第八章 危機
「とめてとめて!」
それまで黙ってファイナリストのウォーキングを観察していた女講師が突然大声をだして、両手を交差させ音楽をとめさせた。
「あなたもとまりなさい」
教室を両断する光のすじの上でひとりポーズをとっていた丁香はようやく我に返り、とまるにはとまったが、眼の色変えて近よる女講師をなにごとかと息をのんでみつめた。
ほかのファイナリストたちも、丁香のみごとな表現力に圧倒されていただけに、講師の中断には意表をつかれた。
九月八日、午前十時の合宿所である。決勝まであと五日とあって、ウォーキング担当の女講師はレッスンのはじめからピリピリしていた。それにしてもいまのヒステリックな中断は異様だった。女講師――ミス・ウォーカーは丁香の背後にまわると、
「なにこれ!」
さっきにまさるヒステリックな声をあげた。
「ふざけてるの?」
背中に指をつきたてられ、ふりかえった丁香のけげんそうな顔はなにごとを悟ったか、さっと青ざめた。
「いいえ・・・・・・」
丁香はやっとそれだけいった。めずらしく泣きそうになっている。それにもかまわずミス・ウォーカーはいった。
「みんなにみせなさい」
いわれるまま百八十度回転した丁香に視線を集中させた美女たちは、いっせいに息をひいた。
丁香のドレスは、背中から尻にかけ、無惨にも切り裂かれていた。むきだしになった肌が、秋とは名ばかりの強いひざしをあびて、痛々しいばかりに光っている。
「だれがやったの?」
女講師は汗のしたたる髪をかきあげ、全員にいらだたしげな目をむけた。空気がぴんとはりつめる。だれも名のりあげない。
「あなたが直前まで一緒にいたのはだれ?」
女講師の問いに、丁香はいった。
「白蘭さんです」
全員が白蘭をみた。その正体が江田夕子ということは依然として丁香以外のだれも知らずにいる。二週間前の式典で盗んだ茶壷をなくしたにもかかわらず、夕子はこうして白蘭に変身できている。なぜか? 変身は茶壷なくして可能なのか? こたえは追ってあきらかになる。
「ねえ、だれ? ドレスにこんなことしたのは」
女講師は腕組みして白蘭をにらんだ。白蘭を疑っているのは、あきらかだった。白蘭は黙っていた。
「・・・・・・まあいいわ」
ミス・ウォーカー肩をすくめていった。
「よけいなことに時間をとられたくないから。丁香も気をつけなさい、もうこんなことされないように。本番でこんな目にあったら取り返しつかないからね。自分の身は自分で守る」
叱られる丁香にみなの同情の視線が集まる。
「こんなことした人にはあきれるわよ」
ミス・ウォーカーはわめいた。
「この四か月、なにを学んできたの? 内面を磨きなさいと私はいったでしょ。それなのに他人をけおとす行為にでるなんて――ショックよ! 今日はもうつづける気にもなれないからレッスンはこれで中止」
女講師はそういいすてて、ヒステリックに教室をでていった。
「・・・・・・いい迷惑だよ」
ぽつりと声が、ファイナリストたちのあいだからもれた。
「せっかく練習したウォーキング、今日みてもらえなかった」
みんな私にいってる、と白蘭は思った。みんな私がやったと思ってる。丁香ちゃんのドレスを切り裂いたのは私だと思ってる。
誤解をとかなければ。白蘭は丁香のもとにかけよった。
「丁香ちゃん」
私がやったんじゃないよ、と、みなにきこえるようにいおうとしたときだった。声がでなくなった。
丁香が目で白蘭を牽制したのである。その目はいっていた――「なにもいわないで」と。そのせいで白蘭は声をつまらせた。でもやっぱり誤解はときたくて、口をひらいた。とたんに丁香は叫んだ。
「やめて」
白蘭をよけるようにし、手で頬をおさえた。白蘭はわけがわからず、
「どうしたの、丁香ちゃん」
といって近づいた。すると丁香は頭をかかえ、悲鳴のような声をあげた。
「お願い! 白蘭、どうかやめて」
いつもの丁香とはまるでちがう。おびえきったように、いった。
「いわないし、責めないから」
そのときだった。
「やめないか!」
ロレーヌがとびこんできて、白蘭を丁香からひきはなした。
「だいじょぶだよ、ロレーヌ」
丁香は小声でいったが、ロレーヌは、
「どこが? ドレスをこんなにされて、おまけに、ぶたれるところだったじゃないか」
そういってこれみよがしに白蘭をにらんだ。
「いいの、白蘭はなにもしてないの。悪いのは私」
丁香はみなをみていった。いつのまにほとんどのファイナリストがまわりに集まっていた。
「でも、泣きそうな顔してる」
王結がいった。
「そんなことない、目にごみが入っただけ」
丁香は微笑した。それがまたみなの目には痛々しくみえたようだった。
「いこう、丁香。ここは離れたほうがいい」
ロレーヌがいった。丁香の腕をとり、あからさまに白蘭をにらんだ。
「でも私、白蘭といっしょにいないと・・・・・・」
丁香が不安そうにいうと、
「白蘭といっしょにいたら危ない」ロレーヌがいった。
「あんな人を親友と思うのは、もうやめなって」馬秋秋がいった。
ミラベルもナンシーもみなきこえよがしにいった。
「ほんと性悪だから」
「ドレス切るふつう?」
「あの人には、ふつうのことなんだよね」
「噂がほんとだってなによりの証拠」
「噂って、あの噂でしょ」
「毎晩丁香を租界につれてっては、いじめてるっていう」
「ダンスホールで丁香に露出度の高い格好させて年寄りと踊らせたり、レストランで蛇をまきつかせて食事をとらせたり、映画館で気が狂うほどくすぐって絶叫させたり」
「かわいそうに丁香は。夜だけじゃなくコンテスト目前のウォーキング発表会でまで晒し者にされて」
「いじめだよね、いじめ」
「ほんと勘弁してほしいわ」
「さ、いこ」
「いこいこっ」
「でも・・・・・・」
丁香はなおも白蘭を気にするそぶりをみせたが、みなにひっぱられていった。
ほとんどのファイナリストが大教室をあとにしていく。そろいもそろって「内面の美」を表現するどころか、内面の醜さで自慢の顔をゆがめ、きこえよがしにいいあった――、
「ところでさあ、巧月生ってどうなったの?」
「知らなーい」
「狂ったんじゃなかった?」
「式典の晩、警察が吉永義一を逮捕したら、お客さんにむかって発砲したとか」
「リラダン事件の犯人が逮捕されたことの、なにが気にいらなかったんだか」
「狂ったんでしょ。そのあと三日間ひきこもって、いまは『アレー捜索』の名目で上海から逃げてるっていうじゃない」
「アレーがみつかるまで帰るつもりはない、とかいってね」
「ほんとみえすいた口実だよね、逃げるための。市民がみぬかないとでも思ってるのかな。頭悪いよね」
「頭悪いし、終わってる、巧月生、コンテストの審査員からもはずされたし」
「あの式典いかなくてほんと正解だった。巧家の廟堂なんて拝んでたら、いまごろだれかさんみたいに祟られてるとこだった」
つい二十日前まで白蘭をもちあげていたファイナリストのいうこととはとても思えない。白蘭の心はきり刻まれた。
ファイナリストたちが白蘭に手のひらをかえした原因は、彼女たちのいった言葉からわかるとおり、二つあった。
一つは、白蘭のパトロンといわれた巧月生が廟堂式典で失態を演じ、ハルトン洋行のスト解決でえた人気も信頼も失い、影響力を失ったこと。
巧月生は式典以来、「行方不明のアレー」探しの旅にでることを口実に上海を離れていた。式典での蛮行のほとぼりが冷めるのを待つための逃避行なのは、あきらかだった。巧はいまでも華界の実業家で、裏社会のボスではあるが、落ち目なのは疑いようがなかった。 ミス摩登コンテストの審査員からもはずされている。もはや影響力をもたない。ファイナリストたちは、巧月生も、巧のお気に入りの白蘭もおそれる必要はなくなった。
もう一つの原因は、夜ごとあらたになる白蘭の醜聞だった。ここ最近芸能紙は白蘭が親友丁香を租界の盛り場につれていっては、いじめているという話題で紙面をにぎわせていた。
真偽はともかく、その記事をきっかけに白蘭が批判されるようになったのは事実だった。その影響が合宿生活にでている。トップ3に名をつらねていることだけが救いだった。奇跡のようだが、こんな状態にもかかわらず白蘭は現在なお三位だった。
しかし現在の合宿生活はとうてい三位にふさわしいとはいえない。だれも白蘭に前のように丁寧な態度をとってくれない。それどころか、きこえよがしに悪口をいう。白蘭は自分の合宿生活が順風満帆にいくとははじめから思っていなかったが、こんな目にあうとは予想していなかった。これでは江田夕子時代と同じだ。いや、もっとひどい。江田夕子のときは、露骨に悪口をいわれたことはほとんどなかった。そう思ったときだった。
「ひどいよね」
だれかがうしろからいった。小山内千冬だった。白蘭がふりかえると、同情するようにいった。
「ひどいよね、あの人たち」
この言葉、前にもいわれたことがある、と白蘭は思った。「ひどいこというのね、あの子たち」――忘れもしない丁香ちゃんの言葉。合宿がはじまってまもないころ、丁香だけが江田夕子の味方をしてくれた。いま、それと似た言葉を江田夕子ならぬ白蘭は、千冬にいわれたのである。
千冬がいうと、裏があるようにきこえる。自分にとりいろうとしているのだろうか。それにしても、江田夕子にさんざんひどいことをした人間が、よくいえたもんだ、と思う。
同じ言葉でも、丁香ちゃんがいうのと千冬がいうのとでは天と地ほどのちがいがある。
千冬にだけは味方づらされたくない。それに千冬に同情されるなんて白蘭としてのプライドが許さない。千冬はランキングはもちろん外見でも白蘭より下だ。自分より下の人間に同情の言葉をかけられるなんて屈辱以外のなにものでもない。白蘭は無視しようときめた。だが千冬はなおも話しかけてきた。
「白蘭さんは丁香のドレスなんて切ってないよね」
「私がやってないって、どうしてわかるの」白蘭はむしろ攻撃的にいった。
「私、みてたから」千冬はいった。「白蘭さんが出番直前まで丁香といるところ。でも白蘭さんはなにも、あやしいことしてなかったよね」
「みてたんだ」嘲るように白蘭はいった。
「みてなかったとしても、白蘭さんの立場で考えれば、そんなことしないってわかるよ。だって毎晩悪い噂がたってるだけでもたいへんなのに、これ以上わざわざ自分で自分の首をしめるようなこと、しないでしょ」
白蘭はなにもいわなかった。千冬はかまわずいった。
「みんな決めつけて、浅はかだよね」
私を慰めてるつもりかもしれないけど、迷惑なだけだよ、と白蘭は思い、冷たくいった。
「でも丁香ちゃんは私をかばってくれるから」
「丁香が?」千冬は失笑するようにいった。
「さっきのは白蘭さんをかばう『ふり』にみえたけどな」
「本番が近づいて丁香ちゃんは神経質になってるんだよ。私がドレスを切ったとかんちがいしたのかもしれない。それで強くかばえなかったんだよ」
「そんなかんちがい、友だちだったら、しないと思うな。それに友だちなら、みんなが白蘭さんの中傷してるの、黙ってきいてないでしょ」
「・・・・・・」
白蘭も心の底では不審に思っていた――白蘭がドレスを切ってないといおうとしたとき、丁香が目で牽制したことや、自分が近よると、なにもしてないのに丁香が悲鳴をあげたことを。
「白蘭さんが毎晩租界で丁香をいじめてるって記事――デタラメだよね?」
千冬のいうとおり、記事はデタラメだった。白蘭は式典以来今日までの二十日間、丁香と租界に行くどころか、ふたりで夜にでかけたことすらない。にもかかわらず白蘭が租界で丁香を嗤う写真が新聞にしょっちゅう載るのは、なぜか? はっきりしたことはなにもわかっていないが、白蘭にはなぜだか、なんとなくわかるような気がした。
それをだれにもいわないのは、信じてもらえないと思ったからでもあるし、いえない理由があったからでもあった。
白蘭がなにもいわないので、千冬はさすがにすこし不安になったようすでいった。
「ごめん。友だちのこと悪くいいすぎたかも。でも私は丁香って人を、どうしても信用できないから」
「なんで」
白蘭がきくと、千冬はまわりにだれもいないことを確認してから、声を低くしていった。
「最近また、丁香のよくないことを知っちゃったんだよね」
「よくないことって?」
「あの人がみかけどおりの人間じゃないってこと」
「ふうん・・・・・・」
みかけどおりでないとはどういうことか、知りたくてたまらないにもかかわらず興味のない顔をしたのは、千冬特有の罠ではないかと思ったからだ。
そもそも白蘭として合宿所に入って以来、まともに口をきいたことのない千冬が、唐突に味方づらして近づいてきたことからしておかしい。
千冬はむしろ白蘭を憎んでいるはずである。合宿開始直後トップ3だった千冬が転落した原因は白蘭にあるといっていい。銀華デパートのファッション・ショーに乱入したのは白蘭の口車にのせられたからだ。おかげで一時はリラダン爆殺事件の実行犯の疑いまでかけられ、警察で疑いは晴れても人気は戻らず、合宿所では総スカンをくらい、いまでこそ最下位をぬけだしたが、つい最近まで雑用係をやらされていた。そんなひどい目にあわされた千冬が白蘭と屈託なく話せるわけがない。
なのにいま突然白蘭の味方づらして接触してきた。裏があるにちがいない。五日後にせまった決勝を前になにかたくらんでいるとしか思えない。
千冬は女学校時代から狡猾だった。保身のためなら、二重スパイ的なことも平気でやった。敵の敵を味方にするなど日常茶飯事だ。「丁香のよくないことを知ってる」というのも、どこまでほんとうかわかったものじゃない。千冬は丁香ちゃんを敵視しているから、私白蘭を使って丁香ちゃんを卑劣な手段で転落させ、自分の地位をあげようとたくらんでいるのかもしれない。
千冬は白蘭が話にのってこないのでがっかりしたかと思いきや、なにやら納得したようにうなずいていった。
「教室にいちゃ、めったなこといえないよね。よかったら私の部屋にきて。丁香のこと、くわしく話すから。今晩はどう? ルームメートの幸枝はその時間、でかけてるから」
「夜はだめなんだ」
白蘭は反射的に断った。が、すぐにまずいいい方をしたと思った。「夜はだめ」ということは、丁香をいじめに租界にいくためだと、きこえなくもない。千冬の発言のすべてが、私の行動を探るための罠だとしたら、たいへんだ。動揺が顔にあらわれたせいか、千冬は強気になって、
「じゃ何時ならいい?」
と、きいてきた。白蘭はおじけづいていった。
「五時ごろなら、まあ・・・・・・でもたぶん、行けない」
千冬は意外にもそれ以上しつこくは誘わなかった。
「気が変わったら、いつでも来て」
そういい残して、その場は去っていった。その背中を白蘭はみる気もしなかった。だれがあんたの部屋なんかにいくか、私はあんたの仲間じゃない、と胸中で毒づいた。
とはいえ千冬がいったとおり、みんなひどいことをいうと思い、傷ついている白蘭だった。休み時間だけでもひとりになりたくて三階の自室にむかった。
休み時間はウォーキングのレッスンが早く終わったぶん、長くなった。ほかのファイナリストはとっくに次のレッスンのトレーニングを自主的にはじめるべく一階の更衣室に移動して三階にはだれもいないだろうと思った白蘭は三階にいった。ところがだれかいる。だれかが廊下の先、三〇五号室の前に立っている。三〇五号室は白蘭と丁香の部屋である。
白蘭はおじけづいたが、ひきかえすこともならず一歩ずつ近づいていった。すると声がとんできた。
「千冬と、なに話してたの?」
そういったのは、さっきまで泣きそうな顔をしていたはずの丁香だった。三〇五号室の前に立って、白蘭をうらめしそうにみている。
「なんで知って・・・・・・」
白蘭の声はふるえて、途中でつかえた。なぜ私が千冬と話したことを丁香ちゃんは知っているのだろう。教室にはだれもいなかったのに。
「うふ」
丁香は白蘭の心をみすかしたように笑い、いった。
「私、親友のことなら、なんでもわかるの」
「でも、どうして・・・・・・」
「ねえ、なに話してたの?」
白蘭は青くなった。とてもいえた内容ではない。
「べつに、特には、話してないよ」
話題を変えたくていった。
「それより丁香ちゃんのドレス切ったの、だれなんだろう」
「私の質問の答えは?」
丁香はくりかえした。顔から笑いが消えている。白蘭はおじけづいていった。
「だから、たいした話じゃ・・・・・・私が丁香ちゃんのドレスを切ったかどうか、きかれただけ」
「それで、なんてこたえたの?」
丁香は鋭い目をすえた。白蘭は目をそらしていった。
「やってない、と」
「それはおかしくない?」
「どうして。私はほんとのことをいった」
丁香はいきなりドアをひらいていった。
「なか入って」
白蘭はいわれるまま、ふたりの部屋である三〇五号室に入った。
――カッ、カッ、カッ・・・・・・。
窓の外から屑屋が小鼓を鳴らす音がする。鋭く乾いたその音は耳を叩くようにきこえた。
ドアをしめるなり、丁香は白蘭を夕ちゃん、と呼んでいった。
「私は夕ちゃんのために日夜、例の茶壷を盗んだ人を探しまわってるのに」
いつになく激した口調だった。
「そのあいだ夕ちゃんはほかの子と仲良くなってたの? しかもよりによって千冬なんかと」
「ちがうよ、誤解だよ」
「でもさっき千冬としゃべってたのは事実なんでしょ」
丁香はクローゼットの隣の棚に手をおき、その棚にいわくありげな視線を送っていった。
「ねえ、茶壷を盗まれたのに、夕ちゃんが毎日白蘭に変身できるのは、どうしてだっけ?」
「・・・・・・それは」
「こんなこといいたくないけど、私がいるからでしょう? 私が謎の男の信用をうらぎらないで行動してるからでしょう?」
謎の男とは、なにか。
丁香によると、初めてその男に出会ったのは、巧氏廟堂落成記念式典のあった日の翌日だという。
式典のあった晩、夕子は巴黎夢倶楽部で龍平に茶壷を盗まれたと報告したあと、しばらくしてから花園に帰った。龍平がそのあと一切夕子を無視したので、耐えられなかったのもある。一方丁香は明け方まで倶楽部に残って、帰りぎわ酔いざましにひとり歩いていたところを、妙な中年男に声をかけられたという。
いかにも人相の悪い男だったという。
その男は驚いたことに、丁香にたいしていきなり、自分は例の茶壷を盗んだ者の知り合いと称し、こういったそうだ――「二つの茶壷をあずからせてくれさえすれば、自分たちは毎週『白蘭に変身できる茶』を作って瓶に入れ、一週間分ずつ渡してあげよう」と。言葉づかいは丁寧だったが、脅しも同然だったという。申し出を断ったり、警察に訴えたり、男の素性を探ろうとしたり、茶壷を無理にでも取りかえそうとすれば、その時点で「白蘭の正体は江田夕子」と世間にばらし、かつ茶壷は二度と返さないといわれたという。
選択の余地はなかった。丁香は親友のために男のいうとおりにしたがうしかなかった。そして毎週「白蘭に変身できる茶」をうけとることになった。待ち合わせ場所と時間はそのつどちがい、口外を禁止されているらしく、白蘭はきくことができなかった。
できるのは合宿所で丁香のもらってきた茶を黙ってのむことだけだった。男に渡される瓶には茶杯七杯分の茶が入っている。それは実質的には一週間分ではなく、半日×七回分だった。なぜなら一回分で変身できる時間は十二時間に限られているからだ。そのため夕子は毎朝六時に一杯のみ、効果の消える十二時間後の午後六時までには部屋に帰り、朝までひきこもる、という生活を余儀なくされている。
だからさっき、千冬の誘いに「夜はだめなの」とこたえたのは、真実でもあった。自室の外でしなければならない用事はすべて六時までにすませねばならない。夜から朝の十二時間は丁香以外のだれにも会えない。
だが朝になれば白蘭に変身でき、日中は白蘭の姿ですごせる。茶壷が盗まれても合宿所での生活をつづけられるのは、丁香のおかげといえた。――でも、そう思いきれない自分がどこかにいた。白蘭は丁香の話をどこかで疑っていた。信じたいけど、つい考えてしまう。
謎の男とはいったいだれなのか、背後にいるのはいったいどんな人物なのか、といったことはもとより――、
その男はなぜ丁香とでなければ取引をしないのか? そもそもなぜ男は丁香が白蘭の秘密に通じていることを知っているのか? それ以前に男はなぜ白蘭の秘密を知っているのか?。
その男の裏にいるのはアレーではないかと仮定したことがある。だが失踪前のアレーを思いうかべると、そんなコソコソしたふるまいをするとは思えない。
アレーでないとすると、だれのしわざか。ルドルフとも考えてみたが、ルドルフだったら中年男など使わず、直接いってきそうなものだ。アレーでもルドルフでもないとなると、だれも思いつかない。白蘭の秘密をにぎっている男がそんなにいるはずがなかった。
丁香ちゃんは私にウソをついているのかもしれない、という考えがともすると、うかぶ。ふりはらっても、ふりはらっても、消すことができない。
あれ以来――茶壷を盗まれて以来、丁香は毎晩租界にでかけている。でかけるたび、芸能紙が伝えるとおり、「白蘭にいじめられて」帰ってくる。新聞の写真にうつっているのは、まぎれもなく白蘭だ。
だが白蘭は――夕子は夜外出しない。ということはつまり夜租界にいる白蘭は、自分ではない何者かがなりすましたものとしか考えられない。何者かが、白蘭に変身している。おそらく茶壷を盗んだ人間だろう。
丁香も租界にいる白蘭がニセモノなのは、承知のはずだった。それなのになぜ、毎晩会っていじめられてくるのかと、夕子は一度きいたことがある。
すると丁香はいった、茶壷のありかをききだすためだと。そのためにニセモノとわかっていて、つきあっている。いじめられても我慢している。幸いニセ白蘭とつきあっても謎の男にとがめられたことはないから、毎晩のチャンスを利用しない手はない。親友の大切な茶壷をとりかえすためだったら私はどんな犠牲でもはらう。そういわれると夕子も、ニセ白蘭に丁香がいじめられるせいで白蘭の評判がおちても、文句はいえなかった。
だが丁香はニセ白蘭とつきあってもう二週間になるのに、なんらめぼしい報告をよこさない。慎重に運ばなきゃ、と丁香はいうが、口先だけの感じがある。だいいち苦労しているようすがない。毎晩楽しそうに帰ってくる。茶壷の情報をほんとうにききだす気があるのか、疑わしい。夜部屋でひとり待っていると、丁香ちゃんはほんとうはニセ白蘭の仲間なのかもしれない、という考えが夕子の頭にうかぶのだった。
だがいまは、うらめしそうな顔をしているのは丁香だった。
「私が毎晩、租界で苦労してるあいだ、夕ちゃんは千冬に浮気してたんだね?」
「・・・・・・」
「友情誓約、忘れたの?」
自分だって最近ロレーヌと仲良くしてるくせに、と思ったが、夕子はおさえた。丁香ちゃんがロレーヌと話すのは白蘭のためなのだ。ロレーヌが白蘭を敵視しないようにするためなのだ。それは自分がたのんだことでもあるし、丁香ちゃんは事前にちゃんと私に断っている。だから友情誓約にいう、「一、私たちは合宿中ほかのファイナリストとは相手の断りなく親しくしません」という条項には違反しない。それにたとえ丁香ちゃんが違反したとしても、いまの私に抗議する資格はない。私は千冬と話す前に丁香ちゃんに断らなかった。
「忘れてなかったけど・・・・・・」
それだけいうのがやっとだった。
「ウソ」丁香は言下にいった。
「夕ちゃん、さっきも私のドレスがあんなになってるのをみて慰めてもくれなかったじゃない。友情誓約に『私たちはいかなるときも気持ちを共有します』という条項があるのに、夕ちゃんは自分の無実をうったえることしか考えてなかった」
「私、誓約を二つも破ってた・・・・・・」
白蘭は青ざめた。
「破った場合の罰、おぼえてるよね?」
丁香がいった。重苦しい空気が部屋いっぱいにみちわたる。
またこの空気、と白蘭は思った。心を圧迫されるような空気。チャイナ・ユナイテッドで茶壷を探したあの晩、夕子は無意識のうちに丁香におそれをいだいた。そのおそれは初期の癌のように自覚症状のほとんどないまま、しかしこの二十日で着実に成長していた。この二十日で丁香の態度や言葉づかいに特別な変化がみられたわけではないのに、夕子は丁香から目にみえない圧迫感を無意識に感じるようになっていた。いままたそれを感じ、全身をしばられたようになった。
「おぼえて、る」
白蘭はふるえる声でいった。とたんに丁香はなぜか目をゆるませ、妖女がいっきょに天使にかわったような優しい微笑をうかべていった。
「愛する夕ちゃんに罰を与えるなんて、私にはやっぱりできない。でもお願いなら、してもいいかな?」
甘えるようにいった。白蘭はおそるおそるきいた。
「どんなお願い」
「明日のフリースピーチの内容、私のかわりに考えてくれる?」
「え、丁香ちゃんのかわりに・・・・・・?」
「だいじょぶだいじょぶ、夕ちゃんには創作の才能があるでしょ。私になったつもりで考えて、原稿つくってくれる?」
「でもまだ自分のも終わってないから、できるかどうか・・・・・・」
「いいじゃない、白蘭の分はやらなくても」
「え」
「白蘭はしくじって。お願い」
白蘭は耳を疑った。親友がこんなことをいうなんて――また丁香への不信感が高まる。けれども親友を疑うのは耐えられないし、なにより断るのは苦手だった。だからいった。
「時間があれば、できないこともないけど・・・・・・」
すると丁香はいった。
「時間なら、次のレッスンを休めば、できるよね」
「休むって・・・・・・」
「だってそうしないと原稿を書けないっていうから。――どうしたの、こわい顔してる」
白蘭はふいに抱きすくめられた。と思うとわきの下をくすぐられた。
「きゃっ」
困惑顔は一瞬でくずれた。丁香は白蘭をくすぐった。
「い、ハハハハ!」
白蘭の口を笑い声が割ってとびだした。
「そう笑って笑って」
「や・・・・・・」
もがけばもがくほどからみついてくる丁香の手をすこしでもかわそうとして、白蘭はみずから寝台にたおれこんだ。丁香はここぞとばかりにおしかぶさってきて、はしゃいだようにいった。
「笑顔笑顔」
白蘭の体は丁香の体のしたで白魚のようにのたうった。
「イヒヒヒヒ」
自分でもきいたことのない下品な笑い声がとびだした。黄緑の旗袍が乱れる。靴がぬげ、床におちる。美しい二本の脚がバタバタと宙をもがく。意思とは無関係に両腕をふりまわし、寝台の棚から次々ものをふりおとした。大切なものが続々おちた。丁香がくれた扇子、ライラックをドライ・フラワーにしたもの、香水壜がころがって液体がこぼれる、クリームが衝撃でとびちる。それでも夕子は暴れた。丁香は執拗にくすぐってくる。
「イッヒーッ!」
獣のような声が口からとびだす。あまりの苦しさに丁香にやめて、と目で必死に訴えた。そのとき白蘭は初めて丁香の目の異様な輝きに気づき、ハッとした。
どこかでみた目だと思った。前によくみた。丁香ではない、ほかのだれかの目――。
窓の外で青葉がざわつき、小鳥のはばたく音がした。
そうだ、千冬だ。丁香の目は、以前の千冬の目にそっくりだった。信じたくない。でもこの丁香ちゃんの目は、あのころの千冬の目とそっくりだ。悪意がある目、私の苦しみを楽しむ目。 その目を親友がしている――白蘭の心は凍りついた。
「ほんと親友ってありがたい」
丁香はくすぐりながら、にこにこ笑っていった。「親友」という言葉がいまほどそらぞらしくきこえたことはなかった。私はいいようにあつかわれているだけではないか・・・・・・? わきあがる疑念をうちけそうとしたときだった。
廊下から荒い足音がきこえた。だれかがやってくる。すると、丁香はくすぐるのをやめた。寝台をおり、なんのためか髪を手で乱し、床にころがった。
次の瞬間、廊下の足音がふたりの部屋の前でとまった。ノックなしにドアがあいた。
「丁香(ディンシャン)!」
叫び声と同時にロレーヌが入ってきた。
「だいじょぶか」
いうなり丁香にかけよった。丁香は床に横たわっていた。髪がひどく乱れている。
「なにされた?」
返事を待たずに、寝台の白蘭をにらんでいった。
「バカ笑いが一階まできこえたと思ったら、案の定このしまつだ」
白蘭は寝台にいる。丁香は床に髪を乱してころがっている。床には物が散乱している。だれだってこの光景をみたら、白蘭が丁香に暴力をふるっていたように思うだろう。
「私はなにも・・・・・・」
白蘭が真実をいおうとすると、丁香がさえぎるようにいった。
「いいの、これは私たちの問題だから。ロレーヌ、悪いけど気にしないで」
「君がそういうなら、こらえるが・・・・・・」
「ありがとう、でもよかった、きてくれて」
「早く部屋からでたほうがいい」
「みんなもう下で自主トレーニングしてる?」
「ああ、とっくに着がえおわってる」
「じゃ私もいかないと」
丁香がいうとロレーヌは白蘭に視線を投げて、いかにもいやそうにいった。
「白蘭もくるのか?」
丁香はかぶりをふった。
「白蘭は休むって、具合悪いんだって」
白蘭は耳を疑った。
「あそう」
ロレーヌはいった。白蘭を嘲るようにみている。ずる休みか、とでもいいたげだった。それから丁香をみて笑顔になり、
「それじゃ今日はランチも私といっしょにとるか」
と、いった。丁香は白蘭の手前遠慮するかと思いきや、あろうことか二つ返事で承知した。
「ぜひぜひ」
その上、目を輝かせていった。
「そうだ! どうせならカフェテリアでテイクアウトして、この部屋でとらない?」
「でも白蘭が具合悪くて寝てるんだろ」
ロレーヌがいうと、
「だいじょうぶ、白蘭はお昼になるとカフェテリアに行くから」
「それならお昼は私と君と、この部屋でとれるな」
「だね。楽しみ」
「とりあえずいまは一階へ。立てるか?」
丁香はロレーヌに起こされて立ちあがった。ふたり肩をならべて、ふりかえりもせず部屋をでていった。
白蘭は茫然としている。丁香は白蘭の前で友情誓約をやぶった。「私たちはいかなるときも気持ちを共有します」という条項と、「私たちは合宿中ほかの女性とは相手の断りなく親しくしません」という条項のふたつをやぶったのだ。
もっとも丁香はロレーヌと親しくすることを事前に白蘭に断ってはいる。でもそれはロレーヌと白蘭の仲をとりもつのに必要な範囲内でなければならないはずだった。なのに丁香ちゃんは仲をとりもつどころか、白蘭を仲間はずれにした。
だいたいロレーヌは丁香と仲良くなって以来、白蘭に好感をもつどころか、以前にもまして敵意をもつようになっている。丁香がそうさせているのは、いまの行動をみれば、あきらかだ。
白蘭は丁香を疑っていいはずだった。けれども現実をみつめるのがおそろしかった。だから夕子の白蘭はこの期におよんでも現実から目をそむけ、丁香を信じようとした。丁香ちゃんはあくまで私のためにロレーヌにとりいっているだけだと。
だが昼食後、部屋に戻るなり、白蘭は現実をつきつけられた。
ロレーヌと丁香はすでにいなかったが、部屋のありさまをみて愕然とした。
まず、変わり果てた寝台が目にとびこんだ。白蘭の寝台の上には、白蘭の大切な旗袍が何着もクローゼットからひきずりだされて脱ぎすてられてあった。しかもどの旗袍も、ランチのかすで汚されていた。パン屑がついてるのはまだしも、ジュースがしみているものまであった。
だがそれも丁香の寝台をみたあとでは、まだマシに思えた。丁香の寝台は使われた形跡がなく、蚊帳もきちんととじてあった。その蚊帳に、まるで白蘭にみせるためのように一枚の絵が貼りつけてあったのである。
みた瞬間、白蘭は暑さを忘れて凍りついた。
絵にはみおぼえがあった。それどころか、よく知っている。いつか丁香と白蘭がたがいを描きあった、友情のあかしともいうべき絵、丁香と夕子が仲良くならんでいる絵である。その絵が無残にも汚されていた。
正確には夕子の絵だけが汚されていた。夕子の絵の、顔も胸も手足もあとかたもなく、ぬりつぶされていた。悪意と憎悪のこもった黒で。
白蘭は足をすくませた。
だれがやったのか。ロレーヌか? 江田夕子が嫌いでこんなことをしたのだろうか。でも江田夕子は合宿の脱落者でもういない。その人間にロレーヌがこんな憎悪をあらわすだろうか。白蘭の正体が江田夕子と知っていれば、ありえる。そう考えて白蘭はぞっとした。ロレーヌは白蘭の秘密をルドルフからでなければ丁香ちゃんからきいたのかもしれない。でもまさか丁香ちゃんが・・・・・・。否定したかったが、最近の丁香の言動を思い返すと、ありえることに思えてしまう。
丁香ちゃんは変わった。考えてみれば、巧氏廟堂記念式典の日からだ。巴黎夢倶楽部の個室に入ったときもおかしかったけど、チャイナ・ユナイテッドにいるときから、いつもの冷静な丁香ちゃんらしくなかった。変にうかれていた。上機嫌で黄包車を呼んだ。そのあと倶楽部の個室に入ると今度は変に不機嫌になった。きっかけは、なんだったのか。考えて白蘭はハッとした。変身だ、と思いあたったのである。私が茶壷を使って白蘭から夕子に変身したのをみてから、丁香ちゃんの目つきが変わったような気がする。
茶壷を盗んだのは丁香ちゃんではないか――という考えがふたたび、うきあがってきた。
丁香ちゃんは私の変身をまのあたりにして、人の変身を可能にする茶壷をほしくなり、盗もうと思ったのかもしれない。謎の男の話は、やっぱりウソかもしれない。毎晩租界にあらわれるニセ白蘭の正体は丁香ちゃんかもしれない。丁香ちゃん役は、だれかに変身させてやらせてるのかもしれない。丁香ちゃんは白蘭に変身して租界でやりたい放題をし、だれかに変身させたニセ丁香ちゃんをいじめて楽しんでいるのではないか。なんのために、そんなことをするのか。
ねらいはコンテストの優勝かもしれない。丁香ちゃんもやっぱりファイナリストだ。本心では親友をけおとしてまでグランプリになりたいのかもしれない。だから白蘭の評判をおとして、かわりに自分の評価をあげようとしているのではないか。
いちど疑いだすと、いくらでも疑えた。丁香ちゃんは私の親友のふりをしているだけなのかもしれない。親友という立場を利用して、ライバル白蘭をボロボロにしようとたくらんでいるのかもしれない。ドレスだって丁香ちゃんが自分で切り裂いたのかもしれない。白蘭がやったように思わせて、白蘭を悪人にしたてあげるために。
決勝までに丁香ちゃんはもっとひどいことをするつもりかもしれない。そう考えると背すじが寒くなる。いったい私はどうしたらいいのか。
夕子は優勝の夢は捨てられなかった。白蘭としてグランプリになりたかった。だからアレーがコンテストをつぶす気だと知ったあと、裏切ってまで茶壷を盗んだのである。夕子も優勝するためには手段を選ばずにきたところがある。なのにここで夢をあきらめては、なんにもならない。
夕子は丁香を悪人とは思いたくなかったが、いまは最悪の場合も考えておく必要があると思った。丁香が白蘭の優勝をはばもうとしているなら、対策をたてる必要があった。
だが白蘭は丁香に弱みをにぎられている。丁香は白蘭の正体を知っている。のみならず、白蘭の生命線「白蘭に変身できる茶」をにぎっている。
丁香は毎日夕子に「白蘭に変身できる茶」を提供する。茶の入った瓶は丁香の棚にしまいこまれ鍵をかけられて厳重に管理されており、鍵はつねに丁香が肌身はなさず持っている。だから夕子は白蘭に変身したいかぎり、丁香にはさからえない。
丁香にそむかずに丁香の暴走をくいとめるには、どうしたらいいのか?
ふと、耳の奥に千冬の声がよみがえった――「丁香のよくないことを知っちゃった」、「あの人がみかけどおりの人間じゃないってこと」。千冬はなにを知っているのだろうか。丁香ちゃんの弱みでもにぎっているのだろうか。そう考えたら、いけないこととは知りながらも、知りたくなった。丁香ちゃんの行動を抑えるヒントをもらえるかもしれない。千冬の部屋に行こうか。
もとより千冬の部屋に行くのは危険だ。第一に、千冬の罠かもしれない。第二に、千冬の部屋に行ったのが丁香にばれたら、たいへんなことになる。
それに白蘭はまだ丁香を裏切る気はなかった。自分の唯一の親友なのだ。
にもかかわらず夕子はその日の夕方、丁香が租界にでかけたあと、千冬の部屋を訪れた。
「日本の麦茶、口にあうかな」
千冬は黄昏の光を集めたグラスを卓子におきながらいった。
「氷いれるね。ちょうど給湯室でもらってきたところ。白蘭さん、いいときにきたね」
千冬の寝台に座った白蘭は返事もせず、室内を軽蔑するように眺めわたした。
ありきたりな卓上ランプ、いかにもの流行雑誌等、いわゆる日本のモダン・ガール像からすこしも逸脱しないものでかためられた部屋。千冬の趣味はみるからにありふれている。同室の遠藤幸枝のインテリアもほぼ同じ感じなので、無個性のほどがうかがわれる。丁香の独特の個性とくらべてなんとすべてが味けなくみえることか。
「大会本番まであと五日かあ」
千冬はまのびした声でいった。白蘭はこれも無視して麦茶を飲んだ。必要以上に親しくする気はないという態度をとっている。私は千冬の招待に応じただけ、丁香ちゃんの話をききにきただけだ。
「明日スピーチだね。準備もう終わった? 私はまだ」
千冬の声が大きめなのが気にさわる。外でだれかがきいてたらどうするのだ。私がここにいることが、だれかにばれたらどうしてくれる。白蘭は心配で外の音に耳をすました。
「豆腐干(※布で豆腐を包み香料を加え蒸しあげた食品)! 五香椎茸・・・・・・豆腐干!」
きこえたのは、通りの豆腐干売りの呼び声ばかりだった。どんな天気の日でも毎夕きこえる、しゃがれ声。
時刻は十七時半前だった。
白蘭は自室をでる前さんざん外の物音に耳をすまし、廊下にだれもいないとわかってからドアをあけ、千冬の部屋に入った。丁香はその二十分前に夜の租界にくりだすため花園をあとにしていた。いまこの部屋にいることは千冬以外のだれにも知られていないはずだった。だが、いつだれにばれ、どこで丁香に伝わるかわかったものでない。
なのに千冬は関係ない話ばかり、外にもきこえるような声でしゃべる。
「幸枝(千冬のルームメイト)がいまいないのは、なんでかっていうとね――」
ただでさえ千冬の声が嫌いな白蘭はいらいらして、さえぎった。
「悪いけど、声、もうすこし小さくしてくれないかな。私がここにきたこと、ばれると困るから」
「あ、ごめん」千冬はのみこみ顔であやまり、ボリュームを下げたが、本題に入らないのはあいかわらずだった。
「でさ、幸枝だけどね、わざわざ北四川路のカフェになにしにいったと思う?」
白蘭は無視して、冷然といった。
「さっきの話きかせて。三限のおわりにいってたこと」
千冬はうなずいた。
「わかった」
そういって寝台の棚から一冊のアルバムをとりだし、押し花のしおりのはさんであるページを唐突に白蘭につきだしていった。
「この子、みて」
黄色い電燈にてらされたページには、なにかの集合写真があった。小学校高学年らしい子どもたちの顔がずらりと何段にもわたってならんでいる。二列目の比較的ととのった顔の少女をさして、
「丁香に似てない?」
と、千冬はきいた。白蘭は突然いわれて驚いたが、いわれてみればそんな気がしないでもなかった。
「うーん、すこし」
「似てるでしょ。いまの丁香よりぽっちゃりしてるし、顔はあどけないけど、それは六年も前だから」
「いったいなんなの、この写真」
「卒業写真。一九二四年度、奉天日本尋常小学校の」
「なんでそんなもの――」
「私の出身校だから。といってもこれは別のクラスの写真。だからつい最近まで私も知らなかったんだ、丁香にこれほど似た子がいたなんて」
「それが私にいいたかったこと?」
「あのね、これは丁香だよ」
「え?」
「私には確信がある」
「なにいってんの、丁香ちゃんが日本人小学校をでてるわけないでしょ、中国人なんだから」
「クボタトモコ」
「は?」
「クボタトモコっていうんだ、この子の名前。丁香の本名だよ」
「なにを根拠に」
驚くのももっとも、という顔をして千冬は、
「これみて」
と、今度は棚から一通の封筒をとりだしてみせた。
「花園に届いてたんだ」
おもてには「安井 智恒 様」という日本人の宛名と、花園の住所が筆で書かれてあったが、裏には差出人の名も住所もない。封は切られてあった。なかはみず、渡されるまま手にとって表だけ困惑顔で眺めた白蘭は、
「安井なんて人、花園にはいないよね?」
「うん、でもね、この安井智恒って名前と、さっきのクボタトモコって名前、対応してるんだよ。日本人だとわかるんだけど――」
千冬はそういって、そばのノートをちぎり、なにやら走り書きして、封筒の横にならべてみせた。 「安井智恒」の下に「久保田友子」の文字がならんだ。
「男性の名は『やすい・ともひさ』と読むんだけどね、『安井智恒』の『智(とも)』は『久保田友子』の『友(とも)』に、『恒(ひさ)』は『久』の訓読み『ひさ』に、『安(やす)』は『保』の音読み『やす』にあたると思うんだ」
千冬は白蘭を中国人と思いこんでいるから、できの悪い生徒を相手にする教師のような口調でいった。
「わかるかな。二つの名前は対応してる。つまり安井智恒は久保田友子を意味する暗号という可能性が高い。この手紙は安井智恒宛ではなく久保田友子宛だと考えられないかな?」
噛んでふくめるような口調に白蘭は腹をたて、つっかかるようにいった。
「かりにそうだとしても、久保田友子イコール丁香という証拠にはならないよね? だいだいこの手紙、どこで手に入れたの?」
千冬はそんな質問は予期していたという顔でいった。
「私がこの手紙を手に入れた経緯を話す必要があるね。でもちょっと長いよ、いい?」
「うん」
「じゃ話すね。――雑用係は郵便物をあつかうでしょ。毎日午前と夕方の二回、花園の門前の郵便受けからだして各部屋のポストに分配しにいく。私が雑用係になったのは七月十四日。守衛室の棚の引き出しに目をつけたのは、その日の朝だった」
「守衛室?」
白蘭はききとがめた。雑用係が守衛室に入ることなど許されていないはずだった。
「まあきいて」千冬は笑っていった。
「私、その日は雑用係初日で、あわててたの。郵便物をとりに門にいったはいいけど、郵便受けをあけられなくって。鍵は守衛さんが保管してるだろうと思って守衛室にいったのね。でも守衛さんがいなかったからパニックになって自分で鍵探すしかないと思って、なか入っちゃったの。で、あっちこち探してるうちに、その引き出しをみつけちゃったんだ」
「その引き出しって?」
「なにも入ってなさそうだったんだけど、あけたら、手紙が入ってたの。最初にみたときは手紙じゃなくて葉書だった。それが守衛さん宛じゃなくて、だれ宛だったと思う?」
「知らないよ」
「それがね、江田夕子宛だった」
「・・・・・・」
白蘭の顔色が変わった。それをどうとったか、千冬はあわてて説明した。
「あ、夕子のこと知らないか。白蘭さんがくる前にこの合宿所にいた、日本人の子で江田夕子っていうの」
「きいたことある。それより、葉書のつづき話して」
白蘭は青い顔をして、うながした。千冬はいった。
「消印みて驚いたんだ。それが五月だったから。だってそのときはもう七月だったんだよ。二か月も前の江田夕子宛の葉書がどうして守衛さんの引き出しに? って思って」
「・・・・・・その葉書、差出人はだれだった?」
「それがね、みようとしたら守衛のインドさんが戻ってくる足音がしたから、そのときはわかんなかった。あわててもとに戻して外にとびだしたよ」
「守衛室に入ったのは、ばれなかったの?」
「みつからないうちにでたんだけどね。ポストをあけてもらったあと、引き出しのことを遠まわしにきいたから、それで守衛さんはピンときたみたいで『守衛室に入ったのか。二度と入ってはいけない』っていってなにも教えてくれなかった。これは秘密があるなって思ったよ」
「どんな秘密が」
「どんな秘密だと思う? 私ね、それから毎日守衛室を観察したんだ。そしたら丁香が出入りしてるのがわかった。たまに守衛さんとコソコソ話してるし、私が近づくとパッとはなれるし、あやしいなって思った。ひょっとしたら丁香は守衛さんをいいくるめて守衛室の引き出しを使わせてもらってるんじゃないかって」
「江田夕子宛の葉書は丁香ちゃんが守衛室の引き出しに入れたと・・・・・?」
「うん。私、丁香が雑用係より先に朝早く花園の郵便受けのところにいるの、みたことあるし。もしかしたら丁香は守衛さんを買収したかなにかして丸めこんで、花園にとどいた郵便物を優先的にみせてもらえるようにしてたのかもしれない」
「なんのために・・・・・・」
「まあきいてよ。もっと驚いたことがあるんだから。雑用係になって三週間目の夕方のことだったんだけどね、花園の郵便受けに、江田夕子宛の葉書が入ってたんだよ。守衛室の引き出しにあったのと同じ葉書だった。そんなの入れたの、丁香しか考えられない。その日の昼に丁香が守衛室に出入りするところみたし」
「そ、それ、何月、何日のこと?」
「八月七日だったな。丁香は消印が五月の葉書をなんのためか、三か月間も夕子から隠してたんだね。差出人は李龍平となってたから、嫉妬かな? 夕子もかわいそうだよね。だから私その葉書直接渡そうと思って、届けにいったとき夕子の部屋をノックしたんだ。でもでなかったから、そのままポストにいれてきたんだけど」
「・・・・・・」
「丁香って悪い女だよ。江田夕子の親友づらしてたくせに、陰でいじわるしてたんだから」
――キー・・・・・・キー・・・・・・。
はるか遠くで水売りの推車の車輪のきしむ音がしているが、白蘭の耳には入らなかった。
夕子の白蘭はいま期せずして龍平からの返事が遅れた原因を知った。丁香はなんのために三か月も私から葉書を隠したのか?
外は夜の帳がおちつつあった。車輪のきしみに秋の虫のすだく声がまじりはじめている。
「とにかく丁香が守衛室の引き出しを特定の郵便物を保管するために使ってるのは、まちがいないよ」
千冬はいう。
「どうして。なんのために」
「同室の人にみられちゃ困るものを保管するためじゃない?」
「でも丁香ちゃんが使ってるって、はっきりした証拠はないんでしょ」
「どうかな。私はこの手紙がひとつの証拠だと思うな」
千冬はさっきの「安井智恒宛」の封筒をとっていった。
「これも守衛室の引き出しに入ってたんだよ」
「守衛室にまたしのびこんだの?」
「うん、先月末に。丁香のねらいが知りたくて、ずっとチャンスをうかがってたからね。インドさんが煙草買いにでかけたすきに、しのびこんだんだ。で、この安井智恒宛のをみつけた。そのときは中身読んでる時間がなかったから、そのままぬいて自分のものにしちゃった」
「そんなことしてだいじょぶなの」
「あれから二週間たつけど丁香はなにもいってこないよ」
「丁香ちゃんのものだとはかぎらないよね?」
「宛名は『安井智恒』。その名は『久保田友子』に対応する。久保田友子は日本人小学校にいた丁香そっくりの少女の名前。これだけ条件がそろったら、丁香は久保田友子、この手紙は丁香宛ってことにならない?」
「・・・・・・仮にそうだとして、丁香ちゃんに手紙だすのにわざわざ『安井智恒』宛と書く必要があるかな? そもそもこれを送ったのはだれなの? 差出人は?」
「それは中身をみれば」
千冬はあいた封筒に手を入れていった。
「封は最初から切ってあった。この手紙の消印は八月二十一日。私が盗んだのは二十四日。丁香はたぶん花園の郵便受けからこれだけぬきだして中身を読んだあとで、あの引き出しにしまったんだね」
ひろげた便箋にはごく短い日本語の文がつづられてあった。
「訳すね」
訳されるまでもなく白蘭には読めた。そこには達筆で次のような文が書かれてあった。
「前略 智恒殿
どうだい、その後。
例の太夫が君に完全に参る日は遠くあるまい。
歌を詠んでやっては如何。
ちなみに僕なら愛する人にこの歌を捧げる。自作であったらよいのだが。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは 」
たったこれだけである。男性が友人の男性に、お気に入りの遊女をものにするアドバイスでもしているような内容だ。
「私が最初に注目したのは、この筆跡」
千冬は声をひきしめた。
「これ、どうみても、おじさんの筆跡なんだ」
おじさんとは、もとより日本陸軍少将小山内駿吉のことだ。
「つまりこれはおじさんから丁香にあてた手紙じゃないかと」
「なんで。全然そんな感じの文面じゃないけど」
「よく読むと意味がわかる」
千冬はまた教師みたいな口調になっていった。
「たとえば最後の短歌。これは日本の千年前の貴族がつくった歌なんだけど、訳すとこういう意味――『あなたと私は約束をしたね、たがいに涙でぬれた袖をしぼりながら、末の松山を浪が越すことのないように二人の愛も永遠に変わらない、と』。(『新総合国語便覧』より)。つまり愛の歌。ということは、どういうこと?」
白蘭は失笑していった。
「丁香ちゃんが小山内将軍に愛の歌を送られたとでも?」
「うん」千冬は深刻な顔でうなずいた。「考えたくもないけどね」
「ありえない」
「でも短歌の前の文に『僕なら愛する人にこの歌を捧げる』とあるでしょ。『僕』とはおじさんのこと、『愛する人』とは丁香のことをいってると考えられる」
「深読みしすぎじゃない」
「私もそうかもって思った。でもこの手紙を読んだあと、みちゃったんだよね」
「なにを」
「丁香がおじさんの家のまわりをうろついてるのを。ノーメイクで髪は帽子で隠してたけど、あれは絶対丁香」
「うろついてたから、なんだっていうの?」
「丁香のあの目はすべてを物語ってた。おじさんの部屋の窓をじっとみつめるあの目、あれは恋にとりつかれた目だよ。会いたいけど会えなくてがまんできず理性をすてて来ちゃった、という目。おじさんはその日から急な出張で上海を留守にしてたからね。私、認めたくないけど感じたんだ、ふたりは絶対深い関係にあるって」
「そんなわけない。丁香ちゃんにはれっきとした恋人がいるよ」
白蘭はいってすぐ、しまった、と思った。よりによって千冬に丁香の秘密をもらすなんて親友失格だ、とたちまち後悔の念におそわれた。ところが千冬は驚きもせずにいった。
「恋人って李龍平さんのこと? それだったら、そっちこそフェイクだよ」
「え」
千冬が知っていたという驚きと、フェイクの意味がとっさには解せなかったのとで白蘭は目をむいた。
「李さんと丁香はほんとうにはつきあってないよ。フリだけ」
千冬はいった。
「私知ってる。李さんは丁香のほんとうの恋人ではないって」
「なに、いってんの・・・・・・」
「李さんに直接きいたんだ」
「え、直接・・・・・・?」
「私このごろ李さんと仲良くなったから。といっても変な意味じゃないよ。女友だちみたいによく話すの。だから李さんが丁香のアパートによく出入りすることも知ってる。ほんとうはつきあってないことも」
「どういうこと」
「李さんはいってる、丁香には出所後世話になってるって。でもそれだけの関係だって。李さんには特別な感情はないし、丁香にはちゃんと恋人がいるみたいだって。それなのに、それを隠して、『俺にほれてると思わせたがってるらしい』って」
千冬の表情にも声にもウソは感じられなかった。真実をいっているようだ・・・・・・。
白蘭は愕然とした。虫がすだく声も耳に入らない。千冬の話がほんとうなら、丁香は自分にずっと、ウソをついていた、ということになる。丁香は自分に李龍平と交際していると告白した。あれは八月七日、友情誓約をたてた晩だった。正確には友情誓約をたてる直前のことだった。
丁香ちゃんは私にいつわりの告白をしたのだろうか。だとすると、そのあとたてた友情誓約もいつわりだった可能性がある・・・・・・。
「ほら吹きだよ、丁香は。恋人は李さんじゃなくて、おじさん――小山内将軍」
「ウソ、いくらなんでも小山内将軍が恋人なんて」
白蘭は必死の抵抗をこころみた。
「だいたい小山内将軍ともあろう人が、恋文とばれる可能性のある手紙をわざわざ花園に送ってこないでしょ」
「ばれないための守衛室の引き出し、宛名の変名」
「でも、こうして千冬さんにばれてるじゃない」
「油断してたのかも。それに、おじさんが丁香に手紙を送ったのは、恋文以外の目的もあったはず」
「どういうこと」
「日本特務として連絡をとる必要があったんだと思う」
「・・・・・・に、日本特務として?」
「丁香は特務機関の正式なメンバーになってないにしても、おじさんとつきあってたら、スパイの真似ごとはさせられてるでしょ。なにせ正体は久保田友子っていう日本人なんだから」
「ま、まさか丁香ちゃんが・・・・・・」
「あくまで推測の段階ではある。でも丁香が日本特務行きつけの倶楽部にきてるのみたし。巴黎夢倶楽部っていうんだけど」
「・・・・・・」
白蘭は血の気をひかせた。あの倶楽部が日本特務の行きつけだとは、いま初めて知った。
「この手紙の、ここのところが日本特務の暗号文っぽいんだ」
千冬はいった。便箋をさして、
「この二行目、『例の太夫が君に完全に参る日は遠くあるまい』ってところ。『例の太夫』には、『遊女』以外の特殊な意味が隠されてると思うんだ」
それはこじつけ、と白蘭はいおうとしたが、ある考えを頭によぎらせてハッとした。
「例の太夫」の裏の意味が、わかる気がしたのである。「太夫(だゆう)」とは、「えだゆうこ」の真中の三文字をとったものではないか? 「例の太夫が君に完全に参る日は遠くあるまい」=「江田夕子が丁香に完全に参る日は遠くあるまい」ということだとすると、「江田夕子を参らせろ」と謎をかけているのかもしれない。それがなにを意味するか?
千冬の話がほんとうなら、丁香がこの手紙を読んだのは八月二十二日の朝だとされる。二十二日とは巧氏廟堂落成記念式典の日だ。その日の晩、夕子は茶壷を盗まれた。茶壷を盗まれて夕子は参った。――つまり手紙のこの文で、小山内駿吉は「江田夕子から茶壷を盗め」と丁香に命令したのではないか? 丁香は命令にしたがって夕子から茶壷を盗んだのではないか?
――深よみしようと思えばいくらでもできた。だがいま夕子はあらゆる疑惑をふりはらおうとするように、かぶりをふっていった。
「丁香ちゃんが日本人でスパイなんて考えられない。日本語しゃべれないし、日本の地名だって全然知らないんだから」
だが千冬は自信たっぷりにいった。
「そうみせてるだけだよ。女優のはしくれには朝飯前なんだよ。丁香の正体は十中八九、日本人、久保田友子。しかもおじさんの愛人で同時に日本スパイ」
「でも、丁香ちゃんがほんとにスパイなら手紙をとっとくようなミスはしないはず」
白蘭は抵抗した。これにも千冬は落ちつきはらって反論した。
「この手紙は恋文でもあるっていったでしょ。危険だとわかってるのに破棄しなかったのは、丁香が捨てるに捨てられなかったからじゃないかな? スパイにも人情はあるからね。
小山内駿吉は国に妻子もあれば、中国各地に愛人もいる男だよ。自分がどれだけ愛されてるか、丁香としては不安だったでしょう。そこにこの短歌をもらった。これこそ彼の愛の証明と思って、ずっと残しておきたいと思ったんじゃないかな」
「・・・・・・」
白蘭は信じたくなかった。けれども丁香がスパイと考えると、この二週間不審に感じたことの説明がつく気がした。丁香に案内された部屋で茶壷がなくなったこと、謎の男の話・・・・・・。
丁香ちゃんが私の友だちになったのは、ねらいがあってのことだったのだろうか? ――ちがう。白蘭は必死に否定しようとした。親友が自分をあざむいていたなんて、そんなおそろしいこと、認められるわけがない。
千冬がウソをついているのだ、と白蘭は思おうとした。千冬という人間は前から信用できなかった。考えてみれば千冬のいう証拠はぜんぶ、千冬がひとりででっちあげられるものだ。アルバムの写真にしろ、手紙の筆跡にしろ――そもそも手紙自体。
それこそすべてはフェイクで、千冬の作り話かもしれない。
――だとしたら千冬はなんのために自分にそんな作り話をするのか?
丁香をトップ3からひきずりおとすのが目的か? そのために白蘭の力をかりようというのか?
「ひとつききたいんだけど」白蘭は千冬の目をみていった。
「どうしてこんな話、急に私にしたの? 私たち、いままでほとんどしゃべったこと、なかったのに」
「変に思うよね」疑問に思うのはもっとも、という顔をして千冬はいった。
「私、いままで白蘭さんを避けてたし」
はっきりいわれて白蘭は戸惑った。
「やっぱり避けてたの?」
「そりゃあね。五月のファッション・ショーで初対面だった白蘭さんのいうことを信じて、ひどい目にあったからね。だまされた私もばかだったけど、正直あなたをうらんだし憎んだよ」
それならなぜ私に丁香の話を? 白蘭はよけいにわからなくなった。千冬はひとりごとのようにいった。
「でも私、下に落ちて、いろいろ気づいたんだ。それまでの私は人に好かれることが最優先で、なんでも人にあわせてばっかりで、自分なんてなかった。まわりにこうとみられたい姿を、まわりにはもちろん自分にも、ほんとうの姿であるかのように思わせてただけだった」
千冬はなにをいいたいのだろう。
「私ね、どんなに努力しても、好かれなくなってから、人に好かれることを目標にするむなしさがわかったんだ。それまでは大勢の人のそれぞれの好みにいちいちあわせようとしてがんばってたけど、どうやっても嫌われるようになって、ばからしくなってね。それで気づいたの。人に好かれるための行動って、人のためじゃなく自分のための行動だったって。安心感をえたり、自尊心を満足させるためにしてたんだって」
千冬はつづける。
「それで思った。どうせ自分のためなら、自分の納得できる行動をしたほうがいい。自分が納得できる行動なら、人に嫌われても関係ないって。それからだよ、自分がミス摩登になりたいわけを本気で考えたのも」
千冬は真顔でいう。
「私は変わった。自分の頭と言葉で考え、自分に正直に行動しようと考えるようになった。自分にうそをつかなくなったおかげで他人にもうそをつかなくなった。人にこびなくなった。意見をはっきりいうようになった。それもこれも転落したからこそ」
千冬は梅の花のような微笑をうかべていった。
「でもね、誤解されたら困るからいうけど、白蘭さんに感謝してるわけじゃないからね」
「じゃどうして、私に丁香ちゃんの秘密を――?」
「白蘭さんに手伝ってほしいから。丁香の欺瞞をあばくのを」
やっぱりそういうことか、と思って白蘭は迷惑そうにいった。
「なんで」
「私、自分が無実の罪で人気を失っただけに、許せないんだよね。丁香が名前と経歴をいつわって、グランプリ候補づらしてんのが」
「じゃ、私のことも許せないんじゃ・・・・・・?」
「まあね、許せるといったらウソになる。でも白蘭さんには復讐したいって気にはならない。こういっちゃ悪いけど白蘭さんは前よりおちぶれたでしょ。だからまだ許せるのかな。それになぜだか白蘭さんのことは、そこまで憎めないんだよね」
千冬はいった。
「でも丁香はちがう。本能的に嫌い。なにされたってわけでもないのに、初めて会ったときから虫が好かない。合宿初日に、丁香と私のうしろ姿が似てるってアンドリューにいわれたのも影響してる。とにかく仇敵って感じ。それが裏で汚いことしてるって知って、よけいに憎くなった」
「『裏で汚いこと』って?」
「李さんが教えてくれたんだ」
「なにを」
「もう一週間前になるかな、李さんも丁香をクサイとにらんでるらしいとわかったのは。
私、丁香の裏の顔を探るのが目的で、夜に何度か監視したことがあるんだけどね、フランス租界の丁香のアパート。そこに李さんが出入りしてるってのは、それまで何度かみて知ってたんだけど、むこうには気づかれてないと思ってたんだ。ところがある晩、話しかけられてね。なんでこんなところにいるのかってきかれて、正直にこたえたの。そしたら、李さんも私同様丁香に不審を抱いていて、丁香を日本特務のスパイじゃないか疑ってるってわかって、それからは意気投合。丁香との交際がみせかけってこともそのとき教えてもらって、それから情報交換するようになったの。で、いまは丁香の化けの皮をはがそうって話になって」
「どうやって」
「李さんがいま作戦をたててる。丁香に直接『あんた日本人でしょ』ってききたいけど、あの鉄面皮が簡単に泥吐くわけないから――それどころか下手すりゃ、こっちがつぶされるから、罠にかけるんだって。その作戦に白蘭さん、あなたが必要だって話」
「私が・・・・・・?」
「私もくわしいことはまだきいてないんだけど、丁香を倒すには白蘭さんの力がどうしてもいるらしい。私は李さんを全面的に信頼してるから、いわれたとおりに白蘭さんをスカウトしてるってわけ。だから、よかったら、ひきうけてくれない?」
千冬が「李さんを全面的に信頼してる」といったのをきいて白蘭は一瞬、千冬が李龍平に恋愛感情を抱いているのではないか、と疑った。だが語調を反芻するとそうでもなさそうに思える。千冬はこたえをうながした。
「白蘭さん、丁香にはいいかげん愛想つかしてるでしょ。今日みたいにいじめてもないのに、みんなの前でいじめられたふりをされちゃ、化けの皮をはがしたくならない?」
ひきうけるものときめつけてるような千冬の態度が気にいらず、白蘭はつきはなすようにいった。
「私と丁香ちゃん、親友だから」
「ふーん親友!」
千冬はばかにしたようにいった。「ほんとに親友なの?」とでもいいたげである。白蘭は意地になっていった。
「私たちは、かたい絆で結ばれてるの。友情誓約だってかわしたんだから。五つの条項をやぶったら、罰をうけるきまりだってある」
「へえ、罰があるの。友情誓約なんて名前はいいけど、丁香が白蘭さんをしばる目的でつくったんじゃないの?」
そうかもしれない、と一瞬思った。そんな自分が許せなくて白蘭はムキになって丁香を弁護した。
「丁香ちゃんの友情は本物だよ。私のために詩だって作ってくれたんだから。中国語で作って、私のために日本語で詠んでくれたんだよ。三間(広子)さんにたのんで和訳してもらったって」
「どうして白蘭さんのために日本語で?」
「あ、それは・・・・・・」
白蘭の正体は江田夕子、とはいえるわけがない。
「日本語で詠みたかったみたい」
といって言葉を濁した。
「正体が日本人だからかな。丁香は親友の前で油断したかな。でも変だね」
「とにかく丁香ちゃんは私のために詩をつくってくれたんだ」
「どんな詩?」
白蘭は丁香の作った日本語の詩『露草の花さく小さき館に、われ、愛する友と住めり』を、わざと下手に発音して口にした。
「ふうん」
千冬はからかうような顔をしたが、ふと宙をみつめ、ひとりごとのようにいった。
「いまの詩、どっかできいたことある。どこできいたんだっけ・・・・・・」
記憶をたぐる目をすると、
「そうだ、たしか『花物語』の一節に、そういうようなのがあったよ。物語りの少女がそんな詩を詠んでた」
手をうっていった。
「私、『花物語』でいまきいた詩を読んだ気がする。『花物語』ってのは、日本の女学生のバイブルといわれた吉屋信子の短編集なんだけどね」
「詩は丁香ちゃんのオリジナルだよ」
白蘭は主張したが、
「私『花物語』持ってるから、ちょっとみてみよう」
千冬は本棚から『花物語』をぬきだし、パラパラとめくってしばらくたつと、
「あった!」と叫んだ。「やっぱり、『露草』って物語のなかにある」
そういって白蘭にその部分をみせた。白蘭を本物の中国人と思っている千冬はいう。
「ひら仮名よめなくても漢字でなんとなくこれだってわかるでしょ」
もとより日本人の夕子には読める。血の気がひいた。そこに書かれてある言葉は、丁香の詠んだ日本語の詩に合致した。ちがいは一字だけだった。丁香の詩では『小さき館』なのが、本では『小さき寮』になっている。白蘭――夕子はその物語をはじめて知った。千冬の前だから、日本語をすらすら読むわけにはいかなかったが、ちょっとパラパラめくってみて、ふたりの少女の友情物語とわかった。女学校の寮生「秋津さん」と「凉子」は姉妹のように慕いあっている。詩は同じ寮舎のだれかが、ふたりの仲をたたえて寮の壁につづったものとしてでてくる。その詩を丁香が自作の詩といつわったのは、もはやあきらかだった。
さらに、ある一文が白蘭の目を刺した――「(凉子を)不幸な寂しい子と思って秋津さんにとっては、外に自分を慕ってくる多くの幸福な快活な美しい小さい方達を眼にもとめずに凉子のためにならなんでも一生懸命になりました」。それを読んだ瞬間、丁香は物語のなかの「秋津さん」のまねをしていただけのような気がした。「秋津さん」と「凉子」は本物の友情で結ばれている。丁香ちゃんがそれを教科書にして本物の友情をよそおって私に接していただけとしたら・・・・・・?
「またひとつ丁香のウソがわかったでしょ」千冬はいった。
「丁香は『花物語』の詩を盗作したんだよ。それを中国語訳して、さも自分が作ったみたいにいった。丁香って人間は、ウソと演技でなりたってるんだよ。あの人のほんとうの姿、知りたいと思わない? ね、暴こうよ、いっしょに。私と李さんに協力する気になってくれた?」
白蘭はしかし、すなおにうなずく気にはなれなかった。丁香を疑いはじめたとはいえ、裏切ろうというところまでいっていなかった。もっとも千冬とこうして会っている以上、すでに丁香を裏切ってはいるのだが、それ以上の行為にふみこむとなると、またべつだった。
だいいち相手は千冬である。警戒せずにはいられない。江田夕子は過去にその誘いにのって、さんざんひどい目にあわされている。李龍平が白蘭を仲間に入れたがっているというのも、どこまでほんとうかわかったものではなかった。
「・・・・・・いまは考えさせて」
とだけ、白蘭はいった。すると千冬はいった。
「わかった。返事、木曜まで待つよ」
「どうして木曜」
「李さんの作戦を実行するのが、金曜の夜なんだ。前日の夜にうちあわせする。それまでにまにあえば、まあだいじょぶだから」
「作戦の実行ってしあさってなの? 急だね」
「ハルトン主催の夕食会にあわせるらしいよ」
「なに、その夕食会」
「金曜の夜にあるんだよね。コンテストの決勝をひかえたファイナリストを激励するためにハルトンがひらくって。白蘭さんのほうがくわしいんじゃない? 『ファイナリスト激励』っていっても招待されるのはトップ3だけとか。招待状、届いてるでしょ?」
白蘭はトップ3――現在3位ではあったが、そんな話はきいていなかった。
「・・・・・・届いてないよ、招待状なんて。夕食会の話、いまはじめてきいた」
「うそ、おかしいな。丁香がポストからぬいたんじゃない?」
白蘭は否定しようとしたが、言葉がでてこなかった。李龍平からの葉書を三か月も隠していたのが丁香とするなら、ありえることだと思った。
「丁香にきいてみたほうがいいよ。夕食会の招待状、きてなかったか。否定しても、顔色変えたら盗んだってことだよ」
「・・・・・・」
白蘭は三〇二号室をでても、しばらくはまだ悪夢にさまよいこんでいるような心地だった。
あまりに衝撃的な話つづきだったせいか、神経をすりへらして二三時間も千冬の部屋にいた気がしていたが、実際は半時間しかたっていなかった。変身の効果がきれる六時まではまだ時間があった。
とはいえそのときの白蘭は腕時計をみるよゆうもなかった。ショックをひきずって、ぼうっと廊下をわたっていた。それが自室の三〇五号室のドアをみたとたん、ハッとなった。
ドアのすきまから明かりがもれている。部屋の電気がついている。白蘭は部屋をでるとき、電気はつけなかった。
つけたのは、だれか。部屋にだれか、いるのか。
丁香はまだ帰っていないはずである。いつも夜中まで遊んでいる。いるわけがない――否定した瞬間、ドアのむこうで音がした。はっきりとした、衣ずれの音である。なかにいるのは丁香だと本能的に感じとった。
心臓がちぢみあがった。
知らないあいだに帰っていたのだ。
白蘭は思わず廊下に立ちすくんだ。私が自室にいないと知って、丁香ちゃんはどう思っただろう。千冬の部屋にいる、とわかっただろうか。ばれているにちがいない、という気がした。
丁香は三〇五号室からずっと千冬の部屋にいる私のようすをうかがっていたかもしれない。ひょっとしたら私と千冬の仲を探るために、でかけるふりをしてずっと隠れて私をみていたのかもしれない。すくなくともいま、ドアのすきまから、廊下に瞳をこらしているのはたしかのようだ・・・・・・。
私は監視されている。
恐怖が白蘭を金縛りにした。と同時に白蘭は、かつてこれと同じ恐怖を味わったことを思い出した。
あのときは麗生だった、麗生を恐れていた――麗生のたてる音や声をきくたびに、びくびくしたものだった。いま、麗生はこの世にいない。いま、私の外見は江田夕子ではなく白蘭である。上海一といわれるほどの美しさの持ち主である。にもかかわらず私はあのときと同様の恐怖にとらわれている。それを笑えるよゆうはなかった。丁香にたいする恐怖でがんじがらめにされていた。
ドアをあけるのがこわい。「どこ行ってたの、なにしてたの」と、丁香にきかれたら、なんと答えればいいのか。選択肢は二つしかない。正直に千冬の部屋に行ったと告白するか、ウソをつくかだ。
いまの白蘭にウソをつける自信はなかった。ただでさえ罪悪感でいっぱいになっていた。そんな状態でウソをついてもすぐみぬかれる。ウソをついたことがばれたら、それこそたいへんだ。
といって、正直にいう勇気もなかった。丁香ちゃんの正体について話していた、などといえるわけがない。
どうしたらいい? いつまでもこうしているわけにもいかない。廊下には人目がある。
白蘭は覚悟をきめた。丁香にウソはつけないから、千冬の部屋に行ったことだけは正直に話すしかない。なにを話したかをきかれたら、丁香ちゃんの悪口を無理矢理きかされたなどといって適当にごまかそう。そう思ったときだった。三〇五号室のドアのむこう側から奇怪な音がした。バサッ、バサッ、とシーツをはたくような音である。
白蘭は全身をふるわせた。「早くしろ」といわれたような気がして、頭を真っ白にしてドアノブに手をかけ、夢中でまわした。
あけたとたん、巨大な火炎のようなものが視界をおおった。
「ひっ」
白蘭は思わず叫んで身をひいた。バサッ、バサッ、と音がする。そのたびに炎のむきが変わった。かたちも変わった。火炎とみたものが、電燈の光をあびて黄色くそまった一枚のシーツであったことはまもなくわかった。それは丁香の頭上にかかげられ、部屋いっぱいにひろげられ、彼女が舞うのにともなって音たててはためき、新たな光と影をうんでいる。そうとわかっても、白蘭の恐怖はおさまらなかった。
丁香は自分に怒っている、としか思えなかった。でなかったら、こんな威嚇みたいな表現をするわけがない。やはり千冬の部屋にいったことは、ばれているのだ。ここは早めにあやまっておくにかぎる。白蘭はうしろ手でドアをしめると、思いきっていった。
「あのね私ね、千冬とちょっとしゃべったの」
丁香は白蘭にみむきもしなかった。ひたすらシーツをあおいでいる。
――バサ、バサッ・・・・・・。
怪鳥の羽音のように白蘭にはきこえた。
ふいに音がやんだ。シーツがとまった。丁香が白蘭をみた。丁香はにこりと笑っていった。
「いま、なんかいったね」
すこしも屈託のない声だった。白蘭は目と耳を疑い、どもりながらいった。
「あ、千冬とちょっとしゃべったって、いった」
「それが? 三限のときちょっと話しかけられただけでしょ」
「そう」
白蘭はほっとしていった。どうやら千冬の部屋にいたことはばれていないらしい。心配するほどのことはなかった。どうやら丁香は機嫌がいい。
「どう、ロイ・フラーに似てる?」
丁香はポーズをとってきいた。シーツといっしょに、身にまとっている古代風のドレスのすそを左右から頭上に高々とかかげている。その姿はたしかにロイ・フラー(※一八七〇-一九二七 パリで活躍したダンサー)そっくりにみえた。丁香が最近クローゼットにロイ・フラーのポスターを貼ったので、みるとわかる。
「うん、すごく似てる」
白蘭はそういってうなずいた。
「うふふ」
丁香はうれしそうに笑い、声をはずませてしゃべりだした。
「よかった、予定を変更して早く帰ってきたかいがあった。今夜はジョッフルに行くつもりだったんだけどね、途中でベルエポックなお店をみつけて、入ってみたら、小物からなにから感動的なまでにロイ・フラー的だったの。特にこのドレス。ね? 買って着たら踊りたくなっちゃった」
丁香はここ二週間、過去に中国の伝統文化に熱をあげていたのがウソのように、世紀末のパリに夢中になっている。そのせいか習慣も中華風から洋風に様変わりしていた。工芸茶にかわって紅茶をのむようになった。部屋では花底盆靴のかわりにスリッパを履くようになった。夜寝るときはフランス製の化粧着をまとうようになり、清朝時代の鼻烟壷で嗅ぎ煙草を味わうかわりに、ダンヒルを吸うようになった。
ロレーヌの影響だった。だから白蘭としては気に入らなかった。けれども丁香は悪びれずにきく。
「気に入ってくれた?」
そのたびに白蘭は返事に困る。心にもないお世辞はいえない性質なのだ。いまも、なんとこたえていいかわからなかった。丁香は不安そうな顔になった。と思うと白蘭の顔をみて、ふいにハッとしたようにいった。
「もしかして・・・・・・」
瞳を凝固させて白蘭に近づいた。なにをいわれるのだろうと白蘭はかまえた。丁香は白蘭の目の前でとまった。うったえるような目をした。口をひらき、なにかいおうとした。けれども声がでないようだった。丁香は口の動きを変えた。しばらくたってから、やっといった。
「・・・・・・怒ってる?」
白蘭はなんのことかわからず、首を横にふった。すると丁香はためらいがちにいった。
「お昼に描いた絵のこと。・・・・・・あれ、私はとめたけどロレーヌが・・・・・・」
夕子の絵をぬりつぶしたことをいってるのだ。丁香は白蘭の沈黙を怒ってるためと考え、怒りの原因はあの絵にあると思ったらしかった。驚くほど弱々しい声で丁香はいった。
「すぐ、あやまりたかったんだけど・・・・・・私、あやまろうとするといつも、口をあけたまま、声が出せなくなるの・・・・・・」
白蘭は意表をつかれた。丁香を抱きしめたい衝動にかられた。丁香がいま自分の気持ちを気にしてるなんて思ってもみなかった。昼間のこと、丁香ちゃんは悪いと思ってたんだ。私にしたことは不本意だったんだ。
「おわびに」丁香はいった。頬をそめ、おずおずと口をひらいた。
「この、つまらないものですが、自己流のダンスを披露するから勘弁して」
そういって白蘭の返事を待たず、シーツとドレスをひろげた。それらは紋白蝶の羽のようにふわりと宙にうかび、ひろがった。ハタハタとゆらして丁香はいった。
「こんな私、夕ちゃんにしかみせられない」
両腕を動かしたまま、丁香はくるくるとまわりだした。黄色い電球の下に、あたかも巨大な蝶が現出したかのようだあった。はじめ痛々しかった丁香の笑顔はしだいに本物の笑顔になった。
「みてくれてありがとう」舞いながら丁香はいった。「いつも私、わがままでごめんね」
白蘭は胸がいっぱいになった。感動して言葉がでなかった。「私こそ、千冬の部屋にいってごめん」と、いいたい気持ちだった。だけど感動的な雰囲気をこわしたくなかったから、丁香の肩に手をのせるだけにとどめた。すると丁香は白蘭に抱きついて、
「私の親友」
と、よんだ。そして耳にささやいた。
「私が気を許せるのは夕ちゃんだけ。これからもずっと、友だちでいてくれるよね」
白蘭は丁香の温かさに酔ったようになって、力強くこたえた。
「うん」
ああ、私はどうして丁香ちゃんを疑ったりしたのだろう。私たちはこんなにも強い絆で結ばれているというのに。
私白蘭、もとい江田夕子は、親友蘇丁香を一度でも裏切ろうとした自分を恥じる。千冬の話を一度でも真にうけた自分を恥じる。そう思って丁香の体をぎゅっと抱きしめた。丁香がそれにこたえて抱きしめかえしてきた。私たちは通じあっている。千冬だったら、とうていこうはいかない。
丁香にたいする疑念も恐怖も、きれいに消えたようになった。安心したら、千冬の話がウソだと確かめたくなって、白蘭は少々唐突だと思ったが、いった。
「ハルトンの招待状なんて、届いてないよね?」
いった瞬間、丁香の体がかたくなった気がした。けれども丁香の声はおちついていた。
「だれ宛に?」
白蘭もおちついていった。
「うんと、白蘭宛と、丁香ちゃん宛」
「ハルトンのなんの招待状?」
丁香は依然白蘭に抱きついたままきいた。白蘭も丁香を抱きしめたままこたえる。
「ハルトンがトップ3を招いて夕食会をひらくらしいんだ。ほんとかどうかわかんないけど、今度の金曜日とか」
「だれからきいたの」
かたい声だった。白蘭は胸がどきどきした。とっさにいった。
「うわさで・・・・・・きいた」
ほんとうのことはいえなかった。すると丁香はくり返した。
「だれがいってたの?」
同じ言葉をくりかえした。語調はうってかわって厳しくなっている。白蘭は目の前が真っ暗になった気がした。観念したようにいった。
「その、千冬が・・・・・・ふりまいてたうわさで」
千冬の名がでたとたん、丁香は顔色を変えていった。
「やっぱり――」
つぶやいて身を離し、夫の浮気をとがめる妻のようにいった。
「千冬とそんな話してたんだ」
「私は、千冬がいってるのを・・・・・きいたただけ」
「でも、うのみにしたんでしょ?」
「いや・・・・・・」
「千冬はデマカセをいってる」丁香はきっぱりといった。
「招待状は白蘭に届いてない。トップ3っていっても、白蘭は招待されてない。招待状をもらったのは、私とロレーヌだけ」
白蘭は驚いていった。
「え。ということは丁香ちゃんには招待状届いてるの? 夕食会ってほんとにあるの?」
瞬間、丁香はしまった、という顔をした。だがすぐに、ひらき直ったようにいった。
「だったら?」
「・・・・・・」
白蘭がなにもいえずにいると、丁香は顔をそむけ、着がえをもって、なにもいわずにバスルームに去った。
バタン、とドアがしまる音がした。
白蘭はショックだった。一部にしろ千冬の話が事実だとわかったからだ。ハルトンの夕食会はある、招待状は丁香とロレーヌには届いている。白蘭にも届いている可能性は否定できない。丁香は「届いてない」といったが、ウソかもしれない。なぜなら丁香ちゃんは私が招待状の話をしたとたん、体をかたくし不機嫌になった。やはり千冬のいうとおりなのか。丁香ちゃんは私がポストをあける前に白蘭宛の招待状を奪って知らないふりをしているのか。
丁香ちゃんが白蘭宛の招待状を隠しているとするなら、その目的はなにか?
白蘭の評価をさげることではないか。
ここで想起されるのは、ニセ白蘭の存在だ。茶壷を盗んだのが丁香ちゃんとするなら、本物の白蘭(つまり私)を欠席させるかわりにニセ白蘭を出席させて、夕食会でとんでもないことをさせるつもりかもしれない。
――ぐわあん・・・・・・。
戦闘機のうなりにも似た音が壁からきこえた。バスルームの蛇口に水が到達するまでにする音である。
室内は静かだった。ただ水道の音だけが、黄泉の底からきこえるもののようにとどろいている。すると白蘭はまたしても麗生を思いだした。――同時に、麗生の音におびえていた我が身、江田夕子を思いだした。私は隣室から音がするたび、生きた心地がしなかった。ちょっとでも音がきこえると、自分へのあてつけではないかと疑い、恐怖したものだった。
いま壁からきこえるのは、丁香の音だ。単調なシャワーの音に自分への怒りは感じられない。――と、あのときそっくりにバスルームの物音から人の精神状態を探ろうとしていた自分に気づいて、白蘭は失笑した。鏡をみた。顔がゆがんでいる。せっかくの美貌もろくでもない精神のせいで台なしだ、と思った。われながら、自分がつくづく情けない。丁香が上機嫌なら自信がわき、丁香が不機嫌になれば自信喪失する。白蘭になろうが夕子だろうが、人の機嫌に左右されてばかり、人の機嫌を気にしてばかり。まったく自分がいやになる。
けれどもいつまでも自分ばかりを責めていられる白蘭ではなかった。白蘭――夕子には、不満をなんでも他人のせいにして解消する癖がある。ある程度自分を責めたら、今度は他人を責めたくなるのが、つねだった。いまは丁香を責めたくなった。白蘭は思った――丁香ちゃんも丁香ちゃんだ。「わがままでごめんね」とあやまった口の下から、招待状の話をしただけで不機嫌になって、おまけにウソついてごまかすなんて。千冬のいうとおり蘇丁香という人はウソと演技でぬりかためられているのかもしれない。私にあやまったのも、抱きついたのも、「私の親友」、「ずっと友だちでいてくれるよね」といったのも、その場だけの方便だったのかもしれない。すべては演技なのかもしれない。
寒気がしてきた。丁香ちゃんを信じられなくなったら、私はいったいなにを信じればいいのか。千冬を信じるべきなのか? あの千冬を――?
白蘭は両手で顔をおおった。重いため息をついた。
両手をはなし、ふたたび鏡をみたとき、うつしだされていたのは江田夕子の顔だった。茶の持続時間がすぎて変身の効果がきれ、もとの姿に戻ったのだ。白蘭とはまったくちがう華のない顔。にもかかわらずその瞬間、江田夕子とそっくりに思えた。どちらも表情が惨めなことには変わりがない。
夕子は寝台に身をなげだした。うつぶせになった。どうしてこんなことになってしまったのだろう・・・・・・。トップ3なのに、優勝はすぐ手近にあるのに、私はいま全然幸福じゃない。いま思えば、龍平さんと話してたころが、いちばん楽しかった。それも5月のまだ合宿が始まったばかりのころ。龍平さんはよく私夕子のまぬけぶりをからかった。おなかをかかえ、心からおかしそうに笑った。初夏の晴れた踊り場だった。マレーネ・ディートリッヒの甘い歌声が流れていた。その声に耳をかたむけ、龍平さんはしみじみといったものだった――「これは映画『嘆きの天使』の挿入歌、曲名はドイツ語で長いよ――『イッヒ ビンバン カッフ ビフーザウ リーベ アインゲシュタルトゥ』っていうの」。
そのレコードを彼は私にくれた。正確にはチャリティ・イベントで白蘭にあずけ、江田夕子にわたしてほしいとたのんだのだった。レコードには彼の字でドイツ語の曲名の意味が英語でしるした紙がそえられてあった。そこにはこう書いてあった――「Head to Toe, I'm ready for love.(直訳:頭からつま先まで、愛の準備ができています)」。彼は一語一語、耳まで真っ赤になって読んだ。江田夕子への愛を、私は感じずにはいられなかった。にもかかわらず私はよろこべなかった。それどころか吐き気を感じた。人に愛された経験にとぼしい私は、人の愛を受容する経験にもとぼしいため、露骨な愛の表現には心が拒絶反応をおこしてしまう。それ以来私は彼をさけずむようになった。虎の威ならぬ白蘭の威をかりて彼を辱めさえした。
けれどもあれから三か月がたって、私はいまあのころの龍平さんがなつかしくてたまらない――。夕子は胸がしめつけられるようだった。
好き――。
夕子は心につぶやいた。私は龍平さんが好き。私はずっと龍平さんを好きだった。心の奥ではずっと好きだった。夕子はいまはじめて自分の心にそう告白した。
でも、いまさら好きと認めたところで、どうなるだろう。
彼の愛はすでに失われた。そのことは巴黎夢倶楽部で痛いほど感じたはずだ。あの冷たい横顔。龍平さんはすでに江田夕子と白蘭が同一人物だと知ってしまっている。いまとなっては前と同じように話すことさえままならない。
でも、あきらめたくはない。できるなら、彼の心をとり戻したい。いまの私には龍平さんが必要――。そう思うのは、たよれる人が、ほかにはいなくなっているせいかもしれない。
夕子は千冬の話を思い出した――龍平さんはいま白蘭の協力を求めている、という。丁香の正体をあばくのに白蘭の力が必要というのがその理由らしい。もっとも千冬からきいた話だから、真偽のほどはわからない。でも真実なら、龍平さんに協力すれば、彼の心をすこしでもとり戻すことができるかもしれない
希望が、わいた。
それに千冬によると、彼は丁香ちゃんとつきあっていないという。丁香ちゃんがウソをついているだけだという。それがもし事実なら、もっと希望がもてる。いままでは丁香ちゃんの恋人だと思っていたから遠慮していた部分もあったけれど、その必要もなくなる。
どうしよう。千冬の申し込み、うけようか。
問題は罠かもしれない、ということだ。すべて千冬の作り話かもしれない。その場合、バカをみることになる。でももし千冬の話がほんとうだったら、千冬の依頼を断るということは、龍平さんの依頼を断るということになる。そうしたら、それこそ彼の心を二度ととり戻せなくなるかもしれない。それだけは避けたい。
イチかバチか、千冬の話にのろうか。
夕子には丁香の欺瞞をあばいてみたいという気も、丁香から解放されたいという気もすくなからずあった。それでも決心がつかないのは、千冬の話にのれば、丁香を完全に裏切ることになるからだ。
さっきの丁香のささやきが耳の奥からきこえる――「私の親友」、「これからもずっと友だちでいてくれるよね」。丁香は夕子に裏切られるとは夢にも思っていないにちがいない。夕子自身、丁香をまだ親友だと思っている。本気で縁をきりたいなどとは思っていない。さっき抱きついてきた丁香の愛くるしさを思い出すと、自分が千冬の部屋にいったことを秘密にしていると思っただけで罪悪感の嵐におそわれる。丁香の正体をあばく行動に参加するなど、とんでもないことに思われる。
だからといって龍平にみきられるのは、絶対にいやだった。それだけは避けたいのだ。いま信用できるのは、丁香ちゃんよりも龍平さんなのは事実。だけど丁香ちゃんも失いたくない。両方失わずにすますには、どうしたらいいか・・・・・・。
翌水曜日、午後五時二十分。白蘭は千冬の誘いにのることにきめた。約束の期日には一日早いが、千冬の部屋に返事を伝えにいこうと、自室のドアに白蘭は半身をぴたっとおしあて、外の音に耳をすました。
「豆腐干! 五香椎茸・・・・・・豆腐干!」
豆腐干売りのしゃがれ声にまじって、カサ・・・・・・という音が背後できこえた。びくっとしてふりかえると、風にまうドレスのようなものが目に入ってぎょっとしたが、なんてことはない、ドレスとみえたのは初秋の夕風にゆらめく蚊帳で、音は寝台の角にあたってたったとわかった。
耳をすますかぎり、廊下には人の声も足音もしない。
ころはよし、と白蘭はうなずいた。
丁香は二十分前にでかけている。白蘭でいられる時間はあと四十分しかない。千冬の部屋に行けるのはいましかない。ただありがたいことに丁香は今夜帰りが遅いといっていた。もし万が一、昨日みたいに予定より早まったとしても、みつかる心配はない。今回は千冬に自分の意思を伝えさえしたらすぐひきあげるつもりだからだ。それに仮に失敗したとしても、なんとかなるだろうという気がした。昨日千冬の部屋に行ってもばれなかったからだ。
ころはよし、と白蘭はドアをあけ、そっと一歩をふみだした。
廊下はひっそりしていた。人気はなかった。黄色い電燈が光っているばかりだ。千冬の部屋はむかいにある。木の床をわずかにきしませて白蘭は廊下を渡りきった。到達したドアにノックしようとこぶしをのばした。そのときだった。
「白蘭」
声がした。ドアの内側からではなかった。右からした。白蘭は首を右にむけた。そして、
「あっ」
と小さく叫び、息をひいた。廊下の右奥におぼえのあるシルエットがあった。丁香である。ハッと瞳孔をひらくまに、丁香は能役者のように重々しくしずしずと、しかしみるみる近づいてきた。
白蘭は拳を宙にうかせたきり、化石したようになった。
丁香が足をとめた。白蘭の右にぴたっと体を横づけするように立った。口をおもむろにひらき、いった。
「みたよ」
「・・・・・・」
「この部屋に、なんの用」
丁香は千冬の部屋を指さした。白蘭は恐怖にしびれそうだったが、気力をふるいおこして、はぐらかした。
「丁香ちゃん、は、早かったね、おかえり」
丁香は当然のように無視して質問をくりかえした。
「千冬の部屋に、なんの用」
声の抑揚のなさが、ぶきみだった。
「この部屋に用なんてないよ」
ごまかしは通用しなかった。丁香は声を低くしていった。
「私を裏切ろうとしたね」
「して・・・・・・ない」
「ウソウソ!」丁香は別人のようにわめきだした。
「ごまかしてもわかる、私を捨てて千冬と仲良くしようと思ってるでしょ、ふたりで私を仲間はずれにしようとしてるんでしょ?」
わざとみなにきかせようとしているような大声だった。白蘭は焦って、
「ちがう、ちがうよ」
と必死で否定したが、丁香はその声にかぶせて叫んだ。
「白蘭、ほんとは毎晩千冬の部屋にいってたんだね!」
「いってないよ」
「誓える? 神かけて誓える?」
「実は、昨日だけ・・・・・・」
「やっぱりだましてたんだ! 白蘭はそんな卑怯な人だったんだっ」
「・・・・・・」
白蘭は反論する気力もなくうなだれた。丁香は容赦なく追いうちをかけようとした。そのとき千冬の部屋のドアがかすかにひらいた。たちまち丁香は身をひるがえし、白蘭の腕をひっぱって、むかいの自室のドアのなかにとびこんだ。しめたドアを背にすると、丁香は白蘭をみた。さっきまでわめいてたのがウソのように冷ややかにいった。
「友情誓言やぶり」
「ごめん・・・・・・」白蘭は泣きそうな声でいった。「罰ならうける」
すると丁香はにこっとしていった。
「罰なんて気がひける」急に優しい声になっていった。
「でもお願いならしたいな。夜にかぎらず今日から夕方も部屋からでないでくれる? 六時前でも、ね」
「え・・・・・・」
「いまいったでしょ。夕方も外出しないでほしいの。お願い、きいてくれますかしら」
「う・・・・・・」
「誓えるね」
丁香は強引に約束させた。白蘭は千冬の部屋に行けなくなった。
日中千冬に話しかけようにも、丁香の目が光っていると思うとできない。そうなると逆にますます千冬の依頼をひきうけたくなった。だが意思は伝えられないまま、約束の木曜がすぎようとしていた。
「意外なこときいたよ、夕食会にハルトンは身内を二人つれてくるって」
龍平の声に隣家の麻雀牌の音が重なった。木曜の夜である。
ここは北四川路の余慶坊――煉瓦造りの棟割り長屋の一角。部屋の中央には赤い電燈の光をあびた円卓。天井では木製扇風機の羽がくるくるとまわり、風を送っている。
この裏二階の一室は龍平の高校時代の友人の住まいだが、今夜の作戦会議のために友人には外出してもらっていた。いまは千冬とふたりで占領している。
「だれですか、そのハルトンの身内って?」
千冬がきいた。ほこりっぽいカーテンが風にはねあがって肩にあたるのもかまわず、円卓に身をのりだしている。
千冬と龍平は、一週間ほど前から、ほぼ毎晩こうして顔をつきあわせている。
小山内駿吉の姪である千冬は、本来龍平にとって敵側の人間のはずだが、仲間にしている。その理由は第一には、千冬が丁香に不信感を抱いているらしいと知ったからだった。知ったのは、巴黎夢倶楽部でだった。巧廟式典のあったあの晩、龍平はチャイナ・ユナイテッドにおいた茶壷が盗まれたと夕子にきき、丁香があやしいと思った。その前から龍平は丁香をクサイ人間とにらんでいた。出所後からそう思うようになった。丁香は龍平の出所後、声をかけられたのがきっかけで交際がはじまったと夕子にいっていたが、それは千冬のいうとおり、丁香のウソだった。事実は丁香のほうから出所後の龍平に接触して、つきまとい、交際を申しこんだのだった。龍平が好きでもないのに交際する気になったのは、記者的な好奇心からだった。丁香のねらいを知りたかった。丁香はなかなか尻尾をださなかったが、夜の逢瀬を重ねるにつれ、それでもねらいはすこしずつわかってきた。
丁香の目的は、龍平がリラダン事件の真相をどこまで知っているかを探ることにあるらしかった。交際中にもかかわらず、龍平に東京と北京に黙っていかれたことは相当の手落ちと思っているらしく、帰ってくると直接口にだしこそしなかったが、龍平が調べてきたことを必死に探ろうとしているのがわかった。
どう考えても丁香は龍平のところに送られてきたスパイだった。確信したのは、やはり式典の晩、巴黎夢倶楽部でだった。巴黎夢倶楽部は日本特務の行きつけだ。丁香はそこの会員で、かつ日本特務ルドルフの知りあいとわかった。これだけ条件がそろえば、それまで観察したこととあわせて、丁香が日本特務のスパイなのは、ほぼ確実だ――龍平がそう思ったとき、千冬と目があったのだった。倶楽部のボールルームで千冬は自分同様丁香を不審な目でみていた。のみならず、その目は敵意に燃えていた。龍平は夕子が茶壷をなくしたときいてしばらくしてから、千冬に話しかけた。個室でグラスを重ね、言葉をかわすうちに、千冬が丁香を憎悪していると知った――龍平は千冬を仲間にしようときめた。茶壷を奪いかえすためだ。茶壷はすでに日本特務の手にわたっていると思われた。日本特務といえば小山内駿吉だ。千冬はその姪である。茶壷をとり返すさいには、なにかと利用できるだろうと考えた。とはいえ仲間にした理由はそれだけではなく、千冬が信頼に値する人間だと思ったからでもある。千冬は丁香を敵視しているだけあって、やる気にあふれている。丁香と伯父の鼻を明かすためなら、なんだってしたいと鼻息を荒くし、知っていることはなんでもうちあけてくれた。今回の計画をたてるのにも千冬はずいぶん役にたってくれている。
「夕食会にくるハルトンの身内ってのはね――」
龍平は日本語で千冬にいう。
「ひとりはルドルフ。それともうひとり。これが意外なことにボアンカなんだよ」
「え、ボアンカってあの、アレーの助手の女性ですか。巧氏廟堂式典の日、出番前に蒸発したという」
「そう。それがなんといまはハルトン邸に身をよせてるらしい」
「ウソ」
「ほんとだよ、ボアンカってハルトンの身内だったらしい。俺も知らなかったんで驚いた。でもまあ、ボアンカはイギリスの出らしいからね。こっちが知らなかっただけで、もともとハルトンとつながりがあったんだろう」
「それにしても、アレーさんを放ってハルトンさんのところにねえ。助手だったのにアレーさんの行方が気にならないんですかねえ」
「どうだろう。アレー探しのためにハルトンにたよってるということも考えられる」
ボアンカはアレーの正体を知らない。逮捕された吉永義一がアレーとは知らないから、ハルトンの人脈をたよってアレーを探そうとしている可能性があった。
「で、身内以外の招待客は、最終的にだれなんですか」
「ひとりは巧月生」
「巧月生? なんでいまさら。式典をだいなしにして審査員をはずされたのに。だいいちいまはアレー探しの旅にでてるはずですよね」
「俺もふしぎに思った。ほかの招待客はトップ3だけだからな」
「白蘭は出席しないかもしれませんよ。本人が招待状をもらってないって、いってましたから。たぶん丁香がこっそり盗んだんでしょうけど。なにをたくらんでるんだか」
「まあ作戦を実行するには、白蘭が欠席したほうが、こっちとしては、やりやすいかな」
「え、どういうことですか。狐仙茶壷と麒麟茶壷をとりかえすのには、白蘭はいないほうがいいんですか?」
これはまたどういうことか、千冬が狐仙茶壷と麒麟茶壷の名を口にするとは?
実は龍平は作戦の都合上、千冬に三霊壷のことを話していた。
もっとも教えたのは以下のごく基本的な知識に限られる――三霊壷とよばれる特別な力をもつ三つの茶壷が存在すること、ひとつは狐仙茶壷といって、それで茶を飲むと変身を可能にすること、もうひとつは麒麟茶壷といって未知の言語を使えるようになること。残りのひとつはその特殊な力は不明だが鳳凰茶壷ということ。三つともかつては龍平の母、李花齢がもっていたが、現在は鳳凰茶壷をのぞいて日本特務の手にあるらしいこと。――それ以上のことは教えていない。
龍平にとって、作戦の究極の目的は両親を救うことにある。両親を救うには、狐仙と麒麟をとりもどす必要がある。狐仙と麒麟をとりもどせば拘置所の吉永義一を救える。別人に変身させて拘置所から出し、魔術師アレーとしての活動を再開させられるだろうからだ。そうなれば母親も安心する。惑乱状態から解放され、理性をとり戻して上海に戻ってくるだろう。巧月生の体にとりついている母親の魂は、「巧月生」としてのまともな行動を再開するだろう。
復讐はそれからでいい。
幸いにも、千冬は龍平が話した以上のことは知ろうとはしなかった。へたに首をつっこんで煙たがられては自分の目的がとげられなくなると思って、おさえているようだ。丁香の正体を暴くことは龍平にとっては二の次だが、千冬にとっては最優先事項だ。しかし丁香は簡単にたちうちできる相手ではない。龍平の智慧を借りる必要があった。だから龍平の機嫌を損ねないようにしなければならなかった。「白蘭を仲間にひきいれてほしい」といわれて、そのわけを問おうともせず、唯々諾々と実行したのもそのためだった。
「二茶壷をとりかえすのに、本物の白蘭は夕食会に欠席してたほうが好都合なんだ。その理由はあとで話すけどね」
龍平はいった。
「ほんとはさ、本物の白蘭が夕食会に欠席して、なおかつ、俺たちといっしょに作戦を実行できたら、いちばんよかったんだけど」
「すみません、白蘭の協力をとりつけられなくて」
千冬はあやまった。
「仕方ないよ。むこうが返事をくれなかったっていうんだから」
龍平はどこかひきつったような声でいったが、にわかに明るい声にかえていった。
「それに助っ人なら、こっちで用意してある」
「え、だれですか」
千冬がいうなり龍平は立ちあがってドアに行き、ひらいた。すきまに首をつっこんで、
「待たせたな、入りな」
と、外の人間によびかけた。扉がキイーと音たててひらいた。
入ってきた人間をみて、千冬は顔から血の気をひかせた。そこにいるのは、五月のファッション・ショー以来まともに口をきいたことのない――半月ほどまえ巴黎夢倶楽部で会うには会ったが自分は口をきいていない男――ルドルフ・ルイスだった。
龍平は千冬の反応をあらかじめ予期していたようにいった。
「安心して」
ルドルフは意外にも、千冬をみても不快そうな顔はしなかった。むしろ顔を輝かせている。それは千冬に会ったからではなく、龍平に会えたためということはあとからわかったが、どちらにせよ千冬はこの男がこんなにも明るい顔をしているのをいままでみたことがなかった。
「こいつ、変わったから」
龍平はルドルフの肩に片腕をまわした。そして信じられないことに、ぎゅっと抱きしめた。ルドルフはうれしそうに歯をみせて笑った。龍平も顔の紐をゆるませた。ふたりは頬ずりするように顔をくっつけあった。まるで恋人同士である。千冬はあっけにとられた。
「ほら」龍平はルドルフにいった。耳をなめんばかりに唇をよせてささやく。
「千冬ちゃんに、あいさつして」
ルドルフはいやがらなかった。それどころか、すなおにうなずき、千冬をまっすぐみつめていった。
「ひさしぶり。そのせつは・・・・・・つらい思いをさせたね」
千冬は耳を疑った。たしかにルドルフは変わった。ファッション・ショーのときとはまるで別人だ。
「悪いことをした・・・・・・」
ルドルフはほんとうに申しわけなさそうな顔をしている。変えたのは龍平だった。二週間前、龍平はルドルフとつきあいだした。恋人としてである。龍平のほうから申しこんだのだった。ルドルフはもとより狂喜してうけた。それから二週間ふたりは毎日欠かさず会ってきた。龍平が優しくすればするほど、ルドルフは恋する男独特の愛情を示す。愛撫すればするほど、龍平のいいなりになる。
「謝らなくていいって、いまさら」
千冬はせいいっぱい平静をよそおってルドルフにいった。
「千冬ちゃん、許してくれたみたいだね」
龍平はそういうと、恋人の肩をポンとたたいていった。
「それじゃルーディ、また、いつものところで待っててくれる? すぐ行くから」
「うん、わかった。すぐだよ、きっとだよ」
ルドルフはドアの前でなごりおしそうにいった。龍平はその唇にキスした。恋人を送りだしてドアをしめた。
ふたりがただならない関係にあることをみせつけられた千冬は動揺したのと、ばかにされたような気がしたのとで、いきりたっていった。
「ルドルフが作戦に、どう役立つんですか」
龍平は円卓に戻ると椅子にドッカと体を投げだし、深呼吸した。千冬の質問にはこたえず、藪から棒にいった。
「丁香はハルトンの夕食会に白蘭を欠席させたがってるみたいだけど、どうしてだと思う?」
千冬は自分の質問を無視されたいらだちをおさえていった。
「丁香のことだから、白蘭の評価をおとそうと、たくらんでるんじゃないですか」
「それだけ?」
「・・・・・・」
千冬は冷静さを失っていたので、すぐには頭が働かなかった。すると龍平がいった。
「丁香は本物の白蘭を欠席させて、そのかわり、ニセモノの白蘭を送りこむつもりかもしれないとは思わない?」
「ニセモノ?」千冬はきょとんとしていった。「なんですかそれ」
「狐仙茶壷で白蘭そっくりに変身させた人間のことだよ」
「そういえば狐仙茶壷には人を一瞬で変身させる力があるとか。でもまさか白蘭そっくりのニセモノを作って夕食会に送りこむなんて・・・・・・」
「日本特務ならやるだろう」
「仮にそうだとして・・・・・・目的はなんでしょう」
「丁香は毎晩租界で白蘭らしき人間にいじめられてるよな。それで同情を集めてる。ハルトンの前ではそのアップ・バージョンを演じるんじゃないかな」
「アップ・バージョン?」
「丁香はハルトンの前で、ニセモノの白蘭に派手にいじめられるふりをするんじゃないかな」
「ありえなくはないですけど・・・・・・」
「ニセモノの白蘭には、案外丁香が変身するかもしれない。それでいじめられる丁香の役はべつの人間に変身させてやらせるかもしれない」
「だとしたら最低ですね。丁香は自分は白蘭に変身して、自分に変身した仲間をいじめて、それで人の同情をひくってことですもんね」
千冬は憤然としていった。
「そんなの、黙ってみてられないですよね。その場でニセ白蘭の化けの皮をはがしてやりましょうよ。あ、でもニセモノかどうか、どうやってたしかめます? 狐仙茶壷で変身したら、本物と区別がつかないんですよね」
「そこだよ。俺が本物の白蘭を味方につけたいっていったわけは。本物が隣にいたら、夕食会に出席してるのはニセモノってわかるだろう」
「あ・・・・・・」
千冬は自分の責任をいまさらのように感じて、わびようとした。龍平はいった。
「いいって、いいって。白蘭がダメでも、ほかにやりようがあるから」
「どういうふうにですか」
「実は白蘭のほかにもうひとり、夕食会に招待された客のなかに、本人でないニセモノがくるだろうと思われる人がいるんだよ」
「だれですか、それ」
「巧月生」
「え?」
「巧月生はいまアレー探しの旅にでてることになってるけど、実は今週の日曜から上海にいる。といっても、そいつはニセモノ」
「どういうことですか」
「いま巧月生邸にいる巧月生はおしのびで帰ったことになってて、一度も外にでてない。そこで俺は探りをいれた。で、そいつがニセモノとみぬいた」
「本物じゃないんですか」
「実は俺、式典前から本物の巧さんと親密になっててね、巧さんが上海をでたあとも、ひそかに連絡をとってたんだ。だから俺は本物の巧さんが日曜はおろか、いまでも成都にいるって知ってるんだ」
千冬は龍平が巧月生と親しくなった理由はきこうとはしなかった。龍平もさすがに「本物の巧月生」には、母親李花齢の魂がのりうつっている、とはいえないから、そこは省いていった。
「いま邸にいる巧月生がニセモノという証拠はある。ジャーナリストとして取材したいことがあるといって訪問してみたんだ、何回もね。そのたびに門前払いをくらった。本物の巧月生ならそんなことをするはずがない。俺の名前をきけば絶対会うはずなんだ。
だから邸にいるのはニセモノとしか考えられない。そいつは俺と巧月生の仲を知らないから、門前払いなんてできるんだ」
「でもそれだけじゃ・・・・・・」
「証拠にならないって? 失礼な。これでも元記者ですよ。ここは俺を信じてよ」
「邸にいるのがニセモノだとすると、家の人や蒼刀会の人は、ニセモノにだまされてるってことになりますよね?」
「そうなるね。ふつうだれもこの世に他人に変身できる道具があるなんて思わないだろうから」
「それにしても、もしほんとにニセモノだとして、いったいだれが変身したんでしょう」
「狐仙茶壷を持ってるのは日本特務としか思えないから、日本特務のだれかだろう」
それをきいて千冬は円卓から鉛筆をおとした。顔を青くしていった。
「ひょっとしたら、おじさんが・・・・・・。先週末から留守なんです、出張かもしれないけど、いつ帰るか不明で・・・・・・。もしかしたら巧月生にばけてるのはおじさんかも・・・・・・」
「ありえなくはない、小山内駿吉が巧月生にばけるってことは」
龍平はニヤッと笑っていった。
「実は俺もそう目星をつけてた、ニセ巧月生の正体は小山内駿吉じゃないかって。将軍みずから敵地にのりこむことはありえないことのようだけど、ありえるって」
「夕食会にくる巧月生の正体は伯父さんかもしれないってことですか・・・・・・」
「そうなるね。むしろそうであってくれたほうが助かる」
「どうしてですか」
「まあ順をおって話そう。今回の作戦の鍵をにぎるのは、なにを隠そう、ニセモノなんだ。俺のみとおしでは、ハルトンの夕食会には、すくなくともふたりのニセモノが出席する。ひとりはいまいったとおり巧月生のニセモノ。もうひとりは白蘭のニセモノ。ニセモノふたりとも出席するからには、ただで帰るとは思えない。ニセモノはこの機会に本物の評判をおとすような行動にでると考えられる。でもそれは避けなくちゃならない」
龍平はいった。なぜ白蘭と巧月生の名折れを避ける必要が彼にあるのか。その理由を千冬はきけなかった。きくのを遠慮させる、こわいような顔を龍平はしていた。
「本物の名折れを防ぐため、俺はニセモノをはめようと考えてる」
「どうやってですか」
「本物の巧さんの力をかりる」
「でも本物は成都にいるんですよね?」
「白蘭は仲間にできなかったけど、本物の巧月生には仲間になってもらった。実は明日の午後、上海に戻ってもらうことになってる。俺がニセモノのことを話すと、えらく激昂してね、それはぜひ戻ってニセモノに思い知らせてやりたいと意気ごんでる」
「ほんとですか。でも本物が帰ってきたら大騒ぎになるんじゃ」
「そうならないように本物の巧さんには変装しておしのびで上海に帰ってもらう。他人との接触はいっさいひかえてもらって、夜になったらハルトンの夕食会に出席してもらう」
千冬にいったとおり、龍平は花齢の巧月生に連絡をとって、明日上海に戻ってもらうことにしていた。
「でも、ニセ巧月生が本物にばけて夕食会にでようとしてるんなら、ぶつかりませんか」
「うん。だからニセの巧月生を会場の手前で足どめさせる必要がある。それをおたくにやってもらいたい。見た目は巧月生でも正体が伯父だと思ったらいけるだろ」
「そんな・・・・・・正体がおじさんだと気づいてないふりをしなきゃいけないんですよね。足どめなんて、どうやったらいいか」
「いい考えがある。こうすれば――」
龍平は千冬にその考えを話した。ききおわると千冬はいった。
「ニセ白蘭のほうは夕食会に出席させるんですよね」
「うん。ニセ白蘭には出席してもらわないと、むしろ困る。ニセ白蘭は夕食会にいる巧月生はニセモノだと思いこんでいるだろうから、夕食会が終わったら、もとの姿に戻るために、いっしょに茶壷のある場所に行こうとするかもしれない。そしたら茶壷のありかがわかる。もしニセ白蘭がそこに行こうとしなければ、行かせるように本物の巧さんにしむけてもらうつもりだ」
「なるほど。それで茶壷のある場所をつきとめて、本物の巧さんに二茶壷をとってきてもらうというわけですか」
「そのとおり、そういう作戦。ただし本物の巧さんは本物であることをニセ白蘭にみやぶられないようにしなくちゃならない。ニセ白蘭といるあいだは中身が小山内駿吉のふりをする必要があるってことだ。でないとニセ白蘭は警戒して茶壷のある場所にいかないだろうからな」
「なんか、ややこしいですけど、成功したら茶壷をとり戻せそうですね。でも本物の巧月生は茶壷をとったら自分のものにしてしまわないですか? 李さんにすなおに渡してくれるとはとても・・・・・・」
「そんな心配はしなくていい」
「・・・・・・すみません」
「おたくには夕食会後、ふたりのあとをつけてもらいたい。そしたら茶壷のありかを把握できるのみならず、うまくいけば丁香と小山内駿吉の関係の証拠をつかめる」
それをきくと千冬はにわかに顔を輝かせ、声をはずませていった。
「あ、そうですね。ニセ白蘭の正体が丁香で、いっしょにいる巧月生の中身を小山内駿吉と信じてるなら、ニセ白蘭が巧月生にとる態度をみれば、伯父さんと深い仲にあるかわかりそうですもんね。もっとも丁香と伯父さんが深い仲にあるのは、ほぼまちがいないですけど。とにかくあの丁香のすまし顔の裏の顔をみられると思うと、わくわくします」
「ただし油断はできないよ。そこまでいくのにいろいろ注意が必要だ。夕食会中、ニセ白蘭は白蘭の評判を不当におとそうとするだろうから、それを阻むのも苦労するだろうし」
龍平がなぜ白蘭の名折れを阻むのにこだわるのか、千冬はあえてきかずにいった。
「ニセ白蘭が暴走しようとしたら、本物の巧さんがとめてくれるんじゃないですか?」
「いや。巧さんが白蘭をかばったら、ニセ白蘭が巧さんを本物かと疑うだろう。小山内駿吉なら絶対白蘭の評判を守ろうなんてしないはずだからな。だから名折れを防ぐにはルドルフを使う」
「ルドルフを? どうやって?」
龍平は額をよせ、ほかに人もいないのに、ひそひそ声で作戦を説明した。千冬は真剣な顔で頭にたたきこんだ。
ハルトンの夕食会は明晩である。
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