古典は退屈をまぎらわす

竹生凛

春の徒然

第1話 古典つながり

 1

 伊賀崎湊人は、高校入学後の部活動入部週間の一日目に、絶望した。


 中学時代では吹奏楽部に所属しており、トランペットを担当していた。実力は、可もなく不可もなしというところで、実際最初の担当決めでは、偶々たまたま勝ったジャンケンで目についたトランペットを選んだだけであって、特別熱心な部員ではなかった。

 湊人は、そうした繋がりから、自然と音楽室へと足を向けていた。吹部になら、流れに身を任せてしまえる、といういつもの安直な回路が働いたともいえるが。

 ある程度は人気の部活なのか、早速群れをなしている新入生に混じり、少し離れて、ロクに見えもしない位置で見学する。


「君は、どの楽器志望とかある?」

 そう言われて振り向くと、少し茶色が混ざった髪をポニーテールにした、どちらかというと、陸上部に入ってそうな快活さを放つ先輩がいた。一年生に『君』を使えるのは、総じて先輩だ。まして、まだ友達を作ることをしない自分なのだから。


 しかし、一瞬、見てしまった。

 その腕に挟まったノートの一番左に丸っこくトランペットと書かれた欄には、既に五、六人の名前が記入されていた。


「トランペットできないならいいや」


 すぐにその反応をしてしまう程度には、トランペットに毒されていたらしい自分に少なからず、驚いた。恐らく、相手の先輩よりは驚いていた。

 決して自分を過信しているわけではないが、少なからず、周囲にいる群衆の誰よりもトランペットという楽器を奏でることができると確信していたのだが、この瞬間ときだけは、トランペットという楽器が毒牙を剥いた気がして、逃げたくなった。

 そう、この学校で、トランペット以外の楽器は吹きたくない自分の回路が、ショートを起こしてしまったのだ。


 先輩の前を少しカッコ悪い早足で去った。


 帰り道、

「市民楽団に入るかなぁ」

 高校生が部活以外でトランペットをやるのなら、選択肢は一つしかない。自然と口を突いて出た。

 

 本命が駄目になったせいか、入部する気がすっかり無くなってしまった。


 2

 入部週間で盛り上がる四日目の木曜日、学校を素早く抜け出し、市の楽団に入るために後回しにしていた市役所で案内を受けた帰り、駅前にある大型書店に寄った。目的は古典書房から発刊される平家物語の全訳注を買うためである。


 この平家物語シリーズは、全四巻で組まれており、三ヶ月ごとの季刊である。つまりは、普段難しい古典を一年かけて全訳注として読めるということであり、画期的なシリーズだった。その一巻目を買いに来たということである。古典書房は、こうして一年から数年かけて一つ一つシリーズを全訳注として発刊しており、僕の好きな出版社の一つでもある。


「あっ、すみません」

 早速目的の本を見つけて流し読みしていると、わざとらしく近くに寄ってきて、同じ本を取る手を捉えた。何気なく横目に見ると、同じ高校の女子生徒だった。眼鏡のレンズ越しに少し見える赤いフレームを呑み込んで氷山の一角しか見せることを許さない長い黒髪は光をも吸い込むブラックホールのようだった。あと、少し背が高く、自分が動かなければ、全てを見ることができない。

 しかし、無駄に広く、敏感に察知する自分のパーソナルスペースが、彼女を見たい気持ちに打ち勝った。つまりは、離れたかった。少し距離を取ろうと、体重移動で足を浮かせかけた時、

「もしかして、古典好きなの?」

 聞いてきたのは向こう側からだった。口ぶりからして先輩だろうか。『君』を使わない相手に動揺を悟られぬよう、

「まぁ、中学の頃から好きでよく読んでますよ」

「だったら、明日部室棟四階の西の突き当たりに来てよ、損はしないと思う」

 そう言って彼女は、ぬかりなく平台の底から二冊目にある《平家物語 全訳注》を一冊手に取り、颯爽とレジへ向かった。

 長い黒髪は、僕の頰に優しく当たり、いつまでも周囲に芳香を残していた。


 3

 僕の読書遍歴は、日本古典とラノベ、表紙買いしてしまう色んな小説くらいで、ストライクゾーンは広い方に入るかもしれないなぁ、くらい。いや、他に読書遍歴を語る友達とかを持っていないから実際はわかんないけど、一つのジャンルしか受け付けない奴らよりはマシだろう、多分。こうしてみると、自信なくなってくんな。


 大抵の小説(ラノベも含む)の主人公は、ヒロインと出会って物語が始まる。

 これは、古典から続く伝統なのであって、多少ハーレムとコメディを付け加えて文体や心情描写が丁寧なものがラノベなのだと思っている。恐らくだが、ラノベが現代文の試験に採用されたら、誰もが満点だろう。漢字と慣用句は要注意だが。


 部活動四階西の突き当たりの一室、その前に僕はいる。そして、この一歩はその最大の一歩なのだろう。


 主人公としての僕が今、構成された。

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古典は退屈をまぎらわす 竹生凛 @wataritai_fish

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