第九章 ハルトン主催・夕食会 〈対・久保田友子〉

 ――まだ、こない・・・・・・。

 小山内千冬はひとしれずためいきをついた。バンド通りから建物の正面玄関をのぞいては、ためいきをつく。正面玄関はナンキン・ロード沿いにあった。建物はナンキン・ロードとバンド通りの角に立っている。サッスーンハウスである。

サッスーン・ハウスはライトアップされたバンドの西洋建築群のなかでも、ひときわ威容をほこっている十一階建てだった。最上層のペントハウスの瑠璃瓦は宵闇に光り、さながら天空のピラミッドのようである。

 ――まだ、こない。

いまかいまかと待っているが、巧月生のニセモノはまだあらわれない。ナンキン・ロードに自動車で到着するはずだった。ハルトン主催の夕食会は午後七時からはじまる。

 いまは六時四十四分。

 すでに味方の本物の巧月生は、八階のレストランに入っている。だからニセ巧月生には同じ場所に絶対に入らせてはならなかった。龍平からいわれたとおり、自分が正面玄関手前で足どめさせなくてはならなかった。ニセ巧が自動車から降りたところを邪魔しにいかなくてはならなかった。

 バンドの江海関(税関)のチャイムが鳴った。

六時四十五分になった。

 夕食会まであと十五分。ニセ巧は依然として、こない。時間ギリギリにくるのかもしれない。夜のバンドは人が多いから、いざというときにつかまえられなかったらどうしよう。不安と緊張は増すばかりだった。そのとき、

「小山内さん」

 うしろからだれかに声をかけられた。日本人女性らしい。声は幽霊のように弱々しく、ききおぼえがあった。だれかは、とっさには思い出せなかった。作戦仲間でないのはたしかだ。こんなときに自分を知ってる人間に声をかけられるなんて、と迷惑に感じたが、無視するわけにもいかず、ふりかえった千冬はそこに意外な人物を発見して思わず目を丸くした。

「・・・・・夕子?」

 みおぼえある白いブラウスに紺のスカートを身につけた平凡な体、平凡な顔――どうみても江田夕子である。一か月ぶりにみた。通りがかりに自分に目をとめて声をかけたらしい。以前の夕子なら知らないふりして通りすぎそうなのに声をかけてくるとは、合宿をやめて以来、人恋しくなっているのだろうか。興味がわいたが、いまはこれ以上ナンキン・ロードから目をはなすわけにはいかない。そう思ったら夕子が千冬の考えを読んだようにサッとナンキン・ロード側に移動した。

「私をみるふりして、通りをみてていいよ」

 夕子は心得顔でいった。千冬が驚いた顔をすると、夕子はもち前の訥弁で、いいわけするようにいった。

「私ね、ち、千冬さんに協力しにきたんだ、白蘭にたのまれて・・・・・・」

 意外なことをきいて千冬はさらに目を丸くした。

「私、これでも白蘭の友だちで・・・・・・い、いわれたんだ。今夜サッスーン・ハウスで千冬さんに会おうと思ってたけど、どうしても行けないから、かわりに夕子に行ってもらいたいって」

「うそ」

「ほんとだよ。白蘭は今夜千冬さんにあることを協力するようにたのまれてたってきいた。なんでも丁香ちゃんの正体を暴くとか――。それなら私も協力したいと思うから、きたんだ。丁香ちゃんは私が合宿所を去ってから手紙をだしても返事くれないし、冷たいから・・・・・・。だから小山内さん、いい? 私は白蘭のかわりにはならないかもしれないけど、私なりに一生懸命協力するつもりできたから」

 夕子はガラにもなく、両手をあわせておがんだ。手紙云々や白蘭の話はむろん千冬の信用をえるための方便だった。とはいえ夕子は本気で丁香の正体を知りたいと思っていた。夕子の白蘭は木曜から丁香に夕方も部屋に閉じこめられて、千冬と連絡をとれずにいた。それだけに丁香への不審はつのった。夕食会当日を迎え、夕食会の時間が近づくと、龍平の作戦に協力したい気持ちをおさえきれなくなった。だから丁香が外にでたあと決死の覚悟で部屋をぬけだし、歩いてここまできたのだった。

花園をでたのは六時前、狐仙茶のききめが切れるギリギリ前だった。そのときはまだ白蘭の姿だったが、人目につかないよう、あらかじめ江田夕子の地味な服を着てでた。六時に狐仙茶のききめが切れて江田夕子に戻るとわかっていたので、その時間だけそばにあったビルの裏に隠れた。だから変身するところは、人にみられていない。

「それにしても、どうしてここがわかったの?」

 千冬は不審そうにきいた。

「李さんに教えてもらったから」

「え、李さんに?」

「うん。いいそびれたけど、昼間電話した。白蘭のかわりに私がいくといったら許可してくれたよ」

 ウソではない。夕子は夕方合宿所で丁香がロレーヌと外にいるすきに龍平に電話をした。そのときは白蘭として連絡したわけだが、龍平は白蘭の正体を知ってるだけに話が早かった。しかも夕子が参加するといったら、驚くほどよろこんでくれた。ただその場では具体的な作戦内容はきけなかった。とりあえず千冬につくようにといわれた。それでこの時間千冬がいるというサッスーン・ハウス前にきたのだった。きてみると千冬はなにかを一心に観察しているようなので、邪魔しないように声をかけたというわけだった。

「私にも事前に連絡くれればよかったのに・・・・・・でも、いっか、李さんの許可がおりてるんなら」

 千冬は案外あっさりいった。夕子が協力してくれるとは意外で戸惑ったし、たよりないとは思ったが、使ってみなければわからない、と思った。コンテストをはなれてからの一か月で夕子は変わったかもしれなかった。

千冬はかつて江田夕子をばかにしていたが、いまはちがった。五月以来自分が夕子と同じような目にあって、夕子がどんな思いでいたかを知った。夕子には、いじめたことをあやまりたいと思い、仲良くなりたいとさえ思っていた。ただきっかけがつかめなかった。そのうちに夕子が合宿所を去ってしまった。だから夕子と接すること自体は、千冬にとっては、いやなことではなかった。千冬はいった。

「李さんから作戦のこと、きいてる?」

「それが、全然きいてなくて・・・・・・」

 夕子がみなまでいわないうちに、千冬はナンキン・ロードにむかって弾丸のように走りだしていた。

 たったいまサッスーンハウスの玄関前に二台のリムジンが一列に停車したのである。

後車のリムジンの扉が先にひらいた。なかからはまず屈強そうな男が四人あらわれた。四人が前車のリムジンの後部座席をかこむように立つと、後部座席の扉がひらき、男が三人でてきた。

地味な長衫姿の男二人をしたがえているのは、光沢ある銀鼠色の高級な長袍をまとった大耳の男である。それがだれだかわかって夕子は息をひいた。

中央のその男は巧月生だった。アレーを探しにでて上海にいないはずなのに、なぜ、いるのか。計六人の蒼刀会員に護衛されて、いまサッスーンハウスの正面玄関にむかって歩いている。その巧にむかって千冬が英語で叫んだ。

「巧会長、お話があります、重要なお話です!」

 六人がいっせいに鋭い目をむけた。

「おじょうさん、おさがりください、あぶないですよ」

 ていねいな言葉とは裏腹に護衛は圧迫的な態度でおしもどそうとした。だが千冬はひるまず、護衛のあいだにわりこむ勢いでいった。

「巧会長!」

 すると意外にも巧月生が足をとめた。――いや、巧月生ではない。外見は巧月生そのものだが、実はニセモノだ。護衛も蒼刀会員も本物と信じこんでいるが、彼らが邸からここまでまもってきた巧月生の中身は別人だった。その正体は小山内駿吉である。

 小山内駿吉は、日本特務の部下に奪わせた狐仙と麒麟茶壷で巧月生に変身し、先週の日曜日から巧月生邸に入り、家人や蒼刀会員たちの目をくらましていた。

――そう、狐仙茶壷と麒麟茶壷は現在、龍平たちの予想どおり、小山内駿吉がもっていた。巧氏廟堂落成記念式典の晩、手に入れた。あの晩駿吉は二茶壷をチャイナ・ユナイテッドの七六六号室に江田夕子におかせるのに成功した、という報告を丁香からうけた。

丁香は、龍平と千冬の予想どおり、駿吉の愛人であり日本特務の一員だった。駿吉は丁香の報告をうけるとすぐに、ほかの部下に二茶壷をチャイナ・ユナイテッドへとりにやらせた。そしてついにモノにした。

 駿吉が今夜ハルトンの夕食会に巧月生になりすましてでるのは、ある策謀の一環だ。

こわいものなしの巧月生ならぬ小山内駿吉だが、会場に入るところで千冬に声をかけられるとは意想外だったので、少々めんくらった。なにしろ相手が姪だ。「重要なお話がある」といわれ、すねに傷もつ身だけに無視できず、しかたなしに話をきく態勢になった。

 なにほんのすこし、きいてやればすむだろう。夕食会の開始時間まではまだよゆうがある。姪とはいえ自分の正体をみぬくことはありえないから、心配はいらない。話だけきいて、適当なところであしらえばいい。そう自分にいいきかせ、駿吉は悠然と巧月生の口をひらいて、初対面のような口をきいた。

「あなたはミス摩登ファイナリストの・・・・・・」

「そうです、小山内千冬です」

 巧の悪魔じみた外見にもひるまず千冬はかぶせるようにいった。

「私、巧会長に伝えなくてはいけなくて――。ある人にたのまれたんです、伝えないとたいへんな目に・・・・・・」

「ほう、だれが私に伝言を」

「アレーさんです」

「なに、アレー?」

 駿吉は思わず声を裏返らせた。

どうして驚かずにいられよう。駿吉はアレーと吉永義一が同一人物であると知っている。アレーは吉永義一になって拘置所に入っている。拘置所をぬけだせるはずがない。外部の人間と連絡がとれるはずがない。仮に拘置所をぬけだしたとしても、アレーにはなれない。変身するには狐仙茶壷が必要だ。だが吉永は現在狐仙茶壷も麒麟茶壷ももっていない。ということは変身できないということだ。それ以前に吉永義一は現在拘置所にいる。アレーは現在、存在しないはずなのだ。

なのに千冬はアレーに伝言をたのまれたという。アレーと千冬は知り合いでないのに伝言をたくされたというのもおかしい。疑問だらけだが、駿吉は巧月生の演技をしなければならない。世間的には行方不明ということになっているアレーからの伝言ときいたら、うれしそうな顔をするべきだ。だから小山内駿吉扮する巧――以下、駿吉巧――はあえて目を輝かせた。そしていった。

「あなたは、アレーと会ったんですか?」

 千冬はうなずいた。

「でも伝言をなぜあなたに?」

「それは・・・・・・たぶん私がちょうどそこにいたからだと思います」

 千冬は恥ずかしそうにいった。

「私、さっきからサッスーンハウスのまわりをうろうろしてたんです。実はここにきたのはハルトンさん主催の夕食会にとびいり参加させてもらおうと思ってのことなんです。トップ3しか招待されてないのはわかってるんですけど、強引に入れてもらえるんじゃないかと思って・・・・・・でもこの建物の前に立ったら急に弱気になっちゃいまして」

 なかなか本題に入らない。

「迷ってぶらぶらしてたら、アレーさんに声をかけられたんです。びっくりしました、行方不明だった人が自分に声をかけるなんて。しかもいきなり『巧会長に伝言をお願いしたいのですが』っておっしゃって、『会長の自動車がもうすぐここにとまるはずだから、そのときに伝えてほしい』と」

「それで、伝言とは?」

「『巧会長にこの近くで直接お会いして伝えたいことがあります。私は上海に長くいられません。いまも隠れています。むりなお願いとは承知してますが、おひとりでそこまでお越しねがえませんでしょうか』ということです」

 駿吉巧はまじまじと千冬の顔をみつめた。いまの話が真実ならば、吉永が拘置所をぬけだしてバンドにきたということになる。しかしどうやって拘置所をぬけだしたのか。どうやってアレーに変身したのか。

 狐仙茶壷と麒麟茶壷は駿吉が保管している。ついさっきもこの目でみ、使用してきたばかりだ。

 吉永は予備の茶を用意していたのかもしれない。その茶を特別な手段を使って運びいれ、拘置所のどこかで服用し、アレーに変身して脱走してきたのかもしれない。もしそうであったとしても、今夜巧月生がここにあらわれるという情報をどこで手に入れたのか?

 どうも疑わしい。

罠、ということもありうる。

 自分を巧月生のニセモノとみぬいたなに者かが、アレーの名を騙って罠にかけようとしているのかもしれない。その者と千冬がグルという可能性も否定できない。だがこの姪がそんなことをするだろうか。駿吉巧は判断がつかないままいった。

「アレーはどこにいるんです?」

 いいながら四方にすばやい視線を走らせた。アレーがどんな姿に身をやつしていようが、絶対にみのがさないだけの自信はある。

 だがアレーらしき人物はどこにもいない。

 やはり罠なのか、と駿吉が思ったそのときだった。千冬がいった。

「『むかいのパレスホテルの六階の窓をみてもらえば、信じてもらえるだろう』とアレーさんはおっしゃってました」

「六階のどこです?」

 パレスホテルはナンキン・ロードをはさみ、サッスーンハウスのむかいにある、ヴィクトリアン・ルネサンス様式の六階建ての豪華ホテルで、これまたライトアップされて闇夜に欧州の城館さながらの姿をうかびあがらせている。

「その窓はいまはまだカーテンは閉じてます。いえ、閉じてるようにはみえますが、実はわずかなすきまからアレーさんはのぞいていて、こちらのようすをみおろしているそうです。でも巧会長がふりあおいだら、ほんの一瞬カーテンをひらいて姿をあらわすとおっしゃってました。最上階、六階の左から三番目の窓です」

 赤茶と白のペンキで格子縞を構成しているホテルの外壁を、いま巧の炯炯たる視線がのぼっていく。

その窓は暗かった。カーテンがひかれている。――いや、巧がみた瞬間、ひらいた。パっと黄色く火映りした窓に、くっきりと黒いシルエットがうかびあがった。ひとりの人間がたしかにみえた。あれはアレー――アレーにちがいないようだ。

「ほんとうだと信じていただけましたか?」

 千冬がきいた。駿吉巧はしかしまだ半信半疑だった。カーテンはあっというまに閉じた。一瞬みただけでは本物のアレーかどうか判断しかねる。

 あれが本物のアレーならば、吉永が拘置所をでて変身したということになる。だがどうもそうとは思えない。やはり罠という気がする。さっき窓に立っていたのは、自分をニセモノと知るだれかが、アレーに似た人間を立たせていただけのような気がする。

罠と知ってとびこむか? 無視するか?

「アレーさんはあの部屋にいます。あの部屋へ、巧会長におひとりで、きていただきたいそうです」

そのとき駿吉巧の頭にひとつの思案がうかんだ。やおら、いった。

「私はいまから夕食会に出席せねばなりません。欠席するわけにはいきませんが、理由をつけて一時間で退席しましょう。一時間だけ待ってもらいたい、とアレーに伝えてもらえませんか?」

 千冬は戸惑った。ニセモノの巧月生には一時間どころか一秒でも夕食会に出席してもらっては困る。会場にはすでに本物の巧月生が入っているのだ。やむをえず切り札をだすことにした。

「巧会長。私、ひとつ、大事なことをいいそびれてました」

「なんです」

「用件は『白い石』だそうです。そういえば会長には通じるとのことでした」

 効果はばつぐんだった。いった瞬間、ニセ巧月生は目つきを変え、あっさりと承知した。

「わかりました」

 駿吉巧は「白い石」ときいた瞬間、理性を失った。

 「白い石」とは、特殊な力を蔵するとされる、三霊壷とともに李花齢が所有していたとされる清代の宝ときいている。しかし三霊壷とちがって、圧倒的に情報不足だった。現在の所在はおろか、いまだ正式名も外観も、特殊な力がどんなものかもわかっていない。それがアレーと称する人間に会えばわかるかもしれない――。

もっとも罠かもしれない。自分をニセ巧と知る何者かが、自分をおびきよせるために「白い石」の名をだしただけかもしれない。とは思ったものの、万分の一でも白い石の情報をきけるかもしれないという可能性が、駿吉から冷静な判断力を奪った。

「夕食会は遅れることにしましょう」

 駿吉巧はいった。するとだしぬけに、英語でさえぎった者があった。

「遅刻はよくないんじゃ・・・・・・ないでしょうか」

 千冬ではない。千冬の背後から影のような娘がぬっと顔をだして意見したのだ。江田夕子だった。駿吉巧は目を疑った。江田夕子はいまごろ、こんなところにいるはずがなかった。

 江田夕子は午後六時以降は狐仙茶の効果がきれて白蘭からもとの姿に戻ったところを他人にみられないよう合宿所の寝室にとじこもる習慣だと駿吉は丁香にきいて知っている。知ってるどころか、駿吉自身がそういう習慣にさせるよう丁香に命じたのだ。

にもかかわらず江田夕子はここにいる。千冬がつれてきたのではないとすると、江田夕子はひとりでここまできたということか。花園をぬけだしてきたとなると、よほどの理由あってのことと考えられる。

江田夕子は神経過敏なだけにその独特の嗅覚で、今夜の夕食会に自分ではないニセモノの白蘭が出席すると感じとったのかもしれない。それで不安になり、いてもたってもいられなくなって、ここまできたのかもしれない。

だとしても江田夕子ほどの臆病者が巧月生に「遅刻はよくない」と意見してきたのは、おかしい。巧月生が夕食会に遅刻して、江田夕子になんの問題があるのか?

――いや、白蘭にとっては問題がある、と駿吉は考え直した。白蘭の評判は巧月生の評判に左右されがちだ。 江田夕子は白蘭の評判がこれ以上落ちるのを心配しているのかもしれない。だから巧月生にこれ以上評判をさげる行動は慎んでもらいたい、といいたいのかもしれない。――さすがは小山内駿吉、書けば長いがこれだけのことを一瞬で思いめぐらすと、にこっと笑っていった。

「ありがとう、おじょうさん、ご忠告、ありがたくちょうだいいたしましょう」

「じゃ、遅刻は・・・・・・?」

 しないでくれるんですか、という目で夕子はみた。駿吉巧は黙ってみつめかえした。すると夕子は狼狽していった。

「あ、私、日本人なので、定刻第一主義が身についちゃってまして、つい――」

「残念ながら私は中国人の悪い癖からぬけだせないようです」

 遅刻する意思は変わらない、と駿吉巧は暗に伝えた。ところが夕子は引きさがらなかった。

「でも、もったいないと思います」

 と、いった。内気の夕子がこんなふうにでるのは、駿吉が考えたとおり、さしせまった理由があってのことだった。でなければ作戦実行中と思われる千冬の邪魔をするわけがない。

 夕子は龍平の作戦内容を知らない。目の前の巧月生がニセモノということも知らない。だから千冬がニセ巧に話したこと――すなわちアレーに関する話を言葉どおりうけとった。その上にいつもの被害妄想が働いた。アレーが命がけで巧を呼ぶ目的は、江田夕子を制裁する方法を話しあうことにある、と考えたのである。

 私は三週間前にアレーから茶壷を盗み、逃走するという裏切り行為を働いた。アレーにとっては許せることではない。アレーはいつ帰ってきたか知らないが、上海に戻るなり、裏切り者に制裁をくだそうと考えたにちがいない。そのために巧月生の力を借りようとしている。「白い石」というのは、私を意味する暗号にちがいない。「白い石」の「白」は白蘭を意味し「石」は石ころのような江田夕子を意味するのだ。巧が「白い石」ときくなり顔色を変え、即座にアレーの申し出を承知したのは、江田夕子と白蘭が同一人物ということを知っているからにちがいない。蒼刀会のボスのことだから裏切り者は許せないはずだ。アレーと再会したら、おそろしい制裁方法を話しあい、実行にうつそうとするにちがいない。

そんなことをさせてはならない。巧月生をアレーのもとへ行かせてはならない。行かせれば、私はもう終わりだ。――そう夕子は思ったから、巧月生になんとしてもアレーのところに行かせず、夕食会に行ってもらいたかった。だから「遅刻はよくない」などと進言したのである。

 それにしても、みずから巧月生のまえに身をさらし、よけいなアドバイスをすることこそ、死地におもむくにひとしいのではないか? 夕子はそうは考えなかった。自分はとっくに目をつけられている、と思いこんでいたからである。

 実は夕子は、さっきいちど巧月生と顔をあわせていた。千冬に声をかける前のことである。用をたしたくてがまんできず、トイレに入りにサッスーン・ハウスの北の裏口からなかに入った。そしてトイレにむかう途中で体の要求を忘れるほどのものをみて瞠目した。こわもての一群が、エレベーターにむかって歩いていた。一群の中心には巧月生がいた。ただ、それだけだったら、そこまでおびえはしなかった。

 おそろしかったのは巧月生の服装だ。そのときの巧は、いまとはちがう長袍を着ていた。黒地に金の鳥の模様が入っていた。その鳥がなんの鳥かわかったとたん、夕子の目は凍りついた。鳥は鳶にみえた。鳶といえば「鳶の絵」を連想する。その絵をみせればスパイが反応する、と以前アレーがいった。だから夕子は鳶をみると、スパイ、もしくは卑怯者、裏切者、といった言葉を連想する。巧が鳶の柄の長袍を着てきたのは、自分への威嚇が目的のように思われた。巧はその長袍を夕食会に着てくることで、白蘭に「この裏切者、茶壷泥棒、俺はアレーの代弁者だ、茶壷を返せ」というメッセージを伝えようとしたのではないか、と考え、おそれおののいた。

いま、目の前の巧月生はべつの長袍に着がえている。生地は黒ではなく銀鼠色で、柄はなにもない。着がえたのは、「目的」を達成したからではないか、と夕子はかんぐった。自分はさっき「巧のねらい」どおり、金の鳶の柄をみて血相を変えた。夕子と白蘭が同一人物と知ってる巧は、それで目的達成と考え、自分が本来着たかった無地の長袍に着がえたのかもしれない。

――と、夕子は揣摩臆測した。だが、実際はまったくのかんちがいだったとは、このときは知らずにいた。

巧月生は着がえてなどいなかったのである。

巧月生はふたりいた。本物とニセモノと。

いま目の前にいる銀鼠色の長袍をきた巧がニセモノ、先にみた金の鳥の柄の長袍をきた巧が本物だった。

 そうとは知らない夕子は巧月生がさっきからずっと自分を監視し制裁しようとしていると思いこみ、アレーと再会すればふたり手をあわせて自分を制裁するだろうから、絶対に会わせてならないと考え、なんとしても夕食会のほうに出てもらおうと決死の覚悟で意見している。それにしては言葉がうまくでなかった。まったく、しどろもどろだった。

「夕食会に遅刻はよくないと・・・・・・あ、いえ、別に注意するつもりではなくて、ただもったいないと・・・・・・せっかく着がえまでなさったのに」

 緊張のあまり、よけいなことをつけ足した。案の定、巧は最後の言葉をききとがめ、目をきらっと光らせた。

「私が、着がえたと?」

「すみません、私さっき、なかで、おみかけしまして・・・・・・ごあいさつしようと思ったのですが」

 千冬は色を失った。夕子は本物の巧月生に先に遭遇したらしい。よけいなことをいわれてはたまらないと思い、

「かんちがいですよ」ニセ巧にいい、夕子をさがらせようとした。

「夕子、だれかとまちがえたんでしょ。失礼だからやめな」

 ところがニセ巧がいった。

「いえ、かんちがいではありませんよ。いわれてみれば、たしかにさきほどおみかけしたような」

 ニセ巧は夕子をまじまじとみて、

「あれは、どこでしたか?」

 と、きいた。顔は笑っているが、目は笑っていない。夕子は青くなっていった。

「こ、このサッスーンハウスのなか・・・・・・北の出口の近くです、二十分ほどまえに」

 ごていねいに時間まで教えた。駿吉巧は二十分前はまだ自動車で道路を走っていた。サッスーンハウスにはいなかった。

では、夕子がみたという巧月生はだれか? 駿吉巧は考える。自分でない巧月生というと、本物の巧月生としか考えられない。本物の巧月生がサッスーンハウスにきていると察し、駿吉巧は愕然とした。二十分前に一階にいたということは、いまごろはとっくに八階の夕食会会場に入っているにちがいない。だとすると、千冬の話にはやはり裏があると思わざるをえない。そう感づいたが、そんなようすはおくびにもださず駿吉巧は夕子に、

「ああ、あのときでしたか」

 自分がほんとうにさっき一階にいたような顔をしていった。

「いや、さすがは女性ですな。服装をちゃんと覚えておられる。私が着がえたのはですね、建物に入ったあとに、さっきの服がどうも似あわない気がしたからなんです。それで、自動車から替えをとってこさせて、更衣室でいそいで着がえたんですよ」

 デタラメだ。千冬にはウソとわかる。ニセ巧はどうやら本物の巧がきていることに勘づいたようだ。だからこんなことをいって夕子に探りをいれているのだろう。その証拠にニセ巧は夕子の目をのぞきこむようにみていった。

「ついでだから、おきかせくださいませんか――いまの格好と、さきほどの格好と、どちらが私に似あっていると思われるか?」

 夕子はぞっとした。巧が自分にそんなことをきく意図はあきらかだと思った。巧は自分に、さっきの長袍の金色の鳶を思い出させたいのだ。そうして口にはださずに「茶壷泥棒、裏切者、茶壷を返せ」というメッセージを私にふたたび想起させようとしているのだ。そう考えた夕子は恐怖のあまりどもりながらいった。

「いまの長袍のほうが・・・・・・いえ、さっきの長袍、黒地に金の鳶の柄のも・・・・・・両方にあってると・・・・・・」

千冬は血の気をひかせた。いまの夕子のこたえでニセ巧は本物の巧が先に会場に入ったことを確信したはずだ。ニセ巧はアレーに会いにいくのをやめて、本物巧の邪魔をしにいこうと考えるかもしれない。そうなったら足止めできる自信はない。こんなことになるなら夕子がわりこんできたとたん、とめるんだった。まさか夕子が本物巧と先に会っているとは思わなかったから対処が遅れた。そう悔やんでいるときだった。

「はっはっはっは」

 ニセ巧がいきなり哄笑しだした。千冬はぞっとした。ニセ巧は笑いやむと、千冬をみて、あらたまったようにいった。

「小山内さん」

 真顔をむけられ、千冬は身がまえた。

「せっかく着がえたのに夕食会に遅刻するのは残念ですが――」

 千冬は動悸がした。次になにをいわれるかで、作戦の成否がきまると思った。ニセ巧はいった。

「やはり、私はアレーのもとへ、いまからむかいましょう」

 夢かと千冬は疑った。

「ただ恐縮ながら、ひとつお願いがあるのですが――」

「なんでしょう?」

 千冬はにこにこしてきいた。夕食会に行かないでくれるかぎり、どんなお願いでもききますよ、という気持ちだった。

「お友だちにもお願いしたいことですが」

 ニセ巧は夕子をみてから、千冬をみていった。

「今夜ここでアレーと私に会ったことを人にいわないでいただきたいのです。アレーが上海に戻ったことが知れると大騒ぎになりますから」

 そのお願いはちょっときけないな、と千冬は思ったが、口では殊勝らしくいった。

「了解です。絶対にだれにもいいません」

 夕子にもひじをつついて、同じことをいわせた。

「ありがとうございます。ところで――」

 ここでニセ巧は千冬をじっとみて間をおいた。なにをいうつもりだろう、と千冬がふたたび緊張すると、ニセ巧はいった。

「老婆心ながらいわせていただきますが、夕食会へのとびいり参加は断念されたほうが、よろしいでしょう。ミスター・ハルトンは予定外のことを好まないお方ですので、心証を悪くするおそれがありますよ」

 なんだそんなことか、と千冬はほっとすると同時に、こんなお節介をいうのをみるとニセ巧の正体はやっぱり伯父さんだな、と思い、破顔していった。

「アドバイス、ありがたくうけとらせていただきます。今夜はやっぱりあきらめてこのまま帰ろうかと思います」

「それがいいです」ニセ巧は目を細めていった。

「くやしさは決勝本番にとっておくことです。応援してますよ。アレーのメッセンジャー役、ごくろうさまでした」

 駿吉巧は千冬と夕子が去ったのをみとどけると、しかしパレスホテルには行かず、サッスーンハウスに入った。

 これはどうしたことか? 駿吉巧は千冬との約束をやぶって夕食会に行くつもりなのか? ニセ巧は千冬にウソをついたのか? 本物の巧月生が先に入っているとわかっているレストランにあえてのりこむつもりなのか?

 ――いや、駿吉巧にそのつもりはなかった。レストランで本物と対面するつもりなどさらさらない。ハルトンに巧月生がふたり存在することをみせたりはできない。つけこまれるだけだ。では、なんの用でサッスーンハウスに入ったのか?

 用はふたつあった。

 ひとつは電話だ。パレスホテルのアレーに会いに行く前に、駿吉巧はサッスーンハウスの電話で確認しておきたかった。吉永義一が拘置所にいるかどうかをである。

サッスーンハウスに入るなり、駿吉巧は一階の電話ボックスで拘置所に電話をした。巧月生を名のり、吉永義一がいるか、問いあわせた。すると担当の所員は、非常に興奮した声で、吉永義一は先ほど脱走した、とこたえた。まだ公にはしていないが、目下全力をあげて捜索中だという。

駿吉巧はそれをきいて、パレスホテルのアレーの正体が吉永義一という可能性を否定できなくなった。吉永は隠しもっていた狐仙茶でアレーに変身し、パレスホテルに入った、と考えられるからだ。

 もうひとつ目の用は、本物の巧月生をつぶすための手配をすることだった。

 ニセ巧は、巧月生邸からつれてきた自分を本物と信じこんでいる蒼刀会員六人を呼びだして次のようにいった。

「このサッスーンハウスに私のニセモノがいる。私に姿かたちが似てるのをいいことに本物になりすまし、信じられないことだが、すでに夕食会の会場に入り、巧月生の席をのっとっている」

 蒼刀会員は半信半疑だったが、駿吉巧は夕食会会場に斥候をだして納得させた。

「ニセモノの行動は許しがたい。私がおしかけて追いだそうにも、むこうに本物と主張されればそれまでだし、かりにこっちが本物と証明できたところで、ニセモノを出席させた、と知られれば恥をかく。だからいまは手出しができない。

 そこで、おまえたちにたのみたい。夕食会が終わってニセ巧がおりてきたら、こっそりうちのリムジンにのりこませ、そのまま指定の場所へと運んでほしいのだ。むこうがなにをいおうが有無をいわさず従えるように。そのあと私がしかるべき処置をとる。――いいな、ニセモノの印は、黒地に金色の鳥の模様の長袍だ」

 駿吉巧は指定の場所とはどこかを教え、それからやっとサッスーンハウスをでて、単身パレスホテルにむかった。護衛をつれなかったのは、アレーの伝言に従ったからだけではなく、駿吉にとって本来敵である蒼刀会員に白い石の情報が伝わるのを防ぐためだった。



「いま美味しいのができますよ、お待ちくだされ」

 中国語でいう声が、簡易バーのカウンターのなかからとんできた。

 ここはパレスホテル六階の一室。小肥りの男がシャカシャカとシェイカーをふっている。ゆれるカイゼル髭、毛むくじゃらの手、あぶらぎったタヌキ顔、臙脂色の民族衣装――まぎれもない、魔術師アレーだ。

ひどい目にあったはずなのに悲愴感はない。それどころか、とろけんばかりの笑みをうかべ、息をはずませている。このはしゃぎぶりはなんだ。考えてみれば妙だ。拘置所を脱走しアレーに変身できたことだけでも奇跡的だというのに、そのうえに豪華ホテルのスイートルームを借りられたとなると、いったいどう便宜をはかったものか、首をかしげざるをえない。

「なあアレー」

 「特等席」と銘うって座らせられたジョージアン様式の椅子から腰をあげ、駿吉巧はカウンターまで歩いて中国語でいった。

「時間がないんだろう?」

「ほうら、いい色、でてますよ」

 シェイカーをグラスにかたむけ、アレーはタレ目をできあがったカクテルに注いで顔を輝かせている。

「おまえがなぜ上海に戻ってきたか、なぜここにいるのか、私もうるさいことはきかないつもりでいる」

「完成! お運びしますね」

 アレーは太鼓腹でカウンターのしきり板をはね、はずむような足どりで卓子に移動した。

「こんなことはいいたくはないが、私が夕食会をあきらめてまで、ここにきたわけはわかってるだろう」

 アレーを追って折り返して、しかし椅子には座らずに駿吉巧はいった。

「白い石の話、きかせてくれないか」

「さあ、再会を祝してのみましょう」

「アレー」

 駿吉巧は笑いを消した。語気を鋭くしていった。

「あくまではぐらかすつもりなら、私はいまからでも夕食会に行くぞ」

 アレーは動じなかった。それどころかニヤニヤ笑ったかと思うと、巧のグラスを自分の口に運んで、ひとくちふくみ、

「うーん、極上の味わい」舌鼓をうっていった。

「いますぐのまないと、私にぜんぶのまれてしまいますよ。それじゃ、つまらないでしょう」

 人をくったようにいった。あまりのふてぶてしさに駿吉巧は怒りだすかと思いきや、これまたどうしたことか一転、椅子に腰をおろし、

「それは困る。まずのむとするか」

 そういってグラスをとった。白い石など忘れたような顔をしている。

「どうぞ味わってくださいませ。ひさびさの自信作でございますので」

「乾杯!」

 駿吉巧はけっしてアレーの誘いに負けたわけでも、心を許したわけでもなかった。その逆である。アレーへの警戒心を極度に高めたのだった。白い石のことをあまりききたがってはこっちの不利になる。だから誘いにのったふりをして、アレーの真意を探ることにきめたのだった。

酒をのみ、ややおちついたころ、駿吉巧はいった。

「おまえ、しばらく私のところには戻らないつもりか?」

「ですね」

「ここをでて、次はどこにいく」

「流浪の旅へ」

 冗談めかした口調である。

「ふむ、ひとりでか」

「いっしょに行ってくれる人があれば別ですがね」

 上目づかいで巧の目を誘うようにみた。駿吉巧は気づかないふりをして、

「しかしよく騒がれずに帰ってこれたな」

 話題を変え、それとなく探りをいれた。

「魔術師アレーとばれないように、どんな工夫をした?」

 アレーは動じず、平気な顔でいった。

「なに私など、髭を隠し、トレードマークの民族衣装のかわりにふつうの服を着れば、気づかれませんよ。それより会長こそ」

 質問の矛先が自分にむきそうになったので駿吉巧はさえぎるようにいった。

「それにしてもおまえ、なんで人に気づかれたくないんだ。いや、あんまりうるさいことはいいたくないんだが、酒をのんだら、ききたくなったよ。――どうして人目を避けたい?」

 満面に笑いをときつつ、駿吉巧はアレーの顔をのぞきこむようにみた。「拘置所を脱走してきたから」というこたえは、まさかかえってこないだろうが、アレーのこたえしだいでは、強攻策をとる気に駿吉巧はなっていた。

「いやあ、それが」

 アレーは苦笑を満面にとき、頭をかいた。

「がらでもないんですが、そうしたくなる時期があるんですよ、この私にも。厭離穢土とはいかないまでも、せめて人里はなれ孤独に徹したいという――あ、避けるといっても会長はもちろん別ですよ」

 アレーがはぐらかしているのは明白だった。

「なるほど」駿吉巧はグラスをおいた。

「そういうならまあ、それでもいい。ただやはり私は急ぐ」

 駿吉巧はふたたび笑いを消した。

「いいかげん、じらさずに教えてもらおうか、白い石のことを」

 顔をアレーに近づけた。ただし肘掛にもたれさせた両腕はそのままだ。駿吉巧はこのとき左袖の内側に隠してある短銃の位置を腕の皮膚の感触で確認している。

 駿吉はすでに決意していた。この期におよんでいわないつもりなら、右手で左袖から短銃をぬきとり、強制的に吐かせてやろうと。長袍の袖は太い。短銃が入っていても外からはわからない。にもかかわらず、アレーは駿吉巧が銃の位置を確認したとたん、巧の袖に目をとめた。その目がキラッと光った。と思うとアレーは座席から、すうっと立ちあがった。

 一触即発、かと思いきや――、

「まったく僕はどうかしてましたよ」

 アレーはいった。照れたように頭をかいた。

「いやね、二十日前、旅にでてから思いだしまして、参ったなあ、と思ってたんですよ」

 そういってなにやら背中を丸めて隅の金庫に移動すると、巻物を一巻とりだして戻ってきた。

「そうですそうです、本来これを会長に預けてから行くはずだったんです」

 アレーは巻物を、駿吉巧の目の前で惜しげもなくひろげた。駿吉巧は目を疑った。そこには筆で白い石の絵と外観に関する説明が書かれてあった。こんな資料があり、それをアレーがあっさりみせようとは思っていなかった。アレーはなんでもないことのようにいう。

「中央に切れこみがある、ふしぎな石だそうで」

 駿吉巧は資料に目をすわせ、なりふりかまわず読みふけった。白い石の絵をみ、外観の特徴を夢中で読むうちに、頭にふっとある映像がうかんだ。ハッとして、いった。

「気のせいだろうか、私はかつてこれをある人物の胸元にみたことがある」

 するとアレーが驚きもせずにいった。

「その人物とは、李花齢ではありませんか」

 駿吉巧は驚いていった。

「そうだが、なぜ・・・・・・」

「私は李花齢さんを直接には知りませんが、人びとにきいた李花齢さんのペンダントの情報を総合すると、ペンダントの石は、この白い石の外見の特徴とピタリと符合します」

 アレーはニヤッと笑っていった。

「それに会長、この巻物は、旧李花齢邸で発見されたものなんですよ」

 アレーはべらべらとしゃべる。

アレーは正気か? 白い石の秘密の一端をニセ巧にばらして平気なのか? それともアレーはここにいる巧が本物だとでも思っているのだろうか? ――いやいや、ニセモノだと知っていた。ではなぜ白い石の情報を話すのか?

 実は、このアレーの正体は、吉永義一ではなかった。

正体は李龍平だった。

龍平は前に吉永から虹口のアパートの一室に万が一にそなえた茶を保管してあるときいていた。合鍵もわたされていた。吉永は狐仙茶壷をもっていたときに、予備のためアレーに変身できる茶をつくっておいたのである。龍平はその茶を一部手に入れた。龍平はパレスホテルの一室を予約するときは龍平の姿のままでいて、いざ部屋に入ってから茶を飲み、アレーに変身したのだった。

 それでは元祖アレー――吉永義一はいまどこにいるのか? 拘置所を脱走してどこへ行ったのか?

 実は吉永は、脱走などしていなかった。いまも拘置所にいる。駿吉巧が拘置所の人間にきいたのはニセ情報だった。駿吉巧の電話にでたのはたしかに拘置所の本物の職員ではあったが、その所員は特別に本物の巧月生と親交の深い男だった。その所員は本物の巧月生にあらかじめこうたのまれていた。

「今夜七時前後、私の名を騙る男から電話があるはずだ。そいつからかかってきたら必ず君がかわるように。そしてその男に吉永の様子をたずねられたら、脱走して捜索中だと伝えるように」と。

 巧月生を騙るニセモノがいるという本物の巧の話を、その所員は信じた。実際にいわれた時間に巧月生を名のる男から電話があったので、あらかじめ本物の巧にいわれていたことを伝えた。それに駿吉巧はだまされた。白い石のことで理性を狂わされていたこともあり、拘置所の職員の言葉を疑う気にはならなかった。

かくして龍平はニセ巧を夕食会に出席させず、パレスホテルの一室におびきよせるのに成功した。とはいえこれはまだほんのはじまりだ。ニセモノから茶壷を奪い返すという最終目的を果たすまでには、まだまだクリアしなければならない項目がいくつもある。本物の巧月生が夕食会からニセ白蘭をもちかえることも、そのひとつだ。それをクリアするには、ニセ巧を夕食会終了までなんとしてでもこの場にひきとめておく必要があった。

 だから龍平のアレーは、ニセ巧に白い石の情報を教えると匂わせるだけで教えなかった。じらしてひっぱった。けれどニセ巧がだんだんしびれをきらし、じらすだけではおさまりがつかなくなったので、ついに秘密の一部を教えるにいたったのである。それにしてもなにもニセモノに貴重な情報を教えることはなかったのに教えたのには理由があった。

龍平はニセ巧の正体を小山内駿吉とみぬいている。小山内駿吉は日本陸軍少将であるのみならず、特務機関長でもある。そんな手ごわい人間相手にデタラメな情報をいったところで所詮みぬかれると考えた。だったら真実を教えるほうがいい、と判断した。デタラメをいってこっちの尻尾をつかまれては、なんにもならないからだ。白い石の情報といっても、外観を教えるぐらいだったら、たいした損にはならないはずだと思った。だが外観の情報だけでもたせるのは至難の業だった。案の定、ニセ巧はいってきた。

「資料はまだあるかな。ほかの資料もみせてくれないかな。白い石のもつ力を知りたいな」

 猫なで声なのがかえって不気味だ。

「ええ、ええ、その資料も旧花齢邸にありました」

 ニセアレーは毛だらけの手をもみあわせていった。

「白蘭がみつけたんで。旧花齢邸で思わぬところから思わぬものがでてきたら全部伝えるようにと日ごろいいつけておきましたので。もっとも白蘭は自分がなにを発見したかは、すこしもわかっていませんので心配はいりません」

 口からデマカセをいって、すこしでも間をもたせようとした。いざとなれば白い石の全情報を教える覚悟ではいるが、いま全部教えては夕食会終了までもたない。龍平――アレー(以下龍平アレー、またはニセアレー)は必死なのだ。

「その古文書ですが、いつ発見されたと思います? それがよりによって巧氏廟堂落成記念式典の前夜だったんですよ。忙しいときに会長をわずらわせてはいけないから式典が終わったらお話しようと思ってたんです。でも僕は逮捕されたりなんかして、結局今日まで――」

「いいわけはいい」

 ニセ巧はいらだちをあらわにした。

「白い石にまつわる肝心の情報をいう気はあるのか、ないのか?」

「ありますとも、すぐにご覧にいれます。しかし会長、そのまえに」

 ふいにアレーは作り笑いをゆがませ、妙なことを口にした。

「恐縮至極ですが、お着物にしのばせているものをこちらへ、ご提出願えませんでしょうか?」

「どういう意味だ」

 にわかに殺気だって駿吉巧はいった。袖に隠した銃のことをいわれているのはあきらかだった。アレーの笑いじわでかこまれた目の奥は鋭く光っていた。

いくらアレーでも巧月生に銃を渡せなどというはずがない。こちらをニセモノとみての要求と考えるほかはない、と駿吉は判断した。むこうが強硬手段にでようというなら、こっちにもその用意はある。

ふたりの目と目が衝突した。空気に緊張が走った。そのときだった。

「ですぎたまねを、どうかおゆるしください、会長」

 にわかにアレーが悲痛な声をだした。

「会長の身を思えばこそなのです。白い石の力を記した書にはおそろしい前置きがあったものですから――。いわく、この書をよんだ者は、どんなに強烈な意志をもっていても、一時的に精神を狂わされることがあり、自棄的行動をとったり、他者に狂暴行為を働くことがある、と。僕は、会長の身になにかあったらと」

「そうか」駿吉巧は失笑した。「それであらかじめ危険物をとりのぞこうというのか」

「そのとおりです」

「おまえは初めてその書を読んだとき、どうなった? よからぬ行動をおこしたのか?」

「それが、恥ずかしながら自分では覚えておりませんが、ボアンカによりますと、私は自分の胸にナイフをつきたてそうになっていたとか・・・・・・いやまったく間一髪だったそうで」

 ニセ巧は疑惑にみちた目をむけている。しかし龍平はこれを機にニセ巧から物騒なものをとりあげておきたかった。髪ふりみだし哀願する格好をとった。

「巧会長、私のいうことは神かけて真実です、どうか安全策を」

 ニセ巧はしばらく思案する格好をとっていたが、やがていった。

「私も飼い犬に手をかまれるようなことがあっては困る」

 これはアレーへの皮肉だった。

「だがおまえが手をつけないと約束してくれるなら、懐中の犬に関しては、ここにだしてやってもいい」

「そりゃあもう約束させていただきます。手をつけるなど、とんでもないことです」

 龍平アレーは息をはずませた。

「私は会長ご滞在のあいだ、犬たちが吠えないようにつながせていただくだけですので」

「では、つないでくれ」

 ニセ巧は意外にもあっさりと長袍の袖から銃をとりだした。

「しめて三匹」

「ありがとうございます。しかしあと二匹、お忘れでは?」

 龍平はニセ巧が靴のなかにも隠しているのを知っていた。

「かなわんな」

 駿吉巧は苦笑して二丁の銃を靴からだした。心中でアレーと吉永を罵った。駿吉巧はアレーの正体が龍平とは気づいていない。

「ではおあずかりして、と。あちらの小屋につながせていただきましょうっと」

 龍平アレーは「小屋」とよんだ金庫に拳銃をしめて五丁おさめ、ひきかえに新たな巻き物を運んできた。卓子に行書の筆の海がひろがった。

「これがその、白い石が特殊といわれるゆえんをしるした書です」

 字がいっぱいつらねてあって、かなりの分量だった。これだけの量を一瞬で読みとることは、学識ある駿吉といえどもできない。持ち帰ってじっくり読もうと、

「なるほど」

 といって手をのばしかけると、アレーが毛むくじゃらの指をサッとのばして、書面の一箇所をさしていった。

「この段落に、白い石の効力についての説明があります。せっかくですから、この段落をいま現代語に訳してもよろしいでしょうか」

 駿吉巧はいま知りたい気持ちが強かったので、

「よろしい。きかせてくれ」と、うながした。

「では申しあげましょう――『白い石』には、死んだ人間の魂をよみがえらせる力がある。白い石があれば、肉体は死んでも魂は生き、別の人間の肉体にのりうつって生きることが可能だ」

「・・・・・・」

 ニセ巧は目を閉じた。眠ったような顔をして耳をすました。

「死後、魂を別の肉体にのりうつらせるには、以下の条件をみたす必要がある。ひとつは、もとの肉体の心臓が停止する前から停止したあとまで白い石を身につけていること。もうひとつは心臓停止後、白い石を中央の切れ込みにそって割り、なかに入っている粉をもとの肉体の両耳の穴に注ぐこと。そうすると魂は遺体を離れ、光となって、第二の肉体を求めてとびたつであろう。ただし、のりうつる肉体は天命にゆだねられる。魂は肉体を選べない」

「・・・・・・」ニセ巧は目を閉じたまま沈黙していたかと思うと、いきなり質問した。

「心臓が停止したあと、どうやって白い石を割れる、どうやって粉を耳に注げる」

「もちろん死んだ本人はできません。だから死ぬ前にあらかじめ、信頼できる人間に死後その作業をしてもらうよう頼んでおく必要があるかと思います」

「李花齢は生前、白い石を身につけていた・・・・・・」

 ニセ巧は突然パッと目をひらいた。あることが頭にひらめき、興奮していった。

「もし李花齢の死後、だれかたのまれた人間が白い石の処置をほどこしていたとしたら、李花齢はいまなお生きているということにならないか? 魂は以前のままで、別の人間の肉体にのりうつって――」

「そういうことになりますね」

 龍平アレーは平然とうなずいた。いったい龍平は正気か。ニセ巧に母親の魂が生きているとばらしてよいのか。

――実は龍平もここまで話すつもりはなかった。だがニセ巧と話しているうちに気が変わった。ニセ巧が本物の巧月生になりすましたつもりでいるのをみていると癪にさわってしかたなく、鼻を明かしてやりたくなったのである。ニセ巧の正体が小山内駿吉だと思うとなおさらだった。小山内駿吉といえば、龍平の両親にとって、蒋介石とならぶ敵である。リラダン爆破事件、および花齢殺しにも関与していると思われる敵なのだ。罪をおかしておきながらしゃあしゃあとし、罪に罪を重ねようとしている駿吉巧をみているうちに、龍平はこいつの鼻をへし折ってやりたい、という衝動にかられた。いくらこいつでも李花齢の魂が他人にのりうつってまだ生きていると知れば、おったまげてショックをうけるだろう。そう思ったから、肯定したのだ。

 果たして駿吉巧は血の気をひかせていった。

「花齢の魂は生きている? いったい、だれに、のりうつって」

 巧月生だ、と教えてやったらニセ巧がどんな顔をするだろうと思ったが、

「さあ、この私にも見当がつかないんですよ」

 と、そこはさすがにとぼけた。「本物の巧月生」の中身を教えたら、結果的にはニセ巧の得になる。それでは本末転倒なので、こういうにとどめた。

「李花齢とはかけ離れた肉体に宿ってるかもしれませんね」

「つきとめる方法は、なくはないな」ニセ巧はいった。

「いまいった話がほんとうなら、李花齢の死後、白い石の処置をほどこした人間がいるはずだ。それは李花齢が心から信頼する人間だろう。李花齢はだれかの肉体にのりうつったあとも、その人間と連絡をとっているはずだ。だからその人間を探しだせばいい。そこから足がつく」

 駿吉巧はそういってアレーをじろりとみた。吉永、その人間はおまえだろう、とでもいいたげだった。駿吉はアレーの中身を吉永義一と思いこんでいる。吉永は使用済みの白い石を遺体からはずし、自分のものにしたにちがいない。どうにかして探りだしてやろうと思ったそのときだった。

冷たいものがピタッとこめかみに押しあてられた。銃口である。警戒はしていたが、そんな気配はすこしもなかっただけに虚をつかれた。

「李花齢がだれにのりうつろうと、あなたには関係ないことです」

 龍平アレーはいった。自分がよけいなことを教えたあまりに小山内駿吉は本気で李花齢の現在の姿をつきとめるかもしれない、という焦りが龍平の理性を狂わせたのだった。

「アレー、白い石の書を読んで、狂ったか」

 ニセ巧はいった。皮肉をきかせるほど、おちついていた。龍平アレーはそのぶん動じ、口調も荒々しくいった。

「狂ってるのは、巧月生にばけたそっちでしょうが」

 これにはニセ巧もさすがに顔色を変えた。

「ばけたとはなんだ」

「知ってるんですよ、あなたがニセモノの巧月生だと」

「ばかな。そんなことをいうとは、おまえが狂った証拠だ」

「あなたは三霊壷を盗んだ。正確には狐仙茶壷、麒麟茶壷の二つですが、その特殊な力を使って、あなたはいま巧月生に変身している。でしょう?」

「サンリンフーだと? なんだそれは」

「ごまかしたってムダです。いまのあなたの外見が二茶壷を盗んだ証拠じゃないですか。あなたは巧月生にばけてるだけで、中身は別人なんですよね?」

 アレーは自分を小山内駿吉とみぬいている、と駿吉は感じたが知らぬ顔をとおした。

「ばけてるだの、変身だの、魔術の話をしてるのか」

「知らばっくれると、引き金をひきますよ」

「おい、おまえ、おまえこそ――」

 駿吉巧は反撃にでた。目を針のように細め、刺すようにアレーをみていった。

「それで、ばけおおせたつもりか」

 刹那、龍平の心臓は凍りついた。自分の正体をみぬかれたと思ったのだ。それでも強がっていった。

「なんですか、いったい。自分がニセモノといわれたんで腹いせに人までニセモノあつかいですか」

「おまえの正体を知らぬとでも思っているのか」

 ニセ巧ははねかえした。

「おまえが日本に骨をうずめたがっているのは知っている。私を殺したが最後、帰れなくなるぞ。私を殺せば有力な連中が黙っていない」

 ニセ巧は不敵に目を光らせたが、龍平はいまの言葉をきいてほっとした。ニセ巧は自分の正体を吉永と思いこんでいる、と察したからだ。龍平アレーは勢いをとりもどしていった。

「僕の心配をするぐらいなら、二茶壷のありかを教えてくださいよ」

「だから知らないといっている」

「せっかくだからいいでしょう、教えてくれたって」

 茶壷のありかは花齢の巧月生にもニセ白蘭にききだすようたのんであった。が、ニセ巧にもきくにこしたことはなかった。龍平アレーはいった。

「これでも教える気になりませんか。いいものをみせてあげましょう」

龍平は銃をあてたままニセ巧を窓につれていき、カーテンをずらして外をみせた。

「どうです、みえますよね?」

 龍平アレーはナンキンロードを指さした。六階からみるとはるか下だが、それでも電燈の光のもと武装した男たちが六人ばかり道路に立って玄関をかこんでいるのがみえた。いずれも駿吉巧がここにくる途中、すれちがった――あのときは山査子売りやホテルの客に扮していた連中だ。みぬけなかったとは不覚、と悔いたがもう遅い。

「部屋の内も外も十分に警戒されています。騒いだり、逃亡をはかったりすると、かえって具合が悪いことになりますよ」

 それでも駿吉巧はいった。

「会長に謀反をおこすとは狂ってる。あいつらにも白い石の書を読ませたのか」

「気の毒ですが、こっちは本気でしてね」

 龍平アレーはそういって引き金に指をかけた。さすがにニセ巧はあわてていった。

「おい、血迷うな」

「じゃ、二茶壷のありかを教えてくれますか」

 龍平アレーは撃鉄をカチリと鳴らした。

「待て」ニセ巧はいった。

「わかった、いおう。茶壷の所在を」

 龍平は心中に快哉をあげた。だが喜びは顔にあらわさず、

「ほんとうですね」

 冷静な口調で念を押した。

「ああ。そのかわり、落ちつかないから、せめてこめかみを銃口から解放してくれんか」

 駿吉巧は茶壷の所在を話すつもりなどなかった。

その証拠に、たったいま腋の下の皮膚であるものの位置を肌で確認している。さすがにその存在までは龍平アレーもみぬいてはいなかった。長袍の下には銃のほかにも隠してあるものがあった。小壜である。なかに入ってる液体は白茶だ。駿吉が狐仙茶壷でいれた白茶である。もとの姿に戻りたくなったときのために小壜にいれて常備してあるのだ。いま期せずしてこの小壜が役に立とうとしている。アレーに使うのだ。

 アレーに白茶を飲ませればどうなるか?

吉永義一に戻る、と、アレーの正体を龍平とは知らない駿吉は考えた。吉永義一は拘置所を脱走中の日本人だ。つまりアレーは白茶をのんだとたん、追われる身に転じるわけで、自分を拘束するはおろか、蒼刀会員を動かすこともできなくなる。動かすどころか、蒼刀会員にとらえらえるだろう。まわりを蒼刀会員でかためていることが、かえってあだとなる――そう思った駿吉は小壜の白茶をなんとしてもアレーにのませようと決意した。

「こめかみを解放してもいいですが、茶壷のありかをちゃんと教えてくれるでしょうね。真実のありかをですよ」

 アレーはいった。

「教える。誓う」

 駿吉巧はいった。

「妙な真似はしないでくださいよ」

 アレーはそういって、ニセ巧のこめかみから銃口をはなした。


「巧月生、また着がえてる」

 夕子は一生懸命千冬にきこえるようにいった。食器のかちあう音、ピアノと琴の生演奏、人びとの声であたりは騒然としている。

 時間はすこし戻ってニセ巧がまだパレスホテルに入ったばかりのころ、千冬と夕子はレストランの一テーブルをかこんでいた。

 高級グラスにいまやっと水がそそがれたところだ。

 ふたりは帰ったとみせかけて、こっそり裏口からサッスーンハウスに入り、ハルトンの夕食会のひらかれる八階レストランまでエレベーターを避けて階段であがってきたのである。

夕食会はレストランの一テーブルでささやかにひらかれていた。パレスホテルの尖塔がみおろせる南西の窓ぎわのテーブルである。千冬と夕子はそこから離れた北東のテーブルにこっそり座った。

二つのテーブルの位置関係を野球のダイヤモンドでたとえるなら、ハルトンのテーブルはホームベース側、夕子たちは一塁ベース側といったところだ。もっとも両者の距離はテーブル三台分しかない。声も届き、顔を横にやれば、むこうの表情もはっきりみえる。とはいえハルトン側は自分たちの会話に気をとられ、あとからきたこちらの存在に気づいたようすはいまのところない。だが夕子はおびえたようにくりかえした。

「ねえ、巧月生をみて」

 巧はパレスホテルに行ったはずだった。なのに、あちらのテーブルに座っている。しかもふたたび金色の鳥の模様の長袍にきがえている。実際は着がえたのではなく巧がふたりいるのだとは知らない夕子には、自分へのあてつけとしか思えなかった。

「その話はもういいから」千冬は困ったようにさえぎった。

「なんで」

「おねがいだから、いまそのことは忘れて、ね」

 千冬はぐずる子どもをあやすようにいった。とはいえ巧月生がふたりいることを、夕子に隠すつもりはなかった。ただここにくるまではそのことを話す時間がなかったし、いまは話せる環境になかった。

「あとで教えるから」

「あっ」

 夕子はふいに思いついたようにいった。

「もしかして巧さんの長袍って作戦になんか関係あるとか? だとしたら私が下で巧月生に長袍の話をしたのはまずかった・・・・・・よね?」

「いいってもう。いまその話は」

「ごめん、つい口をすべらせて」

「しかたないよ。こういうところにきて、あがってるんでしょ」

「・・・・・・」

 夕子が黙ったのは、「あがってる」といわれて、むっとしたからだった。千冬は私を江田夕子とみてなめている、と思う。私が白蘭だと知ったらそんなことはいわないはずだ。私は白蘭だと教えてやりたくなった。でもいったところで信じてもらえるわけがない。特にいまは――。なぜなら、白蘭はすぐそこにいるからだ。夕子が変身したのではない白蘭――もうひとりの白蘭が、たしかにむこうのテーブルにいたのである。

夕食会の参加者たちは、テーブルの東西に3人ずつ、そのあいだにひとり座っていた。北側にロレーヌ、西側に奥からハルトン、ボアンカ、ルドルフ、東側には丁香、巧月生、そのふたりのあいだに白蘭はいた。

 はじめそれをみたとき夕子は目を疑った。みなかったことにしようとした。けれども白蘭は現実にそこにいる。巧月生の隣で当然のように座り、食べ、飲み、しゃべっている。自分ではない白蘭がたしかに存在している――夕子は茫然とした。だれかが盗んだ茶壷を使って白蘭に変身している――自分の体を盗まれたような気がした。

その白蘭のけたたましい笑い声が耳にとびこんだ。巧がいった言葉がおかしかったのか、爆笑している。それにしても、すこし異常だ。まわりにかまわず、ひとりでヒーヒーいってお腹をかかえ、テーブルをたたき、足をふみ鳴らしている。だれも咎めないが、みな内心どう思っているか、わかったものではない。あんなのが白蘭と思われてはたまらない。千冬だって変に思っているはずだ。「今夜白蘭はどうしてもこられない」と私にいわれたのに、白蘭はきてる上、大騒ぎしている。あの白蘭はニセモノだ、と夕子は大声で叫びたくなった。さすがにそれはできないから千冬にいった。

「白蘭の話なら、いいかな」

「なに」

「あの白蘭、変だと思わない?」

「どんなところが」

「あれは白蘭に似てるけど、感じが別人ぽくない? そっくりさんかな」

 いきなりニセモノといっても信じてもらえないだろうから、そういった。それでも笑われるだろうと思った。

 ところが千冬は笑わなかった。それどころか大真面目にうなずいていった。

「そっくりさんというより、ニセモノだね」

「え」

 白蘭のほうが驚いてきき返した。

「なんで知って・・・・・・」

「李さんからきいてるから。今日ここにくる白蘭はニセモノだろうって」

 千冬はこともなげにいった。夕子は驚いて矢継ぎ早に質問をあびせた。

「白蘭のニセモノがいるなんてきいて冗談とは思わなかったの? 変身のことも知ってるの?」

 「変身」ときいて、千冬の顔色が変わった。

「夕子こそ、・・・・・・知ってるの?」

 茶壷のことを知ってるの、ときいているにちがいない。千冬は茶壷のことを知っている――そう感じた夕子は驚きをあらたにし、思わず口にだしていった。

「うん、ふたつの茶壷のことだよね」

 今度は千冬が目をみひらいた。夕子が知っていることに驚いたあまり、声がでないようだった。

 夕子はとっさにごまかした。

「・・・・・・あ、私、李さんからきいたんだ」

 千冬はそれが真実かどうか確かめようとはしなかった。いまはそんな場合ではなかった。

「千冬さんも李さんから――?」

 と夕子にきかれると、うなずく間も惜しいような顔をして、小声でささやいた。

「だからニセ白蘭の動きをみはりにきたの」

 夕子はそのとき初めて千冬に作戦の内容を一部教えてもらった。

それで夕子ははじめてルドルフが仲間だと知った。千冬はルドルフが計画をちゃんと実行するか、みはる役だという。ルドルフの任務は以下だそうだ。

 一、ニセ白蘭が不審な行動にでたら阻止する。

 二、ニセ白蘭の正体をつかむ。

二つ目の任務をきくなり、夕子はどきどきしてきいた。

「ニセ白蘭の正体って・・・・・見当ついてるの?」

「おそらく丁香だろうって話」

「・・・・・・」

 夕子は否定したかった。けれどもできなかったのは、ニセ白蘭が今夜身につけている旗袍が、白蘭のクローゼットにある旗袍にそっくりだったからだ。あれは特注品で簡単につくれるものではない。それをいま着ているということは、丁香がクローゼットから盗みだしたとしか思えなかった。だが丁香は白蘭の横に座っていた。それをみて夕子はいった。

「丁香ちゃんは、そこにいるよね」

 夕子がいうと、千冬はかぶりをふった。

「あの丁香もきっとニセモノだよ。丁香が仲間に変身させてるんだよ」

 いわれなくても丁香のようすがいつもとちがうのは最初から気づいていた。やけにおどおどしている。ハルトンを前にして萎縮しているというより、白蘭の機嫌が気になってしかたないといったようすだ。あの態度はまるで別人だ。いや、別人にちがいない。ということは、やっぱりあそこにいる丁香ちゃんはニセモノで、隣にいる白蘭は丁香ちゃんがばけたものなのか――?

「あの白蘭の正体を、ルドルフはどうやって探るの」

「まあ、みてな、どうやって探るか。ちょっと不安だけど、たぶんやってくれるでしょ、恋の力で」

「え、恋の力って?」

「ここだけの話」千冬はニヤリと笑っていった。

「ルドルフは李さんにぞっこんなの。びっくりでしょ? ふたり、つきあってるんだよ」

 夕子は冗談だと思った。ふたりの仲の良さを千冬が茶化しているのだと思っていった。

「友情で結ばれてるってこと?」

「ちがうちがう、愛情。ふたりは男同士でつきあってるの。私ルドルフが同性愛者って知らなかった。もっと早く気づいてれば、あんなのと付き合わなかったのに。私の半年間を返してって感じ」

 いわれてみれば思いあたるふしがあった。チャリティ・イベントのとき、ルドルフは嫉妬に燃えたような目で、龍平からレコードをうけとった事情を白蘭に責めるようにきいたものだった。あれはそういうことだったのか、と合点がいく。

「でも李さんまで、そっちの気があるなんてね」

 千冬がいった。夕子は血の気をひかせた。

「ルドルフの片思いじゃなくて、李さんも・・・・・・?」

「ふたりがいっしょにいるとこ今度みたらいいよ、アツアツでびっくりするから」

 信じたくないが、千冬はウソをいっているようではなかった。

 ついこの前、李龍平は丁香とつきあっていないときいて安心したばかりだっただけに衝撃は大きい。彼に恋人がいるだけでもいまは耐えがたいのに、その上相手がルドルフとは――。笑うに笑えない。

 窓辺のカーテンがなまぐさい夜風にふかれ、蝉の黒い羽のようにゆらめいている。九月とはいえ蒸し暑い夜のこと、高級レストランといえどもまともなクーラーなどないこの時代、窓はすべてあけはなたれていた。

 カーテンにはさまれた空間の底に、銀蛇が幾匹もうねっている。銀蛇とみえたのは、地上の黄浦江に流れる船の光芒だった。河は昼間の雨でふくれあがり、黒い水の上は、けぶって夜空との境もわからない。船は悪条件のもと航行するためか、たがいに威嚇しあうような汽笛を鳴らしている。

 ルドルフへの嫉妬心がわく。嫉妬するのもばからしいような相手だが、どうしようもできない。男のくせに龍平さんとつきあってるなんて許せない。しかもルドルフは重要な任務を与えられている。龍平さんに期待されている。それにたいして自分は白蘭として遅れをとったばかりに、役に立つどころか、果たすべき任務さえ与えられていない。

 夕子はニセ白蘭をにらんだその目でルドルフをにらんだ。あちらのテーブルには冷製コンソメスープが運ばれていた。

 同時に夕子たちのテーブルにも給仕がやってきて、注文した華懋炒麺(キャセイ・チャオミエン)を二人分おいていった。この店ではいちばん安い料理だが、それでもふつうよりずっと高いだけあって、高級な皿にもられている。とはいえ実体はやきそばで、具はもやしとニラだけだ。

「ゆっくり食べよ、これでねばらなきゃ」

 ふたりが注文したのはあとパインジュースだけだった。予算の都合上あちらのようにフルコースとはいかない。

「いただきます」

 ふたりが箸に手をつけたときだった。

「てっきりアレーさんがみつかったのかと思いましたよ」

 そういうハルトンの大声が耳にとびこんだ。

「え、なんと」

 虚をつかれた声をだしたのは巧月生だ。

「アレーさんを旅先で発見されたのかと思ったんです」

 ハルトンはいう。それにしてもよくとおる声だ。天井が高いので反響しやすいというのもあるが、ほかのテーブルでわく潮騒のような話し声とくらべると、めだつこときわまりない。わざと他人にきかせようとしているようにもきこえる。

「あなたが上海にお帰りになられたときいたとき、てっきりアレーさんをおつれになってるかと思ったんですが、いや早合点でした」

「ご想像どおりだったらよかったんですが」

 巧はあわてたようにいった。いわゆる「本物の巧」だが、中身は李花齢――花齢巧である。

「いったいアレーはどこにいるのか、心あたりのある場所をあたってもみつかりませんで」

 巧はハルトンにはアレーがパレスホテルにいることを秘密にしてるのだな、と夕子は思った。

「この娘も心配しております」

 ハルトンが巧にあわせるようにいった。目はボアンカにむいている。

「これの父親とはイギリス時代苦楽をともにした間柄でしてね、いまは私が面倒をみてやっておりますが。なにしろアレーさんの助手ですからな」

「ご心配をおかけしまして、私も今度の件には責任を感じております」

 巧がいうと、ハルトンがいった。

「いやそんなつもりでいったのではありませんよ、ただアレーさんの身が案じられましてね、みつかればいいと思っておるんですが。まったく中国は広大ですからな、探すといっても漠然としているでしょう」

「ええ、まったく漠然としています」

「巧会長」突然、ボアンカが声をあげた。

「どうしました」

「私、実は、アレーさんのことで、思いあたることがあるんです」

 どうして知ろう、このボアンカの言葉こそ、ハルトンのしかけた「テスト」のはじまりだったとは。

 今晩ハルトンがこのメンバーで夕食会を催したのには、ある目的があった。

表むきの目的はふたつある。ひとつは、大会直前に「グランプリ候補のファイナリスト三人」を激励したい、ということ。もうひとつは、巧月生の廟堂落成式典のふるまいを自分は怒っていない、と伝えること。

 真のねらいはむろん別にあった。

 巧月生と白蘭が本物かニセモノか、みきわめることだ。  

 なぜハルトンが「ニセモノ」を発想できたかというと――、

 ボアンカからきいたのだ。

 失恋したボアンカはアレーへの未練をたちきるべく、ハルトンに寝返った。そして貴重な情報――狐仙茶壷と麒麟茶壷の個々の特殊な能力の情報をもらした。

 もともと彼女はスパイになるべくハルトンに期待された女だった。父親が友人というのは真っ赤なウソで、アレーの助手を志願したのもはじめはハルトンにいわれてのことだった。ハルトンは巧月生の動きを探ることがねらいだったが、ボアンカが予期せずアレーにほれて魂を売ってしまったので、スパイ養成はあきらめていた。ところがこれが舞い戻ってきた。失恋して、その腹いせに仕返しを決意した。おかげでハルトンは狐仙茶壷に変身を可能とする力があることを知った。

 そこへ四日前、ききずてならない情報――巧月生を成都でみかけたという情報が入ってきた。

 四日前といえば月曜だが、巧月生はすでに日曜から上海に帰っているはずだった。

 やがてハルトンは上海にも成都にも巧月生がたしかにいることを知った。

 どちらかがニセモノだ、とハルトンは思った。

 上海にいる巧は、本物かニセモノか?

 調べるために、この夕食会を企画した。

 もっとも調べたいのは巧月生だけではなかった。

 もうひとりニセモノの疑いのある人間がある。

 白蘭だ。

 こちらは巧のように同時に別の場所に二人いるという情報はなかった。が、夜ごとの素行、「以前の白蘭のようでない。別人のようだ」という世評などに着眼し、ついでにみきわめたいという気にかられたのである。

 で、ふたりがニセモノかどうか、どうやって判断しようかというと――、

 このふたりが立腹する機会を与えようというのである。

 具体的にいうと、巧と白蘭が怒らずにはいられないことをいってその反応をみようというのだ。

 ハルトンはこう読んでいる――、

 本物なら、いかに腹がたっても体面を守るため、じっとこらえるだろう。

 ニセモノなら、怒ったふりをするだろう。なぜならニセモノは巧月生の評判をいっそうおとしたいだろうからだ。

 ニセモノの正体は蒼刀会の敵のはず、とハルトンは考える。

 機会を与えてやりさえすれば、注目されるようにあえて人目につくような傍若無人なふるまいにでるだろう。個室をとらず、人目につく席をとったのは、そのためだ。

 ボアンカにはニセモノを怒らせる役目を与えている。ボアンカを身内と称してよんだのはこのためだ。ほかのファイナリストをよんだのは、巧月生と白蘭だけを招待するのでは体裁がととのわないためにすぎない。

 それにしても、もし巧と白蘭がニセモノだとわかったとして、ハルトンはどうするつもりか?

 知ってすぐ、どうするつもりはなかった。

 最大のねらいは現在の茶壷二器の所有者をみきわめることにあったからだ。

 所有者は巧月生が本物なら蒼刀会、ニセモノなら日本特務のはずだとハルトンは考えている。

所有者の判断がついたら、二日後のミス摩登コンテスト最終選考会で奪うつもりだった。

 まずは、ここにいる巧がニセモノかどうか判断しなくてはじまらない。

 白蘭に関しては、これまでの態度からして十分ニセモノらしく思われたが、まだ確証はつかめていない。ボアンカが刺激したあとの反応をみるとしよう。

 そんなハルトンの思惑など知らない巧月生は、

「ほう、どんなことですか、アレーのことで思いあたることとは」

 といって身をのりだした。ボアンカはいった。

「申しあげるべきかどうか迷ったんですが」

「遠慮は無用です。いってください」巧がうながす。

「では申します」ボアンカはいった。表情と声音から緊張が伝わった。

「アレーさんは失踪する前、いつもある二人から、逃げたがってました」

「それは初耳ですな」巧は首をかしげていった。「二人とは、だれです?」

「それが本名はわからないのです。アレーさんはいつもあだ名を使っていました。ひとりは『沈没船』、もうひとりは『アホウドリ』と呼んでました」

「変わってますね」

「アレーさんはそのふたりを嫌ってたんだと思います。『沈没船』については、よくこういってました――」

 ボアンカは巧の目をまっすぐみつめていった。

「『何度断っても私を入会させようとする』、『自分が沈むとわかってない』と」

 巧の眉間がせばまった。ボアンカの意図を疑った。「沈没船」が巧月生のことをさすのはあきらかに思われた。巧は船マニアだ。「入会」とは巧が蒼刀会にアレーを入会させたがっていたことをいっているように思われる。

「次に『アホウドリ』ですが」

 ボアンカは今度は白蘭をまっすぐみつめていった。

「アレーさんはこういってました――『笛吹けど踊らず。彼女をみこんでばかをみた。容姿と虚勢だけは一人前、中身は半人前どころかいつまでたっても神経病者。それでも期待して投資をかさね、あげくのはてに得たのはとんでもない借金。しかもいまや主客転倒、彼女の膨張をおさえるのは困難だ』」

 ボアンカがそういったのはテーブル三つ隔てた夕子にもはっきりとききとれた。夕子は蒼白になった。アレーはほんとうにそんなことをいったのだろうか。だとしたら、「いつまでたっても神経病者」というのは自分のこととしか思えない。アレーは陰で自分を「アホウドリ」と呼んでいたのか。裏切られた思いだった。自分がアレーを裏切ったことも忘れてショックをうけている夕子の耳に、怒った声がとびこんだ。

「ちょっと、ね、ボアンカさん」

 白蘭の声だ。

「はっきりいってくださいよ。『沈没船』は巧さんで、『アホウドリ』は私だと」

 ニセ白蘭はボアンカにくってかかった。顔を赤くし、怒った顔をしている。

「そうなんでしょう? いまの話をするとき、最初は巧さんをみて、そのあとは私をみましたよね?」

 ハルトンは黙って観察している。葉巻を吸い、紫煙のなかに沈みこんでいる。巧月生もなぜか黙々とスープを口にはこぶだけだった。

「巧さんも、なんとかいってくださいよ」

 ニセ白蘭にいわれ、花齢巧のスプーンの動きがとまった。

ニセ白蘭は巧の中身を小山内駿吉と思って加勢を求めているにちがいなかった。

加勢する気がないから放っておいていいかというと、そういうわけにもいかない。

 花齢巧はふたつの任務を龍平に与えられている。ひとつは巧月生の名折れを防ぐこと。もうひとつは、ニセ白蘭をだましてアジトにつれていかせ、二茶壷をとり返すこと――これを果たすにはニセ白蘭に巧月生の中身を小山内駿吉と思わせつづけなくてはならない。そのためには小山内駿吉だったらこうするという行動をつねにとらねばならない。ニセ白蘭の要望を無視することは小山内駿吉のすることではなかった。

 かといってニセ白蘭の要望どおりボアンカに文句をいえば、ハルトンの不興をかうおそれがある。巧月生の名折れにつながる。

一方を守ろうと思えば、一方が危うくなる――それが現状である。どうすればどちらも守れるのか? 花齢巧はスプーンを口に運ぶあいだに思いをめぐらせたが、こういうしかできなかった。

「アレーが逃避したがっていたとは気づきませんでしたな」

 どちらつかずのこたえにニセ白蘭は物足りなそうな顔をした。それでも、巧のこたえに便乗して、

「そうですよねえ、アレーさんが悩んでたら、私たちにわかったはずですよねえ」

 と、ボアンカにいやみをいってのけた。だがボアンカはひかなかった。

「アレーさんは弱い面はみなさんには隠してました。私にしか、みせませんでした。だから私にはわかります」

「なにが」

「アレーさんがいまもふたりから逃げたがってることがです。探されても困るだけだと思います。そっとしておくのがいちばんです」

「それ、どういう意味ですか。巧さんに探すな、といいたいんですか? 失礼です!」

 白蘭は声を荒げた。そのいい方はどこか芝居じみていた。ほんとうに怒っている感じではなかった。ニセ白蘭は白蘭の評判をおとすために、わざとボアンカにいいがかりをつけているようにしか夕子たちには思えなかった。千冬はいらだたしげにつぶやいた。

「ルドルフなにやってんの、ニセ白蘭がおかしな茶番をはじめてるのに」

 ルドルフはニセ白蘭が不審な行動にでたら阻止するのが任務であるのに、阻止するどころか、のんびりシェリー酒をたしなんでいる。ニセ白蘭とボアンカのやりとりなど、どこ吹く風といった顔である。

「私はアレーさんの心を代弁しただけです」

 ボアンカがいった。ニセ白蘭がいいがかりをつける。

「ちがいますね。アレーさんの口を借りて自分の意見をいってるだけでしょ。あなたは、私が気にくわないんですね。原因は嫉妬ですか」

「嫉妬って、なにを嫉妬するんですか」

「さあ、いろいろあるんじゃ――私の美しさとか、若さとか」

「それは白蘭さんの思いあがりですよ」

「なにを」

「私は白蘭さんに嫉妬なんてしません。するなら丁香さんにします。アレーさんも式典前よくいってましたから――『白蘭の人気は一過性だが、丁香なら不動の人気を築ける』と」

「ウソ! そんなことアレーさんはいいません」

 白蘭は我を失ったように叫んだ。ボアンカは冷笑していう。

「いいえ、いいました」

「アレーさんがいうわけないです! 『丁香なら不動の人気を築ける』なんて」

 ニセ白蘭は隣の丁香の肩をぐいとつかんでゆすぶった。

「この女がですよ、この、つんとした女がですよ」

「すごい剣幕」ボアンカは嘲った。「毎晩丁香さんをいじめてるって記事はほんとだったんですね」

「話をそらさないでください」

「あんまり大きい声ださないほうが身のためですよ。また記事にされますから。響きますよ、コンテストの決勝、二日後でしょう」

 白蘭は目をむきだした。

「よけいなお世話」

 そう叫ぶとにぎったフォークを、ふりあげた。尖端をボアンカにむけた。ニセ白蘭はいまにもボアンカを刺しそうな勢いだった。

まわりは傍観している。だれもとめようとしない。

「どうしてとめないの、ルドルフ、もうなにやって・・・・・・」

 千冬は顔色を変えている。ルドルフはいまなお白蘭もボアンカも目に入らないような顔をして、酒を味わっていた。白蘭はいまにもボアンカに危害をくわえようとしているのにだ。焦った千冬はみずからとめにいこうとした。そのときだった。

「白蘭さんのいうとおりです」

 ルドルフがグラスをおいていった。

「アレーさんが丁香さんを絶賛するはずがありません」

 いった人間が意外なら、いった内容も意外だった。みな動きをとめた。びっくりしてルドルフをみた。ニセ白蘭もとまった。フォークは宙で静止した。

「あの人はみかけよりずっと狡猾で卑劣です」

 ルドルフは丁香を指さしていった。

「あの人は、白蘭さんを悪者にみせて世の同情をかうために、弱者のふりをしています。それが丁香という人の常套手段なのです」

「なにを、デタラメを!」

 そういったのは丁香ではなかった。白蘭だった。ついさっきまで丁香を罵っていたくせに、丁香を悪くいわれたとたん、血相を変えて否定するとは、どういうことか。みなふしぎに思ったが、ルドルフはかまわずにつづけた。

「蘇丁香という人は本質的に卑劣です。売れない女優時代は、こんなことがあったときいています――丁香さんはある劇団でわりといい役についたのですが、あとから台本に変更があり、歌がくみこまれた。でも丁香さんは歌が下手だった。だから監督は歌だけは代役に舞台裏で歌わせることにした。それをあの人はよしとせず、代役に表ではいい顔をして、裏ではひどいいじめをしたといいます」

 はりつめた空気がテーブルにただよった。スープにかわってとうにマンダリン・ドリアが運ばれていたが、手をつけるものはひとりもない。

 ルドルフめ、また悪いくせをだしやがって、とハルトンは胸中で舌打ちをした。

 いったい、なにを考えているのだ。事前にボアンカとともに白蘭を挑発するようにいいふくめておいたにもかかわらず、白蘭の肩をもち、丁香を攻撃するとは。

 それにしても白蘭のようすは変だ。

「ひどい中傷です」

 ただならぬ口調でルドルフに抗議している。

「だれがいったい、そんな中傷を。丁香は歌は上手です! 下手じゃありません」

 ルドルフはニヤッとしていった。

「これはめずらしい、丁香さんをかばうんですか」

 白蘭はハッとした顔をし、狼狽していった。

「か、かばってなんかいません・・・・・・私は事実をいったまで、です」

「それにしては顔色が変わってますよね、当の丁香さんよりも。――なぜですか?」 

 ルドルフは意地悪い目でみた。ニセ白蘭は蒼白になっている。

「なぜ血の気がひいてるんですか?」

 ルドルフがニセ白蘭にせまった。そのときだった。

「いや白蘭さんの真意がわかりましたわ」

 ふいにハルトンが大声をはりあげた。白蘭はぎょっとした顔になった。

「表面はつれない態度をとって、いざとなればかばう。相手が好きでなきゃできないことですとも」

 ハルトンはきゅっと笑った。これはどうしたことだろう、ニセ白蘭を怒らせ暴挙にださせたかったはずなのに、ハルトンみずから白蘭の肩をもちだすとは。

 実はハルトンはいまのルドルフの言葉をきいて、ニセ白蘭の正体は丁香だと確信するにいたった。ルドルフの最後の質問にたいするニセ白蘭の反応で、憶測は確信にかわった。

 呵呵大笑し、

「新聞記事はやっぱり、でっちあげでしたな。白蘭さんと丁香さんは真の親友同士、一心同体ということですかな?」

 ハルトンは「一心同体」という言葉に力をこめていった。ニセ白蘭はそれに気づくよゆうはなく、救われたようにいった。

「そのとおりです」

「いかにも、白蘭さんと丁香さんは、一心同体だ」

 ハルトンはもう一度「一心同体」という言葉に力をいれた。

「それがわかっただけでもよかったろう、ルドルフ」

「いえ私は」

 と、なにかいいかけたのを制して、

「この甥は――こんないいかたをしては失礼ですが――白蘭さんをためしたんですな。丁香さんの過去をでっちあげたりしたのも、どこまで否定するかみようとしてのことだったんでしょう。まったく人の悪いやつです。そんなことをしなくても単刀直入におふたりの仲についてきけばよいものを。いやお気を悪くされたでしょう、私からもおわび申しあげます」

「いえ、おわびなど」

 といったのは丁香だった。いや、丁香になりすましているべつの人間だった。これは丁香の仲間で、狐仙茶壷の効果で丁香と寸分たがわぬ外見に変身した日本特務に所属する日本女性であったが、

「むしろお礼をいわせてください。私も白蘭の真意がわかって、うれしく思います」

 と、しおらしく頬を紅にそめてこたえている。

「お礼などとんでもありません。ルドルフがまたつけあがりますしね。それより召しあがってください。みなさんもどうぞ、せっかくのマンダリン・ドリアが冷めてしまいますよ」

 みな我に返ったようにフォークとスプーンを動かした。やがて夕食会の席はふたたび、なごやかな笑いにつつまれた。

 ハルトンは満足顔だった。これで夕食会の目的のひとつは達せられた。

 同席の白蘭をニセモノと確信できたのみならず、ルドルフの思わぬ働きで、その正体が丁香らしいとあたりをつけることまでできた。

 あとは、巧月生だ。

 これがまた、いまのところまったくニセモノらしい言動がない。

 どうやって攻めるか考えていると、ボアンカの声がきこえた。

「最初なにかと思いましたよ、ルドルフが『白蘭さんに賛成です』といったときは。――でもいまは感謝してます、あれがなかったら私は彼女に暴力をふるわれていたところですからね」

 ボアンカはなおもニセ白蘭を挑発することをいっている。

 ニセ白蘭は膜のかかったような目でみかえした。

 空気は凍りつき、ふたたび一触即発の事態がおきるかと思われた。

 が、みなの予想に反して、白蘭は応酬しなかった。するだけの気力がなかったのである。

 このときニセ白蘭は、白蘭を演じるよゆうすら失っていた。ボアンカの言葉など、ほとんど耳に入っていなかった。いまごろになってハルトンの「一心同体」の意味に思いあたり、しくじった、と思ったせいもある。

 が、それよりなにより、ニセ白蘭――丁香は過去を暴露されたショックからぬけきれずにいた。

 売れない女優時代の話はいちおうこの場では「ルドルフのでっちあげ」ということになったが、でっちあげどころかすべて真実なのは自分がだれよりもよく知っている。

 だからルドルフが知っていたこともショックだし、あろうことかハルトンのまえで、しかもサッスーンハウスという高級の場所で、不特定多数の耳を前にしてその話をされた、ということは大いに打撃だった。

「よかった。一時はどうなるかと思ったけど、ルドルフのやつ、なんとか義務を果たしてくれた」

 千冬はほっとした顔を夕子にむけた。

「おかげでニセ白蘭の正体も見当ついたよ」

「やっぱり・・・・・・丁香ちゃん?」

 夕子は青ざめた顔できいたが、

「だね」

 千冬はにこにこ顔でうなずくと片手をあげて、

「すみませーん」

 と上機嫌で給仕をよんだ。その声の大きさにびっくりした夕子は反射的にむこうのテーブルにたいして背をむけた。千冬の声で注意をひかれたニセ白蘭の目が自分にむけられることを、おそれたのだった。ニセ白蘭――丁香は、千冬とここにいる自分に気づいたら、どう思うだろう? ただですむとは思えない。そのとき千冬が店員にむかっていった。

「赤ワインふたつ、おねがいしまーす」

 声が大きい。うかれて自制を忘れているようだ。案の定その声はむこうのテーブルに届いていて、ひとりの関心をひいた。巧月生だった。正確には花齢巧である。花齢巧は千冬をみても驚かなかった。同じ作戦仲間だからだ。が、夕子をみると目をひろげた。くるのを知らなかったからである。夕子は顔を隠し、背中をむけていた。花齢巧の目は鋭くなった。夕子の背中をにらんだ。巧の表情はさっきまでとは別人のようになった。

「いやまったくグランプリは、だれがとるかわかりませんな」

 ハルトンはおだやかにいった。

「なるチャンスはここにいるご三方にはもちろん、花園にいるほかのファイナリストたちにも、ひとしくありますからな」

 すると巧が突然テーブルに身をのりだしていった。

「そんなことはない、と思いますよ」

 さっきまでとはちがう、鋭い語気だった。

「栄冠をかちとるのは、たったひとりしかないと思いますがね」

 挑発するようにハルトンをみた。急にどうしたのか、鷹揚な巧らしくもない。これはニセモノのにおいがするぞ、と思ったハルトンは心中勇躍して、

「ほう、どなたです?」

 探るための問いを発した。だれとこたえるかでニセモノか判別できる、と思ったのだ。

 はたして巧はいった。

「白蘭でしょう」

 反撃への準備は万端といったふうに両腕をたて、かまえている。

「ひいきがいるとちがいますな。予想をたてるのに迷いがない」

 ハルトンが刺激すると、巧は目をすわらせていった。

「単なるひいきとはちがいます。私は白蘭を優勝させるために本気で戦ってきたんです」

 まるでスポーツの監督みたいな発言だが、巧がいうと、文字通りドンパチありの戦いをしてきた、という意味にうけとれる。本物なら、こんなことはいわないだろう。そう思いつつハルトンはいった。

「優勝した者にしか、その喜びはわからないといいますからな。一介の観客にすぎない私にも魅力ですよ、グランプリの栄光は」

「それと賞品も、でしょう。いっておきますが、私のねらいはそっちなんですよ」

 よくもいったな、とハルトンは思い、目の奥を光らせた。

 ミス摩登の優勝賞品「鳳凰のかたちをした茶器」が三霊壷の鳳凰茶壷を意味することを、ハルトンは知っていた。

当たり前だ。鳳凰茶壷を正賞にしたのはハルトン自身なのだ。正賞を決める役員会議で、ハルトンは自分の意見が採用されるよう、事前に根回しした。もとより三霊壷のことは一切口にせず、正賞はハルトン所有の年代物の骨董品にしたいので、その旨たのむ、といってまわったのだった。ハルトンが提供してくれるものなら予算がかからないということで、だれもあえて異議はとなえなかった。そうしてハルトンは正賞のいっさいをとりしきる係となった。

いかにもリラダン事件当日に鳳凰茶壷を盗んだのはハルトンだった。彼は爆破される寸前のリラダンから三霊壷のうちひとつだけは盗みだしたのである。

 しかし残りふたつ――狐仙茶壷と麒麟茶壷は逃した。ハルトンはそのふたつを手に入れたかった。「六神通」をモノにするためにも、狐仙と麒麟それぞれの特殊な能力をモノにするためにも。

 ボアンカによると、狐仙は変身を可能とし、麒麟はどんな言葉でもしゃべれるようにするという。それにくらべて鳳凰茶壷の能力はなんとも興ざめなものだった。その茶をのむと、慈悲深くなれるというだけなのだ。

 ハルトンはそんな茶に用はない。いま慈悲深くなどなったら、むしろたいへんだ。二茶壷を奪う気がなくなってしまう。

 二茶壷は日中どちらかが持っていることはまちがいなしと思われた。ミス摩登コンテストはハルトンにとってそのふたつを引き寄せる手段だった。そのためにコンテストが生まれたわけではなかったが、IAA副会長であるハルトンは、会長をはじめほかの役員にはわからないように、自分の立場を最大限に利用して宝探しをしていた。

 適当な理由でみなを納得させ、正賞を「鳳凰のかたちをした茶器」などにさせたのも、そのためだ。

 三霊壷は三つそろわなくては六神通は発揮できない。「鳳凰のかたちをした茶器」――すなわち鳳凰茶壷と匂わせれば、残り二茶壷をもつ人間は必ずひきよせられる、とみたのである。

 はたして、もくろみはあたった。日中ともにスパイらしき娘をそれぞれコンテストに送りこんできた。こちらはそれを承知で予選に通過させ、ファイナリストにした。

 あとは日中どちらが二茶壷の所持者かみきわめるだけだ。

 それには両者を競わせ、できるだけボロをだすようにしむけ、場合によっては相打ちにさせる必要がある。そのための人員をハルトンはあらゆる場所にひそませていた。合宿所にもハルトン子飼いの娘をひとり送りこんでいる。

 その娘を使って合宿初日に「麗生はリラダン事件の実行犯」とIAAに密告させたら、さっそく動きがあった。

 蒼刀会は密告者を日本娘と思いこみ、ファッション・ショーで小山内千冬に恥をかかせるという行動にでた。

 だが日中どちらもボロをだすという結果にまではいたらなかった。二茶壷の所有者はわからずじまいだ。

 そのせいかハルトンは今夜巧の長袍をみたとたん、その模様が鳳凰であるのが気になった。(夕子は模様を鳶と思いこんでいたが、実際は鳳凰だった。)わざわざその長袍を着てきたのには深い意味があるように思えた。ハルトンはいまこそ真意を探る機会だと、意を決していった。

「ほう、賞品がねらいとは。それで鳳凰の模様の長袍をお召しになってらっしゃるのですか」

 わざわざ冗談めかした口調でいったが、気を使う必要はなかった。巧はなんら悪びれず、

「やっとお気づきになりましたか」

 長袍の模様をみずからさして、はっきりこういったのである。

「たしかにこれは鳳凰の模様。私が優勝賞品に執心しているしるしです」

 人をくったような口調に、さすがのハルトンが唖然としたが、ともかくも期待どおりのこたえがえられたのはまちがいない。

「こりゃいままで指摘せず失礼いたしました。珍しいすてきな模様とは思っていたのですが」

「わかっていただけたんなら、かまわないですよ。賞品獲得にかける私の熱意をね」

「さっき白蘭さんを『優勝させるために本気で戦ってきた』とおっしゃってたのも、そういうわけでしたか」

「そうですとも。白蘭以外に優勝はありえません」

 まじめな口調でそういったかと思うと、急になれなれしい、だらしない口調になって、

「私が教育したんだから、まちがいないですって。――せっかくだから、この場で発表しておきましょうか」

 と、わけのわからないことをいいだした。なんの発表かときく間もなく、突然巧は白蘭を抱きよせ、頬に唇をぶちゅっとつけて、

「ごらんのとおり、私と白蘭は深あい仲です」

 そういってニヤリと笑った。一同あっけにとられた。

夕子と千冬も我が目を疑った。いったい巧さんはどうしたのか? あんな非常識なふるまいをハルトンの前でするとは。自分で自分の評判をさげるとは。白蘭と巧月生の評判をこれ以上下げないようにと龍平が口を酸っぱくしていったのをなぜ無視するのか。ルドルフが任務を実行したそばから、なにを考えているのだろう。巧廟記念式典の時も急におかしくなったときいたけど、いままたそのときみたいに変になったのだろうか。

――そうではなかった。巧は気がちがったのではなかった。

花齢巧はただちょっと息子の龍平に反発したくなったのだった。夕子の背中をみたのが原因だった。

花齢巧は夕子をみると、若いころの自分を思い出す。花齢――裕如莉は、器用な娘だったが、自分に自信がなく被害妄想癖があった。それでいてプライドが高く、だれよりもエゴイストだった。自分の悪いところが似ているのだ。だから夕子をみるとやな気分になることが多い。いまもそうだった。あの背中には、いじけ根性と、自分だけは安全圏にいようといったエゴがむきだしになっていて、虫唾が走った。破壊したくなった。

ただでさえ江田夕子には腹が立っていた。式典の前から白蘭になって贅沢とわがままのしほうだいで調子にのっていた上、アレーを裏切って茶壷を盗みだした。あの娘が茶壷を盗んだりしなければ、アレー――吉永は逮捕されなかったはずだ。茶壷が日本特務の手に渡ることもなかったはずだ。うらまずにはいられない。それでも今日ここに千冬といるのをみて、作戦の仲間に入ったらしいとわかったときは、江田夕子なりに反省したのだろうと考え、すこしは許す気になったものだった。

 ところが、みていると、あの娘はなにも変わっていない。作戦の役に立とうという気が感じられないどころか、この期におよんで人の目を気にしてちぢこまっている。江田夕子はそれだけの人間なのだ。なのに龍平ときたら、なにがいいのか、あの娘に好意をいだき、白蘭の評判を守るのに躍起になっている。母親として、まったく頭にくる。それで急に息子との約束を破って、白蘭の名に泥をぬろうと思いたったのだった。

もっとも龍平の作戦の肝心なところは守るつもりだ。ニセ白蘭はあざむく。茶壷のあるアジトはつきとめる。

でも白蘭と巧月生の名折れをふせぐのは、もうやめた。すでにいちど地位のおちた巧月生、いまさら恥をかこうが李花齢の知ったことか。

「みなさん、きいてください」

 花齢巧はヤケになったみたいにニセ白蘭を抱きしめていった。

「私はこいつをたっぷり教育したんですよ、あらゆる意味でね。だから優勝したら正賞を私にくれるといってるんです」

 そういってニセ白蘭の頬に巧の頬をすりよせた。

「白蘭は私のいうことなら、なんでもきくんです。――なあ? そうだよなあ。私のためなら、なんでもしてくれるんだよなあ?」

 巧は白蘭の体をなでまわし、弛緩した声をはりあげた。

「ええ」

 ニセ白蘭――丁香はうなずいたが、内心困惑していた。この巧月生の中身はほんとうに愛するあの人だろうか、という疑いがわいたのである。

たしかに私たちが白蘭と巧月生に変身して夕食会に出席した目的は、それぞれの評判をさげることにある。あの人――小山内駿吉は、コンテストの正賞を手にいれるため、私丁香をミス摩登にしなくてはならない。そのために今夜は白蘭を「ミス摩登不適格者」にしたてあげる必要がある。巧月生を悪人にする必要がある。

そうではあるけれど駿さんが事前に話した計画には、人前でいちゃつくというプランはなかった。駿さんはいくら計画のためでも、巧月生に変身してはいても、人前でこんな下品な態度をとる人ではない。

「白蘭さん、よろしいんですか。優勝したらほんとうに正賞をミスター巧にゆずるんですか?」

 ハルトンがきいた。ニセ白蘭がこたえる前に、巧がいった。

「ゆずるどころか、白蘭はよろこんで私に捧げたいと申してますよ。だいじょぶだいじょぶ、こいつは心身ともに手なずけてありますので」

 巧は淫猥な笑いをうかべた。ハルトンは苦笑をうかべていった。

「なるほど、降参です。そこまでなさってほかの人が優勝したら、もうくやしいじゃすまないでしょうな」

 すると巧はふたたび攻撃的な態度をとり戻し、

「ほしいものを手に入れるのに手段は選ばない、それが私、巧月生のやり方です。鳳凰が他人の手にわたったら自分のもとにみちびくまでですよ。でもたぶん鳳凰のほうから私をしたって飛んでくるでしょうね」

 人をくった発言をした。

「どういうことです?」

 ハルトンがきくと、巧は長袍の模様をみせてきいた。

「これをみたのに、わからないんですか」

「鳳凰ですよね」

「鳳凰といえばなんですか? 『鳳凰のかたちをした茶器』、つまり正賞ですよね。――ところで、この長袍の鳳凰は私の顔の陰でとんでいます」

 巧は長袍の模様の一部が陰になるように前かがみになっていった。

「鳳凰は私の顔のかげでとんでいる。ということはつまり、鳳凰は私のおかげでとんでいる、ということになります。ちょっと強引なようですが、お国のシェイクスピアの作品『十二夜』の道化の論法をかりたんですよ。道化は登場人物のヴァイオラにむかって、こういいます――『(あっしは)お寺のお蔭で暮らしてまさ』、『あっしはお寺の陰で暮らしている。つまり、自分の家に住んじゃいるんだが、それがお寺の蔭に建っているというわけでね』(小津次郎訳)と。その論法でいえば、鳳凰は私のお蔭でとんでいる、つまり鳳凰は私がいなきゃ生きていけない、ということになります。鳳凰は私からはなれれば、みずから私のもとにとんでくるでしょう」

 巧は得意げにいった。その一方で右手で白蘭の体をなでまわし、もみしだく傍若無人なふるまいに、さすがのハルトンも眉をひそめ、この巧は完全にニセモノだと断を下している。

 そもそも巧月生に英国文学の素養があるとはきいたこともない。

 この巧が体は本物、中身は李花齢で、文学の知識は欧州での教育、父の教育がものをいってるとは知らないハルトンは、対抗意識を燃やしていった。

「たしか鳳凰は、中国の古書には、こう書かれてますな――『生虫は啄ばまず、生草は折らず、群居することなく、猥りに飛ばず』と」

 巧のみだりな行動をとがめる意味もこめていった。すると巧は反発するようにいった。

「私はべつに自分が鳳凰だとはいってません、私は聖人ではありません。でも鳳凰のほうで私によってくるんですよ。鳳凰は私の意のままです。この美女とふたりで笛をふけば、すぐにとんできますしね」

 その意味がわかるか、という目をして巧はハルトンをみた。

 中国の古書にいう――「むかし、秦の穆公の娘の弄玉が笛の名人の簫史に嫁して高い楼の上に住み、そこで二人が簫を合奏すると鳳凰が舞いおりた」(『唐詩選(上)』岩波文庫註より)と。巧は穆公を自分になぞらえ、弄玉を白蘭になぞらえていったのだった。

 それくらいは、中国文化に造詣の深いハルトンにはわかった。そこでその内容を逆手にとり、意地悪い返しをすることにした。

「おりよくここは高楼で美女もいますが、いかがです、伝説の光景を再現されては?」

 いま白蘭と笛をふいて鳳凰を呼んでみろ、という意味でいったのである。すると巧はいった。

「再現したいのはやまやまですが、今夜は遠慮させていただきましょう。私は笛を用意していませんし、あったとしても決勝前に私と白蘭が仙人になって昇天しては元も子もありませんからね」

 鳳凰の伝説にはつづきがあった――「鳳凰が舞いおりると、二人とも仙人になって昇天した」というのである。

 うまく逃げられた、とハルトンは思った。が、この場はとりあえず、

「ハッハッハ」

 と、さも愉快そうに笑った。

「お楽しみは当日までおあずけですか」

 巧はそれにはこたえず、にわかに沈痛ともいえる表情をうかべ、

「なぜ私がそこまで鳳凰に執着するのか、ほんとうのところをいっておきましょう、誤解をさけるためにも」

 おもむろにいった。

「中国の古書では、こうもいいます。鳳凰は『羅網に罹らず、桐にあらざれば栖まず、竹の実にあらざれば食わず、醴泉にあらざれば飲まず、飛べば群鳥これに従う』と。

 私はこのなかの『飛べば群鳥これに従う』という言葉に希望をたくしたいのです。

 『飛べば』――つまり白蘭がミス摩登となって私が賞品を手にいれれば、『群鳥』――いったんは私たちから離れていった人たちが、『これしたがう』――ふたたび集まり、ついてくるだろう、と。私の真の望みは、失ったものをとり戻すことにあるのです。そのためにはどんなことがあっても白蘭に優勝してもらわねばなりません」

 声には哀感がこもっていた。片手は相変らずいやらしく這わせていたが、ニセ白蘭の表情はむしろうっとりとしたものに変わっている。

 愛撫に感じいったのではない。

 「駿吉」のペダントリーに恍惚となったのだ。

 いちどは巧月生の正体を疑ったけど、やっぱり中身は駿さん。こんな芸術的な会話は駿さんじゃなきゃできない、さすがは軍人でありながら文人でもあるおひと。

 こうなったらどこまでも駿さんについていこう、と丁香は思った。

 私だけ過去を暴露されたショックをいつまでもひきずってるわけにはいかない。彼にこたえる働きをしよう、暴れよう、と丁香は意気をあげている。

「なあ、優勝するんだよな?」

 と巧に同意を求められると、ニセ白蘭はうれしくて、「うん」とうなずいて、それまで恥じらっていたのがウソのように片手を巧の背中に這わせ、みずから唇をさしだして、巧の唇にすいついた。

 一同息をひいた。

「もうみてられないですね」

 口をきったのはボアンカだ。あきれ顔でふたりをみすえ、

「ちょっといわせてもらっていいですか?」

 白蘭と巧のあいだに割りこむようにしていった。

「白蘭さんが優勝するってきめつけてるみたいですけど、トップ2に失礼じゃないですか?」

 ボアンカはトップ2のロレーヌと丁香に同意を求めようとした。ニセ白蘭がさえぎるようにいった。

「ボアンカさん、あなたトップ2となんの関係があるんですか」

「は?」

「ボアンカさんは部外者ですよね、いや、そうでもないんでしたっけ。そういえばボアンカさんはミス摩登コンテストに一次予選落ちしたんでしたっけ。それにしてもよく書類がとおりましたよね。年をごまかしたんですか」

 ニセ白蘭はふたたび暴走している。ボアンカは反発した。

「ごまかしてません。いっときますけど書類はバカじゃとおりませんから。書類もださず、厳しい予選もうけず、とびいり参加した人にはわかんないでしょうけど」

 白蘭は目をつりあげた。こぶしをにぎって叫んだ。

「私がバカだって、いいたいんですか?」

 いまにもこぶしをふりおろさんばかりだった。千冬は顔色を変えた。ルドルフはなにをやっているのか。我関せずといった顔でスライスした肉をほおばっている。自分の仕事はさっきで終わりとでも思っているのだろうか。これは今度こそ私がいってとめることになりそうだ、と思って千冬が腰をうかしかけたときだった。

むこうのテーブルの上をなにか白いものがサッと横ぎった。それはボアンカの顔に衝突した。床におちた。ころがって、ひろがった。みると、ナプキンだった。くしゃくしゃに丸められてあったのだ。投げたのはニセ白蘭だった。

千冬は愕然とした。

 やられた、まにあわなかった・・・・・・。

 夕食会のテーブルは水をうったように静まりかえった。ニセ白蘭は一同をみわたしてニヤッと笑った。立ちあがって、いった。

「本日はすてきな晩餐、ありがとうございました」

 ボアンカは怒りと屈辱で蒼白になっている。その顔の前で、白蘭はワイングラスをたたき割った。血のような液体と破片が、ボアンカの「子牛のシュニッツェル フランス豆、馬鈴薯、にんじん添え」にかかり、ぐちゃぐちゃにした。

「ごちそうさま」

 床にこぼれおちた破片をヒールでふみにじって帰りかけたが、ふっとふりかえって、

「巧さんも帰るわよね?」

 なれなれしく巧によびかけた。目に艶笑がうかんでいる。

 巧は断わらなかった。それどころか、

「いこうか」

 立ちあがり、みなにわびもせず白蘭の手をとった。

「あ、そのまえに巧さん、もったいないでしょう。残った飲みもの、テーブルの肥やしにしてあげたら?」

「うむ」

 一瞬ためらいをみせた巧だが、俄然悪相をあらわして白蘭の行為を再現してみせた。ナプキンこそ投げなかったものの、グラスをひっくりかえして派手にテーブルを汚したあげく、

「気分はどうです、ハルトンさん」

 人をくった言葉を投げつけ、悠々と白蘭と手をとりあって去っていった。

 口をあんぐりとあけたままなのは、一座の者だけではない。

 自慢の料理をめちゃくちゃにされた従業員をはじめ、店内のだれもが厚顔無恥なふたりのふるまいに茫然としていた。

 いまや話し声はきかれず、ただむなしく生演奏のしらべと、ジリリリという電話の音のみが鳴りひびいている。

「・・・・・・待って!」

 沈黙を破ったのはひとりの娘だった。娘は席を立ち、出口めがけて走りだした。いまにも姿を消さんとするふたりを追って、

「待ってください。コースはまだ途中です、話も終わっていません、待ってください」

 叫んだ。

 が、ふたりはふりかえりもせず、娘を無視してエレベーターにのった。

 娘は断念して戻ってきた。いかにも意気消沈したようすで席に戻ったその娘はロレーヌだった。ロレーヌはミス摩登最終選考会にむけてすこしでも自分のカブがあがるよう、人まえで正義感をアピールするのが目的だったらしい。

「私たちもひきあげるよ」

 千冬は夕子にささやいた。

 ふたりとも顔がひきつっている。

 ニセ白蘭は最終選考会二日前にひどいことをしてくれた、と夕子は慄然としている。

 千冬にとっては、巧とニセ白蘭のすぐあとに店を出るのは最初の計画どおりなのだが、どこか不本意という感じがぬぐえないのはむろん、あのふたりの退出が最悪のかたちでおこなわれたからだった。

 これでは一得一失だ、と千冬は唇をかむ。

 作戦はひとつ失敗した。巧と白蘭の名を守れなかった。

「こうなったら、あのふたりの尾行に全力をあげるしかない」

 千冬はみずからをはげますようにいい、夕子の腕をとって店をとびだした。

 

「会長」

 花齢巧はニセ白蘭とエレベーターをおりるなり、呼びとめられた。そこは一階だった。目の前に六人の蒼刀会員が立ちはだかっている。うちひとりがいった。

「お車はあちらにとめてございます」

 そのような手配をしたおぼえはない。だいいち六人の顔にみおぼえがなかった。警戒して、

「いや、送りは不要だ」

 と断ると、

「そうは参りません」

 慇懃だが有無をいわせない声で男はいった。従うわけにはいかないので、

「なぜだ」と強い語調でいうと、

「私たちは会長の命令に従っています」

「会長は私だ。なにをいっている」

「あなたはニセモノ。私たちがしたがうのは本物の会長の命令です」

 花齢巧は瞠目した。

「無礼な。自分たちがなにをいっているか、わかっているのか」

「その長袍が証拠です。本物の巧会長は模様のない銀鼠色の長袍をお召しになってらっしゃいましたが、あなたは黒地に金の鳳凰の模様の長袍をきておられる。それこそニセモノの証拠だと本物の会長はおっしゃいました」

「・・・・・・ニセモノはそいつだ、そいつこそニセモノだ」

「話はあとにして車に乗ってもらいましょう」

 花齢巧は気づいたら六人にかこまれていた。六つの銃口の感触が衣服をとおしてつたわってきた。観念して花齢巧が歩きだしたときだった。

「この巧さんは本物です」

 白蘭が叫んだ。

「わからないの? あなたたち蒼刀会員ですよね?」

 六人は思わず足をとめた。

「ニセモノ呼ばわりするなんて、気でもちがったんですか?」

 凛烈たる声だった。ふだんの白蘭からは想像もつかない声である。六人を毅然とみわたした。だがニセ白蘭は内心はびくびくしていた。ニセ白蘭はつれの巧の中身を駿吉と信じていた。だから男たちにニセモノといわれた瞬間、心臓が凍りつきそうになった。

六人の男たちは本物の巧が手配したものと考えた。本物の巧はニセモノが夕食会に出席したと知って、ニセモノをつかまえようとこれら六人の男をつかわしたにちがいない。ここは、なんとしてもきりぬけなければならない。いま愛する人を守れるのは自分しかいない。そう思ったからニセ白蘭は「駿吉巧」を本物とおしとおすことにきめ、必死の弁舌をふるいだしたのだった。

六人の男たちがまさか駿吉巧の手配した自分の味方とは想像もしなかった。

「大恩ある会長にさからったりなどして、ただじゃすみませんよ。それでもあなたたちは無礼な行動をやめないつもりですか?」

 男たちはだれもいい返さなかった。いや、返せなかった。母親に叱られた子どものように萎縮して、自分たちがまちがっているような気になってきている。冷静にみれば、目の前の人がニセモノの巧月生だとはとうてい思えない。どうみても本物だ。長袍だけをみてニセモノときめつけていいのだろうか?

「この世に巧さんのニセモノがいるとするなら、あなたたちに笑止な命令をふきこんだ男がそれです」

 そういわれてみれば、そうかもしれない。男たちは判断に苦しむ顔になった。さっきの巧月生がニセモノだとすると、自分たちが邸から送ってきた巧月生がニセモノだったということになる。巧邸にいた巧月生がニセモノだったなんて、ありえるだろうか。姿も声も巧月生そのものだったというのに。あっちが本物なら、こっちがニセモノということになる。しかしニセモノという証拠は長袍だけだ。わからない。そもそもさっきの巧といまの巧と、ちがう人間なのだろうか。自信がなくなった。

「ひとつ会長に質問が」男のひとりがおずおずときりだした。

「会長はさっき銀鼠色の長袍をお召しになってらっしゃいませんでしたか? あとからいまの長袍にお着がえになったのでは・・・・・・? ――といいますのも、さきほどお会いした会長といまの会長とが別のお方とは思えなくなって参りましたので・・・・・・」

 巧の目が光った。

「着がえをして、私がおまえたちをからかっているとでもいうのかな」

「いえ、そういうわけでは・・・・・・」

「おまえたちは銀鼠色の長袍を着たやつが本物で、私をニセモノの巧月生というのか」

「いいえ」

 男たちはいった。目の前の巧月生が本物であった場合、たいへんな目にあうだろうことは、自分たちがいちばんよくわかっていた。次の瞬間、六人は潔く頭をさげていった。

「会長をニセモノよばわりなどして、申しわけございませんでした」

「では二度と私をニセモノなどと呼ばないな」

「はい、けっして。・・・・・・おわびのしようもございません」

「わびならできる。ニセモノをとらえるのだ。その銀鼠色の長袍を着たやつはいま、どこにいる」

 花齢巧はいって目を光らせた。

「パレスホテルの六階にいると、いい残していきました」

 男のひとりがこたえた。ほかの男たちも次々と口をひらいた。

「ただ、建物の内外には、我々とはべつの会員たちが十名ほどはってます」

「どうやらアレー派の面々で、くわしいことは我々に話したがりません」

「そいつらを味方につけるか、場合によっては捕虜にして、ニセモノをしとめろ。それとおまえたちにいっておくが、そこにはアレーがいる。・・・・・・いや、そういう気がするんだ。部屋に入ったらアレーを味方につけろ」

 目を白黒させる六人に、花齢巧はあごをしゃくっていった。

「わかったら、さっさとパレスホテルに行け。私の邪魔はするな。白蘭とふたりで帰る」


「どうやってなかに入ろうか」

 千冬と夕子はとほうにくれている。

 ここはフランス租界、ドッグレース場『逸園(カニドローム)』にほどちかい路上だ。

 ふたりはサッスーンハウスから、ニセ白蘭と巧の乗ったタクシーを、別のタクシーで追いかけてきた。

ニセモノについていけば、変身を可能とする茶壷のありかがわかる、と千冬は夕子に教えた。千冬がアレーの茶壷のことを知っていると直接きいたことで、夕子はあらためて驚いた。それどころか千冬は三霊壷の知識まであるとは、三霊壷の知識のない夕子はいまだ知らずにいる。

ただ千冬は、二茶壷がニセモノの手にわたった経緯はよく知らないようだった。白蘭と夕子が同一人物ということも、探りをいれたが、知らないらしい。

 ニセ白蘭と巧は逸園でタクシーをのりすてた。歩いてドッグレース場に入るとみせかけてアヴェニュー・アルバの混雑にまぎれていった。千冬たちもタクシーをおり、徒歩で追いかけた。

 ニセ白蘭と巧はやがて一軒のアパートのなかに入っていった。アパートといっても前庭つき、アールデコ調の四階建て、夜目にはみえないが壁面に花や雲の彫刻のほどこされた高級住宅である。

「これが丁香ちゃんのアパート?」

 夕子はいった。千冬とふたりで敷地をかこむ垣根の外に立っている。

「ううん。丁香のアパートとはちがう。これはたぶん日本特務のアジトだよ」

 千冬はいった。丁香が日本特務ということを前提にした口ぶりだ。

「こんな場所にいたら、怒られないかな」

 夕子は不安そうにいう。さっき守衛にとがめられたばかりだ。もっともさっきは敷地内にふみいれたから当然だった。守衛は侵入者をみるなりとんできて、「おじょうさんたち、何号室になんの用?」ときいてきた。千冬がしかたなく「白蘭さんをたずねに」とこたえると、守衛は目の色を変え、「白蘭なんて人は、このアパートにいない」と凄い剣幕でしめだしたのだった。

「あれは絶対なんかあるね。守衛は白蘭がいるの知ってるよ」千冬はいった。

「やっぱりそうかな」

「ニセ白蘭がきっと守衛にいいふくめてるんだよ。特定の人間以外は『いない』といってしめだすようにって」

「それならまずいよね」

 夕子は一刻も早く立ち去りたそうにいった。ニセ白蘭の正体が丁香ということだけでも恐怖なのだ。逃げ場がないかと周囲をきょろきょろみわたしたが、百メートル北はフランス租界公薫局の巡査がものものしく警備にあたっている。逸園前に高級車がならび、着飾った紳士淑女がひっきりなしに出入りしているためだ。でも巡査もこのあたりまではきていない。東側にゆっくりできそうなカフェがあった。『SWEET SHOP』のネオンが光っている。

「あの店にいかない?」

 夕子はいった。千冬もそっちをみたが、

「あそこからじゃなあ」

 万が一のときまにあわない、と思った。ニセ白蘭の部屋でのことは巧にまかせてあるが、いつなにがおこるかわからない。そばでみはっているように、と龍平にいわれていた。丸腰でも役に立つことはある。

「カフェに行きたかったら、行ってもいいよ」千冬は夕子にいった。

「手が必要になったら、あとで呼ぶから」

「え、でも・・・・・・」夕子は戸惑った。

「気にしなくていいよ。ふたりよりも、ひとりのほうが、みつかりにくいし身軽だし」

 そういわれて夕子はむっとした。自分が足手まといといわれたように思ったのである。私にだって役に立ちたい気持ちはある。ルドルフに負けないためにも手柄をあげたい。なのに千冬は任務を与えてくれないどころか、作戦の具体的内容すらろくにうちあけてくれない。それもこれも自分が江田夕子だからだと思う。千冬は私を江田夕子とみて、みくびっている。私が白蘭だったら、千冬の態度はぜんぜんちがったような気がする。作戦の内容だってぜんぶ話しただろう。相談さえしてきたかもしれない。

「ねえ夕子、行ってきなよ。遠慮しなくていいって、あとでちゃんと呼びにいくから」

 せかす千冬を夕子は強い口調でさえぎった。

「話があるの」

「なに、話って。いまじゃなきゃだめ?」

 迷惑そうにいわれ、夕子の意気はあがった。決意をかためていった。

「うん、いまいっとかないと」

「なんの話?」

「白蘭の秘密」

「なに」千冬の表情が変わった。

「どんなこと?」

「白蘭の正体って知ってる?」

「ニセ白蘭の正体? そりゃあ丁香――」

「そうじゃない。本物の白蘭だよ。白蘭ってほんとはこの世に存在しないって、知ってた?」

 千冬は瞠目した。夕子は得意になっていった。

「ある人が茶壷を使って変身してるんだよ」

「ある人って・・・・・・?」

「すぐには信じないだろうけど」

 夕子がいおうとしたときだった。ドッグレース場から幾度目かのレース開始のベルと嵐のような喚声が流れてきた。夕子は唾をのみこみ、息を大きく吸って、音にまぎれるようにしていった。

「あのね、白蘭の正体は江田夕子、私なんだ」

「・・・・・・なにいってんの」

「ほんとだよ」一度告白すると、ふっきれた。はっきりいってやった。

「私が白蘭に変身してたんだよ」

 千冬は唖然とした顔でいった。

「ウソでしょ?」

「ウソじゃない」

「ちょっとお・・・・・・」

 冗談でしょ、とは千冬はいわなかった。夕子の目にウソがないのをみてとったのだ。

「くわしい話しようか。でもここではできない。カフェだったら」

 千冬は断るかと思いきや、

「わかった、行こう」

 と、力んでいった。自分の任務を忘れたような顔をして、『SWEET SHOP』めざして夕子の手をひっぱった。


 こちらはパレスホテル六階のスイートルーム。時間は半時間以上さかのぼって、ニセ白蘭たちがタクシーでサッスーンハウスをでたころのこと。

「・・・・・・!?」

 ニセ巧は、アレーの正体をみた驚きを、あやうくおもてにあらわすところだった。隠し持った小壜の白茶を、アレーにのませたあとのことである。さっき交換条件で銃をおろしたあと、アレーはしばらく窓に注意をむけた。そのすきにニセ巧はアレーのグラスに白茶をそそぎいれた。そうとは知らずにアレーは白茶入りのカクテルをのんだ。白茶は狐仙茶壷でいれた白茶で、変身を無効にする力がある。アレーがもとの姿に戻るさまを、駿吉巧は固唾をのんでみまもった。正体は吉永義一のはずだった。

――ところが、吉永義一にはならなかった。アレーはべつの人間になった。李龍平である。

「・・・・・・」

 さすがの駿吉巧も息をのんだ。アレーの正体は李龍平だったのか。吉永義一ではなかったのか。いったいどういうことだ? わからない。しかしいつまでも考えているわけにはいかない。いまはただこの現象を利用して、ここから脱出する方策を練るべきだ。駿吉巧はもちまえの冷静さをとりもどして思考を働かせた。――現状をどう利用すべきか?

 幸い李龍平は自分がもとの姿に戻ったことには気づいていない。まだアレーのままだと思っている。窓ぎわに立たせたらどうだろう。外の蒼刀会連中に李龍平が部屋にいることをみせるのだ。いるはずのない李龍平がいるのをみれば、やつらは異常発生とみて、必ずあがってくる。部屋にとびこんで李龍平を捕えようとするにちがいない。私はそのすきに逃げられる。

なかなかいい考えだ。だがこの作戦を成功させるには、李龍平に自分がアレーの姿のままだと思わせつづける必要がある。李龍平はもとの姿に戻ったと知ったが最後、外の連中に姿をさらさなくなるだろう。李龍平に鏡をみせてはならない。自身の体をみせてはならない。歩かせても、しゃべらせてもだめだ。歩けば体が軽くなったことに気づき、アレーの体でなくなったことに気づくだろう。しゃべれば声の変化に気づくだろう。もとの姿に戻ったと気づかせてはならない。窓に行かせるまでは、李龍平の注意を自分自身以外のものにむけさせる必要がある。かつ、口をきかせないようにさせる必要がある。そんなことが可能か? どうすべきか。思案の末、駿吉巧はいった。

「かれこれ五十分になるか」

 ねらいどおり李龍平の注意は駿吉巧にむいた。駿吉巧は間髪をいれずいった。

「使いのやつ、まだ帰ってこないのか。そろそろ戻ってもらわないと困るな。あんまり遅いと、私がウソを教えたと思われる」

 五十分前、駿吉巧は龍平アレーに「茶壷の所在地情報」を教えた。いま「ウソを教えたと思われては困る」といったが、教えたのはウソだった。だが龍平アレーはその情報を信じたらしく、その場所に使いをだした。それが往復に二十分もかからないはずだが、まだ帰ってこなかった。

「ほんとうに使いをだしたのか。それとも私の情報ははじめからウソとみて、だしたふりをしたのか」

 駿吉巧は龍平にこたえるすきを与えず、ひとりでしゃべりつづける。

「さては別の情報源があるか。白蘭かな。あるいは白蘭もニセモノとみて、そっちを追わせてるか」

 白蘭がニセモノとみずから口にしてしまったが、背に腹はかえられなかった。いまは龍平の注意をひくことが最優先だった。龍平がなにかこたえようとしたが、急いでさえぎった。

「ニセ白蘭のあとをつけてもムダだぞ。そっちに茶壷はない」

 龍平は瞠目した。よし、この調子、と駿吉が思ったときだった。龍平がポケットに手をいれた。煙草を吸おうとしている。駿吉はあわてた。まずい、やめさせなくては。煙草を吸えば手が視界に入る。アレーの毛むくじゃらの手が、すべすべの手にかわってるのをみられてしまう。駿吉は急いで言葉をついだ。

「わけを話すから、耳をかしてくれ。そう、もっと近くに」

 龍平をそばによせて煙草を吸えない状態にしてから、

「よし、話そう。ニセ白蘭のあとをつけてもムダなわけを。――実はな、あれのところにある茶壷はニセモノだ。実は今朝までは本物があった。私がおきかえたんだ。こうみえても私は迷信家でな。朝おきると鳥影がさしたんで、あれの隠れ家に茶壷めあての人間が訪問するような気がしてな。おちつかないんで、あれに内緒でニセモノとすりかえておいたんだよ」

 この話は李龍平に予想どおりの衝撃を与えた。駿吉はデマカセでもって、煙草を忘れさせることに成功した。だがこんなやり方がいつまでもつづくとは思えないし、つづけるわけにもいかなかった。駿吉巧は脱出したかった。だからいった。

「本物の茶壷は、私がさっきおまえに教えた場所にこそある。それにしては使いの帰りが遅いようだが、それについては思いあたることがある。話そう――実は茶壷には、他人が簡単にもちだせないような細工がしてある。そのときの天候の具合に関係した暗号のようなものだが――ここでいうより、空をみながら話したほうがわかりやすい。おまえもすぐにのみこめる。そこの窓にいこう」

 龍平がなにかいおうとするのをさえぎっていった。

「信じてほしい。妙なまねをする気はない。どうしても信じられないというなら、もう一回銃をむけてくれていい」

 銃口がふたたびニセ巧のこめかみにあてられた。それこそ駿吉のねらいにかなっていた。この状態で窓べに立てば、下の連中はどうみるか。アレーのかわりに李龍平がいて巧月生に銃をつきつけている。たとえそれがニセモノの巧月生だと思ったとしても、無視はできないだろう。異常事態だと思うだろう。蒼刀会の連中はとんでくるにちがいない。

駿吉巧は龍平に銃口をあてられたまま、窓にむかって歩きはじめた。ふたり二人三脚の要領で移動する。そのあいだも龍平の全注意を自分に集中させ、体の変化に気づかせないようにするため、駿吉巧はわざと足をもたつかせるなどして気をもませた。もとより口をきかせるよゆうも与えなかった。そうやってふたりはやっと窓の前に到着した。

 駿吉巧は深呼吸した。カーテンを一気にあけようと手をのばした。瞬間、ハッとなった。あるまじきことだった、駿吉は夜の窓が鏡にもなることを忘れていた。気づいたときには、李龍平はガラスにうつった我が身を視界に入れていた。

「あ!」

 と龍平が叫ぶのと、駿吉巧がカーテンをひらくのと同時だった。

 間一髪だった。地上の蒼刀会員たちは、いまこの部屋に李龍平がいるのをめざとく発見しただろう。不審に思い、まもなくあがってくるだろう。ほっと息をつきかけたのもつかのま、地上をみおろした駿吉巧は愕然とした。――いない。

地上で待機してるはずの蒼刀会員がいないのだ。さっきはいたのに、いまはひとりもいない。窓をみてホテルに入ったのではなく、カーテンをあける前から、いなくなっていたようである。いったいどこへ? 不吉な予感がした。駿吉巧は血の気をひかせた。そのときだった。ドアを荒々しくたたく音がした。

「アレーさん、アレーさん!」

 ドアの外でだれかが呼んでいる。李龍平はこたえなかった。自分がアレーでなくなったことを知っただけに、ためらうのは当然といえた。

 外の男は返事がないとみると、ドアをあけておどりこんできた。鍵ははじめからかかっていなかった。男は入りながらいった。

「アレーさん、そこにいる巧月生はニセモノです」

「わかってる」

 反射的に龍平はこたえて、ハッとした。自分がもはやアレーの姿でないことを思いだしたためでもあり、入ってきた蒼刀会員が自分の知るアレー寄りの人間でないのをみて驚いたためでもあった。龍平は巧にむけていた銃口を思わず、いま入ってきた男にむけた。

 ドアから入ってきた中国人男はひとりではなかった。六人いた。いずれもさっきサッスーンハウスで黒い長袍をきた巧月生をニセモノとしてとらえようとし、大目玉をくらった面々だった。最初にニセモノをとらえよと命じた銀鼠色の長袍をきた巧こそがニセモノと彼らは考えなおし、パレスホテルの出入口をかためていたアレー寄りの蒼刀会員に六階の部屋にアレーと巧がいるときくと、許可をえるまもなく、ニセ巧を捕えたい一心でここまであがってきたのだった。

 ところが彼ら六人はなかに入るなり、たたらをふんで目を白黒させた。ここにいるときいたアレーが不在のかわりに、李龍平がいて、銃口をむけてきたのだから是非もない。

だがもはや六人はためらわなかった。

「動くな!」

 そう叫び、いっせいに李龍平にとびかかった。

「なぜアレーさんの服をきてる。アレーさんをどこへやった?」

 龍平をおさえつけたひとりがみごと銃を奪って、いった。

「おい、記者くずれ。おまえがなぜここにいる」

「・・・・・・」

「こたえろ」

 もがく龍平を男たちはおさえつける。六人の意識は龍平に集中している。逃げるなら、いまだ、と駿吉巧は思った。だがそうしなかった。考えが変わった。

「おまえたち、とんだ粗相を働いてくれたな」

 突然駿吉巧はいった。ほかならぬボスの声に、六人はびくっとしたようになった。龍平をおさえつけたまま、男たちは巧をふりあおいだ。銀鼠色の長袍をきた巧が六人を睥睨している。

「そこの、入ってきたとき、なんといった?」

 指名された男は目をみひらき唇をふるわせた。巧がいった。

「『アレーさん、そこにいる巧月生はニセモノです』といわなかったか」

「申し・・・・・・ました」

「たわけが。まんまとはかられおって。あの裏切者のアレーに」

「裏切者・・・・・・?」

「そうだ、裏切者だ。アレーは私に瓜二つの男をみつけた。そいつを利用して、蒼刀会をのっとろうとたくらんでいる。本物の私をニセモノ呼ばわりして追い出し、巧月生のそっくり男を操り人形にして蒼刀会を影から支配しようとしているのだ。それくらい、みぬけなかったのか?」

 駿吉巧は拳をにぎって憤慨してみせた。

「いま思えばアレーの裏切りは巧廟式典からはじまっていた。失踪したのも策略のひとつだった。ここにいる李龍平もやつの仲間だ。アレーは危険を察知して先にでていった。なのにおまえたちはアレーにハメられ、私をニセモノよばわりしたな」

 六人は目の前の巧に威圧された。だが疑いを忘れたわけではなかった。なにしろさっき下でもうひとりの巧に、銀鼠色の長袍をきた巧こそニセモノだといわれてきたばかりなのだ。ここにいる巧の長袍は銀鼠色だ。本物とみなすわけにはいかなかった。

だが、この巧もどうみても本物だった。長袍だけでニセモノと決めるのは無理がある。とはいえ、こっちにいけばあっちがニセモノ、あっちにいけばこっちがニセモノとたらいまわしにされていたのではキリがない。ここらではっきりさせる必要があった。もし本物だったらたいへんな失礼を働くことになるが、腹をきめるしかない。そう思ったリーダー格の男はいった。

「おそれながら会長」

「なんだ」銀鼠色の長袍を着た巧が鋭い目をむけた。

「さきほどサッスーンハウスでお会いしましたとき、会長は黒地に金の鳥の柄の長袍をお召しになっておりました。そのとき会長は『銀鼠色の長袍を着たほうこそがニセモノだ』とおっしゃいました」

「そいつは白蘭をつれていたか」

「はい。そのとき白蘭さまは、会長の黒地の長袍をみつめられまして、『この巧さんは本物です。ニセモノよばわりするなんて、気でもちがったんですか?』とおっしゃいました」

「おまえはこういいたいのか、黒地の長袍を着ていない巧月生はニセモノだと?」

「いえ、そうではありません。ただ会長、はばかりながら、会長が会長である証拠を、お召しのお着物以外にひとつ、私どもに拝見させていただけないでしょうか?」

 言葉はていねいだが、その目には一歩もひかない意志があらわれていた。

 駿吉巧はこばかにしたような笑いを片頬にきざみ、

「待ってろ」

そういうとホテルの人間にある道具をもってこさせた。そしてその道具を使い、あることをやってのけた。それは巧月生でなければできないことだった。駿吉巧はいった。

「みたか!」

六人はたちまちひれ伏した。いや、六人だけではない。あとからかけつけたアレー寄りの蒼刀会員たちもだった。彼らがみたものは、まぎれもなく巧月生の証だった。

 龍平だけは、目の前の巧がニセモノだと知っている。それだけに驚愕した。このニセモノは、巧月生でなければできないことをしてのけた。花齢巧が同じことを要求されたら、おそらくできないだろう。それを考えると、ぞうっとした。

「ニセモノは白蘭とでていったほうだ。いまごろ気づいても遅いっ!」

 ニセ巧は吼えた。これは必ずしも演技ではなかった。駿吉巧は焦っていた。六人の蒼刀会員の話をきいて気づいたことがある。丁香は――白蘭にばけている丁香は、本物の巧を駿吉のばけた巧と思いこんでいるらしい。でなかったら巧を守る台詞を吐くはずがない。丁香は、夕食会にいる巧の正体が私ではないと、わからなかったのか。あれほど私に惚れぬいている丁香のこと、いわなくともわかる、と買いかぶっていたのがまちがいだったか。あいつが本物の巧を私と信じたままアジトにつれていったかと思うと気が気でない。茶壷が危ない。

「こうなっては一刻の猶予もならない」駿吉巧は叫んだ。

「おい」と、アレー寄りの蒼刀会員を指して、

「あいつは片づけておけ」と龍平の始末をうながすと、今度は六人にむかっていった。

「おまえたちは私についてこい。白蘭をニセモノの毒牙から救いにいく」

 「ニセモノの毒牙」とはいいもいったり、自分のことではないか、と龍平は叫びたかったが、声をだせなかった。たったいま、こんなことにはいやに手際のいい男たちに猿ぐつわをはめられたばかりだ。ニセ巧に「本物の巧」の邪魔をさせてはならない、なんとしてもとめなくては、と龍平は気ばかり焦らせる。しかし銃は奪われ、四肢は頑丈な男たちの体におさえつけられている。このままでは作戦が水泡に帰す。それどころか龍平自身の身が危ない。

 龍平は孤立無援、まさに進退きわまった。

 

「さあ、ここらで『ごっこ遊び』は終わりにしよう」

 枯枝のような手が白いむっちりとした手をはなした。

 ここはフランス租界の高級アパート、四階の一室。革張りのソファにぴったり寄りそっている男女は、黒地の長袍をきた巧月生とニセ白蘭。

ここにいる巧月生こそ本物――正しくは李花齢の魂にのっとられている巧月生。

花齢巧はいま必死で自分を殺し、中身を小山内駿吉とみせかけて、白蘭に扮した丁香をたぶらかしてる真最中だった。

「そろそろもとの姿に戻らないか。いくら中身が君だと思っても、体が白蘭じゃ気分がでないなあ」

 身をはなして、いかにも不満そうな顔をした。もとより茶壷をださせるのがねらいだ。ところがニセ白蘭は顔を輝かせて、

「ほんとう? 白蘭の体じゃ気分がでない?」

 そういって、かえって体をくっつけてきた。

「白蘭はこんなにいい体してるのに、すこしもそういう気にならない?」

「ちっとも」花齢巧は仕方なく話をあわせた。

「どうして?」

 そうきくのは白蘭をけなしてほしいからだとわかっているから、

「ありゃ見かけだおしの平凡な女だからな」

 と、こたえてやった。

「平凡はいいすぎ。駿さん厳しい」

 ニセ白蘭は口ではそういったが、目は笑っていた。

 花齢巧も笑った。今度は作り笑いではなかった。ニセ白蘭が自分を「駿さん」と呼んだので、しめた、と思ったのである。おかげでニセ巧の正体が小山内駿吉ということがあきらかになった。

「ねえ駿さん、プロの目でみると白蘭は何点?」

 丁香は自分が失言したとも知らず、なおもおねだりするようにきいてきた。どうやら悪口をもっといわなければ離してくれそうもない。花齢巧は考え考えいった。 

「そうだなあ――、職業柄、初対面の人間に点数をつけるのはくせになってるがな――それでいうと白蘭は、観察力がないのが致命的だな。まあ、落第点だろう」

 求められていることをいったつもりだが、ニセ白蘭はなにを思ったか、ふと顔を曇らせて、

「私は? 観察力、あるほうでしょう?」と、自信なさそうにきいてきた。

「もちろんだよ」

「でも、ときどき不安になる。自分が駿さんに何点つけられてるか。だって私、まだいちども自分の点数を教えてもらってないから」

「だいじょうぶだよ、君は」

「またごまかして、ほんとの点数をいえないからって」

「ごまかしてないとも」

「私、これでも賢いんだから。いつもただいわれるままにに働いてるけど、作戦の全容を知らされなくても、自分のうけた指令から全体を推し量るぐらいの能力はもってるんだから。チャリティ・イベントのときだってそう」

 何の話だ、と巧は耳の穴をひろげた。むろん表面は心得顔で、

「ああ、五月の。ずいぶんまえのことをいうんだな」

「あのとき駿さん、私に命令したでしょ」

 なんの命令かわからないので、

「そうだったな」といってごまかすと、丁香の白蘭はいった。

「梶棒の先に毒をぬれっていう命令だったよね。千冬を殺すための毒を。それ以上のことを私は教えてもらえなかったけど、どんな作戦かはみぬいてたよ。中国人に日本人を殺させて、日本が中国を攻める口実を得るための作戦だってね」

 花齢巧は驚きをおさえ、いかにも知った顔で、

「そうだった。君はなにもかもみぬいてた」

「麗生はなにもみぬけなかったのにね。まあ、あの子は蒼刀会員だったけど賢くなかったからね。最後までニセ蒼刀会員を日本特務とみぬけず、ニセ命令を本物と思いこんでたぐらいだもん」

 私は特別、というニセ白蘭の語調にあわせて花齢巧はあいづちをうつ。

「麗生は愚かだったな」

「だよね。小型荷船に千冬をつれこんで棒で叩け、なんて怪しげなことをいわれても、蒼刀会の命令と疑いもせず、実行しようとしたんだから」

「愚鈍なまでに蒼刀会に忠実だった」

「だからあのとき邪魔が入らなかったら、麗生は命令どおり千冬を棒でたたいてた。棒の先に毒がついてるとは知らず、殺してたよね。私が事前に毒をぬっておいたんだから。なのにムダになっちゃった」

「そうだった、ルドルフが邪魔に入った」

「それさえなければ麗生は千冬を殺してた。悲劇のヒロインとして惜しまれるどころか、殺人犯として憎まれてた。千冬は殺されてこの世から消えてた。――惜しかったなあ」

 丁香は嘆息した。花齢巧は声がでなかった。人の死をなんとも思ってない感じの丁香の言葉にあっけにとられたせいだった。小山内駿吉が姪を日本軍のために犠牲にしようとしていたこともあきらかとなり二重に愕然とした。

「そうだな・・・・・・」

 うつろな声でいった。すると丁香の白蘭がいった。

「どうしたの駿さん、いつもだったら『姪を消せなかったのは痛恨の極みだ』といって笑うのに」

 けげんな面持ちをされ、花齢巧はあわてて、

「すこし疲れたんだろう。この体が窮屈なせいかな。おたがい早くほんとうの姿に戻ろうや」

 甘えた声でいった。

「戻ったら、私は百点といってくれる?」

「いういう」

「約束ね、絶対いってよ。丁香は百点、いや二百点、ううん、千点満点ていってほしい」

 ニセ白蘭は白いのどをあげてせまった。

「わかったわかった、いうから、まずはもとの姿に戻ろう」

「そんなに私のありのままの姿がみたい? しょうがないわねえ」

 ニセ白蘭はニヤニヤして部屋の奥へ行った。雨だれのような銀のイヤリングを琳瑯と鳴らし、やがて紫檀の三重箱をさげてもどってきた。

ああ、三重箱。二茶壷はあそこに入っているにちがいない。ニセ白蘭は三重箱を八仙卓においた。いちばん下の引き出しをひいた。

みよ、そこにはたしかに茶壷がふたつ入っている。金の龍のふた、かたや狐、かたや麒麟の注ぎ口と把っ手。三霊壷の狐仙茶壷、麒麟茶壷にまぎれもなかった。

 うち狐仙茶壷のみをニセ白蘭は引き出しからだして、魔法瓶の熱湯をそそいだ。そしてふたつの茶杯に白湯をいれた。終わると狐仙茶壷を引き出しにしまい、茶杯をふたつ、巧のもとに運んできた。ひとつは巧にわたし、ひとつは自分でもって、

「飲みましょ」

 そういって莞爾と笑った。

花齢巧は与えられた茶杯をにぎり、もちあげた。茶杯の中身はみてわかったとおり白茶である。変身した人間を、もとの姿に戻す茶だ。ニセ白蘭はこれをのめば巧が小山内駿吉に戻ると信じている。

だが花齢巧は白茶をのんでも小山内駿吉には、ならない。それがばれたが最後、自分は「本物の巧」とばれてしまう。正体がばれる前に、三重箱を奪おうと花齢巧は考えた。なにしろ、ここにきた目的は二茶壷を奪い返すことなのだ。

 ボーン、と柱時計が鳴った。

「乾杯」

 とニセ白蘭はいった。その瞬間花齢巧は三重箱めざして八仙卓に走った。そのときだった。

「いたぞ!」

 だれかが叫ぶのがきこえた。玄関のドアがいつのまにあいている。

ドアをあけた人間をみて花齢巧は目を疑った。はじめ、鏡があるのかと思った。入ってきたのは自分だった。――いや、もうひとりの巧月生だ。ニセモノだ。そいつがこっちをを指さして叫んでいる。

「ニセモノだ! ひっとらえろ」

 もうひとりの巧月生――駿吉巧はいった。屈強な男ら六人と、犬一匹を花齢巧のほうへとけしかけた。


 同じころ高級アパートのむかいの『SWEET SHOP』では、

「そっか、そっか」

 千冬がチョコレートをのみながら、しきりとあいづちをうっていた。

「そうだったんだ、白蘭は夕子だったんだ」

 夕子は千冬にアレーとの出会いから変身のことまで話した。そのことを知っているのは、丁香と李龍平とボアンカとルドルフということも教えた(ルドルフは夕子の思いこみで、実際は知らない)。ただし白蘭の罪までは話さなかった。告白の目的は千冬に自分を尊敬させることにあったからだ。

 ところが夕子は話しおえて、がっかりした。千冬の反応は期待とはまったくちがった。丁香ちゃんは告白したとき、尊敬の目でみてくれた。なのに千冬が自分をみる目は告白前とはすこしも変わらない。さっきと同じ、みさげるのでもなければ、ふりあおぐでもない目をしている。その上、

「でもどうしてそれを丁香に教えちゃったの?」

 なんてきいてきたから、よけいに腹が立った。私がちょっと秘密を告白したからって親友になった気でいるなら、おおまちがいだよ、と思い、冷たくいってやった。

「丁香ちゃんは親友だから」

 あんたは親友じゃないからね、という意味をこめた。でも千冬には通じなかった。親友づらして私にいった。

「だけどさ、あんなのと、なんで親友になったの?」

 千冬のずうずうしさにはあきれる。夕子は気色ばんでいった。

「丁香ちゃんはね、私がみんなに嫌われてるときに、私と友だちになってくれた唯一の人なんだよ。なにより麗生が私を痛めつけようとしてるときに、守ってくれた」

 すると千冬は目をパチクリさせていった。

「いま、なんていった? 麗生が夕子を痛めつけようとしてたって?」

「麗生は私を、江田夕子を嫌ってたでしょ」

「そんな話、いまはじめてきいたよ」

 とぼけないでよ、と夕子は思った。麗生といっしょに私を嫌ってた千冬が知らない顔をするのは、むりないことかもしれなかった。でも知らないふりをされるのは気分が悪い。だから勇気をおこしていった。

「私、知ってるんだ。五月十一日のお昼、みんなが物置部屋の外をとりまいてたこと。みんなで私を襲おうとしてたでしょ。きこえたんだよ、みんなの声。麗生がリーダーだったでしょ。わかってるよ、麗生は物置部屋の隣だったから、壁をとおして感じたんだ、私に敵意をもってるのを。麗生は私を合宿所から追い出すために物置部屋をおとずれて、チャリティ・イベントに私を誘い、致命的な打撃を与えようとしてたよね?」

 動悸を鳴らして千冬のこたえを待った。

「五月十一日? おぼえないなあ」

 千冬はとぼけたような声でいった。が、しばらくすると、手をたたいた。

「あ、でも、ランチの時間に、みんなが三階の物置部屋のまえに集まっておしゃべりしてたことがあったっけ。たぶんあの日――うん、あれは五月の前半。でも夕子の悪口なんかだれもいってなかったよ」

「ウソ。ほんとはいってたでしょ。私、知ってるから、丁香ちゃんにきいたんだ」

「なにを?」

「みんなが私の悪口いってたこと。なにをいってるかきいたら、丁香ちゃん、私にこういったよ――『「追い出す」とかなんとかいってた。私にもよくわからないことをいろいろと』って」

 千冬の目つきが変わった。驚きをあらわしていった。

「丁香は、そんなこといってたの?」

「うん。だから丁香ちゃんはみんなに私の悪口いうのやめるように抗議してくれたんだ。わざわざ廊下にでて、みんなを黙らせてくれたんだよ。千冬さんもその場にいたんだから知ってるでしょ?」

「待って待って」千冬はさえぎった。

「みんなが夕子の悪口いうのをやめるように丁香が咎めたって?」

 ふきだしそうな顔でいったかと思うと一転、苦虫をかみつぶしたような顔になって、吐きだすようにいった。

「あの大ウソつき。全部ウソだよ、ウソ」

「え」

「誓ってもいいけど、丁香はあんたのことでみんなを咎めたりなんかしてなかったよ。咎めるもなにも、だれも夕子の悪口なんかいってなかったし。――夕子、だまされたね。丁香はとんだ悪人だよ。夕子の信頼をえるために、わざわざ物置部屋を訪問して、そんなウソをついたんだよ」

 夕子は蒼白になった。急速にひろがった疑惑をふりはらうために必死になって反発した。

「ちがうよ。丁香ちゃんは私をだましてなんかないよ。物置部屋を訪問したのは、麗生に私のものを返してほしいと、たのまれたからだったし。悪人は麗生だよ。麗生は、私の部屋から盗んだ絵を、丁香ちゃんが廊下で拾ったことにして返してほしいって命令したんだよ」

 千冬は夕子をまじまじとみていった。

「あんたそれ、本気で信じてるの?」

「・・・・・・」

「ぜんぶ丁香の作り話じゃない?」

「でも私はたしかに・・・・・・絵をうけとった」

「返された絵は、麗生が盗んだんじゃなくて、丁香が盗んだのかもしれないよ」

「どうして丁香ちゃんがそんなことするの」

「だから私、白蘭に――夕子に教えたでしょ、あの女の欺瞞を。久保田友子の話、手紙の話、したでしょ」

「・・・・・・じゃ、私はずっと思いちがいしてたっていうの? 丁香ちゃんが廊下でみんなに注意したようにきこえたのも、廊下で麗生たちが私の悪口をいってるようにきこえたのも、ぜんぶ私の幻聴だったっていうの?」

 千冬はうなずいた。

「そういうことでしょ。丁香は夕子の被害妄想を利用して、自分をいい人にみせただけ。――信じられなかったら、王結や馬秋秋にもきいてみ。麗生が夕子を嫌ってたかどうか。みんながあんたの悪口をいってたか。いっとくけど麗生はね、うるさい人だったけど、陰でこそこそ悪口いうような人間じゃなかったよ」

「ウソ、麗生ってこわい人じゃなかった? 自分に従わない人間は陰でいじめたり、監視して参らせたり、遠まわしにいやがらせする人じゃなかった?」

 千冬はゆっくりと首を横にふって、静かな口調でいった。

「麗生はよくも悪くも単純、気持ちいいぐらい裏表のない人だったよ」

「ウソウソ信じられない。千冬さんだって、チャリティ・イベントでひどいことされたんじゃ・・・・・・?」

「ああ、でもあれは麗生の意志じゃなかったって、だれかに強制されて仕方なくやったんだって、きいた。麗生は船内で私に袋をかぶせるときも、『ごめんねごめんね』ってくりかえしあやまってたし、ほんとはもっとひどいことをしなきゃいけないみたいだったけど、なかなかふみきれなかったみたいで、ためらってるうちに麗生自身があんなことに・・・・・・」

「・・・・・・」

「麗生は、根はいい人だったよ。たしかにきつくみえたよね。合宿始まってすぐ、密告騒ぎがあったとき、怒り狂ってたしね。実際私なんかは疑われたくちで、本人から直接ずいぶんいいろいろいわれたよ。リラダン事件の実行犯が麗生って密告したのは千冬だって」

「あれって、私が疑われてるのかと思ってた・・・・・・」

「夕子なんてだれも疑ってなかったよ。疑われてたのは私。あの密告者、だれだかいまだにわかってないよね。私は丁香だと思ってる。私が疑われたとおり、密告者は日本人らしいし軍人とつながりがあるみたいだし。それって丁香にあてはまるでしょ?」

「だけど、まさか、丁香ちゃんが・・・・・・」

「いや、まちがいないよ。もう認めなって」

「丁香は裏表ありまくり、外面女菩薩、内面女夜叉」

「・・・・・・」

 夕子にはもはや丁香をかばう気力はなかった。千冬はいう。

「丁香にくらべたら麗生はあったかい人間だった」

「そんな・・・・・・そうはみえなかった・・・・・・私にとっては『こわい人』としか・・・・・・」

「しかたないよ。夕子が麗生をみためで判断したのは・・・・・・私にも責任あると思う」

「え」

「・・・・・・前にさ、私、夕子にひどいことしたでしょ。だから夕子にトラウマを与えたかもしれない」

 夕子は目をみひらいた。千冬がそんなふうに思ってるなんて予想もしなかった。びっくりして動揺して思わず、

「そんなことないよ」

 と、否定した。

「いや、わかってる。私夕子にいつもひどいことしてた。ごめんね」

 千冬は心から申しわけなさそうにいった。

「いいよ、そんな・・・・・・」

「いや、謝らせて。謝ったからって許されることじゃないのはわかってるけど。私あのころ、まわりがみんな自分より優れてるようにみえて、残っていけるか不安でね、自分より弱い者がいると確認して安心しようとしてたんだ。ほんと悪かった」

「・・・・・・」

「でもね、信じてもらえないかもしれないけど、私あのころ夕子と仲良くしたい気持ちもあったんだ。夕子に気があったから、ああいうことしたってのもある。小学生の男の子が好きな女の子にするみたいに屈折した表現になってたけど」

「・・・・・・」

「いつか夕子を夜、私の部屋に誘ったときがあったでしょ、合宿初日だったね。あれでも誘ったときは、単に夕子とおしゃべりしたい気持ちだったんだよ。でもあとから気が変わって、すっぽかして、傷つけた。私のしたことって、ほんと許されることじゃないよね。衝動で動いて、人の気持ちぜんぜん考えてなかったから。ほんと浅はかだったよ」

「いや、私こそ――千冬さんを誤解してて・・・・・・ファッション・ショーでは千冬さんに白蘭の正体をみぬかれたと思ってやたら警戒したりして・・・・・・」

「ウソ、そうだったの? どうして」

「あのとき千冬さん、王結や馬秋秋と、大学生みたいな男の人たちと楽しそうに笑ってたでしょ。それが私のこと笑ってる気がして・・・・・・私その日初めて白蘭に変身して慣れてなくて自信なかったから、正体が江田夕子ってみぬかれたような気がして・・・・・・」

「みぬくわけないじゃん。みんなで白蘭に注目はしたけど。すごい美人がいるって。でもそれだけ。正体が江田夕子なんてだれも夢にも思ってなかったよ」

「でも・・・・・・千冬さんのところにいた男の人たちが、あとから私のうしろの席にきて、私を意味する言葉を日本語でいっぱいいったから。『すがも』とか『スコット・ロード』とか」

「空耳じゃない? たしかにあの人たち白蘭のうしろの席に移動してたような気はするけど。それは美人を近くでみたかったからでしょ。そもそもあの人たち、日本語話せないから。三人とも広東の出身だし、広東語が日本語みたいにきこえたのかもね」

 浅はかだったのは私、と夕子は口のなかでつぶやいた。私は色眼鏡で人をみていた。私はつい最近まで千冬さんを悪人ときめつけていた。でも、今夜わかった。千冬さんは思ったほど悪い人間ではなかった。きけば麗生もいい人だったという。それも知らずに私は印象だけで憎悪してた。死ね、と呪いもした。実際麗生は死んだ。殺したのはルドルフだけど、私が殺したも同然ではないか。私は自分の思いこみで麗生を悪くいい、ルドルフをけしかけた。夕子はいままた自分の罪の深さに気づかされた。

 だが、これをきっかけに夕子が考え方をあらためたかというと、必ずしもそうではなかった。夕子のくせはまだ直ってはいなかった。反省したと思ったらすぐ、あやまちを他人のせいにする。

いまは丁香のせいにした。丁香ちゃんさえ自分によけいなことをふきこまなければ、私はみんなをもっと公平な目でみられたかもしれない。それを丁香ちゃんが合宿の初期段階で邪魔したから、私はほかの人に偏見をもちつづけることになった。丁香ちゃんが私の被害妄想を拡張した。悪いのは丁香ちゃん――いや、丁香だ。なにもかも丁香が悪い。裏切られたという思いは、いま怒りにかわった。夕子は丁香をはじめて敵と思った。

夕子は丁香に悪人のレッテルをはった。夕子の考え方はなにも変わっていなかった。悪人のレッテルを千冬から丁香にはりかえただけだった。

丁香――ニセ白蘭のいる高級アパートにニセ巧がのりこんだのはそのころである。


「ニセモノだ! ひっとらえろ」

 ニセ巧がきたとみるなり、花齢巧はうしろむきになり、反射的に自分の白茶を捨てた。このとき捨てずにおけば、ニセ巧にのませて正体を暴けるかもしれなかったのに、そんなことも思いつかないほど動転していた。ニセモノにけしかけられた犬がけたたましく吠え、とびついてくるように思われたからだった。

「私は本物だ」

 と叫んだ声もむなしく、気づいたときには屈強な蒼刀会員六人に全身をしばりあげられていた。六人はさっきサッスーンハウスで自分に「罪ほろぼし」を誓ったあの六人だった。

「おまえたち、私のいったことを忘れたか」

 黒地の長袍を着た花齢巧の問いかけに、六人はうんともすんともこたえない。

「ニセモノはあっちといったではないか。今度という今度は許さんぞ」

「・・・・・・」

 六人は目をそらし、無視する。こうなってはニセ白蘭にすがるよりほかはない。自分の正体を小山内駿吉と信じているかぎり、かばってくれるだろう。花齢巧はニセ白蘭をみた。ニセ白蘭も白茶はまだ飲んでいなかった。白蘭の姿のままだ。花齢巧はすがるようにいった。

「おい、君からもいってくれ。私がこんな目にあってるんだ」

「・・・・・・」

 ニセ白蘭も無反応だった。きこえない顔をしてつっ立っている。

「白蘭、どうした? こいつらを叱ってくれ」

 ニセ白蘭は花齢巧をみむきもしなかった。その目はドアから入ってきた巧に釘づけにされている。花齢巧はいった。

「そいつはニセモノだぞ」

 いわれなくても丁香の白蘭には、わかっている。その巧が入ってきた瞬間、そうと知って愕然とした。いままでいっしょにいた巧がニセモノ――すなわち駿吉巧と思いこんでいたが、自分がまちがっていた、とわかった。しくじった、と思った。私は本物の巧の目の前で狐仙茶壷と麒麟茶壷を出したりした。もしドアがあくのがあとすこし遅かったら、二茶壷は本物の巧に奪われていたかもしれない。それどころか私は本物巧を駿さんの巧と信じきっていたから、目の前で奪われても奪われたとは気づかなかっただろう。

ドアから入ってきた巧の視線がつき刺さるようだ。あれこそが駿さんの巧だ。なのに私はまちがえた。私としたことが、なんというミスを。愛する人とほかの人をまちがえるなんて・・・・・・。

もしこのとき花齢巧が「本物の巧月生は私だよな?」ときいてきたら、丁香の白蘭はうなずいていたかもしれない。否定すれば、自分のミスを人前で認めることになるからだ。ミスを認めるのは、プライドの高い丁香にはできないことだった。

だが丁香にとって幸いなことには、花齢巧はその質問を思いつかなかった。千冬だったら、思いついただろう。千冬は丁香の性格を分析し、研究していいる。ニセ白蘭が花齢巧を本物というよう、誘導しただろう。だが千冬はカフェにいた。夕子の告白に心奪われ、ニセ巧がアパートに入ったことさえ気づいていなかった。

花齢巧を救う者は、ここにはだれもいなかった。ニセ白蘭にもみすてられ、まさに絶体絶命である。

「神妙にしたがいいぞ、ニセモノ」

 ニセ巧は自分がニセモノのくせに、花齢巧にそういって、ズンズン近づいてきて、足をとめた。

 巧と巧とが対面した。

なんと奇妙な光景だろう。ふたりの肉体はみた目には寸分たがわない。長い耳から皺の位置、髪の一本一本にいたるまでそっくり同じなのだ。長袍がちがうのが、せめてもの救いにみえた。ひとりは銀鼠色に模様なし、ひとりは黒地に鳳凰の模様。態勢もちがう。ひとりは大上段にかまえ、ひとりは縄で体をしばられている。

そのふたりが、はっしとにらみあった。

沈黙がひろがる。犬が吠えだす。

 先に口をひらいたのは黒地のほう――花齢巧だった。銀鼠色のほう――ニセ巧に唾をはきかけんばかりの顔をして、

「これがニセモノか」

 と、吐き捨てるようにいった。だがニセ巧は相手にしなかった。

「こいつのどこを『本物』と思った?」

 白蘭にいった。黒地の巧を指さしている。

「・・・・・・」

 ニセ白蘭は青くなった。唇をふるわせるばかりで、こたえられずにいる。 犬の吠え声ばかりが室内にひびきわたった。

「『本物』とまちがえるとは、みそこなったぞ、白蘭」

 ニセ巧がいった。そのときだった。犬が突然花齢巧にとびかかった。

「ひゃ! くるな」

 花齢巧は思わず悲鳴をあげた。すると犬はよけいに興奮し、はげしく吠えながら黒地の裾にかみつきだした。まわりにいる六人の男にはみむきもしない。花齢巧だけを敵とみなしたようだった。

駿吉巧は目をみはった。犬はここにくるまでだれにも吠えなかった。道中たまたまみつけて拾ってきた犬だった。それが本物の巧に近づいたとたん、吠えだした。同じ外見の自分にはまったく吠えなかったというのに――。

「キャ、なにすん・・・・・・キャッ」

 本物の巧は必死でもがいている。自由のきかない手足を懸命に動かしている。その顔からも声からも巧月生らしさは消えていた。駿吉巧は心中に首をひねった。犬の興奮もふしぎだが、本物の巧の反応もふしぎだ。巧月生はたしか犬好きだったはずだ。それが異常な拒否反応を示している。これはいったい、どういうことか? 

――瞬間、駿吉巧の頭に本物の巧にたいするある疑念がうかんだ。

「犬が苦手のようですな」

 駿吉巧はもうひとりの巧にいった。探るような目をむけた。

「騒げば騒ぐほど、化けの皮がはがれると思いますが、よろしいんですか?」

「・・・・・・」

「本物の巧月生は犬ごとき、けっしてこわがらないはずですがねえ?」

 本物の巧はハッとした顔になった。とたんにうろたえ、いいわけを口にした。

「犬はもともと・・・・・・好きではなかった」

 そのとき駿吉巧は確信した――目の前の巧月生の中身もまた自分同様巧月生ではない、と。

 その中身は――あまりにとっぴで荒唐無稽で、容易には信じがたいことではあったが――李花齢と思われる。

 パレスホテルで龍平から白い石のことをきいていたからこそ、思いついたことだった。白い石のもつ特殊な力をきいたときに考えたことが、いま駿吉にとっぴなことを思いつかせるのに役立ったのだった。

 白い石をもつ者は、肉体は死んでも魂は生かし、生きた人間の肉体にのりうつることができるという。白い石は生前李花齢が持っていた。つまり李花齢は――李花齢の魂はべつの人間にのりうつって生きている、と考えられた。だれにのりうつっているかは、しかしさっきはわからなかった。

だがいま、思わぬところで、それがわかったようだ。

 ――巧月生だったのだ!

 考えてみれば、今年の春からの巧月生のふるまいは妙なところだらけだった。そのひとつひとつが、李花齢がのりうつっていたからだと思えば合点がいく。

「巧月生は犬をこわがりはしない!」

 駿吉巧は自信をもって叫んだ。

「おまえがニセモノなのはもはや一目瞭然」

 もはや勝敗はあきらかだ。それでも花齢巧は反論した。

「ちがう、ニセモノはそっちだ・・・・・・」

 その声は弱々しかった。花齢巧は駿吉巧に自分の正体をみぬかれたと直感的に感じ、おじけづいている。駿吉巧はとどめを刺すことにした。八仙卓に移動し、声にただならぬ気迫をこめていった。

「だったら、――できるか?」

 八仙卓には墨と筆、真白な紙があった。駿吉巧はいま一本の筆をとった。墨にひたした。そして、

「みろっ」

 われるような声をあげ、墨汁したたる筆を紙にたてた。

 穂先が走った。はらった。たたいてとんだ。

 墨痕淋漓とした文字を四つ生動させて、駿吉巧はくわっと目をみひらき叫んだ。

「みたかっ!」

 「友天下士(天下の士を友とす)」――巧月生邸の玄関を飾る対聯の文言が、たったいま八仙卓からおこされた紙にはあった。

その筆はまさしく巧月生のものだった。

 そっくりまねできたのは書の達人である小山内駿吉なればこそだった。彼はさっきパレスホテルでもこの手で蒼刀会員を平伏させたのである。

「本物がだれかは、この筆であきらかだろう」

 駿吉巧はいった。花齢巧にむかって、

「それでもおまえが本物といいたいなら書いてみろ」

 うす笑いをうかべ、ばかにしたようにいった。

「――書けるか? これの対句を」

 「対句」とはこの場合、「友天下士」につづく四文字「読古人書(古人の書を読む)」を意味する。それぐらいは花齢巧にもわかる。だが巧月生の筆をまねる力はない。

「こっちへこい」

 駿吉巧は有無をいわさず花齢巧を八仙卓の前へひっぱった。犬はなお狂ったように吠えている。

「さあ、やってみろ」

 花齢巧の顔は蒼白になった。それでも筆をとった。墨にひたした。腕をたてた。

だが――、

そこまでだった。花齢巧は筆をおき、がくりとうなだれた。

駿吉巧が勝利の声をあげた。

「ニセモノは、おまえだ!」

 そういってさらに本人にだけきこえるように耳もとでささやいた。

「あえて書かなかったんだろ。書いたら化けの皮がはがれるからな」

 底光りする目で花齢巧をみた。身をはなすと花齢巧を指さし、

「こいつに覆面をかぶせろ」

 駿吉巧は蒼刀会員にいった。

「これから邸に戻るのに、巧月生がふたりもいたら混乱を招くからな」

 花齢巧は覆面をされ、駿吉巧とそれに従う蒼刀会員にアパートからつれだされた。二茶壷を奪うどころではない。

龍平の作戦は、失敗した――。

龍平といえば、パレスホテルの一室で蒼刀会員たちに「片づけ」られてしまったのだろうか? 

だとすれば、たよりは千冬だけだが、このたいへんなときに、とんでくる気配もない。

 千冬はやっと夕子と『SWEET SHOP』からでたところだった。そのときはじめて異変に気づいていった。

「遅かった・・・・・・」

 道路のむこうに、さっきはなかった高級車がとまっていた。その自動車にひとりの男が、六、七人の男に囲まれて、むりやりのせられている。それがだれだかわかって、千冬はとめようと走りだしたが、自動車はすぐに発車してしまった。

「しくじった・・・・・・いまの巧さんだった」

「え、どれが?」

 あとから追いついた夕子がいった。目をきょろきょろさせている。

「もういないよ。さっき発車した自動車に、むりやりのせられてた人がいたでしょ、覆面させられてた人――それが巧さんだったの」

「え、あれが。なんで覆面されてたんだろう」

「巧月生だからだよ。もうひとり、いたでしょ」

「え、巧月生がもうひとり?」

「いたんだよ、覆面してない巧月生が、ニセモノが」

「うそ」

「あのね、いいそびれてたけど、巧月生はふたりいるんだ。黒地の長袍きてたほうが本物。銀鼠色の長袍きてたほうがニセモノ」

「えっ・・・・・・」

 夕子は愕然とした。サッスーンハウスで巧月生は着がえてなどいなかったのだ。ふたりいたのだ。私を監視しやすくするために着がえてると思ったのは被害妄想だったのだ。

「ああ、油断した」千冬がぼやいた。

「ニセ巧、どうしてでてきたんだろう。パレスホテルから動けないはずなのに。ここに本物の巧さんを捕えにくるなんて・・・・・・」

「ニセ巧の正体って、だれなの?」

「たぶん伯父さん」千冬は憮然としていった。

「日本特務の小山内駿吉だよ」

「え」

 夕子がびっくりした顔をすると、千冬はいいわけのようにいった。

「私、伯父さんだからって慕ってるわけじゃないからね。いちど伯父さんの鼻を明かしてやるつもりでいるから。丁香の愛する人間は私の敵でもあるし」

 夕子はなお信じられないといった顔でいった。

「ニセ白蘭とアパートに入った巧月生の中身って小山内将軍だったの?」

「それはちがう。ニセ白蘭といっしょに入ったほうは、本物の巧さん。黒地の長袍を着てたでしょ。丁香はその巧さんの中身を伯父さんと思いこんでた。本物の巧さんがうまくだましてたからね。あのままうまくいってればアパートから二茶壷を盗みだせたのに。とんだところで邪魔が入った。まさか巧月生に変身した伯父さんが押しかけてくるなんて」

 千冬は地団駄をふんだ。夕子は責任を感じていった。

「私がカフェに誘ったりしなければ、千冬さんがここでずっとみはってたら、邪魔が入るのを防げたかもしれない・・・・・・」

 わびる言葉もないといったように頭をたれたが、千冬は、

「いまさらいったってはじまらないよ。それに茶壷はまだ部屋にあるかもしれない」

そういうといきなり夕子の手をひっぱってアパートの門にむかって走りだした。

「あきらめるのはまだ早い。行くよ」

「え、でも、門番は?」

「いいから急いで。いまなら丁香はまだ部屋にいるはず。早く」

 アパートの前庭にはどこからきたのか、さっきはいなかった野良犬がうろついていて、門番はその処置におわれているらしかった。

 そのすきに乗じてふたりは門を突破した。階段をのぼる前、千冬は夕子に初めて任務を与えた。二茶壷がもしまだ部屋にあったら、千冬が丁香の注意をひくから、そのあいだに奪いとってほしい、というのである。

「できるよね?」

 夕子は重いため息をついて、

「まあ・・・・・・うん」

 と、いかにも自信なさげに返事をした。千冬は厳しい顔をしていった。

「たのんだよ」

四階についた。ふたりは奥から二番目のドアの前に立った。千冬はノックをしなかった。いきなりノブをまわした。ドアはひらいた。ニセ巧たちが鍵をしめていかなかったのだ。

 室内のニセ白蘭はちょうど白茶をのみほしたところだった。二茶壷はふたたび三重箱から出してあった。ドアノブがいきなり回ったのをみて動転した。千冬がドアをあけたとき、ニセ白蘭の体は完全に丁香に戻っていた。衣裳はもとより白蘭のままだった。

「やっぱり、いたいた!」

 千冬の声を背後にきいたときにはさすがに血の気をひかせたが、さすがは丁香、ふりかえったときには完璧な微笑をはりつけ、英語でいった。

「あら千冬、どうしたの。夕ちゃんまで。どうしてここに?」

 いつもの涼やかな口調だった。とたんに千冬は敵意をむきだしにして、

「話がある」

 日本語で叫んだ。丁香はきょとんとし、英語でいった。

「いまの何語? 日本語? なんていったの?」

「ごまかしてもムダ」

 千冬は日本語で叫ぶ。その目はすでに円卓の茶壷をとらえていた。丁香は隠すように、円卓の前に立っていたが、千冬にはみえていた。

「やけに興奮してるね。なにをいってるのか、わかんないけど」

 丁香はあくまで英語でいう。

「もういい、話がすすまない」

 千冬は英語にきりかえて、

「さっきここに白蘭が入るところみたんだけど、どこにいった? 英語できいたんだから、質問の意味がわかんないとはいわせないよ」

「白蘭が? きてないよ」

 丁香はすまし顔でいった。だが千冬はニヤッとしていった。

「そりゃ、いないよね。白蘭はあんたが変身してたんだから。そこの茶壷を使ってね。で、たったいま白蘭から丁香に戻った――でしょ?」

「変身?」

 丁香は動悸をおし殺し、にこりと笑っていった。

「うふ、おもしろい。この茶壷で変身? できたらすてきかも。アラジンのランプみたいな話、私も大好き」

 うしろ手で狐仙茶壷にふれ、なにくわぬ調子でいった。千冬としては、このまま茶壷をしまわれてはかなわない。奪うためには手段を選んではいられない。千冬は身をのりだしていった。

「ちょっとその茶壷、私にもさわらせて」

 だが丁香はたくみに茶壷ごと身をかわした。千冬のうしろに影のようにひかえている夕子をみて矛先を転じた。

「そういえば夕ちゃん、ひさしぶりねえ。合宿所をでてからずっとどうしてるかな、と思ってたけど、千冬と仲良くなってたんだ。同じ雑用係経験者だから気があうのかもね」

 しらじらしくもいった。夕子はおびえて口もきけずにいる。かわりに千冬がいった。

「話をそらさないでくれる。だいたいその旗袍なに? さっき白蘭が着てたやつなのは、わかってんだよ」

「話をそらすもなにも」

 丁香はいった。千冬に顔をつきだした。耳にさげた白蘭のイヤリングをゆらして、

「そっちこそ、忘れてないかな。人の部屋を訪問する前に断りを入れるのを。わけのわからないことをいうのは、そのあとでもいいと思うよ」

 千冬は猛然とにらみ返した。

「――その手にはのらないよ。しゃべってるあいだに茶壷を遠ざけようったって」

「もちろん茶壷ぐらい、だしおしみするものでないもの、ふだんなら触らせてあげるよ」

 丁香はおちついていた。子どもをさとす母親のような口調でいった。

「でも今夜の千冬には許可できないな。だって無断でおしかけてきて命令するなんて、まともじゃないもの。下手すれば無断侵入の罪に問われるよ」

「人を犯罪者みたいに。犯罪者はあんただよ。はっきりいうけどね、私はあんたを調べにきたんだよ」

「私は犯罪者じゃないし、千冬は警官ではないよね。私のあとをつけて部屋におしかける権利はないと思うな」

「いまなんていった?」千冬の顔に会心の笑みがひろがった。

「『私のあとをつけて』っていわなかった?」

「だったらなに」

「語るにおちるだね。私は丁香はつけてないよ。私がつけたのは白蘭。サッスーンハウスから巧月生とタクシーにのった白蘭だよ。でもあんたは『私のあと』っていった。それって自分が白蘭にばけてたと告白したも同然だよね」

「・・・・・・」

 丁香はさすがに青ざめた。それでも弁解しようとなにかいいかけたが、

「いいわけはきかないよ」

 千冬はぴしゃりといった。

「私は知ってる。あんたは白蘭にばけてただけじゃない。その正体の丁香も仮の姿。ほんとうは中国人でもなんでもない」

「なにをいうの」

 心なしか丁香の声はかすかにふるえていた。千冬はしたり顔で、

「日本語使いたかったら使っていいんだよ。私はつきあいで英語使ってるだけだから。あんた、ほんとは日本人だよね? もう吐いちゃいなよ。こっちは知ってんだよ、あんたが奉天日本人小学校の卒業生、久保田友子だってこと」

 丁香の顔から血の気がひいた。千冬は調子にのっていった。

「それでいまは伯父さん――小山内駿吉の愛人で日本特務のために働いてる。日本特務の命令でだれにでも変身できる茶壷を手にしてからは、毎晩白蘭に変身して悪さをしてる。茶壷でべつの人間を丁香に変身させて、その人を租界でいじめて楽しんでる。白蘭の名折れが目的なんでしょ。今夜の夕食会でも、伯父さんが変身した巧月生といっしょに、ふたりの名折れを徹底させるつもりだったんでしょ?」

 赤い電球に黒い点がぽつりと浮いた。蝿がとまったのだ。電球の熱にあぶられて、ジジ、ジジと焼け焦げそうな音をたてた。

「アッハッハッハ」

 ふいに耳をつんざく笑い声があたりに響きわたった。丁香だった。丁香が笑っている。丁香らしくもない、豪快すぎる笑いだった。蠅が驚いたように電球からとびはなれ、あけっぱなしのドアから外に逃げていった。

「そんなこと考えてたんだ。私が日本人で? 千冬のおじさんの愛人? しかも白蘭に変身して毎晩遊んでる? ああ、おっかしい! 想像力豊かすぎ」

 千冬はごまかされてたまるかと、

「証拠ならあるからね」

 憤然といったが、丁香はにこにこしていった。

「ほんと? みせてみせて、私とあなたのおじさんが愛人て証拠」

 足もとをみすかされている、と千冬は思った。現在、確たる証拠はにぎっていなかった。くやしさのあまり千冬はいった。

「みせるよ、明後日のコンテストでね。大勢の審査員とメディアの前であんたの正体を暴いてやる。お楽しみに」

 これには丁香も色を失ったが、すぐに女優らしく笑顔をはりつけていった。

「それは楽しそう。でも、いいの? そんなことしたらグランプリになるチャンス、棒にふるよ」

「かまわない。私、グランプリなんてとっくにあきらめてるから。あんたの欺瞞を暴くことだけに全力をそそぐ」

「・・・・・・本気なの?」

 その声は動揺していた。目にもおびえたような色があらわれていた。手が茶壷から離れた。丁香はすくなくともその瞬間、平静ではなかった。

奪うならいまがチャンスだ、と夕子は思った。全身に緊張が走った。さっと手をのばせば奪えないことはない。なのに体がなかなか動かない。この期に及んでも丁香の目が気になる。丁香に嫌われたくないと思う。千冬といっしょにここにきたことだけでも悪いことをしたという思いでいっぱいだった。このうえ茶壷をひったくるなんて――そのあと丁香にどんな仕打ちをされるかと想像しただけで、ぞっとする。夕子は自衛のためなら大胆な行動もとれる。ルドルフを川につきおとしたときがそうだった。だが実行すれば救われるどころか、地獄が待ちうけているとわかっていることのためには、なかなか体が動かない。

夕子がぐずぐずしているあいだに丁香は態勢をたて直していた。茶壷をふたたびうしろ手で守り、きっとして、

「千冬の話を、だれが本気にするかな?」

 ひらき直ったようにいった。

「冷静に考えて、審査員はどっちを信じるかな? あなたのようなリラダン事件の実行犯の嫌疑をかけられたことのある、勤め先を解雇された、文化人の人脈もないファイナリストのいうことと、私のような醜聞はいっさいないどころか、親友の醜行の犠牲になっている、文化人と親交のあつい――文化人とはちなみにドイツ人公爵、元ロシア帝室歌劇団員、イギリス人演出家、アメリカ人脚本家のことだけど――ファイナリストのいうことと、どっちを信じると思う?」

 その言葉をきいて顔色を変えたのは、千冬よりも夕子だった。かつて丁香はいった――「私は表現することは好きだけど、世間的な名誉や利益には興味がない」と。なのに、いまの話をきくかぎり丁香は「世間的な名誉に興味が」ある。

丁香の正体をみた気がした。

丁香もしょせんはみんなと同じ俗物だったのか。――いや、みんな以上かもしれない。この部屋をみてもわかる。派手なシャンデリア、高級そうな革張りのソファ、アメリカ製の最新型ラジオ、アメリカ製の最新型蓄音機、扇風機。鏡台には流行好きとばかにしてた麗生好みの「双妹」ブランドのヘアオイルの硝子壜、「雅霜(ヤーシュワン)」のクリーム、マニキュアが、壁には興味ないといってたマレーネ・ディートリッヒのポスターがあるではないか。どこが古代中国好きか、どこが世紀末のフランス好きか。ここには丁香の実態があった、隠されていた実態が――。

 幻滅、という二字が夕子の頭にうかびあがった。怒りがわいた。

 丁香はなおもいった。

「ねえ千冬、あなたがなにをいっても審査員は信じないよ。恥をかくだけ。五月のファッション・ショーのとき以上に世間に悪い印象を与えるだろうね。コンテストという晴れの場で小山内千冬の名をこれ以上汚しても、なんの得にもならないんじゃないかな」

 丁香は自分を守るために必死で千冬を翻意させようとしている。なんてみぐるしい――夕子は心中で毒づいた。丁香は悪人だ。丁香はウソつきだ。ウソをついて私に近づき、自分を神秘的にみせ、私の心をとりこにした。私から茶壷を奪うのが目的だったのだ。茶壷を奪うと、白蘭に変身して暴れ、白蘭の評判をおとした。丁香はそういう女だ。この女から茶壷をとり返すのになにをためらう必要がある。あれをとりもどせば丁香は白蘭に変身できなくなる。かわりに私の自由をとりもどせる。いま奪い返さなくてどうする? いま丁香の視線は千冬に固定されている。――やれる。いまならやれる。

やろう。これは自分のためだけではない、龍平さんのためでもある。龍平さん、どうか私に力を与えてください――夕子は心中にそう叫んで、ふみだした。

 そのとき丁香が視線を動かした。

 夕子は自分の心を読まれたかと思い、全身をすくませた。だが丁香の視線は夕子にはむいていなかった。その視線は横をむいている。いったいなにをみているのか――知る前に事態は急変した。

「自分の身は自分で守らないとね」

 そう丁香がいったのと、はじけるような銃声がきこえたのと、千冬が悲鳴をあげてたおれたのとほとんど同時だった。

 千冬を気にかけるより先に、夕子はしゃがみ、本能的に自分を守るために頭を両手でかかえてうつぶせになった。するとだれかが耳もとでささやいた。

「今夜のこと、だれにもいわないでね」

 丁香だった。丁香が夕子のそばにきてしゃがみ、いったのである。夕子は温かい息に鼓膜を吹かれる感覚と、予期しなかった事態の衝撃のためとで頭がぼうっとなった。丁香への恐怖も不信感も一時的に忘れたようになった。口から質問が反射的にとびだした。

「だれが、撃ったの?」

 すると丁香はいった。

「なにいってるの、夕ちゃん。私たちはここでなにもみなかった、きかなかった。でしょ?」

 そうかもしれない、と夕子は思考力の失せた頭で思った。だがそのとき、うめき声が耳に入った。もとより丁香ではない。そばで横たわっている千冬の声である。夕子は我に返った。丁香にいった。

「でも千冬さんが、たおれてる」

 丁香は無視していった。厳しい冷たい声だった。

「いいね。ここではなにもなかった。わかるね? わかるなら、友情誓約破りは大目にみてあげる」

 「友情誓約破り」ときいたとたん、夕子は心臓をむぎゅとにぎられたようになった。なにもいえなくなった。

「わかったね」

 甘いようで棘のある声が夕子の耳を刺した。夕子は催眠術にかかったようにうなずいた。気づくと丁香はとうに夕子のもとを去り、階段を飛鳥のようにかけおりていた。夕子はハッとして千冬をみた。息をのんだ。

「・・・・・・!」

 横臥している千冬の背中には真っ赤な血の花が咲いていた。やはり撃たれていた。背後からねらわれたのだ。だれが撃ったのか、狙撃者はどこにいったのか、考えるよゆうはなかった。千冬の出血はとまっていなかった。みると顔は色がなく、目はあいていたが、力がない。早く助けなければ。

「千冬さん、千冬さん」

 夕子が呼びかけると、千冬は紫色に変色した唇をうっすらひらき、声をしぼりだすようにいった。

「ちゃ、茶壷は・・・・・・?」

「あっ」

 いわれてはじめてそのことを思いだした夕子は、あけはなたれたドアのむこうの円卓をみた。

「ない・・・・・・」

 円卓からは二茶壷はおろか三重箱も消えていた。あとでわかったことだが、丁香は千冬が撃たれた直後に茶壷を三重箱にしまっていた。部屋をでて夕子に話しかけたときには、その三重箱を抱えていたのである。夕子はぼうっとしていてなにも気づかなかった。

「ごめん」

 夕子は千冬の前に頭をたれた。

「また私のせい・・・・・・茶壷を奪うどころか持ってかれた」

 千冬がこんなことになったのも自分のせいという気がした。

「しかたない」

 千冬はいった。うめいて苦しそうなのに、その目はすこしも夕子を責めていなかった。

「それより、気をつけて、狙撃者がまだどっかに・・・・・・」

「でも千冬さん。この傷、早く診てもらわないと」

 急所はそれてるらしいが、出血はまだつづいている。応急手当てをすべきか、それよりも病院につれていくべきか。どちらも自分ひとりでうまくやれる自信がない。こんな事態に直面したのは生まれて初めてなので、夕子はパニックになった。アパートの住人の手を借りようかとも思った。だがこの階は妙に静かだった。いや、この階に限らない、建物全体がひっそり閑としている。銃声が鳴ったのだから、夜分とはいえ、だれかしらでてきてもよさそうなものだが、だれもでてこない。人がいるのかどうかさえ疑わしい。いたとしても協力してもらえる気がしなかった。それにしても入るとき、あれほどうるさかった門番さえやってこないのは、いぶかしかった。

この高級アパートはそれ自体が日本特務のアジトだった。だからふつうの住人はいなかったし、このときはほとんどの部屋が留守だった。門番は文字どおり門の番をするのみを仕事とし、なかでなにが起こっても関知しないよういいふくめられていた。

 だれの助けも借りられないと感じた夕子は不安その極にたっして、

「どうしよう、私、ちゃんとしなきゃいけないのに。千冬さん、痛いでしょ。ごめんね・・・・・・どうしよう」

 いっているうちに涙があふれてきた。

「私はだいじょぶ」千冬はいった。

「だから夕子、逃げて。ここにいたら、危ない、から」

 夕子は胸をうたれた。

 人は極限状況におかれると本性をあらわすという。いま千冬は重傷を負っているのに、自分より他人を救おうとしている。

「千冬さんをおいてくわけない」

 気づいたら、そう叫んでいた。千冬の両肩をにぎり、抱かんばかりの体勢になった。そのときだった。

パンッという音がした。銃声である。弾丸が階段のほうからとんできた。弾丸は夕子のうしろすれすれにとんで壁にめりこんだ。

 ふたりは息をひき、目をみあわせた。

 だれが撃ったのか。撃った人間らしい足音が階段からした。その足音はすぐにこの階の廊下にたどりついた。

 階段に夕子は背をむけていた。どんな人間がきたか、ふりかえってたしかめる勇気はなかった。千冬にも夕子の体が壁になってみえなかった。ただその人間が丁香でないことだけはわかった。丁香の足音はさっき街路をぬけていった。いま発砲した人間は丁香の仲間かもしれない。いずれにしても銃をにぎっているのはまちがいない。

 廊下の奥から、むぎゅっ、むぎゅっという靴の音が近づいてくる。

 夕子は千冬の手をにぎり、化石したようになった。

 ぎしいっ、ぎしいっと床のきしむ音が徐々に大きくなる。

 足音がとまった。

 カチッと撃鉄の音がした。

 反射的に夕子は千冬におおいかぶさった。千冬を守ろうと思った。今度は自分が撃たれる番だ。死ぬかもしれない、と思った。あきらめの心が働いた。そのせいか、心の一部が奇妙におちついてきた。被害妄想とちがって、現実に危機に直面すると、よけいなことを考えるひまがなくなるからかもしれない。

 それでも手足はふるえた。恐怖の極みにあることに変わりはない。時間の流れが気の遠くなるほど長く感じられた。一秒が五分にも十分にも感じられた。どこかの蛇口から水がポツ、ポツ、とたれる音をきこえる。そのときだった。

 銃声が鳴った。

 弾丸がとんできた。

今度は至近距離だ。それるはずがなかった。自分の背中を弾丸がつらぬき、骨に激痛が走ったように感じたそのときだった。

 背後でドサッと人のたおれる音がした。

 ふりかえると、銃をもったみしらぬ男が床にうつぶせになっていた。右手の銃口はあらぬ方向をむいている。

 夕子が撃たれたと思ったのは錯覚だった。弾はそれていた。男は夕子に引き金をひいた瞬間、背後から別の人間に撃たれたもののようだ。ふたたび発射する気配はない。発射するどころか急所をやられたらしく虫の息だ。

 この男を撃ったのはだれか?

新たな疑問が夕子の胸にわきおこる。千冬の目にも同じ問いがうかんでいる。

 たちまち第二の足音がきこえた。階段から四階にあがってくる。まもなく、あらたなシルエットが廊下の奥にみえた。銃をにぎっているのがみえた。

「丁香は?」

 銃をにぎった人影が英語できいた。声でだれだかわかって夕子は瞠目した。それはボアンカだった。廊下の奥から走ってきていった。

「いない?」

 夕子が首を横にふると、ボアンカは丁香の部屋を物色して、

「やられた」といった。「茶壷もない」

 ボアンカは夕食会でみたドレス姿のままだった。なぜここにいるのか。なぜ自分たちを救ってくれたのか。夕子にはわけがわからない。

「生きてる?」

 ボアンカは千冬にかけよってきいた。と思うと、傷の状況をすばやくみてとって、

「急所ははずれてる、傷は深くない、命に別状はない。いま応急処置するから待ってて」

 ボアンカはショールをはずして手ぎわよく千冬の背中にまきつけた。千冬はあたりまえのようにボアンカのされるがままになっている。狙撃者を倒してもらった安心感があったせいかもしれない。

「ちょっと雑な包帯だけど我慢してね」ボアンカはいった。

「セント・マリー病院ですぐみてもらおう」

 セント・マリー病院は大病院でこの近くにある。五百メートルと離れていない。夕子はそれを知っててなにも行動できずにいたと自分を恥じた。するとボアンカがいった。

「力貸して。病院行くから、千冬の体運ぶの手伝って」

「はい」

 夕子は反射的にこたえ、反射的に目にいれたもうひとりの怪我人にぞっとしていった。

「この男の人、放っといてだいじょうぶですか」

 男はのびたまま、うめき声ひとつたてていなかった。

「うん。こいつは千冬を撃ったからね」

「でも・・・・・・」

「いいんだよ。死んでる」

 平然とボアンカはいった。夕子は男が死体と知って蒼然となった。気分が悪くなりかけたが、こらえていった。

「死体をおいてって、この人の仲間に仕返しされるってことは・・・・・・?」

 ボアンカはかぶりをふっていった。

「そんな心配より、千冬を病院につれてく方が先」

 いわれて夕子はボアンカとともに千冬の片腕を肩にかけて支えた。そしてなんとか立たせ、ゆっくりと運び、階段をおりていった。千冬はうめきつつも、自分でも足を動かそうとしている。歩きながら、夕子はボアンカにきいた。

「さっきの男、ボアンカさんが撃ってくれたんですか」

「そうだよ」

「あ、ありがとうございます。なんとお礼をいっていいか・・・・・・あのままだったら私、絶対に撃たれてました。助けてもらったのがまだウソみたいで・・・・・・」

 心からそういうと、ボアンカはにっと笑っていった。

「ふしぎでしょ? どうして私があなたを助けたのか。夕食会では白蘭にさんざんケチつけてたのにね」

「え。ああ・・・・・・」

「断っとくけどあれは、あなたに悪意があったんじゃなくて、白蘭のニセモノにケチつけたくて、したことだからね」

「どうして白蘭がニセモノだって・・・・・・?」

「そりゃわかるよ。あなたがそばのテーブルにいたから。江田夕子が変身してないんじゃ、べつのだれかが変身してるニセモノってことでしょ。だからニセモノをからかいたくなったわけよ」

「はあ・・・・・・」

「でもよけいなことしちゃったね。後悔してる。アレーがいってもないことを、いったように吹聴したりして」

「え、あの、アレーさんが巧さんを沈没船と呼んだりしたっていうのは・・・・・・?」

「デマカセ。ニセモノを怒らせるためにいっただけ。ぜんぶウソ。白蘭をアホウドリって呼んでたこと以外はね。あ、アホウドリはべつに悪口じゃないからね」

「・・・・・・じゃ、なんですか」

「愛称だよ。ボードレールの『信天翁(あほうどり)』って詩、知らない?」

「知りません」

「日本語だと上田敏が訳詩をだしてるよね。私ボードレールのも原語で読んだけど、麒麟茶壷で日本語を使えるとき、アレーに上田敏訳のを読まされたよ。タイトルの『信天翁』にアホウドリじゃなくて『をきのたいふ(沖の太夫)』っていうルビがついてるの。どういう意味なのかは、詩を読めばわかるよ。悪い意味じゃないから、あだ名は気にしないで。アレーはべつに白蘭から逃げたいとはいってなかったし。アレーがだれかから逃げたかったとしたら、私だと思う」

「え」

「私、アレーを愛してたから。気づかれてたと思うんだ」

 夕子は目を丸くした。ボアンカは唐突にうちあけた――、

 私は助手になってすぐアレーを愛した。アレーには女のにおいがなかったから、見込みはあると思ってた。でも巧廟式典の舞台前に初めて知った、アレーには四半世紀愛しつづけている人がいたと。ショックで私はもうアレーのそばにいられないと思った。だから発作的に楽屋をとびだした。二度とアレーに会わないときめた。その晩からハルトンのもとに身をよせた。

 ハルトンと私は身内ではない。でもそれに近い間柄だ。私の父があの人の友人というのは偽りだが、上海にきた当初なにかと世話になった。その名残で、私が困ったというと、邸においてくれた。

 私は失恋してアレーのことをふっきったつもりだった。アレーが失踪したと知っても、悲しくはならなかった。愛する女性のもとにでもいったのだろうと思って、憎しみと敵意をわかせるばかりだった。自分ではすっかりアレーを嫌いになったつもりでいた。

 でも今夜、夕食会に出席する直前、私は自分がけっして思いきれていないことを知った。サッスーンハウスに到着した自動車からおりて、空をなんとなくあおいだときのことだ。むかいのパレスホテルの窓のひとつのカーテンがたまたまひらいた。注意をひかれ、その窓をみた私は、あっと驚いた。そのまま心臓がとまりそうになった。カーテンのすきまにアレーが立っているのがみえたからだ。はじめ幻かと疑った。でもそれは幻ではなかった。たしかにアレーだった。動悸がはげしく鳴った。

 そのあと夕食会に出席しても、私はずっとそのことが気になっていた。なぜアレーはあそこにいたのか。よっぽど気をひきしめてないと、アレーのことばかり考えてしまう自分がいた。アレーを中傷するようなことをいったのも、そのせいだと思う。アレーのことばかり考える自分を否定したかったのだ。もう愛してないと思いたかった。

 でも、いったあとで猛烈な罪悪感におそわれた。いくら否定してもむだだった。私はアレーをまだ愛している。もう自分をごまかせなかった。

 夕食会が終わるとすぐ私は、パレスホテルにむかった。アレーに会うためだ。

 ところがここで思いがけない事態にでくわした。パレスホテルの六階まで階段でのぼる途中、ふたりの青年にでくわした。ルドルフと李龍平だ。ふたりは上からおりてきた。しかも驚いたことに龍平はアレーの衣裳をきていた。そのことを問おうとすると、むこうから私にききたいことがあるといって、私をむりにひっぱって自動車におしこめた。

自動車がどこにむかっているのか、はじめわからなかった。疑いはやがてとけた。龍平はアレーの味方で、アレーのために茶壷をとりかえそうとしていると私にいった。パレスホテルにいたアレーの正体が龍平だったとも教えてくれた。私に話したのは、私がアレーの助手だったからで、私の協力をあおぎたいからだという。だから私がハルトンのスパイになっていないかを知りたがった。私は彼の疑いをといてやった。アレーへの思いを伝えると、龍平は信じた。私が龍平に協力するというと、彼は私にこれからどこに行き、なにをするつもりであるかを話した。

自動車は、ニセモノたちが茶壷を隠している可能性が高いという、このアパートの前にとまった。先にきているはずのニセ巧の自動車はみあたらなかった。あたりはやけにひっそりしていた。が、なかに入ろうとすると門番にうるさくとがめられた。やりあっているうちに、銃声がきこえた。建物からだ。あとで知ったが、千冬が撃たれた音だった。ただならない感じをうけて私はのりこもうとした。門番がみてみぬふりをしろといってきかなかった。対応は龍平とルドルフにまかせることにした。私はふたりが門番ともみあってるすきに、ひとり建物に侵入した。

 私は階段をかけのぼった。途中で丁香にでくわさなかったのはふしぎだ。私が入る前に建物からでたのかもしれない。いまごろは門前で龍平かルドルフにつかまってるかもしれない。

 三階まであがったとき、二発目がきこえた。そして私はみた。四階の手前に、銃をもった男が立っているのを。夕子の背中を撃とうとしているのを――。

「男を倒すのはまにあったけど、茶壷はまにあわなかった。奪い返せなかった」

 ボアンカはいった。前庭がすぐそこにみえた。一階についたのだ。ふたりに支えられている千冬は話をきいていたようすもなく、目をとじている。

「アレーをがっかりさせちゃうな」ボアンカはいった。自嘲気味に笑って、

「まあ、茶壷をとり戻せたところで、私の罪は消えないんだけど。私一度裏切ったでしょ、アレーのこと。楽屋からぬけだしてハルトンのもとにいって、夕食会でアレーの名誉を傷つけてさ」

「・・・・・・裏切った?」

 夕子の声はかすれていた。ボアンカの反省は他人ごとではなかった。他人ごとどころか、ほんとうの裏切り者は自分だと思った。勇気をふるいおこしていった。

「ボアンカさんはべつに裏切ったとは思わないです。私のほうがよっぽど――」

 と、いいかけたときだった。

「丁香は?」

 ボアンカが叫んだ。夕子にではない。前をむいていた。前庭に龍平とルドルフがいた。

「知らない」龍平が叫び返した。「上にいなかったのか?」

「逃げたあとだった」

 ボアンカはこたえた。

男性陣は負傷した千冬をみて目をみひらいた。それにしても龍平はなぜパレスホテルをぬけだせたのか。どうしてあの危地を脱することができたのか?

 ――ルドルフのおかげだった。

ルドルフは夕食会が終わるといちばんにパレスホテルの六階をみあげた。その六階の部屋で龍平と合流することになっていたからだ。恋人に会えるよろこびで輝く瞳は、しかし目当ての窓をみたとたん一瞬にして凍りついた。

 光が、窓からもれていた。あいているはずのないカーテンがわずかにあいていた。ただそれだけだ。なかになにがみえたわけではない。だがそれだけで恋する男は異変を敏感に感じとった。悪い予感につきうごかされたルドルフはパレスホテルにとびこみ、その部屋めざしてかけあがった。部屋につき、あいていたドアからおし入ると案の定、龍平は縛りあげられていた。なかには蒼刀会員たちがいた。それをみてルドルフが攻撃にでたかというと、恐怖して立ちすくんだだけだった。だが、かえってそれが有利に働いた。

 蒼刀会員たちの目には、棒だちになっているルドルフがただならぬ殺気を走らせているようにみえたのだった。そのため龍平に手をくだそうとしていた蒼刀会員たちがしばし金しばりにあったようになった。なにしろ相手はルドルフ・ルイスである。「ハルトンの甥」である。麗生殺しの犯人でもある。へたに刃向かえない相手だった。

 ルドルフは相手がたじろいでいるすきに、龍平の縄をといた。さすがは「奇術師キャプテン・ルーディー」だけあってその点は手際がよかった。龍平を自由にすると銃をわたした。ルドルフは銃を携帯していたのである。形勢は逆転した。ルドルフは蒼刀会員たちを威嚇して逆に縄でしばりあげた。そのままふたりはスイート・ルームをでた。階段をおりる途中で遭遇したボアンカをつれて、のってきた自動車にのりこんだ。

龍平はニセ白蘭のアジトをめざした。茶壷はそこにあるにちがいなかった。とはいえアジトがどこにあるかはわかっていなかった。ルドルフの日本特務としての知識が役に立った。ルドルフは上海に無数にある日本特務のアジトを複数知っていた。それらをかたっぱしからあたっていくうちに、ここをみつけたのだった。到着したのは実にあやういタイミングだった。

「おっと、ひきずるなよ。千冬ちゃんを」

 龍平は夕子に注意した。それからボアンカにむかって、

「病院はすぐそこだけど、自動車にのせてったほうがいい」

 そういって自動車のドアをあけ、千冬をなかに運びこませた。千冬は後部座席に横むきに寝かされた。龍平は外から車窓をのぞき、暗然とつぶやいた。

「俺がぐずぐずしてなきゃ、こんなことにはならなかったのに。なんてことに・・・・・・千冬ちゃんはてらいのない、いいやつなのに」

「私が、足をひっぱったんです・・・・・・」

 夕子がいった。

「途中で千冬さんをカフェに誘ったりして、いっしょにいたのに役にたつどころか・・・・・・」

 言葉をつまらせると、龍平が仮面のような笑顔をむけて、変に明るい声で、

「自分をかえりみる気になったのはいいことだ」

 いいすて、運転席に消えた。ルドルフも助手席に入った。夕子はボアンカと外に残された。龍平が窓から顔をだしていった。

「急いでいってくる」

 自動車は発車した。つきあたりのセント・マリー病院にむかって。

 夕子はそのあとを追うかたちでボアンカと歩いた。夕子の目には、すれちがう黄包車も着飾った紳士淑女も目に入らなかった。

 千冬ちゃんは「いいやつ」といった龍平の言葉が耳から離れなかった。たしかに龍平さんのいうとおりだと思う。以前はともかく、いまの千冬は「いいやつ」だ。私も今夜身をもって知った。その「いいやつ」が撃たれたのは私のせいだ。そもそも私がアレーから茶壷を盗まなければ、こんなことにはならなかった。そうでなくても今夜だって私がちゃんと茶壷をとりかえしていれば、千冬は撃たれていなかった気がする――。


 水底のような病院の廊下で、夕子は龍平と偶然ふたりきりになった。千冬は医者にみてもらっている。大事にはいたってないとのことだった。ふいに夕子は頭を下げた。

「あの、すみません・・・・・・ほんとうにすみませんでした」

 しつこいと思ったが、あやまらずにはいられなかった。すると龍平はぽつりといった。

「つぐないたいんなら、ミス摩登コンテストの決勝をつぶすことだな」

「・・・・・・」

 夕子が返事できずにいると、龍平は厳しい目つきをしいった。

「山高きがゆえに貴からず」

 それだけいって龍平は夕子のそばをはなれていった。

 その晩、夕子は眠れなかった。「山高きがゆえに貴からず」の意味を考えた。本で調べると、「外見がいくら立派でも、内容が伴わなければ貴いとはいえない、人間は外見より実質が大切」(※『ことわざ辞典』より)という意味とわかった。

 龍平さんは私に皮肉をいったのかもしれない。私はいままで実質よりも外見を大切にしてきた。人に貴いと思われなければ、生きてるかいがないように思ってきた。特に白蘭に変身するようになってからは、その傾向が顕著になった。アレーの与えてくれた美しさでみんなを圧倒することができるようになって、自分でも自分が実質以上にすごいものと思うようになった。

 丁香のことをいえない。私はどうしても見栄をはってしまう。弱さを隠すために、自分をえらくみせるために。

考えてみれば丁香の親友をやめられないのも、半分以上は見栄のためだった。私は花園でひとりぼっちになるのがいやだった。自分に友だちがいないと認めるのはつらい。私は友人を必要とした。それも、だれでもいいというわけではなかった。嫌われてる千冬や、地味な遠藤幸枝ではだめだった。評判の高い人でなければ、自分にふさわしくないと思った。

 その点丁香は、私の虚栄心をくすぐるに十分だった。人気があり、だれをもひきつける神秘的な魅力があった。しかも丁香はほかの子とちがって話しやすかった。ほめられてもひかえめだし、芸術家肌という感じがあって、そういった面でも私をひきつけてやまなかった。

 丁香の親友になったことは、私の誇りだった。なにもかも私の条件にかなっているがゆえに、私は心を許し、彼女に秘密を教えた。でもそれが不幸のもとになるとは思わなかった。秘密を教えたということは、丁香に自分の弱みをにぎらせたということだった。

 気づいたら私は丁香のいいなりになっていた。私は「親友」の呪縛から逃れられなくなっていた。さからえば白蘭の正体を暴露される。文句ひとついえず、いいなりになるしかなかった。さからいたいとは、何度も思った。考えてみれば、見栄がいつだって私をしばりつけてきた。

 ほんとうは今日千冬が丁香にいったみたいに、いいたいことをいえるようになりたい。

 そしたら、どんなに気持ちがいいことか。心の自由が手に入る気がする。

ただそうなるには、見栄も外聞も捨てる覚悟がいる。好かれたい、という欲を捨て、自分が人の目にどう映ろうがかまわない、と思えるようにならないといけない。

でもそんなことが、この私にできるだろうか? ひといちばい人の目を気にする私に。白蘭としてミス摩登になりたい私に。

アレーはいった――「グランプリなんて一時のこと、くだらないよ。その先に幸せはない。聖書にもある、『不義によって得た財宝は役に立たない』、『自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。(箴言二十八)』とね」

巧廟式典のときにそれをきいて、私は腹をたてた。私をグランプリになる気にさせたのはどこのだれだ、と思った。私をグランプリになる気にさせたのはアレーのくせに、摩登コンテストを中止させる計画をたてている、などといったから、冗談じゃない、と思ったのだった。

 アレーはいった――「摩登コンテストを中止させないと、みんなが犠牲になる」、と。

龍平さんはいった――「つぐないたいんなら、ミス摩登コンテストの決勝をつぶすことだな」。

 なぜコンテストを中止させなくてはならないのか? みんなが犠牲になるとはどういうことか? わからない。

 わからないけれども、龍平さんはアレーにかわってコンテストを中止させる計画を実行するつもりのようだ。そして彼は計画に参加することが、私の失敗をつぐなうチャンスだとほのめかした。

 つぐないたい気持ちはある。実際私は罪をつぐなう必要がある。千冬のためにも――。

 でも自信がない、コンテストを中止させることに協力する自信が。

 私が、ミス摩登を、あきらめられるだろうか。私が見栄や外聞を捨てられるだろうか。

 いずれにせよ、ミス摩登コンテストの最終選考会までは、あと二日しかなかった。

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