第六章 逆転

 三週間後、一九三一年八月七日。

真夏の朝の光の幕のむこうで、華麗な旗袍をきた美女が、人びとの視線をあびて得意げにビールをかかげていた。三星 酒(サッポロビール)の月 牌(ポスター)だ。モデルになっているのは、いまをときめく白蘭。うっとり微笑む唇をなぞってすぎる人があとをたたない。

貧しく醜い花売りの少女はその月 牌を憎々しげににらみつけた。けれど一瞬後には、笑顔をつくって客寄せの声をはりあげ、車道をつっきった。

「バーレーホー、メークイホー・・・・・・」

いつしか路地に入っていた。

 もわっと湿気が手足にはりついた。

 細く狭い裏路である。両側には黒い壁がつらなっている。湿気がとじこめられたようで空気が白く濁ってみえる。むこう側から汚れた中国人の子どもたちがやってきて、わーっといいながらかけぬけていった。表どおりとは雰囲気がちがう。けれども少女は走りつづけた。洗濯板をこする音や口笛、広東語やロシア語のラジオ、バイオリンの練習曲の流れる道を。

 路地はいりくみ、奥深かった。もういくつ角を折れたか、いっこうにつきない。

 ふりかえれば路には人ひとりいない。

「バーレーホー・・・・・・」

 自分の声ばかりが壁にあたってはねかえる。

我に返って少女は立ちどまった。

 そこへ、右の横道から、ひとりの女の人があらわれた。年は少女より三つは上だろう、二十歳前後らしくみえる。よろよろ歩いてる。変な人。老婆みたい。猫背で体がななめにかたむいている。頭が大きくて胴長短足。かっこ悪い。服の趣味も悪い。花売りの少女も人のことはいえない。同類の外見だ。だからむしろ親近感がわいた。花を買ってもらいたいというよりも、ふりかえってほしくていった。

「バーレーホー」

 女の人は無視した。予想通りだ。けれども少女は声をはりあげた。

「バーレーホッホ、バーレーホー!」

 少女は意地になっている。ひと目私をみてくれさえすれば女の人も私に親しみを感じてくれるにちがいないと思っている。けれども女の人はふりかえらない。ただただ路地の奥へむかって歩いている。と、その足が急に方向転換した。

左にむいた。そっちには集合住宅がある。漆喰の二階建て。壁に暗い長方形の入口が穴をあけている。入口には紅漆ぬりの馬桶(モードン※簡易式トイレ)が縦につみかさなってあり、奥から猫が顔をのぞかせていた。その奥へと女の人は消えていった。花売り少女は立ちどまった。集合住宅のなかまではさすがに入れない。外にとどまった。なかで女の人が階段をのぼる音がきこえる。それがとぎれた。二階についたのかなと思い、少女は顔をあげた。

はたして二階の窓のひとつに人の顔があらわれた。さっきの女の人だ。こっちをみおろしている。花売り少女と目があった。たちまち女の人は目つきを変えた。おそろしく冷たい目になった。弱そうな雰囲気とは全然ちがう、凄い目つき。少女は背すじが冷たくなった。幽霊にでもにらまれた気がして、逃げるようにその場を去った。

 あたりに静寂が戻った。

 

十五分後、集合住宅の二階のドアがふたたびひらいた。さっきの女の人が入った二〇一号室のドアである。

ドアから若い娘がでてきた。だが花売りの少女がみた人とはちがう。まったくの別人だった。

 年ごろは同じぐらいだが、この娘は実に美しい。しかも華麗である。身にまとっているのはチャイニーズレッドの花模様をちらした純白の旗袍。耳にゆれるのは襟元の留め具とセットになっている日長石(サンストーン)のイヤリング。階段の手すりに白いレースの手袋をはめた手をあてて、その人は実に優雅に階段をおりた。

そのあとから、ひとりの男がつづいた。男は同じ二〇一号室からでてきた。顔には黒眼鏡、小肥りの体には濃紺の半袖シャツを着て、胸に一輪の白い薔薇をさしている。階段をせわしなくトットットとおりて、すぐに娘においついた。

ふたりは集合住宅の入口からならんででてきた。

花売りの少女がみたら、目を丸くしただろう。ふたりとも上海で知らない者はないといわれる有名人だった。このようなうらぶれた集合住宅からでてくるような人間ではない。

 ふたりは人気のない路地をぬけ、待ちうけていた黒ぬりの自動車にのりこんだ。


 五分後、ミス摩登コンテストの合宿所、レスター花園の前に一台のロールス・ロイスが停車した。

運転手が降りた。そして助手席、後部座席の扉を外からあけた。なかから小肥りの男と美しい娘があらわれ、地面に足をおろした。

 美しい娘はまぶしげに目を細め、フリルつきのパラソルをパッとひらいた。男とならんで歩き、門をまたいだ。蔦のはう赤煉瓦の館にむかって、緑色の光の海のような芝生の上を堂々とつっきっていく。

 ――それよりすこし前、二階の教室では講師エドワード・アンドリューが、あらたまった表情でファイナリストたちを眺めわたし、いいわたしていた。

「いまから新しいトップ3を発表する」

 ファイナリストたちはみな、息をひいた。

 金曜の二限の途中で発表があるとは、意想外だったのである。新トップ3は四限の終わりに発表されるのがふつうだった。

みな、ふいうちにあい、めんくらっている。いや、みなではない。江田夕子が欠けている。そういえば一限から姿がみえないようだが、丁香を除いては気にかける者はない。これから新トップ3が発表されるのだから、それどころではなかった。だれもが緊張して講師の次の言葉を待った。

「じゃ、心の準備はいいね」アンドリュー講師は白い歯をきらめかせていった。

「一位、ロレーヌ。二位、丁香。――ここまでは前回と同じ」

 ため息がひろがった。またか、というような顔を十人中八人のファイナリストが一瞬だがした。

 彼女たちは麗生が殺されたとき、ショックをうけ、その死を悲しんだ。けれども一方では安堵もし、よろこびさえした。これで強敵がひとりへり、自分が一位になれるチャンスがふえた、と思ったからである。ところが期待に反して、チャンスはあいもかわらずめぐってこない。今度はロレーヌと丁香が、トップ2の座から動かなくなった。ふたりとも麗生にかわってこの三か月不動の人気を保っているし、成績抜群だし、おちる気配もない。三位以下の娘たちはがっかりした顔になった。

それでもすぐに三位に希望をたくす顔になった。三位だけは、これまでミラベル、馬秋秋、三間広子、ナンシーと、いれかわってきたからである。不安げな顔をしているのは暫定三位のナンシーだけだった。そこへ講師がいった。

「三人目はまた、新しくなる」

 ナンシーはガクッとうなだれた。反対に暫定四位以下のファイナリスト七人はいっせいに目を輝かせた。

「新しい三位は――」

 そこでいったん講師は口をとめ、右手を扉にむけた。もったいぶってるのかと思いきや、

「この方――」

 いったとたん、扉がひらいて、外からひとりの娘が入ってきた。

みな瞠目した。入ってきたのは、だれもが知る娘だった。が、ファイナリストではない。

その娘はしずしずとあらわれ、みなの前に立って軽く会釈をした。カールした髪がふわっとういて、双妹(ブランド名)の白玉蘭香水の香りが教室じゅうにほどよくひろがった。

「白蘭さんだ」

 アンドリューが緊張した面持ちでいった。

「新トップ3は、白蘭さん」

「・・・・・・!?」

 みな、あっけにとられている。冗談でしょ、とでもいいたげな顔だ。

「まだいってなかったけど、白蘭さんは今週付けでファイナリストに選ばれた。IAAの決定だ。今日はあいさつのみになるけど、あさって日曜から合宿所に入って、月曜からみなといっしょにレッスンに参加する」

 みな、ざわめきだした。

 白蘭はたしかに有名だ。チャリティ・イベントで麗生殺しの犯人ルドルフを河につきおとして以来英雄あつかいされている。だからって、なぜ――。

 なぜ部外者の白蘭がいきなりファイナリストに。それだけならまだしも、なぜいきなりトップ3に? コンテストへの途中参加は認められないという原則があったはずではないか。

「オーケー、オーケー、静かに」

 アンドリューはあわてたようにいった。声が変にうわずっている。なんだかいつもとちがう。授業参観日の先生みたいに、ぎこちない感じがある。どうやら白蘭のあとから入ってきたもうひとりの有名人の視線が気になるらしい。

「IAAは白蘭さんのために特別枠をもうけた」

 アンドリューはとりなすように説明した。

「三星 酒の広告などをみてもわかるとおり、白蘭さんはいまや憧れの的だ。チャリティ・イベント以来、表舞台に姿をあらわしていないのに、その名が上海人の口端にのぼらない日はない。

 コンテストの人気調査を実施している新聞社三社に送られるアンケートの回答用紙には、現ファイナリストのだれにもチェックをいれずに、『白蘭さんに投票したい』と書く人がふえているという。実はIAAにも二か月以上前から『白蘭さんをファイナリストにするべきだ』という意見が毎日のようによせられて、さばききれないほどになっている。

そこでIAAは特別例外をもうけ、白蘭さんをファイナリストにすることにした」

「それにしても、いきなりトップ3って?」

 矢のように声をとばしたのは、こわいもの知らずのロレーヌだ。自分たちは厳しい予選をのりこえてここまできたというのに、予選も合宿も経験してない人間にいきなりトップ3になられてたまるか、という気持ちが語気にあらわれていた。ほかのファイナリストたちは拍手せんばかりだった。

 講師は白蘭のつれの男の視線を気にしつつ、苦しい返答をかえした。

「白蘭さんは合宿にこそ参加していなかったが、この三か月の行動には目をみはるものがあった。点数をつければ、トップ3の成績に匹敵する」

 合宿以外の行動で評価されるなら、合宿での苦労がうかばれない。みな、露骨に納得いかない顔をした。講師がなだめるようにいう。

「白蘭さんの存在はみんなにとっていい刺激になる。もうすぐ合宿がはじまって三か月だが、みんな仲良くなって、競争意識が弱くなってるからな」

 娘たちは、うなずかない。すると白蘭の横にいた男がのそっと前にふみだした。大きな目をぎょろっと動かしたかと思うと、カイゼル髭をきゅっとあげた。魔術師アレーだ。満面に愛想笑いをといて、みなの顔を眺めわたし、ぶきみなまでの猫なで声でいった。

「ご迷惑をおかけいたしますが、みなさま、白蘭をどうぞよろしくお願い申しあげます」

「まあまあアレーさん、こちらこそよろしくお願いいたします」

 アンドリューは恐縮したようにいうと、娘たちの顔をみて手をたたき、

「みんなも歓迎して。拍手を」

 哀願するようにいった。

娘たちは無視するかと思いきや、意外にも拍手しだした。

これはどうしたことか、教室じゅうが拍手でわきかえるようだ。

 さすがは如才ないファイナリストたちである。もう態度をきりかえている。いまのアレーのあいさつで白蘭のバックには大物あり、とあらためて認識したのだろう。長いものには巻かれよで、逆らっては損だ、表面だけはていねいな態度をとろう、ときめたらしい。敵意と嫉妬はひとまず作り笑顔でおおって、にこやかに手をたたきだした。

 するとアレーはどこまでずうずうしいのか、ここぞとばかりに、

「わたくしごとで恐縮でございますが」

といって宣伝をはじめた。大量のチラシを手際よく全員に配り、もみ手をしていった。

「ごらんのとおり、きたる二十二日『巧氏廟堂落成記念式典』があります。みなさますでにご存知かと思いますが、巧家の家廟建立にあたっての記念儀式でございまして、当日は盛大なパレードもおこなわれます。白蘭も巧氏といっしょにパレードにでます。朝八時にフランス租界ワグナー通りを出発、二時間かけて上海市内をめぐって廟堂前に到着します。

 廟堂前には天幕をたくさんはりだしますので、当日夜中まで食事、お芝居、歌、踊り等をご鑑賞いただけます。歌舞天幕では私が午後六時半から魔術ショーをおこないます。みなさま、再来週の土曜です。お忙しいとは思いますが、当日ご都合がつきましたらぜひともおこしください」

 五分後、アレーと白蘭の姿はすでに館の外にあった。

 強い陽ざしをあびて緑に波うつような芝生の上で旗袍を光らせた白蘭は、茶葉にまぎれて湯にしずむ白い花びらのようにみえた。

ふたりのシルエットはやがて小さくなり、門前で扉をあけている黒いロールス・ロイスへと吸いこまれていった。

白蘭は自動車のソファに腰をおろすなり、ほっと吐息をついて煙草に火をつけ、けだるげに煙をくゆらした。自動車は発車した。白蘭は車窓をみない。一度も花園をふりかえろうとはしなかった。

白蘭とアレーはふたたび漆喰の集合住宅の二〇一号室に帰った。そこはアレーの虹口における隠れ家のような部屋だった。虹口の猛将弄にある。近くには桜が青々と葉を茂らせた屋敷跡があるが、窓からはみえない。いま窓は蒸し暑いのにカーテンがおろされている。

変身を人目から隠すためだった。アレーは白蘭をもとの姿に戻し、

「変身もさ、あなたが自分ひとりでできたほうが便利なんだけどさ、こればっかりは、やり方を伝授するわけにはいかないんだよ」

 江田夕子をみて気ぜわしげにいった。

「今夜また白蘭になりたかったら七時半までにキャセイにきてくれる? 僕は八時半には巧邸にいかなきゃならないから」

「わかりました」

「それよりあなた、今日のことたのんだよ。江田夕子の最後の花道」

「・・・・・・あ、は、はい」

「おちついて、たのんだよ」

 それからさらに十五分後、レスター花園の門前に今度は一台の黄包車が停車した。

 おりて咳をしているのは、猫背の娘だ。すべてが地味である。陰気な娘――江田夕子は鉄格子の大門をみると、立っているのもつらいといった顔をし、ふらふらと歩きだした。

 病気のふりをしているのだ。今朝「風邪をひいたので病院にいく」といって花園をでた手前、そうみせかける必要があった。帰るまでに二時間近くかかったことを講師にとがめられたら、病院の待ち時間が長かったといってごまかすつもりだった。とはいえ足どりが重いのは、演技のためばかりではなかった。

 今日これからしなければならないことを思うと、ため息がどっとでた。気が重すぎた。

 夕子は今日、コンテストの脱退届をださなくてはならなかった。

合宿所の人間にいわれたのではない。彼らはまだなにも知らない。

 アレーがきめたことだ。

 当初は合宿終了まで夕子にスパイ探しをさせる予定だったが、白蘭がファイナリストに選ばれたので路線を変えたらしい。

 そもそもスパイを探すこと自体、もう不要になった。だれだか、わかったからだ。スパイは麗生だった。チャリティ・イベントで殺される前の行動から、ほぼまちがいないとアレーはいった。にもかかわらず以後三か月近くもアレーが夕子に合宿所で義務を負わせていたのは、裏づけが必要だったからだという。

 夕子が合宿終了まで、だれからも「報復」をうけないではじめて、麗生がスパイだったと太鼓判をおせるというのだ。もし「報復」をうけたら、ほかにもスパイがいるということになる。その可能性をアレーは捨てたわけではなかった。

 おかげで夕子はチャリティ・イベント後もびくびくしどおしだったが、この三か月近くだれも「報復」らしい行動はしてこなかった。やっぱりスパイは麗生だけらしかった。

だから白蘭にファイナリストの話がきたとたん、アレーが江田夕子の義務をきりあげることにしたのは当然といえば当然といえた。これ以上裏づけのためだけに江田夕子を合宿所におくよりも、白蘭をおいたほうがなにかと便利だし、利益にもなるはずだった。白蘭は早くも優勝候補である。今後なにかさせるにしても夕子よりも使いものになるにちがいない。

 江田夕子は今日八月七日金曜限りでファイナリストをやめる。合宿所をでる。

 夕子自身そのことに異論はなかった。

 思えば、つらい合宿生活だった。白蘭から夕子に変身して合宿所に帰るときは、毎回天国から地獄に堕ちる思いだった。落差が大きすぎて、毎回の苦痛はたいへんなものだった。

 夕子は毎晩白蘭の生活をするようになってから、楽することを覚えてしまった。移動は高級車が当たり前。旧花齢邸では面倒なことはすべて使用人がしてくれる。身も心もめっきり耐性がなくなっていた。

いま黄包車にのって帰ってきたのは、「風邪で弱った体」をみせびらかすめだけではなかった。アレーの隠れ家からここまではわずか一・五キロ。歩けない距離ではないのだが、歩くのが面倒だからのってきたのである。

 そんな夕子にとって、江田夕子としての生活が面倒でないわけがなかった。

 夕子がいまいちばん疲れることは、「江田夕子に変身」して、「江田夕子を演じる」ことだった。合宿所での「内気で口下手で不器用」という自分のイメージをくずさないようにふるまうことだった。

そんなだから、江田夕子としての合宿生活に未練はなかった。この数か月、いやというほど思いしらされてもいる。江田夕子ではいくら合宿所にしがみついても、グランプリにはなれない。

それだったら白蘭として挑戦したほうが、よっぽどマシだ。マシどころか、白蘭ならグランプリになれる可能性が高い。

もとより合宿生活は白蘭でも面倒くさいことが想像される。それでも江田夕子よりはマシのはずだ。新入りの負い目も、みなの嫉妬の視線も、アレーと巧月生がバックについているかぎり、かわせるだろう。それに嫌われたって、せいぜいあと一か月の辛抱。

 優勝すれば、こっちのもの。

 夕子は胸をふくらませる。なにしろ4か月前は想像もできなかったことが現実になるかもしれないのだ。白蘭でさえいれば映画を主演できて流行雑誌の表紙を飾れるかもしれないのだ。

 それを思えば、江田夕子の合宿所生活にピリオドをうつことにはなんの抵抗もない。

 ただいやなのは、みんなにあきらめた、と思われることだった。脱退すれば、きっとばかにされる。私が荷造りして引きあげていくとき、みんなは目引き袖引きしながら、こういうにちがいない――「やっとやめるよ」、「逃げてく、逃げてく」、「やっぱり、あきらめたね」、「やっと自分が場ちがいだってことに気づいたよ」。

 そんなふうにいわれるのは屈辱以外のなにものでもない。負けた、と思われるのだ。丁香ちゃんもそう思うかもしれない。いやだ。丁香ちゃんにだけは、ほんとうのことを伝えたい。でもだめだ。白蘭と自分が同一人物だと告白する勇気も、信じてもらえる自信もない。親だって信じないだろう。母親は私が途中で脱落したときいたらどう思うだろうか。それを考えるとおそろしい。

 でもいまは、アレーにいわれたことを実行するしかない。江田夕子が脱退しなければ、白蘭は合宿所生活をはじめられない。はじめられなければ、私がミス摩登になるチャンスは失われる。輝かしい未来はなくなる。

 夕子は自分の心に鞭打ち、なんとか館に入った。二階の教室にむかった。

 三限はとっくにはじまっている。廊下には例によって騒々しい声がもれている。ヘアメイクのレッスンはいつもこうだ。担当講師のマダム・ペガニーは生徒の創造性と主体性を重視するといって、その日のテーマだけ与えると、グループごとに自由にメイクをさせる。私語も自由だ。レッスンとは無関係のことをしゃべっても、注意されない。

 今日はどのテーブルでも白蘭の悪口に花が咲いていた。休み時間だけでは、いいつくせなかったらしい。メイクが軌道にのりだした二十分後になって、やっといったんおさまった。夕子は遅れて幸いだった。あと二分早くついていたら、いやでも白蘭の悪口を耳にしていただろう。

 ただでさえ夕子はおじけづいている。動悸は教室に近づくにつれ、高まった。

 ドアの手前でいったん立ちどまり、深呼吸した。それから服に鼻をあてる。白蘭のにおいがしないかの確認である。癖でやったが、いまは自分が白蘭と同一人物とばれている心配はほとんどなくなっていた。

 そもそもばれてたら、白蘭がトップ3になったときいて、みんなが黙ってるはずがない。でもだれも白蘭と江田夕子を結びつけた文句はいわなかった。さっき白蘭として初めて花園に入ったときは、正体が江田夕子とばれないか、ひさびさにびくびくしたが、その必要はなかった。

 麗生が死んで以来、麗生と親しかった王結も馬秋秋も、白蘭の正体を噂しているようすはなかった。白蘭に興味をもつよりも、麗生を殺したルドルフを憎むほうで忙しいらしかった。だから夕子は自分の秘密は麗生の死とともに葬られた、と思うことにしている。白蘭の正体を王結たちが麗生からきいていると思ったのは錯覚だったと考えることにしている。

 教室から化粧品のむっとする匂いがただよってきた。

夕子はいまいちど深呼吸して、教室に入った。

講師のマダム・ペガニーはいつもどおりテーブルからテーブルへとわたり歩いて娘たちにメイクの助言をしていた。そこへ夕子は声をかけて、遅刻した理由を伝えた。マダム・ペガニーは「お大事に」といっただけだった。夕子はそれからはじめて丁香のいるテーブルを目で探した。丁香が夕子の席を確保してくれていると思ったからだ。すると、

「すごーい、上手ーい」

 王結と馬秋秋の声が耳に入った。ばかのひとつ覚えみたいに同じ感嘆詞をくりかえしている。だれに媚びているのだろう、と思って声のしたほうをみた夕子はたちまち目をこわばらせた。

ふたりのあいだにいるのは丁香だった。丁香が馬秋秋のメイクをしているのを、王結が眺めている。馬秋秋のまぶたに丹念にシャドウをのせていく丁香の手さばきをみて、

「どうして、そんなにきれいにできるの」

 王結は嘆息している。

 丁香は微笑しただけでこたえず、ブラシをアイホールに走らせつづけている。けっして自分のペースをくずさない。丁香は人にどう思われようが気にしない。いつだって冷静に行動する。そんな丁香に、王結も馬秋秋も反発するよりも憧れに近い気持ちを抱いているらしかった。

「できた」

 丁香はブラシをおいてはじめて声をだした。

「ワオ! 私の目じゃないみたい」

「芸術的」

 ふたりはここぞとばかりにほめそやしている。けっしてお世辞ではなかった。丁香はなにをやらせても一流だった。なんにおいても独特のセンスを発揮する。丁香にはみんなとはちがう、なにかがあった。

「ウラジーミロヴナ夫人に教わったから」

 丁香はにこっと笑っていった。

「ウラミル夫人・・・・・・?」

 馬秋秋がきょとんとすると、王結が解説した。

「ウラジーミロヴナ夫人だよ、ペテルブルグ帝室歌劇団のプリマドンナだった」

「えっ」馬秋秋は驚いていった。

「メイク、元プリマドンナに習ってたの?」

「うん」丁香はなんでもないことのようにうなずいていう。

「二年前の夜会で知り合ったのがきっかけ。そこで私が歌を歌ったら、夫人が目をとめてくれてね。私には才能があるから、ぜひ直接指導したいって。それで夫人に歌を習うことになったの。でも私は歌よりも夫人のメイク術に興味をもって、そっちも教えてもらうことに」

「へえ」

 王結と馬秋秋は感嘆する。麗生を失って以来、ふたりはもっぱら丁香に媚びている。でも丁香はそれほどふたりに興味がないらしい。仲良くする気もないようだ。その証拠に王結や馬秋秋を隣に座らせない。いまも丁香の隣の椅子は空いている。あれは私の席、私のためにわざわざとっておいてくれたんだ――そう思った夕子は誇らしさとうれしさでいっぱいになり、夢中でかけだして、丁香に声をかけた。

「ここ座ってもいい?」

「あら夕ちゃん。お待ちしてましたわ。どうぞ」

 丁香は夕子に負けないくらい顔を輝かせて椅子をさしだした。王結と馬秋秋がねたましげにみているのがわかる。夕子は気になる。白蘭と同一人物とばれてないとしても、このふたりが苦手なことに変わりはなかった。なにより麗生が死んで以来、このふたりにみられるたびにやましい気持ちになる。

 夕子は自分では認めたくなかったが、心の底には罪悪感があった。麗生の死に自分は間接的にだが関わっている。ルドルフは白蘭に気がある、ルドルフは白蘭のために麗生を殺した――と夕子は思いこんでいる。ルドルフは白蘭が麗生にリンチをされそうだときいたから怒って、麗生を攻撃する気になった。そして殺した。実際に手を下したのはルドルフだが、自分がやったも同然のような気が夕子は心の奥底ではしていた。

思えば、白蘭は罪が深い。麗生を間接的に殺し、ルドルフに人殺しの罪をおわせ、抗議運動をおこした李龍平を逮捕においこんだ。その前には小山内千冬をハメてトップ3から転落させた。白蘭の成功は他人の犠牲の上になりたっている。心の底ではそのことをいやというほどわかっている。でも表面では忘れたかった。だから夕子は罪悪感をよびさまされると、真実から目をそむけるために、こう考えることにしている――私は悪くない。悪いのは私に悪いことをしてきた人たち。子どものころから私を嘲ってきた人間全員。その人たちは私に人を憎むことを教えた。責任はみんなにある。私が責められるいわれはない。私は悪くない――。

「丁香をとられちゃった。王結、残念だったね」

「いつものこと。あああ、またあんたのメイクの実験台か」

 馬秋秋と王結はきこえよがしのイヤミをいっている。夕子は心がチクチクしたが、丁香に、

「はじめても、よろしい?」

 と、にこやかにきかれて、にっこりうなずき返すと、いやな気分はほとんど忘れてしまった。

「では、失礼」

 丁香は真顔でいった。親友にメイクするいまこそ本番といった顔。夕子の肌にクリームをのせ、ひろげ、やがて丁香はブラシを手にして腕をふるった。心のこもった色選びと筆づかいのおかげで、夕子の顔はこれ以上ないほどみちがえていく。

「トレビヤーン!」

 マダム・ペガニーが大声でたたえたから、教室じゅうの視線が夕子の顔に集まった。隣のテーブルのナンシーとミラベルも興味津々といった顔をつきだしている。メイクは完璧だった。これで夕子の顔のつくりがよければ、だれもがうっとりとみとれるところだ。

 一瞥もしないのはロレーヌだけだった。じっと目の前の鏡をみている。千冬にメイクされる顔をひたすらチェックしているふうだった。ロレーヌと千冬がペアなのは妙なようだが、ここ最近ではめずらしくはなかった。チャリティ・イベント以来、千冬はなぜかロレーヌにしつこくつきまとっていた。なにがねらいかはわからないが、ロレーヌは拒否はしなかった。そのかわり平気で冷たい言葉を吐いたり、ときには奴隷のようにあつかったりする。五月以来トップ3に返り咲くことなく、いまでは雑用係にまでおちている千冬をばかにしているようだった。

「小手先だけのもんには、ごまかされないからな」

 ロレーヌは鏡をみて声をはりあげた。

「審美眼には自信がある。パリできたえられてるんだ」

 千冬にいっているようで、その実丁香にきかせるための言葉なのはあきらかだった。丁香の技術にみとれていたミラベルとナンシーは我に返ったように、自分たちのテーブルのボスをほめはじめた。

「ロレーヌの審美眼は一流」

「ダンスも一流」

「ミスター・ウィリアム・ハルトンの折り紙つき」

 ロレーヌは『カフカス(※フランス租界の超一流ナイトクラブ)』のトップ・ダンサーで、ハルトンは常連客だった。

「ハイクラスの欧米人はみんなロレーヌのファンになる」

「やっぱり世界のロレーヌよねえ」

 ふたりはわざとみなにきかせる大声でいった。ロレーヌは頬をそめ、照れ隠しのようにいった。

「いいか、私の審美眼を納得させるようにやってくれ」

 発破をかけられた千冬は黙っている。

 夕子はみなの視線が気になって指がうまく動かなかった。いまは夕子が丁香のメイクをする番になった。順番だからやらなくてはならない。いまはアイライン。丁香の閉じたまぶたを軽くもちあげ、ペンシルで睫毛の生え際のすきまにラインをすこしずつうめこんでいく。慎重にていねいにやっているつもりが、これがいつもどおり変になる。あいかわらず不器用丸出しだ。過去に何度も練習したのに、いまだにきれいに引けるようにならない。どうしても凸凹になってしまう。

丁香ちゃんに申しわけない、最優秀のメイクのお返しが最低のメイクなんて――。王結と馬秋秋がこっちをみている。気が散る。おかげで全然うまくできない。ふたりとも、みないでほしい。消えてほしい。私をばかにしやがって。メイクなんかできなくたって私はアレーの力で一瞬できれいになれるんだ。知ったら腰をぬかすだろうな。白蘭に変身するところ、みせてやろうか。

あれほど白蘭の正体を隠しているのに、夕子は時折すべてをばらしたい発作にかられることがある。みくびられるたび、いいたくなる――私をなめんなよ。私をだれだと思ってる。白蘭サマだよ。江田夕子だと思ってみくびってると、痛い目にあうよ。私は毎晩『ハイアライ』(ハイアライ球場。※ハイアライ:スペイン生れの室内競技。選手に金を賭ける賭け事)や『カサノバ』(フランス租界のナイトクラブ)でだって遊んでるんだ。痛い目にあいたくなかったら、いまのうち言動を改めたほうが利口だよ――そう心のなかで毒づいたときだった。

「ばかにするな!」

 どなり声が耳をうった。ロレーヌである。鏡をみて千冬に怒鳴っている。

「なんて仕上がりだ」

 千冬にしてもらったメイクが気に入らないらしい。テーブルをたたいて凄い剣幕だ。だが千冬に悪びれるようすはなかった。

「きっちりやったよ、この見本どおりに」

 千冬はいった。最下位の人間の態度とは思えない。チャリティ・イベント以来、千冬の人気は回復するどころか、おちるところまでおちている。麗生にひどい目にあわされかけた被害者なのだが、麗生が死んだことで世間の見方は逆になった。麗生が殺された現場にいながら助けられなかったということで白い目でみるようになった。犯人のルドルフは千冬の元恋人だから共犯ではないか、と疑う者さえいた。千冬はあっというまに雑用係にまで転落した。

 にもかかわらず千冬はへこたれていない。もっともイベント後しばらくは弱っていた。変わったのは、雑用係になってからだ。どん底におちて、かえって度胸がすわったみたいだ。千冬は前みたいに無意味に人にこびなくなった。えらそうな人間にも、臆さず自分の考えをのべるようになった。その証拠にいまもロレーヌに冷静に対応している。

「このなかでロレーヌにいちばんあうパターンは、これでしょう」

 そういってテキストをみせた。五つの見本のうちのひとつを指さしている。が、ロレーヌはよけいに怒りだした。

「パターン、パターンって、見本どおりにやれば正解だと思ってる能なしが! 私の骨格と肉づきを観察したか? 人にあわせて工夫しろよ。猿じゃないんなら頭を働かせろよ」

「ロレーヌこそよく観察して。このメイクはじゅうぶんあなたにあってる。審美眼があるなら、わかるでしょう」

 千冬は冷静だ。千冬のほどこしたメイクはある意味完璧だった。今日のテーマ「知的ビューティー」からはずれることなく、どの部位も濃すぎず薄すぎず一点のずれもなくきれいにぬられている。だがそれが同時に個性を死なせてもいた。

「このつまらん化粧が、私にあってるだと?」

 ロレーヌは爆発寸前の声でいった。ロレーヌはけっして癇癪もちではない。だがチャリティ・イベント以来、千冬にたいしてだけは感情をコントロールできなくなっていた。原因はルドルフにある。

 ロレーヌはルドルフに関することには理性を失いがちだった。ルドルフが人殺しをしたときも、ルドルフは悪くないと考え、殺された麗生が悪いと考えた。ルドルフが逮捕されるとルドルフを犠牲者のように思い、逮捕に関わったすべての人間を憎んだ。ルドルフを河につきおとして英雄あつかいされた白蘭はもとより、ルドルフに抗議の声をあげた李龍平も、ルドルフ逮捕を主張した市民も、逮捕を実現させた巧月生も、みんなを憎んだ。

だが白蘭も李龍平も市民も巧月生もロレーヌの身近にはいなかった。手近に怒りをぶつけられる対象ではなかった。それでロレーヌの怒りはすべて、ルドルフの元恋人で、事件現場にいあわせた千冬にむけられた。ロレーヌはいま、ここぞとばかりに怒鳴った。

「いいから直せ!」

 だが千冬はどこまでも冷静だった。

「先生にきいてからね」

 いった瞬間、ピシャッという音が空気をひき裂いた。

 ロレーヌは千冬を平手打ちにしていた。

「調子にのるなっ」

 ロレーヌは叫んだ。

 夕子は自分がぶたれたも同然の衝撃をうけた。千冬への非難の言葉はそのまま自分にあてはまる、と思った。全身の毛穴がちぢみあがった。

 ロレーヌがほんとうに非難したいのは私ではないだろうか。なぜかはわからないが、そんな気がする。悪い予感がした。白蘭が合宿所に入ったら、ロレーヌが最大の敵になるような――。

ロレーヌはつねにトップ2に入ってるのに、夕子はなぜかいままでほかのファイナリストほどにはおそれてこなかった。ロレーヌは王妃のようで近寄りがたいので、自分とは無関係の人間のような気がしていたからかもしれない。でも、そうもいっていられなくなった。ロレーヌがこんなに怒ってるのをはじめてみた。千冬は直接の原因ではない気がした。原因は白蘭ではないだろうか。白蘭がトップ3になったことが、ロレーヌをこんなにも不機嫌にさせているのではないだろうか。

「ねえ、ロレーヌ。原因はメイクだけじゃないでしょう?」

 千冬が鋭くいった。

「よかったら教えて、ロレーヌ。いったいあなたに、なにがあったのか」

 マダム・ペガニーがロレーヌを注意するためにかけつけても、千冬は問いかける目をロレーヌから離さなかった。


 午後五時十六分、夕子は丁香の部屋のドアをノックした。その顔がいつになく蒼白なのは、これから江田夕子としての別れを告げなくてはならないからだった。

 ドアがわずかにひらき、はずんだ声がきこえた。

「夕ちゃん、遅かったね。なにしてた?」

 毎日午後五時にはふたりで会うのが習慣だった。

「べつに・・・・・・」

 一階の事務室にいたのである。丁香はまだ知らないが、脱退の手続きをすませてきたのである。昼間提出した脱退届は本部にあっけなく受理された。夕子はもうファイナリストではない。明日には合宿所をでなくてはならない身となったのだ。そのことを丁香に告げにきたのだが、いま夕子は、

「ナンシーは、いる?」

 と、きいた。ナンシーは丁香のルームメイトだ。

「いつもどおり。でかけた」

 丁香はドアから顔をだしていった。輪郭が背後からの西陽にふちどられ、まぶしかった。

「入って」

 丁香はうれしそうにいった。

「お邪魔します」

 夕子は気もそぞろに後ろ手でドアをしめた。これからいうべきことで頭がいっぱいで、室内にたちこめる甘い香りも感じない。

「やっと夕ちゃんとふたりになれた」

 丁香はまだなにも知らない。ありのままの自分で会えるのも今日でおしまいだ。そう思うと胸がつまって言葉がすぐにはでなかった。

「朝はさびしかったな、夕ちゃん三限の途中までいなかったから。風邪、だいじょうぶ?」

「それは、うん・・・・・・でもごめん、私――」

 いいかけた夕子の言葉は、なにも知らない丁香にさえぎられた。

「あら謝らないで。病院にいってよかったじゃない。でも二限をのがしたのは残念だったかも、白蘭をみたかったでしょ」

「え、えああ・・・・・・」

「みなくてもよかった? ま、月曜になったら、いやでもみられるしね」

「丁香ちゃん」

 夕子はきりだした。

「私、大事な話があるんだ」

「なに」

 丁香は無邪気にきいた。

「それはね・・・・・・」

 親友の澄んだ目をみると夕子はいいにくくなって、

「・・・・・・あとで話すね、お茶をのみながらでも」

 すると丁香はいつものように白檀の扇子をひらいて、

「ならば、いざ――」

 芝居がかった声をだし、

「わが臥床へ」

 そういって寝台をさし、扇子をゆらりゆらりとゆらし、淡黄色の旗袍の裾をさばいて、しゃなりしゃなりと歩きだした。

「はい、班さま」

 夕子は反射的にこたえ、左足から歩きだした。「貴人の班 妤」に敬意をあらわすためである。最近は班 妤ごっこをするのがふたりの流行りだった。といっても班 妤役はいつも丁香。会話は夕子が中国語ができないのでつねに英語である。

 ふたりの行く先には、紗(うすぎぬ)のような蚊帳でおおわれた「臥床(寝台)」があった。踏み台の前に立つと丁香はふいにくるりとふりかえって、

「ねえ夕ちゃん」

 ふつうの言葉できいた。

「この花をどうしたかって、きかないの?」

「え」

 きょとんとしていった夕子は、丁香が青い花を左手いっぱいにかかえているのに気づいた。

「その花、どうしたの?」

「つんできた」

「庭に咲いてたの?」

「そう、露草。――夕ちゃんにみせたくて」

 いうなり丁香は裾をひろげ、パッと宙にほうりあげた。露草が散る。青い花びらが霏々紛々と舞い落ちるなかで、丁香はいった。

「露草の花さく小さき館に、われ、愛する友と住めり」

 日本語だった。夕子は耳を疑った。発音はけっしてうまくなかったが、丁香はたしかに日本語でそういったのだった。

「意味通じた? これでも練習したんだ。でも日本語の発音って難しいね。いまの詩ね、私が中国語でつくったんだけど、夕ちゃんのために日本語にしようと思って、三間さんに和訳してもらったの。内容、伝わった?」

 丁香は不安そうにきいた。

「伝わった・・・・・・」

 夕子の声は感動でふるえた。丁香ちゃんはトップ3なのに、底辺の私にこんなにも友情をあらわしてくれる。なんてありがたいのだろう。私も友情にこたえなくては。丁香ちゃんになにもかも告白しよう――夕子は決意した。

 窓のむこうで日暮(ひぐらし)の啼き声がきこえては、夕陽にとけている。

 花びらのつもった台で靴をぬぎ、夕子は丁香につづいて薄靄のような蚊帳のなかへ身をすべりこませた。

 寝台の棚から西瓜をとりだした。中国の西瓜は一般に楕円形である。それを二センチぐらいずつに輪切りにして皿に盛ってある。断面はクリーム色だ。夕子にさしだしていった。

「ふたりで食べよ」

 蚊帳のなかでふたり、仲良くわけあってたべた。

 淡くさしこむ夕陽が寝台にそなえつけの棚の中身を照らしだす。『紅楼夢』、『列女伝』、『黄鶴楼』等の古典の背表紙、その横の景徳鎮の鼻烟壷(嗅ぎ煙草入れ)、雑誌の切り抜きの山水画や花鳥画――これら丁香らしい物のすべては、この三か月、変わらず夕子の目を楽しませてきた。

「あら」

 ふいに丁香が小さく叫んだ。

「いつのまにベッドにまぎれこんでる」

 『巧氏廟堂落成記念式典』のチラシをつかんでいった。

「やなものみちゃった。いっきに現実にひきもどされた気分」

 そういって虫でも放るように蚊帳の外にポイと捨てると、厭わしい残像を消すためのように夕子をみつめていった。

「ほんと俗悪。巧月生なんて、偽善者だよね」

 夕子は思わず西瓜をのどにつまらせそうになった。あわててのみこんで、咳を二三回してから、おそるおそるいった。

「・・・・・・丁香ちゃんは、白蘭も、嫌い?」

 すると丁香は思案顔になっていった。

「うーん、白蘭はねえ、巧月生とは別かな。笑顔の安売りもしないし、狡猾な感じも、つくられた感じもなかった。奥深い感じ。どっちかというと私の好みだったよ」

 夕子は大いにほっとしたが、表情にだすまいとして頬に力をいれすぎて逆に顔をこわばらせてしまった。それを丁香は夕子の白蘭への嫉妬と誤解したらしく、

「でも飛び入りで、いきなりトップ3ってのはねえ」

 白蘭を批判するようにいった。もとよりこれは逆効果で、夕子の顔はほんとうにひきつった。丁香はみとがめて、

「夕ちゃん? どうしたの」

 いうとすぐ、ハッと思いあたったような顔をしていった。

「さっき大事な話があるといってたけど――その話、白蘭となんか関係あるとか?」

 さすがに親友だ。鋭いと思った。夕子はドキッとした顔になったが、うなずけず、

「ちがうよ」

 と、否定してしまった。

「・・・・・・そう」

 といったものの、丁香はいぶかしげな目をむけている。夕子は顔を隠すように扇子をゆらした。汗で顔にはりついたおくれ毛がうく。遠くで水売りの推車の轍のきしむ音がきこえた。

「――今夜も、出かけるの?」

 丁香は話題を変えた。

「う・・・・・・そのつもりだけど」

「どこに」

 といいかけて、丁香はいそいで首を横にふり、

「ごめん、きかない。――私よっぽど夕ちゃんに興味あるんだね。この三か月、夕ちゃんは毎晩どこでなにをしているのかなって想像する癖がついちゃって。秘密の恋人にでも会いにいってるのかなとか、夜間学校の先生でもしてるのかなとか。――でも、安心して。詮索する気はないから」

 そういいながらも思いきれてないのが目からわかる。告白を期待する、まぶしいような視線をあびるのに耐えきれず、夕子は思わず、

「お茶、淹れるね」

 といって立ちあがった。

「あら、めずらしい。そんなこといいだすなんて」

 丁香が驚いたとおり、夕子はいままで自分から茶をいれようとしたことなどなかった。なのにいま立ちあがるなんて私はよっぽど告白を先のばしにしたいんだな、と夕子は自嘲した。蚊帳の外にでて茶器をだしていると、

「日本茶と淹れ方ちがうけど、だいじょぶ?」

 寝台から丁香の声がとんできた。

「だいじょぶ。やり方、みたことあるから」

 アレーのところでみた、とはさすがにいわなかった。夕子はアレーが中国茶を淹れるのを何度もみている。それを思い出しながら、いれた。丁香は蚊帳ごしに心配そうにみまもっていた。どうにかひとりで淹れおえたのを寝台に運ぶと、丁香はお礼といって夕子の髪を翡翠の櫛でていねいに梳いてくれた。

「きれいな髪・・・・・・」

 しみじみと丁香はいった。

「いつまでもこうできたらいいのに」

 まるで、もうできなくなる、といっているみたいだった。夕子はまたしてもドキッとしたが、気づかない顔でいった。

「できるよ、いつでも」

「そうかな。私、ときどき不安になる。夕ちゃんと友だちでいられるのも、いまだけかもしれないと思って」

 夕子はまたしてもドキドキした。丁香ちゃんは勘が鋭い。親友だけに私が今日付けで合宿所からいなくなることを感じとっているのかもしれない。そう思ったが、夕子はうちあけるどころか、

「いまだけなんて・・・・・・」

 と、いって言葉を濁した。丁香は悲しげにいった。

「合宿は永遠にはつづかないから。はなれたら、いつかは私のことなんて忘れるよね」

「忘れるわけない。私の友情は変わらないよ」

 夕子は語気に力をこめたが、

「むりしないで。班 妤にはわかる――丁香はみすてられるの」

 丁香はいった。心からさびしそうだった。夕子の胸にあらためて驚きと感動がひろがった。みんなの嫌われ者の私が丁香ちゃんにみすてられるのをおそれるのならわかる。でも人気者の丁香ちゃんが嫌われ者の私にみすてられるのをおそれるなんて――そんなにも私のことを思っていてくれたなんて。心ゆすぶられ、いまこそすべてを告白しようという気になった。そのときだった。

「でも、しかたない」

丁香が突然櫛の動きをとめて、いった。

「私、夕ちゃんに・・・・・・隠しごとしてたから」

「え」

「ずっと秘密にしてたことがあるの」

「丁香ちゃんに・・・・・・秘密?」

 夕子は驚きを隠せなかった。自分の秘密のことで頭がいっぱいで、丁香に秘密があるとは考えもしなかった。丁香ちゃんが私に隠しごとしてたなんて。夕子は自分のことは棚にあげてショックをうけた。

「親友として失格だよね。でも今日決心がついたの。夕ちゃんに話す」

 丁香は決意した目をむけた。

「きいてくれる、夕ちゃん?」

 夕陽が後光のようにみえた。夕子は自分のしようと思っていたことを丁香に先にされることに戸惑いつつ、うなずいた。

「ありがとう」

 かわいらしいまつげをあげて丁香はいった。

「私ね、一か月前から、つきあってる人がいるの」

 なんだそんなことか。安堵とも落胆ともとれる吐息を夕子は胸中でついた。私にくらべたらたいした秘密じゃない、そう思った。だがそんな気持ちは次の瞬間ふっとんだ。

「相手は有名だから夕ちゃんも知ってると思うけど――」丁香はためらいがちにいった。

「元上海時報記者の李龍平さん」

 耳を疑った。雷がおちても夕子はこれほどの衝撃はうけなかっただろう。やっとの思いでいった。

「・・・・・・へえ、そうなんだ」

 脂汗のにじむ両手をにぎりしめ、つとめて笑顔をつくったが、声のふるえは隠せなかった。だが丁香は自分の告白で頭がいっぱいでそれには気づかないようだった。めずらしく照れた顔でいった。

「いおういおうと思ってたんだけど・・・・・・あのね、実は私も毎晩出かけてたんだ、彼に会いに」

 知らなかった。夕子はせいいっぱい平静をよそおった。

「そっか。いつから?」

「小龍が拘置所を出た日」丁香は龍平を小龍と呼んだ。

「その日私ちょうどフランス租界のカルティエ・マレにお茶を買いにいっててね、偶然会って声をかけられたの。ファイナリストだから目にとまったのもあるけど、彼、釈放されたばっかりで孤独だったせいか、私とは初対面も同然なのにいろいろお話してくれてね。それがきっかけで、そのあとも会うようになったの」

「ふうん、じゃあもう一か月近くになるの」

「三週間と三日。そのあいだ彼、中国を離れたこともあったから、実質はもうすこし短いけど」

「え、李さん中国を離れて、どっか行ってたの」

「日本に行ったみたい。くわしくはきいてないの。自分からいわないことは、なるべくきかないようにしてる。彼いますごくたいへんだから。新聞社はクビになったし、蒼刀会に監視はされるし、自宅にはいられなくなるしで」

「そうなんだ・・・・・・」

 夕子は思わず暗くなったが、丁香の顔は明るかった。

「こんな恋愛、初めて。私は彼の人間そのものにひかれてる。無職だろうがお尋ね者だろうが関係ないの。彼、すごく私を大切にしてくれる」

 顔から幸せがこぼれそうだった。夕子は目をそらしたくなるのを必死でこらえ、笑顔でいった。

「よかったね」

 胸の痛みは感じないことにした。李龍平なんてどうでもいいはずだったではないか。だいいち、いまはそれどころではない。この機会に自分の秘密を告白をしなくては。

「隠しててごめんね」

 丁香はあやまった。夕子はここぞとばかりにいった。

「気にしないで、私こそ、丁香ちゃんに隠してたことがある」

「え、そうなの?」

 今度は丁香が驚いた顔になった。夕子は動悸をはげしくしていった。

「あのね、私ね、明日ここを去るんだ」

「えっ」

 丁香は色を失った。

「・・・・・・去るって、花園を? どうして?」

「私」

いざ告白するとなると緊張で舌がこわばった。それでも夕子は思いきっていった。

「私、白蘭なの」

「え、え?」

 丁香はきょとんとなった。夕子は説明した――自分が白蘭と同一人物ということ、変身のこと。しかしやはり簡単には信じてもらえなかった。むりもない。だれがこの世で変身が可能だと思うだろう。丁香はしまいには冗談と思ったようで笑いだした。

 だが夕子はあきらめなかった。魔術師アレーとの出会いから、これまでのいきさつを懸命に語ってきかせた。それでも手ごたえがなかったので、ファッション・ショーやチャリティ・イベントの裏話など白蘭しか知らないことを語ってきかせたり、白蘭でなければもってるはずのないものを物置部屋からわざわざもってきてみせたりした。そのかいあって、やっと信じてもらえた。

「――じゃ、今日、ロールスロイスに乗ってアレーと花園にきたのも夕ちゃん?」

 丁香はきいた。

「うん」

「へええ」

 丁香はまぶしそうに夕子をみた。それから興奮した口調で白蘭の生活について矢継ぎ早に質問をあびせてきた。いちど信じると好奇心がいっきにふきでたみたいだった。

「モテるでしょ?」

「それがねえ――」

 夕子はもったいぶる。いままで秘密にしてきたことを話せる喜びがおしよせた。

「白蘭は巧さんの愛人と思われてるのか、だれもよってこないよ」

「ほんとにい? ――あ、『巧さん』といえば、私さっき巧月生の批判しちゃって、ごめんね」

「だいじょぶだいじょぶ。白蘭のことは、ほめてくれたでしょ」

「ふふ」

 丁香はほっとしたように微笑していった。

「よかった。夕ちゃんが明日去るってきいたときはどうしようかと思ったけど、私たち、これからも会えるんだね」

「そうだよ。白蘭として私は花園に入るから」

「あさってからトップ3同士になるんだね。楽しみになってきた。夕ちゃんの顔を拝めなくなるのは淋しいけど」

「江田夕子よりは白蘭といたほうが丁香ちゃんも気楽だよ。だって白蘭のほうが外見は丁香ちゃんの友だちにふさわしいんだから」

 はしゃぎかけた夕子の顔がふっと曇った。ひとりごとのようにつぶやいた。

「でも白蘭になっても安心はできないな。白蘭は千冬に恨まれてるはずだし。千冬ごときはまだいいとしても、ロレーヌがな・・・・・・」

「ロレーヌが、どうかした?」

「あの人、敵とみなした人間には容赦しなさそうでしょ。今日千冬に平手打ちしてたし・・・・・・」

 夕子がいうと丁香は一も二もなくいった。

「あれは千冬が悪いんだよ。そうさせるだけの非があったんだよ」

「でも・・・・・・」

「だって千冬だよ。あの子はなんでも教科書どおりにしかできないくせに、えらそうだから鼻につくんだよね。雑用係になったのもあたりまえだと思う」

「私も雑用係だったけど・・・・・・」

「ごめん、私はただ、夕ちゃんも白蘭も、ロレーヌに嫌われる筋合いはないってことをいいたくて。千冬とちがってロレーヌに悪いことはしてないんだから」

「うん・・・・・・でもロレーヌは、白蘭がトップ3になったってきいたとき、ひとりだけ不満の声をあげてたよね」

「でもそれだけでしょ。ルドルフ・ルイスのことで刺激しなければだいじょぶだと思う」

「え、ルドルフのことって?」

「ロレーヌはルドルフを好きってきいたことがある。パリで知り合って以来とか。ロレーヌが上海にきたのはルドルフを追いかけてきたからとも。噂だけどね」

「そうなの?」夕子は目をみひらいた。

「それだったら白蘭はまずいことしてる。ルドルフを船からつきおとしたんだから。ロレーヌに恨まれる資格じゅうぶん・・・・・・」

 丁香もチャリティ・イベントのことを思い出したようで、言葉を失った。

「しかも、もっとまずいこと思い出した」夕子は声をふるわせた。

「ルドルフは白蘭の正体を知ってる。ロレーヌに伝わってたらどうしよう・・・・・・」

「なに」丁香がびっくりしていった。

「どうしてルドルフ・ルイスが白蘭の正体を知ってるの」

「それはわかんないんだけど――」

 そういって夕子はチャリティ・イベントでルドルフとかわした会話を丁香に教えた。

「驚いたね。だれがルドルフに教えたんだろね」

「アレーの気がする。アレーは私にしたみたいに、ルドルフとなにかの契約を結んだのかも」

「アレーがどうしてルドルフと?」

「五月のファッション・ショーでそういう気になったのかな。ルドルフとやりあった末に最後には和解してたから。なんだか知らないけど、ルドルフを使うことにして、なにかの契約を結んで、そのときに仲間の私のことを教えたってことは考えられる」

 もとよりそれは夕子の思いこみだった。夕子はだいぶ思いちがいをしている。

 そもそもルドルフは白蘭の正体を知らない。「正体」のことを話すとき、ルドルフと白蘭は主語を省略した。そのせいでおたがいに勘ちがいをした。それぞれ自分の正体のことをいったにすぎないのに、おたがい相手が自分のことをいっていると勘ちがいした。ルドルフは白蘭に自分の正体が日本特務と知られてると思いこみ、白蘭はルドルフに自分の正体が江田夕子と知られていると思いこんだ。

夕子は勘ちがいをもとに憶測する。ルドルフのせいで白蘭の正体がロレーヌに伝わったかもしれない。あるいはすでに伝わっているかもしれない、と思い、おそろしくてたまらなくなった。思わずいった。

「助けて」

 すると丁香がいった。

「私がいるよ」

 優しい目をまっすぐ夕子にむけた。

「ひとりで苦しまないで。もう私にうちあけたんだから」

 夕子の手をにぎった。

「私もいっしょに苦しむ。力になる」

 温かく力強い声だった。夕子は感激でいっぱいになった。丁香はいった。

「私にまかせて。ロレーヌが白蘭に手出しできないようにしてみせるから」

「そんなこと、できるの?」

「ロレーヌのあつかい方なら、わかってるつもり。私、とりいってみるから。親友をひどい目になんてあわせない」

「え、でも、とりいるなんて。ロレーヌは丁香ちゃんの最大のライバルなのに・・・・・・」

「私のことなんてどうでもいい。夕ちゃんが困ってるんだから」

 夕子は胸がいっぱいになった。

「ありがとう・・・・・・」

 それだけいうのがやっとだった。

「お礼なんて。私はすこしでもなにかしたいだけ。だって変身するのってただでさえ、たいへんでしょう? 二人の人間を使いわけたり、みんなにばれないようにしたり。――私、すこしでも助けになりたいから、いままでなにもできなかったぶん」

「そんな、いいのに」

「夕ちゃん、私はいつでも味方だからね」丁香はまじめにいった。

「秘密を守るのはもちろんのこと、夕ちゃんを全力でお守りします」

 熱い目を夕子の目にそそいだ。夕子も丁香をみつめ返す。ふたりはしばらくみつめあったままでいた。

四つの目がきらきらと光った。

陽が沈んで暗くなった。虫のすだく声が高くなった。

 その夜、ふたりは「友情誓約書」をしたためた。一冊のノートの二ページ目に次のような文章をアルファベットで綴った。

「 私たちは以下を誓います。

 一、私たちは永遠の友情を誓います

 一、私たちはいかなるときも協力しあいます

 一、私たちはいかなるときも気持ちを共有します

 一、私たちは合宿中ほかのファイナリストとは相手の断りなく親しくしません

 一、私たちのあいだに秘密はつくりません

 以上を破った場合は、そのつど相手の与える罰に従うことを誓います

        一九三一年八月七日  蘇 丁香

                   江田夕子  」

 それぞれの名前のしたには拇印がおされた。そのページの前ページには、たがいの似顔絵が描かれた。それぞれの髪の毛が一本ずつ、相手の絵の頭にはりつけられてある。紙の上でもふたりは仲良く結ばれていた。たがいがたがいを描いたふたりの少女の絵は仲良くならんでいる。

 裏表紙には二本の露草が押し花となって貼りつけられた。横に丁香作の詩が日中両語で書きとめられてある。

 ――「露草の花さく小さき館に、われ、愛する友と住めり」。

「でも信じられないなあ」

 ノートを作り終えたあと、丁香はくつろいだ声でいった。 

「夕ちゃんが白蘭なんて。頭では信じても、なかなかねえ。実際に変身したところをみれば、ちがうとは思うけど」

「みる? 変身するところ、今度」

 夕子は勢いでいった。友情に酔っぱらったようになって気分が高揚していた。

「みられるの?」

 そうきかれ、あらためて考えると、夕子は自信のない顔になって、

「やっぱり難しいかも、さすがに変身する場面は。でも白蘭がアレーのマンションに入って江田夕子になってでてくるところならみせられるよ。でもそれじゃつまんないか」

「それでもいい、みたい」

「ほんと?」

「ほんとほんと。アレーのマンションってどこにあるの」

「フランス租界のキャセイ・マンションズだよ」

「あの、できたばっかりの? すばらしい」

 興奮すると言葉づかいがていねいになる丁香はいった。

「いつでしたら、みにいけますでしょう」

「いつかな、来週は白蘭は合宿所に入ったばっかりでバタバタするだろうから・・・・・・」

 考えた夕子はふっと目を輝かせて、

「そうだ、巧氏廟堂落成記念式典の日なんてどう? 二週間先になるけど。どうせなら記念すべき日にあわせたほうが面白いし」

「うれしいけど、忙しくない? 白蘭、パレードにでるんでしょ。夕ちゃんに変身する時間ある?」

「そうだねえ、パレードのあとはフランスクラブにいって、そのあとは廟堂前の舞台出演があるとか。でも夜には出番も終わってるはずだし、だいじょぶだよ。いっしょにキャセイに行けるよ」

「アレーもそのころには帰ってるの?」

「いや、魔術師はまだ舞台だと思う。アレーに友だちをつれてきたとばれたらたいへんだから、いないほうがむしろ好都合。変身は助手の人にやってもらえるから。その人、唯一変身の仕方を伝授されてて、アレーがいないときはいつもキャセイにいて、かわりにやってくれるんだ」

「私をつれてきたの、アレーにばれるとまずい?」

「うん、そりゃね、変身はだれにも秘密といわれてるから。でも助手なら平気。もちろん用心するに越したことはないから、丁香ちゃんには悪いけど自動車のなかで待っててもらったほうが無難かも。キャセイの入口がみえるところに自動車をとめてもらって、車窓から観察してもらったほうがいいかな。同じ入口に白蘭が入って江田夕子となってでてくるところをね」

「じゃあ私、車窓から白蘭が入ったマンションの入口みてたら、夕ちゃんがでてくるところをみられるのね」

「うんうん、江田夕子になって自動車に戻ってくるよ。旗袍は脱いで地味な洋服に着がえてるとは思うけどね」

「どうせだから着飾ってきたら? 私いちど、夕ちゃんとフランス租界を歩きたいと思ってたんだ。その日、その夢が実現できそう」

 丁香は思いつきに顔を輝かせていった。

「ねえ、せっかくだから、その晩ふたりでそのまま遊ばない?」

 夕子は戸惑った。

「江田夕子でフランス租界遊びをするのは・・・・・・ちょっと・・・・・・」

「なにも心配いらないのに。もし不安なら私のいきつけのお店に行ってもいいよ。カルティエ・フォッシュにあるナイトクラブ、そこなら個室もとれるし、気がねいらないから」

「丁香ちゃん、いきつけのクラブがあるの?」

 夕子は驚いてきいた。

「うん、まあ・・・・・・」丁香は言葉を濁したが、はりきったようすでいった。

「そこで私、お祝いするよ。いろいろ、白蘭のパレード出演とか、夕ちゃんと私の租界デビューとか。お祝いなんだから自動車も、私がチャーターするね。お金はあるから、お父さんから仕送りが届いたばっかりだから」

「そんな、いたれりつくせり・・・・・・」

「いいのいいの。――そうだ、せっかくだから私の彼も呼んでいい? 小龍を夕ちゃんに紹介しなくっちゃ」

「え・・・・・・」

「きまりきまり」

 丁香はひとりできめてしまった。


 夕子は大急ぎで物置部屋にむかった。

アレーに「今夜また白蘭になりたかったら七時半までにキャセイにくるように」といわれているのに、もう七時だ。丁香ちゃんと大事な話をして時間を忘れていた。もうあと三十分しかない。まにあわなかったらどうしよう。夜白蘭に変身しない生活なんて、いまはもう考えられなかった。来週から毎日いやでも白蘭としてすごすことになるけど、一日でも夜白蘭として遊ばないとおちつかない。花園をでたらすぐタクシーをつかまえてとばすしかない。

物置部屋に戻るのは、財布をとるためだった。ドアの前に立った白蘭はしかしあるものをみて体を凍りつかせた。

 ポストの上ぶたがあいている・・・・・・。

 ギョッとした。ポストは各室ごとに室外の壁にとりつけてあった。物置部屋も例外ではない。そこに雑用係が一日二回、郵便物を投函する。いま雑用係である千冬が自分の留守中にポストに手紙を投函したことは考えられた。だとしても、上ぶたをあけたままにするはずはなかった。ふつうは上ぶたではなく穴から手紙を投函する。上ぶたをあけるのは自分だけのはずだ。

なのに、現にこうして、あいている・・・・・・。これはいったい、どういうことか。夕子は最悪のこたえを頭にうかばせて、動悸を鳴らした。上ぶたがあいているのは、果たし合いの申し込みのしるしかもしれない、と思ったのである。ポストのなかには千冬からの果たし状が入っているのかもしれない。千冬がそんなことをする理由はひとつしか考えられなかった。

 千冬は三〇五号室(丁香の部屋)の会話を盗みぎいたのだろう。はじめは盗聴するつもりはなかったかもしれないが、配達中にドアから丁香ちゃんの声にくわえて私の声がきこえ、思わぬ告白をしているのが耳に入った。そこで廊下に人がいないのをいいことにドアに耳をあて、気配を殺して一部始終をききとった。そして白蘭の正体が江田夕子だと知った。

それゆえ千冬は、私に復讐しようときめた。「善」は急げ、ということで手近の紙とペンでつくった果たし状を私のポストに投函した。ふつうの手紙とのちがいをあらわすために、上ぶたをあけておいた――。

 夕子はポストから目を放せなくなった。時間がないことも忘れて、ふるえる指を上からポストにつっこんだ。

 案の定、手ごたえがあった。なかにあったのは封筒ではなく、葉書だった。

 差出人の名をみたとたん、夕子は真っ赤になった。怒ったためではない。差出人は小山内千冬ではなかった。夕子はその名前に釘づけになった。額に汗がういた。蚊がとまった。文字の上に汗がおちそうになって、ようやく我に返った。汗と蚊をふりはらい、逃げるように部屋に入った。 

差出人は李龍平だった。

 なぜ、いまごろ・・・・・・?

 時計が時を刻む音も、階下の笑い声も、虫のすだく声も、耳に入らなかった。夕子は文面を夢中で読んだ。日本語でこう書かれてあった。

「手紙、一生懸命書いてくれてありがとう。

 友だちができて性格だいぶ変わったんじゃないの? 怪しいやつだとは思ってたけど。

 話は変わるけど、新新街(※龍平が当時住んでいた里弄)はとてもおもしろい。

 午前一時に湯園売り(タンユアン※一種の団子、ふつうはあんが入っている。煮汁と一緒に食べる)の声がひびきわたる。おかげで夜食にも困らない。日中も快適だ。真昼間にパンツ一丁で床屋や洋服屋にいってもだれも変な顔をしない。

 とてもいいところだ。共同厨房は女の子が多いし、隣の住人は新進映画監督だし、鉛筆がこすれて葉書は汚くなるし。

 映画といえば、ディートリッヒ出演最新作の試写会(七月七日火曜日)のチケットが二枚手に入ったから、みたければ一枚どうぞ。事前に電話(番号二二〇六〇まで)くれてもいいけど、当日でも渡せるから。

[英文について]:そうだね、主語は『We』の方がよかったけど。

 ではまた、七月七日あえたらあおう。

                    元気なやつより」

 「七月七日」の文字に夕子の目は釘づけになった。

 いまさらのように思う――この葉書はなぜいまごろ届いたのか?

 今日は八月七日だ。

私が手紙をだしたのは五月十四日、三か月近く前だ。そう思って葉書の消印をみた夕子は目をみひらいた。消印は五月十六日だった。あの人は手紙が届いてすぐ返事をだしていたのだ。あの人は私を無視してはいなかったのだ。

それではなぜこの葉書はこんなに遅れたのか?

 郵便局の手ちがいだろうか。そうは思えない。花園にはとっくに届いていた気がする。だれかが意地悪して隠していたような気がする。千冬だろうか。

 でも五月当時の雑用係は私だった。花園にまとめて届く郵便物に最初にふれるのは、いつも私だった。だけどそのときこの葉書はなかった。となると、やっぱりだれかが自分より先に郵便物に手をつけて隠したとしか考えられない。

 いったいだれが・・・・・・?

 葉書が遅配なく花園に届いていたと仮定すると、届いたのは消印の五月十六日よりあと、十七日ごろだろう。というとチャリティ・イベントの翌日だ。そのころ私にいやがらせした人間がいる――。だれだろう、千冬か、王結か、馬秋秋か。候補はいくらでもいてしぼりきれない。とにかくその人間さえ悪心をおこさなければ、私はこの葉書を五月にちゃんとうけとって、読めていたのだ。そしたら七月七日にあの人と映画をみにいっていたかもしれない。

そう思うと悔しくて「七月七日あえたらあおう」という文字から目を離せなかった。でもみているうちに、だんだん自信がなくなった。

龍平さんは必ずしも私を誘っていたわけではないかもしれない。

この文は、私を映画に誘っているようで、誘っていないようでもある。よくみると、字は適当にササッと書いた感じで、特別な思いがこめられているようではない。「みたければ一枚どうぞ」というくだりなんかは、義務的に書いたようにもみえる。

あの人はべつに私を映画に誘ったのではないのかもしれない。その証拠に、どこにもはっきり「映画をいっしょにみにいこう」とは書いていない。「チケットが二枚手に入ったから、みたければ一枚どうぞ」と書いているだけだ。

そう考えると、ちょっとさびしい。葉書が二か月遅れて届いただけでもかなしいのに、あの人が自分に気がなかったと思うとやりきれない気がした。自尊心のためにも、あのころのあの人は自分を好きだったと思いたかった。夕子は李龍平が自分を思っていた証拠を我を忘れて葉書のなかに探した。そのかいあって、いくつかそれらしいところを発見した。

 第一に、鉛筆で書いてあること。私が手紙を書くのに彼のくれた万年筆を使ったように、彼も私のさわった彼のあの短い鉛筆で葉書を書いたと考えられる。

第二に、私の英文にたいする返事。私は手紙に「I hope to hear that song again next time.(今度またあの曲をきけたらいいです。)」と書いた。それにたいして彼は「主語は『We』の方がよかった」と返事している。主語をそのように変えると、「私たちは今度またあの曲をきけたらいいと思っている」となる。龍平さんは、自分も楽しみにしている、と私に伝えたかったのではないか。もっと深読みすれば、曲はむしろどうでもよくて、私と会いたいということを伝えたかったとも考えられる。

でもいま考えたことが真実という保証はどこにもない。「性格だいぶ変わった」とか「怪しいやつ」という言葉をみると、私にぜんぜん気がないようにも思える。好きな人にそんなことを書くだろうか。新新街の話題もしかり。彼の文の半分は新新街自慢に費やされている。ほかに書きたいことがなかったのかもしれない。私のことをほんとに好きだったら、「とてもいいところだ。共同厨房は女の子が多い」なんて書かないだろう。よっぽどいい女の子がいたのかな・・・・・・。どっちにしろあの人はいま丁香ちゃんとつきあっている。今夜丁香ちゃんが私に告白したばかりではないか、「彼、すごく私を大切にしてくれる」と。

 いまの龍平さんは丁香ちゃんを愛している。

私はもう李龍平とは関係ない――夕子はそう自分にいいきかせる。それでも心の底には思いきれないものがあった。

葉書が二か月も遅れて自分のもとに届いたと思うと、やはり無念だった。

 七月七日の晩、私はなにも知らなかった。

その晩、私はなにをしていたか。思い出して夕子は愕然とした。

ちょうどその晩、私は白蘭として、巧月生たちと李龍平を逮捕させる方法について話しあっていた。あの人にいかにして罪をきせるかを考え、私は思いついたアイデアを巧月生たちに伝えた。アイデアは採用された。翌日、彼は逮捕され、拘置所にひっぱられた。一週間後に釈放はされたが、あの人は職を失い、家を失った。家は正確には失っていないが、蒼刀会に監視され、もとのようには暮らせなくなった。

あの人が私を待っていたかもしれない晩、私はあの人から生活を奪う行動をとっていたのだ。

汽笛の音がかすかにきこえ、はるかに遠のいていく。

 この葉書を書いたとき、彼は「元気なやつ」だった。そのころの彼は、もういない。

 いなくさせたのは、ほかならない私だ・・・・・・。


 その日の午後十一時すぎ、バンドにたつ平和の女神像は、真っ黒い黄浦江にむけて二枚の羽をひろげ、しめった夜風にふかれながら、はるか下の通りをみおろしていた。

 塔の足もとでは老いた白系ロシア人がバイオリンでチャイコフスキーを奏で、道ゆく人に恵みを乞うている。その隣には二つの人影。眼光鋭い男二人が、もの悲しい曲に心うたれるふうもなくスーツを着た肩をいからせていた。

 と、そこへ一人の青年があらわれた。男二人はこっそりあとをつけだした。

青年は共同租界を越え、フランス租界の狭い路地へと折れていく。暗くてよくみえないが、怪しいビルがたちならんでいる。どれも煉瓦造りの洋館なのに表通りとはちがい薄汚れているようだ。なかでもとりわけ汚いビルの表階段に、青年は足をかけた。男二人は遅れじとそのビルへかけよった。

 地下へとつながる階段の端々には、若い西洋人がだらしなく腰かけていた。旗袍をきた白人女性、腕に刺青のあるロシア人水兵、いずれも死んだように目をつむり表情がない。龍平はよけながら下り、地下の扉に手をかけた。すきまから白い煙がもれ、阿片の甘い香りがただよってくる。そのときだった。

青年はうしろから口をおさえられ、縄で両手を縛りあげられた。もがこうとしたときには強力な力で担ぎあげられていた。そのまま地上に運びあげられ、路地の自動車のなかに放りこまれた。二人の男の影がみえたが、気づいたらなにもみえなくなっていた。目隠しをされていた。青年は李龍平である。龍平は自動車でいずこともなく連れ去られていった。

 ふたたび自動車のドアがひらく音がし、外にだされ、運びこまれたのは、どうやらどこかの邸の一室らしい雰囲気があった。

 膝をついて座らされたのは、ひんやり冷たいタイル。窓が開いているのか、風がある。両脇に男二人。うしろにも人がいる気配を感じたとき、目隠しをはずされた。

 最初に視界にとびこんだのは派手な模様のタイル。タイルはいくつもの黄色い電灯の光を反射していた。その果てには黒に金をちらした屏風。前には紫檀の椅子一脚。牡丹の柄の花瓶にはさまれている。だれも座っていない。無人の椅子に黄金色の扇風機がむなしく風を送っている。

 どうやら主人待ちらしい。まだみぬ主人がだれかは、たやすく見当がついた。だが主人が自分を、このような絢爛たる客間にとおした意図を、龍平はつかみかねた。主人は手下を使って強引に拉致したくせに、なぜ穴倉のような場所にほうりこまず、立派な客間で面会しようと考えたのか?

そのときドアがひらいた。両脇の男がうやうやしく頭を下げた。

 主人の登場である。

 龍平の体にはおのずと緊張が走った。

 あらわれたのは予想どおり、巧月生。

真夏というのに長袍をきっちりきこんでいる。骨と皮ばかりの体で暑さを感じにくいのか、涼しげに着席し、悠々と両腕をひじかけにもたれさせた。とみえたが、その顔は龍平をみるなり、ひきつった。それを自分への敵意のあらわれとみなした龍平は、俄然全身を敵意で燃えあがらせ、先手をきった。

「人をつれてきてその顔はないですよ、会長。こんな夜中に何の用で呼んだんです。もしかして例の件でお礼をいってほしかったとか? だったら早くいってくださいよ」

 そういうと、平蜘蛛のように平伏して、

「その節はどうも、拘置所からだしてくださってありがとうございました。おかげさまで首をはねられずにすみました」

 かたちだけは丁寧に、人をくった調子でいった。さらに、

「これでいいですか。じゃ、帰らしてもらいますね」

 といって、いまにも立ちあがりそうな気配をみせた。

「待ちなさい」

 巧がいった。おさえつけるような声だった。龍平はニヤリと笑って、

「あらあら、怖い声だしちゃって。さすがミスター・ヤヌス、正義の味方する一方で裏世界を支配するお方、俺を拘置所から釈放してくれた一方、俺を拘置所に送りこんだご本人でもあるお方」

 切れ長の目に皮肉の色を光らせた。たちまち周囲の男たちに銃口をむけられたが、かまわず、

「巧さんも大変ですよねえ。蒋介石の期待にこたえなきゃいけないんですからねえ」

 四方の撃鉄がいっせいにカチリと鳴った。龍平は顔色ひとつ変えず、

「蒋介石にききだせって、たのまれてるんでしょ。俺が拘置所をでたあと、上海を離れて十日間、東京と北京でなにを調べてきたか、知りたがってるんですよね。だったらちょうどいいんで蒋介石にいっといてくださいよ。『おたくが母を殺したわけがわかった。おたくが二十五年前東京でなにをしたか調べがついた』ってね」

「黙らせますか」

 手下のひとりが巧にいった。しかし巧は片手を大儀そうにふり、目をドアにむけた。意味をよみとった手下たちは一瞬戸惑いをみせたが、銃口を下げて退室していった。

客室に巧月生と龍平のふたりきりになった。

「なにか誤解しておられるようですな」

 巧がいった。穏やかな語調だった。龍平は嘲笑った。

「ハハ、誤解? 俺は東京で二十五年前になにがあったかを調べてきたんですよ。いまさらなにを誤解するっていうんです」

 龍平は拘置所で考えたとおり、釈放されるなり東京に行き、二十五年前のことを調べてきた。東京では富士見楼など中国革命同盟会に関連する場所や人をあたり、ききこみで足りないぶんは新聞社や警察署に勤めている自分の留学時代の友人をたよった。

 そのあとは北京に行き、裕如莉について調べてきた。麗生のいっていた、日中にねらわれた宝とはなにかを探るのが最大の目的だった。一九〇六年に頤和園または紫禁城から盗まれた宝がないか――元・上海時報北京支局記者葉俊にも協力をあおぎ、重大な手がかりを得ることができた。

「なにしろ四半世紀も前のことですからね、人の記憶を掘りおこすのはなかなか骨が折れました。でもその甲斐がありましたよ。蒋介石はほんと悪い人ですねえ」

 なにをいわれても、顔にださない巧月生がこのときはちがった。最初に龍平をみたときのように――いや、それ以上に顔をひきつらせた。それを龍平は楽しむようにいった。

「蒋介石は野心のためだったら、なんでもやる人ですね。自分の罪を俺の母親になすりつけたり、中国の敵・小山内駿吉と手をにぎったり――」

「慎みなさい」巧がさえぎった。巧月生らしくないヒステリックな声だった。

「蒋主席はそのようなお方では、ありません。あなたは誤解している。不完全な情報の断片をよせあつめて、自分勝手なイメージをつくりあげている」

「慎んだほうがいいのはそっちですよ。こいつを俺が持ってるのに気づきませんでした?」

 龍平は自分の靴から短銃をぬきとり、巧につきつけた。

「蒋介石は母をねらった。おたくの手下を使って。――俺は許さない」

「・・・・・・自分がしていることをわかってるのか」

「覚悟ならできてますよ。この際だからいっておきましょう。俺、上海に戻ってくるときに決めたんですよ。復讐するってね」

「復讐・・・・・・」

 巧の声はマフィアらしくもなく、なぜかふるえをおびていた。しかし龍平は気づかずにいった。

「母を苦しめ、俺を苦しめた人間たちに復讐する計画をたてたんです。俺には失うものはなにもないんでね。やるからにはひとりひとり大々的にやるつもりですよ。ひとりひとりってだれだと思います?」

「・・・・・・」

「わかるでしょう。第一に蒋介石。次に巧さん、おたくですよ。おたくは蒋介石の犬ですからね」

 龍平はいよいよ銃口を近づける。

 刹那、巧の目があやしく光った。マフィアの本性をついにあらわすかと思いきや、巧は両手をにぎりあわせ、哀願するようにいった。

「どうか・・・・・・復讐しようなどとは思わないでください。お願いです・・・・・・たのみます」

 龍平は耳を疑い、目を疑った。巧の目には光るものがもりあがっていた。涙である。龍平は驚きを隠していった。

「泣き落としとは、意外ですね。その手にはのりませんよ」

「きいて」

 巧は別人のような口調でいった。

「復讐なんか無理、あなたが殺されるだけ。命をむだにしないで」

 まるで女の口調だ。別人どころか、もはや男とも思えない。龍平はぞっとしたが、あえて軽く返した。

「あらら、どういった風の吹きまわしで。巧さんが俺の命の心配をしてくれるとは」

「復讐はやめて」

 巧はくりかえす。悪魔か猿人を思わせる容貌の男が、感情をむきだしにして首を横にふっている。両手はにぎりあわされ、両目はうるんでいる。涙が、とがった頬をつたいおちていた。これはいったいどういうことなのか。まったくぶきみだ。罠なのか?

「なんなんですか」

 龍平は思わずあとじさりした。そのときだった。

「勝手なまねはさせないよ」

 だれかがそういって入ってきた。龍平は目をむいた。魔術師アレーだった。えびす様のように腕まくりしている。ただし両手にさげているのは釣竿でも鯛でもない。手にあるのは三重箱と短銃だった。短銃は龍平のを奪いとったのである。アレーはいつのまにか龍平の背後にいて、いった。

「あずかったからね」

「おたく、なんの権利があって・・・・・・」

「ごちゃごちゃいわないの。いいもの持ってきたからさ。失礼、通らせてもらうよ」

 あっけにとられている龍平を尻目に、アレーは巧に目くばせしてドアに鍵をかけ、左手にさげていた紫檀ぬりの三重箱を卓子におくと、奇妙な微笑をたたえ、

「ほら、中身みたくないの?」

 龍平を手招きした。

「撃たないよ。あなたを死なせるわけにはいかないんだからさ」

 意図を疑いつつも龍平は近よった。するとアレーは三重箱の最下段の引き出しをあけた。中身をみたとたん龍平は瞳孔をひろげた。

「これは・・・・・・」

 あまりの衝撃であとの言葉がつづかない。引き出しに入っていたのは、ふたつの茶壷だった。ただの茶壷ではない。ふたには、ともに金の龍がある。磨きぬかれ、微光を放っているかと思われるばかりにきらめいている。

「わかったかな」

 アレーは龍平の顔を眺めてニヤニヤした。龍平はばかのように茶壷を眺め、いった。

「これは、ひょっとして三霊壷(サンリンフー)・・・・・・」

 三霊壷とは、龍平が北京ではじめて耳にした宝の名だった。

龍平は四日前まで北京にいた。日中がねらう財宝とはなにかを探るためである。その宝は、母李花齢が読書室リラダンに保管していたという。ために母は殺され、リラダンは爆破されたとされる。

事件の真相をつきとめるには、宝の実体を知る必要があった。

手がかりは、母が娘時代に北京で清朝の女官をしていたかもしれないということである。母の前身といわれる裕如莉は、北京の頤和園につとめていた。頤和園にはかつて西太后の所有する財宝類が保管されていた。西太后の財宝といえば相当のものだ。母がもっていた財宝とはそれかもしれない、と龍平は考えた。西太后がプレゼントしたということは考えられないが、母が盗んだ可能性はある。自分の母親がそんな卑劣な行為を働いたとは思いたくないが、それがいちばんありそうなことだった。

裕如莉が北京をでた一九〇六年に頤和園から盗まれた宝があるかどうか、龍平はまず調べることにした。もと同僚で友人の葉俊が協力してくれた。この男は龍平より早く自分から会社を辞めている。上海時報北京支局に配属になってまもなく記者稼業がいやになったとかで、まだ二十代半ばなのにあっさりやめ、小さな骨董屋をひらき、気ままに暮らしている。

この心強い友人の協力のおかげで、当時盗まれた宝に三霊壷なるものがあることが判明した。情報提供者は清朝の貴重品目録を作成しているある学者である。葉俊がつてをたよって会い、ききだしてくれた。古びた冊子様のものまで借りてきてくれて、その日、葉俊は龍平にこういった。――

「これがその資料だ。三霊壷のことが書かれてある」

 北京の骨董屋の二階で葉俊は鼻息荒く冊子をひらいた。客はひとりもいなかった。虫食いのあとのある、びっちりと筆の文字で埋まった書に、熱い息がかかった。

「これによると、三霊壷とは三つの茶壷の総称で、二百年前に完成したらしい。一七三一年、清朝の第五代皇帝・雍正帝がある特別な目的をもって、極秘につくらせたものという。雍正帝が崩御した一七三五年、副葬品のなかに三霊壷なるものがまじっていることを知る者はほとんどいなかった、次代皇帝の息子でさえその存在を知らなかった。それがどうしたきっかけか十年もしないうちに宮中の何者かの手で掘りだされ、以後宮城の人間の手から手へと渡って百三十年後には西太后の手におさまっていたという」

 葉俊は興奮をあらわにいった。

「それが西太后の手から盗まれたのが、一九〇六年だ」

「盗んだのは、だれ?」龍平は動悸を鳴らしてきいた。

「はっきりとは、わかってない。でも学者がいうには頤和園で女官をしていた裕如莉があやしいらしい」

「やっぱりそうか。裕如莉が三霊壷を盗んだとして、かつ裕如莉が李花齢の前身だとすると、うちの母親がもってた宝ってのは三霊壷だってことになる。三霊壷・・・・・・それってそんなすごい宝なのか?」

「ああ。雍正帝が特別な目的をもって極秘につくらせたというぐらいだからな」

「特別な目的?」

「ここをみろ。雍正帝が三霊壷完成時、記したという文がある」

 葉俊はその冊子を数ページめくってみせた。

「それがこれだ」

 以下のような文である――『余の死後、三霊壷は余の棺の下に安置するべし。されば余の遺体は完成から満二百年目にして甦るであろう。三霊壷は満二百年目にして霊験をあらわすからである』。

「雍正帝の目的は、二百年後の復活と霊験だった」葉俊が解説した。

「雍正帝は自分の死後、遺体の下に三霊壷を寝かせて二百年後に甦ろうとした。三霊壷は三つの霊の壷と書く。『霊』がそなわってこそ真の完成品となる、というわけだ」

「甦る? それが目的?」龍平は鼻で笑った。

「それに霊験ってなんだよ」

「霊験についてはここに書いてある」

 葉俊は別人のように神がかった目をし、書のべつの文章を指した。

「『満二百年目、三つの茶壷は三つあわせて六神通を発揮するであろう。それとは別におのおの個々に特殊な力を発揮するであろう』」

「六神通? それってあの、六つの超人的な能力のことか? 自分の思う場所に自由自在に出現できる神足通だとか、他人の心をすべて読めるという他心通だとかの?」

 龍平はばかにしたように笑った。しかし内心は笑ってもいなかった。三霊壷に特殊な力があとするなら日中がねらうのもむりはない、とどこかで納得してている自分がいた。そんな龍平の心の変化をみすかしたような目をして葉俊はいった。

「そうだ。神足通、天眼通、天耳通、宿命通、他心通、漏尽通、あわせて六神通。それが三霊壷の三つの茶壷でいれた茶を混ぜてのむと使えるようになるというんだ」

「封建時代の皇帝の考えだした夢物語じゃないのか?」

 龍平の抵抗を葉俊は無視して、

「条件をいくつか満たせば、必ず六神通を発揮できるとある。その条件がまたけっこうクセモノなんだけどな」

「どんな条件だ」

「まず一つ目は、二十歳前後の娘であること。それ以外の人間はだれが飲んでもだめらしい」

「なんだそれ、ふざけてるな。六神通を発揮できるのは二十歳前後の娘だけって」

「俺も思った。雍正帝はなにを考えてこんなふうにしたのか。こんな条件があったら二百年の眠りからさめても自分が六神通を発揮することはかなわないだろうに。もっとも独裁皇帝のことだから、若い娘を操作するぐらいわけないことと考え、二百年後の娘と接する楽しみを残すためにこんな条件をつくったのかもしれないがな」

 龍平は失笑苦笑をうかべ、

「ほかには、どんな条件がある」

「三つの茶壷それぞれでいれた茶をひとつの茶杯で混合して飲むこと。茶葉は君山銀針(黄茶の一種)に限ること」

「さっきのよりふつうだな」

「最後の条件が重要だ。それはな――三霊壷完成時から二百年が経っていること。それ以前に茶をいれて飲んでも効き目はないとある」

「ってことは・・・・・・」

 三霊壷完成は一七三一年。それから二百年というと今年(一九三一年)だ。龍平は笑えなくなった。

「三霊壷の茶壷が三つそろってれば、六神通はもう発揮できるってことか? それにしては雍正帝が甦ってる気配はないな」

 龍平はかろうじて皮肉をいった。葉俊は軽く笑って、

「いや、雍正帝は甦っていないだろう。なぜなら『三霊壷は余の棺の下に安置するべし』とあるように甦るには三霊壷を二百年間ずっと遺体のそばに安置しておく必要があった。だが三霊壷は十年もたたないうちに宮中の何者かによって墓の外にもちだされてしまったからな」

「それじゃ六神通だって発揮できるかわかったもんじゃないな」

「いや。三霊壷はそれ自体で時の経過とともに力をもつことができるらしい」

「じゃ六神通は可能なのか?」

「おそらく。今日は八月三日でもう二百年目をすぎてるからな。実は二百年目というのは正確にいうと一九三一年の三月三十日だそうだ」

「・・・・・・それって、リラダン事件の日じゃないか」

「そうなんだ」

 葉俊は気まずそうにうなずいた。龍平はあえて軽い口調でひきとった。

「リラダンが三十日にねらわれたわけだ」

 もとより龍平は内心では重くうけとめた。リラダンにあった宝というのは三霊壷でほぼまちがいないだろう、と考えた。

「まあ霊験やらはともかく、三霊壷がこの世に存在するのは事実だよ」葉俊がいった。

「どんな外観かはここに描いてある」

 めくったページには、三つの茶壷の絵が描かれてあった。

「三つの茶壷の共通点は、表面が鳶色なのと、ひっくりかえすと底に鳶の絵が彫られてあり、蓋の把っ手が龍のかたちになっていること。ちがいは、茶壷の注ぎ口と把っ手。それぞれべつの動物のかたちに彫ってある」

 絵をみると葉俊のいうとおり、それぞれ狐、麒麟、鳳凰のかたちになっている。注ぎ口と把っ手が、それぞれの動物の首と尾のかたちに彫られてあるらしい。それぞれ動物のかたちにあわせて、狐仙茶壷、麒麟茶壷、鳳凰茶壷と名づけられている。――

「これは・・・・・・三霊壷」

 龍平は嘆息をもらした。三重箱の引き出しにあるふたつの茶壷は、まぎれもなく冊子でみた三霊壷の特徴をそなえていた。

アレーはニヤニヤ笑って、

「わかったかな」

 そういうと、ふたつの茶壷をひっくりかえし、底をみせた。たしかに鳶の絵が彫られてあった。鳶が岩に立つ図――三霊壷の印だ。

「これぞ三霊壷」アレーはいった。「三つそろうと六神通を発揮する。権力者たちがのどから手がでるほどほしがってるアレですよ」

「でも、ふたつしかない――」

 龍平の言葉をさえぎってアレーはいった。

「このふたつが、どんな力をもってるか、あなた知ってる?」

「・・・・・・」

 龍平は知らなかった。

「一器目と二器目のちがいは、わかるよね?」

 それはみればわかる。ちがうのは注ぎ口と把っ手だ。ひとつは狐、ひとつは麒麟の首と尾をかたどっている。そう龍平が思ったとたん、アレーが心を読んだようにいった。

「みた目のちがいぐらい、だれだってわかるよ。僕がきいてるのは、ふたつの能力のちがい。三霊壷は三つそろえば六神通を発揮するけど、単体でもそれぞれ特別な力を発揮するんですよ。知らなかった?」

 アレーは知識を惜しげもなく、むしろ自慢げに披露した。

「左の狐仙茶壷、これでいれた茶を飲むと変身ができる。右の麒麟茶壷、これには話したいと思う言語を話せるようにする力がある」

「なんだかすごいですね」龍平は自分の無知と動揺をさとられまいとして茶化すようにいった。

「さすが魔術師アレーさん、このふたつの茶壷がなんだか魔法の道具にみえてきましたよ」

「これは魔術とは別物。この茶壷の実力を御覧にいれようか。おったまげるよ」

 そういうとアレーは舌をコロッと鳴らし、毛むくじゃらの指で麒麟茶壷の金の蓋をつまみあげた。そして茶壷のなかに茶葉をおとし、用意の熱湯をみごとな弧を描いてそそぎいれた。さらに葉がふくらむのを待って茶壷の腹をなでて、なにやら瞑想。湯に茶のエキスがしみこんだころになると一意専心、茶壷から茶杯へ熱々の液体を注ぎいれた。茶杯は黄金色の液体でみたされた。それをあっけにとられている龍平にさしだしていった。

「ほら、のんでみな」

 小さな茶杯が、不気味な微笑をたたえるアレーの手もとでホクホクと白い湯気をたてている。香りはふつうの鉄観音と同じである。龍平は喉も渇いていたところ、ヤケになって茶杯の液体をぐっとひといきにのみほした。するとアレーは新聞をつきだしていった。

「よんでごらん」

 みると、フランス語新聞の夕刊だ。龍平はフランス語はわからない。なのにそれが、すらすらと読めた。

「没落の悲運上海の英国系百貨店、ドービー公司廃業、其他二、三も近く閉店云々・・・・・・」

「どう、読めるだろ? 茶の効果だよ。麒麟茶壷でいれた茶一杯のめば、効果は十二時間持続する」

 鼻をうごめかすアレーに龍平はいった。

「これはいったいどういうわけです。俺にここまでぶちまけるわけは。そもそもアレーさん、おたくがなぜ三霊壷の茶壷をふたつも持ってるのか、そのわけをきかせてもらいましょうか」

 龍平は新聞を投げすてた。

「前世からの因縁かな」

アレーはおどけたようにいった。龍平はにらみつけていった。

「いいたくないんなら俺がいいましょうか。アレーさん、おたくはこのふたつの茶壷は母の店から、読書室リラダンから盗んだじゃないですか?」

「僕は盗んでいない」アレーはいった。

「あずかったんだ、花齢さんから」

 龍平は一笑にふした。

「冗談でしょう」

「うそではない。ほんとうだ」まじめな口調だった。アレーの顔からは笑いが消えていた。

「話せばわかる――僕と花齢さんのあいだになにがあったか」

 ききずてならない言葉に龍平は顔色を変えた。

「どういうことですか? うちの母親がなんですか」

「龍平くん、私は君にいわなくてはならない」

 アレーは青白い顔をしていった。

「魔術師アレーは仮の姿だ。私はほんとうは別の人間だ」

「いったいなにを・・・・・・」

「私はいま魔術師アレーに変身している。この、狐仙茶壷の力で肉体的に変身している」

 アレーは思いきったようにいった。

「これからもとの姿に戻ってみせよう」

「・・・・・・」

 アレーは上の引き出しをひいた。なかには白い茶葉があった。

「これは茶壷の力を無効にするのに必要な茶葉――白毫銀針だ。茶壷の力を有効にしたいときは、これではなく黄色い茶葉――君山銀針でいれる必要がある。変身後十二時間たてば自動的に変身はとけるのだが、途中で戻りたいときはこの白毫銀針でいれた茶を飲むことになっている」

 アレーは白毫銀針を狐仙茶壷にいれた。湯をそそいだ。時間をかけていれた。ひといきにのみほした。

 すると、なんということか――。

ありうべからざる不可解な現象がおこったのである。

 龍平は度肝をぬかれた。

アレーの顔が、変化している・・・・・・。

こんなことがありえるのか――皮膚が勝手に動いている。粘土細工のようにある部分はひろがり、ある部分はちぢんで、あぐら鼻はすじのとおった鼻に、ぶあつい唇はうすく、かたちを変えている。

 いや、動いているのは皮膚だけではない、体内も――骨や内臓までもが粘土のように自在に伸縮している。

 せまい額はひいで、丸い顎はすっとひきしまり――頭部の骨格はかたちよくととのっていく。

 体型も同様、手足が長くなり、腹がひっこみ、小肥りの短躯が長身痩躯に変化した。

 気づいたら、アレーはまったく別の人間に姿を変えていた。

「・・・・・・こんなことが・・・・・・」

 龍平はさっきまでアレーの立っていた場所を穴のあくほどみつめた。

 そこにはアレーの服をきた、まったくべつの人間が立っていた。

年はアレーと同じ四十代半ばだが、体型はすらりとして腹もアレーのようにでていなく、しまっている。ズボンのベルトはしめなおさなければ、ずりおちていただろう。顔は随所に小じわが刻まれているが、アレーとは正反対にととのって彫が深い。その顔に、龍平はみおぼえがあるような気がした。それがだれだかわかって急いで打ち消した。ありえない・・・・・・。

「これが、私のほんとうの姿だ」

 アレーは――いや、見知らぬ中年男はいった。声まで別人だった。

「だれだか、わからないか?」

 男は不安そうにきいた。龍平が首をふると、

「そうか、わからないか・・・・・・」男はさびしそうにいった。

「吉永義一だよ」

 龍平は電撃をうけたようになった。胸中で叫んだ――吉永義一だと!? 吉永義一、その名をどうして忘れよう。半年前、母の新恋人と噂になった男ではないか。しかも二十五年前の一九〇六年、東京にいたといわれる、中国革命同盟会の日本人会員で会を裏切ったとされた男だ。

『乙報』二月八日付けのあの記事の内容を龍平はふたたび思い出した。「李花齢、衝撃の過去」と題するその記事には、龍平がこの前拘置所で思い出したほかにも、以下のようなつづきがあったのである。

「――裕如莉は日本で清朝スパイとしての義務を果たしたあと、すぐには帰国しなかった。

 途中で香港によった。上流社会のパーティーにかさねて出席するなど自由を謳歌した。遊びほうけるうちに宮中に戻る気をすっかりなくした裕如莉はジョン・ホワイト在香港米領事(当時)の子を宿したのをいいことにそのまま香港に滞在した。

 帰国したのは、西太后が他界した一年後である。

一九〇九年、裕如莉は李花齢と名を変えて帰国した。北京にはいかず上海に入った。以降の歩みはわれわれも知っているとおりである。李花齢は男性遍歴を重ねた。いまは実業家ウィリアム・ハルトン氏と同居している。

だがわれわれはこのたびあらたなスキャンダルをつかんだ。

李花齢はウィリアム・ハルトンという愛人がありながら浮気をしている。相手は李花齢と同い年で四十四歳、独身で名を呉建武いう。例によって裕福な男性かと思いきや、意外や意外、市井の郵便集配員という。しかも驚いたことに呉建武は偽名だという。

呉建武の本名はなんと吉永義一という。 吉永義一は前述した、中国革命同盟会会員だった元・青年だ。吉永義一は二十五年前、革命同盟会の活動を密告したと疑わて以来、東京にいづらくなったものか、陸軍士官学校を無断退学し、わが国にわたっていた。

それから二十五年、吉永義一はどう生きてきたか?

残念ながら、ほめられた内容ではない。最初の二十年間は満蒙地方でフリーの諜報員として日本軍のために働いていた。

そのあと一九二八年ごろから日本軍と国民党の二重スパイとして働きはじめた。あの済南事件では革命同盟会で蒋介石主席と顔なじみであったのをいいことに親中派をよそおってわが国民党に従軍、わが軍をだまし敗退させた。以後は国民党に出入り禁止となったが、日本軍でも同様の目にあっている。この男は日本軍にたいしても裏切り行為を働いていたのである。その卑劣な性質があだとなり、以後吉永は偽名を名乗って生活するしかなくなったというわけだ。

現在、吉永義一は仮名呉建武をなのって上海に潜伏、表むきは郵便集配員として働いている。しかしその裏では李花齢と逢瀬を重ねている。李花齢もまた偽名を使う女である。ふたりの過去に人にいえない秘密がある可能性は否定できない。現在のふたりがなにごとかを画策している可能性もまた否定できない」――。

いま龍平の目の前に立っている男は吉永義一と名のった。龍平はショックと動揺を隠すためにピエロの仮面をはりつけ、いった。

「いやあ、おたくが吉永義一さんですか。どうもどうも、はじめまして李龍平です」

 記者時代のように口が勝手に動いた。

「いや、おたくには一度うかがいたいと思ってたんですよ。日本と中国の二重スパイをしてたのは、ほんとうか。母に近づいた理由はなんだったのか」

「これには深いわけがある」

 吉永はさえぎるようにいった。

「深いわけですか。なるほど、三霊壷が目的だったということですね。母に近づいたのは、これらふたつの茶壷を盗むためだったんですね?」

「いや」吉永はかぶりをふっていった。

「さっきもいったとおり、僕たちは盗んではいない。あずかったんだ」

「ハッハ、語るにおちるですよ。『僕たち』というと、おたくと巧さんのことですよね。『あずかった』というのは蒋介石にたのまれた、ということでよろしいですね」

 巧さんといえば、巧月生はどうしているのか。アレーがきてからというもの、いちども声をだしていない。

 みると、さっきみたときと同じ姿勢のままでいる。椅子に座っている。顔は茫洋としていて、なにを考えているかわからないが、アレー(いまは吉永)の行動に口をはさまないところをみると、共犯にちがいない。

「しかしわからないのは、俺に秘密をばらした意図ですよ。いったい、なにをたくらんでるんですか」

 吉永義一はふっとさびしげな顔になって、

「わからないのか? 僕がなぜ君に秘密をうちあけるか、ほんとうにわからないのか?」

 龍平の目をのぞきこむようにみた。 瞬間龍平はあるこたえを頭にうかばせ、ぞっとした。打ち消すために、あわててかぶりをふった。

「いいえ、わかりません」

 吉永はなお龍平の目から目を離さず、

「さっきもいったとおり、魔術師アレーは君のお母さんとは無関係だ。だが吉永義一とは無関係ではない。――この意味が、わかるな?」

「いいえ」

 龍平は必死で否定した。だが吉永はいう。

「『乙報』の記事はぜんぶがデタラメではない――そういえば、わかるだろう?」

 隣室でラジオが鳴っている。蚊の鳴くような声は、京劇の女形の歌声だ。

「龍平くん、僕は君にいう。吉永義一――つまり僕と花齢さんは無関係どころか、特別な関係にあった。二十五年前からだ」

「・・・・・・」

「僕たちのあいだになにがあったか、きいてくれるな?」

「・・・・・・」

「話そう。僕たちの過去を、二十五年前の真実を」

 龍平は返事をしなかった。吉永は勝手に話しはじめた。

「二十五年前、僕は十九歳、東京の陸軍士官学校生だった。

 一九〇六年――、中国では打倒清朝の気運が高まっていた。革命をおこし、新国家を樹立しようという革命家もふえていた。その代表が有名な孫文だ。

孫文は一九〇五年、東京で中国革命同盟会を結成した。当時日本には中国人留学生が一万人近くもいた。そのうちのすべてが加盟したわけではもちろんないが、一九〇五年の結成大会には千人近い留学生と在日華僑が集まっている。

日本人はメンバーになれなかったかというと、これがごく少数だが加盟が認められている。僕もそのなかにくわわりたいと思った。軍人養成学校に入ったにもかかわらず、僕は軍事よりも中国事情に興味があってね。若かったし、革命にロマンチックな幻想を抱いてた。暇さえあれば中国語を勉強してたよ。

 そんなある日、孫文と親しい日本人の家が牛込区にあることがわかった。僕はいてもたってもいられなくなり、外出が許可される日曜にその家を訪れた。孫文はそのころ東南アジアで拠点づくりをして日本にはいないのは知ってたけど、僕はその同盟会の会員に自分の革命への情熱を懸命にアピールした。何度も訪問したんだ。やっと中国人メンバーに紹介してもらえ、いろいろテストされたのち、認められた。僕は念願かなって中国革命同盟会のメンバーになったんだよ。

同盟会の活動拠点のひとつに飯田橋の富士見楼があった。そこで僕は花齢さん――昔でいう如莉さんに出会った。

彼女――如莉さんは、正式には同盟会のメンバーではなかったが、富士見楼にしょっちゅう出入りしていてメンバーも同然だった。

彼女がなぜ日本に来て、なぜ富士見楼にくるのか、くわしいことはだれもきいていなかったし、だれもきこうとはしなかった。

彼女はとにかく美しかった。二十歳だった。はじめて視線をかわした瞬間、僕は彼女のとりこになった。彼女も僕と同じだった。僕たちは口にださなくても、たがいの気持ちがわかった。交際をはじめるまで二か月もかかったのが、ふしぎなくらいだよ。

 六月十日、僕たちはとうとうみんなに内緒でつきあいはじめた。つきあっても彼女は自分の話はしなかった。僕はむりに知ろうとはしなかった。彼女といられれば、それでよかった。外出できる日曜ごと、僕たちはデートをした。

八月、僕たちははじめて契りを結んだ。

あとでわかったことだが、花齢は妊娠した」

吉永はそういうと緊張した目を龍平にむけた。

「ここで君にもうひとつ、告白しなくてはならないことがある」

 吉永がなにをいおうとしているか、龍平は本能的に察した。さえぎろうとした瞬間、吉永はがいった。

「龍平くん、僕は君の父親だ」

「・・・・・・」

「君は僕と裕如莉が結ばれてできた子だ。ずっと知らせないで申しわけない。君のほんとうの父親は僕だ」

 京劇の女形が物悲しげに歌っている。その声に銅鑼のはげしいリズムが重なった。

「・・・・・・信じられますか」

 龍平はひきつった声をあげた。

「吉永義一が俺の父親?」

「龍平くん、いや、龍平。おまえが信じないのもむりはない。おまえの父親はずっとジョン・ホワイトという花齢の愛人だったアメリカの外交官ということにされてきた。だがあれは真実ではないんだ」

「どこに証拠があるんです。俺がおたくと、死んだ母親のいったことと、どっちを信じると思いますか」

 だが龍平は心のなかでは気づいていた――吉永の顔こそがその証拠だと。吉永義一をみた瞬間、その顔にみおぼえがある気がしたのは、自分の顔に似ているからだった。あと二十五年たったら自分がそうなるであろう顔を吉永はしていた。

「僕が父親とよぶに値しない人間であることはわかっている。おまえの面倒をなにひとつみなかったばかりでなく、二重スパイの疑いをかけられている。おまえは僕を世間でいわれているとおりの人間だと思っているだろう。でも、知ってほしい。僕はそんな人間ではない。僕は断じて二重スパイなどではなかったし、恥じるような行動はしてこなかった」

「は? リラダンにあった茶壷を使って魔術師アレーに変身して、国民党お抱えマフィアにとりいってる人が、なにいっちゃってるんですか」

「だからいっただろう、茶壷は盗んだのではない、僕が花齢さんから、あずかったものだと。もうすこし私の話をきいてくれ」

 吉永義一はふたたび語りはじめた。

「忘れもしない、一九〇六年八月十九日のことだった。その日の昼、僕たちは場末の旅館にいた。

 その日会ったときから花齢は――如莉のようすはいつもとちがっていた。僕がどうしたのかときくと、彼女は思いつめたようにいった。

今晩日本を発つことになった、と。

僕は耳を疑った。あまりに突然いわれたからだ。もうすぐ横浜行きの汽車に乗り、大陸行きの船に乗るという。なぜいままで黙っていたのかきくと、急に決まったことだという。いったいどうしてそんなことになったのか、と責めるようにいうと、彼女は黙って持参の風呂敷包みをひらいた。

 そこになにが入っていたか。茶壷が三つ。――そう、のちに知ったが、三霊壷だ。そのときは三つそろってたんだ。当時なにか知らなかった僕はべつに驚きもせず、つまらない顔で眺めただけだった。すると彼女はいった。

この三つをあずかってもらいたい、と。

 それくらいお安い御用だと僕は軽くうけあった。彼女はほっとするかと思ったが、顔色は前より悪くなっている。わけを問うと彼女はいった――、

三つの茶壷は、清朝の離宮、頤和園から盗んできたものだと。

僕は仰天した。彼女はわけを、うちあけだした。そのときはじめて僕は如莉の過去を知った。

彼女の父親は清朝の外交官で、彼女は日本とフランスで教育をうけた。帰国後、如莉は西太后に呼びよせられ、外国の要人相手の通訳兼女官として働いた。機転のよさをかわれ、西太后のお気に入りとなり、十六歳にして頤和園(清朝の離宮)の女官長、宝石管理係という地位を与えられた。そこで三霊壷なる宝を知った。

三霊壷は雍正帝が一七三一年につくらせたもので、二百年がたつと、ふしぎな力をもつとされている、と西太后は話した。如莉は西洋の教育をうけているから迷信は信じないのだが、三霊壷を初めてみせられたときは、きいたことがほんとうにあるように思われた。そして、いまでさえ権力をほしいままにしている西太后が特異な力などをもったらたいへんだ、と感じたという。

 それから二年ばかりがたち、旧弊な宮仕えにうんざりしていたころ、上海にいた父の危篤の知らせが入った。西太后はお気に入りの如莉が離れるのをいやがった。二度と戻ってこないのではないかと疑い、上海行きの許可をなかなかださなかった。如莉はできるだけ早く帰ると約束したり誓ったりし、やっとのことで頤和園をでた。

でも最初から二度と戻るつもりはなく、出発前に三霊壷を盗みだした。三霊壷が六神通を発揮する二百年目までは当時まだ二十五年以上あったが、西太后にもたせておいては絶対によくない、狂人に刃物のようで危険だと思い、正義感にかられてやった。出来心といえばそうかもしれないが、ほしかったわけではない」

『乙報』の記事とはだいぶ話がちがう、と龍平は思った。『乙報』は李花齢(裕如莉)を清朝西太后のスパイあつかいにしていた。だが吉永によると、裕如莉は清朝のスパイどころか、西太后から逃げてきた人間ということだ。

「父親は如莉が上海についてまもなく亡くなった。家族は百日の喪に服したが、喪中にもかかわらず如莉には外交官パーティーなどから誘いの声が次々かかった。如莉はもともと嫌いではなかったので、それらぜんぶに出席した。そのうちにひとりの旧友と再会した。彼女が十五歳のときにパリの社交界で知りあったウィリアム・ハルトンというイギリス人青年だ。

ハルトンはそのころ三十一歳だったが、定職にはつかず父親のお金で旅をして暮らしていた。上海のあとは東京に遊びに行くといった。君も行かないかといわれ、如莉は西太后の目からのがれるには好都合と思い、日本行きの船にのせてもらうことにした。ただし当時ハルトンとは特別な仲にはなかった。ハルトンは太っ腹な兄のようなものだった。東京でもホテルは別の部屋をとった。ハルトンはいつも芸者と遊んでいた。急に日本をたつのは、ハルトンの都合ではなく、如莉の都合だった。日本を発つ理由はどうしてもいえないという――。

 僕はショックをうけた。出航をとりけせないかときいたが、むりだという。せめて横浜まで見送りたかったが、断られた。彼女は自分を見送るよりも、僕に演説会に出席するほうを優先してほしいといった。その日は富士見楼で中国革命同盟会の演説会が午後三時から予定されていた。僕は出席する気など、すっかり失せていたが、彼女は『あなたは数少ない日本人会員なのだから、でなくてはだめ』という。

 僕はしたがった。彼女を心から愛するなら、彼女が希望することをするしかない、と自分にいいきかせた。彼女はいった――『いまあなたが私のためにできることは、演説会に出席することと、三霊壷をあずかることだけ』だと。

僕たちは午後一時半ごろ、思い出深い旅館をでた。近くの駅までいっしょに行き、僕は断腸の思いで彼女を見送った。

 再会はいつになるかまったくわからなかった。僕と彼女はまもなく海をへだてる、三霊壷だけが僕と彼女をつなぐものになった、という気がした。その三霊壷のために、のちにどんな目にあうか、僕も彼女もそのときはまだ知らなかった・・・・・・

 僕は演説会の前に、三霊壷を安全な場所においていこうと思い、寮によることにした。寮と富士見楼は歩いて十分の距離。まにあわなかったら、すこしぐらい遅刻してもいいと思った。僕はぬけがらのようになっていた・・・・・・」

 吉永の感傷的な口調を打ち切るように、龍平は冷静にいった。

「裕如莉がなぜ突然日本を去ったのか、あとでわかりましたか?」

「残念ながら、わからないままだ。あとで李花齢となった彼女と再会しても、僕は以前の習慣を変えなかった。彼女が話したがらないことは、けっしてきかなかった」

「裕如莉が日本をたったのは一九〇六年の八月十九日だといいましたね。その日に予定されていた演説会は、官憲がふみこんで中止になった。何者かが演説会の情報を事前に密告したといいます。俺が思うに、裕如莉は自分が密告者あつかいされるのを、わかってたんじゃないですか。わかってたから逃げたんじゃないですか」

「如莉が密告したというのか」

「そんなことはいってません。真の密告者は蒋介石のはずです。さっきもいったでしょう、俺はこの前東京で調べてきたんですよ。警察では教えてくれませんでしたけどね、見当はつきましたよ。同盟会の活動を警察に密告したのは蒋介石です。同盟会に個人的な恨みでもあったんでしょう。あの男は人間が卑劣ですからね、ちょっと裏切ってやれという気持ちにでもなって密告したんでしょう。

 でもいまじゃ国民党の神様みたいな顔をしてるから、国民党の母体となった同盟会を裏切ったことを知られるとまずい。それで母を密告者にしたてあげたんじゃないでしょうか? 

 裕如莉は同盟会の根城の富士見楼の常連客だった。でも同盟会には入っていなかった。素性も謎だ。密告犯にしたてるには最適の人間じゃないですか。

 母は自分が蒋介石に密告犯にしたてあげられることを予期してたんじゃないですかね。あるいは蒋介石が密告したことをみなが知る前に知ったんじゃないですかね。それで警察に追われる前に日本をでた。とは考えられないですか?」

「龍平、おまえが東京でなにを調べてきたかは知らない。だが、これだけはいえる。蒋介石は密告者ではない」

「なんで蒋介石をかばうんですか。そうか、やっぱり巧さんの相談役だからですか」

「巧会長は関係ない。僕は蒋介石のあの日の行動を知っている」

「ほう。あの日の行動といいますと?」

「当時蒋介石は十八歳だった――」

 吉永は回想する目になった。

「軍事の勉強がしたくてその年の四月から東京にきていた。だが若い蒋介石はふがいない日々を送っていた。中国陸軍の推薦状をもっていなかったので、東京にきたものの、どの学校にもいれてもらえなかったんだ。それで同郷の先輩陳其美をたよるようになった。

 陳其美は中国革命同盟会の主要メンバーだった。陳其美は蒋介石を富士見楼につれていき、同盟会を紹介した。富士見楼にいけば同郷人にも会える。以後蒋介石の足は自然と飯田橋の富士見楼にむくようになり、蒋介石は中国革命同盟会のメンバーの一員といえる人間になった。

富士見楼で僕は介石と出会った。あいつはみなにあまり好かれなかった。いかにも神経質そうな顔で、しゃべり方が陰気だったせいかもしれない。実際プライドばっかり高く、おまけに短気で、気持ちのいい人間ではなかった。僕も出会った当初は敬遠してた。でもあいつから僕に話しかけてきてさ、なぜだかぞっこん気に入ってくれて、しつこいくらいだったから、それで仲良くなったんだ。話してみると、けっこう気があったよ。あいつの好き嫌いがはげしいところ、好きなことにはとことんのめりこむところ、野心家なところが当時の僕と似てたのかもしれない。

 あの日、如莉と別れて演説会に行く前、僕が三霊壷をおくため寮に入ろうすると、背後から突然介石に声をかけられた。

介石は真っ青でただならない顔をしていた。どうしたのかときくと、あいつはこんなことをいった――、

『富士見楼で午前中から演説会の準備を手伝わされてたんだけど、そのあとたいへんな目にあった。俺がひと段落ついたとき、店の人が犬を散歩にだしたいけど朝から忙しくてできてないってるのを耳にしたんだ。俺は手があいてたから名のりでて犬を散歩につれだした。

ところが店をでるなり、サブロー(犬の名)のやつは物凄い声で吠えだした。なにに吠えてるのかとみてみると、横の建物の陰に警官がいた。俺はようすをうかがうために、その路地に入った。あとで考えるとそれがまちがいのもとだった。犬はますますうるさく吠えだした。警官は富士見楼をみていた。俺は直感的に、警察は演説会にふみこむつもりだ、とさとった。演説会の情報が警察に伝わっている。だれかが密告したのだろう。これは今日の演説会があぶない――そう思ったときだった。犬がピタッと鳴きやんだ。――驚いたよ。首に短剣がつき刺さって、血を流して死んでいる。と、気づくまもなく警官の横から手がのびて短剣をぬきとった。警官の奥にならず者風の男がいた。短剣をぬきとったそいつは、凄い目を俺にむけていった――『ここでみたことはだれにもいうな。いいな?』。制服はきてなかったが、警察関係者にちがいない。自分たちがきてることを演説会前に同盟会に知られないために、吠える犬を殺したんだ。人間の俺まではさすがに殺さなかったが、男は俺を脅した――『ここでみたことを同盟会の人間にいえば、おまえは日本にも中国にもいられなくなるぞ』と。

俺はどうしていいかわからなくなって、そこをでると富士見楼には帰らず、まっすぐおまえのところにきた。だれにもいうなといわれたが、おまえはべつだ。殺された犬は近くの掃溜めのなかにどうにか隠した。でもメンバーのだれかにみられたかもしれない。いまは警官よりもメンバーにどう思われるかが気になる。

あとで警官が富士見楼にふみこんだら、みんなまっさきに俺を密告者だと疑うだろう。なにせ散歩につれた犬を死なせたんだからな。警官が殺したといえればいいんだが、いえない。いったとしても死んだ犬を隠したんだから疑われるよ。俺が殺したと思われるかもしれない。俺が犬をかわいがってなかったことは、富士見楼にくるやつみんなが知ってる。今日散歩をかってでたのは、徳子さん(富士見楼の女中)に好かれたかったからにすぎない。俺はあの犬を嫌ってた。如莉さんといっしょに悪口もいった。

その犬を殺したと思われたら? 警察が富士見楼にふみこむのに協力したと思われるんじゃないか? 俺は日本の警察の手先にされるんだ。こうしてるいまも、犬の散歩にしては帰ってくるのが遅い、とみんな俺の行動を不審に思ってるだろう。俺はどうしたらいい、なあ吉永』

介石はパニックになっていた。そのときの僕が冷静に頭を働かせて落ちつかせられたらよかったんだが、そうではなかった。なにしろ僕は如莉と別れたばかりで平常心を失っていた。異常な思考状態にあった僕は気づいたらこんなことをいっていた。

『僕を密告者にしろ。おまえを密告者とはだれにもいわせない。――いいんだ。どうせ僕は今日東京をでる。いまから中国に行く。きめた』

 口にしたら、ほんとにそうする気になったからふしぎだ。如莉を追いかけて中国に行く。金はなかったが、旅費ぐらいなら親からの仕送りが手もとにあったから、なんとかなりそうだった。僕は自分の思いつきに酔っていたのかもしれない。如莉の意志に逆らうことになるのも気にならなかった。介石を守るという大義名分があったためか、僕は熱をおびた口調でいった。

『いいか。僕を悪者にするんだぞ。同盟会が官憲におそわれておまえの忠誠が疑われそうになったら、裏切り者は吉永義一だといいふらせ。吉永は大陸に逃げたというんだ』

『でもおまえ、いいのか。大陸になんか行かないだろ』

 さすがの介石も中国行きは冗談と思ったようだった。僕は意地になっていった。

『いや、行く。汽車にのり船にのる。本気だ。だからいいな? 密告者は吉永義一だといいふらせ』

『ほんとうか、本気なのか』

 介石は僕の目をのぞきこむようにみた。

『ああ。いつの日か中国で再会しよう』

『ああ、きっとな。この恩は必ず返す』

 僕と介石はかたく握手をかわした。それがあいつとのsほんとうの意味での握手になろうとは、そのときの僕は知るよしもなかった・・・・・・」

「あなたはだまされたんじゃないですか?」龍平はいった。

「密告したのは蒋介石のはず。それをやってないようにあなたにうそついたんじゃないですか? あなたがかばってくれるのが、わかってたから」

「いや」吉永はきっぱりと否定した。

「あれは演技などではなかった。すくなくともその当時の若い介石にはウソはなかった。僕たちは肝胆相照らす仲だった。もっとも次に再会したときには恩を返すどころか、小山内駿吉とつるんで恩を仇で返してきたけどな」

「恩を仇? どういうことですか」

「話せば長い。まあ、順序だてて話そう」

「あの日、一九〇六年八月十九日の午後二時半ごろ――、

 陸軍士官学校の寮の前で蒋介石とかたい握手をかわして別れた僕は中国に行くという決意で胸をみたし、高揚したまま、自分の六人部屋に戻った。もはや三霊壷をおきにいくためではない。荷造りするためだった。日曜の昼のことで、だれも出はらっていた。夜になると外出時間が終了してみんな帰ってくる。急いだ。黙って日本を去り大陸へわたるのだ、という思いでいっぱいだった。僕は異常な精神状態にあった。田舎の親に連絡するという頭もなかった。

 やっと荷造りがおわったころ、突然だれかが部屋に入ってきた。小山内駿吉だった。

 小山内駿吉――当時二十三歳、陸軍士官学校生徒隊付の陸軍中尉で、僕の教師であり上官だった。

 小山内中尉はあがりこむなり、おまえは同盟会の演説会に行かなかったのか、と僕にきいた。小山内はいった――徳子に会いに富士見楼にいったら大騒ぎだった、三時からはじまった中国革命同盟会の演説会に警察がふみこんできた、と。

徳子というのは、宇佐見徳子、富士見楼にいた女中で、長野県出身で当時十八歳、小山内の交際相手だった。

小山内は同盟会がおそわれたことよりも、サブローの行方を気にしていた。サブローは店の飼い犬だったシベリアンハスキー。徳子も小山内もひどくかわいがっていた。ふたりとも大の犬好きだった。それが蒋介石が散歩にだしたあと行方不明になったのを小山内は富士見楼で知ったのだ。介石は富士見楼に帰ってから、犬のことをきかれ、途中で出会った吉永に渡した、とみなにいったらしかった。吉永がどうしても渡してくれというので仕方なかった、と。それを信じ、小山内は僕のところに犬を探しにきたのだ。

このとき介石がウソをついたことは、もとより責めるにあたらない。『僕を悪者にしろ』とたのんだのは僕自身なのだから。

 小山内中尉は鋭い目で部屋をみわたし、サブローは知らんか、と僕にきいた。知らない旨を伝えると、小山内は僕を殴った。僕の言葉を頭から信じていなかった。吐かんと承知せんぞ、とどなり、ベルトで僕をさんざんたたいた。いくらぶたれても、実際知らないものは知らなかった。途中で逃げられた、とウソをいってごまかすしかなかった。小山内はすぐには信じなかったが、僕があまりに頑固なので、やっと信じたようだった。いたぶるのをやめた。それで出ていってくれれば助かったんだが、小山内はまた部屋じゅうをなめるようにみまわしはじめた。僕は気が気じゃなかった。寝台の下には旅行鞄が隠してあった。旅行鞄はパンパンにふくらんでいた。みつかったら、だれにも知られずに中国に行くという計画が台なしになる。

小山内中尉の視線が一点にとまった。寝台の下ではないのがわかって、ほっとしたのもつかのま、僕はしまった、と思った。中尉がみているのが寝台の上の風呂敷包みなのに気づいたのだ。なんとあろうことか、僕はもっとも大切な風呂敷包みをひらいたままにしていた。包みには三霊壷が入っていた。むきだしの三つの茶壷をみて中尉は不審そうにきいた。

『貴様、急須を三つも――なんに使う』

 中尉の目は鋭く光ってみえた。僕は声がふるえないように、せいいっぱいはりあげていった。

『自分は骨董を集めるのが趣味であります』

『そうか』

 と小山内中尉はいった。当時の小山内は三霊壷など知るはずがなかったし、僕もみられたことをそれほどたいへんなこととは考えなかった。でもこのとき小山内にみられたことは、人生最大といっていいほどの失敗に、いまでは思える。三霊壷をみられるぐらいなら、中国行きを知られたほうがよっぽどマシだった。だがこのときの小山内はなにも知らなかったから『急須』にはすぐに興味を失って、

『貴様もサブローを探しにでかけろ』とだけいって部屋からでていった。

 幸いなことに僕をおいて先に行ってくれた。外で宇佐見徳子が中尉を待っていたからだ。

僕もあとから寮をでた。といってももちろんサブローを探すためではない。手には旅行鞄、それと風呂敷があった。

三霊壷をどうすべきか迷った。中国に持って行くべきか、否か。中国にわたるまでになにがあるかわからないし、なにより中国国内にもちこむのは危険に思われた。それなら日本のどこかにうめたほうが安全だ、と僕は考えた。彼女との約束を破るようだが、そうするしかない、と。

寮をでると、まず早稲田鶴巻町にむかった。そこには僕がよく知る秘密の場所があった。藪にかこまれ、人がめったに入らない場所だ。僕は深い穴を掘り、そこに三霊壷を埋めた。

これは結果的に正解だった。ふたたび僕の手で掘り返すまで、三霊壷はそれから実に十九年ものあいだ、もとのとおりにおさまっていた。それだけに、あの日寮をでる前に三霊壷を小山内にみられたことは失敗だったよ。なにしろ小山内はのちに僕がもっていた三つの急須が三霊壷だと知ると、とんでもないことをしてくるんだからな。それも蒋介石と組んで」

武将が豪快な声で笑っている。隣室のラジオの京劇だ。

「蒋介石と小山内駿吉はやっぱり一九〇六年当時から知り合いだったということですね?」

 龍平の問いに吉永はこたえた。

「一九〇六年は顔見知りといった程度だった。ふたりが親しくなったのは、僕がもう中国に渡った二年後。一九〇八年に蒋介石は再来日して東京の振武学校に入ったんだ。蒋介石は生徒として、小山内駿吉は教官として、同じ学校にいたわけだ。(※振武学校は清朝政府が一九〇三年軍事留学生に予備的訓練をほどこす目的で日本陸軍提供の旧士官学校臨時校舎を利用して開設した。運営は日本陸軍士官に任せられ、教官は士官学校や幼年学校の教官が兼任した(『蒋介石が愛した日本』より))」

「ふたりはそのころから三霊壷のことを知ってたんですか?」

「まあ、あせるな」

 吉永は龍平を制した。

「まず十九歳の僕が東京をでてどうしたかを先に話す必要がある。

 あの日、八月十九日、早稲田鶴巻町を出て電車にのり横浜についたとき、中国行きの船はすでに出ていた。如莉が乗ったらしい船は香港行きだった。次の船は数日後になるという。でも僕はじっとしていられなかった。そのまま汽車にのって下関まで行った。そして下関から船で釜山、釜山から陸づたいに僕は中国の大連にわたった。それが大陸に渡るのにもっとも手っとり早いルートのように思えたんだ。大連にいっても如莉には会えなかった。当然だったけど、僕はがっかりした。大連につくまでに旅費は使い果たし、その日の食事にも困るくらいだったから、香港に行く金などとうていなかった。立ち往生したよ。

だけど幸い、満州には黒龍会の拠点があった(※黒龍会:日本の右翼団体。大アジア主義を掲げ、大陸進出を主張。のちファッショ化。前身の玄洋社は日本の浪人によって創立され、中国においてもっとも早くスパイ活動を行った特務組織)。わかるよね? 中国社会に入りこみ、革命工作もしてた団体だよ。僕は生きるためには、ここに入るしかないと思った。同盟会と黒龍会は協力しあう関係にあったから、会員と名のれば話は早かった。食べ物も寝る場所も支給してもらえた。そのかわり仕事をするはめになった。

シベリア方面工作に関わる諜報活動をすることになった。生易しい仕事ではなかった。僕は忙しく働き、香港に行く旅費ぐらいは溜まったが、簡単にはぬけられなくなっていた。

 もちろん如莉のことは忘れていなかった。ひまさえあれば香港方面の工作員に連絡をとって、裕如莉という人間の消息がわかったら教えてくれとたのみこんだ。そしたらなんとジョン・ホワイトという米領事と恋仲にあるというじゃないか。

ショックをうけた僕は仕事に身を投じることにした。寝るまもないってぐらい。そのうちに僕もいろんな現実をみてずいぶん変わったよ。革命にロマンや幻想を抱いていたころの自分からはどんどん遠ざかっていった。それでも辛亥革命がおきたときには感動したけどね。僕も間接的ながら関わりもしたし。

ともかくも十九年があっというまにすぎた。

そのあいだに日本では明治が大正となり、大正も末になった。中国では革命がおきて清朝が中華民国となり、大総統の座をめぐる権力争いが内戦に発展、蒋介石が頭角をあらわしはじめた。

一九二五年の夏のことだった――、

 北京にいた僕はある日、たまたまひらいた雑誌に目が釘づけになった。掲載されている写真が彼女にみえたんだ。それまでもそうしたことはあったが、そのときはいつもとちがった、なにかピンとくるものがあった。

 写真の女性は上海在住の女流写真家で名前は李花齢とある。裕如莉ではない。それに僕の記憶とはちがって、写真の女性はおばさんだし、顔つきも如莉とはぜんぜんちがう、お高くとまった感じがあった。似ていないといえば全然似ていない。でも時がたてば彼女だって老けるし雰囲気だって変わりもする。名前がちがうのは解釈に苦しむが――とにかく僕にはピンときたんだ、これは如莉だと。理屈じゃなかった。僕は無性になつかしくなった。彼女に会いたくてたまらなくなった。

 雑誌社に問いあわせて李花齢の住所を教えてもらい、手紙を送った。封筒には「李花齢様」と書いたが、便箋には裕如莉への十九年間の想いをしたためて、北京のポストに投函した。返事はそれほど期待してなかったんだが――、

 なんとそれがきたんだよ。李花齢は裕如莉だったんだ。そのよろこびといったら!

 ところが、内容は予期していたとはいえ、実につれないものだった。短く数行、『自分には自分の世界があり、会う気はない』といった意味のことが書かれてあるだけだった。返事をくれただけマシ、僕のことを覚えていてくれただけマシ、と自分をなぐさめてみたけどね・・・・・・だめだった。僕は彼女をあきらめたつもりだったけど、心の底では十九年間彼女を想いつづけてたってことに気づいたんだ。断られてよけいに会いたくなった。どうしたら彼女が会う気になってくれるか――そう考えたとき、胸にうかんだのが『三霊壷』の三の字だよ。ずるい考えかもしれないけど、あれを使うしかないと思った。

 ずっと帰らなかった日本に僕はむかうことにした。僕もそのころには黒龍会でそれなりの地位についていたから、日本に帰ろうと思えばなんとでも理由をつけて帰れる身分にはなってたんだ。

一九二五年十月、僕は下関に入った。実に十九年ぶりの故国だったよ。それなりに感慨はあったけど味わうよゆうはなかった。東京に近づくほど、三霊壷がちゃんともとの場所にあるかどうか、不安になってね。なにせずっと放置してたんだ。帰国の二年前には関東大震災があったことだし、無事という保証はどこにもなかった。だれかにみつかって盗まれた可能性もじゅうぶんあった。

 ところがね、三霊壷は、奇跡的にもとの場所に埋まっていてくれたんだ。僕は早稲田鶴巻町でほっと胸をなでおろし、天に感謝した。三霊壷を立派なスーツケースにおさめ、僕は彼女に会いたい一心で中国に帰った。

『例のものをお返ししたい』と手紙で伝えると、あれほど再会を拒んでいた彼女が応じてくれた。思えば三霊壷ほどのものを僕にあずけたきり、二十年近くも放置していることこそ、ふしぎといえばふしぎだった。僕が久しぶりで連絡をとったときも、彼女のほうからは三霊壷には一言もふれなかったしな。もっとも裕如莉から李花齢に名前を変えているぐらいだから、過去のことはなかったことにしたかったのかもしれないとは思った。

 ともかくも十月二十三日、僕は上海にいった。そこで十九年ぶりに彼女との再会を果たしたんだ。

若かった僕たちは中年になっていた。十九歳だった僕は三十八歳に、二十歳だった彼女は三十九歳に――。それでも目の前にした彼女は十分に美しかった。成熟した女性の色気と自信がみなぎっていた。

それは彼女が幸福だったからだった。僕は恥ずかしながら、三霊壷を渡す以上のことを期待してたんだけど、自分の考えが甘かったことに気づかされた。

 如莉は――いや李花齢は、ジョン・ホワイトとはとっくに別れていたが、当時はマルスリというフランス人国際弁護士の愛人になっていた。マルスリは芸術に理解があり、花齢の写真家としての活動をなにかと応援していた。花齢は二か月前に写真の国際的な賞をとり、写真家としても充実した日々を送っていた。息子は当時十八歳で九月からイギリスのオックスフォードに留学しているといった。そのひとり息子というのはマルスリとの子ではなく、僕と別れてすぐ香港で一時交際したアメリカ人――ジョン・ホワイトのことだ――とのあいだにできた子どもだといった。

 その息子がまさか、ほんとうは僕の子だったとは――あとでわかったことで当時の僕は考えもしなかった。

僕はただ三霊壷を彼女に返した。彼女はなぜ十九年前に三霊壷を僕にあずけたか、いま返してもらってどうするか、一言も説明しなかった。口で礼をいっただけだった。僕も昔同様追究はしなかった」

ハッハハー――武将がラジオで豪快に笑っている。吉永の額は汗ばみ、白髪がはりついている。

「僕は彼女の幸福から逃げるように上海をたった――。それでも僕は彼女を愛しつづけるときめた。ヤケになったところで、彼女を忘れられはしない。一生ひとりで生きる覚悟ならできていた。

 悲劇がはじまったのは、その一年後だ。

 一九二六年夏――、日本軍は天津に小山内機関をひそかに組織した。満州を日本のものにするための活動を行う機関だ。職業軍人のほかに中国問題研究家、大陸浪人なんかも起用された。機関名の小山内とはもちろん小山内駿吉のことだ。

あの男、陸軍軍人としてたいした出世を果たしてたんだ。そいつが小山内機関に僕をスカウトしたんだ。陸士を退学して以来、黒龍会で大陸浪人をやってた僕をさ。経歴をかってくれたんじゃないことは、すぐにわかった。

 小山内にはいくつかねらいがあった。ひとつは復讐だ。僕に復讐したかったんだ。

その年の二十年前、僕は陸士を勝手にぬけだし、二度と帰らなかった。そのせいで教官である小山内は責任を問われた。公的な罰はうけなかったものの私刑をうけるはめになった。とはいえたいした私刑じゃなかった。学校で一日、『罪状』を書いた札を胸にさげてすごすだけだ。そんな罰は陸士ではめずらしいものでもなんでもなかった。

だが小山内駿吉にとっては、耐えがたい苦痛だった。エリートだし、だれよりもプライドが高い。体面もだれより重んじる。よくあれで特務機関長になれたと思うぐらい、器の小さい男なんだ。そいつが生徒の前で屈辱的な格好をさせられて、僕を恨まずにいると思うか。当然恨んだ。それに富士見楼の愛犬サブローの恨みが重なった。

僕が寮をでたあと、サブローの死骸は富士見楼付近の掃溜めから発見されたという。短剣で刺された痕があっただけに小山内駿吉は僕が殺したものと考えた。僕がサブローの居場所を知らないといいはったり、『貴様もサブローを探しにでかけろ』といったとき僕が殊勝らしく『はい中尉』とこたえたのに協力するどころか逃げたのを思い出し、自分は欺かれたと考えた。

小山内駿吉は自分を欺いた人間を許さない。まして僕がサブローを殺したと思いこんでいた。二十年間、根にもちつづけた。

 そこに三霊壷の問題が重なった。あの男は、三霊壷のことをそのころ知ったんだ。

 三霊壷は清朝時代までは知る人ぞ知るものだったが、最後の皇帝溥儀が紫禁城をでて天津にうつった一九二五年には中国東北地方を支配する軍閥の首領張作霖にも伝わっていた。そこから小山内に伝わったんだな。なにしろ当時日本特務は張作霖抱きこみ作戦に必死だったからな、小山内は張作霖に接触してるうちに知ったんだろう――三霊壷の名、その外観と特徴、三つそろったときの霊験、その力が発揮される年月日等をな。

外観の情報をきいたとき、小山内は思い出したはずだ。二十年前、僕の下宿でみたあの『三つの急須』を。その外観が、張作霖からきいた三霊壷の外観と一致するのに思いあたって驚いたにちがいない。

三霊壷のことをきいて、ほしいと思わない権力者はいない。小山内駿吉は二十年前の急須のことを僕に問いただしたくて、いてもたってもいられなくなった。つまりあの男が僕を小山内機関にスカウトしたもうひとつの目的は、『急須』の情報を得、最終的に手に入れることにあったんだ。

 小山内駿吉は僕が天津にきても仕事は与えず、さっそく尋問をはじめた。僕が口をわらないと、あの男は虫も殺さぬ顔をして、ひどい拷問にかけもしたが、僕はがんばりつづけた。三霊壷は李花齢が持っているなどといえるわけがなかった。

 するとあの男、なにをもくろんだか僕を南京にとばした。蒋介石に接触し、日本軍と中国国民党をつなぐ非公式のパイプになれっていうんだ。

小山内の真意を疑いつつ、僕は命令にしたがい、一九二八年初頭、南京におもむき、二十二年ぶりに旧友、蒋介石と再会した。なにが待ちうけているとも知らずに」

「・・・・・・」

「蒋介石――当時三十九歳、かつての風来坊は国民革命軍総司令にまで出世していたが、表面的には昔と変わってないようにみえた。

 精悍かつ陰気な顔つき、小柄でひきしまった体、そして僕への声のかけ方も、当時のままだった。でも僕にはわかった――再会の瞬間から、あいつの心は昔とはちがうことが。あいつの僕をみる目つきも、握手したときの感触にも温かみは感じられなかった。

 僕はあいつの日本でのうかばれない時代を呼びおこす、いまわしい存在のようだった。

十八歳のときあいつは僕のおかげで中国革命同盟会の仲間に密告者と疑われることを免れた。当時は感謝したことも、出世したいまとなっては後ろめたい過去でしかない。あいつは僕に弱みをにぎられていると思っているようだった。

 とはいえ表面的には歓迎してくれた。僕を軍事顧問とよんで、北伐(革命軍が中国を統一するため華北の軍閥政府と戦った)に従軍させてくれた際には『作戦面での助言を求めたいと思ってる』なんていってさ。でもそんなのは単なるリップ・サービス。実際には作戦の話すらしてもらえなかった。

でも一九二八年の五月に軍閥軍と戦ったあと、到着した済南で日本軍と衝突しそうになると、介石ははじめて僕をたよってきた。『日本軍への停戦要請の使者となってくれ』っていうんだ。その裏に罠があるとも知らず、僕はよろこんでひきうけたものだ。日中のかけ橋になれるとはりきって、日本軍の基地にむかった。

 僕は日本軍に蒋介石の意向を伝えた。すると日本軍は僕にいった――『中国側に停戦の徹底を求めてくれ』と。日本軍に戦闘をまじえる意志はないと知った僕はよろこんでその旨を中国側に伝えた。すると蒋介石も『こちらに停戦の意思があると伝えてくれ』という。よし、これで両軍は衝突の危機を回避したも同然――そう僕は思い、嬉々として日本軍基地にむけて自動車を出発させた。ところが中国軍の前線を通過しようとしたときだった。

 間が悪かったというか・・・・・・単に間が悪かっただけならマシなんだけど・・・・・・そのとき前線に立ってたのが、僕の知らない若い中国人兵士だったんだ。相手も僕を知らないからさ、車を停めさせて、僕に『降りろ』の一点ばり。司令部の命令で外に急ぎの用がある、といっても信じてもらえなくてさ、引きずりおろされた。若い兵士は自動車のなかを点検した。それで隠してたもんを発見しちゃったんだ。小型の日章旗――日本軍の前線を通過するときに必要なものだ。案の定その若い中国人兵は血相を変えてさ、僕を『日本軍のスパイ』あつかい。周囲にいた一般中国人まで僕を囲みだしてさ、一気に暴徒化したんだ。いやあ参ったよ。抵抗するすきもなく縛りあげられちゃって、『殺せ殺せ』の大合唱、鉄拳が雨あられとふりそそぐわ、拳銃をつきつけられるわ、ナイフで目をえぐるそぶりをされるわ、通りをひきずりまわされるわ。

 僕が日本軍のところにいけなかったために、日中の停戦交渉は決裂した。両軍は衝突し、一般市民をまきこんで多数の死者をだした。

使者としての使命を果たせなかった僕は、どっちにも裏切り者あつかいされた。

僕は最終的には蒋介石の使いに救われたのだが、介石はもっと早く助けようと思えばできたのに、僕が死にそうになるまでわざとほっといたようなふしがある。

済南事件後、介石は僕との接触を断った。国民党は僕を無視するようになった。それどころか『卑怯な日本軍のまわし者』呼ばわりした。

僕を卑怯者呼ばわりしたのは中国人だけではなかった。日本人もだよ。僕は日本人には『中国軍のまわし者』呼ばわりされた。新聞にもひどいあつかいをうけた。内地の新聞記者にあったとき、質問にこたえなかったら、いってもないことをいったように書かれた。『できるならふたたび南京に帰って中国のためにつくしたい』とね。

 中国人のみならず、僕は日本人にもみはなされた。日本特務からの連絡もとだえた。

両国のかけ橋になろうとした結果がこれだよ。

さすがの僕も失意のどん底におちた。あとから考えれば、それこそ小山内の望みどおりだった。あの男が僕を国民党に送りこんだ目的は、僕をそうした境遇なり心境なりにおとすことにあったんだ。

小山内はしばらくすると僕に接触して、こういってきた。

『貴様の信頼をとりもどしたかったら、あの急須のありかを吐け。持ってるなら俺に渡せ』

 そういったときのあの男のスマートな顔にはみごとに醜い本性がにじみでてたよ。僕はいっさいしたがわなかった。いつもどおり拷問がはじまるかと思ったが、そのときのやつはなぜかいったんひきさがった。

呼びもどしたのは一か月後だった。あとでわかったことだが、その一か月のあいだに小山内は蒋介石と接触してたんだ。やつ、こんなことをいった。

『まだ吐く気にならんか。貴様があくまで黙りとおすなら、蒋介石の部下に奪わせるぞ。それでもいいのか。二度裏切られた旧友に三度裏切られたいか。それがいやなら、急須の所在をいえ。これが俺の与える最後のチャンスだ』

 僕はいいかげんうんざりした。だから、こういってやった。

『東京の早稲田鶴巻町に埋めてあります』

 すると小山内はさっそく確かめにいった。表向きは軍の状況報告のためということにして一時帰国して宝探しをしたんだ。僕も案内役としてつれていかれた。もっとも鶴巻町をいくら掘ったところで、なにもでてはこなかった。当然だ、数年前に僕が掘りだしている。

『貴様、ほんとうにこの辺りに埋めたんだろうな』

 となんどもいわれたが、こんなこともあろうかとまえに自分で掘り返したときに三霊壷のかたちの跡をつけた紙をいれておいたから、その穴であることは信じてもらえた。

『それなら、どうしてここにない』

 ときかれると、僕はあらかじめ考えていたとおり、蒋介石のせいにした。知らないうちに情報がもれて先回りされたんでしょう、といった。その場はそれですんだかにみえた。

 中国に戻ると小山内は僕をお役御免にした。それからどうしてかサッパリちょっかけてこなくなった。それはそれで不気味だった。僕はまだ『急須』の出所を教えてないのに、きいてこない。となると僕以外のルートをあたりだしたか、と考えて僕は戦慄した。

 彼女――李花齢の身の安全が心配になったんだ。ひょっとしたらもう小山内にねらわれてるかもしれないって思えてさ。もっとも小山内は李花齢が裕如莉と同一人物とはまだ知らないかもしれなかった。四十二歳の花齢は十九歳の裕如莉とは見た目は別人になっていた。如莉はアメリカで結婚して生活してるという噂もたってたぐらいだし、花齢が如莉と同一人物と知る人間は僕以外にはいないと前に彼女に再会したときにきいてた。でも、それはそのときから三年前の話だった。

李花齢の素性がもしも小山内たちに知れたら、と思うと、僕は生きた心地がしなかった。南京にいてひまな日々を送ってたから、よけい心配になってね。僕は花齢に、彼女にだけわかる匿名を使って手紙を送り、なにか変わったことはないか、もし変わったことがあれば身のまわりを注意するようにと呼びかけた。

 返事はなかなかこなかった。心配でしかたなかったけど、以前再会した折に『もう連絡する気はない』と婉曲にいわれていたから、むりに無事をたしかめることもできなかった。

 東陵盗掘事件がおきたのは、そんな折だった。東陵は乾隆帝と西太后の陵。それを蒋介石の部下が皇族の許可なしにおそった。軍事演習と称して部隊をひきい、計画的に盗掘をすすめ、三晩で副葬の財宝をすっかりもちだした。

彼らの目当ては三霊壷ではないか、と僕は思った。蒋介石は東陵に三霊壷が隠されていることを期待したのではないか。

 この東陵盗掘事件には花齢も強い衝撃をうけたようだった。西太后の鳳冠についていた宝珠が蒋夫人の靴の飾りになったときいたりしてはね。僕同様、蒋介石のねらいが三霊壷であるように思い、はじめて現実的な恐怖におそわれたという。

 七月中旬、南京郊外でくさっていた僕のもとに一通の手紙が届いた。匿名だったけど、すぐに彼女からだとわかったよ。内容は以下のようなものだった。

――例のものを守る自信がない、困っているがうちあける相手もいない、そばにいて相談相手になってほしい。

 正直僕はたよられて、まいあがった。花齢にはすでに新しい恋人がいて、そいつがウィリアム・ハルトンで、そいつの邸に彼女が住んでいるのがわかっていてもだ。僕はうれしかった。

 一九二八年夏、僕はふたたび上海にいった。開店してまもない読書室リラダンの阿片吸引室で僕と李花齢は二度目の再会を果たした。僕は彼女のためなら生涯身を捨ててなんでもする覚悟だと伝えた。

 僕たちはだれにもみつからないように細心の注意を払って、会うようになった。卑怯者の代名詞の僕との交際が知られれば彼女の名声に関わるし、のみならず、小山内や蒋介石に彼女の素性を嗅ぎつけられるおそれがあったからだ。

 花齢ははじめは三霊壷をねらわれる恐怖と不安をやわらげるためだけに僕に会っているようだったが、その態度にはしだいに変化があらわれた。僕をみる目が熱をおびてきた。彼女はあきらかに昔の想いをよみがえらせていた。

 幸いなことに、ハルトンと彼女の関係はすでに冷えていた。それでもふたりが同棲をつづけているのは、ハルトンは見栄のため、彼女は資金援助をうけるためだったにすぎないとわかった。

 彼女は僕をふたたび愛するようになった。僕は天にも昇る思いだった。もう二度と彼女から離れない、と誓った。僕たちの関係はけっして人にはいえなかったが、僕に不満はなかった。まるで若者みたいなことをいうようだが、彼女に会えればそれでよかった。同じ家で暮らせなくても、同じ街に住めればそれで満足だった。僕は上海で生計をたてるため、偽名「呉建武」をなのって中国人のふりをし、上海語はできなかったので華北出身といつわって郵便集配員になった。毎日きまった時間に働いた。稼ぎはけっしてよくなく貧しかったが、表面はみじめでも彼女に会えるかぎり心は幸福だった。

そのときに龍平、おまえが僕の息子とわかっていたら、僕はもっと幸福だったろう。だけど彼女はまだ僕に秘密にしていた。僕が真実を知って息子に会いたがっては困る、息子の身に危険がおよぶ、と思ったのだろう。彼女はおまえの身を守りたかったんだ。だからおまえに僕のことや、裕如莉時代のこと、三霊壷のことをなにひとついわなかったんだ」

「・・・・・・」

「実際三霊壷は僕たちの命とりとなった。そうなるとわかってたのに彼女はけっして手放そうとはしなかった。

 一種の使命感が彼女をとらえていたんだ――三霊壷を軍人の手にわたしてはならないという。

 一九三一年三月三十日になれば三霊壷はほんとうに霊験をあらわし、それでいれた茶をのんだ若い娘に六神通というおそるべき力をもたせることになるかもしれない。軍隊が六神通を使える娘をもったらどうなるか? 日本軍でも中国軍でもどちらの場合を想像してもおそろしい。無辜の民がどれだけ犠牲になるかわからない。

 だったら自分が持ちつづけよう、たとえ自分の身を犠牲にしても、何千万という命にはかえられない――そう花齢は考えたんだ。僕は支持する以外になかった。彼女とともに三霊壷を守ることを誓った。僕たちの愛で三霊壷を権力者の手から守ろうってね。

僕たちは自分たちに酔っていたのかもしれない。三霊壷を破壊すればよかったのに、それはしなかった。三霊壷がほんとうに霊験をあらわすか、みてみたいという欲望がやっぱりどこかにあったのかもしれない。

 霊験があらわれる予定日は刻々と近づいていった。それだけ危険も近づくものと思い僕たちは警戒をおこたらなかった。けれど去年まではふしぎと目立った異変はおこらなかった。

魔の手がしのびよったのは、今年に入ってからだ。

 一月十七日、蒋介石が読書室リラダンをふいうちで訪問し、花齢と個人的に面会した。二十五年前の東京と裕如莉が話題にでたとき、花齢は思わず反応した。花齢は裕如莉だとみやぶられた。

 蒋介石のねらいは三霊壷にあるにちがいなかった。裕如莉が西太后の宝石管理係だったことが、蒋介石の耳に届いていないわけがなかった。

 以後、僕たちは考えられるかぎりの防衛態勢をとった。三霊壷は三つにわけて花齢経営の読書室リラダンの各所にバラバラに隠すことにした。人目にさらされる店に置くのは危険なようだけど、そのほうがかえって安全かもしれないと思ったんだ。

花齢は客にスパイがまじり、目を光らせているのをつねに感じていた。蒋介石のスパイ――蒼刀会員らしいのはもとより、小山内の使いらしいのやら、いろいろね。疑えば、キリがなかった。

破綻は突然におとずれた。

 きっかけは、おまえも知っている二月八日付の『乙報』の中傷記事だ。記事は彼女の本名を暴き過去を中傷した上、僕との関係をも暴いた。彼女は地位と名誉を失ったのみならず、清朝のスパイだった疑いがあるという口実で逮捕され、拘置所にひっぱられた。

ハルトンは彼女を助けなかった。あの男はスキャンダルがでるより先に、彼女が蒋介石ににらまれたと知った時点でヤバイ臭いをかぎつけたのか、彼女を邸から追いだした。読書室リラダンを彼女から奪わなかったのがせめてもの救いだった。

とはいえ彼女は勾留された。それも不当にだ。租界警察は蒋介石の意向をうけてのことだろう、逮捕の口実にした清朝のスパイの件にはひとこともふれず、三霊壷のことばかりきいたという。『三霊壷について知っていることを話せば釈放する』、『話さなければもっと苦しませる』とな。

 そのころたまたま上海を訪問中だった元・米領事ジョン・ホワイトが、花齢の元愛人だったよしみで保釈金を払って助けてくれなければ、彼女はどうなっていたことか。

 僕はというと彼女のためになにもできなかった。金がなかったからだけではない。僕自身拘束されていたからだ。小山内駿吉にだよ。拉致されたんだ。花齢と通じてるなら三霊壷のありかを知ってるはずだ、話せってんで拷問にかけられた。僕はそれに耐えるのだけでせいいっぱいだった。・・・・・・情けないよ、自分が。彼女の役にたてなかったどころか、足をひっぱってたんだ。世間からみたら吉永義一イコール卑怯な日本人だからね。僕との交際が報じられなかったら、彼女はそこまで名誉を傷つけられなかっただろうと思うと・・・・・・。

 それどころか僕は最悪の事態をくいとめることができなかった。小山内と蒋介石が手を結んで非情な計画をたてているのは、うすうす感じとっていたというのに・・・・・・僕はみすみすやつらに行動をおこさせてしまった。

 三月三十日、リラダン爆破事件はおこった。

日中のスパイが共謀して力ずくで三霊壷を奪おうとしたんだ。やつらは花齢を殺し、リラダンを爆破した。

 だが、結果はやつらの不本意に終わった。肝心の三霊壷は盗めなかった。日中のスパイはたがいを裏切ってまで手に入れようとしたが、たがいにひとつも本物の茶壷を盗めなかった。

 理由は花齢が事前にニセモノとすりかえておいたからだ。ある名人に三霊壷のニセモノをつくらせておいて、できあがったのが奇しくも事件の前日。花齢は本物のあった場所にニセモノをおき、本物は別の三つの場所にわけて保管しておいた。その場所を僕は教えてもらってた。

事件当日、僕は事務所Aで花齢が殺されたと知るなり、三霊壷の無事をたしかめにいった。狐仙茶壷と麒麟茶壷の本物はちゃんと花齢が保管しなおした場所にあった。三つ目の鳳凰茶壷も無事だろうと思い、保管した倉庫に行こうとした。ところがそのときだった。事務所Bのあたりで発砲があった。なにごとかと思っているうちに読書室Aで爆発がおこった。それでも倉庫にいったが、そこに鳳凰茶壷の本物はなかった。盗まれたんだ。僕はあきらめて狐仙と麒麟だけをもち、愛する彼女の遺体を守るため事務所Aにひきかえし、背中に背負って、からくも脱出したというわけだ。――狐仙茶壷と麒麟茶壷がここにあるわけは、これでわかってくれただろう?」

「・・・・・・」

「なあ龍平、わかってくれるだろう? このふたつの茶壷はけっして花齢から盗んだものではないんだよ。――なあ、龍平、想像してみてくれ。三霊壷が三つとも小山内駿吉や蒋介石の魔の手にわたっていたら、いまごろ日中はどんなことになっていたか。僕はこのふたつを全力で彼女にかわって守っている、そして鳳凰茶壷もとりかえすつもりだ、魔術師アレーなどになっているのもそのためだ」

 龍平は冷笑で返した。

「よくまあ、そんなことがいえますね。蒋介石の魔の手などと。巧さんに怒られませんか」

 そういって巧をみた。すると吉永はなぜかあわてたようにいった。

「巧さんはいま、関係ない。龍平、こっちをみなさい。おまえは父親の話を信じるのか、信じないのか」

 龍平は苦笑した。

「あの、すいませんけど、父親という前提で話すの、やめてもらえませんか」

「・・・・・・僕に父親を名乗る資格がないのは重々承知している。僕は父親としての義務をなにひとつ果たしていない。それどころか、僕が父親であることによっておまえを苦しませている・・・・・・でもわかってくれ、龍平。僕もこのあいだまで、おまえが息子ということを知らなかったんだ。花齢はずっと教えてくれなかった。三月の終わり、リラダンに危険がおよんだときになって、やっと話してくれたんだ」

 龍平は鼻で笑うようにいった。

「なんにしても教えてもらえますか。おたくはなぜ母の敵――蒋介石と親しい巧さんの邸に、大事な茶壷をおいてるんです?」

「・・・・・・これには、深いわけがあるんだ。だいいち、ここにおいてるわけじゃない」

 吉永が苦しげにいったときだった。龍平の耳に風のような声がとびこんだ。

「もう・・・・・・許して・・・・・・」

 巧月生の声だった。声のみならず、姿勢もふだんとはまるで別人だった。巧月生は別人のように両手をにぎりあわせ両足をとじ、うったえるように龍平をみつめ、いった。

「龍平・・・・・・くん、もういいでしょ」

 龍平はぞっとした。

「なんのまねですか」

 巧はこたえるかわりに立ちあがった。龍平に近づいた。

「これに、見覚えはない?」

 そういって巧は首にさげた首飾りを龍平の面前につきつけた。龍平の瞳孔がひろがった。

「それは・・・・・・」

 銀の鎖にぶらさがった白い石にはみおぼえがあった。中央に切れこみが入っている。生前母が身につけていた石とまったく同じだった。

「どうして、おたくが・・・・・・」

「わかってるでしょう? 目の前にいるのがほんとうは、だれか」

 問いかける巧の口調はあきらかに別のだれかのものだった。それがだれだか、龍平は心の奥で感じとった。動悸がはげしくなった。龍平はあわててかぶりをふった。しかし巧はいった。

「世間では李花齢は死んだと思っている。でもそれはまちがい。肉体はたしかに死んだ。でも魂は死んでいない。巧月生というべつの人間にのりうつって生きてるの」

 いったいなにをいっているのか。龍平は理解したくなかった。そんなばかなことが、と一笑にふしたかった。だが四日前、北京で葉俊にきいた話が、そうはさせなかった。

 一九〇六年に頤和園から盗まれた財宝は、三霊壷だけではなかった。葉俊が会った学者はいった――裕如莉が盗んだとみられる西太后の財宝には三霊壷のほかに、もう一種類ある。

 それは白い石と呼ばれる。言い伝えによれば、白い石もまた特別な力をそなえている。その石を生きているあいだに一定期間身につけていれば、死んでも魂をよみがえらせることができる。死後だれかに石に含まれている粉を耳の穴に投入してもらえれば、魂は遺体を離れ、別の生きた人間の体にのりうつることができる。つまり意識はもとのまま、別人になって生きられるというのだ。

 なんとも荒唐無稽ないい伝えとしか、そのときの龍平には思えなかった。だがいま、生前母が身につけていたのとそっくりの白い石を巧につきつけられて、龍平はあることを考えずにはいられない――。

巧は龍平の心を読みとったように、にこりと笑い、もはや隠すことなく女言葉を使っていった。

「ねえ龍平、あの日――リラダンが爆破された日の夕方、虹口の上空をみなかった? 爆発の炎とはちがう青い光が、流星のようにとんでたでしょう」

「・・・・・・」

「この白い石、真ん中が割れるようになっててね、なかには特別な粉が入ってるの。死者をよみがえらせる粉よ」

 龍平は蒼白になっている。巧はかまわず話しつづける。

「リラダンが爆破された直後、彼が――義一さんが、私の遺体をリアカーにのせて現場から離れた空地にはこびだしてくれてね、魂再生の処置をほどこしてくれた」

 「私」とはだれのことか。巧月生のことではないのは、直感的にわかった。「私」は語る。

「私の遺体は石の力で光となってとびたった。でもよみがえったのは魂だけ。魂だけが河むこうへ、のりうつる肉体を求めてとんでいったの。遺体は分離して絶命した場所に戻っていった。遺体が焼けてなかったのはそのためよ」

「・・・・・・」

「私の魂は他人の肉体にのりうつり無事よみがえった。不幸だったのは、のりうつる人間を選べなかったこと。気づいたら巧月生の体のなかで私の意識はめざめてた。その瞬間から私は巧月生として生きることになったの」

 龍平は化石したようになっている。

「わかるわね。巧月生の体をいま支配してるのは、巧月生の意識じゃないの――お母さんよ」

「・・・・・・」

「ねえ龍平、お母さんは生きてるのよ。巧月生の体のなかで」

「アッハッハッハ」

 龍平は狂ったように笑いだした。

「その手にはのりませんよ。たしかにその首飾りは母のものにそっくりです。ほんと母は気に入ってましたよ、死んだときも身につけてたぐらい。巧さんはそれを手に入れたんですね? 遺体が埋葬されたときはまだついてたから、墓破りでもしましたか」

 巧の眉が逆だった。

「龍平、あんたは知らないことだけど、花齢の遺体が身につけてた石は真っ二つに割れて、もとのかたちじゃなくなった。これとはちがうわ。白い石はひとつじゃないの、三つあったのよ、三霊壷と同じようにね。花齢時代に身につけてたのがひとつ、あとのふたつは花齢邸のある場所に隠してた。五月に花齢邸を買いとったのはそのためよ。世の人には巧月生があの邸を不法占拠したようにしかみえなかったでしょうけど。とにかくいまもってる白い石は、そこに隠してたぶん。三つ目は義一さんが身につけてるわ」

 吉永はうなずいて首から首飾りをだしてみせた。白い石がまぎれもなくついていた。

「でも、おかしいですよ」龍平は必死に反論した。

「母は人一倍外見を気にする人ですからね。巧さんの体にのりうつったとしたら、失礼ですが一日も耐えられなくて狐仙茶壷でもとの姿に変身してるはずですよ」

「それだったら、なんども試したわ。でもだめだったの。狐仙茶壷の力は、白い石の力のおよんでいる肉体にはきかないみたいなの。だから我慢してんのよ」

「おたくがもしほんとに李花齢というなら・・・・・・」

 龍平は鋭い目で巧の目をのぞきこむようにしていった。

「わかりますよね? 李花齢を殺したのはだれか」

 巧の目に動揺はみられなかった。ただくやしげな色をにじませていった。

「それがわかってたら苦労しないわよ。犯人は音もなく近づいてきて、私をいきなり刺したんだから、顔なんかみるひまなかったわ」

 それが真実かどうかはともかく、話し方はどうきいても李花齢のものだった。しかし口を動かしているのは、どうみても痩せた四十男の巧月生なのだ。

「やっぱりありえない。巧月生の体に母の魂がのりうつってるなんて」

 龍平は口にだしていった。それだけ目の前の巧に気を許しはじめていたのかもしれない。

「これをきけば信じる気になるわよ。あんた聖ジョンズ小学校に通ってた頃、夜にはピンク色のパジャマを着てはしゃいでたわよね。パジャマだけはなぜかピンク色じゃないと眠れないっていって。友だちには内緒だよっていってたっけ。毎晩着るもんだから、破れてボロボロになって、それでもあれを着て、新しい阿媽さん(女中)が知らずにつくろおうとしたときなんか泣くわ、わめくわの大騒ぎだった。――どう、こんなこと知ってるのはお母さんだけよね?」

「そんな話、当時の阿媽さんからききだせば、わかるでしょう」

 龍平はつとめてつきはなしたいい方をした。だが動揺している証拠に、その顔は真っ赤にそまっている。巧は目を輝かせて、

「ふてくされちゃって。そういうところは十代のころとおんなじよ」

愛情にみちた声でいい、龍平の肩にふれ、なでた。 

「ああ、やっとできた・・・・・・あんたに会うたび、こうしたかったの」

 龍平がそっぽをむくと、巧は自分の外見が李花齢ではないことをあらためて思い出した顔になって、龍平の背後にまわった。巧の体をみえなくしたほうが息子に母の面影を思い出させやすいとでも考えたのかもしれない。

「この体を何度呪ったか。巧を演じるのを何度やめたいと思ったことか。今日だってあんたをふつうに呼びたかった。だけど世間や蒼刀会員にあやしまれないようにするためには、拉致という体裁をとるしかなかったの・・・・・・ごめんね。――これ、あんたにあげるわ」

 巧は自分のつけていた首飾りをすばやく龍平の首にまわしてとめた。白い石が龍平の胸の上にぶらさがった。

「な・・・・・・いらないよ」

「いいから、とっときなさい」

 そういって巧は龍平の髪をなでた。そのさわり方も、まぎれもなく母親のそれだった。気分がいいときによくやった、ねっとり甘ったるい愛情表現。龍平の胸にわきおこったのは母へのなつかしさよりも嫌悪感だった。自分にふれているのは、巧月生の枯木のような手なのだ。

「やめてくれよ」龍平は叫んだ。身をよじって、

「いまさらなんだっていうんだ。俺にとっては母も父もすでに死んだ人間なんだ」

「・・・・・・」

「信じたくないなら、それでもいい」

 吉永が口をひらいた。

「ただこれだけはきいてくれ。無鉄砲な復讐はやめろ。おまえひとりではとても無理だ。だれを相手にしてるのかわかってるのか。蒋介石、小山内駿吉――国の権力者たちだ。復讐のそぶりをみせただけで、つぶされる」

「覚悟ならできてるんで。俺は蒋介石にしっぽをふるおたくらとはちがいますよ」

「まだそんなことをいってるのか。僕が蒋介石や小山内駿吉を恨んでないとでも思っているのか。復讐の計画ならこっちでとっくに立ててる」

「・・・・・・いま、なんといいましたか」

「復讐の計画ならこっちですすめてる、といってるんだ」

 龍平の目がひろがった。

「どういうことですか」

 吉永はいった。

「リラダン爆破事件後、決意したんだ。やつらに復讐するとな。以来いくつもの計画をたててきた。しかしやつらに僕が味わったのと同じ苦しみを味わわせるには、資本がいる。権力者相手に戦えるだけのな。

 その点、彼女が巧月生にのりうつったのは好都合だった。なにしろ巧月生は裏社会のボスだ。とはいえ表社会では権力者に匹敵するほどの地位も名声もなかった。だから巧の体を利用するにしても、まずそれらを手に入れることからはじめなきゃならなかった。

 この四か月は必要な資本を手に入れるための期間だったといっていい。そしていま蒋介石と互角にはなってないにしろ、それなりの地位も金も手に入れた。やっと本格的な計画を実行できるときにきたんだ」

「必要な資本ですか。へえー、それじゃあ巧月生がストを解決するのも計画のうちだったんですか。ストがおきることも? ・・・・・・まさか麗生が殺されたのもおたくらの計画だったとか?」

「とんでもない、そんな計画はたてていない。誤解しないでほしいが、巧月生はあのイベントでだれにも殺人の命令などださなかった。麗生はだまされたんだ、日本特務が蒼刀会をよそおってだしたニセの命令に。日本特務は中国人麗生に日本人小山内千冬を殺させて中国を攻撃する口実をえようとしていた。けれども結果は日本特務の考えていたのとはちがったものとなった。麗生は千冬を船にのせただけで、思わぬ闖入者ルドルフに殺された。中国人は加害者ではなく被害者となり、加害者はイギリス人になった」

「でもそれで巧さんは得しましたよね。俺みたいに麗生殺害に怒った中国人がハルトン洋行の工場におしかけ、ストがおこったおかげで、スト解決の手腕がふるえて人気者になりましたからね。そうなるまでに裏ではずいぶん汚い手を使ったようじゃないですか。労働者を支援する一方で脅迫したり、俺を共産党員にしたてあげて逮捕させたり」

「あれは、断腸の思いだった・・・・・・」

 吉永は心からすまなそうにいった。

「復讐計画に必要な資本をえるためには、やむをえない選択だった。もっとも逮捕の案をだしたのはほかの人間だ。だがいいわけするつもりはない、僕たちがその人間の案に賛成し、おまえの逮捕を黙認したのは事実だ。あやまっても許されないことだが、ほんとうに申しわけないと思ってる」

「人を犠牲にして資本をえる――たいした復讐計画ですな」

「僕らが麗生の死を利用しなかったとはいわない。罰当たりなことをいうようだが、麗生が殺されて巧月生はたしかに得をした。でもそれだからこそあの子の死はムダにできないと思ってる。僕らだって麗生の死によろこんだわけじゃない。麗生のためにも、なんとしてでも計画は成功させなきゃならない」

「まったくたいした計画ですよ」

 茶化しつづける龍平に、吉永は真剣にいいつづけた。

「この四か月、僕たちは慎重に慎重を重ねてきた。巧月生が以前の巧月生ではないと、ばれないようにするだけでもたいへんな苦労だった。なにしろマフィアのなかにいるんだ、危険はつねにある。巧月生の顔と肉体をもった人間の実体が別人だなどとは、だれの想像もこえているはずだが、いつ異常を察知されないともかぎらない。すでに劉虎は疑惑の目をむけている」

「それはたいへんですな」

「一部の目をくらますために、僕らはずいぶんよけいなこともしてきた。狐仙茶壷と麒麟茶壷を日本特務が盗んだと思いこんでいるふりもした。そのために小山内駿吉の姪千冬をリラダン事件の実行犯にしたてあげることまでやった。五月のファッション・ショーのことだ」

「あれはやっぱり巧さんとアレーさんのしわざだったんですか」

「なあ龍平、いま話したいのはそんなことじゃないんだ。したいのは復讐計画の話だ。計画はこっちで立ててある。だから無謀な復讐はするな。おまえだって命をむだにはしたくないだろう」

「ははあ、脅してきましたか」

「どうしてそうわからないんだ。僕たちはな、できればおまえに僕たちの計画に参加してほしいんだよ。今日おまえをここに招いたのは、そのためでもある」

 龍平は目をみひらいた。

「どんな計画か話そう。そのほうがおまえも信じるだろう。――復讐は『目には目を歯には歯を』の精神でね、小山内、蒋介石、それぞれにふさわしいことをしてやるつもりだ。

 小山内の場合は職を奪い、どん底におとし、肉体的にも痛めつける計画。

蒋介石の場合は中傷それから政治生命を奪う計画。

 さっき『やっと計画を実行できるときにきた』といったとおり二週間後、巧氏廟堂落成記念式典の日、まずは蒋介石用計画を実行する。

廟堂前の魔術師アレーのショーの舞台で、世紀の芝居をうつ。『蒋介石は殺人犯』と群衆に発表する。『蒋介石は二十五年前の東京で中国革命同盟会を裏切り人を殺した』とこの巧さんの口からもいってもらう。

 完全に中傷だが、それが目的だ。僕や花齢がやられたように、人びとにウソを信じさせる。そのための『目撃者』も用意する。当時東京にいた日本人、中国人をそろえる。もっとも本物を呼ぶわけじゃない。狐仙茶壷を使うんだ。信頼できる人間を目撃者に変身させて、こっちの思惑どおりのことをいわせる」

「へええ、そんな計画があるんですか。勝手にやったらいいじゃないですか」

「目撃者の役を、おまえにやってもらいたいんだ。役者はボアンカや白蘭にもやってもらうつもりだが、ふたりじゃ足りない」

「これはすごい、あのふたりを変身させるんですか。ボアンカは魔術師アレーの助手だからわかりますけど、白蘭は? 茶で変身できるってことを教えてだいじょぶなんですか?」

「だいじょうぶだ。あのふたりは」

「なんでですか。いったい白蘭って何者なんです? 前から気になってたんですよ。このさい教えてくださいよ。巧さんの愛人ってのは、ほんとなんですか?」

「あれはそんなんじゃない。ボアンカが表の助手なら、白蘭はアレーと巧さんの裏の助手だ。まだ未熟だが、いま僕が鍛えている」

「じゃ今朝ミス摩登コンテストのファイナリストになったりしたのも、なんか裏の思惑あってのことなんですか」

「詳しいことは今後教える。ひとつ、いえるのは、白蘭はほとんどなにも知らないということだ。今度の計画に使うといっても、僕たちの真の目的は知らせる予定はない。目撃者の役をやらせるといっても、芝居の全容は教えず、必要な台詞だけをおぼえさせ、実行させる。その点はボアンカも同じだ。自分のパートだけを練習させる。ただ、それでは務まらない役がひとつある。芝居の真意を知っている役者がどうしてもひとり必要だ。それを龍平、おまえにつとめてもらいたい」

「・・・・・・」

「もちろん、むりにとはいわない。おまえの意思を尊重する。僕らの話をを信じるも信じないも、協力するもしないもおまえしだいだ。龍平、やってくれるか?」

「・・・・・・」

「ねえ龍平、お父さんとお母さんに協力してくれるでしょう?」

 巧――いや、花齢ののりうつった巧も身をのりだしていった。

「龍平、よく考えなさい」

 ふたりは声をそろえた。親を名のるふたりを龍平はあらためてみつめる。

母親を名のるのは、蝙蝠にもにた残忍酷薄なマフィアのボスの顔――。

父親を名のるのは、アレーの衣裳をきた、日本人の中年男の顔――。

このふたりをどうして素直に両親と思えよう。龍平は失笑苦笑をうかべていった。

「ねえ巧さん、おたくが巧氏廟堂落成記念式典という晴れの場で、蒋介石を中傷するつもりだなんて冗談でしょう」

「冗談ではない」吉永がかわりにこたえた。

「晴れ舞台だからやるんだ。みんなが注目する。式典自体の開催は本物の巧月生がやるときめたことで当初は当惑していたが、復讐に利用するには絶好の機会だと、あとから気づいたんだ」

「しかし巧月生がいままで築いたものがパアになるんじゃ?」

「覚悟はできている。おまえといっしょだ」

 吉永は龍平そっくりの笑みをうかべていった。

「それに僕たちには復讐だけじゃない、三霊壷を悪人どもから守るという使命がある。人びとを守るためにも、蒋介石や小山内をたおすことは必要だ」

「そんなこといって自分たちが二茶壷をものにして天下をとりたいだけじゃないんですか」

「二茶壷はいずれ破壊するつもりでいる。いままだそれをしてないのは、鳳凰茶壷が手もとにないからだ。三つそろったら、その時点で破壊する。それにはまず鳳凰茶壷をとりかえさなくてはならない。そのためには狐仙と麒麟の特殊な力が必要だ。鳳凰はイギリス人がもっている、と僕たちはみている」

「ほう、そりゃまたどうして」

「ヒントはミス摩登コンテストの正賞だ。正賞は『鳳凰のかたちをした茶器』と発表されている。IAAはなぜ『鳳凰のかたちをした茶器』などという、まわりくどいいい方をしたのか。――正賞が鳳凰茶壷だからではないか」

「これはすごい。IAAが鳳凰茶壷をもってるっていうんですか」

「IAAはリラダン事件に直接は関わってないかもしれない。しかしイギリス人が、日中の計画を事前に感知していたとしたら? 漁夫の利をえたとはいえないだろうか。当日騒ぎにまぎれて鳳凰茶壷をこっそり盗みだしたことは、じゅうぶん考えられる」

「そいつがIAAの関係者だっていうんですか。仮にそうだとしてもですよ、せっかく盗んだ鳳凰茶壷をコンテストの正賞にするなんて、ありえますか」

「もちろんほんとにあげるつもりはないだろう。そのために『鳳凰のかたちをした茶器』というあいまいないい方をしているのではないか。いざとなれば鳳凰の絵がある茶碗でもあげるつもりだろう」

「じゃなぜ」

「IAAのねらいは鳳凰をエサにして、ほかの二つを釣ることにあるはずだ。ほかの二つをもっている人間は、残りの鳳凰茶壷を必ずほしがってるから、『鳳凰のかたちをした茶器』ときけば、鳳凰茶壷のことを思いうかべずにはいないだろう。それで是が非でも正賞を手に入れようとする。正賞を手に入れようと、有望なファイナリストにとりいるだろう。その娘をグランプリにさせようとあれこれ画策するだろう。そこから足がでる。狐仙と麒麟をもつやつさえわかればこっちのものだ、とIAAの人間は考えたのだろう」

「だけどコンテストの告知がでたのは、たしか去年の十二月でしたよね。そのときはまだ三霊壷は読書室リラダンにあったはずで、開催目的が三霊壷ねらいときめつけるのは、ちょっとむりがあるんじゃないですか」

「正賞の内容が発表されたのは、リラダン事件の一か月後だっただろ」

「・・・・・・もし仮にですよ、IAAがほんとに鳳凰茶壷をもってて、狐仙と麒麟も奪おうとしてるとしたら、おたくらはどうやって鳳凰をとりかえすんです」

「それは今度話す。いまはまず二週間後の復讐計画だ。龍平、いったいおまえに参加する気はあるのか、ないのか?」

「・・・・・・まあ、いいでしょう」龍平はしぶしぶといった感じでいった。

「協力しましょう。おもしろそうだから。でも、おたくらを信用するかどうかは、べつの話ですよ」

「もったいぶって」巧がうれしそうにいった。

「あんたらしいわね、相変わらず」

 笑顔で龍平の腕をとった。瞬間巧の顔がぼやけて母の顔がみえたような気がして、龍平は思わず、

「相変らずなのは母さんのほうだよ」

 と、口にした。直後に「母さん」といったことに気づいて耳まで真っ赤になった。

巧も吉永も顔を輝かせていた。


 そのころ、小山内駿吉も顔を輝かせていた。彼はフランス租界のアパルトマンの一室にいた。そこで部下の日本特務員から以下のような報告をうけたのである。

――白蘭の正体が江田夕子であること。魔術師アレーが江田夕子を変身させていること。変身の手段には魔術ではなく茶が使われているらしいこと。江田夕子は変身前に必ずアレーのいれた二杯の茶をのんでいること。一杯は娘を白蘭に変身させ、一杯は中国語の話せない娘に中国語の能力を与えているらしいこと。

 この荒唐無稽きわまりない報告をうけても小山内少将は怒りもしなければ、笑いもしなかった。それどころか実にまじめな顔で、

「でかしたぞ」

 といったのである。そして部下が帰って部屋にひとりになると、二時間前まで愛人と戯れていた寝台で葉巻をふかしふかし、いまうけたばかりの報告を反芻し、思考をめぐらした。

 ――白蘭の正体は江田夕子。江田夕子が白蘭に変身する。江田夕子は白蘭に変身する前に必ず二杯の茶をのむ。一杯は江田夕子を白蘭に変身させ、一杯は中国語の能力を与える、という。

「三霊壷だな」

 駿吉はつぶやいた。変身させたり、未知の言語を話せるようにしたり――そんなことを可能にする茶がこの世にあるとしたら、三霊壷でいれた茶以外には考えられない。これまで三霊壷の個々の茶壷の能力はわからなかった。だがこれで三つのうち二つはわかったも同然に思われる。ひとつは変身を、ひとつは未知の言語を自在に操れるようにできるらしい。個々の茶壷の名称から憶測するに、変身は狐仙茶壷、言語は麒麟茶壷の能力と推測できる。

それよりなにより、いまの報告の収穫は、リラダンから消えた二茶壷の所有者がわかったことだ。二茶壷の所有者は魔術師アレーだった。 蒼刀会員ではなかった。駿吉はそれまで巧月生もしくは蒼刀会員がもっているものとばかり思っていたのである。

「それにしてもアレーとはな」

考えてみればふしぎだ。なぜアレーがもっているのか。リラダン爆破事件時アレーはまだ上海にいなかった。アレーは蒼刀会員でもないし中国人でもない。なのに二茶壷をもっているという。巧月生からあずかりでもしたのだろうか?

 疑問を解くべく駿吉は立ちあがった。精神を集中させるために、八仙卓にむかい、硯で墨をときだした。筆を墨汁にひたした。そして半紙の右側に書いた。

「魔術師アレー」

 つぶやいて腕組みし、書いた文字をしばらくみおろした。その目が突然輝いた。筆をとり、いま書いた文字の左に次の文字をならべて書いた。

「吉永義一」

 筆をおき、うむうむ、とうなずいた。

「そうか、アレーは吉永か」

 ニヤリと笑った。

「吉永は変身してたか。そう考えると、なにもかも説明がつく。それさえわかれば、こっちのものも同然」

 つぶやいて、ずるそうな目を光らせ、

「さあて、どうやって二茶壷を奪うか」

 のびをして室内を歩きだした。

 壁と床がガタガタと振動した。歩いたせいではない。アパルトマンの前を市電が走行しているためだ。車輪がレールをすべる、ボーリングの玉がころがるのに似た音がする。駿吉は窓辺に立ち、カーテンの隙間から真下をみおろした。闇に電車のアンテナがほのかに光ってみえる。

 ちんちん、ちんちん――。鈴の音が鳴ってはとおりすぎてゆく。ふいに駿吉は手をうった。 

「いける、これならいける」

 満足げにうなずいた。

「この方法でいけば、二茶壷は奪える、こっちのものになる。のみならずアレーの面の皮をひんむけるにちがいない」

 スキップせんばかりに室内を歩きまわった。ふだんの小山内少将からは想像もつかないうかれぶりである。

「二十二日の巧月生の式典は、なによりの機会だぞ」

 はずんだ声でいった。小山内駿吉はその日にアレーをやっつけて、二茶壷を奪うつもりらしい。どうやって奪おうというのか。

ともかくも巧氏廟堂落成記念式典はとんでもないことになりそうだ。

 小山内駿吉はアレーをやっつけて、二茶壷を奪おうとしている。

一方で、アレーこと吉永義一と巧月生にのりうつった李花齢、ならびに息子の龍平の三人は、二茶壷を使って蒋介石に復讐しようとしている。

 はたして、式典はどうなるのか。それぞれのもくろみは成功するのか?

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