3.さえたるもの

「よろしいのですか?」

 問うたサフィラの声に、ノイルはふと顔を上げた。

 グリア山脈の麓にある街である。あらゆる商人や旅人が足を休める宿場に、彼らがたどり着いたのは、夕日が沈もうかという頃合いだった。

 人の足で山脈を越えるのは流石に難しい――というのは、ノイルにも、この大陸に馴染みがないサフィラにも分かっていたことだ。空いていた安宿を取り、いつにも増して寝心地の悪いベッドに魘されて、ノイルはどうにか一晩を過ごした。

 早朝の朝靄の中で、久々に纏った赤いコートを整える。口を衝く欠伸は、既に何十回目かも分からない。山越えのために用意された乗り合いの一角馬車を、コートの権力で貸し切り、馬上の騎手に金貨を渡しながら、彼は執事を見上げた。

「何が?」

 訊き返せば、ひどく気遣わしげな顔をする。その表情にも心当たりがなく、ノイルはますます首を傾げる。

「お屋敷にお戻りになった方がよろしいのではないかと。ここまで目撃されていないことを考えるならば、サラは恐らく――」

 言葉尻を濁して、サフィラは沈痛に目を閉じた。

 ――言わんとすることは理解する。

 確かに、この街にも情報がないとなれば、事態は既に取り返しがつかない状況にまで達している可能性もある。ノイルの権力があれば、行き先を王都に変更することも可能だろう。この先に待っているのは、単なる徒労であるかもしれないと思えば、ここで引き返すことも選択肢の一つではある。

 だが。

 ノイルには、どうしても諦めがつかない。

「まだ決まったわけじゃないよ。死体が出たなら、それこそ、そういう情報があるはずだ」

「ですが――」

「諦めたら駄目だよ。俺たちと別のルートを通ってるのかもしれない」

 限りなく低い可能性ではある。街道沿いに発展した街ならともかく、他の場所にあるのはまばらな農村だけだ。手付かずの大地に潜む魔物の数と、自警団の存在を思うなら、それこそ危険すぎる。

 それでも、ここで諦める理由にはならない。既にレンティス領を発ってから二週間あまりが経過しているのだ。

 それに――。

「今更戻ったんじゃ、格好つかないじゃないか」

 普段サフィラがそうしているように、冗談めかして笑ってみせる。しばし目を瞬かせていた執事は、ようやく安堵したように相好を崩した。

「――そうですか」

 乗車を手伝う腕には、もう迷いがなかった。ノイルを先に車上へ押し上げてから、彼は優雅に客席へ乗り込む。

 思えば――こうして人を運ぶための馬車に乗るのも、随分と久しぶりだ。

 ここまで、馬車に乗っているときは、ずっと荷台に揺られていた。蹄の音と車輪の振動が直に伝わる感覚も悪くはないのだが、やはりこちらの方が乗り心地はいい。

 息を吐いて地図を広げるサフィラの横で、客車を繋がれた馬を見る。

 気性が荒いはずの一角馬だが、施された調教のお陰で、騎手が鞭を振るうまでは静かに立っているだけだ。本来は鋭く尖っているはずの角は折られている。万一の暴走に備えた措置だと聞いたことがあった。

 水晶のような美しい見目に反して、その角は成獣になると硬質になる。それを見越して幼獣のうちに切り出した角は、加工して装飾品にするそうだ。

 薄い青の混じった装身具は美しいと評判である。そういえば、母は質の良いネックレスか何かを買っていたような気がした。

 サラに似合うだろうな――。

 と、付け根に残る角が光を反射するのを見る。もしサラを見つけられたら、帰りがけに買っていってもいいかもしれない。

 髪の色に埋もれるピアスよりは、ブレスレットの方がいいだろうかなどと、本気で頭を悩ませていたノイルを、サフィラの落ち着いた声が引き戻す。思わず見上げた先で、穏やかに瞳を細めた彼が疑問を呈した。

 思わず口ごもりそうになる中、辛うじて首を横に振る。その様子を不思議がりながらも、彼は手にした地図をノイルの方へ傾けて見せた。

 黒い指先が示すのは、山頂にほど近い村である。

 一角馬の需要で成り立っているような、山間の小さな集落だ。一応はこの付近を統括する領主の管轄扱いのはずだが、他に村があるわけでもなく、実質のところは独立した場所だという。

「本日はこのあたりで宿泊となりましょうか」

「いや、多分、一日あれば山は越えられる」

 驚愕を湛えて顔を上げたのはサフィラの方である。大きく見開かれた目に、小さく笑声を立てて、ノイルは口許を隠した。

「一角馬車は速いから。ここから王都までも、二日くらいで駆けるよ」

「――それは、また、随分と」

「だろ? だから高級品なんだ」

 恐らく、この世界で一番速いのではないだろうか。楽しむ間もなく流れていく景色は、それはそれで爽快感があって、ノイルは気に入っている。

 わざわざ客車の天井が囲ってあるのはそのためだ。それでも、装身具が風に流される者は多いようだが。

 地図を覗き込み、サフィラの指した村の位置に指をやる。

「ここで休んで――そのあとは麓の街で泊まる感じかな。マルカまでは馬車を捕まえられると思う」

「畏まりました」

 彼が頷くと同時に、客車の車輪が動き出した。

 けたたましい蹄の音と共に、窓から流れ込む風が強くなる。鬱陶しげに長い髪を押さえたサフィラの姿を一瞥する。

「縛れば?」

「結うものを常備していないもので」

 半ば叫ぶように声を上げれば、耳元に手を遣った執事は同じように声を張り上げた。

 ――確かに、彼は戦う間にも髪を縛る様子はなかった。必要がないなら持ってもいないだろうし、さりとて髪の短いノイルが用意しているわけもない。

 それで視線を窓の方に向けた。

 顔に吹き付ける強風に目を細める。

 木々を拓いて作られた道は、それでも平地と比べれば揺れる。その分だけ金をかけて作られた、精巧な造りの客車であるからこそ、この程度で済んでいるが――と、今までの馬車を思い返す。

 山を普通の馬車で越えようという商人もいるが、危険極まりないことに違いはない。人の足で越えるとなればなおさらだ。

 ますます、サラの生存は絶望的なように思える。それでも、サフィラの気を削ぐわけにも、大人しく帰るわけにもいかない。

「肖像画か何かでもあればよかったね」

 そうすれば、正確に彼女の情報を手に入れられたろう。冗談めかした言葉に、サフィラは軽く苦笑して、声を上げた。

「いち給仕の肖像など、残しておいても仕方ありますまい」

「そうかな。サラくらい美人なら、あってもいい気はするけど」

 笑いながら、隣の薄青に似た面影を想起する。

 サフィラも芸術品めいた相貌をしているが、サラもまた、人目を惹く優美な造形をしている。いつも茫洋としている緑の瞳は翠玉のようで、鼻筋の通った顔立ちには、ある種の気品さえ感じられた。

 服装さえ整えれば、屋敷の壁にかかっていてもおかしくはないだろう。誰も出自が貧民だとは思うまい。

 だからこそ、彼女が男と共に働くことに対して、色々と――ノイルの密かな心配に、拍車がかかっていたわけでもあるが。

 唸り声を上げる彼を横目に、彼女の美しい兄は、風と蹄の音にも掻き消されぬような大笑をする。

「そうでしょうか? 愚妹程度の娘なら、そこらにもおりましょう」

 思わず頬が引きつった。見遣った先のサフィラは、世間話でもするかのような表情で、妹への褒め言葉を一蹴している。

 ――いや。

「少なくとも、俺は見たことないぞ」

 視線を逸らしながら言えば、サフィラはやはり軽々しく笑った。ちらと視線を遣った、ワインレッドの瞳は、やはり紅玉めいて美しい。

「意外とさ、賢者の末裔だったりしてな」

 そう笑えば、彼はひどく意外そうに瞬いた。小さいころに聞いたお伽噺を思い出す。

「水宝玉の賢者とかさ。髪の毛も水色だし、魔法も得意だし、かっこよかったって言うじゃんか」

 ――北にある最果ての凍土で、怪物を封じた男の通称だ。

 本当の名前は分からないらしい。何しろ遥か昔のお伽噺である。不枯の森で雪原と王都を隔て、吹雪の侵食を防いだとも伝えられている。

 ノイルが両親からもらったピアスも、その賢者の逸話にあやかってのことだったらしい。生憎と、彼は魔術がからきしであるために、皮肉な結果になってしまっているが。

 冗談のつもりで笑えば――。

 サフィラは殊の外深刻そうな顔をした。

「まさか」

 声の調子を落として、吐き捨てるように呟く横顔に、小さく首を傾げる。

 ともかく――。

 機嫌を損ねたことだけは確かなようであった。

「冗談だよ、ごめん」

 言ってから、気を取り直して言葉を続ける。

「お父さんもお母さんも、美男美女だったとか?」

「さあ。記憶に薄いものですから、何とも」

 問えば、彼は首を横に振る。恐らく絶世の美男美女だろうとは容易に想像がついた。

 見目の麗しいことは、男性使用人にとってはそれだけでも有利な性質だ。常に控えさせておく存在ならば、美しいに越したことはないらしい。尤も、サフィラの場合は、単に見目だけで選ばれたわけではなさそうであるが。

 一方の給仕に関しては、ノイルはあまり詳しくない。そもそも女性使用人がどのような生活をしているかもよく知らない。サラがその美しさで得をしているところは見たことがないが、損をしているところも知っているわけではない。

 ともかく、両親には感謝すべきだろうと、彼が一人頷いているのを遮って。

「よしんば美しかったとして、私はその血を継げてはおりませんし」

 ――いけしゃあしゃあと。

 およそ類を見ない、彫刻のような均整の美丈夫は、苦笑を浮かべてみせた。

 謙遜も行きすぎれば一種の傲慢である。尤も、彼にその意図があるようには見えないところが問題なのではあるが。

「――それをお前が言うのは、やめといた方がいいと思う」

 引き攣った声には大笑が返ってきた。風に晒されるサフィラは、未だにしっかりと耳の付近を押さえて、髪の乱れを抑えようとしているようである。

「そうまで仰っていただけるとは、恐縮です」

「いや、本当だって」

 下手をすれば殺されかねない発言であることに違いはあるまい。

 ノイルが頭を振る横で、サラの兄は穏やかに笑った。切れ長の赤い目が、長い睫毛の下で瞬く。

「愚妹を肖像画にするとなりましたら、なにとぞ貴方のお隣で」

 それは――。

 顔が熱を持つのが分かる。隠しようもないほど、目を見開いた。

 口を開閉させる彼の狼狽に、サフィラはひどく楽しげに笑う。やはり弟に向けるような気安さで、彼は唇に指を当てた。

「冗談です」

 ――何度目かもわからぬ脱力感で、ノイルは思わず俯いた。頬に吹き付ける、いっそ暴力的な風にも冷えない熱に、所在ない思いを抱えたまま、彼は大きく叫んだ。

「お前の冗談、本当に分かりにくいよな!」


 レンティス家の子息を乗せたという箔が欲しいらしい騎手に応え、差し出された紙に名を記す。

 神官階級ならばペンは常備しているものだが、これはこれで高級品らしい。ノイルにとっては日用品であるだけに、実感はないが。

 平民には字が書けないのだから、高くて当然かもしれない。

 サフィラの手を借り、軽やかに客車から降りる。書き記した名を騎手へ渡せば、彼は恭しく紙片を受け取ってから、元来た道に馬を走らせていった。

「――街道があるとはいえ、本当に半日で登り切るとは」

 その背を見送り、サフィラがいたく感心した様子で唸った。麓の街に戻る蹄の音が遠ざかってから、彼はノイルに向き直った。

「して、山を下る馬車は?」

「どうだろう、流石に待機してると思うけど――」

 言いながら周囲を見渡す。探すのは青い服の騎手だ。

 商人や大規模な図書館が所有する一角馬車と違い、決まったルートを走る客車は、街の管轄らしい。北側と南側、両方の合意で、山頂近くの村で切り替える――といった塩梅である。

 これが思いの外面倒だ。大抵、山頂で待機している騎手がいるのだが、運が悪ければ全員出払っていることもある。麓で客車を拾い、そのまま山を越えられれば、待つ必要もないのであるが――。

 見つけた青い服の男に駆け寄る。先約がないのを確認して、即座に金を握らせた。

「乗るのは、少し後になるんですけど。大丈夫ですか」

「畏まりました」

 赤いコートに恭しい一礼をもらって、ノイルは踵を返す。大丈夫だと手で示しながら、彼は首を傾げるサフィラに笑みを浮かべた。

 指さすのは、村から繋がる山道である。

 村自体には何度か訪れているが、ノイルも歩いたことはない。

 王国の魔術師たちが水道設備を維持しているとはいっても、この周辺までは整備人員が入りにくい。村人たちは、専らこの先にある湧き水を汲んで使っているらしい。

 要は――興味がある。

「湧き水でも飲んで来ようと思って」

「ご随意に。お疲れではございませんか」

「大丈夫だよ、座ってただけだから」

 サフィラの心配には笑顔で頷く。一角馬車には乗り慣れているのだ。

 のんびりと歩き出す彼を急かすように、ノイルが前を行く。今まで歩いてきたのは整備された街道だ。教育係に聞かされてきた冒険譚のように、低木の最中を掻き分ける感覚に、気持ちが浮き立つ。

 そうして――。

 意気揚々と歩けたのは、最初の内だけであった。

 不安定な道では、思ったより体力の消費が激しい。生活道路とはいえ、元が険しい山だ。転がる石を避け、じきに肩で息をし始めたノイルは、足を止めて前を睨む。

 いつの間にか、薄青の髪が揺れている。振り返った相貌が苦笑を浮かべ、手を差し伸べてくるのを、恨めしい思いで掴んだ。

「向こうの大陸って、山はないんじゃなかったっけ」

「そうですね。このように険しい山脈は、初めて歩きます」

「じゃあ、何でそんな、平気そうなんだよ」

「鍛えておりますので」

 燕尾服とブーツは、お世辞にも歩きやすい格好とは言い難い。長い髪も、この道では鬱陶しかろう。およそ山道には似つかわしくない佇まいとは裏腹に、彼は息を乱す様子もなく、ノイルの手を軽々と引いた。

 ――優美な外見からは想像もつかない力で、体が引き上げられる。

 ノイルの体が障害物を越えたのを見て、冷えた手が慎重に放された。バランスを取りながら前に進む。

 歩き始めて三十分ほどになる。もうじき見えてくるはずだが、ここを行き来しているのだと思うと、村の人々には頭が下がる思いだ。

 もはや楽しむ余裕もないまま、低木の生い茂る道を踏みしめて、二人はようやく開けた山頂へと辿り着いた。

 僅かに近くなった太陽の光に目を細める。大小の山々に茂る低木の緑と、狭間に見える青空が美しい。一つ伸びをして、ノイルは大きく息を吸い込んだ。

 足を進める先には、凪いだ湖面がある。澄んだ水がとうとうと流れ出し、川となって急な斜面を流れている。

 手袋を外し、山の冴えた空気に手を晒す。ほとりに置いたそれが水の中に落ちぬよう、最低限意識をやりながら、彼はゆっくりと水に手を差し込んだ。

 ――思ったよりも冷たいそれに眉根を寄せた。

 反射的に引っ込めた指先を見る。今度は覚悟を決めて、体温を奪う湖面をすくい上げた。

 触れれば痛いほどの冷たさも、喉を通れば心地いい。指の隙間から零れ落ち、シャツに染みを作る水をゆっくりと口の中で転がした。

 周囲の景色と相まって、普段飲んでいるそれよりは清涼感があるような気がする。

 たっぷり喉を上下させてから、ノイルは鞄から布を取り出した。手を拭きながら顔を上げる。

「サラを連れ戻したら、サフィラ、俺の教育係にならない?」

 言えば、ぼんやりと遠くの景色を見ていたサフィラが、同行者へと意識を向けた。散漫な疑問を浮かべる彼に笑いかける。

 ――サフィラの戦闘技術は洗練されている。

 こと争いとは縁遠いノイルでも、そのくらいのことは分かる。

 勉強からの逃避として、さほどの真面目さもなく振ってきた剣ではあるが、ノイルも護身としての基礎は一通り身に着けている。だが、この執事が扱う剣術は、そういうものとは一線を画しているように思えるのだ。

 黒い手袋をはめながら、彼は黙って話を聞く薄青を見た。

「どうやって鍛えてるのか知りたい。あと剣術も」

 その言葉に、サフィラの方は曖昧に笑って見せた。

「私の剣技は――野蛮ですので」

 言いながら腰のレイピアに手をかける。抜き放たれたそれが、陽光を反射して白銀に光った。戦いとなれば、彼の扱う魔術で氷に覆われる刀身には、傷がついている様子はない。その細長い形状ゆえに折れ曲がりやすい剣を、硬化させて扱っているのだから、当然ではあるのだろうか――と、ノイルは細剣を見詰めた。

 彼がいつからそれを扱っているのかは知らないが――。

 口ぶりからして、長いこと共に戦っているのだろうことだけは分かった。海の向こうの執事業は、そんなにも過酷なのだろうか。

「知識として、型を知らないわけではないのですが、ほぼ独学です。ノイル様に、そのようなものを学ばせるわけには参りません」

 それに細剣は扱わないでしょうと言われれば、確かにそうではある。

 だが納得はいかなかった。

「良いと思うけどなあ。型ばっかりじゃどうにもならないぞ」

「正剣というものはございますから」

「そうかな。今更じゃないか?」

 型を知っているとはいえ、ノイルがカルロスから合格をもらったことはない。そんな状態で、否応なしの実戦に鍛えられてきた剣は、独学に近いものだろう。

 であれば、サフィラに教えを乞うても良いのではないだろうか。

 ――彼の戦い方を参考にしている部分はあるのだし。

 不服を隠そうともしない青年の子供っぽい表情に、執事は柔らかな苦笑を浮かべた。

「お気持ちは嬉しいですが、レンティス家には、執事として勤めさせて頂きたく存じます」

 その――。

 言葉に。

 目を輝かせて、帰途を促すサフィラに駆け寄る。

 来た道を戻る労苦は、既に頭にはなかった。

「俺が口利くよ」

「よろしいのですか?」

 弧を描く薄い唇に、大きく頷いて見せる。レンティス家は上級使用人を失った状況である。サフィラほど優秀で、見目も麗しい執事とあれば、願ってもない話だろう。何より、サラにとっても、兄がいた方が心強いに違いない。

 整備されない山路を下る。結局、彼らが馬車に乗ったのは、予定から一時間ばかり遅れた頃であった。


 山間の木々が西日に照らされる様子を見ていると、何とも言い難い心地になる。

 低木が高木へと変わりつつある外の様子に、郷愁めいた思いを抱きながら、ノイルは隣の男を見た。

「――サフィラ、大丈夫か?」

 南へ向かう、下りの街道である。原理はよく知らないが、この道を下る間に気温が跳ねあがるのだ。雪原から吹き込む冷気の影響で、グリア山脈の頂上にいたるまでは、別の大陸と比べて寒冷な気候であるのだが、この先はずっと暑いだけだ。

 声を掛けたサフィラは、汗ばんだ顔に色濃い疲弊を浮かべて、胡乱な瞳でノイルを見遣った。

 十中八九――。

 完璧に着込んだ燕尾服のせいではないかと思うのだが。

 あまりに苦しげな表情に、思わず漏れた声は、ひどく心配げな響きを孕んだ。

「上着、脱いだら?」

「いえ。主君の御前でそのような格好を晒すわけには」

「いいって。この先、もっと暑くなるぞ」

 かく言うノイルも赤いコートをしまい込み、シャツも二の腕付近まで捲り上げている。それでもなお、顔に吹き付ける生温い風に、汗がにじむ。

 しばしの逡巡があって――。

 耐えかねたように、サフィラは上着に手をかけた。

「失礼致します」

 深い溜息と共に身じろぎする彼が動きやすいよう、気持ち体を遠ざける。高級な客車だけあって、広さは充分なようで、執事は手早く上着を脱ぐことに成功した。

 しかし――と、ノイルは彼の表情に視線を移す。

 これだけ疲弊する彼は、初めて見る。大抵は平然として、弱ったような表情は見せても、肉体的な疲労とは無縁のような振る舞いをしていたのだ。

 ひどく珍しいものを見た気になって、思わず笑みが零れた。

「お前にも、苦手なものってあるんだな」

「なるべくならば、お見苦しいところを晒したくはないのですが――暑さばかりは如何とも」

 背もたれに力なく体を預けたまま、彼は首を横に振って見せる。

「給金を蓄えて、こちらに戻って参りましたのも、ひとえに気候が原因で――」

 ――なるほど。

 弱り切った声音から、それが真実であることは窺えた。とはいえ、向こうの大陸は、こちらと比べればずっと安定した気候のはずだ。

 よほど暑さが嫌いなようである。

「――山を越えたら、ずっとこの調子なのでしょうか」

「まあ、うん、そうだね」

 低く唸るような声に、何故か罪悪感を覚えながら頷けば、再び深々とした溜息が返ってくる。さしもの彼も、自然には勝てないらしい。

 痛むかのように頭を抱えて、彼はうんざりした調子で呻く。

「気候に恨み言を連ねていても、仕様がありますまい」

 言うなり背筋を正した。ワインレッドの目には未だに疲弊が浮かんでいたが、それでも先ほどよりはしっかりとした声音で、彼は首を傾げる。

「この先は、どうなさるおつもりで?」

 今度はノイルが唸る番だった。

 麓の街に着くころには、日は暮れているだろう。一泊した後の日中ならば、マルカまでの馬車はいつでも捕まえられるはずだ。マルカからポリネアへ通じる街道も往来は多い。金さえあれば、移動に関して不自由はないだろう。

 マルカ近郊には図書館もある。そこの司書に話を聞くのも悪くはない選択肢だ。尤も、こちらはノイルの顔を知っているから、そういう意味では危険性もあるのだが。

 南の野外には魔物も多い。野営を続けていくのは厳しいだろう。寄るとすれば、人の出入りが多い商業都市になろうが――。

 全て、この大陸に留まっている前提の話だ。

「向こうの大陸に密航した、とかだと、ちょっと厳しいんだよな。この時期、客船はそんなに回ってないし」

 海上を渡る客船は、商船に比べて数が多くない。相応に金を持っているものしか乗れないという特性上、海賊の被害を免れないのだ。たちの悪いものになると、襲われるのを恐れて、わざわざ造りを粗雑にしているものさえあるらしい。

 恐らく、サフィラはまばらな客船で渡ってきたのだろう。

 だが、今の時期に海を渡るなら、商船での密航が主になるはずだ。

 ――使用人から教わった知識が正しければの話であるが。

 言葉を選びながら、とつとつとした説明を終えたところで、サフィラがふと口を挟んだ。

「そちらの本では、乗船はできないのですか?」

 指さすのはノイルの鞄である。

 目を瞬かせたのは青年の方だった。

「時々思うんだけど、お前、今までどこで暮らしてたんだ?」

「申し訳ございません。こういった事情には疎いもので」

 苦笑しながら頭を下げるサフィラに、疑念が募る。まじまじと見詰めるノイルの青い瞳を、乞うように見る赤が、嘘を吐いているようには見えないのが、余計に不可解だった。内陸に住んでいたのかもしれないが――。

 ――向こうの大陸でも一般的な概念ではなかろうか。

「本は、ええと、神から賜った叡智ってやつなんだ。他の積み荷と一緒にしちゃいけない決まりになってて、図書船っていう特別な船で、ベテランが運ぶ」

 本は神から賜る叡智だ。それを載せた船が、海賊に襲われたり、転覆したりするようなことがあってはならない――というのが、ノイルの知る神官たちの言い分である。確かに書は水に弱いし、失われることがあってはならないものだというのは理解できる。

 ゆえに、図書船には航海に慣れた船員だけでなく、魔術師としての神官も同乗する。祈りを捧げ、ときには書を狙う海賊を討ち滅ぼすのが役割だ。

 神官の祈りがないまま、本を載せた船は、神の怒りに触れて例外なく転覆する――とまで言われているが、そちらの真偽は分からないと、ノイルは肩を竦めて見せた。

 それが真実であれ虚構であれ、商人たちは転覆を恐れて乗船を拒むだろう。聞き込みついでに、マルカ近郊の図書館に本を預けてもいいが、それでは足がついてしまう。

「俺にはよく分かんないんだけどさ。そういうことだから、ちょっと、海は渡れないな。本を隠して密航するっていうなら話は別だけど」

 そうそう上手くいくものではないだろう。密航は、乗る当人だけでなく、乗せる方の商人にとってもリスクが高い。信用が地に落ちれば、それだけで商売にも支障が出る。

 金さえあればいいとはいかないのだ。

 口許を覆って、サフィラは唸った。沈みかけた夕日の、か細い光に照らされて、なびく薄青の長髪が薄く光を孕む。

「年若い婦女を連れ、そう上手く密航などできますでしょうか。焦って海を渡るよりは、まずはこの大陸内で足取りを掴む方が賢明かと」

「そうだよな」

 現状、取れる行動はそれしかない。

 力なく頷いてから、この先に待つであろう追手のことを考えて、ノイルは深々と溜息を吐いた。


 慣れない暑さの中で一晩を明かし、滞りなく捕まえた馬車の中で不快な眠りに苛まれていたノイルは、肩を叩く冷えた手で目を覚ました。

 半ば寝ぼけたままで馬車を下りる。口を衝いた欠伸で生温い空気を吸い込んで、彼はぼんやりと喧騒を見た。

 ――商業都市マルカは、大陸いち賑やかな街である。

 商船と馬車が絶え間なく行き交い、大通りに構えた露店の商人が、ひっきりなしに呼び声を投げかけている。富裕層から労働層までが雑多に集まる場所だ。

 いつ来てもすごい人出だと苦笑するノイルの横で、サフィラは鬱陶しげに耳の付近を覆った。

「少しばかり、煩わしい場所ですね」

「しょうがないよ」

 かくいう彼も、久々に訪れると、雑音に呑まれそうな心地になる。それが良いところなのだと言い聞かせるように言って、気が進まない様子の執事を急かす。

 一瞬の逡巡ののち――。

 踏み出したときには、サフィラはいつもの調子を取り戻したようである。

「しかし、目を盗むのには丁度良いでしょうか」

 警戒するように周囲を見回すのは、この街に滞在しているかもしれない追手の存在があってのことだろう。これだけの人出があれば、目くらましには使えるかもしれないと、彼は冗談めかして笑った。

「貴方の身を隠せる場所があれば良いのですが――宿のお部屋でお待ちいただくのが最善でしょうか」

 難しげに唸るサフィラから視線を逸らした。

 確かに――。

 ノイルが身を隠すなら、早々に宿を取って引きこもっているのが一番だ。いくらカルロスであっても、サフィラの顔を知る者がレンティス家にいないのだから、勘づくことはできまい。懸念となるのは、サフィラとサラの雰囲気がよく似ていることであるが、教育係が、いち給仕に過ぎないサラの顔を覚えているとも思えない。

 問題は。

「――一番怖いのは、宿っていうか」

「と、仰いますと」

 深い思索に沈んでいた赤い瞳が、ちらとノイルを捉えた。

 怜悧な目を弱々しく見上げる。思い返されるのは、屋敷での記憶だった。

 ノイルの逃亡劇は、大抵の場合、カルロスに看破されて失敗に終わっていた。それでも、当主子息がまんまと逃げおおせることもままあったのだ。

 そういうとき、彼はひどくあっさりと、ノイルの捜索をやめる。

 それで。

「カルロスさ、俺がどうしても見つからないと、俺の部屋で待ってるんだよ」

 帰らぬわけにはいかない場所で待っているのだ。恐る恐る部屋に戻ろうとして、扉の前に立つ彼に睨まれたことは一度や二度ではない。

 ――絶対に通らざるを得ない場所で待っているのだ。

 さりとて宿を避けて通るわけにもいくまい。まだ余裕があるとはいえ、金銭も有限である。ノイルだけ宿を別の場所に移すというわけにもいくまいし――サラの情報を求めるならば、腰を据えての聞き込みは不可欠だろう。

 ――まあ。

 ここまでは覚悟していたことだ。あとはいかにカルロスを説得できるかにかかっている。尤も、彼に対する言い訳は、一度も成功したことがないのだが。

 重い足を引きずるように歩く。隣のサフィラもまた、眉間に深い皺を刻んで、心底困り果てたとばかりに口をつぐんだ。

 そうして訪れた宿の扉を、いつものように執事が開いた。恐る恐る潜っては、素早く視線を巡らせたノイルが、息を吐いたときである。

「見つけましたぞ、ノイル様」

 ――聞き慣れた声音に、肩を跳ね上げた。

 四十を超えて、未だ筋骨隆々とした肉体の男が、ゆっくりと彼へ近寄ってくる。ただでさえ厳めしい顔に怒りと呆れを湛え、騎士の称号に恥じぬ威圧感で、男は重々しくノイルの名を呼んだ。

 思わず表情が引き攣る。いざ目の前にしてみると、決めたはずの覚悟が揺らいだ。

「やっぱりお前か、カルロス――!」

 教育係は深々と溜息を吐いた。逃すまいと腕を掴む大きな掌に、すっかり言葉を失った目当ての人物から視線を外し、カルロスが目を細める。

 視線の先にいるのは、彼にとっては見慣れぬ執事だった。

 主の息子に連れられた執事を、睨むように見遣るカルロスに対し、サフィラはあくまでも穏やかな物腰を崩さない。

「そちらの方は?」

「レンティス家の給仕を勤めております、サラの兄、サフィラと申します」

 ノイルが止める間もなく、自己紹介を交えて恭しく一礼する彼に――。

 カルロスの眉間の皺が深くなる。

 ここにきて、ノイルはサフィラに何の説明もしていなかったことを心から悔やんだ。今のレンティス家を知る者にとって、サラの名はそれだけで疑心の対象になる。

 何しろ、彼女にかけられた嫌疑はひどく重い。

 その兄がノイルを連れているとなれば――と慌てる青年をよそに、カルロスが重い口を開いた。

「殺人鬼の兄が、ノイル様を連れ出し、何をなさるおつもりでしたかな?」

「――失礼ですが、殺人鬼の兄、とは?」

 冷ややかな声音に、今度はサフィラが眉根を寄せる番だった。低く抑えられた声に剣呑な色がにじむ。

「ノイル様を断りなく連れ出したことは謝罪いたします。申し訳ございません。ですが、不肖とはいえ、実妹を悪し様に言われることには我慢がなりません」

 肝が冷えているのは、睨み合う両者に挟まれたノイルである。

 口の中が乾く。仲裁に入ろうにも、どちらに味方したとしても、雰囲気は険悪になる一方だろう。

 逡巡して――。

 ともすれば裏返りそうな声を必死に押さえ、彼は鬼気迫る調子で教育係を宥めにかかった。

「サフィラが連れ出したんじゃないって。俺がついてきたんだよ。サラは犯人じゃないんだ。だから、それを証明しに――」

「そういったことは騎士団の仕事です」

 決死の懇願は、果たしていとも容易く一蹴された。

 言葉に詰まるノイルは、それでもこのまま連れ去られることには抵抗した。強引に腕を引かれる感覚に抗う彼の様子に、諦めたような顔をして、カルロスはその手を離す。

「明日には一角馬車を出させましょう。サフィラ殿と仰いましたかな。貴殿にも伺いたいことがあります。同行願いたい」

 部屋の位置を耳打ちして、冷ややかな瞳で執事を睨んだのち――。

 去っていく背を見送る。心なしか背を丸めて、ノイルは居心地の悪い空間から逃れるように、眉間に皺を寄せたままのサフィラを押して外へ出た。

 生暖かい空気と喧騒が煩わしい。表情を失くしたままの同行者を見上げ、青い双眸を気まずく瞬かせる。

「――やっぱり、駄目そうか。ごめん、サフィラ」

「滅相もございません。ですが、事情を伺ってもよろしいですか」

 もはや隠し通せはしまい。諦めの息を吐いてから、場所を移そうとだけ声を掛けて歩き出す。

 海を横切っていく図書船の汽笛と、豪奢な装飾を横目に、ノイルは重苦しく息を吐いた。駆けていく馬車は近郊の図書館が所有するものだろう。整えられた騎手の身なりに見覚えがあった。

 道の端に避けて――。

 重い口を開く。

 語るべきことは多くない。

 そのはずが、声が詰まって出てこなかった。

 たっぷり唸ってから、ようやく、ノイルは言葉らしい言葉を発した。

 ノイルがサフィラと会った日の朝、慌ただしい屋敷の中で、上級使用人が死んだと聞かされたこと。サラが何も残さずに屋敷を出ていたこと。彼と話す前から、彼女を探しに家を出るつもりだったこと。

 一連の事件の犯人として――サラが疑われていること。

 それから。

 それから――。

 もう話せることはなかった。思っていたより、自分が何も知らぬまま、家を飛び出してきてしまったのだと知る。

 息を吐いて話を終える。思い返すのは、父の深刻そうな表情だ。カルロスの言葉から察するに、既に騎士団には連絡が行っているらしい。内々に処理することは諦めたのだろうか。

 それとも。

 早々に、サラが犯人だとして、この不始末を終わらせたいだけか。

 彼女は当主が正式に雇った給仕ではない。どちらかといえば、居候に近い存在で、それも貧民層の出身だ。警備の穴を突かれた強盗殺人とするよりは、不心得な使用人の暴挙だとする方が、都合はいいだろう。

 ――給仕一人を攫う意味が分からないと。

 父の物言いへの動揺が、今になって苛立ちに変わる。ノイルにも、その不可解な行動の意味は分からないが、かといって最初から彼女を犯人だと決めつけているような態度は気に食わない。

「サラにあんなことできるもんか。俺と変わらないくらいの、それも女の子だぞ」

 あの非力そうな体で、闇討ちなどできるものか。

 それとも、サフィラの言葉通り、彼女は王都の神官に匹敵する魔術師だとでもいうのか。

 吊り上がった眉と、眉間にできた皺をほぐす。青い双眸に力を込めて、ノイルは渦中の男をじっと見上げた。

 ――諦めてやるものか。

「カルロスから情報だけ聞き出して、どうにか逃げよう。サラがやったんじゃないって、俺たちが証明しなきゃ」

「――ありがとうございます」

 深刻な表情にもにじんだ怒りを和らげて、少女の兄は相好を崩した。

 笑みを返したのも束の間、ノイルの唇は再び引き結ばれた。決意を固めただけでなんとかなるなら、彼らの旅はもう少し滞りなく進んでいるはずである。

 どうにか逃げるといっても、算段があるわけではない。このままいけば、またも言いくるめられて、明日の朝には客車の中だ。そうなるくらいなら逃げた方がいいのだろうが、それでは本末転倒である。

 どうしても。

 対峙は免れない。

「あいつのことだから、本当に一角馬車を手配するんだろうな。どうしよう」

 腹を括ったつもりでも、零れ落ちる溜息ばかりはどうしようもなかった。暗澹たる思いで俯くノイルを真っすぐに見詰めるワインレッドが、ふと口を開いた。

「――始末してしまいましょうか」

 ひどく冷たい声だった。

 反射的に顔を上げる。見開いた目に映る端正な横顔に、表情はない。緩やかに目を細めた彼の黒い手袋が、レイピアを掠めるのに、身の毛がよだった。

 ともすれば震えそうな声を抑えて、ノイルは吐息混じりに首を傾げる。

「冗談だよな?」

「勿論でございます」

 軽い調子で。

 笑う瞳が、いつもの気安い悪戯っぽさを孕む。

 それが余計に恐ろしくて――。

「そっか」

 小さく呻いて、視線を逸らした。


 宿に戻るなり、最上級の部屋に通されたノイルは、外に出ることも許されないまま椅子に腰かけていた。

 サフィラの部屋の場所は教えてもらえなかった。尤も、教えてもらえたところで、今から説得を試みようというのに、カルロスの機嫌をこれ以上損ねるようなことはするつもりはなかったが。

「毒見は済ませておきました」

 机に並べられる食事に目を遣る。見る限り、特別に作らせたもののようだ。

 食器を手にする前に、俯くノイルに向けて溜息が飛ぶ。苛立ちを孕んだそれは、ただでさえ恐ろしい外見の男に、更に険を刻むようだ。

「ノイル様、何をお考えなのですか。あのような者と共におられるとは」

 その声を契機に顔を上げた。

 どこまでやれるかは分からないが、まずは全て説明した方がいいだろう。

 サラが体調不良で暇を取ったと伝えるべく、何も知らないサフィラが訪ねてきたところに、ノイルがたまたま出くわした。レンティス家の事情には触れないままであったから、彼は彼女にかけられた嫌疑を知らない。

 そこまで言ったところで、カルロスは眉根を寄せた。

「知らない者にはついていかないようにと、あれほど申したでしょう」

「それは――ごめん」

 思わず視線を逸らす。

 ノイルとて、今となってはその危険性を身に染みて理解している。たまたま、サフィラに彼へ危害を加える意思がなかっただけで、レンティス領を出る前に死んでいた可能性もあったのだ。

 それより、と。

 誤魔化すように頓狂な声を吐き出す。

 ――サフィラの案内で、二人が暮らすという貧民街の街に向かったのだ。サラを呼んでくるという彼を待っているうちに。

 思い出したくもない、鉄錆の色にまみれた部屋が脳裏をよぎる。

「だから犯人はサラじゃないんだ」

 暢気に湯気を立てる机上のスープから視線を外して、ノイルは呟くように首を横に振った。膝の上で握った拳が、服に僅かな皺を作る。

 瞬かせた目を持ち上げ、生唾を呑み込んでから、彼は黙り込んだカルロスへ声を投げた。

「なあ、カルロス。やっぱり、俺、サラを探したいんだ」

 髭を蓄えた男の目を真っすぐに見詰める。

 今回ばかりは譲れない。屋敷に戻り、彼女の安否も分からないまま、事態の解決を待っているほどの堪え性はないのだ。

 睨まれたところで関係はなかった。内心の怯みを表に出さぬよう、努めて眉間に力を込めて、ノイルは口許を引き結ぶ。

 しばし剣呑な視線を交わし――。

 先に険を緩めたのは、カルロスだった。

「それでしたら、一度お屋敷に戻りましょう。良いボディーガードを雇わせてから、馬車を手配するよう、お父様に頼むことです」

 譲歩するように身を引いて、彼はため息交じりに告げた。

 それでも、頷くわけにはいかない。もう一つ呑ませたい条件がある。

「サフィラのことなんだけど」

 ――このまま帰れば、彼の身柄は確実に騎士団に引き渡される。現在は執事とはいえ、貧民層の出身である男が、貴族子息の誘拐の嫌疑をかけられた日には、間違いなく断頭台ギロチン送りだ。

 地に転がる生気のないワインレッドを想起して――。

 悟られぬように身震いした。

 そんな事態には陥らないのが一番だが、ノイルの口添えがどこまで通用するか分からない以上、贅沢は言わない。処刑台送りになるとしても、せめてサラの安否が分かってからであってほしかった。

 お願いだから、と上げる声が、自然と懇願の色を孕む。

「見逃してくれないかな」

「なりません」

 にべもない一蹴に、気色ばむのはノイルの方だった。思い返す道中で、サフィラが彼に危害を加えようとしたことは一度もない。むしろ守ろうとするように忠告を繰り返していた。

 事実。

 独断で命の危機に晒されたことはあれ、大きな怪我を負ったわけでもないのだ。

「サフィラはここまで俺を守ってたんだぞ」

「この先の保証はありませんでしょう」

「そんなこと言ったら、帰ったってどうなるか分かんないじゃないか」

 ここで頷いて屋敷に戻ったところで、今度こそ外に出してもらえないおそれもある。そうなれば、ノイルにできることはもうない。

 それでいいのだと――。

 屋敷の人間は言うかもしれない。

 だが、彼自身はおよそ納得できない。サラの安否を知るために、ここまで来たというのに、大人しくしていろと言われて引き下がれはしなかった。

 睨み上げる青い瞳を見据えて、カルロスが何度目かもわからぬ溜息を吐く。貴方様のお考えは存じませんが――と続ける声は、諦めに近い呆れを孕んでいた。

「少なくとも、貴方に徒歩を強いるような従僕は、レンティス家にはおりません」

「あれは俺が――」

「ノイル様」

 尚も反論を重ねようとする青年の怒声を、重々しく遮る。

 言葉に詰まって視線を泳がせるノイルを見据えて、退役騎士は初めて柔らかな心配の色を浮かべて見せた。

「これ以上、お父様を困らせることはなさいますな」

 思いの外――。

 柔和な口調に覇気を失う彼を横目に、カルロスは部屋から出て行った。

 取り残されて、机上の夕食を見る。

 食べる順番が決まっていない料理も、随分と見慣れた。誰の目もないのをいいことに、スプーンも使わずに飲み干すスープは、いつもより味気ないような気がした。

 ――朝になったら、もう一度交渉してみるべきだろうか。

 それとも、隙を突いて逃げる方が簡単か。ノイル一人ではどうにもならないだろうが、こちらにはサフィラの魔術がある。目くらましができるなら、元騎士団の男を相手にしても、十分通用するだろう。

 尤も、その算段も、サフィラと合流できることが前提だ。

 吐息が口を衝く。誤魔化すようにして食らった肉の塊は相変わらず塩辛い。いつまで経っても食べ慣れない味を、こみあがる唾液ごと飲み干して、彼は憂鬱げに瞬いた。

 いよいよ万事休すだ。この中から光明を見出すのは、ノイルには少々難しい。考えを放棄しようとした彼の心にひらめくものがある。

 いっそのこと。

 始末してしまいましょうか――。

 と。

 冷たい声が脳裏をよぎった。慌てて頭を振り、嫌な想像を追い出そうと努める。

 ――サフィラだって、あれは冗談だと言った。

 ノイルの意思に反して、一度思いついた妄念は、易々と心に巣食う。赤い血だまりに沈めてしまえば、確かに誰も邪魔にはなるまい。

 カルロスは彼を警戒していない。その隙を突くのは容易だろう。剣を手にして、その心臓に突き立ててやればいい。この先に横たわる種々の問題を乗り越えるなら、きっとそれが最も簡単だ。

 殺せばいい。

 ――いつものように、、、、、、、

 大きな金属音がして振り返る。鞘に入れたまま部屋の隅に立てかけた剣が、壁を滑って床に転がっていた。

 止まっていた血流が、再び流れ出すかのようだった。心音が耳の奥で鳴り響く。思わず胸を掴んで、彼は唾を呑んだ。

 そんなことができるものか。

 カルロスは今こそ邪魔なように感じるが、普段は至って普通の人間だ。言動こそ厳しいが、動物が好きで、今もノイルを心配している。

 だから。

 屈強な肉体が、虚ろな瞳を投げかける光景など、見たくはない。

 そう思えば、いつの間にか肩に籠った力は抜けた。遠ざかる心拍に平静を取り戻す。深く息を吐いて、彼は背もたれに体を預ける。

 ともかく。

 明日の朝に説得を試みて、失敗に終わるならば逃亡をはかればいい。サフィラも何か考えているだろう。どうしようもなく、マルカを諦めることになったとしても、連れ戻されて軟禁まがいの状況に置かれるよりはましだ。

「――早く寝よう」

 体力を温存しなくては。

 生温い室温を全身に浴びながら、ノイルは立ち上がった。


 珍しく、早くに目が醒めた。

 考えることが多かったせいだろう。普段より一時間ばかり早く、あまり爽快とはいえない心地で体を起こしたノイルは、それからずっと言い訳に頭を悩ませていた。

 朝からひどく気が重い。さりとて、考えなしにかかってどうにかなる相手でもない。重圧と緊張で、頭痛と吐き気を催しながら、まんじりともせずにカルロスの到着を待つ。

 予想に反して――。

 彼はいつまで経っても訪れなかった。

 眉根を寄せながら時計を睨む。普段ノイルが起きている時間をとうに過ぎている。

 好機とみるべきか――。

 ノイルが立ち上がった瞬間、扉がノックされた。慌てて居住まいを正し、椅子に腰かけて、緊張に裏返る声で入室を促した。

 ――入ってきたのは、薄青の同行者である。

「おはようございます」

 いつもの通り、にこやかに笑ったサフィラは、部屋を見渡してから一つ唸った。口許を黒い手袋が覆う。

「こちらにも、いらしていないようですね」

「サフィラのところにも行ってないのか? どうしたんだろう」

 あの厳格な男が、サフィラにノイルへの接触を許すなど、尋常な事態ではない。彼がどこに行ったのかが気掛かりだと、思わず眉尻を下げる青年をよそに、執事は声を潜めて手を振って見せた。

「何があったかは存じませんが、好機です。街に出ましょう」

 それもそうである。

 カルロスの動向は気になるが、まさか本人に尋ねに行くわけにはいかない。この絶好の機会を逃すのは悪手だ。

 息を潜めたまま階段を下る。逃げるように宿を後にして、彼らは街へと繰り出した。

 周囲への警戒は怠らない。長い睫毛の下で、赤い瞳に色濃い警戒を浮かべるサフィラの横で、ノイルも人波へ視線を巡らせる。

 今のところ、彼の顔を知っているのは、カルロスと宿の主人だけだ。身分を示す赤いコートと燕尾服をしまい込んだ以上、ここでの彼らは富裕層の一人にすぎない。

 見咎められることなく、宿の周辺を抜け出した彼らは、同時に安堵の息を吐いた。

 当初の目的通り、今日中に街を出られる範囲で情報収集を続けるべきだ――と、見解は概ね一致する。念のため、傍を離れぬようにと執事に言われれば、ノイルは素直に頷いた。

 そうして港に差し掛かったころである。

 その一角に人だかりがあった。顔を見合わせてから近寄って。

 ――後悔した。

 水に浸かっていたとはいえ、短時間のことだ。ふやけながらも原形を保った顔が、余計に頭痛を酷くする。見開かれた目が濁って、薄く白い膜を張っているのが、いやに頭に焼き付いた。

 ――カルロスはそこで息を止めている。

 思わず目を逸らす。気遣うように添えられた黒い手袋に押されて、ノイルは近くのベンチに腰掛けた。

 項垂れるまま目を閉じる。近くに立っていた気配は、そのうちにどこかへ消えていた。恐らく話を訊きに行ったのだろう。

 今は――。

 ありがたいと思う。

 周囲の喧騒すら鬱陶しいほど、一人になりたい気分だった。南の地の生温い空気にも、冷えた指先は体温を取り戻してはくれない。

 心の芯から恐ろしい思いがするのだ。

 カルロスの死への動揺は、思いの外浅い。水に浸かったものは初めて見るが、人間を相手に剣を抜くこともあったし、死体などとうに見慣れた。感傷めいた思いも、今は麻痺して感じられないままだ。

 体が震える。唾がこみあげてくるのを無理やりに飲み下す。

 ノイルは。

 ――安堵している。

 カルロスが死んだ。今のレンティス家で、一角馬車を走らせることができるのは、彼だけだ。彼がいなければ、サラを探す旅も続けられる。これで当面の問題は解決された。

 そう。

 思っている。

「大丈夫ですか」

 青い顔で頭を抱えているうちに、戻ってきた執事が気遣わしげに肩を叩く。ゆっくりと持ち上げた表情は、思いの外疲れて見えたようで、サフィラが視線を泳がせたのが見えた。

「何か分かった?」

 穏やかに問えば、口ごもりながらも、彼は口を開いた。

 発見が早かったのは、遺体が船に引っかかっていたかららしい。そうでなければ行方不明者として処理されていただろうと言う。

 何があったのかは全く不明だが、レンティス家の教育係がわざわざ足を延ばす場所ではないこともあって、領主から王都へ伝書が飛んだとのことだ。早いうちに移動した方がいいだろうと意見を付け加えて、彼は徐にノイルを一瞥した。

 それから。

「目撃者がおりました」

「本当に? どんなやつだって?」

 青い瞳を細める。今しがた、死を汚すようなことを思いこそしたが、彼はノイルにとっては旧知の人間だ。叶うならば仇討ちをしてやりたい。

 立ち上がる青年を制すようにして、サフィラは首を横に振る。

「夜半だったとのことので。顔は見ておられないとの話ですが――」

 ――曰く。

 月に照らされ、逆光に黒く紛れた男であったという。

 南の地に似つかわしくない冷気を纏い、長い髪を一つにまとめて、それ、、はこちらを見たのだそうだ。

 塗りつぶされた立ち姿にも印象的だったのは、人のそれより長く、尖った耳と。

 それから。

 髪を分けるようにして生えた、月光を受けて輝く、透き通った氷の角。

「氷の化け物などと、恐ろしい話もあるものですね」

 さもお伽噺だとばかりに、サフィラは証言を笑い飛ばした。

 遠回しに仇討ちはよせと言っているのだろうが、それよりも気になることがあって、ノイルは首を傾げる。

 どこかで聞き覚えのある情報だ。

「なんか、似たような話、あったよな。角の生えた人間みたいな化け物がどうのって」

 山を越える前の話である。

 気候が寒冷な北側であれば、確かに氷の力がある化け物があっても、おかしくはないだろう。だが南となれば話は別だ。普通の人間でも汗をにじませる温暖な気候で、そのようなものが生きていられるだろうか。

 真剣に考えこむノイルを穏やかに見詰めていた赤い瞳は、まあ、と軽い声を上げた。

「斯様な噂は、どこにでもあるのでしょう」

「そうなのかな――」

 納得はいかない。だが、今探るべきはカルロスの死に関してではないのだ。

 それこそ騎士団に任せるべき話だろうと、一抹の罪悪感を拭うように息を吐くノイルに、執事はひどく上機嫌に笑って見せた。

「相手が何であれ、貴方の命は、私がお守りいたします。ご安心ください」


 ――カルロスの件で騎士団が動くより先に、彼らは逃げるようにマルカを後にした。

 騒然としている商業都市の周辺に留まるのは危険だとのサフィラの進言に従い、彼らは図書館での情報収集を諦め、ポリネアへ向かっている。

 こういうとき、事情に言及しない商人の馬車は楽だと、他人事のように思う。

 引き揚げられた死体がどうなるのか、具体的には知らない。それでも大方の処遇は想像がつく。ただでさえ温暖な気候だ。放置すればすぐに腐乱するだろうから、葬儀はこちらで行われるのだろう。

 どうにせよ――。

 ――帰してはやれない。

 直接手を下したのが誰にしろ、彼の死の原因に、ノイルがあることに間違いはない。暗澹とした思いで俯くノイルをよそに、サフィラは騎手に聞こえぬよう声を潜めた。

「私に馬術の心得があれば、あの一角馬車を盗んでしまっても良かったのですが」

 思わず顔を上げた。見遣った先の横顔は、いたく真剣に、悔しげな色を浮かべている。

 そうすれば移動が楽だったでしょうに――と、口許を手で覆って見せる彼に、ノイルは唇を引き攣らせた。

「お前、時々凄いこと言うよな」

「そうでしょうか」

 首を傾げる執事から視線を外す。家を飛び出した子息を追って、退役したとはいえ騎士団の男が死んだのだ。そのうえ、一角馬車が盗まれるなどという事態になれば、レンティス家の不始末はいよいよ明るみになることだろう。

 今は良くとも――。

 帰った後が怖い。

 尤も、カルロスが死んだ時点で、追及は免れないだろう。宿の主人は状況を知っているのであるし、ノイルが彼と接触していた情報は、恐らく騎士団相手に流れることになる。

 重苦しい溜息を吐くノイルに対し、サフィラの声音は軽やかだ。

「しかし、まあ、これで当面の懸念は取り除かれました」

 そう言われれば、そうではあるのだが。

 曖昧に唸り声を漏らす。ノイルにとっては、そう割り切れる問題ではなかった。彼が家を飛び出しさえしなければ、カルロスが犠牲になる必要もなかったかもしれないのだ。

 後悔したところで――どうしようもないことだとは、理解しているつもりなのだが。

「帰ったら、お祈りしておくよ。葬儀に出られないのは、申し訳ないけど――」

 今のノイルにできるのはそれくらいだ。世話になった教育者の表情がよぎって、目頭の奥が熱くなるのを、溜息一つで誤魔化す。

 サラのためにも進まねばならない。

 この旅の全てが徒労に終わったら――。

 ――ノイルが奪ってきた命は、何のために死んだというのだ。

「仕方ないよな」

「ええ。仕方のないことです」

 返答は尚も軽やかだ。それでも、繰り返すような肯定に、少しばかり気が楽になった。

 目的地で止まった馬車から降りる。いつものように商人へ金を握らせたサフィラに近寄り、袋を覗き込むように問うた。

「いくらになった?」

「金貨が七枚と――銀貨は二十枚ばかり。銅貨もございます。これだけあれば、北方の探索にも充分でしょう」

 執事が腰に括りつけていた金銭管理用の袋は、出発したときと比べて、随分と軽くなったように見える。骨ばった細い指先が弾く硬貨の数も、目に見えて減っている。

 元はサフィラの金であるというのに――。

「結局ほとんど使っちゃいそうだな。ごめん」

 思い返されるのは、自身の浪費である。ごく自然と買っていた菓子類も、こうして金銭が減った今になってみると、高い買い物であったことに違いはない。快諾する男の表情を思い出すほど、今更のように罪悪感が込み上げてきた。

 ノイルの内心を察したように、サフィラが笑う。

「ノイル様のために使用できたことは、むしろ喜ばしいのですよ」

 ですからお気になさらず――。

 言ってから、彼は口許を覆った。赤茶の髪を見下ろして、長い睫毛が瞬く。

「しかし、そうですね。大金を持ち歩くのは危険でしたので、私が管理しておりましたが、既に数も減っております。ノイル様にお渡ししておきましょう」

「え、サフィラのだろ? サフィラが持っててよ」

「従者の所有物はご主人様のものです。貴方のお好きなように、お使いください」

 欲しいものもあるでしょう――と。

 にこやかな笑顔に、まず思いついたのは、甘ったるい砂糖の香りであった。

「パイ食べたい。一個だけだから」

「なりません」

「なんで!」

「砂糖菓子は歯に悪影響です。値も張りますでしょう」

 こともなげに兄めいた忠告をしてから、話は終わりだとばかりに歩き出す背を追って、ノイルは抗議の声を上げる。

「お前も、前に芋のタルト買ってただろ!」

「それはそれですよ」

 言って。

 唇に指を当てるまま振り返ったサフィラの微笑に、彼は力いっぱい叫んだ。

「不公平だ!」


 ポリネアは、マルカと比べれば閑散とした場所である。

 大陸随一の喧騒を気に入っているノイルにとっては、少しばかり寂しい場所のように感じられるが、サフィラの方はそれが気に入ったらしい。ただでさえ気候で疲れていた表情を明るくして宿を取った。

 この先の村でも聞き込みを行いましょう――と、ほとんど諦めきった顔をした彼に、何度目かも分からぬ謝罪をしてから、ノイルは街を回っている。

 北では丁度良かった長い袖は、捲り上げればもたつく。半袖を用意してこなかったことを心から悔いた。

 かといって、ここで買い揃えるのも無駄だろう。この先に情報がなければ、別の道を使いながら引き返さなければならないのだ。

 引き返す――。

 となると、余計に心が沈む。

 カルロスの件があったこともあって、レンティス家が内々に問題を処理するのにも、じきに限界が出てくる。騎士団に情報が入る前にノイルを連れ戻すべく、すぐに追手が配備されるだろう。

 その中を潜り抜けていかなければならないと思うと、途端に息苦しくなる。

 サラの情報を集めるのが難しくなる。サフィラにも迷惑をかけるだろう。彼ならば、その辺りも含めて、どうにかできるのかもしれないが。

 まんまと買わされたパンを齧る。一つで断れるようになったのは、成長といえるのだろうか――などと考えながら、彼は宿に戻ることとなった。

 徒労に終わった聞き込みの結果を持ち帰り、いつものように交換する。相変わらず何の成果も上がらないことに、擦り切れかけた諦めを湛えて、この先の不安に変えたまま布団に入った。

 まどろむような浅い眠りから覚醒したのは、まだ日も登らぬ時分であった。

 不愉快な思いで体を持ち上げる。目を醒ました理由は、思ったよりも冴える頭で、すぐに理解する。

 寒いのだ。

 思わず身震いするほどの冷気が、部屋中に満ちている。およそ南の地に似つかわしくない空気に眉根を寄せて、ノイルは名残惜しげに布団から這い出した。

 自分でシャツを着るのは家を出た日以来だった。その上から、こちらに来てからは出番のなかった赤いコートを羽織る。黒い手袋をしてなお、肌を刺す寒気の源を辿って、彼は恐る恐る扉を開く。

 静まり返った廊下を、なるべく足音を殺して歩く。真っ暗な中だ。壁に手を当てたまま、階段の位置を探るように足を動かして、慎重にエントランスへ下った。

 一段を降るごとに、体に纏わりつく空気が鋭さを増していく。

 コートの襟を握って辿り着いた入り口のドアに手をかけて――。

 逡巡する。

 想起したのは噂話だ。カルロスの仇らしい氷の化け物が、この先に待っていたとしたら、太刀打ちできないかもしれない。

 独りで出てきてしまったが、サフィラを呼んだ方が良かったろうかと、今更のように思った。だが、彼とて眠っているところを邪魔されたくはないだろう。理由が何であるにせよ、暑さが和らいだのだから、彼もようやく落ち着けるはずだ。

 意を決して息を詰める。

 一気に開け放った扉と同時に、腰の剣に手をかける。

 月下の影を睨むように見て。

 目を見開いた。

 弱々しい月光に照らされる長身。長い薄青の髪がなびき、赤い瞳がノイルを捉える。整った相貌を、返り血で赤く染めるのは。

「――サフィラ?」

 漏れた声が、所在なく地に転がる。

 青い双眸に映る月を遮って、男はゆるりとノイルへ向き直った。足許に転がる宿屋の主人を無造作にどけて、彼はにこやかに笑って見せる。

 整った顔立ちが逆光に眩む。

 風に踊る髪の狭間から見えるのは。

 長く尖った耳と――。

 氷の角。

「お前」

 後ずさる。柄に添えた手が力を失った。空転する拍動が脳を揺らして、思考が白く染まっていく。

 ――冗談だと。

 眼前の男が笑うのを期待していた。いつもの調子で手を差し伸べるのを願った。

 ノイルの思いを砕くように――。

 眼前の執事は、氷の鱗に覆われた頬を軽薄に吊り上げた。

「これは、これは。傑作だ」

 朗々と響く、聞き慣れた声が耳を打つ。嘲笑を隠しもせぬまま、彼は氷を纏うレイピアから血を払った。いつの間にか着込んだ燕尾服の裾を揺らし、彼はノイルの動揺を上機嫌に見据える。

 月の光に照らされるワインレッドの瞳が、にわかに明るさを増した。

「あれだけ手蔓ヒントを散りばめて差し上げたというのに、今の今まで私を疑いもしなかったと仰る」

「何を――」

「まあ、この辺りが潮時でしょうか」

 煌々と輝く瞳が、緩やかに細められる。その冷えた視線が、いつか野盗を殺したときのそれと重なって、ノイルはようやく思い至った。

 レンティス家の襲撃も。

 路地裏の殺戮劇も。

 サラの失踪も。

 ――最初から。

「お前がやったのか」

「流石にそこまで暗愚ではありませんでしたか。ご明察です」

 震える声に、見知った執事の表情で相好を崩した。

 その言葉で。

 動揺は収束する。代わりにこみあげてくる思いのままに剣を抜いた。横薙ぎに振りぬかんとしたそれを、氷魔のレイピアが易々と受け止める。

 ノイルの脳裏をよぎるのは。

 眼前の悪魔によく似た、薄青の少女だ。

「――サラはどこにやった」

「あの小娘ですか。丁度いいところにいたものですよ。お陰で随分、事が円滑に進みました」

「どこにやったかって訊いてるんだ!」

 渾身の怒声と共に、剣に込める力を強める。睨み上げる青い瞳を、ひどく楽しげに見下ろして、サフィラは唇に弧を描いた。

 羽虫でも振り払うかのごとく――。

 レイピアは軽々と剣を弾いた。衝撃で体勢を崩すノイルを無造作に蹴り飛ばし、地に転がる彼を見下ろして、薄氷の魔は高らかに笑う。

「どこも何も、死んだに決まっておりましょう!」

 嘲笑う彼を睨み上げる。見慣れた美しい相貌が歓喜に歪んでいた。

 渦巻く怒りに身を任せるまま、ノイルは咆える。

「お前、何がしたいんだよ! 何で俺を守ったりした!」

「何が――と仰る。まあ、確かに、人間如きには解せないでしょうか」

 言って。

 見下ろす怪物がレイピアをかざす。喉元に突き付けたそれの側面で、ノイルの顎を持ち上げた彼が、真っすぐに青い瞳を捉えた。

「その顔を見るためです」

 こともなげに。

 ――嗤う。

「日記と偽り、私が見せてやった小娘の内心は如何でしたか」

 嘲るような声が耳に届く。

「突き付けられた死の恐怖の味は、気に入っていただけましたか」

 瞬くことすらできない。

「よもや、夜道を歩くのが単なる計算違いだったとは、思ってはおりませんでしょうね」

 月下の逆光に照らされた黒い影の中に。

「あの男を殺せば、流石に気付くかと存じましたが。そうまで信頼していただけて、嬉しい限りですよ」

 心底までも凍り付かせるような。

「親しい者を喪う慟哭。何も知らない貴方が、己の手で人を殺めた辛苦。そして――」

 ――明るく輝く赤い瞳が。

「その怒りと絶望に歪んだ表情の、なんと滑稽なことでしょう! 五千年の無聊を慰めるには充分すぎる悲劇でしたよ、ノイル様!」

 哄笑する。

 心臓が戦慄わななくようだった。乱れた呼吸は治まらない。冷えた空気の中に、白く踊る吐息が、ここまで彼を連れてきた男の相貌を遮る。

 声をも失い、目を見開いたままのノイルから、氷魔はいたく上機嫌に視線を外した。

「悲劇の俳優アクターとして、貴方の才能には驚かされるばかりです。皆、そのように暗愚であってくれれば、もう少し面白いものも見られたかもしれませんが」

 小賢しいばかりではならないと溜息を吐く。その大仰な動作が余計に虚ろで、ノイルは茫然と彼を見遣った。

 これ以上の反応は期待できないと見たか――。

 サフィラは笑う。

「予定からは、少しばかりずれ込みましたが、この熱気から逃れられると思えば、悪くはない時期タイミングですか」

 にこやかな表情の裏に、軽薄な嘲笑がにじむのを、瞬きもできぬまま、まざまざと捉える。

 これが――。

 サフィラであるというのか。

「それでは――後ほど、お会いできるとよろしいですね?」

 ノイル様、と。

 最後にそう呼んで、彼は一歩後方へ退く。

 その動作に反射的に立ち上がる。行動の意味も分からないまま、ノイルは叫んだ。

「待てよ、サフィラ!」

 果たして――。

 恭しい一礼と共に消え去った体に、彼の手は空を掻く。

 立ち尽くす彼と、残された骸を包んで、冷えた大気は、緩やかに元の温度を取り戻そうとしていた。

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