第七章 巧氏廟堂落成記念式典 〈対・魔術師アレー〉

八月二十二日土曜日の夕方、フランス租界のライシャム劇場をひとりの白人娘が訪れていた。

「今夜こちらの舞台に奇術師キャプテン・ルーディは出演しませんか?」

 白人娘は入場券売場に首をつっこまんばかりにきいた。

「奇術師、ですか」

 売場の中年中国人女性は一瞬きょとんとしたが、すぐに警戒するように相手をみかえした。二十歳前後の白人娘は帽子をまぶかくかぶって顔を隠していた。中年女性はかぶりをふり、きっぱりといった。

「いいえ、出演はございません」

「キャプテン・ルーディってルドルフ・ルイスのことですけど、ほんとうにありませんか? 今夜舞台にでるはずなんですけど」

 ルドルフ・ルイスの名をきくなり売場の女性は眉をひそめていった。

「あいにくですが当劇場ではございません。べつの劇場とかんちがいされてるのでは」

「ちょっと、ちゃんと確認してくださいよ。――しないなら責任者をだしてもらえます?」

 くいさがる白人娘がミス摩登コンテストのトップ・ファイナリスト、ロレーヌ・バリーと気づいていない中国人女性はうす笑いをうかべていった。

「ごぞんじないようなので申しあげますが、ライシャムはクラシック・バレエとオーケストラ専門劇場です。奇術師だとかのショーはございません。前科者ならなおさらです」

「おい、君」血相を変え、身をのりだしかけたロレーヌを、

「もう行こう、ここじゃないよ」

 と、とめたのは小山内千冬だった。白い薄手の生地に小花の散ったワンピースをきている。

「なんだよ、大きい口きいて」

 反発しつつも外にでたロレーヌはふりかえって毒づいた。

「ライシャムじゃなかったら、ルドルフはどこで復活するんだよ」

 夏の青空に上海一の外資系劇場は立派にはえている。エントランスの上に高々とかかげられた「LYCEUM」の六文字、その背景のチョコレート色の壁、そのなかの白い窓枠、アーチ型の三つの窓、火映りした淡黄色のガラス、露台におどる上海バレエ・リユスのポスターがまぶしい。

「ほかの劇場をあたろう」

 千冬ははげますようにいったが、ロレーヌは不機嫌だ。日よけ用の絹のパラソルをわざと千冬にむけてひろげていった

「復活するならここだと、君のおじさんが匂わせたんじゃなかったのか」

「おじさんは私に『ルドルフは今度奇術師キャプテン・ルーディとしてデビューするらしいね、フランス租界の舞台で』っていっただけ。ライシャムとはいってないよ」

「じゃ、どこの舞台だよ。どうしてちゃんときいてこなかった」

「だって下手にきけないよ。おじさんの家で『R.L 八月二十二日夜デビュー』と書かれたメモがたまたま目についたとき、『R.Lってだれ』ってきくだけでも勇気がいったんだから。おじさんは、ああいう仕事だから秘密主義。私を家に招待するなんてめったにないの。たまに家にいったとき、うるさく質問ばっかりしたら煙たがられちゃう。ルドルフが今夜奇術師キャプテン・ルーディとしてどこかでデビューするってことがわかっただけでも、よしとしないと」

「また、いいわけか」

「そっちこそ文句ばっかり。『ルドルフと口をきく機会を与えてくれたら、君を信用してもいい』っていうから、私はこうして必死になっていっしょに歩きまわってるのに」

「なんだ、自分がエライみたいに。私と歩けるだけでも、ありがたいと思わないのか。君は五月のファッション・ショーでルドルフの舞台を汚(けが)した。ルドルフがらみでなけりゃ、私は君なんかとフランス租界を歩かない」

 ロレーヌが千冬と歩いているのは、ルドルフに会うためだった。ルドルフがフランス租界のどこかの劇場から今夜デビューするらしいと千冬は伯父の小山内駿吉のところで知ったという。どの劇場かはわからないから、それらしきところをひとつひとつあたっている。

ロレーヌはもう三か月もルドルフの顔を生でみていない。ルドルフ・ルイスは一か月前に拘置所から釈放されたあとはハルトン邸にひきこもっているという話だった。千冬の情報が入るまでは、消息をきかなかった。

「とにかく片っぱしからあたろうね」

千冬ははりきっていた。ルドルフに会わせさえしたら、ロレーヌに認められ、自分のファイナリストとしての立場もすこしはよくなるかもしれないという希望があった。だからイヤミをいわれても今日はなるべく自分を抑えている。

「みつかる前に、とけそうだ」

 ロレーヌはうんざりした顔をした。夏の日差しは強烈だった。午後四時をすぎて太陽はすこしは傾いたようだが、やけつくような暑さに変わりはない。めまいがおこりそうだ。一歩ごとに体力を消耗する。わきでる汗で服はべっとりぬれるし肌はかゆくなるしで、千冬もさすがにいらいらしていった。

「いやならハルトンにきけば? ルドルフの情報、ロレーヌがきいたら教えてくれるでしょ」

「だからそれはだめだって。ハルトンは大事なお客さんだから、私がルドルフに気があることを知られたくないんだ」

「じゃ、おとなしく次の劇場めざすしかない。ここからいちばん近いのはパリ・シアターだね」

「一キロも先じゃないか」

 通りをわたったとき、はげしいバラライカの音色がきこえた。横道のマロニエの木陰で、ロシア人の物乞いがこの暑いのに『ヴォルガの舟歌』を奏でている。

「先に『カフカス』にいかないか」

 ロレーヌが哀願するようにいった。

「それって劇場じゃないよね。ロレーヌがダンサーとして勤めてるナイトクラブでしょ」

「パリ・シアターの近くにある。すこし涼みたいだろう。開店前だけど、あそこなら氷もらえる」

「そうだねえ。クラブデビューって線もあるかもしれないしね、ルドルフのことだから。オーナーに会うのはむだじゃないかも」

「それはないだろうけど」ロレーヌはそういってからなにか思いついた顔をした。

「そうだ、電話借りよう。各劇場に電話で問いあわせればいいんだ。いままでどうして思いつかなかったのか」

「いこっか、カフカス」

 カフカスはアヴェニュー・ジョッフルにある。そこにいたる通りは高級街だけあって通行人もさほど多くはなく、きれいに掃き清められていた。蘭の花をつんだ手押車、白人紳士ののった黄包車とすれちがい、日蔭をひろっていこうとすると、西側にみえてきたのは、パリのオペラ座か迎賓館を思わせる石造り風の瀟洒な二階建て。レースのカーテンで閉ざされた立派な窓がいくつも奥へ奥へとつづいている。フランスクラブである。

 フランスクラブは「世界一のコスモポリタン・クラブ」という異名があったとおり、会員制ではあるが女性や富裕層の中国人にも開かれ、フランス人に限らず上海在住の上流各国人の社交場となっていた。

「みてみて、やっぱりすごい記者の数」千冬が鼻でさした。

 歩道にはびっしりと奥の出張った玄関口まで記者がならび、ペンとカメラを用意してだれかの到着を待っていた。

「『やっぱり』って?」

 ロレーヌが声をおとしてきくと千冬がこたえた。

「白蘭待ちだよ」

「どうしてわかる」

「ここのところ白蘭、毎日フランスクラブにきてるらしいから、先週会員になって以来。秘密の恋人と密会してるって噂あるの知らない? さすがに今日は巧月生の式典の日だから控えるかと思われてたけど、あのようすじゃ、やっぱりくるみたいだね」

「へえ。くわしいな」

「それ皮肉でしょ。私が今朝白蘭のパレードをみにいったの、ばかにしてたもんね」

「だってあんなパレード。白蘭に上から手をふられてなにが楽しい。ファイナリストともあろうものが」

「白蘭がどうっていうより、さすが巧氏廟堂落成式典のパレードって感じだったよ。アヴェニュー・エドワード七世の歩道、びっしり人と旗とでうまって身動きとれなくて、すごかった」

 千冬はしゃべってるうちに興奮を思いだして、夢中でまくしたてた。

「まずみえたのはアラブ馬にまたがったインド人の騎馬隊。それからぴかぴかの自転車にのった安南人警察。つづいてブラスバンド、ボーイスカウト、宮女の恰好をした少女たち。圧巻は鎧兜の古代武士の格好をした男性たちだったなあ。そのあと巧月生が登場したの。ソフトハットをシュッとかぶって絹の長袍に馬掛姿、昔の皇族みたいにゆるゆる歩いてきてね、群衆に笑顔でうなずきながら手をふってた。うしろにはフランス人やイギリス人の牧師さん、蒼刀会関係の人たちがつづいて、白蘭がでてきたんだ」

「あっそう」ロレーヌはさえぎるようにいった。「おととしのジャーディン・ラッセルの大葬儀並みだった?」

「あれをしのぐ。今日の式典は後世までの語り草になってもおかしくないよ。だっていつも死にかけって顔してる苦力まで目を輝かせてたんだから。そりゃ豪華で、だれの不景気な心も忘れさせたよ、すくなくともパレードのあいだはね」

「まったく中国人でもないのによくそんな自分のことのように自慢できるな、自分がパレードにでたわけでもないのに」

 樹々の濃い影と陽光のまだら模様が地面をいろどっている。ふたりは影の部分だけを選んでふむ。

「だって巧月生はほんとにすごいよ」千冬はいった。「自分が家廟を建てたお祝いをするのに、庶民をまきこんで華やがせちゃうんだから。いまだって南市の廟堂前にたてた大天幕を一般市民に開放して食事や歌舞演劇でもてなしてるんだからね、やることが大きいよ。――ねえ、私の話きいてる?」

 千冬が顔をあげるとロレーヌは前方をにらんでいた。ふたりはいつしかフランス・クラブをこえて十字路の手前にきていた。

「あの黒い自動車、みおぼえないか?」 

 角の建設中の映画館からいかついロールスロイスが顔をだし、こちらに右折しようとするものか、安南人巡査の旗が動くのを待って停車している。

「もしかして――」

 千冬がいったとき、巡査が旗をあげた。車体に西陽を輝かせたロールスロイスはすべるように走りだし、あっというまにふたりに近づき、とおりすぎようとした。後部座席の窓には予想どおり白蘭の顔があった。

ロレーヌの視線と白蘭の視線が交錯した。負けたと感じたのはロレーヌのほうだった。そんなことは知らない千冬が、

「いまの、白蘭だったよね?」

 と、きくと、

「よく、みえなかった」と、ロレーヌはウソをついた。

「私も。サッとすぎちゃったね」

 ロールスロイスはすでにフランス・クラブの玄関に横づけになっている。

「いいなあ、フランス・クラブに入れて白蘭は」

 千冬がいうと、

「会員なんて、あとからいくらでもなれる。ミス摩登を本気でめざしてたら、フランス・クラブどこじゃない」

 ロレーヌは怒ったようにいった。目の裏には白蘭の勝ちほこった顔が焼きついていた。

白蘭は車窓にロレーヌをみたとたん、ぎょっとした。だがロレーヌの目が羨望と嫉妬でいっぱいなのを知ると急によゆうがでてきた。微笑がひろがった。

白蘭ののった自動車の車窓はいまカメラのレンズでうめつくされている。

 ボン、シュッボン――。

 フラッシュが次々に焚かれて白蘭は目を休めるひまもない。ドアもあけられなかった。助手席からでた護衛の男が記者をどなりちらしてようやく外にでられたしまつである。でたとたん、質問が矢のようにとんできた。

「白蘭さん、フランスクラブでなにをされる予定ですか」

「式典をぬけだしてまでこられた理由は?」

「だれかと約束があるんですか」

「恋人ですか?」

「毎日この時間ここで密会するというのは、ほんとうですか?」

「一言おねがいします」

 白蘭は記者から顔をそむけ、眉間にしわをきざみ、いかめしいとも凛然ともとれる足どりで入口にむかう。

「ビヤンヴニュ」

 フランスクラブの安南人ボーイがあいさつをした。ドアの前でうやうやしく礼をしている。白い手袋で把っ手をひき、白蘭だけをなかに入れた。

 うるさい記者たちは外にしめだされた。

 磨きぬかれた床がシャンデリアにてらしだされている。豪華な金縁の鏡に白蘭の姿が映しだされだ。サテンのドレスを着こなした美しい自分に満足し、白蘭は玄関ホールをすすむ。高らかに鳴るハイヒールの音がここでは心地いい。護衛をしたがえ、大理石の柱、金色の裸女の像を横目にすぎていくとき、ヴェルサイユ宮殿をゆくマリー・アントワネットになった気分になる。

 やがて、いくつもの壁付灯の光に欄間の天使の彫刻をうかびあがらせた白いドアにつきあたる。ボーイが左右にひらいた。階段室があわれた。甘い芳香がたかれている。

 階段は舞踏室へとつづいている。金色の華麗な手すり、しきつめられたベルベット。中段に花瓶ににた白磁製の香水塔のある階段をドレスの裾をひいてのぼれば、ヴァイオリンとピアノの音色、談笑、グラスと氷の音が上からふってきて、しだいに大きくなる。

 白蘭は舞踏室に入った。たちまちなかの動きがとまった。演奏がとまった。ワルツを踊っていた人も、話に興じていた人も入口をふりかえった顔を静止させた。

 片眼鏡をかけた白いタキシードの白人紳士、ピョートル大帝のようなひげをさげた白人青年、大きな扇子をかかげた青い眼の白人女性、ひらいた胸にネックレスを二重にかけた気品ある顔のマダム。それらの白人の視線がすべて、天井の蝶の翅のような模様のステンドグラスのもたらす琥珀色の光をあびた、ひとりの東洋人美女の上に集まった。その娘は人魚を思わせるドレスをまとい、弓形の眉をぴんとはって立っていた。

 ささやきがもれた。あるものは「白蘭」といい、あるものは「ミス摩登ファイナリスト」、あるものは「パレードの花」といった。ささやきは、すぐに華やいだ声に変わった。

「やっぱり今日も!」

「式典があっても欠かさずに・・・・・・」

 一週間前、白蘭は念願叶い、フランスクラブの会員になった。かつてアレーはいった――「その美しい体にきらびやかな衣装をまとって華やかな世界にでたくはないか」。それが現実になったのである。

突然、ヴァイオリンの絃が鳴った。蝶ネクタイを結んだヴァイオリン弾きが、白蘭のための曲を奏でだした。それにあわせてピアノが鳴った。

白蘭はロマンティックな二重奏と拍手に迎えられ、人びとのなかを歩んでいった。そこには常連の蒙古の王女がいた、アメリカ副領事がいた、フランスの通信社の支局長がいた、ウィリアム・ハルトンがいた、イギリス海軍大佐夫人がいた。みな選ばれた人たちだ。私はその人たちの視線を一身にあびている。白蘭は自分に酔い、うっとりと微笑む。つややかな唇がハート型にほころぶ。だれに会おうと思ってフランスクラブにくるのではない、ただ現在の地位を味わうために私はここへ通う。

 そのとき目のはしに意外な存在がうつった。日本人、小山内駿吉だ。千冬の伯父であり、いまわしい日本兵のおえらいさんである。現実にひきもどされた気がして、いやな気分になった。だが不快な存在はすぐにみえなくなった。ハルトンが近よってきて白蘭の視界を占領したからだった。

「おお白蘭さん、これはこれは、ようこそ、式典でお忙しいところ、よくこちらにもお顔をだしてくださった」

 ハルトンは右手をさしだして握手を求めた。酒が入ってるせいか、妙に鷹揚だ。

「どうも。ハルトンさんもきてたんですね」

 白蘭もくだけた口調でいい、握手にこたえた。報道陣の前とはちがい、笑顔が自然にでる。ハルトンはそれにこたえて酒の入った真っ赤な顔を上下にふってうなずき、

「はい、きてました。さっき廟堂前でお会いしたばかりですが、再会できてうれしいですよ」

 握手した手をおどけたように上下にふった。それにともない顎の白ひげも、肥えた腹もダブダブとゆれた。白蘭はある人物を想起しておかしくなり、思わずいった。

「ラスプーチンみたい」

 たちまちハルトンの顔が硬直した。ラスプーチンといえば、ロシア皇帝にとりいって権力をふるい、暗殺された、下層階級出身の怪僧である。

白蘭はラスプーチンは学校で少し名前をきいただけで、どんな人物かはおぼえていなかった。ただ写真の髭だけが記憶にあった。それがハルトンそっくりに思えておかしかったので、みんなにも共感してもらいたくて、もう一回くりかえした。

「ラスプーチンそっくり」

「・・・・・・」

 空気が凍りついた。次の瞬間ハルトンが笑いださなかったら、どうなっていたことか。

「私が? こりゃおもしろい、アッハッハ」

 愛想笑いにはちがいなかったが、一同ほっとして笑いだした。

 白蘭は有頂天になった。

 このごろの白蘭は行く先々で思ったことを口にして、相手の気持ちも考えず得意がる傾向にある。非常識なことをいっているとは気づいていない。白蘭がなにかいえば、みながおもしろがってくれ、「独創的な意見」だとか「型破りの毒舌」だとか感心顔でいってくれる。それがほとんどお愛想だとは白蘭は考えもしなかった。白蘭はすっかりうぬぼれていた。

 毒舌あってこその白蘭、といまでは思っている。アレーも会ったその日に自分を悪口の天才とほめてくれた。白蘭が今日の地位をきずけたのも、ファッション・ショーやチャリティ・イベントで悪口やそれに類する言葉を相手かまわず口にしたからだと思う。この美貌で思ったことを口にして失敗することなどありえない。こうしてみんな自分をとりまいて笑ってるのをみると、自分ほど人を楽しませる才能をもった人間はないように思える。白蘭は今日は特に舞いあがっていた。朝からパレードで群集の歓声をあびてきただけに、こわいものなしの気分だった。

 小山内駿吉は舞踏室の片隅で自分の策謀を実行にうつす機会をいまかいまかと待ちかまえていた。アレーの茶壷を奪うための策謀である。

駿吉は白蘭に茶壷を奪わせようと考えていた。

 といってこちらの思惑を白蘭に伝えるつもりはいっさいない。こちらのねらいには気づかれずに、白蘭が自然とアレーの茶壷を奪いたくなるようにしむけようと考えている。

 いまの白蘭には、つけいる隙があった。調子にのってるし、なにより今日この時間は彼女の味方に邪魔される心配もない。巧やアレーは廟堂の式典で忙しい。だからこそ、日本の来賓として廟堂前の宴会に正午から参加していたのだが、英米仏の来賓のいとま乞いに乗じて早めにひきあげ、フランス・クラブにやってきたのだ。予想どおり、白蘭はここにこうして姿をあらわした。

 駿吉は人知れず視線を移動させた。その視線は、カーテンの陰で隠れるようにシャンパンをのんでいる白いスーツ姿の男の上にとまった。ロレーヌと千冬がみたら瞠目するだろう、ルドルフ・ルイスである。

ルドルフはもともとフランス・クラブの会員だったが、今日は駿吉の命令をうけてここにきた。ルドルフはこれまで日本特務のためにかつてろくな成果をあげてこなかった。千冬の監視にはそれなりに役立ってくれたが、ハルトンのスパイなど、それ以外の任務に関しては満足な結果をだしたとはいいがたい。それどころか五月のファッション・ショーでは蒼刀会の作戦に利用されて気づかずにいた。あのバカはあやうく千冬をリラダン事件の実行犯にしたてあげるところだった。感情的になると我を忘れるのが弱点だ。スパイにははなはだ不向きなようだが、弱点は同時に強みでもあって、自分の感情が動くと予想もしない力を発揮する。

今回、ルドルフはやる気じゅうぶんだった。今回の命令が彼自身の希望と一致するからだ。ルドルフはチャリティ・イベント以来、白蘭をひどく憎んでいる。あの女が自分をそそのかして麗生を殺させた、そのせいで逮捕までされた、と思いこんでいる。白蘭が自分にいった言葉はすべて「ウソ」だった。白蘭は殺人前に「正体がばれてる」といったが、ルドルフがスパイということは麗生にはばれていなかった。「集団リンチは確定」といっていたが、麗生がリンチしようとしていたのはルドルフではなかった。白蘭はウソをついて自分の理性を失わせ、麗生を殺させた。しかもそのあと白蘭を味方と信じきっていた自分を川につきおとした。自分はそのあと逮捕され、白蘭は英雄となった。こんな不条理が、こんな屈辱があろうか。白蘭にはすこし仕返しをしたぐらいでは気がすまない。ルドルフは小山内の視線に気づくと目に強い光をたたえ「わかっています」というようにうなずいた。

 そんなことを知らない白蘭は気ままにふるまっている。

柱の陰でけだるげに煙草をふかし、若い護衛に扇子をあおがせ、お盆にシャンパングラスをのせたボーイが団子鼻に汗をうかせて近づいてくれば「汚い顔」とこぼしてそっぽをむき、白人紳士がダンスに誘おうと近寄ればわざと目を閉じ、くるりと後ろがえって護衛の背後に隠れて花瓶の模様を意味なくなぞったりした。

 白蘭はこの暑さのなか、踊る気などはなかった。最初の興奮からさめると、いまさらのようにこのおそるべき暑さが意識された。なにもしないでも汗がでる。朝が早かったので睡眠不足がいまになってこたえてきて頭がぼうっとして、大儀になってきた。ピアノの位置から時折自分に笑顔をむけてくる演奏家たちに愛想笑いを返すのもおっくうだ。人びとが踊ってるのをみるのもいやだ。暑そうで自分まで暑くなる。かといっておしゃべりする気にもなれない。話をあわせるのも愛想笑いするのも面倒だ。女性同士だと特に疲れる。ただでさえ女の声は耳ざわりだ、と白蘭は自分も女なのに思う。婦人たちが笑い声を爆発させるたび、ぞっとする。

それに白人女性は苦手だ。白人をみると劣等感をかきたてられる。彫の深い顔、すばらしい体型をみると、自分がたいしたことなく思える。アレーはどうして私を白人に変身させてくれないのだろう。いちどたのんだら、変身は遊びじゃないといわれた。ボアンカなら変身させてくれるかもしれない。ああ、また視界に不快なものが入った。あのぶさいくなボーイをどうにかしてほしい、めざわりだ、と思って拳に力をいれたときだった。その手をふいにだれかにつかまれた。

ぎょっとして横をみると、その男は悪びれずにいった。

「恐縮ですがひとつ私と踊っていただけるでしょうか」

「・・・・・・小山内さん」

「ええ、白蘭さん。はじめまして、小山内です」

 白蘭の手をとったのはまぎれもない、日本陸軍少将小山内駿吉だった。

 白蘭は露骨に迷惑そうな顔をした。白人に目が慣れていただけに、この年輩の日本人はよけいに醜くみえた。どんなに粋にタキシードを着こなしていても、多少体型がよくても、やっぱり日本人だ。しかも小山内駿吉といえば中国人には悪名高い軍人でかつ夕子の嫌いな千冬の伯父である。悪いイメージしかない。せっかくフランスクラブという別天地にいるのに急に現実にひき戻された気がした。若くすてきな白人男性の申し込みさえ拒絶したのに、だれがあんたなんかと・・・・・・と思い、断ろうとしたが、 

「よろしいですね?」

 小山内駿吉にずうずうしくいわれ、うむをいわさない目でみられると、拒否できなかった。白蘭は気迫にのまれたようになって小さくうなずいた。

「では」

 小山内駿吉は白蘭をリードした。自信たっぷりである。しかたなく身をまかせるうちに白蘭は徐々に気分が高揚し、軽口のつもりで「得意の毒舌」をとばした。

「小山内さんって日本軍人らしくないですね、ダンスが上手なんて」

 駿吉は満面に笑いをといていった。

「あはは。あなたとこうして踊れるだけでも光栄ですのに、おほめにあずかれるとは」

 流暢な中国語だった。この日本人親父、私の正体が日本人とも知らずにむりして中国語でしゃべってる。そう思った白蘭はなんとなく優越感を感じていった。

「私と踊れるって光栄ですか」

「才能ある女性ですからね」

 当たりまえよ、と白蘭は思ったが、とぼけていった。

「私に才能が?」

「あなたには人にはない、なにかがありますよ。はっきりとした言葉がいまはでてきませんが」

「日本軍人なのに、そんなお世辞までいうんですか?」

「お世辞ではありません、あなたの特別な魅力がいわせるんですよ。わかってらっしゃるくせに」

「いえ全然」

「これはご謙遜。ミス摩登のトップ3ともあろうお方が」

「あれは巧さんの推薦があったから」

「いや、あなたなら推薦などなくても確実に選ばれてましたよ」

「そうですかねえ。でもファイナリストはみんなきれいですから、千冬さんも」

「千冬なんてとんでもない、いまじゃ雑用係です。あなたとは天と地ほどの差がありますよ」

「ふふ、そんなことないですよお」

「僕の親しい映画監督もいってましたよ、あなたには現在の映画女王の胡月以上の魅力があると」

「え、ほんとにいってたんですか?」

「そりゃあもう、ほめちぎってます。あなたでしたら映画の主演オーディションも一発で合格だと。この夏はいい映画のオーディションがあちこちで開催されているので、それをうけないなんてもったいないともいってましたよ。今夜もたしかルート・デュプレでありますよね」

「え、知らなかった。私そういうことに疎いんです。アレーがいまは映画に色気をだすときじゃないって情報をシャットアウトするので」

「今日あるのは、趙民監督の大作のオーディションらしいですよ。主演女優は一般女性から募集してます。書類選考ナシで、だれでもうけられるとか」

「それじゃ応募者が殺到するんじゃないですか」

「演技または歌の心得があること、と一応条件はだしてるそうですから、ある程度は限定されるときいてます」

「へえ。そのオーディション、何時からあるんですか?」

「たしか午後八時とか。よかったらうけてみたらどうです? いや、だめですよね、アレーさんに怒られますよね」

「私、アレーのやり方には、必ずしも満足してるってわけじゃないんですよ」

 白蘭は心を動かされたようすだ。駿吉はそれがわかればよかったので、あとはとぼけることにした。

「おや、あ、私かんちがいしてました。そのオーディションは金曜――昨日でした」

「なんだ・・・・・・残念」

 ちょうど曲が終わった。ふたりは笑みをかわして離れた。

 白蘭は汗を肌につたわせながら壁ぎわに戻り、ほっとひと息ついた。

 基本的に人見知りなので、初対面の人と無理に話して疲れた。それに小山内駿吉みたいな如才ない人は苦手だ。腹でなにを考えているかわからない。ただし映画監督と親しいのは好感がもてたし、オーディションの話はもっとききたかった。

 小山内駿吉は汗をふきもせず、白蘭との会話を思い返し、まずまずだ、と腹でうなずいた。あとはこれからだ。そう思ってルドルフをみた。ルドルフはさすがに映画俳優だっただけあって、婦人相手にたくみにステップを踏んでいた。駿吉がみると気づいて意味をよみとり、うなずいた。ルドルフはふたつの任務を与えられていた。ひとつは白蘭に接触して、ある必要な情報をひきだすこと、もうひとつは白蘭にある感情を抱かせることである。曲が終わるのを待って婦人から離れると、ルドルフは白蘭に近づいた。

「お久しぶりです」声をかけると、

「あら」

 壁ぎわで休んでいた白蘭は驚いたように煙草を口からはなし、目をみひらいていった。

「元気だったんですか。フランスクラブにきてるとは」

 ルドルフはチャリティ・イベントのときとは別人のようだった。小肥りなのは相変わらずだが、髭はなく、しわひとつない服に身をつつみ、さっぱりしている。表情もけわしくなく、むしろ穏やかであった。あんなことがあったというのに白蘭をうらんでいるようすがない。それどころか謙虚に、

「私と踊ってもらえませんか」

 と、ダンスを申しこんできた。ルドルフは断られるのは承知だった。白蘭のさっきのようすからすると、簡単にうけてもらえるとは思えない。これは話のきっかけだった。案の定白蘭は、

「ごめんなさい」と言下に断った。だがそのあとの動きは意外だった。

「悪いけど私、ちょっと涼みにいきたいの」

 白蘭はそういってその場から逃げだし、舞踏室をでていった。

 白蘭はダンスを申しこまれ、ルドルフ・ルイスはまだ自分に気がある、とうぬぼれた。それでちょっとからかいたくなったのだった。逃げればルドルフはあわてて自分を追いかけてくるだろう。

「あれ、どちらへ」

 と、いって追ってきたのはしかしルドルフではなかった。護衛である。舞踏室をでてまもなく廊下の香水塔前で追いつかれた。

「白蘭さん」

 ひきとめる護衛に白蘭は不機嫌にいった。

「トイレに行きたいんだけど」

「先にそうおっしゃってくだされば。廊下でお待ちしてましょう」

「すぐ戻るから、舞踏室で待ってて。だいじょうぶ、万が一のことなんておこらないから。それとも私がトイレでなにするか気になる?」

 そういわれると護衛の男性はかすかに頬をそめて、

「いいえ。ただなるべく早めにお願いします。五時には廟堂前に戻らないといけませんので」

「まだ四時前だよ」

 白蘭は護衛が舞踏室に去ったのを確認した。トイレには行かなかった。廊下の奥へすすんだ。三つめのシャンデリアの下を右に曲がり、屋上につながる階段を昇っていった。そのようすをルドルフは柱の陰からみとどけている。


「プール、入れますか?」

「申しわけございませんが、表に貼り紙しましたように、本日はこちらのプールに一部不具合が生じておりまして」

「不具合ってなんですか?」

「プールサイドのタイルが一部破損しておりまして」

「じゃ、破損してる部分だけ踏まないようにすれば大丈夫ですよね。すこしだけなんで泳がせてもらえませんか?」

「残念ですが、本日は・・・・・・」

「ムッシュー巧月生がたのんでも同じことをいいますか?」

「それは・・・・・・」

「私、白蘭なんですが、巧さんにいいますよ」

 白蘭は従業員を脅してなかに入った。用意させたオレンジ色の水着に着がえ、白いタイル貼りのプールにひとりとびこんだ。

水底の白いタイルがきらきらと輝いている。白い光のさしこむ、白い空間。そのなかを泳ぎまわる白蘭はさながら一匹のオレンジ色の人魚のようだった。

 自分以外にはだれもいない。私ひとり、なんて気持ちがいいのだろう。

暑かったさっきまでがウソのようだ。気のむくまま屋上にきてよかったと白蘭は微笑した。顔を水上にあげた。

 頭上には屋根がわりの白い幕、外からさしこむ陽光が真白に輝いている。

 あおむけになり、全身を水にゆだねる。

 水に耳がひたった。キーンという音以外、なにもきこえない。静かだ。ただただ静か。

 水は私の下にある、静かにたゆたっている。水は――世界は私の下にある。フランスクラブも私の下、えらい人たちもみんな私の下。そう思うと胸が高鳴り、白蘭は酔っぱらったようになった。 私ひとりいまフランスクラブを、世界を占領してる気分。

 ――なんてすばらしい!!

 世界はこれから私に、だまって幸せをさずけてくれるだろう。なぜなら私、江田夕子はこれまでの人生、不幸だったのだから、そのぶんの幸福を味わう資格がある。

 そのとき陽が、かすかに翳ったようにみえた。気のせいだろう。空はまた晴れた。と思ったら視界の片隅に影がさした。人影だ。いつのまにプールサイドにだれかきている。だれがきたのか確認するため、白蘭は頭をおこした。

鉢植えのニッパ椰子の横に男が立っている。ルドルフだった。なんだあの人か、私を探してここまできたのね、と白蘭はほっと息をついた。でもむこうから話しかけてこない。そのくせこっちをみている。ちょっと不気味に感じた。蘇州河につきおとしたことなど思い出すと、気まずくもある。白蘭は思いきって自分から話しかけることにした。ニッパ椰子のほうへ平泳ぎして近づき、ルドルフをみあげていった。

「どうしたんですか? よくここに入れましたね」

「受付に無理をいって入らせてもらった」

 照れたような声がかえってきた。

「ルドルフさんも?」

「静かなところにきたくて・・・・・・」

「私もおなじですよ。ひとりになりたくて。でもルドルフさんは水着も着ないで、泳がないんですか?」

 白いシャツが水面にうつってゆれていた。

「プールサイドにたたずむのが好きだから」

 ルドルフはウソをついた。小山内に命じられたからきたのである。なにも知らない白蘭は、あなどっていった。

「へえ、水面を眺めるのが好きなんですか、変わってる。蘇州河もそうやってみてましたよね」

「・・・・・・かもしれない」

 しばらく沈黙がひろがった。気まずくなった。白蘭はしかたなくあのことを話題にのぼせた。

「あのときは大変でしたね、逮捕までされて」

 あくまで軽い、他人ごとのような口調でいった。

「結末は、ああなる予定ではなかった」

 ルドルフは暗い顔をしていった。

「それにしてもびっくりしましたよ、まさか麗生を殺すとは。どうして短銃なんか持ってたんですか?」

 知ってるくせにしらじらしい、とルドルフは思った。白蘭は自分の正体を知っている、と彼はチャリティ・イベント以来思いこんでいる。自分の正体が日本特務と知っている白蘭はいま自分がプールにひとりできたことを警戒して、こんな探りをいれるような質問をした、とルドルフは考えた。白蘭はいま自分が短銃を使うつもりか確かめようとしている。それならはぐらかすしかないと思い、わざとウソをいった。

「短銃はハルトンがくれた、護身用に」

「へえ」

 白蘭はすなおにうなずいた。ルドルフには演技にみえたが、白蘭は本気でルドルフの言葉を信じたのであった。こたえにくいことにも、ルドルフはちゃんとこたえてくれる。この際だからいろいろきこうと思い、いった。

「ハルトンさんといえばロレーヌがお気に入りみたいですけど、ルドルフさんもロレーヌとはよく会うんですか?」

「とんでもない」

 ルドルフは声を荒げた。ロレーヌの名がでたとたん、ルドルフは以前のような不機嫌顔になった。

「あんな腹黒いダンサー、会いたいとも思わない」

「『腹黒い』って、どういうことですか?」

「有力者をみれば媚びる・・・・・・生まれが悪いんだ、あの女は。顔にも品の悪さがでている」

「そうですかねえ、パリ出身らしいきれいな顔をしてますけど」

「ふん、パリ出身」ルドルフは嘲った。

「パリ出身ですよね」

「ダンサーなんて、いくらでもごまかしがきくからな」

 そういってからルドルフは、すこしムキになりすぎた、と反省した。仕事を忘れてはいけない。自分をいましめて表情をととのえ、声を直していった。

「君だよ、陰でひいきにされてるのは」

「え、だれにですか」

「みんなにだよ。上海一の美女といわれてる。君は運がいい。私を川につきおとしたことで正義のヒロインになれた」

 もちあげるつもりが、ついイヤミっぽい言葉になる。だが白蘭はほめられたとうけとったようだった。

「ほんとにねえ、ルドルフさんが麗生を殺してなかったら、こうは人気はとれませんでしたよ」

 人に殺させて自分はのほほん顔か――。ルドルフはつい平静を失いがちになる。思わずつぶやいた。

「あれから私は受難の日々だった」

「『ルドルフを逮捕せよ』ってみんないってましたよね」

 白蘭は楽しそうだった。調子づいてこんなことまでいった。

「でも上海で名前が売れたんだから、よかったんじゃないですか。いまから芸能活動したら案外人気者になれると思いますよ。なんなら私、プロデュースしてあげましょうか?」

 ルドルフは屈辱感をおさえつけ、

「いや、私はいまはまだ・・・・・・」

 わざと自信なさそうにいった。白蘭をもっと調子にのらせるためだった。

「そうですね、もうすこし時間をおいたほうがいいかもしれませんね」

 案の定白蘭はエラそうにいった。それをしおに、ルドルフは任務のひとつを実行しようと思った。魔術師アレーと吉永義一の共通点を白蘭から探るのである。それと悟られないように話をふらなくてはならない。

「君は・・・・・・」

 力が入りすぎて、言葉がつかえた。

「なんです?」

 白蘭は告白でもされるのでは思い、期待に目を輝かせた。ルドルフはいった。

「――よく、耐えられると思うよ」

「なにをですか」

「アレーのもとでやっててすごいと思うんだ。あの人、舞台では朗らかなイメージだけど、ほんとうは狷介そうだし、ふだんは厳しいだろう?」

「まあそうですね」

「君はよく相手がつとまるな。ふつうの人じゃそうはいかない。アレーには表と裏の顔があるだろう?」

「よくわかりますね、たしかに、だいたいの人はやってけないと思いますよ。うるさいですからね、アレーは。怒るのもそうですけど、口がとまらないんですよ、目下の人間をみると、すぐ講釈をたれますから、六時間も八時間も。つかまると延々とおとなしくきかなきゃならないんですよ。私なんて別に魔術師の弟子についたわけじゃないのに」

「どんな講釈される?」

 ルドルフは目の奥を光らせた。白蘭は気づかないで、

「うーん、講釈っていうか、人生訓みたいのが多いかも。口ぐせが多くて、もう覚えちゃいましたよ――『待ってるだけじゃ、なにもこないよ』、『人間二十四時間、山場との闘い』、『いかに生きることに真剣であるか』、『一日じゅう胃の痛い思いをするのは当たり前』」

「熱いんだね。怒ると、どうなる?」

 白蘭は思い出し笑いをして、

「これから怒るってときは必ず舌をコロッと鳴らしますよ。でもほんとうに怒ったときは口をきいてくれないですね」

「ほんと?」ルドルフの目が輝いた。

「ほんとですけど」

「でも意外だな」ルドルフは急に上機嫌になっていった。

「アレーは巧月生の相談役もしてて忙しそうなのに、下の人間に講釈をたれるヒマがあるんだ」

「奥さんもいないし、ひとり身だから時間もないようで実はあるみたいで。ボアンカさんがいうには私たちにしゃべって、さびしさをまぎらわせてるんだと」

「魔術師の私生活はもっと謎めいたものだと思ったけど、ちがうのかな?」

「いや謎ですよ、いまだに。私もついつい想像しちゃうんですよね、アレーはどんな寝室で寝るんだろう、どんな顔でひとりですごしてるんだろう、とか。でも最近、案外ふつうだって知って驚いたんですよ」

「ふつうってなにが?」

「秘密にしてくれます? 魔術師の体面にかかわるんで」

 そういうと白蘭はくつくつ笑っていった。

「実はアレー、マンションで隠れて、盆栽に凝ってるみたいなんですよ。それと金魚の世話。ほかにも趣味はあるらしいんですけど、その二つが目だって」

 ルドルフはガッツポーズしたいのをこらえ、いぶかしげな顔をつくっていった。

「ボンサイ?」

「あ、イギリス人だからわからないか。盆栽って日本語で、植木鉢に小さな木をうえて楽しむことなんですけどね、日本ではすごく平凡な趣味なんですよ。それを国籍不明のアレーがしてるって、しかも熟練の域って笑えますよね?」

 ルドルフはうすく笑った。おかしくて笑ったのではなかった。白蘭にそれと気づかせずにアレーと吉永義一の共通点をいわせたという会心の笑みだった。なにも知らない白蘭はルドルフの笑いがうすいのを誤解して残念そうにいった。

「説明が下手で伝わらなかったですね」

 そのとき、プールサイドのドアがひらいた。

「いた!」

 だれかが叫んで入ってきた。白蘭の護衛だった。

「探しましたよ白蘭さん、トイレに行くときいてから全然帰ってこないので、なにかあったかと・・・・・・まさかこんなところにおられるとは」

 ルドルフに視線を走らせ、非難するようにいった。白蘭は反発し、あやまりもせずにいった。

「泳ぎたいの。舞踏室にいってて」

「いいえ。すぐ着がえていただかないことには、お芝居にまにあいません。アレーさんは時間には厳しいですから」

「お芝居って、廟堂前の小屋でやる? アレーの出番は六時半からでしょ、まだよゆう」

「五時から出番前の稽古だとアレーさんにきつくいわれています。移動に二十分みないといけませんし、お願いします」

「稽古なんてよけいな・・・・・・もう五分だけ、泳がせて。今四時半でしょ。五分したら絶対用意するから」


「ロウ、ロウ!」

 酔っぱらった男が天幕から褐色の腕をつきだし、上海語で「雨、雨!」とさわいで、屋根からすべりおちる水を茶碗でうけとめている。

「こっちです」

 空の底がぬけたようなはげしい驟雨のなか、自動車をでてから護衛の傘に頭だけを守られ、白蘭は靴もドレスもびしょびしょにしながら巧氏廟堂附近の石甃(いしだたみ)を走っていた。

 視界は水しぶきで白く、歌舞天幕からもれる明かりだけがたよりである。

 なんでこんなときに、こんなに急がなきゃならないのか。肌着にまで雨がしみたのを感じ、頭に血をのぼらせて思った。

「五時を七分、過ぎました」護衛がいう。

「わかってる」

 アレーさえ時間にうるさくなければ――日本人でもないくせに、面倒くさい、と思って白蘭は歯がみする。式典では魔術ではなく芝居の真似ごとをしたいなどと、アレーがよけいなことを思いついたせいで私までまきこまれていい迷惑だ。

「では白蘭さん、私はここで」

 朱塗りの木戸の前で護衛は頭を下げ、番人に言伝てしていなくなった。

そこは食堂天幕と歌舞天幕の後方五十メートルの地点にある簡素な小屋の軒下である。歌舞天幕に出演する一般の役者たちは舞台のすぐ裏の狭い楽屋を大勢で使っているが、アレーたちにはこうした番人付きの特別な小屋があてがわれていた。

把っ手をみつめた白蘭は大きくため息をついた。開ける前からアレーの苦虫をかみつぶしたような顔が目にうかぶ。ただでさえ舞台前のアレーは機嫌が悪い。人にあたらずには気がすまない。そこへ十分も遅刻した私が入ったら、どんな剣幕になるか。想像しただけで気がめいる。

なかの音はまったくきこえない。かわりに天幕から女形の悲鳴のような歌声や、赤ん坊の泣き声が雨の音をつきやぶってきこえてくる。

白蘭は深呼吸をしてから把っ手に手をかけ、まわした。

 むせかえるような食べもののにおいが、木戸をあけるなり、鼻をついた。

 窓のない屋内は電燈がひとつ円卓の上を照らしているほかは暗く、まだよくみえなかった。

「おう、きたきた」

 白蘭は耳を疑った。怒った声のかわりに、くつろいだ声がきこえたような気がした。

「どしゃ降りで大変だったろう、手ぬぐいもあるから、さあ、こっちへ。おいでおいで」

 白蘭は面食らった。アレーはなぜか上機嫌だった。満面に笑みをうかべ、なつかしそうに自分を手招きしている。

「さあ座って。かけて」

 これはどうしたことだろう。みんなのんびり円卓をかこんでいる。室内の雰囲気は仕事後のようだった。自分を迎える視線も温かい。あの自分に冷たいボアンカでさえ優しげな目をしている。白蘭はかえっておずおずと、すすめられた椅子に座った。

「くしゃみしなかった?」

 アレーはいたずらっぽい笑みをたたえてきいた。

「え、しませんでした」

 きょとんとした白蘭の表情をおもしろそうにみて、

「あれれ、おかしいなあ」ニヤニヤと笑って、「あなたの噂してたのに」

「え、なんの噂ですか」

「いえないよなあ?」と声をはずませ円卓をみまわす。

 アレーの視線を追って白蘭ははじめて自分の隣で陰のように座っている長衫姿の男性が李龍平だと気づいて目を丸くした。

「驚いた?」アレーはおかしくてたまらないといった顔できいた。「彼も舞台にでるんですよ」

「え」

「アハハ、驚くのも無理ないな。僕は毎日あなたたち全員と個別に会ってたけど、共演者三人が顔をあわせるのは、いまがはじめてだからな」

 アレーは今日の舞台で芝居をする。しかし全体のリハーサルはいちども行っていなかった。白蘭は出演者のひとりだが、今日まで共演者の名はおろか、芝居の内容もはっきりとは知らされていなかった。ただ三人の俳優の独白からなる創作劇ということだけをきかされて、自分の台詞だけをわたされ、アレーを相手に二週間練習させられた。

「あらためて紹介するけど、白蘭は日本のおかみさん役、ボアンカは陳静役、それで彼――李龍平くんは現役国民党幹部の役」

 李龍平がなぜアレーの芝居にでるのか。アレーは説明してくれない。白蘭は突然の再会にたじろいだ。なにしろ、うしろめたいことがある。私は彼を逮捕にみちびき、生活を奪った。

「たのんだ甲斐があったよ。李くんはさすがというか、才能があるのか、すばらしい演技をする。台詞も完璧だし、初監督の僕には心強い存在」

 アレーはいう。白蘭はこっそり隣の李龍平をのぞきみる。

二か月ぶりにみる李龍平は多少面やつれはしていたが、野性的になっていた。無精ひげがはえ、日に焼けている。前より男くさい感じになった。白蘭は胸が苦しくなった。それはけっして罪悪感のせいだけではなかった。

「ちなみに李くんの役は四十四歳だからね」

「四十四歳?」

 二十四歳の彼が演じるのはさすがに無理があるだろうと思って白蘭がいうと、アレーはいった。

「だいじょうぶ、変身するから」

「え、変身?」

「そう、あなたと同じように『魔術』をかけるんですよ」

「・・・・・・」

 白蘭は耳を疑った。龍平を変身させることにも驚いたが、「あなたと同じように」といわれたことになにより驚いた。アレーは私が変身していると龍平さんの前でいったも同然だ。龍平さんはすでに私が変身しているとアレーからきかされているのだろうか?

 アレーは白蘭の心を読みとったかにいった。

「大丈夫、彼は知らないから、あなたが思うほどのことは」

 ではなにを知っているのか。白蘭の変身のことは知っているのか? 正体が江田夕子ということを知らないだけか?

 雨は屋根にうちつけ、猛烈な音をたてている。

「よし」アレーは突然手をたたいていった。

「戦闘態勢をととのえるか」

 ボアンカがうなずいて立ちあがった。

「それでは」

 稽古をはじめるのではなかった。ボアンカは奥から料理を運んできた。胡麻油やにんにく、生姜の芳ばしいにおいがする。いろとりどりの皿が、電燈の赤黄色い光をあびた円卓にみるみるならべられていった。

「あの、稽古は?」白蘭は思わずきいたが、

「食べて食べて」とアレーはとりあわない。

「食べると必勝祈願になるんだって」ボアンカも口をあわせた。

 本番まであと一時間半とせまったが、気負いはないといえる――みなの食べっぷりを愉快げに眺めながらアレーは思った。いよいよこれから、ひと芝居をうつ。文字どおり人びとにウソを真実と思わせるための芝居をやる。蒋介石が若いころ殺人をしたと信じさせる芝居である。この芝居は国民党政権を崩壊させるきっかけとならねばならない。

 なによりこれは僕の復讐だ。成功すれば、蒋介石を苦しめられる。もとより僕の身もただではすまないだろう。表だって介石を敵にまわしたが最後、どんな目にあわされるかしれない。昔同様の、いやそれ以上の苦境においやられるかもしれない。すくなくとも魔術師アレーとしてはもうやっていけまい。しかしそれは僕も花齢も承知のこと。腹はくくっている。いまはむしろ晴れがましい気分だ。もうすぐ蒋介石に復讐できると思うと、うれしい、祝いたい。アレーはにこやかに龍平に話しかける。

「それでさっきの話のつづきだけどさ――」

 白蘭は腹がたってしかたなかった。せっかく大急ぎできたのに、稽古もしないで、のんびり食事会をひらくとはなにごとだ。こんなことならもっと遅れてくればよかった。

「今日の芝居がうまくいったら、あとも首尾よくいくと思うよ」

 アレーがしゃべってる。いつ龍平と親しくなったのか、すっかりうちとけた口調だ。しかもふだんとちがい、一方的に講釈をたれるふうもなく、相手の言葉にもちゃんと耳を傾け、まともに会話している。そのふたりの話にボアンカは殊勝そうにうなずいている。そのなごやかなこと、三人はまるで家族のようで、白蘭はひとりだけよそ者のような気分になり妬けてきた。

「『あとも』っていうと、コンテストもですかね」ボアンカがなにやらきいている。

「うん。本来平和がいちばんだからね」

 アレーがこたえると、龍平が木くらげをつまんだ箸をとめていった。

「そうか。そっちの計画もあったんでしたっけ」

 なんの計画だ、と白蘭が思うと、アレーがいった。

「むしろそっちがメイン。摩登コンテストは中止させないと」

 ききずてならなかった。白蘭は思わず身をのりだしてきいた。

「中止って、摩登コンテストを中止させるんですか」

「ああ、あなたには九月になったら、いおうと考えてたんだけど――」

 アレーは白蘭の顔をみてそういったが、

「まあ・・・・・・いまいうか」

 急に決意したようにいった。

「僕と巧さんとはね、摩登コンテストをつぶす計画をたてている。計画は九月の最終選考会当日に実行するつもりだ、グランプリが発表される前にね」

「つぶすって、なんのためにつぶすんですか」

 白蘭は顔色を変えてきいた。

「詳しいことはまたあらためていうよ」

「アレーさんはねえ、グランプリはだれももらっちゃいけないって意見らしいよ」

 ボアンカがニヤニヤしていった。

「まじめな話、摩登コンテストを中止させないと、みんなが犠牲になる」

 白蘭は烈しい動悸におそわれた。

 ――アアア・・・・・・ティエーンラーン!

 京劇役者白英玉が歌舞天幕でこれを限りとはりあげるこの世のものとも思われない歌声が、雨音にかわってこの小屋にもきこえた。

「私をグランプリにするっていう話はどうなったんですか・・・・・・」

「あなたまさか、本気でグランプリをとる気だった? ハハハ」

 アレーは一笑にふした。

「だって前に、そういう話とききましたから」

「僕そんな話したっけな」

 アレーはいたずらっぽい目をしていった。

「グランプリなんて一時のこと、くだらないよ。その先に幸せはない。聖書にもある、『不義によって得た財宝は役に立たない』、『自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。(箴言二十八)』とね。あなたは一度自分をかえりみなくちゃな、自分がどういう人間か」

 白蘭はむっとしていった。

「アレーさん、キリスト教徒だったんですか」

「昨日からね。というのは冗談だけど、人間平凡がいちばん」

「たしかに、平凡はあなどれませんね」龍平がうなずいた。

「だろう? 人の幸せなんてのは、家族があって食べものがある――そんなあたりまえのこと、平凡なことから生まれるもんだよ」

「そのとおりだと思いますよ。俺もあたりまえの生活から遠ざかって初めてあたりまえのありがたみがわかりましたから」

「『平凡』が意外と難しい」

「維持するには、人間分相応ってことを知らないといけませんね」

「そうそう、分際をわきまえない人間ほど始末の悪いものはない」

 龍平とアレーは口をそろえて、うなずきあっている。白蘭はふたりに憤りを感じるとともに失望した。龍平には以前にも同じ感情を抱いたことがあるからそれほどでもなかったが、アレーには驚かされた。魔術師アレーとはこんな人間だったのか。

私に上流社会入りをすすめ、内なる才能を磨けといい、平凡をばかにするようなことをいい、そんなんじゃ華やかな世界に入れないだとか、人の上に立つなら毎日胃の思いをするのはあたりまえだとか、さんざん私を叱ってきたのに、この会話、今日のこのだらけぶりはなんだ、今までのアレーははなんだったのか。

 魔術師アレー――その正体は平凡を愛するただの一個のつまらない人間にすぎなかったのか。白蘭は足もとから大地がくずれていく心地がした。

目の前の皿には食いちらかされた皿がつみあげられていく。白蘭以外の三人はいつまでもなごやかに雑談している。突如、うなりのような声が外からきこえた。歌舞天幕で観客が名優の立ちまわりを喝采している。それを合図のようにアレーが立ちあがっていった。

「さて、それじゃ、白蘭に変身の仕方を教えるか」

 ききまちがいかと思った。白蘭はびっくりしていった。

「変身の仕方? 伝授できないんじゃ・・・・・・?」

「うん、いままでのあなたにはね。できなかった」

 アレーはにこにこしていった。

「でも、もうちがう。三か月たってあなたは認められたんですよ」

 ウソではなかった。この三か月でアレーは白蘭――いや、江田夕子の見方を変えている。

ミス摩登コンテストの合宿開始時にアレーが江田夕子に接触したのは、けっして夕子にいったように才能があると思ったからでも、合宿所でスパイ探しをしてもらいたかったからでもなかった。

口封じが目的だった。リラダン事件の日、吉永義一だったアレーは自分の行動をひとりの少女に目撃されたと思った。吉永義一は現場から離れた空地でふたつの奇怪な行動をとった。第一に現場から運び出した李花齢の体に特殊な処置をほどこし、その肉体から魂を分離した。第二に自分自身が別人に変身した。現在の魔術師アレーにだ。

 そのすべてを少女に目撃されたと思った彼は、少女の外見を目に焼きつけ、素性をつきとめた。少女の名は江田夕子だった。アレーは江田夕子を薬籠中のものにしようと接触した。まもなく江田夕子はなにも目撃してないらしいとわかったが、万が一のため、いろいろ口実をつくって自分の監視下においた。おかげでアレーはこの三か月で江田夕子という人間をすっかり把握した。それどころか、すっかり自家薬籠中の物とした。いまの夕子は信頼できる。自分を裏切る心配はまずない。

だから変身の仕方を教える気になった。龍平の存在もきっかけになった。アレーは息子龍平が江田夕子に気があるらしいとみぬいている。息子が想うほどの娘なら、大事な茶壷の使い方を教えてもいいという気になる。

「李くんにはもう変身の仕方を教えてある」

 アレーはいった。白蘭は驚きのあまり声もでなかった。なぜ李龍平が私より先に変身の方法を伝授されたのか。アレーと李龍平の関係はなんなのか。

アレーは白蘭の心を読みとったかにいう。

「李くんは優秀だから。彼は一発で覚えた。あなたもできるかな?」

 ニヤッと笑っていうと龍平をみて、

「李くん、じゃいっぺんさっきの復習もかねて白蘭のまえで実演してくれる? 白蘭はそれをみて覚えて。ボアンカは李くんがちゃんとできてるかチェックして」

「はい」

「ただし実演とはいえあくまで練習だからね。ほんとうの変身は本番直前にする。あんまり早めに変身すると行動に制約ができてくるから」

 アレーは円卓に三重箱をおいた。なかには二つの茶壷が入っている。狐の彫り物があるほうをとりだして龍平は背中をぴんとのばし、みたこともない真剣な顔をした。そして、

「孟臣沐霖(メンチェンムーリン)」

 低くつぶやき、熱湯を茶壷にていねいにそそぎいれた。茶壷が温まったころをみはからい、湯を茶杯に捨てた。

「朱雀入宮(ジューチュエルーゴン)・・・・・・懸壷高冲(シュアンフーガオツォン)・・・・・・清風拂面(チンフェンフーミェン)」

 と、唱えながら茶壷に茶葉を入れ、あふれるほどの熱湯をそそぎいれ、目をとじて把っ手をこすった。すると茶葉を吸った湯が不思議にも波だち、泡だった。これを茶杓ではらい、ふたたび、

「重洗仙顔(チョンシェンシェンイェン)・・・・・・」

 つぶやいて蓋をした。その蓋に上から湯を八の字を描くようにかけた。するとこれは奇っ怪、茶壷の蓋が生物のように上下しだした。

「関公巡城(グワンゴンシュンチェン)・・・・・・」

 龍平は茶壷をもった。するとこれはふしぎ、蓋の上下運動がおさまった。と思うと、茶壷をまったく傾けていないにもかかわらず、注ぎ口から茶がトクトクとあふれだし、下においてあった茶杯をなみなみとみたしたのである。

「変身用の茶の完成です」

 龍平がいった。

「あなたがいつも変身前にのんでる茶だよ。わかった?」

 アレーはニヤニヤして白蘭の反応をみた。

「問題は茶のいれ方。一回みただけで覚えられたかな?」

「ちょっと、自信が・・・・・・」

「まあやってみよう。みんなでみててあげるから」アレーは楽しそうにいう。

「そんなこというと、よけいに緊張しちゃうか」

 白蘭はおいてある茶壷におそるおそる手をのばした。とはいえ、それが狐仙茶壷と呼ばれるものとは知らなかった。そもそも三霊壷の存在を知らなかった。

白蘭はなにも知らずに、にぎった茶壷でみようみまねで茶をいれた。が、龍平のしてみせたことを半分もまともに実行できなかった。それでボアンカの指導をうけることになった。同じことを三回くりかえして、ようやくかたちだけはひととおりできるようになった。やっとアレーがいった。

「合格だな。この茶なら希望の姿に変身できる。飲むのは本番直前でいいけど」

「ありがとうございます」

「本来、こういう道具は使うべきじゃないんだけどね。これにたよりはじめたら、人間、ろくなもんじゃなくなる。でも今日の芝居にはどうしても必要だからさ」

 アレーは自嘲気味に笑ったが、白蘭は自分が皮肉をいわれてるとしか思えなかった。私に変身の味をおぼえさせておいた人が、「ろくなもんじゃなくなる」とはよくもいえたものだ。

「よしここらできりあげよう。出番まで四十分。あとはみんな楽にして」

「稽古はしないんですか」白蘭はいった。

「稽古はもうみんなじゅうぶんやったろ。個人個人でしか、やってないから不安というかもしれないけど、本番も同じ調子でやれば大丈夫。僕が太鼓判をおす。いまはむしろ、のんびりリラックスしたほうがいい。変に緊張しないためにも」

 そういってアレーはまたおしゃべりをはじめた。

「――さっきの話じゃないけどさ、要は人間としてあたりまえのことができるか、できないかってことですよ。それには――好きな人がいること。いや笑い話じゃなく、親兄弟恋人配偶者子ども、友だち、だれでもいい、だれか慕う人と人生苦楽をともにできるかできないかで大違い。それがわかってるかどうかだね」

 またアレーの講釈か、と白蘭はうんざりした気分で思った。

「僕なんかは失敗したくちだけどさ。生涯の伴侶をつかみそこねてるから。親兄弟もとっくに失ってるしね」

 苦笑するアレーに、ボアンカがきいた。

「アレーさんはずっと独身なんですよね?」

「わけあってね。この人ときめた人と連れそえなかったから」

 ボアンカはとびあがらんばかりに驚いていった。

「ウソ! アレーさんにもそんな女性が?」

「昔ね、若いとき、結婚を約束した人がいた。おたがい会った瞬間に『この人』と思ったもんだよ」

「へえ、初耳・・・・・・」ボアンカの顔はなぜか青くなっていた。

「でもどうにもできない事態に直面してね。別れてから僕はずっと愛しつづけたけど、彼女のほうには別の・・・・・・ができててさ、それを知ったのも雑誌上でね」

 アレーは言葉を濁したが、ボアンカはかまわずきいた。

「雑誌上で知ったって、彼女は有名人なんですか?」

「うん。顔は少しだけ白蘭に似てたな。僕はずっと、忘れられない」

 アレーはめずらしく、しめった声でいった。

「白蘭に似てる有名人なんていましたっけ。誰ですか?」

 ボアンカがきくと、アレーは白蘭をちらとみてから、

「ひみつ」

 と、いって頬をそめた。

 白蘭はぞーっとした。アレーは白蘭をみるたびに愛する女性を思いだしていたのだろうか。ああ、なんてことだろう。アレーは白蘭の顔を愛する女性をもとにつくったにちがいない。気持ち悪い。アレーの中身は平凡な人間どころか、報われない恋に執着するみっともない男だった。謎の魔術師のメッキがいよいよはがれた。カイゼル髭も褐色の肌ももはや全然神秘的にみえない。ここにるのは汗まみれのあぶらぎった、ただの親父だ。卑しい、たよれない。

 そんなことを思っているのに白蘭はめずらしく表情を変えなかった。それどころか殊勝らしくアレーの話に感心しているふりをしている。いま思ったことをアレーに読みとられないためだった。

「まあ僕の人生、ここまでは概して幸福とはいえなかったな」

 アレーはしみじみといい、若い三人を眺めて自らを元気づけるようにいった。

「でもあなたたちは、これからですよ」

 特に龍平と白蘭をみていった。それがあまりに意味ありげな視線なので、白蘭はいつもの自意識過剰で、自分が龍平を好きだったことをアレーにみやぶられたかもしれないと思い、真っ赤になった。それでアレーの視線をそらしたいばかりに、いわなくてもいいことを口にした。

「李さんにはもう、恋人がいますよね」

 いってすぐはげしく後悔した。だが龍平は驚きもせず、笑って白蘭の顔をみて、

「いるようにみえる?」

 と、からかうようにきいた。

「はい」

「俺の恋人ってだれ?」

 ふざけた質問だと思うよゆうはなかった。さすがに丁香とはいえなかったが、白蘭はまじめにこたえた。

「ファイナリストのだれか、ですよね」

龍平はさぞ動揺するかと思いきや、平気な顔でいった。

「ファイナリストっていうと、まさかおたく? おたくと俺がつきあってるとかいうんじゃないだろうな」

 からかっている。白蘭は真っ赤になった。アレーが爆笑した。

「アハハハハッ」

 心から愉快そうだった。若いふたりをみる目はやさしかった。

 白蘭はうつむいた。自分の秘めた恋心をみやぶられたようで、おちつかなかった。そんな白蘭をみてアレーは笑いやむと首をひねった。

「どうも表情がかたいな」

 それから視線をうつして、

「ボアンカもだ。ふたりとも寝不足か? 緊張か? 両方あるみたいだな。すこし眠るか? 二十分ぐらい時間があるから寝たほうがいい。舞台にでるのも寝起きでぼうっとしてるぐらいが、かたさがとれて、ちょうどいいだろ」

「じゃ壁ぎわのソファに」ボアンカが心得たようすでいった。

「女ふたりが縦にならぶだけの長さはありますよね」

「え、あれに寝るんですか」

 困惑顔の白蘭にアレーはいった。

「いいから横になって目を閉じて。スッと寝るのも芸のうち。今休んどかなかったら体力のないあなたのこと、バテるのが目にみえてるよ」

「はい」

 白蘭とボアンカはソファに体をのせ、あおむけになって縦にならんだ。白蘭の頭の上にボアンカの足がある。

「我々も椅子で休むとするか」

 アレーはそういいつつ龍平と談笑しだした。さすがに声は小さくしているが、白蘭は気になる。しかも頭のすぐ上にボアンカの足があると思うと不快で眠る気になどなれない。ただでさえ、いろいろ衝撃をうけたあとだった――龍平との再会、龍平とアレーの謎の関係、アレーの人生観の平凡さ、ミス摩登コンテストを中止にするという計画・・・・・・。先が思いやられて頭は冴えるばかりだった。

 ――ドーンドーン! 

ふいに雷鳴に似た音が外からきこえた。銅鑼である。

「陳雲林の舞台がはじまるな」

 アレーがつぶやいた。歌舞天幕ではそろそろ京劇役者陳雲林の見せ場がはじまるはずだ。陳雲林は武将役である。前後左右の敵役から投げられる槍を口でうけとり手足でうけとり、そのぜんぶを、かけ声とともにいっぺんに投げ返す。それから腹ばいになった役者たちの上を体を回転させてとびこえ、客席にカッと目をみひらき見得をきる、という運びになっている。

「みたくなってきた」アレーがいった。

「せっかくだから、行くか、ちょっくら」

「行きますか」龍平が同意した。

 アレーはソファのボアンカと白蘭にも声をかけた。

「行く?」

 ふたりは眠っていなかったが、だるそうに首を横にふっていった。

「いえ、寝てます」

「じゃ男ふたりだけで、舞台裏の特等席に」

 アレーは楽しげにいって龍平と小屋をでた。

 小屋には白蘭とボアンカのふたりきりになった。

ボアンカは本気で眠りたいのか、顔をふせて動かない。白蘭はさっきのつづきを考えた。コンテストをつぶす、とアレーはいった。アレーは私をグランプリにする気はないとわかった。「あなたは一度自分をかえりみなくちゃ」などといった。あの調子だと私を映画女優にするのも反対だろう。私、白蘭はフランスクラブの会員に優越感を感じるほどすばらしい身分になりたいのに。白蘭ならそれが可能なのに。小山内駿吉にいわれたように胡月並みの映画女王になるぐらい朝飯前なのに――。

 やっぱり私はグランプリになりたい。副賞の「一流雑誌モデル採用」、「ロンドンで演劇を学ぶための奨学金」、「高級時計、高級ブランドの衣装、靴一式」だってほしい。

 だけどアレーが邪魔をする。白蘭の未来はアレーににぎられているのだ。

 白蘭は薄く目をあけた。円卓の茶壷がぼんやりみえる。使い方を教えてもらったばかりの茶壷。変身を可能とする茶壷。

 あれさえあったら――、

私は自由に変身できる。好きなことができる。動悸が烈しくなった。

 あれを自分のものにしたら――、

 いや無理、と白蘭はかすかに首をふって目をとじた。盗めたところで、すぐアレーにみつかる。けれど心に焼きついた茶壷の残像は容易に消えず、動悸がおさまらなかった。

 ――ウォー・・・・・・!

 外から観衆のものすごいどよめきがきこえた。陳雲林が舞台に登場したようだ。ボアンカは眠ったらしい。白蘭は目をあけた。円卓の茶壷に獲物を狙うような視線を投げた。盗むならいまだ、と思った。するとそのとき、ボアンカが咳払いをした。鋭い音だった。白蘭はぎくっとして目を閉じた。自分の考えがばれて、とがめられたように思った。ボアンカは眠ったふりをして、起きていた。アレーの弟子だけに私の邪悪な心を感じとったのかもしれない。やっぱりだめだ、盗めない。そう思ったときだった。突然ボアンカが起きあがり、白蘭にいった。

「ちょっと私も外にいってきますね。しばらく戻ってこないと思います」

 ボアンカは小屋をでた。その足は歌舞天幕にはむかわなかった。驟雨はやんでいた。ボアンカは外の空気を思いきりすいこんだ。

「好(いいぞ)!」

 天幕からもれる歓声をよそにボアンカは敷地外にむかった。もう戻るつもりはなかった。

 ボアンカは今日初めてアレーに愛する女がいると知り、ショックをうけた。

ボアンカはアレーをひそかに愛していた。ボアンカはもとは三流の店をわたり歩く奇術師だった。それが今年の四月に魔術師アレーの存在を知って、変わった。ボアンカはアレーのショーに惚れこみ、弟子入りを志願した。ボアンカはアレーを師匠として尊敬した。だから口では生意気をいっても、いままでアレーの秘密を自分から知ろうとしたことはなかった。変身を可能とする茶壷のことも、使い方を教わっただけで、それ以上のことはけっしてきかなかった。愛すればこそできたことといえる。ボアンカは自分がみそめられたのは奇術の腕のみによるものでないと、かたく信じていた。ボアンカは自分同様、アレーも自分を愛しているものとばかり思っていた。

なのにアレーには長く想っている女性があるという。昔結婚を約束した女性だという。

そんなの、知らなかった・・・・・・。

 ボアンカは寝乱れた髪をなおそうともせず、ふらふらと南市の街に入っていった。その姿は庶民たちのなかに消えていった。

 ――イャーッ!

 陳雲林のかけ声がかかった。歌舞天幕の見せ場はいよいよこれからはじまる。

 白蘭はソファから起きあがった。やるなら、いま。そう思った。立ちあがる前にイヤリングをはずした。化粧をふきとった。地味なカーディガンをはおり、芝居用の大きな麦藁帽を真ぶかくかぶった。

 やるなら、いま。


 十分後、アレーたちが小屋の前に帰ってきた。興奮さめやらぬふたりの顔は木戸をあけたとたん、凍りついた。

「どこいった、娘ふたり・・・・・・」

 なかに人の気配はなかった。アレーは奥にむかって呼びかけた。

「おうい! ・・・・・・」

 返事はない。

「どっか行ったか」

 ボアンカも白蘭もどこにもみあたらなかった。

「変ですね」

 龍平はなかを歩きまわり、隅々をみわたした。その目が一点にくぎづけになった。

「あれ・・・・・・ない。茶壷がここにあった茶壷がないです」

「ウソだろ・・・・・・」

 いわれて円卓をみたアレーの目が凍りついた。汗が褐色の頬をつたいおちた。

「ボアンカと白蘭が・・・・・・まさかな・・・・・・」

 アレーは思う――あのふたりは共謀するほど親しくはない。だがその関係がみせかけだけだったとしたら? いや、そうは思えない。ではどちらかが単独で盗んだのか? ボアンカか、白蘭か。ボアンカは忠誠心のかたまりだ。アレーは知っていた、ボアンカは口にこそださないが、自分を愛していると。彼女に限ってありえない。失恋したからって裏切り行為に走ることはありえない。ぜんぶ計算した上でのさっきのうちあけ話だった。では白蘭――江田夕子か? 

「それはもっと、ありえない」

 アレーは口にだしてつぶやき、かぶりをふった。汗を吸った髪が左右にゆれる。盗むなど、江田夕子にそんな大胆なことができるはずがない。あの子が悪口が得意なのも面と向って人に怒れないから、要するに肝っ玉が小さいからだ。茶壷がほしいと思ったところで、盗みを短時間で実行にうつすほどの度量はないはずだ。それにあの子は自分を畏れ、たよっている。僕なしには、僕を裏切っては、租界で大きい顔はできない。そのことはあの子もよくわかってるはずだ。

「どっかにないか、重箱が」

 アレーは狂ったように部屋じゅうを探しまわった。探すのは守るべき宝だからという理由だけではなかった。狐仙茶壷がなければ変身できない。変身ができなければ芝居ができない。芝居ができなければ復讐ができない――。

「外の番人にきいてきました」

 龍平がいった。外の番人にふたりがでたときのようすをきいたという。番人によると、ふたりは別々に出て行ったという。ボアンカは手ぶらだった。白蘭はくるときとはちがう格好をしていた。手になにかさげているようで、廟堂の方角へ歩いていったという。

「探しにいきましょうか」

「お願いする。僕はここであと五分待ってみる」

 ふたりは戻ってくるかもしれない。ふたりとも用足しにでもいったのかもしれない――そう信じたかった。

 だが――、五分待っても、八分待っても、ボアンカも白蘭も姿をあらわさなかった。

 そこではじめてアレーは蒼刀会員たちに応援をたのんだ。廟堂付近を中心に白蘭がいないか、探させた。どこも混雑していた。訪問客の頭が数えきれないほど波うっていた。捜索は困難をきわめた。汗だくになって戻ってきた龍平にアレーはあきらめたような顔をしていった。

「もしかしたら盗んだ方はとっくに姿を変えてるかもしれない」

 そのとき、木戸越しに声がかかった。

「アレーさま、お時間です。舞台裏への移動、お願いいたします」

 アレーと龍平はごくりと唾をのみこみ、目と目をみあわせた。


「芝居はあとにまわそう」

 歌舞天幕の裏に入ったアレーはいった。あたりには脂粉と汗の匂いがたちこめている。

「深夜の部にむりいって枠を作ってもらおう。しょうがない。いまからの舞台は魔術でしのぐしかない」

 夕焼色の電燈の下を、顔に隈取をしたままの役者たちが何人もいったりきたりしていた。

「魔術をするったって、あれなしで、だいじょうぶなんですか」

 「あれ」というのはもちろん二茶壷のことである。

「しのぐ方法はある。僕には思案がある」

「どんな思案ですか」

「おまえに特別ゲストというふれこみででてもらう。おまえだったら市民に人気もあるし、ゲストとして不足はない」

「えっ。ゲストで?」

 珊瑚色の衣裳のきぬずれの音をさせ舞台から戻ってきた女形が、アレーにあいさつしようとなまめかしく小首をかたむけ、羽飾りをゆらゆらさせ、とおりすぎていった。

「いてもらわなくちゃ困るんだよ、おまえに」

 舞台の入口はすぐそこだった。


 幕があがっていく。

 舞台袖の龍平は、高まるブラスバンドの音とともに、フットライトの光にてらしだされていくアレーのシルエットをみつめている。

日本式にお辞儀しているアレーの頭に観客が拍手、はやし声、口笛をあびせる。見物はすでにもりあがっている。幕はあがった。アレーは顔をあげ、中国語でいった。

「みなさま、本日は巧氏廟堂落成式典にお越しいただき、その上長々とこの時間までおつきあいくださって、まことに恐縮でございます。『あれ、アレー、今日は芝居をするんじゃなかったか?』という声がただいま耳に入ったようですが、疑問に思われるのもごもっともでございます」

 愛想笑いを満面にたたえ、

「本日私はこの舞台で自作自演の現代喜劇をみなさんにお披露目する予定でおりました。みなさまがたの目をすこしでも汚さずにすむようにと、毎晩寝る間を惜しんでそれこそ熱心に出演者どもと稽古を重ねておりました」

 ここでニヤニヤして、

「ところが今日になりまして出演者全員がリハーサル中に突然『この芝居はほんとにおかしい』といって笑いだしたんです。全員でリハーサルしたのは今日が初めてでした。私の脚本のおもしろさをみな初めて知ったのか、爆笑しました。ひいひい笑うんです。それが現在までとまらず、みな苦しんでおります。演技はおろか、口もきけません。笑い死にするのじゃないかというありさまです。それがひとりならまだしも出演者全員ですので、芝居は中止せざるをえなくなったというしだいです」

冗談だか本気だかわからないことをいって、

「そういうわけで今夜は私の本分である魔術をさせていただこうと思います」

 もみ手をして観客の顔色をうかがった。みなアレーが芝居を中止する理由を本気にしたわけではなかったろうが、不満そうではなかった。

「いいぞ」の声まであがった。

「ありがとうございます。それでは今夜はまず、この方の未来を予言しようと思います。市民の味方、筆を武器に闘う正義の志士――李龍平さん!」

 観客席から歓声と拍手がわいた。舞台袖から李龍平が登場する。

龍平は「正義の志士」呼ばわりされて照れつつも、もちまえの度胸で堂々と舞台中央に立った。

「公の場にでられるのは久しぶりですね」アレーがマイクをむける。

「そうですね。こんなに大勢の人にみられるのは三か月ぶりです」

「三か月前には、あのチャリティ・イベントがありましたね。今日もあのときに負けないぐらい、みなさんの心をつかんでくださいよ」

「それはどうでしょう」龍平は笑っていう。「今日は僕の未来を予言してもらうだけですので」

「おっとっと。かえって私がプレッシャーを与えられました。あっと驚くような未来を予言しませんとね」

 アレーは手もとに白磁製の壷をよせていった。

「それではさっそく予言に必要な手続きをとっていただきましょう。李さんの指をこの壷につけていただきます」

 壷には水が満々とたたえられていた。

「ただの水ではありません、人はだれでもその人固有のエッセンスを皮膚組織にもっていますが、この水はそのエッセンスを吸いとります。私はそこからその人の未来を占うことができるのです。――では、李さん」

「僕の指をこの水につければいいんですか?」

「はい。お願いします」

 龍平が指を壷につっこもうとしたときだった。

「ウェイト(待った)!」

 だれかが英語でどなった。龍平はぎょっとしてアレーをみた。声の主はもとよりアレーではなかった。見物でもなかった。声はなおもいった。

「ウェイト! 待った!」

 客の注意は舞台袖にむいた。叫んでいるのはひとりの白人青年だった。止めようとする係の人間をふりきって、舞台に入りこもうとしている。

「おい、あれ、なんとかっていうイギリス人じゃねえか」

「ルドルフ・ルイスか?」

「だけどあれが・・・・・・?」

 客は目をこすった。白人青年はシルクハットをかぶり、燕尾服をきている。

「ほんとだったら根性腐ってんな」

 ルドルフ・ルイスは三か月前、麗生を殺したあと李龍平に銃をつきつけた。先月やっと逮捕されたが、すぐ釈放された。その上、巧氏廟堂落成記念式典のような晴れの場にもう顔をだし、おまけに李龍平のいる舞台に乱入しようとしているなら、かんちがいはなはだしく、許しがたいものがある。

 だがシルクハットの白人青年はスタッフの制止を突破した。舞台にズカズカとふみこんだ。片手にステッキをさげ、片手で小道具をのせた台車をひいている。なにやら奇術師風をふかして舞台中央に近づいていく。驚いたのは客ばかりではない。

龍平もアレーも目を白黒させている。

ルドルフはふたりの前で足をとめた。と思うと、シルクハットをはずし、いきなりいった。

「先日は失礼しました」

 ふたりはあっけにとられた。ルドルフは突然「先日」のことをわびてきた。いま舞台に乱入したことをわびるならわかるが、それはなんとも思ってないらしい。この元スターはまたどんな狂気にかられたものか。それにしてもついてない、とアレーは苦笑を禁じえなかった。ただでさえ不運にみまわれているのだ。信じた娘ふたりに裏切られ、茶壷を盗まれ、蒋介石への復讐計画を中止せざるをえなくなった。それでもなんとか舞台だけはこなそうというところに、このお騒がせ男の妨害にあう。怒りがこみあげたが、そこは百戦錬磨の身、明るい笑みを顔にはりつけて、

「おう、これはルドルフさん、私こそ失礼いたしました、みなさんへのご紹介が遅れまして」

 と英語でなにくわぬ調子でいうと、今度は中国語で見物にむかって、

「みなさん、ルドルフ・ルイスさんです。李龍平さんの次に未来を占う予定です」

 といってごまかし、丸くおさめようとした。しかし野次がとんできた。

「ルドルフなんて知らねえぞ」

「殺し屋はひっこめ」

「イギリスに帰れ」

 するとルドルフがいった。

「私は予言してほしさにここにきたのではありません。まず彼にあやまらせてください」

 龍平をみた。謝罪するというよりは愛の告白をするような熱のこもった視線をそそぎ、いった。

「三か月前は・・・・・・取り乱して、すみませんでした」

 あいかわらずとっぴょうしもない坊ちゃんだ、とアレーは苦々しく思った。人の舞台を邪魔して自分が主人公になるのがよっぽど好きとみえる。

「わかってください。私はチャリティ・イベント以来、ほんとうに反省しました。生まれて初めての経験『逮捕と拘留』が私を変えたのです」

 ルドルフは龍平と見物両方にいった。英語のわからない見物はぽかんとしている。

「拘置所で私は思いました。二十五歳の男としていつまでも人に寄生するのは恥ずかしい、自立しよう、働こう、手に職をつけたい。地道に一歩一歩、それがいちばんだ。毎日毎晩ほんとうにそう思ったんです」

 ルドルフは得意の独演会を勝手にはじめている。簡単にはやめそうにない。アレーは観客のためにやむをえず龍平に通訳をたのんだ。

「働くにも、なにをして働こうかと私は考えました。頭にうかんだのは、やはり舞台でした。けれどイギリス人の私には上海で役者をつとめるのは難しい。

 そんなとき、このアレーさんとの感動的な場面が心によみがえったんです。今年の春、銀華劇場で、この方は多くのことを教えてくれました。私が魔術ショーを邪魔したにもかかわらず、とがめるどころか、私のつらい過去に理解を示してくれ、多くのことを示唆してくれたのです。アレーさんは私の心を浄化してくれました。それまで思い出すのもいやだった私の欧州での青春時代は、以来必ずしもいやな思い出ではなくなったのです」

見物は冷めた顔をしている。

「魔術師とはそんなにも人を感動させられる職業なのか。私もアレーさんみたいになりたい。魔術がだめでも、せめて奇術なら――そう思ったのは私の趣味が奇術だからでした。みがけばなんとかなる、と思いました。私は釈放されるとすぐに奇術の修業をはじめました。いまではなかなかの腕前です」

 ルドルフの大げさな衣装や小道具はそういうことだったのか、とアレーは思った。

「でもアレーさんに認められるか、となると自信はありません。なにしろ奇術師になろうときめてから、わずかな時しかたっていないのです。

 しかし先ほど巧氏に私の思いを伝えましたところ実におもしろがってくださいまして、こういってくださったんです。あなたの腕を披露してこい、お客さんを驚かしてこい、と。だからこうして舞台にあがらせていただいたわけです」

巧がルドルフの舞台出演など許可するだろうか、とアレーはいぶかった。この舞台でわれわれは復讐計画を実行することになっていた。二茶壷が盗まれて計画が中止になったことを巧はまだ知らないはずだ。計画は実行されてると思ってるだろう。邪魔になるルドルフを舞台にあげようと思うはずがない。

となるとルドルフはウソをついていることになる。が、ルドルフはよくも悪くも正直で、ウソをつける人間ではなかったはずだ。アレーは心中で首をひねった。もっとも顔では笑顔をつくり、体裁をとりつくろうためにいった。

「ルドルフさんは奇術師をめざすと思ってましたよ。ええ、私にはわかっていました。今日僕の舞台にこうして登場するということも、予知していましたよ」

「ふっ」ルドルフは笑った。アレーを尊敬するといったわりには、ばかにするような口調で、

「それではアレーさん、あなたは今夜私がここで術比べしたいと思ってることも予知してましたか?」

 挑戦する目を投げつけた。

ルドルフが魔術師アレーの舞台に乱入したのは、奇術師として鮮烈なデビューを飾るためだったのか?

 いやいや、そうではなかった。ルドルフはアレーと本気で術比べしようなどとは思っていない。奇術師として独りだちしたいということからしてウソだった。

ルドルフが舞台に乱入したのは、日本特務の指令を実行するためである。指令とはすなわち、魔術師アレーの正体を吉永義一と暴くことだった。

魔術師アレーをおとしめることはルドルフ個人としても望むところだった。ルドルフはアレーを憎んでいた。銀華劇場以来アレーを尊敬しているというのは、もとより真っ赤なウソである。むしろあれ以来憎んでいる。舞台でアレーの腕にだかれ、涙したことを、ルドルフは観衆の前で恥をかかされたと考えていた。

ルドルフがアレーをやっつけたいと考えるのには、もうひとつ理由があった。

龍平である。龍平も自分同様アレーを憎んでいる、とルドルフは信じていた。アレーは龍平の逮捕にからんでいると思われるからだ。直接逮捕したのは租界警察だが、租界警察を動かしたのは巧月生にちがいなく、巧月生をその気にさせたのはアレーにちがいなかった。

 そのアレーと龍平が共演するとは意外だったが、龍平はアレーになにか弱みでもにぎられているのだろう。出演は強いられてのことにちがいない。だから龍平はアレーをたおせば、きっとよろこんでくれるだろう、前みたいに自分と口をきいてくれるだろう、とルドルフは考えた。

幸いここまでは首尾よくいっている。「お騒がせ男」のイメージがうまいこと役に立っている。アレーはこっちの真意にまったく気づいていない。

「いいでしょう、術比べ、やりましょう」

 アレーは承知した。その笑顔がひきつっているのをみてとったルドルフはニヤッと笑い、手にもったハンカチを客席にむかって大きくふり、叫んだ。

「魔術師アレー、バーサス、奇術師キャプテン・ルーディッッ!!」

 絶叫に見物ものみこまれ、さすがに興味をひかれたのか、拍手しだした。

 龍平は心配そうな目をアレーにむけた。アレーはだいじょうぶか。茶壷もないのに、どうやってしのぐのか。

「最初はまず読心術で勝負しませんか?」

 ルドルフはうす笑いをうかべていった。ハンカチはいつのまに胸ポケットにきれいにおさめられている。

「お客さんのなかから一人選んで、その人の名前、年齢、経歴などをあてるんです」

「先にお題を知ってるほうがいささか有利では」

 アレーは小さな抵抗を示したが、

「サクラをしこむなど、私は卑怯なことはしません」

 ルドルフはいかにも心外といったようにいった。

「疑われると困りますから、私が挑戦するときはアレーさんがお客さんを指名してください。アレーさんのときは私が指名します。それでどうでしょう?」

「いいいい、それでやれ」

 見物が声をとばした。つられてアレーはうなずいた。

「いいでしょう、それでやりましょう」

 ルドルフは当然のような顔でうけとめて、

「ではまず、いいだした私から先に挑戦したいと思います。アレーさん、私のためにひとりお客さんを指名してください」

 といった。アレーは客席をみた。わかりやすそうな客を選ぼう、と思った。あまりわかりにくい客を選べば、あとで仕返しをされる恐れがある。ほとんどの客が教養のなさそうな顔をしていたが、そのなかで目立って知的な顔を選んだ。眼鏡をして、いかにも教師っぽい男だ。

 ところがルドルフはみごとにはずした。指名した客は予想どおり教師だったが、まるで見当はずれのことをいい、満場の失笑をかった。

「ド素人」

「エセ奇術師」

「キャプテン・ルーディーが、笑わせるぞ!」

 次々に野次がとんだ。見物は残念がるというよりむしろ痛快がっている。ルドルフは立場をなくして、むくれたかと思いきや、

「お恥ずかしい、読心術に関してはまだまだ修業がたりないようです」

 と、意外にも謙虚にいった。

「これでアレーさんがあてたら、最初の勝負、私の負けということになります。さあ、今度はアレーさんの番です」

「わかりました」アレーは緊張した声でいった。「お客さんの指名をお願いします」

 ルドルフがひとりの客を指名した。

「前から二列目、左から四番目の、あの人をお願いします」

 アレーはゆっくりとそのほうへ視線をむける。動悸が高くなった。心臓の音がはっきりと耳に伝わった。アレー――本名吉永義一の読心術はけっして魔術師のレベルではなかった。

ところが二秒後、アレーの表情に変化がおこった。アレーは目を疑った。指定の男の顔には、どことなくみおぼえがあった。必死で記憶をたぐった。あの眉、あの目つき――知ってる、どこかでみたことがある。そうだ、あれは若いころ――。あいつがどうしてここにいるのか。ふしぎに思ったが興奮したアレーは夢中でしゃべった。

「あの方は日本人、長野県出身です。東京外語大学卒で、専門はロシア語。なのに皮膚病理学に興味をもち、独学で勉強していました」

 指名された中年男は瞠目した。これはいける、と思ったアレーは調子にのってべらべらとまくしたてた。

「皮膚病理学を学んだのは、下宿先の義兄の皮膚病を治したいと思ってのことでした。外語大卒業後は下宿先の次女と結婚、日本橋の証券会社に入社しました――」

「どうです、お客さん、あたってますか?」

 ルドルフがきくと、中年男ははっきりとこたえた。

「あたっています」日本語訛りの中国語だった。

「実に細かいところまで。どうしてわかるんだか」

 心から驚いているようすだった。

「じゃお客さんは、アレーさんとは面識はないんですね?」

「ありません、ありません、今日舞台をみたのが初めてです」

「さすがアレー」

「すごいぞ!」

 客席がわいた。口笛がとんだ。アレーはすっかり得意な顔になっていった。

「今回の勝負、私の勝ちということでよろしいでしょうか」

「ええ、私の負けと認めます」

 ルドルフは悔しげにいった。だが、だれが知ろう。内心では勝利の笑みをうかべていると。ルドルフは心のなかでアレーを嘲笑った。ルドルフは勝負には負けたが、目的を果たしたのだった。

 アレーは知らないが、ルドルフが指名した客は、日本特務が用意したサクラだった。男は吉永義一の知人である。二十五年前の学生時代、この男は吉永と国立図書館でしょっちゅう顔をあわし、言葉をかわしていた。ただしアレーと面識はない。だからアレーがこの男の素性をいいあてたら、アレーの正体が吉永義一という可能性が高くなる、と日本特務は――小山内駿吉は考えた。

それでこの証券会社員の男をわざわざ東京から上海にこさせたのである。男はただの出張だと思いこんでいる。社長は実は日本特務に命じられて、自分に上海出張を命じたとは知らない。現地の案内人の正体が日本特務ということも、もとより知らない。男は今夜ここに現地案内の一環としてつれてこられた。そして未知の魔術師に自分のことをピタリとといいあてられて心底驚いた。

日本特務はこの男を東京からわざわざよんで正解だった。吉永を知りアレーを知らない人間は中国に大勢いたが、彼らを使うのは避けた。黒龍会時代の知人などをよべば、こっちの意図をさとられる可能性が高くなる気がしたためだった。

幸い現在のところアレーに日本特務の策謀に気づいた気配はなかった。奇術の勝負をこなすことで頭がいっぱいなのにちがいない。

「次の勝負には負けませんよ」

 ルドルフはわざと悔しそうにいった。それをいつもの負け惜しみととったアレーは、

「まだやるつもりですか?」ややうんざりした声でいった。

「はい。次はこれを使いたいと思ってます」

 ルドルフは白い手袋をはめた手で手押車をさした。そこには金庫のような頑丈な銀色の箱がのっていた。

「このなかに身動きのとれない状態でとじこめられて何秒ででられるかを競いたいのです」

「脱出奇術ですか・・・・・・」

 アレーは額に脂汗をうかばせていった。

「キャプテン・ルーディー仕様の箱なら、僕には、あわないんじゃないですか?」

 そういってわずかな抵抗をみせたが、ルーディはきっぱりといった。

「私も初めての箱です。誓っていいますが、使ったことはありません」

「証明できますか?」

「そもそもこれはただの箱です。タネも仕かけもない箱ですよ。よくみてください」

 ルドルフは堂々と箱のふたをひらき、アレーにも見物にもみせた。なかにはなにもない。特別な細工がないようにみえるのはたしかだった。

「私が卑怯な手段で勝とうとしていないことは、さっきの勝負でおわかりいただけたと思いますが」

 ルドルフはアレーにいった。

「私はただの奇術師ですが、あなたは魔術師。なにを躊躇する必要があるんです。どんな箱だろうと、魔術を使えば脱出できるはずでしょう?」

「アレー、実力をみせてやれ」

「そんなやつに負けるな」

「ルドルフなんて、ぶっとばせ」

 見物がはやしたてる。

「わかりました、やりましょう」

 アレーはあきらめたようにいった。ルドルフはニヤッと笑っていった。

「今度も順番は私が先で、よろしいですね」

 アレーに異論のあろうはずがなかった。先にやるよりも、あとのほうが有利だ。ルドルフの実演をみて学べる。

「さっそくですがアレーさん」ルドルフはいった。

「私の両手首と両足首を身動きできないよう、この鎖でがんじがらめに縛っていただけますか。手錠もお願いします」

 鎖は金属製で、なんの細工もないようだ。これで縛って脱出できるのか。あまりきつく縛って自分のときに仕返しをされては困るので、アレーはまたも多少の手加減をした。とはいえふつうなら解くことはまず無理な具合には縛りあげた。

「これで私は自由に手足を使えなくなりました」

 ルドルフは観客にみせると、尻から箱に入った。

「では箱をしめ、鍵をかけ、表から鎖をぐるぐる巻いてください。そのあとで十を数えてください」

 アレーはいわれたとおりに箱の処置をした。それから十を数えた。

「一、二、三、四」

 だれもが目をみはった。箱の外側に巻いた鎖が、どんな力が働いたか、目にみえてゆるくなりつつあった。

「五、六、七、八」

 客もいっしょになって数えだした。鎖はほどけた。

「九」

 錠前がカチッと鳴った。

「十!」

 声と同時に箱がひらいた。

「おおっ」

 ふたの下からルドルフがあらわれた。両腕を高々とあげてポーズをとっている。手首の鎖は跡形もなく消えている。観客はさすがに感嘆した。

「すごい」

「お見事!」

 拍手もわいた。

「これで奇術師キャプテン・ルーディの面目がどうにか立ちました」

 ルドルフは晴れ晴れとした顔でいった。

「次はあなたの番ですね。アレーさん」

 ニヤッと笑った。アレーはよくない予感がした。だがいまさら、やめるといえるわけがない。

 ルドルフはアレーの両手両足を鎖でがんじがらめに縛った。手加減はしなかった。血がにじみでそうなほどきつく縛った。その状態でアレーは箱に入れられた。ルドルフはふたをぴっちりしめた。そして表から鎖を幾重にも巻き、鍵をかけた。

これは――、とアレーが不審に思ったときにはルドルフはすでに箱の外で十を数えだしていた。

「ではみなさんごいっしょに。――一、二、三、四、五」

 箱に巻いた鎖が、ルドルフのときとちがい、ゆるむ気配はない。

「六、七、八・・・・・・」

 錠前も鳴らない。

「九」

 だれも固唾をのんだ。

「十・・・・・・」

 大勢の目玉が箱にくぎづけになった。

ふたがひらく気配は、なかった。

「あら?」

 奇術師キャプテン・ルーディが嬉々とした声をあげた。

「この勝負、どうやら私の勝ちのようですね?」

 龍平は動かない箱をじっとみつめている。冷や汗が背中をゆっくりとつたいおちるのを感じた。

 

 雨はあがっていた。

 時刻はすこし戻って六時半前後――、

白蘭は落陽をといた石甃を走りぬけていた。華洋折衷の家々の柱、夕飯の匂いをただよわす窓、屋外で麻雀に興じる旗袍姿のマダムの白い肌、裸電球、柱などが次々とうしろに流れていく。

 アレーと龍平がまだ天幕に入る前、小屋をぬけだした白蘭は盗んだものを小脇に抱え、廟堂付近の人ごみを突破した。そして中国人街のいりくんだ露地に入り、ぬれた石甃のむこうに沈みつつある夕陽にむかって無我夢中で疾走した。

 一歩ごとに日が沈んでいく。

 紫色が上空にひろがっていく。

 どれくらい走ったことだろう。

 目印は忽然とあらわれた。

残陽にきらめく十字架。

 白亜の天主堂はそこにあった。

 堂内のマリア像に薔薇をそなえていたひとりの娘は、背後にせまったせわしない足音、はげしい息づかいを感じとり、顔をあげた。ふりかえった。たったいま到着した娘が目に入った。肩に大きな鞄をさげている。

「よかった!」

 到着した娘がいった。白蘭だ。天主堂に丁香を発見するなり、くしゃくしゃに笑っていった。

「いてくれて救われた。――あ、ごめん、いきなり。丁香ちゃん」

 白蘭に変身している夕子は高級ドレスをカーディガンで隠すようにして、丁香にこっそり耳打ちした。

「私だよ、夕子」

「うふ。ほんとなのね、白蘭って」

 丁香は雪山のような天主堂を背ににっこり微笑をひろげた。夕ちゃん、と呼びたいのをこらえたようにいった。

「早かったね」

 ふたりの本来の待ち合わせ時間は七時半だった。

「私、急いでぬけだしてきたの」

 興奮状態にあった夕子の白蘭は、待ち合わせ時間より一時間近く早いのに、丁香が自分より先にきていたことをふしぎとも思わずいった。

「丁香ちゃん、私たいへんなことしちゃった」

「たいへんなこと?」

「くわしいことは、ここじゃちょっと・・・・・・」

 白蘭はあたりを警戒するようにいい、肩にさげた大きな鞄を目でさした。

「このなかに、すごいもの入れてきたから、みつかんないようにしなきゃ」

「それだったら――」

 丁香は心得顔で道路に視線をなげた。

「むこうに乗ってきた自動車がある」

 薄闇にライラック色のワンピースをとけこませ、丁香は白蘭を黒い自動車に案内した。どこからか運ばれてきたマーガレットの赤、水色、黄色の花びらが車輪のまわりで踊っていた。

「すごい、これ、丁香ちゃんの自動車なの」

 ふかふかの座席ではしゃぐ白蘭をみつめ、

「ほんとに夕ちゃんなのね」

 丁香はあらためていった。白蘭はうなずきたいけれど運転手が気になる、という目つきをした。

「安心して。彼、英語は一言もわからないから」

 丁香がいったので、白蘭はほっとして遠慮なくいった。

「私ほんとに江田夕子だよ。もし信じられないっていうなら証明だってできる、これで」

 白蘭は鞄を指さした。

「これって? なにが入ってるの?」

「変身の道具」

 白蘭はきゅっと笑っていった。

「ウソでしょ。ね、ほんと?」

「うん、盗んできた」

 けろりと白蘭はいった。丁香のほうが心配になっていった。

「ちょっと、そんなものもってきてだいじょぶなの」

「ううん、だいじょぶじゃない。だから走ってきたんだよ、でももう自動車に乗ったから平気だよね。この道具のことは内密にねがいます、班 妤さま」

「そりゃあ秘密にするけども。アレーに怒られない? 舞台、ぬけだしてきたんでしょ?」

「うん、すっぽかしてきた。――ねえ、それより私、李さんを共演者として紹介されたんだよ、びっくりしちゃった。ねえ知ってた? 李さんもアレーの舞台にでるって」

「知らない知らない、小龍が? どうして」

「なんか彼、アレーさんに変身の仕方を私より早く教わってたの。だから私が道具を盗まなければ、彼もいまごろ変身して、現役国民党幹部になりきって芝居をやってたはずだよ」

 そこまでいうと白蘭はおかしそうに笑った。

「ふふ、でも変身の道具はこうしてここにあるから――舞台はいまごろどうなってるやら。当然芝居は中止になっただろうね。アレーはやむをえずいつもの魔術でもやってるかな」

「ずいぶんたいへんなことを・・・・・・。アレーは舞台が終わりしだい夕ちゃんを――白蘭を探しまわるんじゃない。それともすでに蒼刀会の人たちに捜索させてるかも・・・・・・ねえ、だれにも尾行されてなかった?」

 白蘭は眉をくもらせて、うしろの窓をみつめ、

「されてないよ。うしろに怪しい自動車も人もいないし・・・・・・だいじょぶだよ」

 みずからをはげますようにいった。

「されて問題になったところで、ミス摩登になるまでの辛抱だからね。ミス摩登になれば、IAAという大きいパトロンがつくんだよ。そしたら巧さんだってアレーだって私に手出しできないでしょ。長くてあと一か月しのぎさえすりゃ、こっちの勝ち」

 自信まんまんの白蘭を、丁香はものさびしげな目でみていった。

「強気だね。ほんと夕ちゃんとは思えない。変身すると中身まで別人になるのかな」

「でも私の正体は江田夕子だよ。変身しようか。この道具、使い方習ったばっかりなんだ。姿が変わるとこ、みたいでしょ?」

「それは、できればみたいけど・・・・・・」

 丁香はもっと慎重になるべきだと思っているようだったが、ふと考えを変えたようにいった。

「たしかにそうだね、白蘭から夕ちゃんに戻ったほうが無難かも。追っ手がいるとしたら白蘭でいるのは危険だね」

「じゃ変身しなきゃ。せっかくだから白蘭邸にいかない? そこで変身するよ。丁香ちゃんのいってたナイトクラブに行くのは、それからでも遅くないでしょ」

「でも白蘭邸は危ないかも。追っ手が先回りして張ってないとも限らない」

「あそっか。じゃ、どこならいいだろう。アレーのマンションもこうなると危険だし」

「競馬場前に私の知ってるホテルがあるけど、そこはどう?」

「ホテル? 私いま、そんなにお金ないよ」

「お金なら私が。今日のために用意してある」

「ほんと? じゃ悪いけどそこにお願い」

 白蘭は遠慮なくいうと、

「ね、どうせだから丁香ちゃんも変身してみない?」

 と、急な思いつきを口にした。

「いいの?」

 丁香が目を輝かせると、白蘭は急に渋い顔になって、

「うーん、やっぱりだめ。白蘭より美人になったら困る困る」

 そういって酔っぱらいのように笑った。

「夕ちゃん、そんなにうかれてだいじょうぶかしらね」

 丁香の返事には返事せず、白蘭は、

「私ね、今日つくづくアレーがいやになったんだ。はじめて本性がわかったよ」

 自分のいいたいことをいった。

「アレーの本性?」

「うん、『人間平凡がいちばん』なんていうんだよ。平凡からほど遠い人間かと思ってたのに、この世を超越して生きてる人だと思ってたのに」

「たしかに意外、アレーが平凡を重んじるなんて」

「私に平凡に暮らせっていうのかね? いままでさんざん豪華な世界を味わわせておいて。ミス摩登になる気にさせといて。まったくいまさらよ。私絶対平凡なんていや。平凡なんてくだらない!」

 白蘭がいいたいことをいっているあいだにも空の紫色はしだいに濃くなっていった。いつのまに自動車は競馬場の外縁をまわって共同租界の大通りに入っていた。大娯楽場・新世界のネオンが左の車窓いっぱいに光っている。その先にみえた時計塔をいただいた建物の正面入口に運転手は突然停車した。

「こ、ここ・・・・・・もしかして、チャイナ・ユナイテッドじゃない?」

 闇夜にはえるイタリア宮殿風の堂々たる建物をみあげて白蘭は肝をつぶしたようにいった。自動車をおりた丁香はゆったりとうなずいた。

「そうだよ」

 石造りの外階段の手すりに手をかけている。階段の上の玄関はアーチ型で、両脇に花束のような電燈を淡く光らせていた。

 チャイナ・ユナイテッドは長期滞在者向けの特級アパートメント・ホテルである。近代的な水道設備、ヨーロッパ風の食事がつき、部屋付きのボーイは一日中ブザーに応じて使い走りをしてくれる。中華資本だがアメリカ式に経営され、客のほとんどは英米人だった。白蘭はまだ一度も入ったことがなかった。

「お金、ほんとにだいじょぶ?」

 思わず不安になってきいたが、丁香は、

「友だちの部屋、かしてもらえるから」

 と、こともなげにいった。

「友だちが――?」

「うん、七六六号室に住んでる。でもいまは旅行にいってて、そのあいだ必要があったら使っていいって」

 初耳だ。白蘭は驚き、動揺していった。

「へええ、丁香ちゃんには、そんなすごい友だちがいたんだ」

 七六六号室は眺めがよかった。夜景がよくみえる。

 窓辺で白蘭は茶をひといきにのみほした。あけはなした窓に顔をつきだすようにし、しばらく生あたたかい夜風にふかれた。

眼下の街の灯はきらきら明るい。そのなかで競馬場がぽっかり黒い穴をあけている。レースが休みだから暗い。闇にしずむ広大な湖のようだ。光っているのは競馬場の時計だ。馬をかたどった長針が月光を反射している。

白蘭は室内をふりかえった。――いや、すでに白蘭ではない、江田夕子に姿が変わっている。その顔に苦笑をうかべて夕子はいった。

「情けない顔だよね。顔が変身する瞬間はやっぱり、恥ずかしくてみせられなかった・・・・・・もとに戻るといつも天から地におちた心地がする」

 江田夕子の声だった。丁香は緊張がとけたような笑みをうかべ、

「お帰り」

 と、愛撫するような声でいった。そして夕子のために用意したドレスをさしだして、それに着がえるようにすすめた。

「白蘭の衣裳はここにおいていく?」

 丁香は鏡ごしにきいた。耳に小粒のマーマレード色のイヤリングをはめている。

「ナイトクラブにいったあと、またここに寄ればいいよね。もしそれが面倒なら、しばらくおきっぱなしにもできるけど? 友だちはさっきいったとおり六日先まで戻らないから」

「じゃ、おかせてもらう。茶壷もむこうにもってくと大変だから、いっしょにおいてく」

「了解」

 仕度をおえたふたりはむきあった。丁香は淡黄色のふわっとしたドレスを、夕子は桜色のドレスを着ている。丁香の粋なアイラインをみつめ、夕子は自信なさそうにいった。

「私、似合ってないよね? こんなかわいいドレスに、この顔と、この体型じゃ・・・・・・」

「ううん。私はかわいいと思う」丁香ははげますようにいった。

「夕ちゃんは夕ちゃんで独特の美をもってる」

「ほんと?」

「信じてくれないの?」

 丁香が哀しそうな目をしたので夕子はあわてていった。

「信じるよ、友情誓約をかわした仲だよ」

「友情誓約といえば私、あらためて誓うね。私が夕ちゃんの秘密、この茶壷の秘密を知ったことは、絶対にだれにもいわないって」

 丁香はつやめく唇をひきしめ、いった。

 ホテルを出る前、丁香はナイトクラブに予約をいれるといってロビーのソファに夕子をおいて電話室に寄った。戻ってくるとやたら上機嫌で、

「ね、せっかくだから自動車じゃなくて、黄包車にふたりがけして行かない?」

 と声をはずませていった。黄包車は自動車とちがって乗れば人目にさらされる。丁香とならぶと自分の醜さがいっそう目立つと思われ、 夕子は気のりはしなかったが、

「白蘭でいるのとちがって危険はないだろうし、ね?」

 と丁香にせがまれるようにいわれて、

「いい・・・・・・よ」

 と、しかたなく承知した。とたんに丁香は満面に笑みをひろげ、正面玄関前でみずから、ボーイを使わずに黄包車を呼んだ。

「リキシャ(共同租界の英米人は黄包車をこうよんだ)!」

 こんなに声をはりあげている丁香はみたことがない。

「きてくださいな!」

 いやにうかれている。さっきの白蘭のようで、今の夕子と対照的だ。

「ハロー、レイディ」

 高々とあがった丁香の左手の下に車夫は笑みをうかべやってきた。

大理石の列柱の前にとまった車体はぴかぴかだった。真新しく高級。こんな俥は街中ではなかなかお眼にかかれない。刺繍をした真白なクッションのならぶ座席にあがった丁香は、夕子をみおろしていった。

「どうしたの? おいで」


 街の灯が次々とマロニエのシルエットに溶けていく。

「夢みたい」

 袖をそよがせ、丁香はうっとりといった。

「こうして夕ちゃんとフランス租界をとおってるなんて」

 夏の夜風にのって、どこやらかしぶいチェロの音色、あるいは明るいサキソフォンの音色がきこえる。煉瓦にもたれて春をひさぐロシア娘の涙にぬれた瞳、ソーダをのむ水兵の顔などが視界をかすめていく。

「夢みたい」

 夕子もそういった。すると丁香ははしゃいで上海語でいった。

「快些(クァティ)(早く)! 豪燥豪燥(オーソオーソ)(大急ぎで)」

 車夫は「おうとも」とうなずき、前のめりになって速力をあげる。ドレスがはためく。髪がなびく。夜空と月がぐんとせまる。

「空をとんでるみたい」

 ふたりはそういって、やがて思い思いに詩を口ずさんだ。

「来よ、いとし友 ここに幸あり ここに幸あり(シューベルト『菩提樹』/近藤朔風訳詩)」

 と、夕子が日本語でいえば、

「Gather ye rose-buds while ye may, Old time is still a-flying(まだ間に合ううちに、薔薇の蕾を摘むがいい――/昔から時間は矢のように飛んでゆくものなのだから。“To the Virgins, to Make Much of Time” Robert Herrick ロバート・へリック『時を惜しめと、乙女たちに告ぐ』より)

 と、丁香が英語でいう。

「このまま時が永遠にとまったらいいのに――」

 そう夕子はいわずにはいられなかった。


 『Paris Dream Club 巴黎夢倶楽部』――それが丁香のいきつけのナイトクラブの名だった。

「いい名前。フランスクラブと関係あるの?」

 黄包車をおりて金看板を眺めた夕子はうっとりとしていったが、丁香はなにを思ったか、それにはこたえず、表情のない顔で左をむいて、

「この先に『丁香花園』て、あるの知ってる?」

 と、きいた。

「名前はきいたことあるけど」

 丁香の視線をたどると、すこし先に樹々の輪郭が闇に濃くうかびあがってみえた。

「あれが、そう。私と同じ名前の、李鴻章の愛妾のためにつくられた邸宅。その丁香さんはもう、この世にいないんだけどね。春先になるとライラックの花がいっぱいに咲きほこるの・・・・・・」

 妙に沈んだ声でいったかと思うと、丁香は次の瞬間には明るい顔に戻って、門番にクラブの会員証を提示し、同伴者を友人といって入館を認めさせた。門をくぐると、数人の男たちがバラバラとよってきて、ふたりをかこんだ。夕子は突然両手をあげるように命じられて、

「や、なに」

 びっくりしていったが、丁香は慣れきった顔でいった。

「ボディチェック。巴黎夢倶楽部にくる人は入口でみんなチェックされるの。銃を持ってないか」

 ふたりとも全身点検されたのち、無事通過した。

「ずいぶんちゃんとしたクラブだね。私この顔と体型だし気おくれしちゃう」

 広い前庭をわたりながら、夕子は不安顔でいった。行く手には、煌々と灯火のもれるフランス風の三階建て大邸宅がある。

 桜色の大理石を一歩ふむなり、白シャツに蝶ネクタイを結んだボーイがやってきて、丁香の申し出に応じて薄暗い奥のホールへ背筋をぴんと弓形にそらして案内した。

 ざわめきが耳をうった。

 案内された場所はしかし、なにか空気がはりつめていた、それでいて異様な熱気が感じられる。

 淡い光にバーカウンター、英語とフランス語で交互に話す長衫姿の男の横顔、無表情に楊枝を歯に刺す中国人の男、東欧人らしい女の組んだ長い脚などが目にとびこんだ。

 フロアに目を転じると、そこかしこのテーブルはどれもすきなく人に囲まれている。

「左からバカラ、ポーカー、麻雀。名士たちの高額かけた真剣勝負。ここからみえないけど、もっとうしろでは別のゲームをやってる」

 丁香はなんでもないことのように説明した。

「裏フランスクラブといったところなの?」

 夕子はおじけづいてきいた。白蘭としてナイトクラブにはいくつか行ったことはあるが、こういう感じのところは初めてだった。なにか異様だ。フランスクラブの小粋で上品な感じもない。ダンサーのショーを売りにしたナイトクラブともちがう。

「ここは賭博場。三階にはアヘン吸引室もある」

 丁香はこともなげにいった。

「もちろん表向きナイトクラブといってるとおり、レストランやボール・ルームもあるよ」

 カウンターにはありとあらゆる高価な酒の壜がならんでいた。中国人バーテンダーは温厚とも残忍ともとれる細い目を一心にグラスにあてて磨いている。

「先に飲みもの、たのんどこう。なにがいい?」

 華やいだ声で丁香はいった。

「あんまりアルコール強くないのがいいな」

「じゃあ、サマーディライト2つ。よろしく」

 鈴のような声で注文して丁香は予約した個室に夕子をつれていった。


 個室は蝋燭ていどの明るさのランプが天井から1つ、つりさがっているだけだった。

 暗さに目がなれて、円卓をはさんだ丁香の表情がみえるようになってきたころ、やってきたボーイがシェイカーを高々とふって、淡紅色の液体をグラスに注ぎいれ、去っていった。

「乾杯」

 赤い光にうかびあがった顔を微笑ませて丁香がいった。

 ひと口のんだ夕子は感嘆の声をあげた。

「なんておいしさ、泣きたくなるほど」

 ほんとうにおいしかった。Summer Delight(サマー・ディライト)――「夏のよろこび」という名のカクテルは、西瓜のうまみをぐっと抽出した玉のような味わいがあった。さくっとしたのは、西瓜の果肉だ。ふと夕子は丁香とふたりで初めて西瓜を食べたときのことを思いだし、うれしくなった。丁香も同じ気持ちだと思い、いった。

「二週間前にも西瓜、いっしょに食べたよね」

「そうだっけ」

 丁香はきょとんとしていった。夕子は耳を疑った。ききまちがいかと思った。私たちはいつも、ふたりでしたことを恋人のようにひとつひとつちゃんと記憶しているはずなのに。夕子はもう一度同じことをいった。けれど丁香はきょとんとしたままだった。ほんとに覚えてないらしい。夕子はしかたなく話題を変えた。

「ふたりでお酒のむの、はじめてだね」

 ところが丁香はまたもきょとんとしていった。

「そうだっけ」

「・・・・・・」

 私、なにか嫌われるようなことをしたかな――夕子は思った。けれど、ここにくるまで悪いことをした覚えはなかった。

 ふと思った。丁香ちゃんは今夜ここで龍平さんを私に紹介するといっていた。それで緊張して、心ここにあらずといった状態になってるのかもしれない。それなら、その話題をふれば反応があるだろう。個人的にはその話題は避けたく、きくのもおそろしかったが、親友と話すために勇気をふりしぼっていった。

「李さんて、いまからここにくるの?」

「さあ」丁香は首をかしげ、気のなさそうな返事をかえした。

「くるとはいってたけど」

 恋人を夕子にあわせるといってあれほどはりきっていたのに、これはどうしたことだろう。いまの丁香は夕子と目もあわせない。個室にきてからようすが変だ。夕子は動揺した。しかも李龍平がもうすぐここにくる。どうしよう。李龍平はアレーがはっきりいわなかっただけで白蘭の正体を知っているかもしれないのだ。江田夕子として会うのは初めてじゃないし、どんな顔をして会えばいいのか。もし茶壷のことをきかれたら? 舞台をすっぽかしたことをきかれたら? なんてこたえればいい。夕子は自分をおさえていった。

「でもまだ来ないね。私が――白蘭が、芝居の予定を狂わせたから、遅れるのかな」

「どうだろ」

 丁香は他人ごとのようにいった。視線はあいかわらず宙にある。夕子は不安をおさえきれずにいった。

「どうしよう、私――」

 するとふいに丁香が夕子の目をみた。いまはじめて夕子に気づいたような顔をしていった。

「夕ちゃんって、ほんとに好きな人、いないの?」

「いないよ」

 夕子はそうこたえたが、顔が赤くなった。以前李龍平を好きだったのをみぬかれてるかもしれない、と思った。そのことだけは、いまだに丁香にうちあけられずにいた。友情誓約をやぶってるのが、ばれたらたいへんだ。夕子はウソをくりかえした。

「いないよ、好きな人なんて。恋愛ってさ、すると頭がそれだけでいっぱいになるでしょ。ほかのことがなんにもできなくなるから、しないほうがいいんだよ」

 いってすぐ、まずい意見をいったかも、と思った。案の定、丁香は気を悪くしたようだった。唐突に、つっかかってきた。

「私はべつに、自分の恋愛が正しいとは思ってない――。でも、むだとも思ってない」

 夕子は狼狽した。

「丁香ちゃんの恋愛がよくないなんて私、ぜんぜん思ってないよ」

 本心だった。だが丁香はなおつっかかるようにいった。

「いや。みんな知ったら、非難するね」

「・・・・・・」

重苦しい沈黙がひろがった。耳に入るのは扇風機のうなりばかりだ。

 お酒が入ったせいだろうか、と思った。丁香ちゃんは悪酔いするタイプかもしれない。

 でなければ、疲れてるのかもしれない。だれだって他人が変身するのをみたりすれば、衝撃で神経がすりへるだろう。いままでは興奮で元気だったけど、ここにきて一気に緊張がとけて疲れがでたのかもしれない。

 でもここはナイトクラブだ。おたがいすこしでも気分よくすごしたい。夕子はそう思い、ポケットに手を入れた。ポケットには秘密兵器がある。古典好きの丁香ちゃんなら必ず目の色変えて喜ぶはずのものだ。今日南市の露店でみつけて買った。丁香ちゃんの反応しだいではあげようと思っている。あとでだそうと思っていたが、いまだすことにした。

「これ知ってる?」

 夕子はにこにこして、円卓の上で手をひろげ、トランプの束をみせた。『水滸伝』の登場人物の絵が一枚一枚描かれためずらしいトランプである。ところが丁香はちらっとみただけで、興味なさそうにいった。

「知らない」

 暗くてよくみえないから、ただのトランプと勘違いしたのかな、と思い、夕子はこういってみた。

「東古典蔵公司(※公司=会社)って『四大奇書トランプ』をだしてるんだね、知ってた?」

 「四大奇書」といえば丁香は当然興味を示すものと思った。だが丁香はいった。

「知ってるけど」

 あきらかに、どうでもよさそうな語調だった。その顔は能面のように動かない。

 『水滸伝』は英雄譚で、どちらかというと男性向けの物語だ。丁香ちゃんの趣味じゃないのかもしれない。だとしても私の気持ちを察して、もうすこし愛想よくしてくれてもいいのに。そう思うとすこし腹がたったが、ショックの方が大きかった。

 私、なにか悪いことをしたかな。夕子はあらためて自分の行動をふりかえった。そしていくつか丁香に迷惑をかけていたことに気づいた。待ち合わせ時間より早く来すぎたこと、茶壷を盗んだこと。そのためにナイトクラブには予定より一時間早く入ることになった。そのぶん龍平さんとの待ち合わせ時間もずれることになった――そう反省しかけたときだった。笑い声が耳に入った。女ふたりの笑い声で、ひとりはロレーヌ、ひとりは千冬の声に似ていた。夕子はぞっとしていった。

「ねえ、外の声、ロレーヌと千冬に似てない?」

「そうかな」

 丁香の能面のようだった顔がかすかに動いた。夕子はここぞとばかりにいった。

「私、丁香ちゃんがいないとだめだ。すぐおびえちゃって。この前丁香ちゃんがロレーヌにとりいってくれるといってくれてからは、だいぶ気持ちが楽になったけど」

 途中から無意識にへつらう語調になった。すると丁香は表情をやわらげていった。

「ロレーヌはあつかい方しだい。その気になれば、とりいるのは難しくない」

 夕子は丁香がふつうにしゃべってくれたのでほっとして、うれしくなって、夕子にしてはかなりの量である残りの酒の半分をいっきに飲みほした。

 全身の血管が音たてて脈打った。丁香の顔がすこしかすんでみえた。酔いとともに気おくれはうすれた。白蘭に変身してるときのような開放感が体内にみなぎった。

「私たち、来年の秋には十九歳だね」

 ゆるんだ声で、なにも考えずに夕子はいった。

「花の十代もあと二年かあ。二十代になったら、あとは年とるだけだね。そのあとは三十代? 考えられないね、年とったら女じゃないよ。女じゃなくなるって」

「・・・・・・」

 丁香はふたたび能面のような顔に戻っている。しかし酔った夕子はかまわず、からんだ。

「どう思う、ねえ? 私より一か月誕生日が早い丁香ちゃん」

「あんまりなんとも思わない」

 丁香はうるさそうな顔をしていった。それに気づかず夕子はいった。

「でも外見が衰えるんだよ? それを思うと未来は真暗。おばさんになるぐらいなら若いうちに死んだほうがマシだよ。あ、でも道具があるんだ、アレーのが。それで好きに若返れるか」

 突然、丁香が怒鳴るようにいった。

「何歳になったって、きれいで輝いてる人は輝いてる」

 にらむように夕子をみていた。夕子は酔いがいっぺんにさめたようになった。

「・・・・・・そうか」

 そういうのが、やっとだった。

 丁香は黙ってグラスをみつめている。気まずい空気をどうにかしたいと思い、

「丁香ちゃんならきっと・・・・・・」

 と、いいかけたが、あとの言葉はのどにからまった。「何歳になっても輝いてるね」とつづけたかった。丁香の顔をみて、いおういおうと口をひらきかける。

 すると丁香は突然顔を手鏡で隠すようにした。髪をいじりはじめた。

夕子は信じられなかった。いままでの丁香ちゃんなら私との話の途中でそんなことをするはずがなかった。やっぱりお酒が入ったせい? それなら今後は一緒にお酒を飲むのはひかえたい、と夕子が思ったときだった。丁香がいった。

「ねえ、今日の式典にでてよかったことは?」

 声はさっきとはちがった。いつもの丁香ちゃんの声だ。手鏡の横で、丁香の右目が自分をみつめ、返事を待っている。いつもの澄んだ、邪気のない目にみえた。とたんに夕子は元気をとり戻した。笑顔になっていった。

「うんとねえ、そうだな、ニュース映画の人に撮影してもらえたことかな」

 丁香は黙っている。夕子は自慢してると誤解されたら困ると思い、謙遜のつもりでいった。

「まあ白蘭だからこそ、できたことだよね。江田夕子だったら一生無理。パレードにでるなんて」

 そういってから白蘭になっていい思いばかりしてる、と思われたら困る、と思い、こうつけ足した。

「群集に手をふりつづけるのは疲れるよ。笑顔もつづかない。せっかくのフランスクラブも疲れて楽しむどころじゃなかったし。歌舞天幕の舞台はすっぽかしてよかったよ。どうせ端役でつまんない台詞をいうだけだったし。私疲れちゃうともうだめ、いらいらして、いまなんてもうピークを通りこしてる」

 そういって丁香の顔色をうかがうようにみた。すると、

「そりゃ私だって、自分の好きなことだけしたいよ」

 丁香は叫ぶようにいった。

「だけど私は、どんなつまんない仕事だってやらなきゃならなかったから、どんなつまんない役だってありがたく演じてきた。私は芝居を愛してるから。それにひとり暮らしだから、働かないと食べていけなかったし、私は疲れてもいらいらしても、辛抱強いから耐えていけたの」

 夕子はびっくりして目を丸くした。

 丁香だって人間だ。白蘭に嫉妬と劣等感を感じていてもふしぎではない。夕子は思い出した――丁香は合宿所に入るまでの一年間、劇団のオーディションを片っぱしから受けていたという話を直接本人からきいたことはなかったが、噂できいたことがあった。受かったのは、よくて数分の大工の妻の役、老婦人役などの端役で、あとは無名の役ばかりだったという。なのに私は端役を否定したり、パレードの不満をいったり、配慮のたりないことばかりいった。いくら丁香ちゃんでも頭にきただろう。いつもならがまんしたかもしれないが、お酒が入って本音がでたのだろう。

 夕子はけっして丁香を白蘭より下にみていなかった。できるなら、こういいたかった――「丁香ちゃん、あなたは私とちがって体力もあるし、どんなに忙しくてもきれいで凛としてて自分らしさを保ってるからすごい」と。でも、ほんとに思ってることだけに口にだしていうのは照れくさかった。といって、あやまることもできなかった。もし、「丁香ちゃんの気持ちも考えず、勝手なことばかりいってごめんね」といったりすれば、私が丁香ちゃんの隠したがっている過去を知っていると伝えることになり、傷つけることになる。そうでなくても、あやまられれば、憐れまれていると感じ、よけいにいやな気分になるのではないか。憐れむことは軽蔑することだとだれかがいった。へたなことをいってこれ以上丁香ちゃんの反発をまねきたくない。なにもいえずにいると、ふいに丁香が立ちあがっていった。

「ちょっと電話してくる」

 かたい横顔を薄闇にとけこませ、

「小龍がきたら、相手しといて」

 いいすて、でていった。

動悸がうった。丁香のいまの態度にショックをうけたのもあるが、龍平がくると思うと、こわくてたまらない。


 だれかがドアをノックした。動悸がはげしくなった。

「はい」

 夕子はうわずる声でこたえた。

ドアがひらいた。男の匂いがした。薄闇に人影がさした。電燈の光のなかにその人の顔がうかびあがったとき、夕子は心臓が破裂しそうになった。視線はとてもあわせられなかった。

「あれ、丁香は? いないの」

 龍平は開口一番、ひとりごとのようにいった。

 夕子は目をふせた。龍平を前にしてすぐには声をだせなかった。声をだせば、自分の罪業がすべて露見するような気がした。でもいつまでも無視しきれるものではなかった。夕子は思いきって声をだした。

「丁香ちゃんは、さっき、電話をしにいきました」

 今度は龍平が黙った。なんの返事も返さない。座る気配もない。顔は直視できないからわからないけれど、視線を感じる。彼は黙って私をみている・・・・・・私をみてどう思っているのか? 不安がふくらみ、たえきれず、目をあげた。

 彼は自分をみていなかった。楽屋にいたときと同じ長衫姿の彼は、いつも夕子と会うなり笑った龍平は、己れの手を無表情に眺めているだけだった。

ふいに夕子は前と同じように話したい衝動にかられた。とても強い衝動で、おさえることができなかった。

「こんばんは」

 気づいたら、そういっていた。いまさらあいさつするなんて、ばかみたい。でもいったものは、とり消せない。

「・・・・・・」

 返事はなかった。龍平の横顔にはなんの変化もあらわれてはいない。彼は私を無視している。彼は私の変身と私の罪を知っている・・・・・・? 

そうではない、と思いたかった。龍平に返事をしてもらいたくて、夕子はもういちど同じ言葉をくりかえした。

「こんばんは」

 龍平はそっぽをむいたままだった。けれども、

「こんばんは」

 たしかにそう返したのがきこえた。きこえるかきこえないかの小さな、抑揚のない、投げやりな声だったけれど、返事がないよりはマシだと夕子がみずからを慰めたときだった。

「指痛え!」

 突然龍平は叫んだ。

「マメ、できてんな」

 声は大げさだが、顔をみるとそれほど痛そうではない。夕子に話しかけられるのを避ける目的で大声をだしたようにも思える。とはいえ指先は無傷ではなかった。たしかに一部が腫れて皮がむけている。夕子は心配になって思わずきいた。

「そんなに痛いですか」

「・・・・・・」

 龍平はこたえなかった。表情はかたい。彼は私に返事をする気はない。そう思った夕子は、気まずさをごまかすために、ひとりごとのようにいった。

「丁香ちゃんが、もうすぐ戻ってきますから」

「ああ、いってえ」

「だいじょうぶですか」

 突然龍平は夕子に顔をむけた。双眸を夕子の目にすえた。そして妙にやわらかい声でいった。

「俺の手、なんでこんなになってるか知ってる?」

 目の前に、皮のむけた指をつきだした。

夕子は息をのんだ。指がそうなった原因は想像がついた。おそらく茶壷を盗まれたためにアレーの芝居が中止になって、李龍平は魔術の手伝いでもやらされて手を酷使したのだろう。でもそうこたえたら私は白蘭と同一人物だとみずから明かすことになる。それはできないと思い、夕子はいった。

「・・・・・・わかんないです」

「ほんとうに? 全然わかんない?」

 龍平は夕子の目をのぞきこんだ。夕子は折れそうになった。でも「わかる」といえば、身の破滅だと思った。

「ほんとに、わかりません」

 夕子は知らないふりをきめこんだ。

「・・・・・・そう」

 いったきり、龍平はなにやら黙考していたが突然とうとうとしゃべりだした。

「今日俺、魔術師アレーの手伝いしたのよ。この俺がだよ、すごいだろ。巧さんの式典の舞台で、大勢の観衆の前でアレーの助手をつとめたんだから。で、なにやったと思う? アレーのことだから、いつもの預言か占いやったと思うでしょ? ところが! 途中で意外な邪魔が入ったんだよね――ルドルフだよ。やつ、奇術師キャプテン・ルーディなんて名乗ってさ、魔術師アレーと対決したいなんていいだしたから、お客さんにものせられてやることになったんだけど、これが一勝一敗。脱出奇術でアレーは負けてね。ルドルフの用意した箱から十秒以内ででるどころか、でられなくなっちゃって、幕がおりてもそのまま。俺、焦ったね。鍵であけてくれると思ったルドルフは本番終わるなり姿をくらましてんだよ。いくら呼んでも探してもあらわれない。しかたなく俺がアレー救出にかかったわけよ。箱をがんじがらめにしてる鎖を切断しようと思って、そこらにあるペンチやらナイフやらもちだしてやったけど、やたらと手間と時間がかかっただけで、このざま」

 それをきいても夕子はさして驚かなかった。そんなこともありえることのように思われた。だが表面は驚いたような顔をしていった。

「それで結局、アレーさんはでられたんですか」

「それが、まだ」

「まだ・・・・・・?」

 夕子は思わず吹きだしそうになった。あの魔術師のボロがついにでた、と思ったのである。ルドルフのせいで狭い箱に一時間以上もとじこめられている、と思っても心はすこしも痛まなかった。半日前ならともかく、いまの夕子はアレーに愛想をつかしている。アレーは夕子にとって、尊敬すべき魔術師から単なるペテン師、単なる卑しい親父に変わった。いま龍平の話をきいて、あの親父の情けなさがはっきりわかったと思った。ほんと裏切ってよかった、茶壷を盗んで正解だった、と思った。罪悪感もへった。

「アレーさんを放ってきて、だいじょぶなんですか?」

 と龍平にきいたのは、アレーを心配したからではなく、アレーをばかにしたかったからだ。

「・・・・・・」

 龍平はこたえない。龍平がアレーを救出しないうちにここにきたのには、理由があった。丁香の約束を守るため、というのは理由のひとつである。それよりももっと大きな理由があった。

夕子に茶壷のありかをきくためだった。

龍平は箱のなかのアレーにいわれてきた――「江田夕子に茶壷の所在をきけ」、と。

 はじめ耳を疑った。龍平は茶壷を盗んだのはルドルフだとばかり思っていた。舞台に乱入してきたからである。奇術師を名のって乱入したのも、アレーを箱にとじこめたのも、ルドルフが日本特務だと思えば納得がいった。

龍平はこう考えた。――日本特務はアレーが二茶壷を所持しているという情報をつかんだのだろう。それでアレーからすきをみて盗みだせとルドルフに命令をだしたのだろう。だからルドルフは舞台前、楽屋に人がいないすきにしのびこんで二茶壷を盗んだ。そのあと盗まれたことに気づいたアレーが騒がないよう早めに動きを封じることにした。つまりアレーの舞台に乱入し、魔術師と奇術師の術比べと称して、頑丈な箱にとじこめたのではないか。――そんなことを龍平はアレーを箱からだそうと楽屋でひとり四苦八苦しながら、かつはアレーを箱ごしに励ましながら頭の片隅で思考していたのだった。

 箱の鎖は一部を切断できただけで、全然はずれそうもなかった。龍平は焦った。丁香との待ち合わせ時間がせまっていた。思わず口にだして「もうすぐ巴黎夢倶楽部で丁香と江田夕子に会わなきゃいけないのに」とつぶやいた。するとアレーが「自分など放っていけ」といった。それはできない、と龍平がいうとアレーは思いがけないことをいった――「江田夕子に茶壷のありかをきくんだ」。

 「なぜ江田夕子に?」と龍平はいった。龍平はそれまで江田夕子と白蘭が同一人物だとは知らなかった。だがそのときアレーにうちあけられたのだった――「この四か月、わけあって江田夕子を美女に変身させ、自分たちの作戦に役立たせてきた」と。

 江田夕子が白蘭・・・・・・!

 龍平は脳天をなぐられたような気がした。

衝撃のあとに、裏切られた、という思いがわいた。アレーにではない、江田夕子にである。

 これまでも、夕子に裏切られたかもしれない、という疑いをもったことはあった。夕子にあげたはずのレコードを租界警察につきつけられたときである。しかしそのときは罪は江田夕子ではなく白蘭にあると考え直し、疑った自分を恥じた。

 なのに・・・・・・。龍平は天地がひっ裂けたように感じた。

 これまでの白蘭のあさはかな、醜い行動の数々はすべて自分がほれた江田夕子のものだったのか・・・・・・!

 その上、茶壷を盗んだのも彼女かもしれないとは・・・・・・そうであってほしくはない、どうかちがってくれ、という思いと、心の底の疑念とで気持ちは乱れに乱れ、龍平はなにも手につかなくなった。アレーの声に背中をおされて楽屋をとびだした。とにかく夕子が盗んでいないとたしかめたい一心で、ここへとんできた。

 三か月ぶりに会った江田夕子は、ランプの光でみる限り、少なくとも外見は変わってはいなかった。これがさっき楽屋にいた白蘭と同一人物とはやはりなかなか信じられない。けれど龍平はついに沈黙をやぶり、意を決して探りをいれる質問をした。

「おたく、今日、白蘭と連絡とれるかな?」

「え、白蘭・・・・・・」

 夕子の顔にはあきらかに動揺がみられた。

「とれないと思いますけど・・・・・・たぶん――絶対、とれませんよ」

「おかしいなあ、なんで知ってんのかなあ? 連絡できないって」

 口調は軽いが、目は鋭かった。

「それは・・・・・・あの人は今日巧月生の式典のことで、たぶん忙しいと思ったんで」

「ほんとは白蘭が会場から消えたって、知ってんじゃないの?」

「え、し、知りません、白蘭・・・・・・行方不明になったんですか」

「俺、行方不明とまではいってないけどなあ」

 龍平はからかうようにいった。顔を寄せ、夕子の目の奥をのぞきこむようにみて、いった。

「知ってるんじゃないの? 白蘭がいま、どこにいるか」

 夕子の左右の目を交互にみて反応をうかがった。

 夕子はぶざなまでに顔に狼狽をあらわした。あきらかに知っている目だった。いっぱいにみひらかれたその目には苦悶の色があった。彼女は秘密を打ち明けるべきかどうか迷っている――。そう思った龍平は夕子をみる目を思わずやわらげた。

 この三か月、たいへんな毎日だったが、夕子を忘れた日はなかった。

七月七日も夕子がくるのを待っていた。だが夕子はこなかった。龍平は夕子をあきらめようとした。でも、できなかった。

今日はまたアレーの口から江田夕子が白蘭と同一人物と知らされ、ショックを受けると同時に怒りを感じ、これで完全にふっきれたと思った。

 なのに、彼女をきらいになれない。それどころか、ランプの光でもわかるほど赤くなった夕子の顔をみるにつけ、そのいじらしさ、愛らしさを感じ、慕わしさ恋しさがよみがえってくる――。この娘が白蘭と同一人物だなんて信じたくない。

「白蘭とおたく、連絡できないんだね?」

 龍平は助け船をだすようにきいた。なのに夕子はうなずかない。目をそらした。龍平は顔を離し、つぶやいた。

「まったくトップ3は世話がやけるよ、人騒がせな人間ばっかりで」

 夕子はどきっとしたようにいった。

「トップ3って・・・・・・白蘭のことですか」

「白蘭もだけど、歴代。麗生もそうだったし、千冬ちゃんも。丁香はだいぶまともだけどな」

 夕子はその話題に耐えられず、関係ないことを口にした。

「李さんていま、どこに住んでるんですか?」

「教えない、おたくには」

「なんで、ですか」

「ほんとにききたい?」

 そういわれて動揺した。夕子は質問にこたえず、話題を変えようとしていった。

「新新街、いい場所だったのに残念でしたね」

 いってすぐまた失言だと気づき、ごまかそうとつけくわえた。

「手紙、今月になって届いたんです」

「今月に?」

 龍平は驚いた顔できいた。彼はやっぱり手紙が遅れたことを知らなかったらしい! 夕子は思わず勢いこんでいった。

「八月七日に届いたんですよ。だから私、なにも知らなくて」

「『なにも』って、なにを?」

 龍平もまた勢いこんできいた。

「・・・・・・」

 夕子は顔を赤くした。「あなたが『七月七日あえたらあおう』と書いたこと」とこたえたかったが、恥ずかしくていえない。龍平はそれと察してか、目を輝かせてくりかえした。

「なにを、知らなかったって?」

「そ、それは」

 そのときだった。ドアがひらいた。

「お待たせ。電話、長びいちゃった」

 丁香が鈴のような声とともに入ってきた。

「あら小龍、きてたの」 

 龍平は夕子からパッと離れた。

「もう自己紹介した?」

 真っ赤な顔をむける夕子に、丁香はにこりと微笑して、

「ボール・ルーム(ダンス・ホール)いかない? ショー・タイム、はじまってるよ」

 そういってこれみよがしに龍平に腕をからませ、変にやさしい声でいった。

「飲みもの、むこうで注文してあげる」


 ドラムの音は軽やかに、トランペットの音色は景気よくボール・ルームの天井に反響している。

 フロアで照明を浴びた白人ダンサーはドレスの襞をまくりあげ、ひるがえらせ、脚線美をみせつけ、はげしいステップをふんでいる真最中。にぎやかなショーを、各テーブルの客は酒を片手に上品に鑑賞、だれも気どっているかと思いきや、こちらのテーブルでは

「ふん、けっこうやるな」

 軽装の若い娘ふたり、テーブルにのった手の動きもなにやらせわしない。

「さすがだ。女学校で踊りをやめた私とは全然レベルがちがう」

「アマとプロを比較するのは大まちがい」

「そりゃロレーヌはプロだろうけど」

「ボール・ルーム・ダンサーを軽くみるなってことよ。上海の一流どころでステージをはれるダンサーはみんな一流の舞踏家、つまり芸術家だ。なのに野暮な日本人は芸者とかんちがい、金があればダンサーをモノにできると思ってる」

「それはないよ。いたとしても内地から観光にくる成金の日本人」

「いや、こっちに三年住んでるのにもいた。ダンサーを娼婦とみなさないまでも、ホステスだと思ってるのが。いい笑いぐさ」

「でもここにくる日本人はちがうよ。ハイクラスだから」

「君も自分がハイクラスだってアピールしてるのか」

「ちがうって、私はまだ二回目だし」

「だけど驚いたよ、君が巴黎夢倶楽部の会員だったとはな」

 そういうロレーヌに、小山内千冬はいった。

「私も忘れてたぐらい。おじさんのいきつけで一度ここに連れてこられたとき、ついでだからといって会員にしてもらっただけだから。それでルドルフもここの常連ってこと忘れてたの」

「もっと早く思い出すべきだったね。そしたらあんな暑いなか、いやな思いをしなくてすんだんだ」

「それをいうなら途中の『カフカス』の休憩はどうなるのよ」

「休憩じゃないだろ、オーナーに奇術師ルーディの出演情報をききにいったんだろ」

「それにしても一人でのんびり涼んでたよね」

「電話を借りる手前、なにも飲まないわけにはいかなかったからな。それに電話は一台しかなかった。君が電話かけ終わるのを待ってたんだよ。フランス租界に劇場なんて数えるほどしかないのに、やけに時間かかってたじゃないか」

「人にやらせといてそのいい方・・・・・・一個一個の劇場に問い合わせるの、けっこうたいへんだったんだから」

 千冬が怒りだしたので、ロレーヌはさすがに言葉をやわらげていった。

「まあ、巴黎夢倶楽部にでるらしいってことがわかっただけでも、よかった」

「でしょ? このプログラムにある『特別ゲスト』のどれかひとりは、きっと奇術師ルーディなんだから」

「ただしいまのところルドルフが出る気配は、まったくない」

 ロレーヌと千冬は、ルドルフがつい二時間ほど前、べつの舞台で奇術師キャプテン・ルーディとしての出演を果たしたとは夢にも知らなかった。

「でるよ、ルドルフは絶対。ここしか考えられない」

 なにも知らない千冬は自信たっぷりにいう。

「まだ時間早いから。特別ゲストはダンスのあとでしょ。それにいまはまだ第一部。今夜だけでもあと三部あるからね。これからこれから」

「二部は何時からだ?」

「十時半。三部は午前一時から。四部は午前二時半から」

「おいおい私を寝かせない気か。今日じゅうにでるという話だったよな。三部からはもう日づけが変わる」

「でもナイトクラブでは夜が明けるまで一日は終わらない。ダンサーのロレーヌなら慣れてるでしょ?」

「おい、夜明けまで待ってルドルフが出演しなかったら、わかってんだろうな。花園で君にどんな待遇が待ってるか」

「わかってるよ、それくらい」

 離れた席から丁香と夕子がみてるとも知らず、ロレーヌと千冬はいいあいをつづけている。

「あのふたり、なに話してるんだか」

 丁香がつぶやいた。龍平がうなずいていった。

「ロレーヌと千冬がまさかここにきてるとはな」

「千冬、幽霊会員なのに、今夜に限ってね」

 するとそれまで黙ってふたりの話をきいていた夕子がはじめて口をはさんだ。

「迷惑だよね」

 いかにもいやそうにいい、つづけて得意の悪口を口にした。

「あのふたり、おとなしく鑑賞もできないなんて下品、この場にあわない。どっかほかのところにいけばいいのに」

 ところが丁香は夕子に同調しなかった。急に微笑をはりつけていった。

「せっかくのショータイム、そこは楽しまないと損」

 夕子はすこしむっとした。自分の不快感がわからないはずはないのに、と思い、

「でも私、あの人たちがいたら楽しめない。いつこっちに、私に気づくかと思ったら、もうなんか・・・・・・個室に戻りたくなってきた」

 すると丁香はいった。

「じゃ、私があいさつしてくる」

「え」

「ご機嫌とってくる。先手をうっとくよ。あとで夕ちゃんに気づいても丸くおさまるように。それに関心を私にひきつけとけば、そのあいだだけでも夕ちゃんの気分が楽になるでしょ、ね?」

 なんだ、やっぱりいつもの丁香ちゃんだ。個室でようすがおかしかったのは、あのサマー・ディライトのせいだったのだろう。夕子は機嫌を直していった。

「いつもごめんね」

「平気。楽しんでよ、夕ちゃん、龍平とふたりにして悪いけど」

 微笑をのこして丁香はロレーヌたちのテーブルにいった。まもなく、声がきこえた。うまくやってる。三人で笑いだした。ロレーヌと千冬は丁香のために飲物をとった。五分、十分、二十分たっても、丁香はむこうでのおしゃべりをつづけていた。そのうちに一部のショーが終わった。夕子はまわりの声にまぎれるようにして龍平に話しかけた。

「さっきの話ですけど――」

 心にひっかかっていることを思いきって口にした。

「私、八月七日まで、なにも知らなかったんです」

 龍平はもう「なにを」とはきかなかった。かわりにこういった。

「もし知ってたら・・・・・・あの日、どうしてた?」

 「あの日」がいつをさすかは、あきらかだった。七月七日だ。もし葉書がちゃんと届いていたら、その日、私が映画の試写会にいったかを彼はきいている。そうわかったのに、夕子はあえてきいた。

「あの日って?」

「あの日俺は」

 龍平はなにか、いいかけた。そのときだった。

「よかった! 龍平(ロンピン)、ロンピーン!」

 だれかがよんだ。

「ラッキー、ほんと幸運だ、君もここにいたとは」

 ルドルフ・ルイスの声だった。ふりかえると喜色満面といったていで立っている。ロレーヌと千冬が気づいて歓声をあげたが、ルドルフはそれには気づかずに龍平だけをみて同じ言葉をくりかえした。

「ああよかった、龍平に会えて」

 ふりかえった龍平は驚きをおし隠して皮肉をいった。

「神出鬼没が十八番らしいな、奇術師キャプテン・ルーディくん」

 嘲るようにルドルフの口真似をしていった。

「まさか君がここにいるとはな。アレーを箱に閉じこめて消えた君が」

 するとルドルフは戸惑った顔になって、いいわけのようにいった。

「私も舞台のあと君を探したんだ。でも龍平、君は消えてたじゃないか」

「舞台のあと?」龍平は冷たくいった。「それはいつのことだ」

「十五分ぐらいあと・・・・・・私は幕がおりてすぐ、おえらいさんに呼ばれたんだ。特別室にひっぱられてね。でもすぐぬけだした。酒と料理で接待してくれるってところを、口実つくって。龍平と話したい一心で」

「箱はどうした? まさかアレーをとじこめたままじゃないだろうな」

「それが・・・・・・ぜんぶは話せないのがくやしいけど、アレーをつきおとしてやれたことはたしかだよ、君の望みどおり」

 ルドルフは例によってまわりくどいいい方をした。

「どういうことか、はっきりいってくれ」

「君の望みをかなえたんだ」

 ルドルフは叫んだ。

「なんのことだか、さっぱりだ。いったい、なにをいってる?」

「わかった、話すよ。ぜんぶは無理だけど、ある程度いうよ」

 ルドルフは、アレーをつきおとすことは龍平の望みだと思いこんでいる。それを自分が龍平に変わってかなえてやったとかんちがいしている。実際は日本特務の命令にしたがったにすぎないし、そういう命令があったことは職務上守秘せねばならないので「ぜんぶは話せないのがくやしいけど」と前置きしたが、アレーに舞台で恥をかかせ、おまけに箱から出せないようにしてやったからには、龍平は当然よろこび、自分に感謝し、チャリティ・イベント以来のわだかまりもなくなるだろうと思っていった。

「アレーの入った箱はね、あのあとあけたよ。龍平がいなくなったあと、番人の立ち会いのもと、私が」

「それで、アレーは無事だったか?」

「それが」ルドルフはニヤッと笑っていった。

「いなかった。箱から消えてたよ」

「ふざけるな」

「ほんとだよ。アレーはいなくなってた。私だけじゃない、みんながみてる。番人も、あとからかけつけた租界警察も」

「箱がカラだったっていうのか」

「いや、私はカラとはいってない。箱には、別人が入ってたんだ、アレーのかわりに」

 龍平は色を失った。別人とはだれか、きかなくても想像がつく。それでも、きいた。

「別人って?」

 動悸がうった。

「それがなんと日本人」ルドルフは楽しそうにいった。

「知ってるだろ、ギイチ・ヨシナガって、二重スパイで知られてる男」

「・・・・・・」

「たしかあの男、リラダン事件以降行方不明になってたはずだろう? 事件の関係者といわれ、容疑者とも目された。それがアレーのかわりに箱に入ってたんだよ、アレーの服を着てね。さすがの私も驚いたよ」

「・・・・・・」

「警察も首をひねってた。魔術師アレーはいったいどんなトリックを使ったのかって。ギイチ・ヨシナガとアレーはなんの結びつきもないはずだろう?」

 龍平にはわかっている。魔術師アレーと吉永義一は同一人物である。吉永義一は狐仙茶壷の力でアレーに変身していたが、箱にいるあいだにちょうど効力の消える十二時間目となり、吉永義一に戻ってしまったのにちがいなかった。

「アレーに逃げられたのは残念だった」ルドルフはいった。「でもまあ、アレーがもう終わりなのには変わりないから。巧月生がああなったかぎり」

「巧月生にも、なにか、あったのか」

 龍平は目の色を変えた。それに気づかず、ルドルフは愉快でたまらないといったようすでいった。

「それが、おっかしかったなあ巧月生。ヨシナガを警察が連行しようとしたら、かばったんだよ。ヨシナガなんてなんの縁故もない日本人のはずなのに血相を変えてさ。おっかしかった」

「吉永義一は・・・・・・連行されたのか?」

 龍平は立ちあがり、ルドルフの胸ぐらをつかまんばかりにきいた。ルドルフは愛する男に迫られて本望とでもいうように恍惚とした表情をうかべ、熱っぽい声でいった。

「うん、連行されたよ。箱からでたのが運のつき。イギリス人記者が叫んでたよ、『ギイチ・ヨシナガ現る、逮捕』って。なにせ一時はリラダン事件の容疑者と目された男だからね」

 龍平は耳を疑った。吉永義一が逮捕された? なぜ逮捕――?

 ルドルフは龍平の気持ちなどおかまいなしにつづける。

「各国記者がたかって、すごかったよ。フランス・クラブにはってた記者も全員廟堂前に移動してきたって。それでカメラのフラッシュがすごくて目が痛くなった、いまもチカチカする。でもやっぱりなんといっても、いちばんの見ものは巧月生の狂いぶりだったな。あれはひどかったよ」

 はしゃいだ口調でいった。

「豹変したんだから。客に『帰れ』って叫びだしたんだ。もうマフィアの本性むきだしだったね、銃をむけたんだよ、巧月生を祝うためにわざわざきてくれた人たちにむかって『帰らないと撃つ』っていって威嚇射撃までした。まさか『義侠の人』があんなことするなんてねえ。自分の式典を自分で台なしにするなんて、それもヨシナガの逮捕をきっかけに。狂ったとしか思えないね。今夜で巧月生は頂点から一気におちたよ」

 龍平は蒼白になった。他人は知らないが、巧月生の実体は母・李花齢である。李花齢――母が吉永義一の突然の逮捕に恐慌をきたしたとしてもおかしくない。黙ってみていられなかったのは当然ともいえる。それにしても威嚇射撃というのは常軌を逸している。

「巧月生もアレーももうおしまい。いい気味だよ。明日の一面が見ものだね」

「そうだな・・・・・・」

 龍平はうわのそらで返事をした。声も顔もうつろだった。そのとき、

「ハイ! ミスター・ルドルフ」

 涼風のような声がふたりの耳にとびこんだ。丁香だった。いつのまに近くにきていて、話しかけてきた。

「お話の邪魔して申しわけありません。ルドルフさん、ちょっと、むこうのテーブルまできていただけるとうれしいのですが、よろしいですか」

 言葉は丁寧だが、目ではルドルフを従わせようとしていた。プライドの高い元スターが許すとは思えなかったが、ルドルフは意外にも、

「わかりました」

 と、むしろ当然のようにうなずいた。丁香とは初対面ではないようだ。

「すぐ戻ってくるからね」

 龍平にそういい残し、ルドルフは丁香にひっぱられるようにして奥のテーブルに移動していった。龍平は自分のテーブルに戻ると、夕子にいった。

「ルドルフを追いかけなくていいの? 話したいでしょ。むこう、行ってきたら?」

 三つ前のテーブルで、ルドルフはすでに丁香、ロレーヌ、千冬、と美女三人にかこまれていた。

丁香はロレーヌのためにルドルフを呼んだのだった。だがロレーヌはいざ対面すると緊張してろくにしゃべれずにいる。千冬はもともとしゃべる気はなかったらしく、極端にかたくなっている。だから丁香がひとりでルドルフとしゃべって必死にもりあげていた。

「行きません」

 と、夕子は龍平にいった。

「ほんとにいいの?」

「はい」

 それどころではなかった。夕子はさっきのルドルフと龍平の会話をきいていた。アレーが箱から消えた、ということに衝撃をうけた。夕子はアレーと吉永義一が同一人物とは知らない。だからルドルフが龍平に話したのをきいて、アレーがほんとうに箱から消えたと考えた。脱出奇術もできないと馬鹿にしたアレーが他人といれかわって逃げたときいて夕子は驚倒した。やはり魔術師だけにそういう力があったのかと思い、おそろしくなった。裏切って二茶壷を盗んだからには、ただではすまないにちがいない。どんな魔術を使って自分に復讐してくるかわからない。そんな自分の気もしらずに龍平はいってくる。

「ルドルフと話したいなら、いまがチャンスだよ。行ってきなよ」

 龍平のほうが自分なんかより、はるかにルドルフの話に衝撃をうけているとは知らない夕子だった。龍平がひとりになりたがっているとは気づくべくもなかった。しつこいと思い、いらいらした。

「ルドルフをほかの娘にとられちゃっても知らないよ」

「・・・・・・」

 龍平さんは私をほかの男のところへいかせようとしている。数か月前には私を好きだったかもしれない人が、平気な顔をして――。

 ふと夕子はたまらないさびしさにおそわれた。白蘭の保護者だったアレーが敵になる、という恐怖のせいかもしれなかった。自分の身をたまらなくたよりなく感じ、龍平にやさしい言葉をかけてほしくなった。気づいたら感情をぶつけるようにいっていた。

「さっき、あのあと、なにをいおうとしたんですか? 『あの日俺は』のあと?」

 私を待っていた、といって! 私が好きで私と映画に行きたくて待っていた、といって! 夕子は失ったものを呼びもどそうとするように目に力をこめた。

 だが龍平はいった。

「忘れた」

 声にはなんの感情もあらわれていなかった。煙草に火をつけ、煙をもうもうと吐いた。

夕子は茫然とした。彼にこんな態度をとられたことはいままで一度だってなかった。龍平が夕子の前で喫煙したのは初めてだった。それがいまは遠慮なく煙を吐きちらしている。ああ、この人の心はもう私にはないんだ。そう思ったら、恨みがましい言葉が口からとびだした。

「せめてあと一回、鉛筆競争したかったです・・・・・・。もうできないですけど。私の鉛筆、この三か月で書けないぐらい短くなったので」

 すると龍平がいった。

「俺のは、あのまま。日記も、七月七日で止まってる」

 それがなにを意味するのか。七月八日以降逮捕されて書けなくなったことを、いっているにちがいなかった。ああ、七月七日――それは試写会のあった日というだけでなく、龍平さんが逮捕された前日でもあった。その逮捕をすすめたのは自分だ。夕子は自分の罪の重さをあらためて感じた。私は龍平さんから日記さえ奪った・・・・・・。煙草でも吸わなきゃやってられない。ヤケになって夕子は龍平にいった。

「一本、もらってもいいですか?」

 龍平の煙草の箱を指さした。龍平は箱をサッと遠ざけていった。

「煙草吸う女の子はいやだな」

 夕子は傷ついた。でも、このままでは気持ちがおさまらない。龍平にすこしでもふりむいてほしくて、彼のティースプーンを横から勝手にとって自分のところにおいた。そしていった。

「このスプーン、使ってもいいですか?」

 私のほうをみて、笑って許可して――夕子は祈った。だが龍平は灰皿をみたままいった。

「そのスプーン、壊れてる」

「どこがですか」

「・・・・・・」

 見た目にはなんの変哲もないスプーンである。ひっこみがつかなくなった夕子は勝手にスプーンを使いだした。つまり紅茶をかきまわした。スプーンは案の定どこも壊れていなかった。なぜ壊れてるなんてウソを彼はついたのか?

 吉永義一逮捕の知らせに、龍平は自分でも意外なほどの打撃をうけていた。俺は心の底ではあのおっさんを父親と認めてたんだな、と思い、胸のなかで苦笑した。

 俺は吉永義一を助けたい。できるなら、いますぐにでも現場にかけつけたい。だが自分がかけつけたりすれば、警察に吉永義一の素性に関してよけいな手がかりを与えることになりかねない。自分はもう上海時報の記者ではない。足手まといになるぐらいなら、こっちにいたほうがいい。――いや、いなければならない。俺にはアレー――吉永からたのまれた仕事がある。江田夕子に茶壷のありかをききだすことだ。茶壷を持ち出したのが彼女なら、父親にかわってすぐにもとり返さなければならない。どうきりだすか。白蘭の正体を知っているといってゆさぶりをかけるところからはじめようか。そのとき夕子がいった。

「あの、私になにか、怒ってますか?」

「ああ、怒ってるよ」

 龍平はいった。

「どうして・・・・・・」

「俺、知ってるんだよ」

 龍平はここぞとばかりにいった。

「白蘭の本名」

 夕子の顔に衝撃と狼狽の波がわたった。龍平はたたみかけるようにいった。

「本名は江田夕子、だろ?」

 地の底にたたきつけられたような衝撃が夕子をおそった。龍平さんはやっぱり知っていた・・・・・・。頭が真っ白になって抵抗力を失った。茶壷のことをきかれると、盗んだ、とすぐに吐いた。

「おとなしく返すんだな」

「返します」夕子はそういったが、なお躊躇をみせた。

「でも、いますぐには・・・・・・」

「いや、いますぐ返してくれ」

 厳しいいい方をしつつも、龍平は自分が内心ではそれほど怒っていないのに気づいた。江田夕子のしたことは憎んでも、江田夕子そのものは憎めない自分がいた。

「アレーに返すから」

 語気をすこしやわらげていった。すると夕子がいった。

「アレーはいま行方不明なんですよね」

「みつかったら、すぐ返せるように俺がもってたい」

「なんで・・・・・・」

「いいから場所を、現物はいまどこに」

「それが・・・・・・ここにはないんです」

「どこにある?」

「競馬場の近くのホテルに」

「なんだって」

「チャイナ・ユナイテッドの部屋にあるんです」

「じゃ、いますぐそこにつれてってくれ」

「え。実はそこ、私の部屋じゃないんです・・・・・・丁香ちゃんの友だちの部屋で」

「なら俺が丁香に許可をとる」

 龍平は言下に席をたって丁香のもとにいった。

丁香は微笑をひろげて龍平を迎え、用件をきく前にルドルフの横の奥の席に座らせて、ロレーヌたちに自分のボーイフレンドだと紹介した。

 それから龍平はやっと、夕子さんがホテルにとりにいきたいものがあるといっているが、夜道は危ないので自分がついていこうと思う、といった。すると丁香はいった。

「ちょうどよかった。私もとりにいきたいものがあったの。夕ちゃんとは私がいく。部屋の鍵は私がもってるし。小龍はここにいて。三十分もあれば戻ってくるから。夜道の心配はいらない。たよれる運転手さんにつれてってもらうから」

 龍平が反論するまもなく、丁香は夕子をつれてでていった。


 横なぐりの風がチャイナ・ユナイテッドをなぶっていた。風には雨がまじっていた。嵐を孕んだような空模様。

稲妻がいくつも時計塔のうしろで明滅し、風は強弱の変化をつけて雨滴を窓にたたきつけていた。

「ない・・・・・・」

 夕子は血走った目を七六六号室じゅうにめぐらせた。

「ない・・・・・・茶壷がない。どうして? ほかのものは全部そのままなのに」

「知らない」

 丁香はいった。部屋をみる目に動揺はなかった。

「ホテルの人がまちがえて持ってったのかな」

 叫ぶ夕子に丁香はおちついた声でいった。

「そうかも。私たちがいったあと、勝手に入ったのかも」

 夕子はフロントに確認した。ホテルの従業員はふたりがさっき部屋を出たあと、だれも入っていないとのことだった。夕子は泣きそうになっていった。

「あれがないと! 私、白蘭に一生変身できないよ」

「責任はとる。二三日中にみつけてみせる」

 丁香は声に力をこめていった。

「だから夕ちゃんも誓いは守ってね」

「え」

 夕子はきょとんとしていった。丁香は微笑していった。

「忘れたの?」

 稲妻がひらめいた。

「友情誓約」

 ピカッと丁香の顔が光った。なぜか夕子は寒気がした。

「覚えてるならいいの」

丁香はそういってニコリと笑った。

「・・・・・・」

 夕子はなぜか声をだせなかった。のどをおさえつけられたような圧迫感を感じた。その感覚は母親の前にいるときに似ていた。目にみえない力に圧迫され、全身の自由がきかなくなる。

ふいにある疑惑が夕子の頭をかすめた。ひょっとして茶壷を盗んだのは丁香ちゃんではないか。丁香ちゃんが私の知らないあいだに部屋から盗みだしたのではないか・・・・・・?

 もとより夕子はその考えをすぐにふりはらった。けれどもこのときから夕子の心には、丁香にたいする漠とした恐れが、かすかながらも、すみつきはじめたのである。


 こちらは巴黎夢倶楽部のボール・ルーム。

 例のテーブルではルドルフとロレーヌだけが上機嫌だった。といってもふたりが言葉を交わした形跡はない。ルドルフは龍平と話し、ロレーヌは横できいている。ルドルフは龍平のそばにいれば上機嫌だし、ロレーヌはルドルフのそばにいれば上機嫌だった。

 だが龍平は迷惑そうだった。話しかけられても無表情で、あいづちもたまにうつばかりだ。これは夕子の帰りを待ってじりじりしているためで、むりもない。

 無表情といえば千冬もだった。ルドルフがきたあと、ロレーヌに「もう帰っていい」と冷たくされてから、ずっとそうだった。ルドルフに会わせてくれたら友だちとして認めてもいい、といわれたからがんばったのに、願いがかなったら、約束など忘れた顔で口もきいてくれない。人にこびてもムダだ、たよってもしかたないということが、よくわかった気がする。いま残ってるのはただくやしいからだ。このくやしさはロレーヌよりもむしろ丁香にぶつけたかった。

千冬は思う――丁香は私の手柄を横どりした。ルドルフがきた瞬間、私が呼ぼうと思ったのに、丁香がでしゃばって私に先がけてつれてきやがった。ロレーヌが自分をみむきもしなくなったのは丁香が原因でもある。あの女はもともと嫌いだったけど輪をかけて嫌いになった。

 そのとき、丁香が夕子とともに戻ってきた。なぜか夕子は青い顔をしてもとの席についたが、丁香は薔薇色の頬をして、ひとりで自分たちのところにやってきた。テーブルにつくなり丁香は上機嫌でルドルフの話にわりこんできた。

「へえ、吉永義一、逮捕されたんだ。一時リラダン事件の容疑者候補のひとりっていわれてたよね」

 それから千冬をみていった。

「千冬、よかったね。容疑が晴れて」

「容疑って?」

 千冬はけわしい顔をむけた。すると丁香は笑顔でいった。

「五月のファッション・ショー以来、たいへんだったでしょう? リラダン事件の実行犯あつかいされて」

「・・・・・・」

「小山内将軍の姪だし、いろいろ疑われてねえ? でも、吉永がつかまってくれてよかったね」

 千冬がやり返そうとすると、ルドルフがいった。

「まったく日本人は油断がならない」

「そうかもねえ」

 丁香はルドルフと目をみあわせ、うなずきあった。日本人はそのテーブルでは千冬だけだった。

 千冬は丁香をにらもうとした。すると龍平と目があった。千冬と同じように尖った目をしていた。ルドルフに嫉妬しているのかと思ったが、そうでもないようだった。龍平の丁香をみる目には冷たい光があった。自分と同じ目つきだと千冬は感じた。龍平も千冬の目に気づいた。彼もまた同じことを感じたらしかった。ふたりはそのときは言葉をかわさなかった。

 龍平はまもなく夕子のいるテーブルに戻っていった。衝撃の報告が待ちうけていた。夕子はいった――茶壷はふたつとも消えていた、チャイナ・ユナイテッドをいくら探してもみつからなかった、と――。

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