5.はるけきもの

「ノイル様」

 呼ばれて振り返る。

 屋敷の地下にある書庫である。ひと月も空けていなかったはずが、粛々と頭を下げる給仕の顔が、随分と懐かしく思える。

 こみ上げる感傷を振り払うようにして、ノイルは首を傾げて要件を促した。

「どうしたの」

「ご主人様がお呼びです。サラが口を開かず」

「ああ――あんまり訊かないでくれって言ったんだけど」

「ご主人様にも事情がございますから」

 ――三日ほど眠り続けたサラは、今朝になってようやく目を覚ました。渦中の少女が眠っている間、ノイルに向いていた追及の目は、目醒めからずっと彼女に向いているようだ。体調が安定していると見るや、すぐに呼び出しがあった。

 だが――。

 手にした青い表紙の古書を見る。

 彼女の体に宿った魔族が、戯れに写し出したという日記は、あながち間違いではなかったらしい。彼女は、レンティス家のあらゆるものに心を閉ざしていた。

 目を開けた少女の、疑心に満ちた緑の瞳が脳裏をよぎる。

「俺がいても、喋ってくれないと思うよ」

 サラを助けたのは、確かにノイルだ。だが、彼女がそれを願ったわけではない。この救出劇の本質は、彼女を拾ったときと同じ――彼の自己満足である。

 口を利いてもらえる自信はなかった。

 重苦しい溜息を吐くノイルの内心を否定するように、給仕はなおも淡々と続ける。

「貴方様のお話をご所望です」

「ああ、そっち。俺もあんまり話したくないんだけど。逃げたら駄目かな」

「――ノイル様」

「冗談だよ」

 黒い手袋を唇に遣って、悪戯めいた表情で笑って見せる。咎めるように眉根を寄せた女に背を向けながら、彼は彼女に見えるよう、口許に微笑をひらめかせた。

「すぐ行くって伝えておいて」

 一礼をして――。

 去っていく足音をよそに、彼は手の中の古書を見る。

 全てを虚構で塗り固め、悪辣な笑みだけを真実として世界を滅ぼそうとした彼は、ノイルには終ぞ理解できなかった。人の身の愚かさを嗤いながら、その暗愚さをこそ喜びとするそれが、魔の者たる証なのだとすれば。

 ノイルはきっと――それを一生理解できない。

 去来する穏やかな笑みさえも忌々しい。思わず歪んだ表情を封ずるように、レンティス家の息子は息を吐く。

 ――これを管理するのが自分の仕事だ。

 そう思えば、もう逃れることは許されないような気になった。

 再び世に災禍をばら撒くわけにはいかない。お伽噺は遠い過去で、もはや現実にならぬからこそ、意味と価値がある。

 埃を被った金庫の扉を開く。舞い散るにおいに咳き込みながら、彼は空のそれをしばし見詰めた。

 かつて隣に立った、忌々しい魔導を一瞥する。

 今度こそは、もう二度と。

 ゆっくりと古書を金庫へ入れる。錆びた音のする扉を閉めながら、ノイルは静かに目を細める。

「――おやすみ、サフィラ」

 低く唸る声と共に、遥けき眠りは、暗闇に沈んだ。

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