第2話 高野渚と雪村千里①
3年前、僕たちは高校1年生の冬を過ごしていた。僕たちが通っていた学校は東京の都心にあって、一言で表すとするならば騒々しいところだった。みんながみんな忙しく日々を過ごしていて、僕もなんだか無意識にそれにつられて、気の休まる暇なんてあまりなかった。
僕と千里は、中学が一緒で(と言ってもその頃はこれといった関わりはなかったけれど)、その頃から顔見知りではあったけれど、彼女が本格的に僕の人生に関わってくるようになるのは、僕らが同じ高校を受験し(それはもちろん特に示し合わせたわけではなく偶然だ)、入学したその日からだ。僕と千里は1年3組。僕らは同じクラスになった。
僕らの通っていた高校は三年間を通してクラス替えが無かった。出席番号は男女ごちゃ混ぜの誕生日順だった。僕は、2月3日生まれ。彼女は、2月5日生まれ。彼女が窓側の列の1番後ろの席で、僕がその一つ前。つまり前後の席になった。(僕と彼女は何故か誕生日が近かった。今となってはこんなところにも運命的なものを僕は感じてしまう。まぁ、それも僕だけなのだろうけれど)
突然だけど、僕は今まで女子を好きになったことがなかった。僕は自分に絶望的に自信がなかったから、誰かを好きになる権利なんて無いのだと思っていた。今、考えてみれば、なんて馬鹿なやつだとも思うけれど、当時の僕は心の底からそう思っていた。まず、僕は顔が醜かった。小学生の頃から老け顔でほうれい線がくっきりと深く刻まれていたし、歯が少し出ていた。僕は口元を隠したかったので夏だろうが冬だろうが関係なく、常にマスクをしていた。眉も太く(大学生となった今じゃ、眉毛なんて自由にセットができるものの、小中学生の頃はそんなことをしようものなら酷く説教を受けたものだ。そもそも、顔に自信がなかった僕はそういったオシャレ的な行為をするのがなにか恥ずかしかった。)、凄くもっさりとした印象を周囲から持たれていたと思う。世の中の女性は、男は顔じゃなくて中身だ、などイケメンは3日で飽きるから少しは顔が悪い方がいいなどと
兎にも角にも、僕には、人間的自信というか、男性的自信というか、生物的自信というか、そんなものが欠如していた。
最初の一手は彼女からだ。
「君、中学一緒だよね?名前…高野君でしょ?」
千里は僕の後ろからそう声を掛けた。僕はその時、凄く驚いたものだ。僕は女子に話しかけられることなんて、滅多になかったし、話しかけられたとしても、多くは宿題関連について、質問をされるだけだった。(僕は当時、クラスで1番数学が得意だった。クラス中のみんなの力を持ってしても解くことができなくて、たらい回しにされた問題が最終的に僕のところに質問されに来た。こんな不名誉な最終兵器なんてたまったもんじゃない。つまり、男女問わず、クラスのみんなはなるだけ僕と会話を交わしたくなかったってことだ。)
そんな経験があったものだから、雪村千里の発言には度肝を抜かれた。僕に話しかけるのならまだしも、中学時代に同じクラスになったことが無い女子が僕の名前を覚えていることなど有り得ないと思っていた。この出来事の時点で僕は彼女のことが少し好きになっていた。でも、その時は自分で自らの気持ちに蓋をせざるを得なかった。雪村千里は可愛かったのだ。月並みな言い方になるが僕には天使のように映った。肌は透き通るように白く、髪は肩まで届くか届かないかくらいの黒髪だった。(天使というと絵画などのイメージから金髪を想像するかもしれないが、そんなことはどうでもいい。僕にとっての天使はどこまでも深く吸い込まれそうなほどの黒髪の持ち主だったのだ。)
「おーい?大丈夫?高野君、ぼーっとしてんね。」
ハッとした。彼女に見惚れていて、応答が遅れてしまったのだ。
「あ、ごめん……。てか、なんで僕の名前知ってんの?」
「え?だって、君あれじゃん?数学が得意な高野君でしょ?」
「え、いや、そうだけれど……。」
「有名だよ?現代のピタゴラス?的な?まぁ、これは今、私が適当に考えたのだけれど。」
僕は吹き出した。彼女の口からピタゴラスという名前が飛び出したのがなんだかひどくおかしかった。
「おー!ちゃんと笑えるじゃない。君はずっとマスクの下に隠れててさ。表情を失った悲劇の主人公なのかと思ったよ。あ、今ちょっと馬鹿にしたでしょ?」
別に馬鹿にしたわけじゃないよ、と僕は言った。御免だなと思った。僕はこの世界において、主人公だなんてある訳がないし、脇役にだってならないだろう。せいぜい名もないエキストラが関の山だ。ただし、この世界を写すカメラが僕の歩いているシーンを切り取る保証なんてないという条件つきだ。
「雪村さんは……」
「千里でいいよ。」
「え?」
「だから!名前!私の名前!雪村千里!!」
「あ、ああ。千里さんは……」
「呼び捨てでいいって。高野君は?名前。」
「……な、渚。」
「そ!よろしくね、渚。友達なら呼び捨てよ!」
「それはまた暴論だね。」
そう言いながら僕は笑った。何年かぶりの心の底からの笑顔だった。
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高校1年、冬。
「だから千里はダメなんだよ。授業を受けても復習しないから。赤点取って追試受けるより、復習して良い点取った方が何倍も楽だよ。」
「渚は頭がいいからそういうことが言えるの。私だって、渚に言われた通り勉強してるもん。勉強したってダメなんだもん。」
「じゃあ、昨日は何をしてたのかな。」
「うっ……。いやぁ。その。新作のホラーゲームが楽しくってねぇ。ついつい……。」
千里はそう言って頭を掻いた。僕は無言で彼女の頭に軽く拳骨をした。
僕らは親友と呼べるまでに仲良くなった。僕は彼女と接することで少々自分に自信を持ち始めていた。マスクは依然、僕の口元を隠したままだったが。
その日は、2月5日、彼女の誕生日だった。2日前の僕の誕生日には千里は可愛らしいボールペンをくれた。僕が、こんな女っぽいの使ってて周りの人に引かれないかなぁ、と心配すると、彼女は、大丈夫、大丈夫、渚、女々しいもん、と笑った。僕は彼女の笑顔が大好きだった。笑う時に、目元に少し皺が入る、全てのものを包み込んでしまうような笑顔だった。
僕は彼女への誕生日プレゼントにマグカップを買った。ひよこが三匹描かれた白色のマグカップだ。(彼女は鳥が好きで、中でもひよこが好きなのを僕は知っていた。)
いつものように、街中の帰り道を2人で歩いていた。この先の横断歩道で僕は左の道へ渡り、彼女はそのまま真っ直ぐ進む。そこが僕たちの分岐点だった。でも、今日は違う。
「じゃあ、ここで。」
「あ、ちょっと待って。今日は千里の家まで行っていい?」
「なんで?……あっ、うん、いいけど。」
彼女は一瞬思索し、勘付いたようだ。プレゼントを渡すつもりなのだ、と。無論僕の目論見はそこには留まらない。
彼女の家に着いた。僕はマグカップの入った箱を取り出す。
「誕生日、おめでとう!」
「ふふっ、ありがとう。でも、サプライズ感ないよ。バレバレだもん。」
これでは終わらない。僕はまだ隠し球を用意している。
「それから……千里……。」
「え?なに?」
「ずっと、ずっと好きだったんだ。僕と付き合ってください。」
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ここからは完全に僕が悪い。彼女は全く悪くない。僕に振り回されただけだ。
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「………え?冗談でしょ?」
「冗談じゃないよ、本気。」
「そう…………。気持ちは嬉しいけれどごめんね。私、好きな人がいるから。」
「は?」
「陸上部のさ、羽川先輩。委員会で一緒になってね。昨日の夜、私の家まで来て告白してくれたの。」
「…………それは、どういう。」
「喜んでOKするつもり。」
「千里は……、いや、てっきり……僕のことを、す、好きなのかと。」
「ちょっと。やめてよ。渚はただの友達じゃない。逆に、渚が私のこと、好きだったなんて。その方がびっくりしたもん。」
「だって、それは……。」
千里は僕に話しかけてくれて、笑いかけてくれて。好きになった理由はたくさんあった。でも、言葉にはできなかった。もう無駄だと思ったからだ。羽川先輩はとても格好良くて、足が速い。学校中で有名な先輩だった。誰がどう見ても、お似合いな二人だ。僕が、出る幕はない。そう思った。はずだったのに。
「…………ふざけ、るなよ。」
「え?」
やめろ、それは言ってはいけない。
「思わせぶりな態度……、取りやがって。」
「そんな言い方しないでよ!なに!?渚が勝手に解釈しただけじゃん!!」
「うるさいな!!千里が悪いんだ!!僕に何も言わないで…」
「は!?なんであなたの許可が必要なのよ!?ふざけてんのはどっち!?」
「もういいよ!!君は僕のことが嫌いなんだろ。」
「そんなこと一言も言ってないじゃない!!なに!?付き合えないだけで嫌い!?意味わかんないんだけど。男として見てないってだけじゃん。」
「もう、うんざりだ…。」
「こっちの台詞なんだけど…。」
「君はもう、僕のものにはならないんだね。もう、他の男のものなんだね。そんな千里はもう見たくない。もう、関わりたくない…。もう、いっそ、それなら、いっそ…
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僕には、好きな人がいる。3年前から、ずっと。でも、もう会うことはないだろう。だって、僕が彼女に、こう告げてしまったのだから。
********************
それならいっそ、僕の前から消えてくれ。」
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