第3話 高野渚と雪村千里②
久しぶり、アカウント変えたの。
僕のスマートフォンに現れた千里からのメッセージは淡白というか、出方を見ているというか、要は何か不自然な感じがした。3年前のあの日、千里との関係を切った日に、僕は彼女の連絡先を消した。教室でも丁度、席替えがあった。僕の席は嬉しいことに(席を移る苦労を負わなくて済んだという意味で)、そのままの席だったが、千里は一番廊下側の一番前の席に移動した。僕と千里はあの教室の中で最も遠い2人になってしまった。物理的にも。精神的にも。
私、今ちょっと色々あって渚の大学の近くに来てるんだけどさ、これから会えたりしない?
今更なんの用? 既読
いや、渚に久しぶりに会いたいとか思ったりして。
別にあってもいいけど 既読
僕は、内心飛び上がるように喜んでいた。(喜んでいたと言うよりは少し安心したと言う方が適当かもしれない。僕は千里に嫌われているわけではなかったのだ。しかも、彼女は僕の進学先を把握していた。)
ほんと!じゃあ駅のマックに来て
僕は、駅までのんびり歩いて帰るという予定を変更してバスに揺られていた。窓の向こうの自分が目を合わせてくる。マスクが鼻より下にずり落ちている。前髪が風に煽られたおかげで煩雑に暴れている。だが、それらの状況を改善(見方によっては改悪?)することはしない。なにか千里との再会に際して特別に意識してしまっているようで気恥ずかしかったからだ。(そんなことを考えている時点で、特別に意識していることと何ら遜色無いことは自分でも分かっていたが気づかないふりをした。)
バスが駅前のロータリーに停まる。マックに入る前にトイレに寄った。特に行きたかったわけではなかったけれど、なんとなく時間を引き延ばしたかった。鏡の前でもう一度、自身の顔と向き合った。僕はマスクを鼻まで上げ、前髪を軽く手ぐしで直した。
店内に入って、千里の姿を探した。彼女からのメッセージにはどこの席に座っているかは書いていなかった。(そんなもの簡単にわかるとでも思ったのだろうか。)
「おーい、こっちこっち。」
僕が探しあぐねていると、店の奥の方の席から声が聞こえた。2人がけの小さなテーブルには、明るめの茶髪を
「え…千里…?」
僕は、変わり果てた(あくまで僕の目から見ればという範囲であるが。)彼女の姿に少し困惑した。
「全然変わってないね。髪がちょっと伸びたくらい?そのマスクとかもあの時のまま。」
彼女は僕の驚きをよそに、はにかみながらそう言った。
「久しぶり。」
彼女はにっこりと笑った。
それから数時間、僕たちはひたすらに他愛ない会話を続けた。かつ、僕らはあの頃の話題を頑なに避け続けていた。お互いに触れてはいけないことを直観的に感じ取っていたのかもしれない。
「千里…。なんか変わったね。」
「ん?そりゃ変わるよ。『人』は関わる人との『間』に心があるの。関わる人間が変われば、私の心も変わっていくの。そういうもん。だから『人間』。」
「なんだそれ。誰の言葉?」
「うーん…。私?」
「まじか。」
場に少しの沈黙が流れ、それらが緊張を連れてきた。
「それで、何の用?」
僕は彼女に、そろそろ本題に入ろうという旨を言葉で示した。
「あー。渚って童貞?」
「は?」
いきなり何を言い出すのだと思った。僕は言葉を失った。
「あ、その反応は図星だね。」
「…だったらなんだよ。」
「セックスしよう。」
「は?」
僕は再度、言葉を失った。
「…冗談でしょ。」
彼女の顔を見ると、今まで見たことのないくらい真剣な表情を見せた後、微笑んで見せた。
「…そういうこと、簡単に言わない方が…。」
「出た出た、童貞特有の保守主義理論!童貞なんか守って何になるの?ヒーローにでもなれるの?それなら今頃世界は大大大平和ね。世界中のヒーロー達のお手柄で!」
「何言ってんの…。そういうことじゃなくて、そういうのはもっとちゃんと好きな人と…。」
千里の熱弁に騒めく店内の喧騒から隠れるような小さな声で僕は言った。こっちまで恥ずかしいじゃないか。
「あら、だったらいいじゃん。」
「え、なにが?」
「渚まだ私のこと好きでしょ?」
僕たちは、駅を出て併設されている立体駐車場へと向かった。千里は既に免許を取得していて、車を持っていた。僕は助手席に乗った。ミラーには、なんだかよくわからないモジャモジャしたまりもみたいなキャラクターのストラップがぶら下がっていた。
彼女は無言で車を走らせた。UNISON SQUARE GARDENの『きみのもとへ』が車内に流れていた。僕は、同級生の運転する車に初めて乗った。車を運転している千里の姿は(非常に安易な思考だとは思うけれど)なんだかとても大人に見えた。小さい頃から、いや、今になっても大人になるというのはどういうことなのか全くわからなかったけれど、「車を運転できる」ってことが大人になるということでいいかもしれない、と僕は思った。
僕らを乗せた車はあるホテルの駐車場に辿り着いた。千里が淡々と受付を済ませる姿を見て、僕は複雑な気持ちになった。
部屋は、人間2人が使用するには無駄に広かった。居てはいけない空間に居るような気がして、僕はずっと下を向いていた。
千里が僕の唇に自身の唇を重ねてきた。僕は、ぼうっとしてきて何がなんだかわからなくなった。どうにでもなれ、どうにでもなれ、と頭の中で誰かが囁いていた。薄れゆく意識の中、なんとか歩いて、歩いて、僕は記憶の海に溺れて行った。
僕には想いを寄せている人が––––––––
いた。
だが、彼女はもういなくなってしまった。僕は、あの頃の彼女が好きだった。僕が彼女を壊してしまった。いや、僕と彼女の「間」を破壊してしまった。これからどれだけ時間が過ぎようと、僕らが元に戻ることはない。一度壊れてしまった物の唯一の利点を挙げるとすればそれは、
もう壊れないということだけだ。
僕は気付いた。僕はずっとあの頃の幻想を追いかけていた。
君の首筋に残る、日焼け止めの匂いとか。
夜風に揺れる、海のように深い黒髪だとか。
僕に向けられた、朝露のような笑顔とか。
僕はずっとそんな幻想を追い続けている。
あの頃の君を、
僕は、ずっと、
羨望している。
羨望 夏木 葵 @katekin10
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