EX.Prologue of Sapphire
浮沈する光を捉える。
永きに渡る無聊を慰めるすべもなく、思考を止めて久しい。吹き込む風を待ちわびたのも最初の数百年ばかりで、いずれ模糊として散ってしまった。
だから――。
書物を捲る繊手がもたらした光景が、
曖昧な自己が収束する。開かれた封印の書の上で、久方ぶりの光明を見る。戒められていた力が流れ出し、眼前の人間の体を伝う。逆巻く冷気が広い部屋に満ちていく。
そして。
名もなき魔族は、五千年ぶりの自由を得た。
恩人たる少女が茫然と立ち尽くしている。世界を滅ぼしうる力をまともに受けて、命の灯火はいささかも揺るぐ様子はない。
美しい水色の髪が踊る。眼前の形なき者を捉えようとしたか、緑の瞳が探るように揺れた。
それを見て――。
人の形があったなら、唇が吊り上がっていたろうと、魔族は自覚する。
途方もない力に耐えうる稀有な存在を。
冴えた空気の中に取り残されて、なおも呼吸を続ける人間を。
――逃す理由はない。
「契約をする気はないか」
立ち尽くす少女に思念を向ける。脳裏に響く声に、彼女の動揺が色濃くなるのも気にせず、古の魔導は問うた。
「人間とは不幸の多い生き物だ。貴様とて幸ばかりで生きてきたわけではあるまい」
とんだ方便である――と、自覚はある。
そもそも、この問答そのものに意味がない。彼女がどう応じようが、体を譲り受けることに変わりはないのだ。そこに合意が生まれるかどうかを決定づけるだけの、ただの戯れだ。
「世界を滅するつもりがあるならば、我が力を受け入れよ。それで事は成される」
どうする。
試すように絡めた魔力に、思ったほどの抵抗はなかった。強張った瞳が見えぬはずの魔力の塊を見据えて、少女は唇を引き結んでいる。
――話が早くて助かる。
腕を引くようにして、氷の魔導はその肢体へ溶け込んだ。元ある人格に封をして、己のものへと塗り変える。
それから。
非力な体を使い物になるようにせねばならない。
女のままでは望ましくない。元の体の造りからして限界はあるが、最低限でも力強くはあるべきだ。
流れ込む少女の記憶を拝借して、男がしていて問題のない格好を探る。最も早く行き当たった、燕尾服――というらしいそれを象った。この解放劇が誰かに気取られる前に、迅速に行動を起こさねばならないのだ。
少女の体で受け入れきれない魔力を、長い髪に通した。垂れ落ちて顔をくすぐるそれが煩わしい。邪魔になる分だけをすくって縛れば、相応の見目にはなったろう。
「――まあ、こんなものですか」
久々に得た肉体の感覚に慣れるようにして、氷魔は黒い手袋に覆われた手を握った。
調整は上々だ。女の体よりは勝手がいい。上機嫌に頷いたところで、なだれ込む記憶と知識に眉をひそめた。
記憶の濁流から、最低限の常識を掴み取る。強い感情と鮮やかな記憶をのぞいて、その他は流れるままに無意識の海へと放り投げた。
残ったのは――。
憎しみと。
殺意と。
虐げられた鮮烈な記憶だけだった。
その痛みが体中を襲うようで、思わず舌打ちをする。体を譲り受けたということは、この体に降りかかった辛苦を全て引き受けることでもある。明らかな失調は魔力で賄えるが、その感情と記憶ばかりは、どうあっても受け流すことはできない。
――報復は後にするとして。
まずは名を決めねばなるまい。
まさかこの少女の名をそのまま名乗るわけにもいかない。書架から落ちた途方もない量の本から、足許にあったものを適当に開く。
どうやら鉱石の本であるようだった。
宿主から得た字の知識は、なかなかの高水準である。読み解くことにさほどの苦もなかった。
読み流す数百のページの中から、ふと目に留めた石の説明に目を通す。
俗に宝石といわれる類の石だ。深い青が特徴的だと書かれるが、白黒のインクでははっきりとした色合いは分からない。現在も流通しているようで、
古語で――サフィラという。
その響きが気に入った。幸いにして、宿主とした娘の名とも近い音のようである。無造作に本を投げやって、いくらか足りない知識を補うために別の本を開きながら、彼は緩やかに目を細める。
望外の展開を活かすには、己一人では役者が足りないようだ。
この世界に根付く誰かしらを捕まえる必要がある。相手は望む限り純粋である方がいいが、どんな相手でもさしたる問題はなかろう。
捕縛されるならばそれでもいい。男を処刑したはずが、小娘の首が落ちていた――というのも、充分な筋書きであろう。一度外に出られたのだから、素体を失ったところで痛手にもならない。
肉体を得られたのは僥倖だが、人の不便な体には、大事に扱うほどの価値もない。酷使すれば、その分の代償は払わねばならないだろうが、それもこの小娘に跳ね返るだけだ。どうなろうが構うことではなかろう。
そんなものに拘っていては、己の目的を果たせはしない。この世界と、人間と、それら全てがどうなったところで、彼の知ったことではないのだ。
世界に価値を作るために。
己が無為を慰めるために。
――心底から至高の絶望を。
蒼の繰糸 刀魚 秋 @Aki_SouSaku_0
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