつきつけられているからだった。倒れている男のほかにも、男がいた。ロレーヌに背後から銃をつきつけている男は、奥にいて顔はみえないが、浅黒く毛深い手をしている。それをみてボアンカは顔色を変えた。銃をにぎる手はアレーの手にそっくりだ。ここにアレーがいるのか? アレーは舞台にいるのではなかったか?

「どういうこと・・・・・・」

 ボアンカは思わず口にだした。

「助けて」

 ロレーヌがくりかえす。ボアンカはいった。

「助ける前に説明して。ロレーヌさんはどうしてここにいるの。なにが目的?」

 目的しだいでは、いま助けるわけにはいかない。

「いいから、この男から私を助けてくれ」

 ロレーヌはうったえる。ロレーヌが丁香協力者控室にきた目的は、ボアンカと同じだった。狐仙茶壷と麒麟茶壷を奪いにきたのである。ファイナリスト控室で丁香が白蘭に二茶壷のありかをいったのを耳にしたとき、盗もうときめた。ロレーヌはハルトンのスパイだが、ハルトンの判断をあおぐひまはなかった。チャンスをみつけてただちに実行した。

 ニセ白蘭が舞台にでて三つの大罪を発表していたころ、ロレーヌは銃を隠しもち、丁香協力者控室におし入った。室内にはアレーをはじめ、男がふたりいた。いずれも大柄で筋骨たくましい男たちで、アレーの護衛の役目を与えられているようだった。丁香の話では二茶壷はアレーがもっているということだったので、アレーめがけて直進した。そして妨害にあった。

ロレーヌがアレーにせまろうとすると、護衛らしき男ふたりが巨体をならべて行く手をはばんだ。これはいよいよ茶壷があるにちがいないと確信をえて猛進しようとしたら、銃をちらつかせてきた。だが相手には遠慮があった。さすがにファイナル審査出場者を前にしては、手をだしかねるものとみえた。そのすきに乗じてロレーヌは発砲した。自分の身を守らなくてはならなかった。男ふたりは血を流して倒れた。そしてアレーに突進しようとしたところに、今度は自分が虚をつかれて、背後から銃をあてられたというわけだった。

「早く!」

 ロレーヌは必死の目でうったえた。ボアンカはなお動かない。

 それにしてもアレーはなぜ黙っているのか。ロレーヌに銃をつきつけておいて、救いを求めさせるままにしている。

ボアンカは奥をのぞきこんだ。アレーが視界に入った。銃をつきつけている男の顔はまさにアレーそのものである。三週間ぶりに愛する男の姿をみて、ボアンカは平静ではいられなかった。鼓動が高鳴った。頭が熱くぼうっとなった。

それにたいしてアレーの顔にはなんの感情もあらわれていない。ボアンカに男性として特別な感情を抱いてないとしても、ひさびさにみる助手の顔だ、すこしは感情をあらわしてもいいと思うのだが、目の前のアレーの顔は不気味なほど冷静だった。ボアンカがじっとみていると、おちつきはらった声でいった。

「ロレーヌを助けようとは思ってないだろう。みすててでも、目的を果たしたいと思ってるだろう」

 このアレーは本物じゃない――ボアンカは直感した。

にもかかわらず、なつかしさでいっぱいになった。本物ではないとわかってるのにアレーの声をひさびさにきいたうれしさに頭も心もしびれたようになった。本物に再会したような錯覚をおぼえて思わず、あえぐようにいった。

「アレーさん・・・・・・」

 

「ごらんのとおり、この人は丁香さんです」

 舞台上の白蘭はここぞとばかりに、声をはりあげた。

「白蘭ではなかったのです。なりきっていたのです」

 丁香はさすがに青ざめている。自分の変身はさっき馬秋秋のさしだした手鏡で確かめた。動揺は隠せなかった。みんなが変身を目撃したのである。とりつくろいようがなかった。白蘭が隣で凱歌のような叫びをあげるのも、どうしようもできない。

「さっきここにいた白蘭の正体は丁香さんだったのです。信じられないことですが、ごらんのとおりの事実です。丁香さんは私白蘭に変身し、ファイナル審査をのっとったんです。そして私白蘭がおかしてもいない罪を、おかしたように発表したのです。なんとおそろしいことでしょう」

 口では「おそろしい」といったが、白蘭はいまや丁香も客席をも、おそれるようすはない。丁香のショックをうけた顔をみたら、急に自分が強くなったような気がした。自信がわいた。もともと人の悪口は得意である。いちど口に出すと興にのって、大勢の前にもかかわらず、いや大勢の前だからこそだんだん気持ちよくなり、かつて感じたことのない昂揚感が身内にわきおこるのを感じていた。白蘭は酔っぱらったように滔々と弁じた。

「さっきこの人が発表したことは、ぜんぶウソです。すべて私白蘭をおとしめるためだけにこしらえたデタラメです。いいえ、さっきにかぎりません。

 ここ三週間、夜の租界でばかげたふるまいをしていたのも、私ではなく、丁香さんのばけたニセ白蘭だったのです。

 ありえないことのようですが、いまここでひとりの人間がべつの人間に変身したところをご覧にいれた以上、わかっていただけると思います。丁香さんは変身の秘術を身につけているんです。

 でも夜の白蘭には丁香さんがついてたじゃないか、とみなさんはおっしゃるかもしれません。いえいえ、あれはほかの人が丁香さんにばけていたのです。丁香さんの子分にでも変身させたものでしょう。

 だいたいおかしいとは思いませんでしたか。毎回荒れる白蘭に丁香さんがいやな顔もせずついていくなんて。丁香さんほどの自信家が、白蘭にいじめられっぱなしで平気でいるなんて。でも租界で暴れる白蘭の正体が丁香さんで、いじめられ役の丁香さんの正体が丁香さんの子分とわかれば、納得がいくでしょう。丁香さんは白蘭に変身して、やりたい放題をしてたんです。

 わかっていただけましたか。すべてはこの人、丁香さんが白蘭の評価をさげ、自分の評価をあげるためにしくんだことだったんです」

夕子の白蘭は丁香を指さしていった。

「この人こそ、異常な手段をつくして人をおとしめてきたんです」

 まさに叛旗をひるがえすかに、永遠の友情を求めて控室で泣いたのはウソだとはっきりわかる視線を丁香に投げつけていった。

「大罪を三つおかしたのは、この人です。丁香さんには、おそろしい裏の顔があります。みなさんにそれを発表しましょう」

 ――このとき丁香がもし謝ったなら、白蘭は思いとどまっただろう。白蘭は自分では意識していなかったが、相当なショックをうけていた。丁香が白蘭にばけて、白蘭を中傷するデタラメの発表をしたことに。

 裏切られた、と心の底から思った。

 丁香が自分のイメージどおりの人間でなかったことは、ここ一週間でよくわかったはずだった。けれども白蘭は心のどこかではまだ丁香を信じていた。なぜなら夕子は千冬をとおしてしか、丁香の陰の顔を知らなかったからだ。丁香は今日までいちども夕子の前で露骨な悪相をみせたことも、悪態をついたこともなかった。本性をはっきりとあらわしたことはなかった。夕食会後に丁香の隠れ家におしかけたときも、丁香は自分が日本人とは認めなかったし、悪人らしいそぶりはみせなかった。千冬が撃たれたあと夕子を脅す意味のことはいったが、言葉はいつもの親しげな調子だった。

 それだけに夕子は今日まで丁香の虚像を粉砕しきれずにいた。漢王朝の寵妃のようで、唐代の妓楼の女詩人のようで、十九世紀末のフランスのダンサーのよう――あらゆる伝説的な女性たちを彷彿とさせる、あらゆる幻想をかきたてる、そんな丁香の魅力を忘れられずにいた。

 だが今日、丁香は白蘭に変身して舞台をのっとったうえ、白蘭は悪人だと声高に発表した。それもミス摩登コンテストのファイナル審査の場でだ。

 丁香は夕子の前でついに本性をあらわしたのだ。

 今日こそはいやでも認めざるをえない。丁香は神秘的でもなんでもなかったと。自分を棚にあげて、白蘭は思った。丁香は超俗とみえて俗物、質素とみえて貪欲、非凡とみえて平凡――みんなと変わらない人間だった。それどころか最悪の人間だった。そう認めるのはしかし白蘭には身をきられるようにつらいことだった。

私の丁香のイメージを返して――白蘭は思った。信じた心を返して。せめてあやまって。

 虫のいいことに白蘭はひそかに期待した。丁香がこの場で自分に謝ってくれることを。

 だが丁香は謝らなかった。それどころか否定した。

「いいがかりです。私が白蘭さんに泥をぬるために私がみずから変身したなんて、とんでもない、いいがかりです、みなさん」

 信じられないことに丁香はふたたび立ち直っていた。さっきまでの悄然ぶりはどこへいったかと思われる。

「私は変身させられたのです」

 丁香は悲愴感あふれる顔で人びとにうったえた。

「私はこの人にむりやり変身させられたのです」

 そういって白蘭を指さした。白蘭は唖然として声もでなかった。丁香はそのようすを横目でみて自信をえたように声をはりあげる。

「私はこの人に脅迫されました、白蘭さんに変身するようにと。なんのためかは教えてもらえませんでした。ただこういわれたんです――台本を与えるから、白蘭としてファイナル審査にでて、書かれてあるとおりの言葉をいえ、と。私は逆らえず、したがうしかありませんでした。そしていわれたとおり、実行しました。台本通りの台詞をいいました。そのあとまさか、みなさんの前でもとの姿に戻され、こんな恥をかかされようとは――それどころか悪人にしたてあげられようとは――想像もしていませんでした」

 丁香はこの場をきりぬけるために「変身は白蘭に強要させられた」と主張することにきめたらしい。それにしても白蘭の罪を、白蘭がニセ白蘭に発表させるという話はおかしいではないか。丁香もいったあとにその矛盾に気づいて、つっこまれる前に矛先を転じた。アレーをみて、

「アレーさんが白蘭さんに変身の仕方を教えたんですよね」

 そういって片目をつぶった。

「魔術師のあなたは、いままで世間に秘密にしていただけで、変身の術を使えますよね。白蘭さんはそれを知ってあなたに近づいた。あなたに魂を売り、変身の術を身につけた。そうですよね?」

「・・・・・・」

「その術で白蘭さんは私を第二の白蘭に変身させ、ファイナル審査に送りこんだ。目的は私をもとの姿に戻して恥をかかせ、つまり蘇丁香を失格させ、白蘭さんがグランプリをかちとることにある。そうですよね? アレーさんはご存知だったのでしょう?」

 舞台上のアレーは本物ではなかった。丁香の味方、日本特務がばけたものだった。ニセアレーはうなずいた。

「そのとおりです」ことさら重々しい口調でいった。

「白蘭は丁香さんをハメました」

 丁香はすかさず声をはりあげた。

「ようするに私は、白蘭さんの生贄になったのです」

 これで夕子の白蘭はひっこむかと思いきや、

「ウソです!」

 と叫んだ。ひっこむどころか、堰をきったようにいった。

「丁香さんがいうことは、ぜんぶウソです。私の母が李花齢氏で父が巧月生氏というのもウソ。みなさん、どうか信じないでください。――邪魔しないで丁香さん、そもそもいまの時間は私、白蘭の審査タイムです。

 みなさん、どうかこの人にだまされないでください。私はだまされました、いままでずっとだまされてきたんです。

 丁香さんはこんな清楚な顔をして、実はとんでもない悪人です。この人はさっき白蘭として発表したでっちあげの罪とは比較にならないほど大きな罪を――そう、大罪を三つ、おかしています」

 白蘭はそういって舞台の尖端におどりでたかと思うと、

「丁香さんの三つの大罪をいまからひとつひとつ発表していきます。では第一の大罪」

 堂々たる声をはりあげた。

「みなさん、おぼえておられますか? 今年三月に世間をにぎわせ、政治的な問題にまで発展したリラダン爆破事件を。三月三十日、『読書室リラダン』の事務所Aにしのびこみ、李花齢さんの胸に小さな日本刀をつきさして殺した人がいましたよね」

 そういって皮肉な微笑で顔をひきつらせた。見物たちは戸惑いつつ、一応うなずいた。

「犯人は吉永義一などではありません、刺殺犯は、なんと、この丁香さんなんです」

 あまりに容易ならない発言だった。

場内はしいんと静まりかえった。

驚いたというより、茫然とした顔が多かった。人びとはさっきからの衝撃つづきで神経が麻痺している。なにを信じていいかわからなくなっていたので、放心状態だったといったともいえた。

「李花齢さんを殺したのは、丁香さんだったんです。人殺しをして世間を騒がせておいて、なにくわぬ顔をしてすごすどころか、ファイナリストになってグランプリをねらう――ふつうの神経じゃできないことです」

 白蘭は語気に皮肉をこめた。

「しかもそれだけじゃありません、読書室リラダンに爆薬をしかけたのも、なんと丁香さんなんです。――ねえ、そうですよね?」

 そういうと舞台上手に体をむけて、声をはりあげた。

「ねえ李龍平さん!」

 突然の呼びかけを見物があやしむまもなく、

「はい」

 舞台袖から、ひきしまった声がかえってきた。

 いかにも、舞台上手から登場したのは、元記者李龍平だった。黒い長衫を着ている。顔色は月のように青白かった。白蘭の隣に立つと、いつかの巧廟式典のときとは別人のように厳しい顔を客席にむけていった。

「たしかに僕はみています。三月三十日、リラダンが爆破する直前、丁香さんが正門からでていくところを」

 すると、

「ウソです、絶対に」

 丁香がさえぎった。

「当時現場に李さんがいたなんて話、きいたことありません。そもそも、ほんとの話なら、警察がとっくに私をとり調べてるはずですよね。でも李さんに警察に告げたようすもなく、警官がひとりも私のところにこなかったとなると、いまの話は完全に作り話ですよね。私、李龍平さんがそんな人とは思いませんでした。立派な記者とばかり。お母さまをなくされておつらいのは察しますけど、白蘭さんのライバルを殺人犯にしたてるくわだてに協力するなんて、ジャーナリストの信義に反しませんか?」

 丁香は躍起になって反撃した。龍平が花齢の実の息子なのは、人の知るところだ。龍平が母を殺された怒りのやりどころなく、やけになって気にくわない人間を真犯人にしたてあげようとしている、と人びとに思わせることは容易だった。客席の多くの人は実際そう思ったようだった。そんな空気をはねのけるように龍平はいった。

「僕はたとえ母のためであろうと、けして信義に反する発言はしません」

 だが龍平のいったことには一部ウソがあった。爆破直前に丁香がリラダンの門からでてきたのは事実だったが、それは自分が直接目撃したのではなく、ルドルフからきいたことだった。リラダン事件には男二人、女一人の日本特務が関わっていたことがわかっていたので、龍平は日本特務のルドルフに探らせた。結果、男二人は不明のままだが、女の名は判明した。丁香――本名久保田友子である。それがわかっただけに龍平は丁香がよけいに許せなかった。花齢を殺したのや、爆弾をしかけたのが丁香かどうかまではわからなかったが、日本特務がやったと思われるかぎり、丁香がやったも同然の印象をうけた。龍平は丁香を憎悪した。だからいま信義に反して、自分が目撃したとウソをついたのである。

「李さんが証明したとおりです」

 丁香に口をはさませまいと、白蘭がひきとって、

「李花齢さんを殺したことが、丁香さんの第一の大罪です」

 そう断言した。心から遺憾に思うといった顔をして、

「しかも丁香さんは約一か月後、第二の大罪をおかしています。これは先の罪にくらべると、地味な罪のように思われるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。いっけん小さな罪のようにみえて、その底には深いたくらみがあったのです。五月十一日、そのたくらみのために、あるひとりの弱い人間が利用されました――」

 泣いているようなきらきらした目を虚空にむけて白蘭はいった。

「レスター花園――合宿所でのことでした。

 当時雑用係だった江田夕子さんの寝室となっていた物置部屋から、丁香さんは一枚の絵を盗んでいます。江田さんのいない時刻をみはからって、物置部屋に侵入したのです。

ところが丁香さんはあとで江田さんに、とんでもないウソをいって、その絵を返したのです。『麗生さんに返して、とたのまれた』と、いったんですね。麗生さんが物置部屋に侵入したように思わせ、しかも麗生さんがみんなと江田さんの悪口をいい、合宿所から追い出そうとしている、と江田さんに思いこませたのです。実際にはだれも悪口などいっていなかったのに、丁香さんは、みんながあんまりひどい悪口をいってるから注意してきてあげた、と江田さんにいいました。江田さんに麗生さんを悪人と思わせ、自分を善人と思わせるためにウソをついたんです。なにも知らない江田さんは当然だまされ、麗生さんを恐怖し、丁香さんをたよるようになりました。そうなるのが丁香さんのねらいでした。江田さんを深いたくらみに利用しようと考えていたのです」

深いたくらみがなにかまでは白蘭はいわなかった。アレーから二茶壷を奪う計画だった、といいたいが、三霊壷のことはさすがにここではいえない。

「丁香さんは江田さんと親友のようにつきあいました。でも親友なんて表面だけのことだったんです。丁香さんはみんなの嫌われ者の弱者の江田さんとつきあうことで自分を立派な人物にみせようとしました。実際それは成功し、講師の評価も高くなり、世間の人気もあがり、丁香さんはそのあとトップ3として不動の地位を確立したのです。――ねえ王結さん、そうですよね?」

 ニセ白蘭は舞台袖に呼びかけた。木蓮の花のような娘がハイヒールをきらめかせて登場した。上手から登場したのは、いかにも、王結だった。王結はいつのまに白蘭協力者になったのか。丁香はあいた口がふさがらなかった。

ついさっき一次審査でファイナリストとして登場した王結はウォーキングの延長のように腰に片手をあて、きりっとした顔を客席にむけ、きっぱりといった。

「そのとおりです。丁香さんは人の心理を利用しました」

さっき丁香の荷物から白茶の入った小壜を盗みだしてきてほしいとボアンカにつたえた協力者は、この王結だった。舞台がニセ白蘭に占領されているのをみたときに、「小龍(シャオロン)、舞台にのりこもうか」、「控室に侵入して丁香のあら探しでもしようか」といったのもこの王結である。

王結が白蘭協力者になるのが決まったのは、昨日だった。交渉は龍平がした。この証言をしてもらうために必要だったからである。王結は丁香を慕い、白蘭を嫌っているようだったので、説得するのは難しいと思われたが、意外にあっさり承諾してくれた。自分たちに協力することが死んだ麗生の供養にもなるといったのが、きいたようだった。

 しかもうちあわせ中に、王結は蒼刀会員ということがわかった。それからは話が早かった。今回の龍平の作戦もきいたぶんはすぐのみこんだ。王結は蒼刀会員だけに三霊壷のことも部分的ながら知っていた。

 ただし王結は本物の白蘭の正体が江田夕子であることは知らない。必ずしもよくは思っていないはずの白蘭に協力してもらうのに、正体を教えていいはずがないからだ。王結に協力してもらうには白蘭をあくまで彼女の属する蒼刀会のボスに近い中国人とみてもらう必要があった。

「五月十一日――」

 王結は怒ったような顔をしていった。

「丁香さんが一枚の絵を江田さんのところに届けにいったという時間、私は麗生さんと廊下にいました。だからわかりますが、麗生さんは江田さんの悪口なんていってませんでした。丁香さんに接触もしてませんでした。だいたい当時の麗生さんが丁香さんにたのみごとをするなんてこと自体が考えられません。私は麗生さんと同室で親しかったので、わかります。麗生さんは物置部屋に侵入なんてしてなかったし、江田さんの絵なんて持っていなかったとも断言できます。私の親友麗生さんは、丁香さんによって悪人にしたてあげられたんです」

王結は力のこもった目で客席をみつめた。白蘭は王結の肩に手をのせ、ご苦労さま、といったような目をした。それから悲愴な表情をして客席にむかっていった。

「みなさん、丁香さんはウソつきです。丁香さんは以前自分を班 妤の生まれ変りといい、愛情深いことと雲心月性なところが自分に似ているといったことがありますけど、真実はそれとはまったく反対の人間ということが、おわかりいただけると思います。

 どこが雲心月性ですか。丁香さんは人殺しの上に罪を重ねて平然としているのです。

しかも殺そうとしたのは、李花齢さんだけではありません。さっき丁香さんは、私が麗生さん殺しの真犯人であるかのように発表しましたけど、とんでもない。丁香さんこそ例のチャリティ・イベントで、もうひとりのライバルを殺そうと画策していたんです。

それが第三の罪にあたります。

具体的にどんな罪か知っていただくために、当日の麗生さんの行動から話しましょう」

丁香には、ここで白蘭が自分をみてニヤッと笑ったようにみえた。

「あの日、ルドルフさんに殺される前、麗生さんが蘇州河の小船に小山内千冬さんをつれこんで暴行を働こうとしていたことは意外に知られていません。実はその暴行に丁香さんがからんでいるのです。――ねえ、そうですよね?」

 そういうと舞台上手に体をむけて、声をはりあげた。

「ねえ千冬さん!」

 呼ばれた名前と、かえってきた声とをきいて、人びとは騒然となった。

「はあい」

 そういって上手から登場したのは、あろうことか、最終選考会を辞退したはずの小山内千冬だった!

小山内千冬は白蘭の横にならぼうとやってくる。が、歩くのが異常に遅い。一歩一歩確かめるように足をはこんでいる。人びとは、いぶかしげな目を投げた。もし事前に「千冬さん」ときかなかったら、舞台にあらわれた娘がだれだかわからなかったかもしれない。

 それくらい小山内千冬は前とちがっていた。五月に人びとをひきつけた面影は跡形もなかった。白い陶器の人形を思わせた顔は、いまは艶も輝きもなく、溶けかかった人形のようだ。最終選考会の舞台に小山内千冬がこのような姿で立とうとは、四か月前だれが想像しただろう。

 人びとは息をひく。小山内千冬にいったいなにがあったのか。このやつれぶりは、どこからきたのか。とにかく背中と腰が痛そうだった。龍平と王結がそばにかけより両脇から支えて歩行を助けた。

 千冬はやっとのことで白蘭の横にならんだ。そして奥にいる丁香をギロッとにらみつけると、

「白蘭さんのいうとおりです」

 と、声をはりあげた。体はやつれても内には気迫があふれている。爛々と光る瞳を今度は客席にすえていった。

「チャリティ・イベントのあの日、私は麗生さんにだまされて蘇州河の小型荷船につれこまれました。麗生さんは私を暴行するつもりで、黒い袋のなかにとじこめました。

 ルドルフ・ルイスはその黒い袋をみて、なかに私ではなく自分の親友がとじこめられているとかんちがいし、麗生さんに怒って発砲し、殺してしまいますが、麗生さんが私を暴行しようとしたのは、むろんルドルフが船にのりこむ前のことでした。

麗生さんは蘇州河をくだる途中、鉄の棒で黒い袋の上から私をたたき、痛めつける予定でした。でも私が麗生さんを怨まなかったのは、麗生さんが自分の好きでそんなことをしようとしているのではないと、わかったからです。麗生さんはいいました――『やりたくないけど、やらなきゃならない。ごめんね千冬、どうしよう』。

麗生さんはある人に私を暴行するよう命じられてたんです。やらないと自分がひどい目にあわされる。だから、やらなくてはならない。でもなかなか手をだせないでいました。ずっと躊躇してました。

麗生さんに命令をだした人がだれかは、あとになってわかりました。それは、そこの女――丁香さんの仲間です」

千冬は丁香を指をささんばかりのいきおいでいった。

「みなさん、おききください。麗生さんはあやうく殺人犯にされるところだったんです。

 だれによって? このけがらわしい人――丁香さんによってです」

 丁香はなにもいわない。黙っているのが不気味に感じられたが、千冬はかまわずつづけた。

「あとでわかったことですが、鉄の棒には毒がぬられてありました。麗生さんが船に入る前に、ある人間がぬったんです。麗生さんには知らせずに、その棒で私をたたくように命じたんですよ。あやうく私は殺され、麗生さんは殺人犯にされているところでした。

 毒をぬったのはだれだと思いますか? ほかならぬこの丁香さんです。

丁香さん自身が最近ある人にそう話したんです。ある人の名はいえませんが、信頼できる人です」

 客席の巧月生は目を細めた。「ある人」とは花齢巧(千冬は巧月生の実体は知らないが)のことだった。花齢巧はフランス租界の日本特務のアジトでニセ白蘭の丁香にきいた話を、座敷牢にとじこめられたあと、食事をもってくる蒼刀会員から龍平に伝えてもらった。その蒼刀会員は邸を支配する巧月生に夕食会以来不審を抱き、座敷牢の巧のほうをひそかに支持していた。けなげにも座敷牢から脱出させようとさえしてくれたが、成功の見こみがうすかったので、しばらく敵の動きをうかがう必要があるといってやっととめさせたくらいだった。

「丁香さんは毒をぬるとすぐに船をあとにしました。そしてなにくわぬ顔をしてトップ3としてイベントに参加し、私が殺されるのを待っていたのです」

 千冬は目に恨みをこめた。いいおえると肩で息をした。だいぶ体力を消耗したようすである。白蘭は千冬の肩に手をのせてねぎらうと、ふたたび人びとにいった。

「丁香さんの三つの大罪は以上、お話したとおりです。小山内千冬さん、李花齢さんにしたことはもとより、麗生さんにしようとしたこと、江田夕子さんにしたことは、償おうとしても償いきれるものではないと思います。

 人殺しといい、無実の人に罪をかぶせようとしたことといい、ファイナリストがすることではありません。いったいなにが彼女にそんなおそろしい行動をさせたのでしょう。

 蘇丁香とはいったい何者なのでしょう?」

 凛然と象牙のような顔をしていう白蘭を、丁香は生気のない紙のような顔をしてみつめている。

「丁香さんが何者であるかをお話する前にまず、小山内千冬さんがなぜこんなにやつれているのか、その原因をおみせしましょう」

 白蘭がいうと、それを合図に千冬が背中を客席にむけた。背中にはワンピースのファスナーが走っている。それを王結がいちばん下までひいた。ワンピースの布地が二つにわかれ、なかがあらわになった。

「ごらんください」

 見物は息をのんだ。千冬の背中は包帯で巻かれていた。

「ごらんのとおり、千冬さんは背中に傷を負っています。傷は一昨日、ある場所で千冬さんが丁香さんといい争っていたときにできたものです。私は現場を目撃しました。突然銃声が鳴って、千冬さんが倒れました。とんできた弾丸が、千冬さんの背中に命中したんです。撃ったのは丁香さんではありませんでした。でも丁香さんの仲間なのには、まちがいありません。なぜなら丁香さんは千冬さんが撃たれると助けるどころか、逃げだしたからです」

 白蘭は虚空をにらむようにしていった。

「蘇丁香とはいったい何者なのか? 私がいまから彼女の正体をお話しします」

 ファイナル審査の舞台はいつのまに法廷だか、記者会見場だかに変えられてしまったようだ。審査員はだれもとめようとはしない。これまで幾度も思考力を奪う衝撃をうけたせいかもしれなかった。最初の白蘭登場から起きたことの、ことごとくが異常だった。さんざん度肝をぬかれ、いまやとめる気力もない。この際は幕がおりるまで、好奇心にかられるまま、結末をみとどけようという感じになっている。なによりいまの白蘭はただならぬことをいいだしそうな気配をかもしだしているので、記者たちは身をのりだしてペンをとり、次の言葉を待ちかまえている。白蘭はいった。

「これまで丁香さんが公表していた経歴は、いつわりにいろどられています。けれど泣いても笑ってもミス摩登コンテストはこれで最後」

 決然とした顔で客席をみわたした。

「どうせなら、最後にありのままの丁香さんを知ってもらいたい。なにもかもさらけだして、みなさんの審査をあおぐべきではないか、そう思うにいたったのです」

 両手をにぎりあわせて、そういったときだった。

「やめて」

 小さいが鋭い声が白蘭の耳にふきこまれた。丁香がささやいている。

「ねえ、やめて」

 客席にとどかない声で、丁香はさらに協力者のアレー、ルドルフ、馬秋秋、劉虎にいった。

「みんなも黙ってないで、やめさせて」

 だが四人の丁香協力者はだれも凝然として動かない。

 ルドルフは、知らん顔をしている。他人を守るのは主義ではない。

 劉虎は、いま丁香に怒りを感じていた。さっきの千冬の話で、鉄の棒の話を初めて知ったためだった。あのチャリティ・イベントで、丁香は麗生に千冬を殺させようとしていたという。それはつまり日本特務が中国人に日本人を殺させて、中国侵略の口実を得ようとしていたということだ。そう思うと、さすがに怒りがわいた。劉虎はいまでは蒼刀会にみきりをつけ、日本特務に寝返ってさえいるのだが、あの日の屈辱を思いだすとおのずと当時の怒りがよみがえって、日本特務の命令を実行した丁香に腹がたった。だからいま丁香に「白蘭をとめて」といわれても目をそむけた。

馬秋秋もニセアレーも丁香から目をそらした。そのすきに白蘭がいった。

「私はもう隠しません。この場をかりて丁香さんのすべてを発表する――それが私のパフォーマンスになります。ではまずさっそくですが丁香さんの家族構成を発表いたします」

 丁香がさえぎろうとするのもかまわず、白蘭はいった。

「丁香さんは両親と姉一人、弟一人の四人家族。丁香さんは次女で、一九一二年に誕生しました。

 父親は総合商社鈴木商店と組んで繰り綿の仕事をしていました。李鴻章とも面識があるくらいの人でした。

 お金に困らない家というのもあり、丁香さんはわがまま三昧に育てられました。小さいころから旅行にもしょっちゅうつれていかれた。旅館にいけば舞妓さんがあやしてくれる。その舞妓さんが気に入った人でないと泣きわめいて、いやがったといいます」

 白蘭の顔にフラッシュが明滅する。

「小学校にあがると、ピアノ、乗馬、自動車の運転を習うなど、丁香さんは順調にお嬢様として育てられました。けれどもそんな生活にも終わりがきます。

 一九二八年五月、丁香さんが十五歳のときのことでした。

 一家は父親の仕事の関係で済南に移り住んでいましたが、その地であの事件がおこりました。済南事件です。日中軍が衝突し、一般市民もまきこまれ、人間性を失うほどのたいへんな目にあい、多くの犠牲者がうまれました。丁香さんの父親もそのひとりになり、亡くなりました。

 一家の生活は一変しました。母と娘は働きにでることになります。

 苦しい生活のなかで、母親はストレスをため、全不満を丁香さんにぶつけました。二歳上の姉は早々に好きな男性と駆け落ちして家をでてましたし、弟はまだ小学生だったからです。それまでずっとわがままいっぱいに育てられた丁香さんには耐えられませんでした。

家出を夢見るようになりました。

 ――どこかできいた話だと、みなさん思われるかもしれません。さっきのニセモノの白蘭の話にも、母親に虐待され家出を夢みるという似たようなくだりがありましたね。でもそれは当然なんです。ニセ白蘭――丁香さんは自分の実体験をもとに、白蘭の経歴をでっちあげたんですから」

 白蘭は夢中で酔っぱらったように舌をふるっている。いまここで自分をだましてきた丁香の面の皮を公衆の面前でひんむく――その快感のために白蘭は恍惚としている。丁香の十五歳までの経歴は千冬が同級生たちから収集し、それ以降の経歴はルドルフが入手し、丁香に寝返るまえに教えてくれたものだった。

「一九二八年十二月、丁香さんは念願の家出をはたしました。上海にでたのです。

 十六歳でした。もちろん十六歳の娘がひとりで自由気ままに生きられるほど世のなか甘くはありません。

 それからはおきまりのコースでした。

 持参したお金がとぼしくなると、黒猫舞庁(ダンスホール)で男性のお相手をして踊るダンサーとして働くようになったのです。年があけたころには、平然と春をひさいでくらすほど身をおとしていました。四馬路の娼婦から野鶏になり、十八歳になる年には若いドイツ人公爵の囲い女になっています。公爵が上海を離れるとまた野鶏に戻りました。

でもこの経験のおかげで丁香さんは生きた中国人にふれ、北京語に磨きをかけ、上海語を学ぶことができたのです。

丁香さんはそれまで北京語も上海語も満足には話せませんでした。なぜでしょう? 丁香さんは中国人ではないのでしょうか? お教えしましょう。

みなさん、丁香さんの正体は、日本人です」

 客席がどよめいた。人びとの視線はしぜんと丁香に集まる。カメラのシャッターがすさまじい勢いできられる。丁香は固死したようになった。白蘭は得意になってつづける。

「丁香さんの姓はクボタ、名はトモコ。父親は鈴木商店と提携する日本商人、母親は日本の士族の出身です。丁香さんは――いえ、クボタトモコさんは奉天生れでこそありますが、同じ奉天育ちでも奉天日本尋常小学校の出、れっきとした日本人です。いままで中国人をいつわっていたのです。中国語は学校で子どものころから習っていましたし、働いてからは完全に身につけたので、特に疑われることがなかったのでした。黒猫舞庁時代は月蛾と名のっていました。丁香を名のりだしたのは去年からのようです」

 というのは一年前の夏、某日本陸軍少将と出会い、愛人となったのがきっかけです、中国人になりすましてスパイとして働いてほしいといわれ、故袁世凱の愛妾の名である丁香を名のりはじめたのです――そう白蘭がいおうとした瞬間、

「あなたのいいたいことは、よくわかりました」

 丁香がさえぎった。金鈴をふるような声だった。いつのまに意気をとり戻している。丁香はいっけんヤワにみえて鋼の神経の持ち主である。どんな打撃をうけようと、けっしてただでは転ばない。不屈の意志で肌をひきしめて、

「根も葉もないウソで、私の評価をさげるのが目的なんですね」

 冷静に抗議した。口もとに微笑をうかべつつ、氷のような視線で白蘭を刺して、

「それはわかりました。でも白蘭さん、私のことは私のこと、あなたのことはあなたのことですよ。私の評価をいくらさげても、あなたの評価があがるわけではありません。あなたが三つの大罪をおかしたという事実が変わるわけでもありません。そのへんのこと、忘れないでくださいね」

「忘れるもなにも・・・・・・私、三つの大罪なんておかしてません」

 白蘭のほうが狼狽していった。

「あんなのぜんぶ、いいがかりです。私は意識してあんな罪をおかしたんじゃありません」

「『意識して』と、いいましたね?」丁香は目もとを笑わせていった。

「じゃあ罪をおかしたことは認めるんですね。さすがにウソはつけませんよね。被害者たちが目の前にいるんですものね」

 そういうと丁香は千冬にクルリと顔をむけ、問いかけた。

「ねえ小山内さん、合宿開始早々人気を失って苦労したのは白蘭さんのせいですよね?」

 千冬はウソをつけない性分だった。吐息をついて、

「え、そうですけど・・・・・・でも、いまは許してます。いまは白蘭さんと友だちです。しかも名前だけの友だちではけっしてありません」

 正直にいい、最後の言葉には丁香への皮肉をこめた。だが丁香はきこえないふりをし、必要な部分だけをとりあげていった。

「ほら千冬さんも白蘭さんのせいで困ったといってますよ。白蘭さんの協力者でさえ白蘭さんの罪を認めたんです」

 千冬は反論しようとしたが、丁香はたたみかけるようにいった。

「二番目の大罪はどうでしょうねえ」

 千冬と白蘭のあいだにわりこむように歩いて王結の前にで、

「麗生さんと親友だった王結さんにききたいと思います。チャリティ・イベントの事件前、あなたは例の小船に麗生さんといたそうですが、白蘭さんが蘇州河付近のベンチでルドルフさんとあやしげに話しこんでいたのを船窓から目撃したと、前に私にいいましたよね?」

「そうでしたっけ」

 王結はとぼけたが、丁香は刺すような目をし、おさえつけるようにいった。

「いいましたよ。私は覚えてます」

 王結はうるさそうな顔をしたが、観念したようにいった。

「ああ、いったかもしれません」

「ほうら」

 丁香は勝ち誇ったようにいった。

「第二の大罪もやっぱり事実じゃないですか。ルドルフさんが麗生さんを殺したのは、白蘭さんにそそのかされたからですよね。白蘭さんが麗生さん殺しの共犯なのはまちがいありません。自分がそうだから、白蘭さんとしては私丁香も殺人に関わってるようにいわなければ気がすまなかったんでしょう。だから私が小山内千冬さんを殺そうとしてた、だなんて、いいがかりをつけたんでしょうね」

 丁香は白蘭に口をはさむ余地を与えなかった。今度は龍平の前に立って鈴のような声をはりあげた。

「三番目の大罪だってやっぱり事実のはずです。――ねえ李さん、七月八日、白蘭さんに共産党員にしたてあげられましたよね? 私はよく知っています。そのせいで李さんがどんなにたいへんな目にあったかも」

 丁香は龍平の目をじっとみた。龍平は口をひらき、

「たしかに僕は共産党員ではありませんでした。無実の罪に問われはしました」

 それだけいって、はぐらかした。丁香はつっこんだ。

「無実の罪に問われたのは、警察が発見した李さんのレコードに共産党のビラの原本が入っていたからですよね? そのレコードは一か月前に白蘭さんに渡したものでしたよね?」

 龍平はこたえに窮した。白蘭のためには、作戦のためには、ウソをつきたい。だが龍平もまたウソをつけない性分だった。

「だったらなんですか」

 そういうのがせいいっぱいだった。すると突然別の声がわりこんだ。

「いいのがれはできない! 私はみたっ」

 ルドルフだった。ルドルフはこの話題に異常な関心をしめしていた。白蘭にたいする嫉妬と龍平に裏切られた怨みをぶちまけるように叫んだ。

「たしかに龍平は白蘭にレコードをわたしていた! あのチャリティ・イベントの日、私は目撃しているっ」

 丁香は冷静な顔でうなずき、あとをひきとった。

「そのレコードを白蘭さんは悪用したというわけです。警察に李さんを逮捕させるためにですね。第三の罪もやっぱり事実ということです」

 そういうと自分の立ち位置に戻って白蘭にむきなおり、にっと笑っていった。

「どうします? 白蘭さんが三つの大罪をおかしたことは、白蘭さんの協力者によって裏づけられましたよ」

 そうして丁香は今度は客席にむきなおり、うったえるようにいった。

「みなさん、私はさきほど謝罪しようとしました。白蘭さんにかわって、白蘭さんの罪をおわびしようとしたのです。白蘭さんにむりに変身させられたことにたいする、ささやかな抵抗のつもりでもありました。それを白蘭さんがさえぎったのは、みなさんご存知ですね」

「いいがかり――」

 さえぎろうとした白蘭を、丁香は冷たい目でまじまじとみつめていった。

「ひとつ訊きたいのですけど、白蘭さんはいちどでも、被害者の方たちに謝ったことがありますか?」

「・・・・・・」

「ありませんよね? 人のことをいうまえに、まず自分の身を正してはどうでしょう。――そうだ、せっかくですから、いま謝ってはどうですか? 幸いここには、麗生さんこそいませんけれど、小山内さん、李さん、ルドルフさんがそろっています。白蘭さんの罪の犠牲になったみなさんがいらっしゃいます。白蘭さん、どうぞ謝罪を!」

「・・・・・・」

 白蘭は硬直した。顔色がない。額には玉の汗がうかんでいる。いつからこうなったのか――だれがみても白蘭が優勢だったのが、ふたたび形勢は丁香の有利になっている。


「アレーさん・・・・・・」

 ここは丁香協力者控室。ボアンカはテーブルの下でロレーヌに銃口をあてるアレーにむかって、なつかしさいっぱいといった顔で呼びかけた。

「お久しぶりです。お元気でしたか? 私、カメラマニアは元気ですよ」

 「カメラマニア」といったのは、そこにいるアレーがニセモノかどうか、探りをいれるためだった。ボアンカは「カメラマニア」ではない。カメラなど使ったこともない。本物のアレーなら、必ずつっこみをいれるはずである。ボアンカは息をつめて、こたえを待った。すると目の前のアレーはいった。

「それはよかった。わかったから、おとなしくひきさがってくれるな」

 冷たい目がボアンカをみすえた。本物じゃない。そう思った瞬間、ボアンカは絶叫した。

「ニセモノおおおおっ!」

 銃をだし、引き金をひいた。虚をつかれたニセモノは象嵌されたように動かなかった。

 一瞬後、ニセアレーは胸を撃たれ、血を流し、くずおれていた。

ボアンカは茫然とした。ニセモノとはいえ、みためにはアレーでしかない人間を撃ったことが自分で信じられず、すぐにはうけとめられなかった。

「助かった」

 そういったのはロレーヌだった。背後の銃口から解放されて、ほっとした顔をしている。周囲で三人の男が血まみれになっているというのに気味悪そうな顔ひとつしない。それどころかニセアレーが虫の息なのをいいことに、ふところを目で探りはじめた。と思うと、ふりかえってボアンカに邪魔そうな目を投げて、

「君はもう行っていい」

 そっけなくいった。恩などもう忘れた顔をしている。ニセアレーの所有物――二茶壷を早く奪うために、ボアンカを早く去らせたいのだろう。ボアンカはさすがに我に返っていった。

「まだ行きません、用事があるので」

「用事?」

「そう。あの人の体に用が」

 ニセアレーを目でさして、ボアンカはきっぱりといった。ロレーヌはわざととぼけていった。

「けが人の面倒でもみるつもりかい? それだったら心配無用。あとはこっちで処理する」

「撃ったのは私だから」

 ボアンカはそう主張してニセアレーのほうへ接近した。するとロレーヌが、

「獲物はさわらせない」

 そういってボアンカの前に立ちはだかった。いつのまに、その手にはひとつの包みがにぎられている。

「そのなかに、なにが入ってるの?」

 ボアンカはきいた。包みには二茶壷が入ってるにちがいなかった。ロレーヌは問いにはこたえず、ニヤッとしていった。

「ほしいのか?」

「私の質問にこたえて」

「ふしぎだな。君はハルトン派のはずじゃないか。なのになぜ私から奪いたいような目をする」

「・・・・・・」

「そうか、寝返ったな。ハルトンから別の人間に。本物のアレーか? なるほど、君はアレーに惚れてたな。やっぱりあきらめきれないか。それで白蘭の使いをしてるのか」

 ボアンカはムッとして反撃した。

「そういうあなたはだれのためよ、ロレーヌ。ハルトンのためというのは名目で、ほんとは自分のため、自分がグランプリになるためでしょ。ハルトンのいうとおりに働けば、グランプリにしてもらえると信じてるんだよね?」

「なにがいいたい」

 顔色を変えたロレーヌをみてボアンカは破顔した。よゆうをとり戻し、からかうようにいった。

「いうつもりはなかったけど、いうしかなくなっちゃった」

「あ?」

「ロレーヌ、あなたはグランプリには、なれないよ」

「なんだと」ロレーヌの顔色は一変した。

「かわいそうに、グランプリになれると信じてたんだねえ。でもなれないよ。うそだと思うならハルトンにたしかめてみな。私、偶然耳にしちゃったの。ある人をグランプリにするつもりだってハルトンが口にしてるのを。それはロレーヌじゃなかった」

「・・・・・・」

「ほんとだよ、私きいちゃったんだ」

「なにをきいたか知らないが、グランプリはハルトンが操作するもんじゃない」

「信じないんならそれでもいいけど、ハルトンがだれをグランプリにするといってたか、一応教えといてあげるね」

 ボアンカはその名をロレーヌの耳にふきこんだ。ロレーヌは瞳孔をひろげ、口をあけた。

「ほんとか? ハルトンはほんとにそいつをグランプリにすると?」

「いってた」

 ロレーヌの顔が落胆と失望の色にそまった。しばらく沈思黙考していたが、やがて怒りと屈辱にみちた声を吐きだした。

「ほんとだとしたら・・・・・・あの親父、許せん」

 その瞬間だった。銃声が鳴った。弾丸がとび、ボアンカに命中した。

倒れていた男のひとりが発砲したのである。さっきロレーヌに撃たれた男だ。意識を失っていたのが一時的に戻り、報復のために撃ったものらしかった。ロレーヌをねらったが、銃口がさだまらず弾丸はそれてボアンカにあたった。撃ったあと、男はふたたび意識を失っている。

ボアンカは弾丸を皮膚にくいこませ、その場にくずおれた。

「おい、だいじょぶか」

 ロレーヌがさすがに心配そうにきいた。

「生きてるよ、撃たれたのは腰」

 ボアンカは顔をあげ、気丈な返事をかえした。だが立とうとして悲鳴をあげた。

「立てない・・・・・・歩けない・・・・・・」

 青ざめ、パニックをおこした。

「大事な役目、果たさなきゃならないのに」

 そういうと床に血をたれ流し、両手で這うようにしてロレーヌの横を移動し、じっとうずくまっているアレーのほうへ前進した。途中で痛みに悲鳴をあげ、進めなくなり、血の気のない顔に目だけを爛々と光らせて、届かないアレーに手をのばし、

「チャフー、チャフーを・・・・・・」

 うめくようにいった。

 正気とは思えないありさまにロレーヌはぞっとして、

「チャフーってなんだ」

「しらばっくれて。アレーのもってる茶壷、意地でも私がとって、返す」

 ロレーヌの目が鋭くなった。瞬間ボアンカが力つきたように、ぐったりとなった。

「おい、しっかりしろ」

 ロレーヌはいった。しゃがんでボアンカの肩をゆさぶった。

「だれに返したい? いえ! しっかりしろ!」


「さあ、謝ってください」

 丁香は白蘭にけしかける。

「みなさんはニセモノより本物の白蘭さんの謝罪をききたいにきまってます。さあどうぞ、謝罪の言葉をいってください」

「・・・・・・」

 白蘭は金しばりにあったようになっている。

謝りたくないわけではなかった。千冬や龍平には悪いことをしたと思っているし、心のなかではなんども謝ってきた。でも口にだしていえない。――謝れないのだ。

なぜか?

 白蘭は――江田夕子は、臆病で卑屈の塊みたいなくせに、十八年近く生きてきて、人に心から謝った経験が実は数えるほどしかなかった。「すみません」とはしょっちゅういうが、それは相手にわびるためというより、相手の機嫌をとるため、自分を守るためにいうだけだから、あやまったうちには入らない。心から悪いと思って「ごめんなさい」といい、深々と頭をたれたことはなかった。

 そもそも自分が悪いと思うことが、ほとんどない。実家での経験が影響している。なにも悪いことをしていなくても、母親が機嫌が悪いと、白蘭――夕子にあたりちらしてきた。たとえば友だちと家の外でふつうの声でしゃべっていても、「うるさい」とヒステリックに怒られたりぶたれたりすることがあった。

 そんなことがあるたび、夕子は心のなかでこう思って自分をなぐさめてきた――自分は悪くない、悪いのは母親、理不尽なことで怒る母親、私はなにも悪くない、私は被害者! 

被害者意識は年とともに強くなり、いつしか心にこびりついた。夕子は自分が悪いことをしたときでも、心のどこかでは必ず自分を被害者と思うようになった。だから謝らない。謝らないことで夕子は相手に反抗したつもりになった。プライドを守ったような気になった。よほど強要されればべつだが、その他のときは謝らないのが習慣になった。そのため相手に罪悪感を感じ、謝りたいと思ったときでも気恥ずかしくて「ごめんなさい」の一言がいえなくなった。

 そのせいもある。その上、この舞台だ。臆病者のくせに、プライドばかりはやたらと高い夕子であった。大勢の人、名だたる審査員のみている、ミス摩登をきめるためのファイナル審査の舞台で、どうしてライバルにいわれるままに謝罪などできるものか。

 白蘭は凝然と動かない。舞台の置物と化したかのようだ。それを横目にみて丁香はひそかにほくそ笑んだ。丁香は白蘭が謝罪できないであろうことをみぬいていた。さすがは「親友」、夕子の性格を知りつくしていた。丁香は夕子本人さえ意識していない、夕子の傲慢さに気づいていた。だからこそ、あえて謝れ、といったのである。人びとに白蘭が謝罪できない人間であることを知らしめ、人間性を疑わせ、白蘭のいったことすべてデマカセと思わせる。今度こそ挽回のチャンスだ。丁香は目を笑わせた。

「どうしたんです、謝れないんですか」

 そう客席にきこえよがしにいうと、今度は白蘭にだけきこえる声でささやいた。

「みんなみてるよ。どうして黙ってるの」

 白蘭を呪縛する例の語調だった。

「ほら、みんな待ってるよ、みなよ」

 いわれたとおり白蘭は客席をみた。前にみえるのは特別審査員たちの顔だ――ドイツ大使、ハリウッド俳優、蒋介石夫人・・・・・・。表情はさまざまだ――けげんな顔、厳しい顔、冷たい顔・・・・・・。いままであえて意識しないできたのに、自分がファイナル審査の舞台に立っていることが急に意識されだした。とたんに理性は失われた。かわりに妄想が――。

 みんなが自分を白眼視している。おそろしい疎外感。地球上の全員が敵になった感覚。だれも私の味方をしてくれない。だれも助けてくれない。ひとりぼっち・・・・・・。

 恐怖がおそった。心臓が狂気のようにうちだした。なにか思いきり叫びたくなった。どうにかなってしまいそうで自分がこわくなった。手足がふるえる、呼吸が乱れる、息がつまる。つまってしかたない。なにか飲みたい。このままだとおかしくなる。水がほしい。水をのまなければ――。

「落ちついて」

 丁香がさしだした水を、白蘭はなにも考えずにうけとった。砂漠で水に飢えていた人間のように一気にのみほした。

会場がいつのまに、水をうったように静まりかえっていたのにも、しばらくは気づかなかった。気づいたのは、丁香の笑いによってだった。花のさゆらぎのような笑いだったが、耳にあんまり響いたので、まわりの静けさに気づかずにはいられなかった。

なぜこんなに静かなのか?

人びとは白蘭をみて息をひいていた。一般客はおろか特別審査員までもが棒をのんだような顔をしている。だれもが飛びだすような目をして白蘭を凝視している。いや、彼らがみているのは、もはや白蘭ではなかった。

 水をのみほしたあと、白蘭の体には変化がおきていた。

西洋的な彫りの深い華やかな顔が一瞬にして東洋的なのっぺりとした華のない顔に変わり、ウエーブのかかった髪がストレートの髪にかわり、肉感的なしまりある体がありふれたずんどうの体に変わったのだ。

 まさにそれは変身だった。

 転瞬の間にありうべからざることがおこっていた。さっきまで白蘭だった人間が、まったくべつの人間に姿を変えている・・・・・・!

 それはまさに変身だった。

 おお、しかも変身後の姿に人びとはみおぼえがあった。すぐには思い出せないが、どこかでみたことがある、あれは合宿から脱落した元ファイナリストの江田夕子ではないか!

 いったいどういうことだ、白蘭が江田夕子になるとは?

 だれもが目をぱちくりさせた。

そのようすから白蘭――夕子はなにが起きたかを察して、さすがに色を失った。顔こそみえないものの、手足をみれば、もとの姿に戻ったことはわかる。

 丁香は会心の笑みをもらした。うまくいった、と思う。変身は自分がしかけたことなのだ。

丁香は自分がもとの姿に戻らされたあと、すぐに決めた――夕子も同じ目にあわせてやろう、と。それには白茶の入った水をのませさえすればよかった。水は演台のグラスに入っている。丁香がのんだ残りだ。だがそれをそのままさしだしても夕子の白蘭がのむわけがない。気づかせずに、のませる必要があった。だから丁香は自分がやられたように、夕子の白蘭を水をのまずにはいられない状況においこんだ。夕子の場合は精神をちょっと刺激すればじゅうぶんだった。理性を失わせる言葉をささやき、水をのまなければ狂うと思わせればいい。「親友」のポイントをよくつかんでいる丁香には、それができた。

いまや白蘭は白蘭でなくなった。自分同様化けの皮がはがれたのだ。

「これはこれは江田夕子さん?」

 うかれた声で丁香はいった。

「白蘭さんはどこに行っちゃいました? ひょっとしてここにいた白蘭さんもニセモノだったんですか?」

「・・・・・・」

 夕子は真っ青になっている。自分の変身はさっき王結のさしだした手鏡で確かめた。動揺は隠せなかった。みんなが変身を目撃したのである。とりつくろいようがなかった。丁香が隣で凱歌のような叫びをあげるのも、どうしようもできない。

「みなさん、江田夕子さんをご存知ですよね? 存在感はうすかったけれど、一時ファイナリストだった人です。そういえば江田さんのいた場所に白蘭さんがいたことって、なかったと思いません? 白蘭さんがファイナリストになるのがきまったその日に江田さんはファイナリストをやめてますし――。それもそのはず、江田夕子さんと白蘭さんは同一人物だったんです」

 花氷のような笑いをうかべて丁香はいった。

「謎の美女・白蘭の正体は、江田夕子さんだったんですね。中国人じゃなかったんですね。白蘭さんは中国人をいつわってたんですね。正体は日本人だったんですね」

「・・・・・・」

「自分が日本人だから、私を日本人にしたてあげようとしたんでしょう?」

「・・・・・・」

 夕子はいまにも倒れそうな様相だった。だが同情の目をむける客は皆無にひとしい。はじめはみな変身が信じられず、ぽかんとしていたが、丁香の言葉をきいているうちに江田夕子が魔女のように思えてきた。中国人たちは目つきを変えている。日本人にだまされたと思うと許せないのだ。そんな中国人の心理を利用して夕子への敵意をあおりにあおろうと丁香は客席にむかって、

「みなさん、さっきこの人は、私丁香の経歴といつわってデタラメを発表しましたけれど、そのデタラメの大部分は、この江田夕子さんの経歴がもとになっていたんです。みればわかるとおり、この人こそ日本人の両親をもつ、日本尋常小学校を卒業した正真正銘の日本人ですから」

 丁香はさっき白蘭の両親は李花齢に巧月生とウソの発表をしたことも忘れ、声をはりあげる。

「変身は、アレーさんの魔術あればこそ可能だったといえましょう。江田夕子さんはミス摩登になりたいがために、自分をアレーさんに売ったにちがいありません。

 なぜならごらんのとおり江田夕子さんにはグランプリになるだけの素質がないからです。でも江田さんは夢をあきらめきれなかった。だからアレーさんの力を借りて美女に変身し、さらにはあらゆる手段をつくし、人をけおとしてきたのです。そしてこのファイナル審査でさえ、ライバルの私を不利な立場においこむため策謀を用いたのです」

 まさに旗幟鮮明に、永遠の友情を求めて泣いたのはウソだとはっきりわかる視線を夕子に投げつけていった。

「審査員のみなさん、私はあえて申したてます。白蘭さん――江田夕子さんには、本来ミス摩登コンテストにでる資格はないと」

 そういって丁香は判断をあおぐように客席をみた。

 すると一部から、拍手がわいた。

 手をたたいているのは、もともと白蘭をよく思っていなかった者や、日本人嫌いの中国人にちがいなかった。丁香は口もとに会心の笑みをうかべた。

 拍手の音は徐々にふえた。

「そうだそうだ」

 という声さえわいた。

人びとが丁香に賛同するのはむりもなかった。江田夕子はただでさえミス摩登にふさわしくない外見である。それにたいして丁香はだれがみてもふさわしい。それだけでも夕子の負けはあきらかといえた。夕子は文字どおり立つ瀬がない。

非難を前に、首をたれた。ニセ白蘭の化けの皮をはがし、丁香の罪を暴いてみせたところまではよかったが、そのあとが失敗だった。ミイラ取りがミイラになるではないが、ニセ白蘭の正体を暴きにいって、自分も正体を暴かれてしまったのだ。

夕子は頭も体もしびれたようになって舞台上に立ちすくんだ。するとふとアホウドリのことが思い出された。アレーは夕子のことを陰でアホウドリと呼んでいたという。悪口ではない、ボードレールのアホウドリの詩をよめば意味がわかる、とボアンカはいった。だから昨日夕子は至誠堂書店に行って、その詩を読んだ。上田敏訳の『信天翁』には『をきのたいふ(沖の太夫)』のルビがふられていて、次のような内容だった。

  波路遥けき徒然の慰草と船人は、

  八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生擒りぬ、

楫の枕のよき友よ心閑けき飛鳥かな、

奥津潮騒すべりゆく舷近くむれ集ふ。


たゞ甲板に据ゑぬればげにや笑止の極なる。

この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、

あはれ、眞白き双翼は、たゞ徒らに廣ごりて、

今は身の仇、益も無き二つの櫂と曳きぬらむ。


天飛ぶ鳥も、降りては、やつれ醜き瘠姿、

昨日の羽根のたかぶりも、今はた鈍に痛はしく、

煙管に嘴をつゝかれて、心無には嘲けられ、

しどろの足を摸ねされて、飛行の空に憧がるゝ。

 詩の文句を思い出した夕子はいま胸をつかれた。アホウドリは飛んでいれば「青雲の帝王」、「沖の太夫」と呼ばれる。それがとらえられ船の甲板にいると、歩き方も見た目もまずい鳥として、人びとにばかにされる。アホウドリは双翼を空にはばたかせてこそ、沖の太夫という――。

千冬と龍平の顔は失意とあきらめにいろどられていた。白蘭が夕子に戻らされたせいで、途中までの戦果はすべて水泡に帰してしまった、と思ったときだった。

 夕子が顔をあげた。客席をみた。マイクにむかっていった。

「いかにも私は江田夕子。たしかに私は日本人です」

 夕子は客席をまっすぐにみていった。その顔はかたくひきしまり、目は凛とした光をおびている。夕子らしくもない、白蘭にさえみられなかった峻厳たる表情に、ただならぬものを感じとった丁香は息をのんだ。

「私はたしかに中国人に変身して白蘭と名のっていました。ミス摩登になりたくて、アレーさんの力をかりて、この世に存在しない美女に変身して活動していました」

 ひと息に、みずから認める発言をした。驚いたのは丁香だけではなかった。龍平も千冬も目をみひらいた。客席の人びとも気をのまれたようだ。平凡な娘が、いま舞台でただならぬ凄気を発している。

 場内は水をうったように静まりかえった。夕子のふっきれたような声だけが、ひびきわたる。

「私は毎日変身していました。ただし変身は魔術でしたのではありません」

 夕子は昂然といった。

「丁香さんは私がアレーさんに魂を売り、変身の術をならったようにいいましたけど、それはさっきもいったとおり、デタラメです。そもそも変身の術なんて私はおろか、アレーさんだって使えません」

 夕子はここで大きく深呼吸し、決意したようにいった。

「変身ができるのは、魔術のおかげではありません。ある道具のおかげです」

「笑止千万っ」

 丁香がさえぎった。声はひきつっていた。横のアレーがひきとっていった。

「変身ができる道具? そんなものが仮に存在するとして、私がそれにたよると? 私はりっぱな魔術師、変身の術ぐらい朝飯前、それを忘れてもらっちゃ困ります」

 夕子はひるまずいった。

「笑止でない証拠をおみせしましょうか」

 アレーと丁香がさえぎるまもなく、

「ほら、これがその道具です。これさえあれば、だれでもなりたいものに変身できる」

 突如つきだされたものをみて、アレーも丁香も口に土団子をねじこまれたような顔をした。

 なんと驚いたことに、夕子の手には狐仙茶壷と麒麟茶壷がのっていた! 

ふたつとも、どこをどうみても、まぎれもない本物だ。

 それにしてもいったい、いつのまに・・・・・・?

 夕子が危地に立っていた真っ最中、つまりもとの姿に戻された直後、下手側の袖に全身黒ずくめの黒子が立ったことに、丁香たちは気づかなかった。勝った気になって油断していたからかもしれない。

だが夕子はまもなく気づいた。舞台から消えてしまいたいと思っていた折だったからこそ、袖に視線がいき、視界に入ったといえる。黒子の正体は不明だが、龍平の味方にちがいなかった。体型からしてボアンカだろうと推測した。

黒子は夕子が気づいたことに気づくと、なにか合図をした。手にもったものをひとつかかげた。茶壷だった。それで夕子は助かった、と思った。自分が白蘭に変身していたと認める発言を安心してできたのも、そのためだった。丁香たちは夕子に気をとられ、舞台袖から背後にしのびよった黒子には気づかなかった。黒子は夕子に二茶壷をわたした。その二茶壷をいま夕子は昂然と丁香につきつけていう。

「この道具、みおぼえありますよね?」

「・・・・・・」

 さすがの丁香もすぐには声をだせなかった。それもそうだ、とんでもないものをとんでもない場所でつきつけられたのである。だが丁香に衝撃を与えたのは、それだけではなかった。黒子の正体にも衝撃をうけていた。黒子は用をすませるとすばやく舞台裏にひきさがっていったが、それにようやく目をとめた丁香は黒子の体型や動作からその正体をみぬいた。いっけんボアンカにみえたが、ちがう。正体はロレーヌだ。それと看破したのは丁香だけではなかった。

ハルトンもそのひとりだ。さしものハルトンが思わず目をむいた。裏切られた、と感じた。ハルトンはロレーヌに最終選考会終了までに二茶壷を日本特務から奪い、自分の配下に渡すように命じていた。その二茶壷をすでに奪ったらしいのは上出来だが、せっかく奪ったものを、こともあろうに舞台に乱入して江田夕子に渡すとはなにごとか? 狂ったとしか思えない。ロレーヌは寝返ったのか?

 ハルトンは知らなかったが、ロレーヌはけっして白蘭――夕子の味方になったわけではなかった。

 ただヤケをおこしたのだった。グランプリはあらかじめ丁香になることが決定している、とボアンカからきいたことが大きかった。しかもきめたのはハルトンという。ハルトンのスパイをしているだけに、ロレーヌは失望し、憤った。ハルトンのために働けば、ハルトンが自分を優勝させてくれるだろうという期待が、いつも心のどこかにあった。それが裏切られ、グランプリになれないと知って自棄的になったロレーヌは、ハルトンを裏切ってやれ、という気になった。本来自分が盗んでハルトンに渡すはずだった二茶壷を、ボアンカの味方の人間に渡すことにした。丁香協力者控室で弾丸に撃たれ、動けなくなって自分の役目を果たせなくなり、狂乱状態にあったボアンカに、あんたの役目を自分がかわりに果たしてやろうというと、ボアンカは仲間の名前をぜんぶ教えてくれた。そのうちのひとり、白蘭は正体が江田夕子だということもいった。ボアンカは第六感が発達しているので、白蘭が白茶をのまされることを予期していたのかもしれない。万が一を思って正体をロレーヌに教えたのだが、それが結果的に幸いした。

ボアンカのたのみをうけてロレーヌは舞台袖にいった。ボアンカの仲間はいまみんな舞台にいるはずだとのことだった。はたして彼らは全員舞台にいた。ところが舞台の雰囲気は異様だった。白蘭のかわりに江田夕子がいること、その夕子について丁香が観客にしゃべっていることをきいて、ロレーヌはおおかたの事情を察した。自分が二茶壷を届ければ、ボアンカの仲間は救われるはずだと思ったロレーヌは舞台にあがりこむことに決めた。

といってもファイナル審査の出番を控えた身、さすがにロレーヌとわかる姿ででてはまずいと思い、黒子用の衣装が裏にあったのを幸い、身につけて正体を隠しつつ、舞台袖に立った。そして舞台上にいるボアンカの仲間のうち、まずは龍平に合図を送った。ところが龍平は気づかなかった。丁香をにらみつけているばかりだ。気づいたのは夕子だった。ロレーヌはさっそく合図を送った。茶壷をかかげてみせた。夕子はうなずいた。そこで舞台に影のようにしのび入り、わたしにいったというわけである。

夕子は二茶壷をうけとれる――反撃にでられる、と思ったからこそ、人びとに白蘭の正体を告白する勇気がわいたともいえる。が、それはあくまできっかけだった。

実は今日白蘭として舞台にでる前から、自分の正体を告白する覚悟をある程度はしていた。夕食会の晩、千冬と龍平に触発されて、自分をいつわらないで生きたいと思うようになってから、世間に白蘭の正体をあかすことを真剣に考えるようになった。そのときはまだ夢想に近く、ほんとうにできるとは思っていなかったし、まだ覚悟はさだまっていなかった。今日最終審査選考会の会場に入ると、また頂点に立ちたい欲がでて、決意がうすれてきた。

だが江田夕子に戻されて、どうにも進退きわまると、窮すれば通ずといったように、覚悟がさだまった。アレーが自分にアホウドリというあだ名をつけていたことを思い出し、ボードレールの詩が耳の奥からきこえてきたのも大きい。同じアホウドリなら羽ばたいて沖の太夫になりたい、と思った。

 いちど真実を告白すると、自分でも思ってもみなかった力がわいた。江田夕子もこんなに強かったのか、と自分で自分に驚いた。いま夕子は観衆と丁香相手に堂々と、茶壷という武器を手にいった。

「私はこの道具を使って、変身してたんです。こっちの、この狐のかたちをした茶壷です。丁香さんもよく知ってますよね?」

 なにもいえずにいた丁香だが、唇をふるわせ、やっといった。

「荒唐無稽。みなさん、そう思いませんか?」

丁香はむりに顔を笑わせて客席に問いかける。

「荒唐無稽ですよね?」

「魔術で変身できるというほうが、よっぽど荒唐無稽では」

 夕子がさえぎった。

「ほんとうのことをいったらどうですか? 丁香さんは私をだまして、私からこの茶壷を奪った。そして茶壷を使い、白蘭に変身して、私の舞台をのっとったじゃないですか」

 別人のような口調で夕子がいったので、丁香は狼狽した。だが表にはださずにいった。

「なにをもってただの茶壷を変身の道具と。もう、よろしいんじゃありません?」

 最後通告のつもりで、夕子の目をきっとみすえた。瞳の奥から針のような光を放った。この眼光はいつでも夕子を呪縛するにてきめんの効果を発揮してきた。だが夕子はいま、ひるまずにいった。

「じゃあ、この茶壷で実演してみせましょうか。それで変身できなかったら、なんとでもいってください。ただし、できたら、私の発言は真実ということですからね」

 この発言には客席の小山内駿吉、ハルトンも狼狽を隠せなかった。舞台にのりこんで、とめたいぐらいだった。だが立場上そんなことができるわけはなく、どうしようもできないでいる。

「狐仙茶壷、それはなりたい肉体に変身するお茶をつくる茶壷。みなさん、白蘭の――いえ、江田夕子の最後のパフォーマンスと思って、どうぞごらんください」

 すると黒子がいつのまに用意していたのか、なんともタイミングよく舞台袖から熱湯と茶道具一式をはこんでき、また去っていった。

 夕子は演台に狐仙茶壷をおいた。なにが起こるのかと見物はなりをひそめてみまもった。夕子は狐仙茶壷をみつめ、背中をピンとのばし、これ以上ないほど真剣な顔をした。そして、

「孟臣沐霖(メンチェンムーリン)」

 前に覚えた北京語の文句を低くつぶやいて、熱湯を茶壷にていねいにそそぎいれた。茶壷が温まったころあいをみはからい、湯を茶杯に捨て、

「朱雀入宮(ジューチュエルーゴン)・・・・・・懸壷高冲(シュアンフーガオツォン)・・・・・・清風拂面(チンフェンフーミェン)」

 茶壷に茶葉を入れ、あふれるほどの熱湯をそそぎいれ、目をとじてしばし把っ手をこすった。すると茶葉を吸った湯が不思議にも波だち、泡だった。これを茶杓ではらい、ふたたび、

「重洗仙顔(チョンシェンシェンイェン)・・・・・・」

 蓋をして茶壷の上から八の字を描くように湯をそそぎかけた。するとこれまた奇っ怪、茶壷の底は生物のようにうなりをたて蓋は上下しだした。

「関公巡城(グワンゴンシュンチェン)・・・・・・」

 おさまらない茶壷をそのまま持つ。すると不思議なことに茶はいっさい傾けずとも注ぎ口からトクトクとあふれでて、茶杯をなみなみとみたしたのである。

 その茶杯を夕子は口をあけて傾け、中身をひとのみにのみほした。

 見物はまばたきをした。

一度、二度、三度・・・・・・なんどもまばたきをした。

 なんたることか! ここにまた目を疑う怪異な現象がおこっているではないか!

 江田夕子の東洋的なのっぺりとした華のない顔が一瞬にして彫りの深い華やかな顔に変わり、まとまりのないストレートの髪がウエーブのかかった髪にかわり、ずんどうのありふれた体がしまりある肉感的な体に変わったのだ。

 つまりさっきの逆の現象がおこったのである。

 江田夕子は白蘭に変身したのだ。

「どうです。この道具で変身できましたよね?」

 白蘭に戻った夕子は花のような笑みをたたえていった。

 その瞬間、予想もしなかったことがおきた。丁香はだれよりも耳を疑った。

 拍手がきこえだした。

 はじめはパラパラ、という音だった。ふりはじめの夕立のように、かろうじてきこえる程度だった。それが夕立と同じで徐々に大きくなり、ついには耳を聾するほどすさまじい音になった。

 いったい見物はどうしたのか。急にこんなに拍手するとは。

 わけがわからない。

 おそらく見物たちもなぜ自分が拍手しているか、よくわかっていなかっただろう。

 ただ彼らは異様に興奮していた。

 いままでは怪異の光景をみてもただ唖然茫然とするだけだったが、なんどもみせられているうちに不可思議現象にたいする免疫ができて、いまあらためて茶壷を使った変身をみせられると、一流のマジックでもみたように純粋に感嘆し、興奮できたのかもしれない。

あるいはあくまで勝利に固執し自己防衛に徹する丁香への反発と、自分を捨てて正体を認めた白蘭にたいする共感をわかせたためかもしれない。

 とにかく見物は一部をのぞいてみな興奮していた。正体が日本人ということも忘れ、白蘭の天からまいおりたようにしかみえない花のかんばせ、雪のはだえに魅了され、夢中になっていたといっていい。

 嵐のような拍手喝采で白蘭のドレスのすそは翼となってはためかんばかりにみえた。

 だがその姿は忽然として見物の視界から消えた。

 幕が、なんのまえぶれもなくおりたのだ。

「これにてファイナル審査における一番白蘭さん、二番丁香さんのパフォーマンスは同時に終了とさせていただきます」

 アナウンスが流れた。言葉はていねいだが、強制終了も同然だった。

 客席のハルトンはほっと胸をなでおろした。がまんも限界だった。使いをやって進行係にいいふくめ、やっとやめさせられた。ハルトンはすでに立ち直っている。ロレーヌの裏切り、という想定外のことはおきたが、ハルトンには秘策があった。コンテストが終わるまでに三霊壷をすべて自分の手に入れるための秘策が――。


 強制終了はさせられたが、龍平たちは有頂天だった。

二茶壷はいま自分たちの手にある。幕がおりるなり、丁香が血相変えて奪いとろうとしてきたが、仲間同士結束してはねのけてやった。もうこっちのものだ。二茶壷を手に入れて、白蘭組は意気揚揚、こわいものなしという感じである。

怪我人の千冬でさえ足どりが軽くみえる。王結だけが若干なぜだか顔を曇らせているが、特別気にとめるものはなかった。王結は蒼刀会員だから舞台で白蘭の正体を日本人と知った衝撃からぬけだせないのだろうと思われた。

 で、いま、白蘭組一行の四人はロレーヌ協力者控室にむかっている。ボアンカの安否を確かめるのが目的だった。

ボアンカは舞台袖にひかえているものと思われたが、いなかった。白蘭組の四人はボアンカと二茶壷をとりもどしたよろこびをわかちあいたかった。それに、いろいろ確認したいこともあった。黒子になって自分たちに二茶壷を届けにきたのが、なぜボアンカでなくロレーヌだったのか。ロレーヌにきくことはできなかった。ロレーヌはすでにファイナル審査の三番目の出場者として舞台にでている。表向き「ロレーヌ協力者」のボアンカは、舞台にいなければ舞台裏にひかえているはずだった。だがいないのだ。ボアンカの身になにかあったのかもしれなかった。だから四人は探すことにした。とりあえずボアンカの陣地であるロレーヌ協力者控室を訪れることにした。ライバルの協力者控室を探るのは掟破りだが、この際かまわない。いまの白蘭組はこわいものなしなのだ。

四人はロレーヌ協力者控室前で足をとめようとした。そのときだった。突如、行く手が黒影にふさがれた。蝙蝠のような三つの影の実体は、男三人だった。

巧月生と、その護衛二人だった。

 龍平は驚いている。舞台裏には出演者以外、いまは入れないはずだった。どうやって入ってきたのか。なにしにきたのか。いやな予感がした。

目の前の巧はひょっとしたら、母親の魂の棲む花齢巧ではなく、日本特務のばけたニセ巧かもしれない、と思った。だとしたら目的は、自分たちから二茶壷を奪うことしか考えられない。龍平はとっさに二茶壷をいれた袋をうしろに隠すと、巧が口をひらくより先に、

「おひさしぶりです」

 と、先手をうつようにいった。すると巧はいきなりいった。

「いまもってる二茶壷、私に譲ってくれないか」

 龍平に哀願の眼ざしをなげている。巧月生らしい威厳はおろか落ちつきもない。目の前の巧はやたらと手を動かしていう。

「さ、こっちへ、二茶壷をこっちへ。な、たのむ」

 正気の沙汰とは思えなかった。龍平は愕然とした。二茶壷を手に入れたら巧にわたすというすじ書きは自分たちの計画にはなかった。だが目の前の巧はニセ巧とは思えない。口調といい、目つきといい、母花齢のものだ。それにしても不審なのは、護衛二人が当たり前のような顔をしていることだ。龍平は今日花齢巧についている護衛が、蒼刀会員をよそおった日本特務なのをみぬいている。二茶壷をよこせ、というのは母ではなく、日本特務の意思だろうと推察した。花齢巧は、いわされている――。

「お願いだ。せっかくとり返したものをすまないが、私の手においてくれ」

 花齢巧はすがりつくようにいってくる。龍平はあえて厳然といった。

「なんで渡さなくちゃならないんですか」

 すると巧は恥も外聞もなく、泣きそうな顔になっていった。

「いわれたとおりにしないと、私はおろか、あなたの命が危ない。いま拘置所にいる人の命も」

 花齢巧の叫びはそこでとまった。龍平の位置からはよくみえないが、護衛をよそおった男二人が体勢を変えたことが影響しているのはあきらかだ。花齢巧は背後から銃をつきつけられているらしい。いまは、それ以上いうな、と銃の感触で脅されたのだろう。

 龍平は身をきられる思いがした。母花齢のいおうとしたことはわかった。小山内駿吉にふたつの茶壷を渡せないと、母はおろか息子の自分と拘置所の吉永義一の命まで奪われることになるようだ。小山内駿吉のことだ、けっして単なる脅しではない。従わなければほんとうに実行するだろう。自分の命はともかく、あとのふたりのことを思うと、くやしいが従わないわけにはいかない。

龍平は断腸の思いで二茶壷を花齢巧に渡した。

仲間の非難の目が背に痛い。千冬も白蘭も王結も、巧が日本特務に脅されていると察しはつけただろうが、その巧の中身が龍平の母親とは知るよしもない。龍平が二茶壷をみすみす敵の手にわたるとわかっていて手放したことを不審に思っているだろう。どう説明したらいいか。龍平はさっきまでがウソのように悄然としてロレーヌ協力者控室のドアの前に立った。

花齢巧は男二人にひったてられるようにして丁香協力者控室にいった。二茶壷をとり戻したら、そこにふたたび保管するよう小山内駿吉に命令されていたのである。

丁香協力者控室といえば、ニセアレーとボアンカとほか日本特務二人が銃にうたれ、倒れている。三人はそのことは知っているのだろうか。

花齢巧をつれた男二人は、丁香協力者控室に入るのに、いちおう規則にのっとって丁香にドアをあけさせた。呼ばれてやってきてドアをあけてくれた丁香が、ファイナリスト控室に去るのをみおくってから、三人はなかに入った。

たちまち、男二人は目をむいた。

ニセアレーと護衛役二人と、敵のボアンカが共だおれになっているのをみたからではない。そんなことは予想の範囲内だった。

驚いたのは、彼ら負傷者たちが手当てをうけていることだった。いつ入ったのか、医者らしき十字の腕章をつけた男が二人もいて、薬箱をひろげ、いま人が入ってきたことにも気づかないようすで忙しげに応急処置にあたっている。野戦病院のような光景が展開されていた。

医者は二人とも白人だ。それにしてもどうしてここに怪我人がいることを知ったのか。銃声がきこえたのだろうか。銃声をホテルの人間またはIAAがききつけ、室内の状況をみて医者を呼んだのかもしれない。しかし邪魔だ。これでは二茶壷をこの部屋におけないではないか。いずれ手当てが終わったら、負傷者四人をつれて外に行ってくれるかもしれないが、そうともかぎらない。邪魔者の医者をいかにすみやかにとりのぞくか、小山内駿吉の命令をうけた日本特務二人が思案をめぐらしたときだった。

巧が突然走りだした。虚をつかれた二人があわててつかまえようとしたときには、巧はもう医者の一人に話しかけていた。いや、話しかけているのではなかった。なんと、巧は無言で二茶壷を、その白人の医者に渡していた。

 日本特務二人はあまりのことにあっけにとられ、声も出なかった。

 医者がだれだか気づいたせいもある。その医者はよくみると、なんとあのIAA常務理事ゴッド・G・フィリップスだった。

フィリップスは二茶壷を当然のような顔をしてうけとっている。これはどういうことか。巧月生は自分たちの目の届かないところでIAAと通じていたのか? まさかそんなことが・・・・・・。狐につままれたような顔をした日本特務二人は次の瞬間、異様なうめき声をあげ、ドウとばかりに床にくずおれていた。

ふたりとも額を弾丸にうちぬかれている。即死だった。額にあいた穴から血が流れている。撃ったのは、白人二人だった。いまのいままで手当てに専念しているかにみえた医者二人が同時に銃を撃ったのだ。弾丸はみごと日本特務の額に命中した。

 二人の白人の正体は、ひとりは先ほどもいったとおりIAA常務理事のフィリップス、もうひとりはそれより立場が下のIAA理事G.V.キトソン。二人とも射撃が趣味で相当の使い手、相当の胆力の持ち主だった。二人の人間を殺しておいて眉ひとつ動かさない。

フィリップスは立ちあがると、はじめて声をだした。花齢巧にむかって、

「二茶壷はこのとおり、おあずかりいたしました。ミスター・ハルトンもこれで、およろこびになるでしょう」

 IAA常務理事フィリップスは、ハルトン子飼いの人間だった。もうひとりのキトソンも同様だ。二人ともグランプリの裏工作にも関わっている。

二人は一次審査のときから舞台裏の一箇所にひそんでいた。ファイナリストたちの動きを監視するようにハルトンにいわれていたのだった。なにかあったらいつでも動ける態勢でいた。ファイナル審査まではなにごともなかったが、白蘭の出番中に異常が発生した。すなわち丁香協力者控室から銃声がきこえたのである。茶壷をめぐる争いだとわかった。だがそのときは静観した。二茶壷を奪うのは原則ロレーヌの役目だったからだ。

そのロレーヌがハルトンを裏切り、二茶壷を白蘭組に渡したことで事態が変わった。

ハルトンは二人に医者をよそおって丁香協力者控室に入るよう指令をだした。二人は控室に入ると負傷者を治療するふりをした。が、実際に手当てをしたのはボアンカだけだった。あとの男三人はすでに死んでいた。ハルトン子飼の白人二人は、せいいっぱい医者の演技をして、まもなくくるはずの巧月生を待っていたのである。それにしても二人はどうして巧が二茶壷をもってきて自分たちにわたしてくれると知っていたのか?

そもそも巧はなぜ二茶壷を白人の手に当然のように渡したのか? 二人がハルトン子飼の人間と知っているのか? 花齢巧はハルトンに寝返ったのか?

日本特務に二茶壷を渡さなくてだいじょうぶなのか? 渡さないと息子と恋人の命が危険にさらされるのではないのか? 龍平にいったのはウソだったのか?

それとも花齢巧は息子や恋人の命などどうなってもいいと思っているのか?


ロレーヌが出番を終え、ファイナル審査の幕がおり、やがてコンテストは大詰めを迎えた。いよいよグランプリ発表のときがきた。

「それでは、グランプリを発表いたします」

 審査員代表の蒋介石夫人・宋美齢が舞台に立ち、笑顔でいった。

舞台にはいま白蘭、丁香、ロレーヌの三人が三者三様の面持ちをして横一列にならんでいる。

 コンテストは白蘭と丁香による予想もしないパフォーマンスのために一時は審査の続行さえあやぶまれたが、どうにかグランプリ発表の舞台の体裁はととのえられた。

ロレーヌはひきつった顔をしている。グランプリは丁香がなるとわかっているためにちがいない。目には、あきらめとくやしさがにじんでいる。

丁香は変にまじめくさった顔をしている。だがそれは表面だけ、自信家の丁香のこと、ハルトンの操作のことまでは知らなかったが、グランプリは自分が勝ちとるのだと信じきっているようすだった。あれほどのことがあったのに、自分のパフォーマンスはライバルとの醜い争いで終わってしまったのに、自分が最高の笑顔をまもなく咲かせることを信じて疑っていない顔だった。

 白蘭は緊張しきった顔をしている。グランプリになれるかどうかの緊張ではなかった。それは龍平に協力するときめた時点で、思いきっていた。いま緊張しているのは、これからすべき重要な任務を思ってのことだった。コンテストを最後の最後で中止させる――そのための任務を夕子の白蘭は龍平にたくされていた。果たせば、さっきの龍平の失敗もとりかえせる、という。龍平の期待が自分の両腕にずしりとかかっている。だけど私に果たせるか、どうか――。

 審査員代表が黒い睫毛をあげて三人の顔をみた。白蘭、丁香、ロレーヌは息をのんだ。宋美齢は留学時代に身につけたアメリカ南部訛りの英語でいった。

「グランプリは――」

 会場全体が水をうったように静まりかえった。緊張が支配する。宋美齢が言葉をついだ。

「エントリーナンバー一二五八番、ロレーヌ・バリーさん」

 えっ、という顔でロレーヌは審査員代表の顔をみた。

「おめでとうございます!」

 わっと場内がわいた。カメラのフラッシュがいっせいにロレーヌにあびせられた。ロレーヌは信じられないといった顔をしている。

 ボアンカはうそをついたのか? グランプリは丁香のはずではなかったのか? 

ロレーヌがグランプリになったのは、ハルトンの操作が失敗したためではけっしてなかった。ハルトンが意向を変えたのだ。丁香をグランプリにしようとしたそもそもの目的は、二茶壷を奪うことにあった。ところがうれしい誤算で、二茶壷はグランプリ発表前にハルトンの手に渡った。巧月生が白蘭組から二茶壷をだましとって、ハルトンの仲間に渡してくれたからだ。巧月生がなぜ急にハルトンの味方になったのか、そのわけはのちにわかるが、とにかくハルトンは二茶壷を手にした。だから丁香がグランプリになるよう操作する必要はもうなくなった。

 必要ないどころか、いま丁香に正賞の鳳凰茶壷をわたしては、たいへんなことになる。日本特務は狐仙と麒麟の二茶壷を失っただけに、鳳凰茶壷を手にすれば簡単には放そうとしないだろう。今日じゅうに返そうなんて思わないにちがいない。

 だからグランプリはロレーヌに変更した。裏切者だが、ロレーヌなら鳳凰茶壷をわたしても、バックに軍人やマフィアがついてるわけでなし、あとで簡単にとり返せる。ロレーヌはファイナル審査のパフォーマンスがいちばんまともだったので操作の必要はなかった。特別審査員の審査結果でも一位はロレーヌだった。

「グランプリをみごと勝ちとられましたロレーヌさんには、フレッド・エヴァーソンIAA会長より、正賞が授与されます」

舞台袖からIAA会長が正賞の入ったガラスケースをかかえてあらわれた。あのなかには本物の鳳凰茶壷が入っている。その茶壷でいれた茶をのめば、だれでも慈悲深くなれるという。その能力はどうでもよくても、三つそろえて三つの茶をまぜて若い娘にのませれば、六神通がモノにできる。そのことを知っている者たちは、だれも舞台上の鳳凰茶壷を目にして平静ではいられなかった。

客席の小山内駿吉は目の奥をギラギラと光らせた。

 そのななめうしろの席で花齢巧はうす笑いをうかべた。花齢巧は小山内駿吉の命令にそむいた。狐仙茶壷と麒麟茶壷を白蘭組からだましとってくるようにいわれたが、とってこなかった。いや、たしかにだましとりはしたが、日本特務にはわたさなかった。IAAの白人たちに渡した。しかも護衛役の日本特務ふたりをその白人たちに殺させてきた。それでよく客席に戻ってこれたものだ。もっとも花齢巧は会場では小山内駿吉と他人のふりをしているので、客席で両者が言葉をかわすことはない。だから日本特務ふたりが殺されたことを小山内駿吉がまだ知らない可能性はあった。それでも花齢巧がひとりで帰ってきたのは不審に思っているはずだった。駿吉は花齢巧が命令を果たさなかったことは察しているはずだ。にもかかわらず花齢巧におそれる気配はない。いくら駿吉でも客席では自分に手出しできまい、とたかをくくっているのだろうか。うす笑いをうかべている。それにしても、ニヤニヤしすぎているようでもある。花齢巧はハルトンの味方についたことといい、いったいなにを考えているのか。

 小山内駿吉はいま、それどころではなかった。彼の視線は舞台上の一点に集中している。いまみているのは正賞ではなく、丁香である。刺すような目でみた。眼鏡の奥から針のような光を発した。その光をみて丁香は小山内駿吉の目に釘づけになった。駿吉は丁香に目で合図を送った――。

「それではIAA会長、お願いいたします」

 司会がいった。ミスター・エヴァーソンが正賞をもって、ロレーヌに一歩近づく。ガラスケースがスポットライトをあびて、きらめく。

丁香は駿吉の目に釘づけにされていた。丁香は優勝を逃がした場合は、グランプリから正賞を奪え、とあらかじめ命令されていた。それをいまやれ、と駿吉の目はいっていた。

だが、丁香には迷いがあった。グランプリになるのは自分だと信じきっていたので、心の準備ができていなかったのもある。けれど丁香をもっとも迷わせたのは、この舞台で奪えといわれたことだった。

丁香は思う――私はグランプリになれなかった。私の名は自分では認めたくないが、白蘭とのやりあいでだいぶ傷ついた。もういままでのような人気は望めないかもしれない。

 でもいまならまだ、挽回がきく。だからこれ以上自分の名を傷つけるようなまねをしたくない。いま正賞を奪ったりなどしたら、私の名は決定的に傷つく。

 いくら駿さんのためでも、ためらいは禁じえない。だいたい私は日本特務に正式には雇われてない身――。

いくら「駿さんを愛している」、「私の愛は犠牲的」などと壮語しても、しょせんは自分が大事の丁香であった。

けれども命令を無視する勇気もなかった。命令を無視すれば、駿さんを失うことになる。駿さんのいない生活など、思っただけで、胸が寒くなる。駿さんを失うことは、自分の心の柱を失うことだ。自分の生きる目的、女としての自信、なにもかもなくなる気がする。それでどうやって生きていけばいいのか。たとえいま体面をわずかに守れたとして、心がぬけがらのようになったら、映画女優になれてもなにもうかばれない。生きがいのない人生を送るくらいなら、自分の顔に泥をぬっても正賞を奪って、駿さんに愛されたほうがいいかしれない――。

「おめでとう」

 IAA会長がロレーヌに正賞をわたす格好をとった。

 燦然と輝くガラスケースがIAA会長の手からグランプリの手に移ったまさにその瞬間、ガラスケースをガッキとつかんだ手があった。

丁香である。丁香がグランプリの正賞を奪おうとしている。あまりのことに観衆ははじめなにが起きたのかわからなかった。IAA会長もロレーヌも棒立ちになっている。

丁香はガラスケースを全力で自分のほうへひっぱった。だがどうしたのか、ガラスケースはびくともしない。ロレーヌが離そうとしないのだ。ロレーヌは最初の驚きからさめると、正賞を奪われてなるまいと全力を発揮した。腕力ではロレーヌに勝てないことを丁香は知っている。焦った。やむをえなかった。片手をドレスのポケットにつっこみ、短銃をとりだした。こういう場合にそなえて、しのばせてあったのである。

「正賞を放しなさい。でないと撃つ」

 丁香がそういってロレーヌに銃口をつきつけたのと、

「ロレーヌから銃を放しなさい。でないと撃つ」

 と、白蘭が丁香に横から銃をつきつけたのと、ほぼ同時だった。

人びとは凍りついた。グランプリ発表の場がいっきに修羅場に変わった。

丁香がグランプリに銃をつきつけ、白蘭が丁香に銃をつきつけている――。

 へたにとめようとすれば死人がでる。とっさにはだれも手出しできない。

 はじめ、これはたちの悪い芝居ではないか、と思った者も少なからずいた。ファイナリストたちはグランプリ発表前にあらかじめ、落選してもただでは終わらず、最後にみんなを驚かすようなことをしてください、とでも注文されているのかもしれない。だからこうやって正賞争奪戦といった芝居をはじめたのかもしれない。

でもそれならIAA会長や審査員代表が、あんなに驚いた顔をするはずがない。あれは芝居なんかじゃない。丁香と白蘭の発する殺気も本物だ。

 丁香の短銃も、白蘭の短銃も本物だった。白蘭ははじめから使うつもりで短銃をドレスにしのばせてきた。任務を実行するのに必要だった。白蘭の任務は正賞を破壊することだった。

龍平はいった――「だれにも三霊壷の三つの茶壷をにぎらせてはならない。三つの茶壷でいれた茶を若い娘がのむと六神通(六つの超人的な能力)を使えるようになる。それは非常に危険なことだ。日本特務や中国国民党政府が三霊壷を手に入れた場合を想像してみてほしい。権力者たちは若い娘を薬籠中のものとして六神通を使えるようにするだろう。国家権力者が六神通を意のままにできたら、どうなるか? ろくなことにはならない。世界はいまより悲惨になる」。龍平はアレーにいわれた言葉をそのまま白蘭にいったのだった。「三霊壷は破壊する必要がある」。

それで狐仙と麒麟の二茶壷を日本特務からとり返したのだが、ふたたび奪われた。このままではコンテスト終了前までにだれかが三霊壷をそろえることになるかもしれなかった。なぜならコンテストの正賞「鳳凰のかたちをした茶器」とは鳳凰茶壷と思われるからだ。だったら正賞を破壊するしかない。それが六神通を無効にする唯一のチャンスだ。そう龍平は思い、白蘭に破壊の任務をたくした。グランプリ発表の舞台にたてるのは、味方では白蘭だけだからだ。

ところが白蘭が破壊行動にでるより先に、丁香が正賞を奪いにかかった。まさか丁香がこの場でロレーヌに銃をつきつけようとは龍平も考えていなかった。だが白蘭は任務の遂行をあきらめなかった。丁香に背後から銃をつきつけた。白蘭もまた愛する人のために自分を捨ててかかった。

「ロレーヌから銃を放しなさい。でないと撃つ」

 白蘭は丁香にいった。銃をはさんで一直線にならんだふたりは、顔むきあわせ、にらみあった。

目と目がぶつかりあった。

ふと白蘭は万感胸に迫る気がした。こんなふうに丁香と敵意をぶつけあう日がこようとは、三か月前の江田夕子は想像もしなかった。自分は親友とたのんだ丁香に銃をつきつけている。反応如何では、撃つことも辞さないつもりでいる。

丁香にも、ひきさがる気配はない。ロレーヌが正賞を手放すまでは銃を放さないとみえる。

丁香も白蘭もねらうは同じ鳳凰茶壷。ひとりは愛人に渡すため、ひとりは破壊するため、目的はちがうが、どちらも愛する男のため、一歩もゆずらない。丁香は冷然といった。

「邪魔しないで」

 そのときだった。

「ちやっ」

 白蘭が奇怪な叫び声をあげ、引き金をひいた。弾丸が銃口をとびだした。人びとは息をのんだ。弾丸は丁香に命中し皮膚を貫通したと思われたその瞬間――、

 大音響が、舞台をゆるがした。

 ひやあ、というような悲鳴があがった。

 人びとはまなじりを裂いてみつめている。――舞台の一点を。宙にガラスが散開し、きらきらと破片が花びらのように舞い、落下していくのを・・・・・・。

鳶色の磁器の破片がそのなかにまじっているのを・・・・・・。

 夕子が撃ったのは丁香ではなく、ガラスケースだった。弾丸はガラスケースをつき破り、中身の茶器もろともこなごなにに粉砕した。

ロレーヌはあやういところで手を放している。あれほど渡すまいとがんばったガラスケースだが、白蘭の短銃が丁香から正賞にむきかわった瞬間、さすがに危険を察し、もっていられなくなった。

弾丸がガラスケースにあたったのは、ロレーヌが手を放したあとだった。正賞は――鳳凰茶壷は、空中で弾丸をうけ、割れ、飛散した。

 舞台のだれもが身をひいたきり、気死したようになった。IAA会長がやがて、うめくようにいった。

「なんてことを・・・・・・」

 すると、それを合図とするように、舞台の両袖からどっと物々しい男たちがなだれをうってとびこんできた。全員白人である。異常事態発生後、IAAに呼ばれてきた租界警察官だった。白蘭と丁香が銃をかまえているあいだは、さすがにとびだせず、舞台裏に待機していたが、白蘭が発砲してすきができたので、ソレッとばかりに舞台に入ってきたのである。まるで芝居のようだが、人びとは現実のこととわかって驚き、おそれおののいた。

だが白蘭はあわてなかった。むしろ、安堵したような顔をしている。警官がきたことで、任務を果たした実感がわいたようだった。最後の最後にちゃんとコンテストをつぶすという使命を果たせた。

警官たちは、銃をもった白蘭と丁香を捕えよとばかりにやってくる。

次の瞬間、白蘭は飛鳥のように舞台をとびおりた。

舞台下には龍平が待ちかまえていた。両腕をひろげ、春の海のように温かい目をして、立っていた。その目はいっている――「よくやった。さあ、おりておいで」。

白蘭は舞台からとんだ。龍平は全身で白蘭を抱きとめた。

「さあ、逃げよう」

 ささやいて白蘭の手をとった。かねてのうちあわせどおり、ふたりは警察から逃げるために走りだした。

ところが、ふたりの前にぬうと立ちふさがった人間があった。

巧月生――花齢巧だった。くわっと目をひらき、龍平をおさえつけるようににらんでいる。目には青い冷炎がゆらめていた。いつもの花齢巧ではない。花齢巧はいまおのれのハルトンにたいする功績を息子たちによって台なしにされたことを憤っていた。

花齢巧はなぜハルトンの味方になったのか?

実は、李花齢がハルトンに寝返ったのは今日がはじめてではなかった。

李花齢にとってハルトンは昔からたよれる兄のような存在だった。

 父親の赴任先のパリのダンスパーティーで出会ったとき、花齢――本名裕如莉がわずか十五歳だったのにたいし、ハルトンがすでに大学生だったからかもしれない。パリ大学留学中のイギリス人大学生ハルトンは中国人の如莉を人種差別しなかった。気さくに、あたたかかく相手をしてくれた。

 初対面から五年、十九歳になった如莉は上海の外交官パーティーで三十一歳になったハルトンと偶然再会した。まだ仕事をせずぶらぶらしていたハルトンは親の財産でアジアめぐりの旅の真っ最中だった。上海の次は東京に桜をみに行くといい、如莉にいっしょにくるなら滞在費をだしてあげるから、ついておいで、といった。如莉はちょうど中国をでたかった折だから、これはいい機会と思い、ついていった。ハルトンは紳士で、ホテルも別の部屋をとってくれたし、変なことはしてこなかった。実は東京行きの船でいちど関係をせまられたことはあったが、拒否したらそれきりいってこなかったのである。

ハルトンは東京でも如莉に好きにさせてくれた。ハルトンが芸者遊びにうつつをぬかしているあいだ、如莉は中国革命同盟会の根城の富士見楼に出入りして日本人吉永義一という恋人を作った。ところが如莉はいつからか同盟会の蒋介石や富士見楼常連の小山内駿吉とうまがあわなくなっていろいろ嫌な思いをするようになり、ハルトンに相談することになった。するとハルトンはうまく嫌な男たちに仕返しする方法を教えてくれた。如莉はそのとおり実行した。つまり富士見楼で行われる革命同盟会の演説会の日時を東京の警察に密告したのである。密告は、日本を出発する前日にした。だから安心だった。密告した翌日に如莉はハルトンと日本をでた。将来を誓いあった恋人吉永義一と別れるのはすこしつらかった。でも西太后の宝三霊壷を私のかわりに大事にして、といって渡したから、おたがいになんとなく慰められる気がした。吉永がそのあと自分のかわりに密告者にされようとは思いもしなかった。ハルトンはそのあともずっと如莉が密告したとは、だれにもいわないでくれた。

 ハルトンはいざとなるとたよれる人間として如莉の胸に記憶された。

 大陸に戻ってからはそれぞれ別々に自分の人生をあゆみだし、裕如莉は李花齢に名前を変え、二十年近くも顔をあわせることはなかった。

二十年後に再会したとき、ハルトンは二十年前と同じように花齢をあつかってくれた。花齢が愛人マルスリ伯爵と別れ、金に困ったとき、ハルトンは快くその豪邸に花齢をおいてくれた。ただし今度は愛人としてだったが、週に何晩かベッドをともにすること以外はすべて花齢の好きにさせてくれた。邸の一角を自由に使わせてくれるどころか、虹口に店「読書室リラダン」までだしてくれた。それでいて恩着せがましい顔をひとつせず、花齢がだれとつきあおうが干渉せず、いっさい束縛せず、なにもかも好きにさせてくれた。

 とはいえ四年後、ハルトンは花齢を邸から追いだしている。だがそれはハルトンの本意ではなかった、と花齢は考えた。私のためを思ってしてくれたのだと信じた。花齢に吉永義一という新恋人がいるのにハルトンの家に住んでいると、ハルトンとの関係はどうなったのかとか、新聞雑誌にいろいろ騒がれてかわいそうだと思って一時的に出してくれたのだろう、と考えた。

その証拠にハルトンは「読書室リラダン」を私からとりあげなかった。しかも爆破事件の前、ひそかに日中がリラダンをねらっていると教えてくれた。日本特務と蒼刀会がなにか政治的な意図をもって共同でリラダンを爆破する計画をたてているらしいという情報を教えてくれたのはハルトンだった。

それに反して恋人の吉永義一はあまりたよりにならなかった。世間に見放された私のためにいろいろ捨て身になってやってくれたけれど、有事の際は社会的地位もなにもないこの人では力不足だといつも思わされた。

それにたいしてハルトンは権力はあるし、情報収集能力は抜群だし、たよりになった。

 ただ、さすがのハルトンも、リラダン事件に関しては読みをあやまった。

日中がリラダンをおそってくるのは四月だといっていたのだが、実際は三月の終わりになった。しかも私が殺されるとは予想もしていなかった。

それでも三霊壷だけは盗まれずにすんだ。日中がリラダンをねらっていると、ハルトンが事前に教えてくれたおかげだ。危機感を与えてもらったおかげで私は三霊壷の保管場所を万が一にそなえ、移動させた。それまで本物があった場所にニセモノをおいて、本物はだれにもわからない場所にうつしたのだ。それをやったのが三月二十九日。奇しくも事件の前日だった。

 新しい保管場所は吉永と、念のためハルトンにも伝えておいた。ハルトンに三霊壷の話をしたのは、そのときが初めてだった。いっておいて正解だった、と当時は思った。なぜならハルトンは事件の日に三霊壷のひとつを救いだしてくれたからだ。ハルトンは私欲のために盗んだのではないと花齢は信じている。保管場所を伝えたのが吉永だけだったら、狐仙と麒麟の二茶壷しか助からなかったろうと思う。三つとも焼失を免れたのはハルトンのおかげだ。あとの争いを思うと、三つぜんぶ助からなくてもよかったとも思えるが――。

とにかくハルトンがいざとなるとたよりになる人間という花齢の評価は変わらなかった。花齢の肉体がリラダンで死に、そのあと魂だけよみがえって巧月生にのりうつってからもである。死んだ魂を白い石でよみがえらせてくれたのは恋人の吉永義一だし、感謝してはいるが、吉永は花齢がたのんだことしかしてくれない。いつも花齢のことを思ってはくれるのだが、花齢の望みを察して先回りして動くということが、なかなかできない。魔術師にばけるくせに、女心をわかってないところがある。その点ハルトンは花齢のつぼをおさえていて、花齢のたのまないことも気をきかせてやってくれる。

 だから花齢巧は八月の巧廟式典後、窮地におちいると条件反射的にハルトンの存在を思いうかべ、困ったときの神だのみといわんばかりにすがりつきたくなった。ただそのときは、さすがに以前のように、気ままにすがりつくというわけにはいかなかった。なぜなら花齢は巧月生にのりうつって生きていることをハルトンにいってなかったからだ。ハルトンは花齢が死んだと思いこんでいただろうし、巧月生の体で会いにいって、自分の実体は李花齢などといっても信じてもらえないだろうと思っていた。

だが今朝、座敷牢をでた花齢巧はハルトンにいおうと決意した。小山内駿吉の手から逃れるには、もはやハルトンの手を借りるしかないと思ったからだ。特に吉永が拘置所にいるいまは、たよれるのはハルトンだけだ。自分の存在を信じてもらえようがもらえまいが、窮状をうったえるしかないと決心した。

それまでは座敷牢にとじこめられていて連絡する手段もなかったが、今朝コンテストの会場に行く前、電話をするチャンスに恵まれた。そのとき駿吉巧は巧邸にいなかった。小山内駿吉として会場にいく必要があったからだ。蒼刀会員になりすました日本特務はいたが、花齢巧に同情的な蒼刀会員の手を借りて一時的に遠のけてもらい、そのあいだに電話室に行った。そして花齢巧はついにハルトンに電話をした。

ハルトンに巧月生の実体は李花齢だと伝えたのである。ふつうなら荒唐無稽としか思われない告白だった。だがそこはハルトン、並の人間とはちがった。

 ハルトンは花齢巧の話をきくと、「そんなことだろうと思っていた」といったのである。ハルトンは爆破事件の日、花齢の肉体が死んでしばらくたったころ、上空に流星のような光をみたという。その光は二つあり、ひとつはリラダンのあたりへ、もうひとつはフランス租界のほうへおちたという。ハルトンは白い石の力を知っていた。花齢が白い石をつけていたことも記憶していた。二つの光をみて、これはもしや、と思ったという。だから李花齢の魂があの日巧月生の肉体に宿ったときいても、笑殺したりはしなかった。理解をしめした。

 ともかくも自分を李花齢と信じてもらえたと考えた花齢巧はさっそくその電話で、ハルトンにニセ巧の話を伝え、いまの状態からぬけだせるなら、なんでもするとうったえた。するとハルトンは「なにか方法を考える」と約束し、「そのかわりコンテスト会場でたのみごとをするかもしれない」といった。いずれも適当な方法で連絡するとのことだった。

 はたしてハルトンはこの会場でロレーヌに裏切られた後、花齢巧にたのみごとをしてきた。ロレーヌが二茶壷を白蘭組に舞台でわたしたあとのことだった。日本特務にかこまれている花齢巧とどうやって連絡をとったかというと、ハルトンみずから巧の席におもむいて堂々と話しかけたのである。正面きって話しかければ日本特務も邪魔するわけにはいかない。ハルトンは花齢巧と社交のあいさつをかわした。とりとめのない雑談をした。そして最後に握手した。そのときにメモをわたした。日本特務には気づかれなかった。

メモには次のような意味のことが書かれてあった――「白蘭組から二茶壷を奪い、私の腹心の友フィリップスに渡してほしい。フィリップは丁香協力者控室にいる」。

花齢巧はちょうど日本特務にも二茶壷を奪うようにと命令をうけていた折であった。だから日本特務にしたがうふりをして、舞台裏に行くことができた。そして彼らの望みどおり、白蘭組から二茶壷をだましとった。だがそのあとは日本特務を裏切り、二茶壷をハルトン子飼の白人フィリップスにわたした。

日本特務を裏切れば、息子と恋人の命が犠牲になるかもしれないことはわかっていた。それでも花齢は自分のために、ハルトンの期待にそわずにはいられなかった。いつだってかわいいのは我が子ならぬ我が身なのである。李花齢の肉体が生きていたときから、我が身を守るために、いつも最後には恋人よりもハルトンにつくことを選んできた。それでいつもうまくいった。自分が助かりたいときは、ハルトンにたより、ハルトンにしたがうにかぎる、と思っている。

花齢は身の安全のためには、息子や恋人を裏切るぐらい、なんでもなかった。息子や吉永は、権力者に三霊壷をにぎらせてはならない、六神通を使わせてはならない、無辜の市民を守らなくてはならない、というが、自分が助からなければなんにもならないではないか。市民の命よりもまずは自分の身の安全。確保するには、ハルトンの期待にそわなくてはならない。ハルトンにつけば、いざというときも息子や恋人を助けてもらえるだろう。ハルトンが三霊壷がほしいといったら、あげるしかない。ハルトンは三つの茶壷をそろえたがっている。

なのに鳳凰茶壷が息子に破壊された。正確には破壊したのは白蘭だが、息子の計画である以上、息子がやったも同然とみなされる。しかも息子は白蘭と手をとりあって会場から逃げようとしている。どうして黙ってみのがせるものか。ハルトンの手前、ひきとめて、罪をとがめなくてはならない。

 でなければ、ハルトンは三霊壷をそろえるという野望をうちくだかれた以上、龍平の母親の私を許さないだろう。そうなったらハルトンの助力を得るのは絶望的になる。だから花齢はなんとしても龍平たちをとめなくてはならないと思いたち、体が巧月生であるのも忘れたように、むしろ焦った母親そのままの小走りで、みずから客席をかきわけ、舞台前にすすみでてきたのだった。

息子と白蘭の前に立ちはだかると、さすがに巧月生らしさをよそおって、おさえつけるような凄い目をした。

 龍平は顔色を変えていった。

「どうしたんです。行かせてください。危険がせまったら、すぐに逃げるという話だったじゃないですか」

 息子がそうささやいたが、花齢巧はびくともしない。傍目には往年の巧月生の威光がよみがえったようにみえた。その威光のために、舞台をおりてきた白人の警官までもが金縛りにあったようになっている。

「――」

巧はハルトンの手前、龍平を一喝しようと、口をあけた。そのときだった。ふたりのあいだにわりこみ、巧の前におそれげもなく立ちふさがった者がある。王結だった。いったいどうしたのか、

「申しわけございませんでした」

 そういって突然巧の前に首をたれた。花齢巧はあっけにとられたが、王結は「舞台袖にいながら白蘭さんをとめることができませんで」云々と、しきりとわびた。

 どうやら王結は白蘭が鳳凰茶壷を破壊したことに責任を感じているらしい。王結は龍平から今日の作戦の最終目的をきかされていなかった。だから最終目的は、巧月生が正賞の鳳凰茶壷を手に入れることだと誤解した。王結は蒼刀会員だから、そう考えるのは当然といえた。だから巧が龍平と白蘭の行く手をふさいだのは、鳳凰茶壷を割ったことをとがめるため、と考えた。すると王結は作戦の一員として蒼刀会員として自分もあやまらずにはいられなくなった。

 だから契約社員の失敗を社長にわびる正社員のごとく、蒼刀会員でない白蘭の失敗を会員として会長に謝罪し、自己の忠誠をアピールしたのだが、この場合少々出すぎた行動、どころか完全に不必要な行動だった。花齢巧にとって王結は邪魔者でしかない。なにしろ花齢巧は自分のハルトンへの忠誠をアピールするために、息子を大声で叱ろうとしたところを邪魔されたのだ。

巧月生の眉間は途方もなくせばまった。

すると王結が突然巧の視界から消えた。――いや、消えたのではない。何者かが王結の腕をとらえ、横にひっこませたのだ。

「ひっこんでろ」

 男の声が王結の耳にふきこまれた。王結はいつのまに六人の男にとりまかれていた。六人の男は青い長衫をきた蒼刀会員だった。日本特務ふんする蒼刀会員ではない、本物の蒼刀会員である。

彼らは客席の後方で今日のはじめから巧会長の動静をうかがって首をかしげていた。会長の席のまわりにいる蒼刀会員が、見覚えない連中に思えたからだ。クサイ連中だと感じたが、なにもできずにいた。すると白蘭の幕が終わったころ、会長はその男たちと舞台裏に行った。ところが、しばらくたって戻ってきたときは、会長ひとりだった。さっきの男たちの正体はやはり敵で、会長が裏で始末した、と考えられた。自分たちは本物の蒼刀会員だから、会長にその旨をつたえて助力できることがあればなんでもしたいと思ったが、軽率には動けなかった。そうこうしているうちに舞台で発砲事件が発生。逃げようとする白蘭と李龍平を会長みずからとめにいったとあっては、黙ってみていられない。本物の蒼刀会員の助力の機会到来とばかりに、とびだしてきたのだった。

ところがそれより先に王結が会長の前にしゃしゃりでた。王結は彼らの後輩である。会長はいい顔をしていないし、遠慮なくひっこませたというわけだった。

龍平は巧が王結と蒼刀会員に気をとられた一瞬のすきに、白蘭と逃げようとした。母親が――花齢巧が、理由は不明だが、考えを変えて、自分たちの逃亡の邪魔をしようとしているのがわかったからだ。

龍平は白蘭の手をひっぱった。――ところが、白蘭が動かない。動かないのではない、動こうとしても、動けないのだった。白蘭は顔面蒼白になった。足がきかない。舞台で決死の行動をした反動だろうか。しびれたように動かない。

それと察して龍平も青ざめた。が、すぐに意を決したようにしゃがみ、背中を白蘭の足もとにむけて、いった。

「背負っていく。のって」

 白蘭はためらった。そのとき通路の奥にルドルフが立っているのが目に入った。ポケットに片手をつっこんでいる。ポケットは短銃のかたちにふくらんでいる。こっちをあきらかににらんでいる。目は嫉妬に燃えているようにみえた。いやな予感がした。龍平はルドルフに気づいていないようだった。いおうかと思ったら、

「早く」

 とせかされて、背中におぶさって、おんぶされる恥ずかしさにそのままルドルフのことをいうのは忘れた。

このとき、おんぶのかっこうをとったふたりの姿を、目に焼きつけたのはルドルフだけではなかった。王結もそのひとりだった。そのことが五年後中国をゆるがす事件に影響すると、いったいだれが予想しただろう。

 王結はこのおんぶの図をそのあとも忘れられなかった。それをみたとき、先輩たちにひどい屈辱をうけていたせいにちがいない。

王結はこのとき六人の先輩会員にいたぶられていた。男六人は王結をとりかこみ、王結の首から下を外からみえなくした。

「この役立たずが」

「でしゃばったまねしやがって」

「根性たたきなおしてやる」

 そう低声でささやいて、四方からおさえつけ動きをとれないようにし、人前にもかかわらず王結を陵辱した。このような制裁は蒼刀会員のあいだではめずらしいことではなかった。が、王結にとっては初めてのことだった。

王結の表情は恐怖と苦悶と屈辱でねじれた。蒼刀会員といえどいままで生きててこんな辱めをうけたことはなかった。彼女は誇り高い家に育ったのだ。

 王結は実は偽名だった。本名は鄭露瑩(チョン・ルウィング)という。中国東北の名家出身で、東北の権力者張学良の恋人趙綺霞(チャン・チシャ)の同級生でもあった。趙綺霞も鄭露瑩も張学良とは同じパーティーで出会った。鄭露瑩は張学良にひと目ぼれした。だが張学良がひと目ぼれしたのは趙綺霞のほうだった。張学良は鄭露瑩には目もくれなかった。鄭露瑩は地元では舞踏会の女王といわれ、男たちにはいつもちやほやされてきただけに、くやしくてたまらなかった。全国的にすごい人間になって張学良をみかえさずには気がすまないと思った。

 学良をあっといわせる人間になって、自分を抱きたいと思わせよう。そう思いたった鄭露瑩は上海に行き、王結と名を変え、学良の上官ともいうべき蒋介石に近づこうと考えた。と思ってすぐできることではないから、まずは上海一といわれる蒋介石保護下の秘密結社・蒼刀会の会員となった。そしてもちまえの社交性を生かし、情報収集とネットワーク拡大につとめた。そんな折、ミス摩登コンテストの募集がはじまった。蒼刀会は王結に応募するよう命じた。合格してファイナリストになれたらスパイ活動にあたらせるためだった。王結のほかに麗生がファイナリストに残った。麗生とちがい王結は上位になれず、ストレスがたまった。そんな王結に蒼刀会はいつもグランプリにさせてあげるから、と甘い言葉をささやいて、はげました。王結もグランプリになったら張学良を驚かせると思って、それだけを楽しみにがんばってきた。トップ3に入れたことはいちどもなかったけれど、最後の最後に奇跡がおこると信じていた。だが期待は裏切られた。最終選考会でまさかの一次審査落ち。それでも王結は蒼刀会のためと思って、巧月生のために働いたのだ、白蘭の協力者となって。なのに期待は裏切られた。グランプリの夢はうちくだかれ、張学良をふりむかせるみこみは全然たたないままだ。

それどころか蒼刀会の先輩にこのような屈辱をうけた。

このとき王結――鄭露瑩は、蒼刀会を恨み、巧月生を恨み、ひいては蒋介石を恨んだ。王結は蒼刀会を裏切ることにきめた。以来彼女は、会に属して忠義をつくすふりをしながら、背信行為を働くことになる。

 五年後、張学良は蒋介石に謀反をおこす。世にいう西安事変だ。その事変のかげには王結がいた。

張学良にクーデターを起こす気にさせたのは、王結――鄭露瑩だった。鄭露瑩は美貌と蒼刀会の情報人脈を利用して蒋介石の動向を探り、つかんだ機密情報を学良に伝えた。蒋介石は学良の希望する抗日戦を許さないくせに、学良に内緒で内戦を企画しているという。学良は裏切られたという思いでいっぱいになり、蒋介石への謀反の決意をかためた。

 そしてクーデター実行のために西安で舞踏会をひらくことにし、鄭露瑩に主宰させた。かくして蒋介石は西安の華清宮で張学良ひきいる東北軍に包囲された。蒋介石は裏山に逃げたが、まもなく学良の部下にみつかった。そのとき蒋介石は寒さと疲れで動けなくなった。それを学良の部下はおぶって華清宮に凱旋する。これが西安事変であるが、のちに鄭露瑩はいった――「私がいったとおりになった。私には蒋介石が学良の部下におぶられる図がはじめからみえていた」と。鄭露瑩の頭には、龍平が白蘭をおんぶする図が、五年後までずっと残っていたのである。それが張学良たちのクーデター計画に影響を与えたといえる。

いずれにしても五年前の今日、白蘭と龍平が警察から逃げようとしたことが、鄭露瑩ののちの行動に直接間接の影響を与えたのはたしかだった。龍平の今日の行動が、西安事変につながるのだ。吉永義一が今日まで果たせなかった蒋介石への復讐は、奇しくも鄭露瑩の手をへて、五年後に花ひらくといえる。

 その鄭露瑩――王結はしかし現在のところは屈辱にもだえている真最中だ。

もとより巧月生は王結など、みむきもしていない。龍平と白蘭をみて瞳孔をひろげている。龍平は気づいたときには白蘭をおんぶし、かけだしていた。

「逃がすな」

 とっさに巧が命じ、蒼刀会員六人がかけだしたときだった。

「行かせるかあっ!」

 叫んで発砲したのは、蒼刀会員ではなかった。警官でもない。ルドルフ・ルイスだった。行く手の通路に立ちはだかっている。銃を片手にかまえ、銃口を龍平にむけていた。弾丸はすでに発射され、宙をかけぬけた。

会場は恐怖に凍りついた。

 一瞬ののち、龍平が弾丸をくいこませて前のめりに倒れると、人びとは金しばりがとけたようになった。場内は一気に煮えくりかえるような騒ぎになった。

人びとが出口に殺到する。巧月生が倒れた龍平にかけよる。舞台下の警官が白蘭を拘束する。通路の警官がルドルフを拘束する。舞台の警官が丁香を拘束する。

このとき丁香は、人前にもかかわらず、とり乱した。ふだんの丁香からは想像もつかないふるまいをした。警官に拘束されたのに、身をもみねじり髪ふりみだし、客席にむかって叫んだのである。

「待って!」

 不特定多数にいったのではなかった。丁香はひとりしかみていなかった。小山内駿吉である。警官に拘束された丁香を小山内駿吉は一顧だにしなかった。知らぬ顔をして客席から腰をあげた。丁香は顔をゆがめ、人目もかまわず叫んだ。

「私を見捨てるんですか」

 駿吉は背をむけた。出口にむかって歩きだした。

「うそでしょ。ねえ、助けてくれるという約束は? 待って、いかないで!」

 腸をしぼるような声も聞こえぬかに、駿吉は去っていく。駿吉としては丁香にもう用はなかった。鳳凰茶壷を奪えなかったどころか、警察の厄介になる女など邪魔になるだけだ。出口にむかう駿吉は足どりひとつ乱さなかった。

 丁香はこのとき初めて愛する男の本性に気づいた。平手打ちされたような顔をし、うめくような声をもらした。

「なんて人・・・・・・」

 その髪は別人のように乱れていた。髪も表情も、いつかのファッション・ショーで小山内千冬がとり乱したときにそっくりだった。

本来なら白蘭はそれをみて痛快至極に感じたはずだった。なのに嗤えなかったのは、自分も丁香同様悲惨な立場におかれていたからだ。白蘭も丁香同様警官に拘束されていた。丁香同様愛する男の意識を探っていた。もっともこのとき白蘭が気にかけていたのは、男の自分への思いではなく、男の意識が戻るかどうかではあったが。

銃で撃たれた龍平は、気を失った。撃ったルドルフが憎かった。けれど、文句をいう気にはなれなかった。にらむ気にもなれない。

ルドルフは龍平を撃ったあと、狂ったようになった。龍平が倒れてからはじめて、自分がしたことの重大さに気づいたのか、銃を投げすて、意味不明の声をあげ、意味不明の動作をとり、暴れだした。警官に拘束されてようやくすこしおとなしくなっている。

ルドルフは龍平が白蘭をおんぶしたのをみて、嫉妬のあまり発作的に撃ってしまったにちがいなかった。夕子の白蘭は思う。もし私がいなければ、あのとき龍平さんにおんぶされなかったら、ルドルフは龍平さんを撃たなかったかもしれない。そう考えると自分に責任がある気がしてくる。

 だいいち私は龍平さんにおんぶされる直前に、ルドルフをみて、不穏な空気を感じとっていた。ルドルフがポケットに手をしのばせたのをみて、銃で撃ってくるのではないかと思った。にもかかわらず龍平さんに知らせなかった。もしあのとき龍平さんに知らせていたら、こんなことにはならなかったはずだ。龍平さんをこんな目にあわせたのは、ルドルフよりもむしろ、私ではないか――?


 花齢巧は血相を変えて龍平にかけよった。人目もなにもない、巧月生は母親の顔になっていた。周囲が不審の目をむけるなかで、龍平の手をにぎりしめ、呼びかけた。

「龍平、龍平、きこえる? 母さんよ」

 撃ったのは右脇腹だった。応急処置はされているし、それほどの深傷でもないようだが、血はとまらなかった。なにより息子は気を失っていた。

「返事して、ねえ、龍平、母さんが悪かったから、謝るわ、謝るから、返事して。――ああ龍平、ほんとに母さんが悪かった」

 巧月生は龍平の上に泣きくずれんばかりだった。だれもが巧の正気を疑った。巧廟式典につづいて頭がおかしくなったのではないかと考えた。大実業家にしてマフィアのボスの巧月生が、記者くずれの青年を半狂乱になって心配する理由はなにもないのである。まして自分を「母さん」と名のるとは、尋常ではない。

 人びとの不審の目にもかまわず巧はいう。

「ごめんね、ごめんね龍平。おまえを身勝手な私の犠牲にして・・・・・・神様、罰はどうぞ私に与えてください」

 花齢巧は息子を裏切ったとは思えない、祈るような顔をした。息子を撃たれてはじめて、息子の得難さを思い出したようだった。

 医者はまだこなかった。さっきホテルの人間が呼んでくれたはずだった。あまり遅いので蒼刀会員たちにホテルじゅうを探しまわらせたが、どこにもいないという。ホテル内に医者がいないはずはないのにおかしい。不安になってあたりをみまわした花齢巧の目が、ピタとハルトンにとまった。ほかのVIPたちはとうにひきあげたのに、ハルトンはまだ客席にいた。悠然と座っている。そうだ、この人がいた。どうしていままで気づかなかったのだろう。どうしてこの人をいままで忘れていたのか。花齢巧はおぼれる者がわらを――いや、ボートをつかんだ勢いで、ハルトンに呼びかけた。ただしここは巧月生の口調にして、

「ミスター・ハルトン。この男(李龍平)を救いたいのですが、医者がまだきません。ミスター・ハルトンのお力でどうにかしていただけませんか」

 これだけいえばハルトンには通じるはずだった。だがハルトンの表情は石のように動かなかった。なにもきこえなかったという顔をしている。きこえなかったはずはない。現にこちらをみている。

「ミスター・ハルトン」

 あきらかにきこえたようすなのに、ハルトンは返事をしない。待っているあいだに龍平が体を苦しげに波うたせた。

「ミスター・ハルトン! お願いします!」

 花齢巧は叫んだ。するとハルトンもさすがに無視できなくなったのか、口を動かした。だが花齢巧には話しかけなかった。隣の付き人になにやら耳打ちした。しばらくして付き人が花齢のところにきていった。

「ミスター・ハルトンから伝言です。『お力にはなれない』とのことです」

「・・・・・・!」

 みるとハルトンは立ちあがって帰り支度をはじめている。その横顔は蝋のようにかたく冷たかった。

そのとき花齢巧は天啓をうけたように、ある真実を悟った。――ハルトンは、ハルトンこそは残忍酷薄な人間だったのだ!

リラダン爆破事件の黒幕もハルトンだったのだ。彼もまた小山内駿吉や蒋介石同様、私の所持した三霊壷を奪いたかったのだ。だから日中をうまく刺激して爆破事件をおこさせ、漁夫の利をえようとしたのだろう。実際ハルトンは騒動にまぎれて鳳凰茶壷を奪った。ハルトンとしては三つとも奪える予定だったのだろう。だができなかったから、ミス摩登コンテストの正賞を鳳凰茶壷とみせかけて、日中を争わせ、二茶壷をだれがもっているかみきわめようとした。そして今日までにみきわめ、実際この最終選考会で奪った。

ハルトンはいつも自分が疑われるようなことはしない。人形遣いのように他人を動かして、上から獲物を奪う。他人はそれまで自分がハルトンに操られていたことに気づかずにいる。ウィリアム・ハルトン――なんて恐ろしい人間。

私はハルトンに利用されていた。いまになってわかった。ハルトンが中年になってから私にした親切のすべては三霊壷のためだったのだ。李花齢として生きてるころ、四十一歳の容貌の衰えた私を邸において世話してくれたのも、巧月生にのりうつった私の話をきいてくれたのも、けっして真心からではなかったのだ。すべて三霊壷のためだったのだ。でなければどうして醜悪な中年男にのりうつった化け物同然の私の話をまともにきいてくれるものか。

いま見捨てたのは、私がもはや用済みとなったからだ。私の息子が三霊壷の鳳凰茶壷を白蘭に破壊させたからだ。

 私は、私は、なんて人をみる目がなかったのか。ハルトンこそ稀代の悪人だ。医者がこないのだってハルトンが鳳凰茶壷を破壊された腹いせに、邪魔しているせいかもしれない。花齢巧は血の気をひかせた。息子はさっきよりぐったりとなっている。このままでは息子は助からないかもしれない。病院に運ぶにしても、動かしてよけいにひどくなったらどうしよう。そう思った花齢巧はにわかに意を決したように顔をひきしめ、

「こうなったら最後の手段」

 そういっていきなり息子の長衫をひきさき、胸のあたりをかきひらいた。首には白い石が銀の鎖をとおしてぶらさがっていた。

花齢巧は右手で石を、左手で龍平の手を力いっぱいにぎりしめるといった。

「もう、だいじょうぶだからね・・・・・・」

 むせぶような声だった。巧の鼻と唇が激情にふるえた。

白い石は死んだ人間に使うと、その人間の魂をよみがえらせ、べつの人間の肉体にのりうつらせることができる。

 白い石を生きた人間に使うと、その人間が重傷や重病の場合、傷や病をやわらげ、命を助けることができるという。ただし処置をほどこす人間は、ふつうの人間でなくてはならない。白い石で生かされている人間が処置をほどこせば、その人間は死ぬ。その魂は二度とよみがえらない――。

いま、花齢巧は、息子をみつめていった。

「あんたは、助かる」

 巧の目からひとすじの涙がつたった。

花齢巧はあらためて白い石を手にとった。石の両端に両手で力をいれると、石は切れ込みからパキッと、真っ二つに割れた。なかは空洞になっているが、カラではない。さらさらとした塩のような白い粉が入っている。

 花齢巧は周囲の驚きと不審の目にもかまわず、ふたつになった石を両手にもち、龍平の両耳にもっていった。深呼吸をし、石の中身を龍平の耳の穴に流しこんだ。白い粉は半分ずつすべて龍平の鼓膜に吸収されていく。

 それを確認すると、花齢巧はふたたび息子の手をにぎりしめ、その顔をくいいるようにみつめた。

みつめているうちに視界が暗くなった。巧のまぶたがおりた。呼吸がとまった。心臓が動きをとめた。花齢の意識は切れた。二度と戻ることはなかった。だがだれもしばらくはそのことに気づかなかった。みな龍平の変化に気をとられていた。

龍平が目をひらいたのである。

白蘭は龍平にかけよろうとした。しかし、できなかった。警官に拘束され、つれだされるところだった。白蘭の目から涙がこぼれた。

ルドルフ、白蘭、丁香の三人はピーコック・ホールから外へと連行されてていく。

ロレーヌがルドルフを必死の目でみおくっている。舞台から避難したまま客席にでた彼女は念願のグランプリに選ばれたとも思えない虚脱した顔で、ひとり必死の目をルドルフの背中にそそいでいる。あわれな廃人のような背中に。

三人はアスターハウス・ホテルの玄関にきた。それぞれ拘束されたまま、順々に玄関をまたいでいく。

そのとき丁香が白蘭の足に足をぶつけた。白蘭はぎょっとした。わざとにちがいないと思った。うしろから呪いの言葉をささやかれる気がして、おそろしくて、知らない顔をして歩きつづけた。すると、うしろから声がきこえた。

「ごめん」

 日本語でたしかにそうきこえた。けれども声はごく小さかったから、空耳のようにも思えて、ふりかえらずにいた。するとまた、声がきこえた。

「ごめん」

 まぎれもなく丁香の声だ。日本語でたしかにそういった。白蘭は驚いてふりかえった。丁香はしかし能面のような冷たくかたい顔をしていた。白蘭の目をみようともしない。やっぱり空耳かと思って白蘭は前にむきなおった。そのまま玄関の外階段をおりた。するとまた、うしろから声がきこえた。

「ごめんね」

 今度は大きな、はっきりとした声だった。白蘭はもういちどふりかえった。丁香が白蘭をまっすぐにみていた。ふたりの目がからみあった。

「いままでウソついて、ごめんね。私は久保田友子・・・・・・」

 丁香は――いや、久保田友子は日本語でそういって、さらに言葉をつごうとした。口をあけたまま、しばらくためらっていたが、やがてふてくされたようにいった。

「でも江田夕子を好きだったのは、ウソじゃないから」

 丁香の顔は真っ赤になっている。

白蘭は目と耳を疑った。なにかいおうとした瞬間、

「ほら、もたもたするな」

 警官にひっぱられた。丁香からひきはなされた。黙って歩きだした白蘭だが、宙をふむ思いだった。

それだけいまの久保田友子の――丁香の言葉は衝撃だった。

いまの言葉はけっしていつわりではない。ふてくされたいい方だったのが、かえって本心だと感じさせた。

江田夕子を好きだったのはうそじゃない、と丁香はいった。

丁香は極悪人、という意識に動揺が生じた。ほんとうの悪人なら、警官の前で自分が日本人久保田友子だと告白したり、私にあやまったりしないはずだ。

丁香は完全な悪人でも人非人でもなかった。それはさっきの、とり乱しようをみても、わかる。丁香は小山内駿吉に見捨てられたとわかって、人前にもかかわらず理性をすてた。たくさんの人がみている前で、身も世もない姿をさらし、泣きわめいた。

丁香もひとりの弱い人間だということに、あらためて気づかされた。――そう、丁香だってひとりの悩める人間なのだ。私はそれを忘れていた。いや、はじめから丁香には悩みなどない、ときめつけていたところがある。

私はいつだって丁香を良くも悪くも人間を超越したもののように思ってきた。当初は古代女性班 妤や卓文君の生まれ変わりのようにみて、崇めたてまつった。私は彼女を神秘的女性として鑑賞していたにすぎない。丁香がほんとうはどんな人間かを知ろうともしなかった。

丁香だって私と同じ、母親との葛藤を抱える人間だということは初めにきいて知っていたはずなのに、いつのまにか忘れていた。丁香も自分同様つらい経験をした、心に傷を負った人間だったのに、いつのまにか忘れていた。

だから丁香の別の顔がわかると、裏切られたと思い、一転、憎悪するようになった。丁香を敵とみなした。その前ロレーヌを敵とみなしたと同様に。その前麗生を敵とみなした同様に。その前千冬を敵にみなした同様に――。

でもほんとうの敵は丁香ではなかった。ロレーヌでも麗生でも千冬でもない。

 真の敵は私の心にあった。

 自分への不満、現状への怒り、未来への不安、恐怖だ。それらが妄想をつくりあげ、おそれる人間への敵意を倍加させる。

夕子の白蘭はいまさらのように気づいた。自分はつねに憎むべき対象を必要としていただけだと。怒りの矛先を他人にむけていただけだと。

夕子の白蘭は愕然とした。私は内なる敵のために、なんと多くのものを犠牲にしてきただろうか――。

ふと二か月まえの昼が思いだされた。そのとき白蘭は旧花齢邸の優雅なソファに腰をうずめていた。そこでルドルフが麗生殺しの罪で逮捕されたという報告をうけた。あのとき白蘭は嘲笑ったものだった――「人間ルドルフみたいになったらもうおわり」と。

 でも自分は。ルドルフとどこが、ちがうのか。

 まぶしい。白蘭は眉をしかめた。まわりに記者、カメラ、野次馬が集まっている。ミス摩登コンテストのファイナル審査にでた人間が逮捕され、連行されるところを逃がすまいと、だれもが目をギラギラさせている。

金色の光が目を刺す。黄昏の光なのか、カメラのフラッシュの光なのか、その区別もつかなくなった。

耳の奥から呪文のような文句がきこえる――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・・・・。

私はこれからどうなるのか――。

悲観して白蘭は天を仰いだ。

明るい。秋の上海の空は黄昏どきなのになおも青かった。底ぬけに明るかった。

そのときホテルの屋根から、ポッとはねあがったものがあった。

鳥だ。

朱色の残る空にぐんぐんのぼっている。中天にあがると弧を描いて、流星のように飛んでいった。

 すべて一瞬のできごとだった。けれども白蘭はしっかりと目にとめた。

龍平さんが生きている、と思った。

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