4.はたせしもの

 赤いコートが風に揺れる。

 一角馬車の荷台に掴まり、ノイルは流れる景色を睨んだ。

 ――レンティス家の証を纏って、残った路銀の一部を差し出せば、商人はそそくさと荷台を空けた。三晩が明けて、ようやく王城を臨む街道まで戻ってきたところである。

 幸いにして考える時間だけは豊富にあった。途方に暮れるより先に、裏切りの苦しみは怒りに変わり、次いで思い浮かんだのは、サラのことであった。

 ――死んだに決まっておりましょう。

 と。

 薄氷は嗤った。

 それが事実にしろ、サフィラにとって都合のいい側面だけを切り取った嘘にしろ――。

 ノイルには信じることができない。ノイルに見せた全てを偽りだと嘲り笑った彼が、そう易々と真実を語るとは思えなかった。

 望みは――捨てるべきではない。

 内臓が浮くような、車輪の跳ねる感覚と共に、風が頬を刺した。

 ――思わず眉根を寄せる。

 山を越えた先にしばらく滞在していたとはいえ、故郷の温度を忘れるわけがない。手袋の上からも体温を奪う冷気が、風に乗って体に纏わりつく感覚は、十年ほど前にあった大寒波以来だ。それに加えて、あのときにさえ見なかった欠耳兎の死体が、まばらに街道を汚している。

 荷台から身を乗り出す。馬を操る商人に向けて声を投げた。

「この辺って、こんなに寒かったっけ?」

 首を横に振った彼が馬を止める。獣のにおい越しに見える街道には、薄く氷が張っているようだった。

 心底困り果てたとばかりに、商人は馬上で唸る。ひとしきり考えて、彼は結局、馬を降りることにしたらしい。

 それを見届けてから、ノイルも自身の手で荷台を開く。

「凍結しているようですな。失礼ですが――」

「分かってる。ここまで来れば、後は歩けるよ。ありがとう」

 言って、礼代わりの銀貨を握らせる。

 ――睨むように見る先に、王都の門があった。

 身を切る寒気に一度身震いして、コートの襟を引き寄せる。歩き出すと同時に吐き出した息が白く滲んだ。

 誰の仕業か――。

 考えるまでもなく理解する。彼がそこにある限り、この冷気が地表を覆って、全てが氷に鎖されることになるのだろう。

 それが彼の言う悲劇とやらなのだとしたら――ノイルにはそれを止める義務がある。

 出立したときよりも番兵の少ない門をくぐった。冴えた空気の中を歩いて、普段よりも厚着をした人波をかき分ける。大寒波の話題を繰り返す喧騒に耳を澄ませながら、彼は目を細めた。

 ――三日前から、雪原には吹雪が吹き荒れている。

 ――傷病者からは既に死人も出ている。

 ――それから。

「ノイル様!」

 呼び止められる。

 振り返った先に、随分と懐かしい、年若い従僕の顔があった。

 慌てる彼が吐く安堵の息も、やはり白く濁っている。雪でも降り出しそうな曇天を背に、使用人は咎めるように焦燥の声を上げた。

「お屋敷にお戻りください、ご主人様がカルロスの件で――」

「不枯の森が枯れてるって?」

 それを遮り――。

 問えば、従僕は目を丸くした。その困惑の表情を、青い双眸で真っすぐに捉えれば、彼はおずおずと頷いた。

「北の雪原から吹く風が、急に強くなったようです。王都の騎士が、原因の究明に向かっているそうですが」

「――分かった」

「ノイル様?」

 踵を返す。近道であるひと気のない路地に入り込もうとしたところで、腕を掴まれて体が止まる。

 振り返ることはしない。行き交う人の声から僅かに離れ、静けさを増した周囲にも響かぬように、低く押さえつけた声を発する。

「ごめん、もうしばらく帰れない。お父様に伝えておいて」

「そうは参りません! このことは騎士に任せて、ノイル様はお屋敷へ」

 お戻りくださいと。

 続くはずだった言葉を遮って、腰から抜いた刃を首へ向ける。

 旅の最中に調達した鋭い切っ先が、従僕に届く寸前で止まった。獣の脂と人の血を吸って、なお冴え冴えとした輝きを放つ。

 ――訓練用の剣はとうに捨てたのだ。

 怯える瞳を睨み上げるように見た。

「やらなきゃいけないことがあるんだ。邪魔をしないで。どうしてもって言うなら、悪いけど――」

 知った顔でも容赦はしない。

 細めた瞳に怖気づいたか、雇われて日の浅い使用人は、ノイルの腕を離して一歩退いた。

 再び背を向けようとして――。

 ふと気付いたように、彼は動きを止めた。すっかりと軽くなった懐を探り、目当てのものを取り出す。

 両親からもらったピアスの片割れだ。壊れてしまって以降、危険だからと身に着けることはしなかったが、結局捨てることはできずに、ずっと持ち歩いていた。

「これ、俺の部屋に戻しておいて」

 投げ渡したそれを受け取る従僕の、咎めるような怯えの声を振り払い、ノイルは足早に進む。

 向かう先は図書館だ。レンティス家の蔵書には劣るが、大教会に併設されていることもあって、王立図書館にも古書は多い。名義上の所蔵はレンティス大図書館であっても、ほぼ常時こちらに貸し出されているものもある。

 五千年間の無聊――。

 サフィラはそう言った。その突飛な発言が真実だとするなら、五千年前に彼に関する事件があったはずだ。資料など残っていることを期待するだけ無駄かもしれないが、ともすれば手掛かりがあるかもしれない。

 人知を超越した存在に対抗する手段を得るには、その可能性に賭けるほかない――と言う方が正しいか。

 ブーツの音を響かせ、目的の石壁までを急ぐ。見知った顔から隠れるように、ひと気のない路地を選んで進む。同じ剣を向けるなら、知らない顔である方がやりやすい。

 コートの上からも体を蝕む冷気を浴び、急に開けた視界に目を細め――。

 ノイルは水上の目的地を見た。

 王都の図書館は特殊な造りになっている。

 海から魔術で水を引き、深く広い堀に満たしている。王城と同じ――というよりは、王城が図書館と同じ造りをしていると言った方が正しい。神の本拠たる王都教会と同様にすることで、権威の象徴としたそうだ。

 番兵と跳ね橋によって厳重に守られた、水上の古城へ足を進める。図書館の主人を担う青年を、最敬礼で歓迎する番兵たちには目もくれず、ノイルは風にさざめく水の音を聞きながら、王立聖教図書館を見上げた。

 古びた教会と並び立つ、荘厳な石の壁は、張り詰めた神聖さの中に佇んでいる。

 湛えた静謐を破り、ブーツの音が城砦へ消える。水面に映る堅牢な知の保管庫が、風に掻き乱されて歪んだ。

 大仰な装飾の施された扉を閉じる。外気が遮られ、身を刺す苛烈な大気が、少しばかり和らいだ。

 まず迷いなく進んだ先は、歴史書をまとめた棚だ。古代について記された書物を片っ端から拾い上げ、次に持ち出し禁止の古書の棚から、目星をつけた本を何冊か引き出した。

 ――管理者として身につけさせられた最低限の知識が、このようなところで役に立つとは思わなかった。

 大机を一つ占拠し、選んだ本を捲る。目次に粗く目を通して、あたりを付けたページを開く。

 ――丁寧に読んでいる時間はない。

 この大陸を雪原の寒気から守っているのは、不枯の森だ。どこまで侵食されているのかは分からないが、枯れ果てれば吹雪がまともに襲うことになる。そうなれば、王都はおろか、グリア山脈までの街々は全て壊滅するだろう。山脈を越えた先も、いつまで持つかは分からない。

 五冊目の歴史書のページを捲り――。

 手を止める。

 最果ての凍土にまつわる伝説が書してある。世界を滅ぼさんとする氷の魔導を、賢者たちが魔力を込めて作成した剣を使い、本へ封じた。剣は悪用されぬように要塞谷へ突き立てられ、青い表紙の古書はレンティス家へ渡された。

 ――五千年前に。

 思わずもう一度見返した。強くなる心拍に喉が詰まる。はやる気持ちを押さえつけて、ゆっくりとページを捲った。

 かの者を魔族と呼ぶ。

 自我を持った魔力の塊であり、本来は実体を持たない。

 それでも、この世に干渉するだけの力は充分に持ち合わせているらしい。この世を戯れに滅ぼさんとする、悪辣な知性体だ。

 だが、その力を振るうために、依り代を求めることもある。膨大な魔力を受容できるだけの素質と、彼に抗う術がなければ、体を奪うことは造作もないと記されている。

 ――丁度いいところにいたものですよ。

 嗤うサフィラの声を思い出す。

 サラには魔術の才があると――。

 確信をもって言い切った、サラによく似た顔がよぎった。彼女の体が、人知を超えた力をも受け入れて、サフィラという魔の依り代になったのだとしたら。

 鞄に入れたままの、青い表紙の古書を捲る。

 記されたのはサラの心だという。

 忌々しい氷の魔物がどこまで本当のことを言っているのか、ノイルには分からない。それでも、目を背けたくなるような怨嗟と苦痛の塊を綴ったのが、本当に彼女なのだとしたら、それを看過することはできない。

 謝らねば――ならない。

 彼女をレンティス家に縛ったのは、紛れもなくノイルだ。

 行くべき場所は決まった。恐らくあの魔物は、最果ての凍土でこの世の終わりを待っている。

 持ち上げた青い瞳に、明確な殺意を湛え、彼は古書を捲った。


 王都の門をくぐる前に、背負った荷物の重みを確認する。

 決着がつくまで、王都には戻れない。あの従僕は、既に父親へ報告を済ませているだろう。雪原の中に入ってしまえば、追手は踏み込んでは来られまいが、騎士団が動き出すのも時間の問題だ。

 二日もあれば雪原は抜けられる。雪原に点在する、騎士団が使っている小屋を拠点にすることにした。封印のために必要な剣の位置にも、古書の内容からあたりをつけてある。

 この寒さの中で、要塞谷での野営を行うことは不安だが、背に腹は代えられない。どうにせよ、かの薄氷をどうにかできねば、近いうちに世界は滅ぶのだ。

 剣は既に新しいものを買った。騎士団が使う雪原用のテントは値が張ったが、普通のものでは耐えきれまい。火種にするための火打石も、うまく扱える自信はないが、魔術が使えぬノイルには必要だろう。

 残った金で薬を買い込み、食料を鞄に詰めた。不枯の森や、吹雪で荒れているという雪原はともかく、元より寒冷地帯である要塞谷には気候に適応した獣しか生息しない。何事もなく辿り着ける自信はなかった。

 それでも――行くしかない。

 目を細めて街道を睨む。コートの裾を翻し、向かう先を睨みやった。

 問題は――。

 不枯の森の調査に入った騎士団を、いかにしてやり過ごすかだ。最悪の場合は武器を交えることも考えねばならないが、その場合は相手を全滅させねばなるまい。敵襲者がレンティス家の子息であることを知られるわけにはいかないのだ。

 どうにせよ――。

 行かぬことにはどうにもなるまい。幸いにして、森の中ならば、身を隠す場所も豊富であろう。雪原を当てもなく歩き回る羽目になるよりはましだ。

 地図を開いて、足早に歩き出す。

 騎士団が使う小屋は三か所にあるはずだ。雪原に入ってすぐの位置に一つ、残りは中継地点と、要塞谷との境である。広くて視界の利かない場所であるから、迷わぬための目印はそこかしこに用意してあるのだと、かつてカルロスが語っていたのを思い出す。

 まずは不枯の森を抜けてすぐの駐屯所を目指す。そこから先は、近くにあるであろう目印を追いながら先に進むしかない。

 古の魔を封ずるといっても――。

 まずは彼に対峙するまで、生き延びることが優先だ。足許に転がる獣の死骸と同じ末路を辿ることは避けたい。

 足を止めた先の、常緑の木々を見る。

 この森の中で、騎士団の目さえ逃れれば、その先は誰も追って来るまい。腰の剣を使う機会が来ないことを祈りながら、ノイルは冷えた土の感触を踏みしめた。

 その先で。

 規則正しい足音を聞いて、咄嗟に幹へと体を隠す。

 盗み見た調査隊は、五人ばかりで編成されているようだ。厚手のコートを着て、白い息を吐いていた。魔物を相手にするときの重鎧は纏っていない。この寒さでは当然であるかもしれないが。

 息を殺したまま、自身のコートとマントを掴んで引き寄せる。緑の中にあって、赤と黒はひどく目立つ。変えてくればよかったか――と思うも、ここから引き返したとあっては、またレンティス家の者に見つかるかもしれない。

 そちらの方が危険だ。

 ノイルの気配に気づく様子はない。無言のまま通り過ぎた一団が戻ってこないのを確認して、彼はようやく、深く息を吐いた。

 屋敷では使用人相手に逃げ回っていた身だ。こうして隠れまわるのは慣れているが、この緊張は好きではない。

 耳の奥で空転する心音に乱れた息を整える。そのまま進むうちにも、警戒は怠らない。

 ――まさか、調査に入っているのがあの一隊だけということはあるまい。

 耳を澄ませるまま前に進む。この寒気に耐えきれなかったのだろう、獣の声がないのは、不気味ではあれど好都合だ。

 ノイルの緊張に反して、木の葉が擦れる音のほかに、森に生命の気配はなかった。

 奥に進むにつれ、吹き込む冷気は強くなる。遠くに吹雪く暴風の音を聞く頃には、常緑であるはずの木々は、一様に黄色い葉を地面に落とし、乾いた色の幹を力なく冷気に晒していた。

 積みあがった枯葉を踏む。乾いた音が妙に耳に残った。立ち枯れて色を失った木々と、そこかしこに転がる獣の骸の先から、顔へ雪が吹き付ける。

 倒れた巨木の向こうから――。

 漂うにおいに嗅ぎ覚えがあった。鮮明によぎる忌々しい記憶に、ノイルの表情がひどく歪む。

 それでも足を止めるわけにはいかない。倒木を越えた先の光景を想起しながら、彼は雪原へと踏み入った。

 つくづく――。

 都合の良い、、、、、話だ。

 眉根を寄せて見るのは、雪の上に伏した骸である。見渡す限りの白銀を赤く染める体液さえも凍り付き、吹きすさぶ風に晒された遺骸を、新たに積もった新雪が覆っている。このまま放っておけば、じきに埋もれて見えなくなるだろう。

 ――もはや、彼はその正体を隠す気すらないようだ。

 誘われていると思うと、いい気はしなかった。嘲笑う表情までもを思い浮かべて、ノイルは苛立たしげに足を踏み出そうとする。

 ――そこで動きを止めた。

 見遣った遺体は半分ほどが白に埋もれている。このままであれば、溶けない雪の下で、永久に眠ることになるだろう。

 ゆっくりと手を伸ばす。

 成人男性の重みは、ノイルに持ち上げられるものではない。それでも乱雑に引きずることは憚られた。しゃがみこんで、肩を貸すように立ち上がる。

 そのまま。

 立ち枯れた木の影に横たえた。

 一週間もしないうちに、その周辺も雪に埋もれるかもしれない。だが、吹き晒されているよりはずっとましなはずだ。

 本当なら、王都に報告に戻るべきだ。すぐに追加の調査員が派遣されて、彼らを家族のもとへ運んでくれるだろう。

 そんなことをすれば――世界は滅ぶだろうが。

「帰してあげられなくて、ごめん」

 それでもノイルにはやるべきことがある。

 謝罪を引きずるまま、転がった死体を全て木陰へ運び込んでから、彼はようやく、吹雪の中へと身を躍らせた。

 顔を腕で守り、コートの端を引き寄せる。苛烈な風が肌を刺し、曇天と踊る雪が視界を阻んだ。踏みしめる雪の感覚に足を取られぬよう、細心の注意を払いながら、彼は一面の白に異物を探した。

 視界の端に捉えた赤に顔を上げる。

 はやる気持ちを抑え、一歩ずつ慎重に足を踏み出す。でたらめに吹き付ける風に煽られるそれが赤い旗であると、あと十数歩と迫る地点で気付いた。

 ノイルの背と変わりない程度の旗の、太い柄に体を預ける。安堵と緊張が、冷えた体を覆って、余計に肩が強張るような心地だった。

 命を繋ぐというのは――。

 奪うよりずっと難しいことのようである。

 この目標を見失うことのないようにと、ノイルは初めて、心底から神に祈った。


 火打石を打ち合わせる。

 かじかんだ手はうまく動いてくれない。苛立ちの唸り声を上げながら、たっぷり時間をかけて、数えるのも嫌になるほどの不発を重ねる。

 その先でようやく生まれた火種に、ノイルは思わず目を輝かせた。

 要塞谷の周辺まで、どうにか目印を見失わずに辿り着くことができた。冷えた大気と歩きにくい雪の中を歩き通して、かなり疲労が溜まっているが、ここで弱音を吐いている場合ではない。

 備え付けの暖炉に放り込んだ薪が燃える。雪で濡れた上着を暖炉の近くに広げ、その前に座り込んだ彼は、安堵を示して、一つ白い息を吐いた。

 ――駐屯用の小屋は、思いの外、しっかりとした造りをしていた。

 よくよく考えれば、王都の騎士が利用するものである。一般の住宅と同じような木造建築であっては困るだろう。それに、冬の間じゅう吹雪に晒されているものだ。耐久力を欠いた造りであるわけもない。

 石造りの堅牢な建物にあって、ノイルは少しばかり緊張を緩めた。

 この先は、険しい渓谷の中で数日を過ごさねばならない。まともな休息を取れるのはこれが最後だ。こんな場所に遣わされる騎士団の労苦が偲ばれる。

 暖まった手と、収まってきた頭痛に、ようやくまともな思考が戻ってくる。どうにか命は繋いだが、問題はまだ山積みだ。

 雪原の魔物は皆、この急激な環境変化についていけず死んだようだが――。

 山岳に囲まれた要塞谷にまで、この吹雪が侵入しているとは考え難い。そうなれば獣の全滅は望み薄だ。元より寒冷な気候に適応した魔物が多い地である以上、剣を抜くことは避けられまい。

 そのために。

 柄を握る力を確保しておく必要がある。この暴風が遮られる分、雪原を横切るよりは楽だろうが、長期戦になることは間違いないだろう。何しろ封印のための剣の位置すら正確には把握していないのだ。

 思いながら、床に置いた鞄から地図を広げる。持ち歩いているペンで記したおおよその位置の横に、封印のあらましを書いておいたのだ。

 ――字が書けることに、こんなにも感謝したことはない。

 曰く、谷底の洞窟の奥深くであるという。ノイルには要塞谷の全容は分からないが、谷底に、洞窟と呼べるほどの洞が、そう多くあるとは思えない。

 封印当時は周辺の気候さえ操り、一帯を無風にしていたというのだが、五千年も経った今は、恐らくそこまでの力はない。

 むしろ封印の力そのものまでも――。

 と、考えかけたところで、その疑念を振り払う。どうにせよ、かの妖魔に立ち向かうためには、剣の力が不可欠だ。力を失っているのだとしたら、なすすべはない。

 防寒用のテントは十枚ある。時間制限と帰途のことを考えるなら、要塞谷の探索は一週間が限度だ。

 ――ノイルとて、ここを死地と定めるつもりはない。

 あくまでも、サフィラを封じ、サラを連れて帰ることが目的である。捨て身の覚悟はあるが、最初から命を投げ出してかかるわけではない。

 ともかく、行かぬことには何にもならないのだが。

 鞄から取り出した、食べ慣れた干し肉の味気なさを噛みちぎる。今はこの先を考えて、体力を回復しておくべきだろう。

 暖炉の炎がはじける音を聞きながら、体が暖まるのを待つ。

 本当ならばここで一夜を過ごしたいのだが、厚い雲がかかった現状では、今が昼なのか夜なのかも分からない。中継地点の小屋では充分な睡眠をとり、眠気も訪れない現状では、この吹雪から逃れるのが最善だろう。

 広げたコートに触る。完全に乾燥したとまではいかないが、渓谷の風にならば、体温を奪われることはないだろう。暖まった体に纏い、暖炉の火を消して立ち上がる。

 ――要塞谷の名の由来は、この雪原を気紛れに吹き荒れる風と、一角馬が生息できない厳寒な気候が大半を占める。

 山そのものの険しさでいえば、グリア山脈に軍配が上がる。要請があれば、騎士団は谷底まで下ることもあるというのだから、装備さえあれば、人の足で越えられない場所ではない。訓練を積んでこそいないが、数週間の旅路で、ノイルも相応に鍛えられてはいるのだ。

 できぬことはあるまいと――。

 覚悟を決めて小屋を出た。眼前の山を越えねば、目的を果たすことはできないのだ。

「やろう」

 ともすれば萎えそうな気を鼓舞するように、小さく呟いて目を細める。脳裏に想起するのは、相も変わらず、薄い青の髪をした少女の姿だ。彼女に知らぬまま味わわせてきた苦痛を、謝らねばならない。

 突き付けられた責任を、果たさねばならないのだ。

 意を決して、深雪の中に足を進める。吹き付ける風は依然として強い。山の裏手に入るまでは、体温を保つことが最優先だ。

 コートの端を掴み、なるべく雪に手を付かぬようにしながら、ノイルは早くも熱を失い始めた手に息を吐きかけた。つけたままの黒い手袋は、役には立っているのだろうが、それでも焼け石に水といったところであろう。

 ――ないよりはましか。

 踏みしめるような一歩と共に、末端から温度が奪われていく。体の芯まで凍りそうな心地に耐え、剥離しそうな意識を繋ぎ止めて――。

 うの体で、ノイルは山頂を転がり落ちるように越えた。

 歯の根が合わないまま、一刻も早く風から逃れたい心地で足を進める。とにかく、命の危機を伝えてくる全身に、体温を戻してやりたかった。

 風よけを探す目に映るのは、頂上付近の洞窟である。

 その中に身を寄せて、ノイルはようやく人心地ついた。気温は変わらないが、風と雪がない分だけ、体感としては暖かい。すっかり温度を失った手に息を吐きかけ、彼はがむしゃらに携行食料を噛み砕いた。

 ――だが、そう安心してもいられない。

 寒さから逃れてしまえば安全圏だった雪原に対し、要塞谷には魔物がいる。吹雪の中では生きていられまいが、頂上を越えれば雪は阻まれる。この洞窟にも、潜む獣があるかもしれないのだ。

 警戒せねばならないとは分かっている。

 頭では理解こそすれど、疲労の溜まった体は言うことを聞かない。申し訳程度に満たした腹でも、眠気は襲ってくる。

 耐えきる気力もなく、彼は壁にもたれかかったまま、まどろみに呑まれていった。


 少女が立っている。

 焦がれ続けた面影が眼前にある。水色の髪は美しく、端正な顔立ちに嵌まった緑の瞳は、まるで翠玉のようだ。

 ――サラ。

 郷愁にも似た懐かしさで、ノイルは彼女の名を呼んだ。そぞろな眼差しが彼を捉える。それがどうしようもなく嬉しくて、頬を緩める彼に、彼女は眉根を寄せて問う。

「どうして、私を助けたのですか」

 糾弾の声音に。

 ノイルは弁明を失った。

 彼女の声は尚も詰る。彼女の命を握り、中途半端な生かし方をする青年に向けて、首を横に振って見せる。

 顔を覆った。細い指の隙間から雫が零れる。

「殺してくださればよかったのに。死なせてくださればよかったのに。こんな苦しい思いをするくらいなら、私は」

 貴方はそれをご存知でしょうと、少女の面影は泣く。

「なのに――どうして、また助けようとなんて、なさるのですか」

 そこで目が醒めた。

 いつの間にか眠って、地に伏していたらしい。土のにおいに咳き込みながら、重い頭を持ち上げる。運が良かったな――と、他人事のように洞窟の奥を見遣りながら、ノイルは己の掌を見た。

 あれだけ追いかけていたのに、サラの夢を見たのは、これが初めてだ。夢の中で切々と責める彼女の声が蘇る。

 一度目の救済は自己満足だった。時には生きていることこそが苦痛になると、知らなかった時分の話だ。結局、彼に見えていたのは表面的なことばかりで、何も知らないまま彼女を追いこんでしまった。

 そしてそれは、今回も変わらない。

 謝りたいという一心で、ここまで来た。彼女を救うと言うが、それが本当に彼女の救いになるのか、ノイルは知らない。もし世界を滅ぼしたかったと泣かれても――彼にはこの旅をやめることはできないだろう。

 これは。

「――俺の自己満足だよ」

 ただ謝罪したいと。

 それだけの思いで、ノイルはここに立っている。

 幾分かましになった体で鞄を背負う。吹雪がないだけ、この先はまだ楽なはずだ。

 足許に気を配りながら、急勾配を下る。雪原と比べれば穏やかな風は、それでも全身を刺すような冷気を孕んでいた。

 ところどころで立ち止まりながら――。

 周囲を警戒する。先程から獣の気配はあるが、姿を捉えることはできていない。この周辺の生き物は、人間を見慣れてはいないのだろう。ノイルの背にある食料が狙いか、或いはこの先の谷底に縄張りがあるのか、張り詰めた空気が、今にも心臓を食い破らんとしているようだ。

 ――剣の柄に手をかける。

 あまりこの場で戦いたくはない。一歩踏み外せば奈落の底である。それでも、不意を突かれるよりは良いはずだ。

 腹を括るノイルに反して、気配は動かない。焼けつくような緊張だけを孕んで、彼を窺っている。

 しばし――。

 睨み合うようにしてから、ノイルはゆっくりと足を引いた。

 ここで睨み合っている時間も惜しい。柄を握るまま、慎重に前へ進む。

 寒冷地に特有の針葉樹は、要塞谷の厳寒にも耐えうるらしい。僅かに吹き込む雪の下で、未だに緑を残すまばらな木々を横目に、ノイルは一歩ずつ斜面を下る。まさか、ここまで来て滑落するわけにはいくまい。

 ――集中力を切らさぬまま、辿り着いた谷底は、想像よりも穏やかな場所であった。

 凪いだ風が頬を撫で、ちらほらと見える木々からは木の葉が擦れる音がする。厳寒地でも足許を彩る草が、味気ない白と茶色に色を添えている。身を切る冷気さえなければ、ここに人が住めないなどとは、夢にも思うまい。空想で語られるような妖魔の住処とは程遠い光景に、思わず目を細めた。

 風景に気を取られるノイルの耳を、獣の咆哮が打つ。

 先からついてきていた気配が躍り出る。ノイルの身の丈をゆうに超す大型だ。なるほどこの図体では、狭い場所での戦いは避けたいだろうと納得する。

 威嚇もなしに敵意を見せる様子を見るに、やはりこの谷底を根城としているようだ。近くに巣があるのかもしれない。

 頭を巡る理由を振り払う。

 どうにせよ。

 邪魔なものは――どかすほかあるまい。

 剣を引き抜いて低く構える。振り下ろされる爪が髪を掠めるのも気にせず、その腹を横薙ぎに斬り払う。

 爪に受け止められた一撃には見切りをつけた。弾かれる勢いのまま後方に下がり、続く一打が空を掻くのを視認する。

 隙を――。

 突くようにして斬り込んだ得物が、獣の肉を掠める。

 怒りの咆哮に柄を握り直したノイルへ、牙が迸る。

 左腕に走る痛みを一瞥する。裂傷だが浅い。視線を戻すなり、彼はその首筋にめがけて剣を叩き込んだ。

 長い断末魔があって――。

 静寂が戻る。首から血を吐き出し続ける獣の肉を切り取って、彼は一つ息を吐いた。

 谷底までどうにか辿り着いたことである。休息を取るためにも、望外の獣肉を生かすためにも、枝を集めねばなるまい。

 傷に薬を塗り、四苦八苦しながらもなんとか形にしたテントの中で、ノイルは再び地図を広げた。この谷底を移動して、どうにか封印のための剣を手に入れねばならない。

 明瞭とした場所が分からぬ以上――。

 歩くしかないのだと考えてから、この数週間、虱潰しに当たるほかには何もできていないと、ノイルは一人苦笑した。

 サラを探し回り、あるはずのない情報を求めて街をうろついていたときの徒労感に比べれば、まだましだろうか。何しろお伽噺として語られるはずのサフィラが存在しているのだから、剣があることだけは確かである。

 尤も――。

 それをノイルが扱えなければ、意味はないのであるが。

 特殊な術式が必要だとの記述はない。魔を貫けば、それで封印の力は巡ると、古書には書き記されていた。

 だが、それも剣の魔力が満ちていればの話だ。そのための力が足りなければ、魔術がからきしの彼が奮闘したところで、封印にまではこぎつけられないだろう。

 そうなれば。

 取れる方法は二つである。

 甘んじて世界の終わりを受け入れるか――さもなくば、サラごとサフィラを殺すかだ。

 選択の余地はない。そうは思えども、眉根が寄るのばかりはどうしようもなかった。サラを見捨てることを強要されている以前に、かの薄氷に敵うかどうかも問題だ。

 叩きつけられた背の痛みと、喉元に向けられた氷の温度が思い出されて、ノイルは思わず眉根を寄せる。あのときは冷静な判断力を失っていたにしろ、古の氷魔の力は、幾度となく見せつけられている。いくら元がサラの肉体であるとはいえ、加減をしていられるほどの余裕はないだろう。

 その場になって太刀筋が鈍っては、それこそ世界が終わる。たかだか一人の給仕のために、世界を破滅させることが愚かしいのは分かっているが、ノイルにとってはたった一人のサラであるのだ。

 祈るような心地を抱えるまま、ノイルは立ち上がる。ともかく、先ほど討ち取った獣の肉を腹に入れたかった。

 ――そうして、寄り付く獣を片付けながら、テントを三枚ばかり使ったころである。

 ノイルはようやく、目当てと思しき洞窟を見つけた。

 覗き込めば、奥は深いようである。火打石に苦戦しながらも、ランタンにどうにか火を灯し、彼は一歩中に入る。

 足音の反響を聞く。左手に持った光源が切れたときのことを思うと、恐ろしいような心地が背筋を這った。この寒さの中で、光の届かない深奥に取り残されたら、それこそ誰にも見つけられない死体の一つになるだけだ。

 生唾を呑んで足を進める。遥か過去に一度だけ振るわれた剣が、ただの鉄塊であるならば、もはや世界になすすべはない。古に語られる賢者など、この世にはもう存在していないのだ。

 思いながら踏み込んだ先に――。

 無造作に剣が刺さっている。

 一見すれば何の変哲もない得物だった。恐る恐る近寄って、柄に刻まれた文様に触れると、呼応するように、刀身が仄かな赤い光を纏う。

 彼を主として認めたのだと。

 都合のいい解釈をし、ゆっくりと引き抜いたそれは、思いの外手に馴染んだ。

 ――紛れもなく、賢者の遺物であった。

 五千年の永きに渡り、この地にあり続けた剣の刃は、未だ鋭さを保ったままだ。こと魔術に疎いノイルの手にも、刀身を僅かな魔力が巡るのが感じられる。

 往時の力とまではいくまいが――。

 残滓が残っているならば、希望はある。

 準備は整った。残る仕事は、山を越えた先に待っている悪辣な魔導を封じ、この旅路の全てを終わらせることだけだ。

 己が享楽のために、世界を呑まんとする怨敵を睨むように、彼は踵を返した。


 遥か五千年前、世界を覆う大災害があった。

 どこから現れたかも分からない、何のために滅びを望んだのかも不詳の、自我を持つ魔力の塊――。

 遠い日に水宝玉と呼ばれた賢者は、それを魔族と呼んだ。

 名もなき古の魔導は、宿した氷の力でもって、吹きすさぶ寒気の中に世界を鎖した。その悪辣な支配者から、全てを取り戻すために、魔術師たちは団結して、剣を造り上げる。

 神の恩恵を受ける賢者の魔力を宿した、退魔のための剣だ。その力は絶大で、振るうことができたのは、力の源となった賢者ただ一人であったという。

 気まぐれな憑依を繰り返す魔を、彼はとうとう討ち果たすことに成功した。剣に捕らえた力を、一冊の青い書に封じることで、世界は安寧を取り戻したのである。

 そうして。

 封じられた名もない魔力の残滓が残る北の地は、気ままに吹き荒れる吹雪で鎖された。

 大きな力を持つ剣が悪用されることを恐れた賢者は、不枯の森で雪の侵入を阻んだ後、要塞谷の奥深くへとそれを封じた。

 二度と、かの魔導が世界を蹂躙することのないように――。

 祈りを宿した墓標が、洞窟の奥へ突き立てられて、あらゆる生命を脅かした薄氷は、永久にその身を封じられたのだった。

 ――それが、お伽噺の全容である。

 最後の休息のため、立てたテントの中で、ノイルは剣を見る。仄かな魔力を宿したそれが、遥か昔に決着をつけた得物であるという。

 賢者の祈りも虚しく、封印は破られた。管理者として、レンティス家の次期当主は、責任を取らねばならない。

 それに。

 ――サラに、世界を滅ぼさせるわけにはいかないのだ。

 握った剣から流れ込む違和感に目を細める。自分自身が体から切り離された、眠りに落ちる直前のような感覚が、心の片隅に巣食っている。これが魔力なのだとしたら、なるほど、サフィラほどの魔導ともなれば常人には耐えられまい。掠れて褪せた魔力でさえ、ノイルには制御が難しいのだ。

 その代わり――。

 周囲の寒さは気にならなくなった。

 これも剣の魔力が成せる業だろう。人が踏み入ることを許さない、永久に鎖された最果ての凍土を前にして、ノイルがごく普通に体を動かせるのは、ひとえに手にした得物の力である。

 これがなければ、まともに対峙することさえ叶わないだろう。

 休息は充分だ。携えた剣の力を以ってして、かの忌々しい男から、焦がれた少女を取り戻す。

 彼女に。

 言わねばならないことが沢山ある。

 柄を握る手に力を込める。引き結んだ唇に、くらい決意だけを湛えて、ノイルは青い古書を手に立ち上がった。

 かつての賢者が力の粋を以って封じ、それでもなお力を遺した魔導。

 古の凍土の只中に――。

 それは待っている。

「――お待ちしておりました」

 振り返った眼差しが、ひどく穏やかに瞬いた。薄い唇に軽薄な皮肉を携えて、サフィラは仮初の主を嗤う。

 薄曇りの狭間から陽光が差し込んでいた。髪を分けるように生えた男の氷角と、味気ない氷の大地を彩るように突き刺さる氷柱が煌めいて、静謐な空気を冴えた殺意で染め上げる。

 怯むでもなく――。

 ノイルは手にした剣を持ち上げた。切っ先を向けた一瞬で、古の魔王の表情が、忌々しげに歪む。

 目を細めて。

 叡智の管理者は、凛と声を放った。

「お前の三文芝居に付き合うつもりはない」

「心外な」

 歪んだ歓喜で持ち上がる唇は、あくまでノイルを嘲笑う。見知ったはずの得物にも、さしたる脅威を見出した様子はなく、彼は大仰に肩を竦めた。

「私は貴方に、世というものを教えて差し上げただけでしょう」

 燕尾服を纏った怪物が、腰のレイピアを抜き放つ。その刀身を見る間に氷が覆った。

 己を欺いた男へ。

 封印の術式を纏う剣がひらめく。

「サラを返せ」

「死んだと申し上げたはずですが?」

 満ち行く力の嵐が逆巻いた。己を射殺さんとする、煌々と輝く赤い瞳に、深い憎悪を湛えた青が無言で得物を構えた。

 ――それさえも。

 魔王は嗤う。

「貴方の最期を彩る舞台、これにて終幕と致しましょう!」

 吹き荒れる氷の只中で、氷魔は指揮棒が如くレイピアを振り上げる。生まれた無数の刃が首を狩ろうとするのにも構わず、赤いコートが走り出す。

 凍てつく大気が頬を掠めた。溢れた赤が伝い落ちる温度が、即座に奪われて凍りついた。

 拭う間もなく。

 地を這う冷気が氷柱を成す。薙ぎ払う剣の向こうで怨敵が嗤うのを見据え、ノイルは跳躍した。

 意志を持って襲い来る氷の破片をいなす。

 思い切り踏み切った勢いのまま。

 振り下ろした刃が悪魔の首筋を狙う。

 ――細剣は易々と剣を受け止めた。生半可な力では叩き割れぬ氷の先で、サフィラはノイルの眉間の皺を嘲笑う。

「良い表情をするようになりましたね」

 拮抗する力をかわすように。

 氷を纏うレイピアが剣を滑る。勢いに押されて弾き飛ばされた青年が体勢を整えるより前に、燕尾服の得物は心臓を狙った。

 穿たれる刹那。

 地を捉えた足で体を逸らす。追撃をかわすべくしゃがみ込めば、細剣の切っ先が赤茶の髪を掠める。

 そのまま。

 得物を引き寄せんとする怪物の腕を掴む。

 一瞬――。

 動きを止めた黒い手袋が舌打ちをする。

 それだけの隙で充分だった。無防備な脇腹に向けて白刃を振り抜く。

 剣先が長身を捉える直前。

 強い衝撃を受けて、剣は持ち主ごと地を転がった。

 蹴り上げられたと理解するまでに時間は要らない。腹に残る衝撃に咳き込み、痙攣する肺で凍り付く大気を吸う。

 次の一手に思考が回るより先に。

 ノイルはその場から体を離す。

 数拍前まで頭があった位置で、氷華が爆ぜた。砕ける氷の粒が肌を斬り裂く。焼けつく痛みに眉間の皺を濃くしたまま、赤いコートは嗤う魔王を見た。

 その表情を。

 ――サフィラは高らかに讃える。

「人間とは、斯様にも無様で、斯様にも愚かしい! 滑稽ですねぇ――!」

 耳障りな声だった。

 聞き慣れたそれを睨む。想起する旅路の全てを呪いに代えて、ノイルの眼差しが暗澹と歪んだ。

「少し、黙ってろ」

 体を巡る魔力に同調する。剥離した自分の欠片を拾うように息を吸った。白く濁る吐息の向こう、かつて賢者が封じ、再びこの世を滅ぼさんとする、古の氷王――。

 その悪辣な笑みを。

 ――赦しはしない。

 駆けた切っ先がサフィラを捉える。長い薄青の髪を掠めたそれを睨み、怪物は不愉快に表情を歪めた。

 渦巻く魔力がレイピアに収束するより先に。

 ノイルは後退する。眼前で弾けた氷塊が、でたらめな質量の嵐に変わるのを一瞥し、彼はその最中へ身を躍らせた。

 吹き荒れる雹が視界を覆う。怨敵の姿さえ捉えきれてはいない。

 だが。

 ――それはサフィラも同じだ。

 氷の粒に斬り裂かれる体で踏み込む。剣を振り上げるまま跳躍した。

 その先にある驚愕の表情に。

 唇を歪める。

 サフィラの反応は僅かに遅れた。首筋を叩き割らんと振り下ろされた剣が右腕を裂く。燕尾服を赤く染め上げて、怪物は笑顔の仮面をかなぐり捨てた。

「小賢しい――!」

 苛立ちの声に向け、剣が追撃を繰り出す。

 撃ち合わせた剣が鋭い音を立てる。零れ落ちた鮮紅が氷上で凍り付いた。明るく光を孕む赤い双眸を睨み、悪意の象徴に向けて、ノイルは唸る。

「世界とサラは、絶対に助ける」

「世迷言を」

 対する氷魔が吐き捨てる。鍔迫り合いを逃れた体が、しなやかに宙を舞った。

 振り抜く細剣に力が逆巻く。

「貴様の望む世界など、どこにもありはしない!」

 生み出される空気が冴え冴えと肌を刺す。一層輝きを増した鮮やかな赤が、明瞭たる憎悪に染まるのを、青い瞳が刺すように見据えた。

 ――それは。

「こっちの台詞だ!」

 襲い来る刃をいなしきる。致命の一打を避けるままに馳せた。

 走る氷柱を薙ぎ。

 剣を構える。

 かつての賢者の残滓へ身を委ねる。渦巻く魔力が許容量の限界を訴えた。乖離していく己を繋ぎ止めるように叫ぶ。

「お前を――殺す!」

 一度目の剣戟はかわされる。爆ぜる氷が肩を抉った。

 構わず繰り出す二打目が胴を捉えた。剣越しに歪む端正な顔立ちが見える。

 三撃目に。

 ――腹を貫く。

 臓腑を斬り裂かれる感触に、サフィラの表情が苦痛を訴える。

 それでもなお――。

 古の魔導は、ひどく満足げに唇を吊り上げた。

「愛した女を殺し、救世を成す――何と、素晴らしい」

「煩いな」

 突き立てた剣に力を込める。祈るような思いで、残る気力の全てを明け渡さんと、ノイルは目を閉じる。

 ――刹那。

「馬鹿な」

 サフィラが初めて声を揺らがせた。

 刀身が光を帯びる。地に広がる紋様が、燕尾服を包むように輝く。

 封印術式の発動を。

 ――ノイルは茫然と見た。

「たかが一人の魔力で、何故――!」

 その力の源は、ノイルではない。逆巻く風に動揺をにじませる、眼前の氷魔であるはずもない。残るのは。

「サラ?」

 呼んだ名に呼応するように、陣はその色を強める。

 ――水宝玉の賢者は。

 水色の髪をした、美しい男であったという。

「小娘如きが――!」

 抗うように声を荒げた魔導が、表情を歪めてレイピアを振り上げる。凝縮した魔力が吹き荒れ、無数の氷塊が顕現する。

 その切っ先が。

 ――ノイルの目の前で溶け落ちる。

 荒れ狂う冷気がやんでいく。同時に、体を巡っていた剣の魔力も、ゆっくりと抜け落ちた。薄く掠れていく地面の紋様を見送る。

 そうして。

 全てが終わった氷の最中。

 穏やかな風の中央に、少女が立っていた。緑の瞳を長い睫毛の下にしまって、力を失う体が崩れ落ちる。

 慌てて支えた白いエプロンに、零れ落ちた赤が染みを残す。

 肩で息をするまま――。

 ノイルは古書を手にした。しばし見つめてから、無造作に地に放り投げたそれへ、力を失った剣をかざす。

「お伽噺はお伽噺のまま、眠ってろ」

 吐き捨てる言葉に応えるように、凍土は凪を取り戻した。

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