2.みちゆくもの

 どう説明したものであろうか。

 訓練用の剣を握り、幾ばくかの小物を手に、ノイルは自室の机に向かっている。今頃は慌ただしく事後処理をしているであろう両親はともかく、部屋の外を行き来する召使いに見つからずに屋敷を出ることは不可能だ。ただでさえ、先ほど飛び出していったことで、彼らの監視の目は厳しくなっているのだし――。

 考えども答えは出ない。だが、サフィラを長いこと待たせておくわけにもいくまい。彼とて、一刻も早く妹を探しに行きたいだろうところを、ノイルに合わせて待っていてくれるのだ。

 ――致し方あるまい。

 意を決して立ち上がる。今更、誰にいくら止められたところで、彼の決意は揺るぎないのだ。サラの身に何があったのかを解明するのに、このようなところで、自身を案じて立ち止まっているわけにはいかない。もしも彼女が死に瀕しながらも生きているのだとしたら、一刻を争う事態なのだ。

 覚悟を決めて踏み出した廊下を歩く。向かうのは家の出入り口ではなく、併設された図書館の方だ。

 ――レンティス家が世界最大級の貴族であれる理由が、この図書館である。

 各地に点在する図書館は皆、相応の待遇を受けてこそいるが、莫大な知の守り人としての役を授かったレンティス家は格別だ。幼い頃からその中で育ったノイルですら、蔵書数は把握していない。尤も、整然と並んだ本は好きでも、勉強はからきしである彼が、教えられたときに興味を示さなかったせいかもしれないが。

 普段は平民にも開放されているが、今日は事情が事情だ。恐らく開きはしないだろう。

 ひときわ豪奢な作りの、神を讃える扉を開き――。

 思わず顔をしかめた。

 昨日まで寸分の狂いなく本棚に並んでいた本が、床中に散乱している。無造作に開いて伏せられたものも多く、中にはページが折れ曲がったものさえある。角が潰れているものは落ちたときに床に跳ねたのだろう。意図的に積み上げられた本が数冊あるあたり、この暴虐は人為的に行われている。ノイルは信心深い方ではないが、それでも眉を顰めるような、不愉快な光景だった。

 とはいえ。

 いくら不快でも、丁寧に戻している時間はない。それに、今からすることを考えれば、この状況は好都合であるかもしれない。

 適当な一冊を、鞄に入れておくのだ。

 地位ある身分であることを証明するのに、これほど有効な手立てもあるまい。何かの役には立つだろう。自由に外に出たことのないノイルには、具体的なことは思いつけないが。

 本の海に足を進める。せめてそのうちの一冊をも踏まぬようにと爪先で立ちながら、持ち出せそうなものを物色する。

 ――適当とこそ言えど、何でもいいわけではない。

 一般開放されている中には、生活のために使う初歩的な魔導書も多い。持っていれば役には立つだろうが、道中には宿もあることだし、金を払えば済むことが多い。護身のための魔導書はもっと高等で、確たる才と修練なしには扱えないが、ノイルはこと魔術に関してはからきしだ。使えもしない魔導書を持ち出すのは危険だろう。

 選ぶべきは、何の変哲もない書ということになる。

 本の隙間に足を差し伸べ、手ごろなものを探すノイルが、ふと動きを止める。足許の一冊に訝しげに目を細め、彼は開かれたまま転がったそれを手に取った。

「何だ、この本――?」

 装丁はごくシンプルだ。青い表紙に題名は書かれていない。掠れて消えたのかとも思ったが、指でなぞっても、それらしき溝は見当たらなかった。ざらざらとした紙の質感からすると古書のようではあるが、それにしては汚れが薄い。

 何より――。

 中に何も書かれていない。

 ページを捲っても、文字の書かれた形跡そのものがない。教育係が、そういった本は神の叡智とは別の役割を持っていると言っていたのは覚えているが――。

 少なくとも、この青い表紙の本からは、何の力も感じられなかった。

 暫し眺めやる。持って出るならば、本棚になくても支障のないものにしたい。用途は不明だが、魔導書の類ではないようだし――。

 ノイルは、結局それを鞄に詰めることにした。

 用が済んだのだから、早く抜け出すに越したことはないだろう。く思いを押さえつけながら、ひどい後ろめたさに押されて、黒いブーツが自然と足音を殺した。司書室に続く豪奢な扉を慎重に開き、そこから屋敷へ通じるひと気のない通路を潜って、彼はようやく、家を出るための準備を整えた。

 だが、まだ屋敷を出られたわけではない。

 両親は慌ただしくしているだろうが、使用人たちは既に仕事を始めているだろう。誰とも出くわさないまま抜け出すのは不可能だ。それでも息を殺しながら、赤いコートは廊下の影を翻る。

 それで――。

「ノイル様?」

 最後の扉を目前にして、彼は肩を跳ね上げた。振り返った先には妙齢の給仕が立っている。レンティス家の中ではまだ年若い彼女は、瞳に不安を湛えて、ノイルの腰にぶら下がる訓練用の剣を見た。

 その視線を遮るように、黒い手袋を持ち上げる。

「サラを探しに行ってくる。お父様とお母様には君から言っておいて」

「何を仰るのですか! いけません、お部屋にお戻りください」

 おずおずと伸ばされる手は、領主の息子に触れていいのかを迷っているのだろう。彼女の迷いをいいことに一歩後退すれば、案の定、行き場を失った手が空にひらめいた。

 ――罪悪感がないわけではない。

 それでも、ノイルは頷くわけにはいかなかった。

 青い双眸に力を籠める。困惑に視線を泳がせる給仕へ、彼は笑って見せた。

「あんなことしたのはサラじゃないって、サラがいなきゃ証明できないだろ。大丈夫。あてがあるんだ」

 ――嘘ではない。

 行く当てがあるわけではなかったが、サフィラという情報源はある。

 見たところ、彼には相応に教養がある。サラが単独で抜け出したのであれ、連れ去られたのであれ、彼の方が自分より有効な打開策を打ち出せるだろう。

 従僕を呼ぶべきか、ノイルをここに引き留めておくべきか――とでも考えているのだろう。助けを求めるように、誰もいない周囲を見渡す給仕を置いて、彼は走り出した。

「よろしく!」

 屋敷を出る前に捕まってはたまらない。速度を落とさないまま駆け抜けた庭の向こうに、今朝と同じように立つ薄青の執事へ近寄って、ノイルは相好を崩した。

 肩で息をする彼に、大方の事情は察したらしい。サフィラはゆっくりと赤い瞳を細めて、整った顔立ちに心配げな色を浮かべて見せる。

「よろしいのですか?」

 最後の確認のつもりであろうそれに強く頷く。

「大丈夫。行こう」

 屋敷へ背を向けて大股に踏み出すノイルの横で、薄青の長髪が振り返ったのが見えた。しばし同行者の生家を見遣ったサフィラは、緩慢な動作で、肩をいからせて前を行く赤いコートの二歩ばかり後方へ追いつく。

 ノイルの青い双眸が彼を映す。視界の端の執事がにこやかな表情を浮かべていることに、心の隅を渦巻いていた不安はなりを潜めた。

 給仕に見つかった以上――。

 追手があると覚悟はしていた。なるべく早いうちに自領を抜け出すべく、サフィラを急かすように歩調を速めるが、そもそもリーチの違う彼は、踏み出す距離を少しばかり遠くしただけであった。

 レンティス領の門番の最敬礼を横目に、執事はさてと口火を切る。

「どちらに参りましょう」

「ううん――サフィラ、心当たりとかはない?」

 黒い手袋が口許を覆う。一つ唸り声を漏らした美しい相貌が、何かを探るように視線を横に遣る。

 しばらくの沈黙を孕んで、彼は眉尻を下げた。

「なにぶん、こちらの大陸には不案内でして。申し訳ございません」

 ――まあ、それはそうか。

 いつから向こうの大陸に渡っていたのかは分からないが、長いこと帰って来ていなかったのなら、こちらの事情など分かるものでもないだろう。頷いてからノイルも思索を巡らせる。

 彼にも当てはない。たまのパーティー以外は屋敷の中で育ったし、そのパーティーだって馬車で向かっているのだ。この大陸に関する情報量は、サフィラとさして変わるまい。途方に暮れる思いを奮い立たせ、ノイルは青い瞳を前に向けた。

 ともかく――。

 今はどこかに移動するべきだ。

「それじゃあ、まずは王都かな。ここから一番近いし、俺がいれば入れてはくれるだろうから、動きやすいし――」

 いざとなればこれもある。

 鞄の中に潜ませた青い表紙の古書をちらつかせ、青年は悪戯っぽく笑った。サフィラの瞳が驚愕を滲ませるのを、少しばかりの優越感を湛えて見る。

「そちらは?」

「俺の家にあった本。一冊持ってれば、何かの役には立つかと思って」

「――そうですか」

 低く。

 噛み殺すような声に目を見開く。自身の赤茶の髪が視界の端で揺れた一瞬で――。

 眼前の男は、先ほどと変わらぬ笑顔を浮かべていた。茫然と目を丸くするノイルに、何事もなかったかのように小首を傾げた彼は、サラに似た切れ長の瞳に穏やかな色を湛えて声を上げる。

「それでは、王都へ参りましょう。道中の護衛はお任せください。このような身でも、武術の心得はございます」

 そう言って、黒手袋は腰に括ったレイピアを軽く持ち上げて見せた。恐らく武器としては上等なものなのだろうが、柄の造りはシンプルで、執事としての弁え方をよく知っているように見える。

 ――さっきのあれは勘違いだろうか。

 言及はしなかった。出会ったばかりの他人の事情に、そう首を突っ込むものでもなかろう。この先に予想される旅路を、険悪なまま進む気もないのだから、また気になったときにでも問えばいい。

 それで目を移す。

 サフィラが腰に括っているのは細剣だけではなかった。恐らく旅道具であろうものを詰めた鞄を背負う他に、もう一つ――重たげに見える小さな袋がある。

「なあ、サフィラ」

 声を掛ければ、長い睫毛の合間から、赤い双眸がノイルを見た。

 応えるように腰の袋を指さす。不躾ではあるが、何が入っているのか分からない以上、それ以外に問い方が見当たらない。

「それは?」

 それ――と言われて、サフィラの視線はノイルの指先を追う。ぶれていた視線が一点に定まって、彼はああ、と声を上げた。

「以前の勤め先で頂いた給金です。路銀程度にはなりましょう。あまり金銭を持ち歩くのも危険でしょうが、背に腹は代えられません」

 苦笑交じりの声が一抹の寂しさを孕んでいる。

 見たところ、袋にはかなりの量の硬貨が詰まっている。相応の働きができる者だと紹介状をもらい、この大陸に帰ってきたばかりだと言っていた彼ならば、次の仕事もすぐに決まるはずだったろう。それが、これだけの大金を貯めていたのならば。

 ――それは、サラを養うためのものだったのではないだろうか。

 執事としての給金があれば、妹を治安が悪い貧民街に住まわせることも、給仕として下働きをさせることもない。そのための金を、その妹を探すために使おうとしているのだとしたら。

 全てノイルの勝手な想像ではあるが――。

 思わず眉尻が下がる。引き結んだ口許に浮かべる決意を新たに、彼は真っすぐにサフィラの瞳を見上げた。

「――絶対、サラを見つけような」

「はい」

 力強く頷いた男は、真剣に強張った表情をすぐに緩めてみせる。参りましょう、と頭を下げて先導を待つ姿勢は、既にすっかり私情の色を失っている。

 流石だ――と。

 思うと同時にやりきれなくもなった。

「そんなに畏まらなくていいよ」

 一番苦しいのはサフィラだ。むしろ、頭を下げるべきは、自分の方だとさえ思える。なるべく穏やかに崩した相好に、思わず頭を上げた執事が、呆気にとられた表情で首を傾げるのが見えた。

 それを横目に足を進める。

「俺はサフィラの正式な主じゃないだろ?」

「お仕えさせていただくには、私では不足でしょうか」

「そうじゃなくて」

 ひどく悲しげな顔をする執事に頭を振る。いっそ卑屈なまでの謙譲に、屋敷の召使いたちを思い出して、ノイルは思わず眉根を寄せた。

 ――優秀な使用人とは皆こうなのか。

 確かに、貴族に対する礼節はある程度わきまえていなくてはならないと思うが、次期当主が確約されているだけで、今のノイルはあくまで領主子息である。勉強や為政にはこと適性がないのだし、そこまで畏まられるものだろうか。

「だから、同行者くらいでいいよ。サラを探しに行くのは、レンティス家の息子として、とかじゃないし」

 そう言えば。

 サフィラは逡巡するそぶりを見せた。無意識なのだろう、歩調が緩み、前を歩くノイルとの距離が開く。ちらと後方の彼へ視線を遣れば、口許を押さえる黒い手袋の上で、赤い双眸が困ったように泳いでいた。

 たっぷり間をおいて――。

 燕尾服を纏う足は、青年との距離を先ほどまでと同じ程度に詰めた。

「畏まりました。貴方がそう仰るのであれば」

 そういうところが硬いのだ。

 思わず口を衝きそうになった声を苦笑に押しとどめ、ノイルは前を向いた。


 レンティス領から王都まで、そう距離があるわけではない。

 世界有数の図書館を擁するレンティス家へ続く道はしっかりと舗装されているし、田舎の街道と比べれば段違いに安全であるのだ――と、ノイルは聞いている。それが真実であろうともおおよそ想像はついていた。

 であるからして。

 魔物に遭遇したのは、単に彼らに運がなかったせいであろう。

 訓練用の剣を抜く。勉強からの逃避先として優秀だっただけの剣術であるし、相手取ったことがあるのも、精々が手加減した教育係程度だ。それでも眼前の小さな獣を斬るくらいなら出来る自信はあった。

 ――俗に、欠耳兎ラック・ラビと呼ばれる魔物である。

 長い耳の一部を欠いた獣だ。臆病で、体も小さく、他の魔物の食料になることが多い――と聞いているが、今は三匹ばかりがかたまって警戒と思しき声を上げている。

 教わった通りに柄を握り――。

 振り上げる。

 その動作に反応して、一匹が跳躍したのが見える。

 目標は脳天。力を込めた黒い手袋の内側に、汗の嫌な感覚がする。歯を食いしばったまま、鈍銀の鉄塊を力の限り振り下ろす。

 ――嫌な音がして。

 頭蓋にぶつかった剣は、予想に反して致命の一打とはならなかった。

 痛々しい音を立てて地面を跳ねながらも、欠耳兎は一声鳴いた。切り伏せたつもりの一撃が、思いの外威力を持たなかったことに動揺するうちに。

 飛びかかる二匹目が眼前に迫り――。

 ――氷が爆ぜる。

 動くこともできぬまま、目を瞬かせるノイルの前で、彼に届かなかった爪が力なく地に落ちる。今度こそ動かなくなったそれは、爆ぜたはずの血液さえも氷に閉じ込められて、重い音を立てた。

 その向こうで、サフィラが笑う。

「ご無事ですか?」

 辛うじて頷くことはできた。返答に安堵したか、笑みを深めた彼は、手にしたレイピアが纏った氷を振り払う。いつの間にか、その足許に二匹分の死体が転がっていた。

「臆病な魔物です。逃げるかと考えたのですが――繁殖期なのでしょうね」

 この先も気を配りましょうと、こともなげに言った彼が、何事もなかったかのように得物をしまう。腰に括られたそれを、ノイルは茫然と見遣った。

 ――護身になるほどの魔術は、確たる才と修練がなければ使いこなせない。

 長いこと書物の中で生活を続けて、それは身に染みている。見上げた先で首を傾げる端正な顔に、思わず声が漏れた。

「魔術なんて使えたのか」

「ええ、機会がございまして。多少ながら学ばせて頂きました」

 多少――。

 であろうか。

 見たところ魔導書もないまま扱っている。力のコントロールと術式の発現を易々と行うのだから、相当の実力者だろうに。

 疑問と反論を重ねる前に、前に進むことを促される。どうにも曖昧な心持ちのままで、ノイルは手にした剣を視線のやり場に決めた。

 感触としては――。

 斬るというより、むしろ鈍器に近い。力いっぱい振り下ろしてあれならば、今のノイルはそれ以上の戦力にはならないだろう。

 即ち――欠耳兎の一匹もまともに倒せない。

 重苦しい溜息を噛み殺す彼に、サフィラはあくまでもにこやかに問うた。

「そちらの剣は訓練用でしたか?」

「うん――」

「そうでしたか。でしたら、実戦用のものに比べればなまくらです」

 ですからご安心を、と言外に紡ぐ薄い唇が、情けない思いに打ち沈むノイルの瞳に笑いかける。

 サフィラの扱った氷は、敵を打ち破って役目を終えたようだった。満ちていた冷気が溶け出し、大気は穏やかなものに戻っていく。

「僭越ながら、良い太刀筋でした。実戦用の剣であれば戦えましょう。王都に着きましたら、良質なものをご用意いたします」

 宥めるような調子の声である。視線を執事から剣へ移し、ノイルはそんなものかと心中を納得させた。

 不服がないではない。

 訓練中に振り下ろす分には問題はなかったし、同じ訓練用の剣だったとはいえ、教育係と打ち合ったこともある。だが、サフィラの足許でこと切れた二頭の獣を思い出せば、その思いも否定するほかにない。

 いっそ芸術的なまでに、心臓を穿たれていた。

 彼の技量もあろうが、剣の鋭利さもノイルのそれの比ではあるまい。細剣でない以上、ああして貫くことは難しい構造だが、まず材質からして天と地ほどの差があることはすぐにわかる。

 思わず溜息が口を衝いた。執事がそれに言及する前に、彼は声を上げることにした。

「サフィラ、本当に強いんだな」

「お褒め頂き、光栄です。御身の護衛に精進いたします」

 殊更に恭しく頭を下げたサフィラの、喜色に弧を描く唇から目を離す。もう一度、獣の死体を見遣ったノイルは、やはり深々と溜息を吐いた。


「――地図と薬、それから野営のためのテントを。これだけあれば、少なくとも数日は過ごせるでしょう。剣は貴方が扱うものですから、後ほど、ご自身の手に合うものをお選びいただければと存じます」

 買い物を終えたサフィラが、袋に詰まったものを淡々と説明するのを、ノイルは神妙な面持ちで聞いていた。

 王都の広場に設置されたベンチである。無事に辿り着いたそこには、まだレンティス家の伝令は来ていないらしい。赤いコートを咎められることもなく、彼らは最敬礼で迎え入れられた。

「ありがとう。そうか、地図とかテントも必要なんだな」

 道中に必要と思われる道具を――と言われても、旅といえば用意された馬車で街道を駆けることしか知らないノイルにできることがあるわけではなく、結局買い出しはサフィラが全て済ませた。

 事実、それは功を奏したようである。野営など念頭になかったノイルが行けば、きっと持たされた金を全て薬と菓子に消していたことだろう。

「して、ノイル様、情報はございましたか」

 サフィラの赤い瞳が、青年を捉えてひらめく。

 ――執事が店を回っている間、ノイルとて休んでいたわけではない。王都であれば、レンティス家の威光は充分に通用するのだ。

 ノイルの顔も、この辺りには知れ渡っている。こうしてベンチに座っているだけで、にわかにどよめく昼の群衆が、その証左だ。加えて彼の身分を証明する赤いコートを纏っていれば、突然話しかけて警戒する者はそう多くない。情報収集は滞りなく進んだ。

 尤も――。

 収穫があるかは別の問題である。

「見かけたって人はいなかったよ。商人とか宿屋が見てないんだから、ここには来てないんだろうと思う」

 思わず溜息が漏れる。出自に付きまとう宿命として既に慣れたものとはいえ、周囲の視線に晒されながらの移動は、相応に精神力を使う。頬を赤らめる婦人たちに、何度会話の拘束を受けそうになったか、数えるのも億劫だ。

 その様子に苦笑を漏らす執事を見上げる。立場としては使用人でこそあれ、麗しい見目からして、彼も女性にはよく捕まっていそうなものだが。

 彼が娘に呼び止められ、終わらない話に相槌を打ちながら困った顔をするのは、何故か想像しがたい。

 むしろさりげなく躱していそうな気さえする。

 ノイルの勝手な印象ではあるが、周囲の熱い視線を全く気にせぬあたり、あながち間違ってもいないような気がした。

「では、移動いたしましょうか。伝令が来ては厄介です」

「そうだね」

 レンティス領を出てから数刻が経過し、頭上にあった太陽は斜めに影を作っている。追手を寄越すための準備はそうそう整わないだろうし、王都までの距離で馬車を出すほどの台数があるわけでもないが、早いうちに出るに越したことはない。

 サフィラの買った地図に頼るまでもなく――。

 進むべき方角は決まっている。

「とりあえず南――だろうな。南に行こう」

「と、仰いますと?」

 ひどく不思議そうな声である。思わず見遣ったサフィラの表情が、ごく純真な表情で疑問を呈していた。

 その顔に。

 首を傾げたのはノイルの方である。

 あの周辺の事情など、この大陸の人間でなくとも、常識であると思っていたが。

「北に行ったって要塞谷カルテ・カラキと雪しかないだろ。森もあるにはあるけど、最近は魔物が多いとかで、番兵がいるし、騎士なんかも向かってるんだ。サラ一人でも通してはもらえないだろうし、犯人なんかはすぐ怪しまれるよ」

 北は極寒の地だ。不枯の森といわれる常緑の森を挟んで、その先にはとても人が住めたものではない雪原と、深い谷が広がっている。森の木が風を阻んでいるから、コートが手放せない程度のこの辺りは、まだ気温が高いのだと聞いている。

 要塞谷と呼ばれる難攻不落の渓谷を越えた先には、凍り付いたままの永久凍土がある。かつて高名な魔術師が救世を成したともいわれるが、そこまで来るとおとぎ話の世界で、ノイルにはあまり実感がない。

 一方、南に向かうのは簡単だ。商業都市へ向かうための街道が発達していて、商人を相手にした宿場も多い。ノイルが泊まったことがあるのは、その中でも発達した場所だけだが、馬車の車窓から覗いた小さな町や村のことは覚えている。人の出入りが激しいぶん、門番も要人以外の顔など覚えていないような振る舞いをしていたはずだった。

 尤も、この大陸で唯一の港がある商業都市へ向かうには、険しい山岳を越えねばならない。だが、海賊が蔓延る海上よりは安全であろうし、移動手段もないではないのだ。

「マルカとかポリネアの方なら、それなりに村もあるし、検問も緩いから、行くならそっちだろうな」

 言いながら指さした街道側とは逆――北側を一瞥し、サフィラはふむと唸る。細められた赤い瞳に、冷えた色を浮かべたように見えた。

 そこに滲んだ感情を掴む前に――。

 瞬いた目は、先ほどと同じ穏やかな光を孕んで、恭しく一礼をして見せた。

「真に慧眼、お見それいたしました」

「そ、そこまでのことじゃ」

 慌てるのはノイルの方である。理想的な最敬礼に反応する婦女の声に、気恥ずかしさを掻き立てられて、彼は少年らしさを未だ残す顔を赤らめた。

 ――人前でそういう扱いをされるのは、あまり得意でない。

 頭を上げてくれと早口に言えば、執事は素直に従った。

 一つ息を吐いて調子を整える。ともかく、この視線の群れから逃れたくて仕方がない。足早に広場を後にしながら、考える余裕の生まれた頭で、得られた情報を反芻した。

 それで――もう一つ、嫌なことを思い出した。

「とはいっても、一角馬車ユニコリッジ、さっき最後の一つが出ちゃったみたいなんだよな」

「ユニコリッジ――ですか?」

「え、ああ、そうか。向こうの大陸はそんなに山がないんだっけ」

 知識としては知っていても、もう一つの大陸での生活は想像がつかない。一角馬車がなくとも滞りのない物流が存在するというのは、どうにも思い描くのが難しい。

 ――それはサフィラにとっても同じなのだろう。

 聞き慣れないらしい名称に眉根が寄っている。口許を手で覆うのは、どうやら考えごとをしているときの癖のようだ。右に逸らされた視線は何を捉えるでもなく、真剣に言葉の意味を考えているように見えた。

 そんなに大仰なものではないのだが――と、生真面目な姿に苦笑が漏れる。

一角馬ユニコルは知ってるだろ。山に住んでる一角の馬。あれを調教して繋いで、馬車に使ってるんだ」

「しかし、あれは気性が荒いと伺っておりますが」

「まあ、元は魔物だからね。こっちの一角馬は普通の馬とほとんど一緒だよ。山間の村で育ててるんだって」

 大陸の南に位置する山岳で育つという一角馬を繋いだ馬車は、商人の重要な足になる。国防の名残で不便な位置にある王都では、一般に浸透した乗り物だ。

 だがまあ――。

 一般的であるとはいえ、そう数がいるわけではない。商人の中でも、王都への通行許可証を持つ一握りの豪商でなければ、到底手の届かない代物だ。一週間に一度の定期市が終われば、すぐに港へ引き返す彼らは、既に撤収を済ませてしまったらしい。

 馬車があれば、悩むこともなく金を積むのだが、現物がないことには仕方がない。

「移動が大変だから、待ってもいいんだけど――次に来るのは来週だし、一角馬車で駆けても三日はかかるんだよな。どう思う?」

 そう言って見上げた長身の同行者は、得た情報を咀嚼するように目を閉じた。長い吐息を漏らした彼は、数秒の沈黙を挟んで、再び開いた切れ長の赤い瞳でちらとノイルを捉える。

「商人に申し出て、積み荷と共に乗せて頂くのでしょうか」

「そう――だね」

「身分は問題になりますでしょうか」

「どうだろう。お金があれば、よっぽど怪しくない限り、乗せてはくれると思うけど」

 金を得ることに夢中になっていて、身分の貴賎には執着しない。商人とはおよそそういうものなのだ――と、教育係が愚痴るのを聞いたことがある。

 ノイルなどは、それはそれで平等ではなかろうかと思うこともあるのだが、彼は表向き金銭への執心を捨てたことになっている、神官の括りにある。その家柄上、それをそのまま口にすることは憚られた。

 口をつぐんだ赤茶の髪を見るサフィラの方は、再び思索の海へ潜ったようだ。細身ながら骨ばった指先が、顎を撫でて目を瞬かせる。

「恐縮ですが、もう一つばかり、お聞かせください。犯人が金を持っていることは、考えられますか?」

 思わず逡巡する。

 レンティス家の金庫がこじ開けられたことと、付随する殺戮のことなど、そうそう漏らしていい情報ではない。そのくらいはノイルにも理解できる。

 ――のであるが。

 こちらを見下ろす赤い瞳を窺う。彼にそれを伝えたところで、レンティス家に対して行動を起こすことがあるとも思えない。それに、成り行きとはいえ、彼も無関係の立場ではなくなってしまったのだ。

 問題はないだろう。

「実は、家に強盗が入ってさ。同じ奴なら、多分、かなり持ってると思う」

「――それは」

 大きな青い瞳を逸らし、街頭のざわめきに紛れるように呟くノイルの言葉に、サフィラの眉尻が困ったように下がる。渦中の子息への同情か、或いは厄介な状況に対してか――。

 暫し難しげに唸った執事は、再び集まり出した野次馬を瞥見して、移動を促すように、止まっていた足を進める。

「犯人の風体を存じ上げませんので、明瞭はっきりと申し上げることはできませんが――」

 ともすれば喧騒に掻き消されそうな声だった。余裕をなくし、神経質さを孕む歩調を追いかけて、ノイルは努めて緊張を保つ。言葉を選ぶようにして、低く漏らすサフィラの声が、二人分のブーツの足音に消えぬよう、耳を澄ませた。

「平民であると仮定した場合、わざわざ移動するためだけに、簡単に多額の金銭を差し出すのは、よほど怪しい、、、、、、行動でしょう。そのように危険性リスクのある行為は、避けたいのではないかと」

 至極真っ当な意見である。

 ひどく考え込んでいるような素振りとは裏腹に、サフィラの声は揺るぎない。明確な足取りで先導する彼は、既に答えを決めているようである。

 そして――。

 それが最善手であることも、恐らく確信している。

「このまま王都に留まり、ノイル様が連れ戻されてしまうのは、避けるべき事態です。聞き込みを行いながら、目的地を絞っていく方が良いのではないでしょうか。貴方に徒歩を強いてしまうのは、大変心苦しいのですが」

 ノイルを窺う目が謝罪の念に歪んでいた。申し訳ございませんと続く声に苦笑する。

 確かに、世界有数の図書館の主である彼が外を歩くことは多くない。それでも、体が弱いわけでもなければ、歩きたくないと思っているわけでもないのだ。この状況下でそうまで気にすることではないだろう。

 そうは言っても、この生真面目な執事は、頭を下げることをやめはしないだろうが――。

「俺のことは気にしないで。分かった、そうしよう」

 手短な言葉に、サフィラの瞳が和らいだ。眉間の皺を緩め、唇を僅かに持ち上げる。

 それでは――。

 と、発された声は、にこやかな紳士の色を取り戻していた。黒い手袋で覆われた手が、自身の腰にあるレイピアに触れる。

「ノイル様の剣を新調いたしましょう。訓練用のなまくらよりは、貴方も剣の腕を存分に振るえるはずです」

 頷くノイルの前を行く足取りに迷いはない。道具屋を探すついでに目星をつけていたのだと、訊くより先に声を上げた。

 案内された先の鍛冶屋の扉を開く。店主が慌ただしく姿勢を正す前に立ったサフィラが、ちらとノイルを一瞥して笑う。

「まずは、何本かお好きなものをお選びください」

「どういうのがいい? 値段とか?」

「そうですね。値が張る方が良質でしょうが、それよりも手に合うものがよろしいかと」

 ――なるほど。

 一言、声を掛けて、壁にかけられた剣の前に立つ。黒い手袋を正して、そのうちの一本に手を伸ばした。

 柄を握る。存外に重い金属質な音がして、思わず手が止まる。

 慎重に持ち上げて――。

 恐る恐る両手で握る。腰に括った剣と比べて、ひどく重たい金属の感覚だった。しばしそれを手に馴染ませてから、ゆっくりと元あった場所へ戻す。

 同じことを十回ばかり繰り返す。その間に話を終えたらしく、薄青の長髪は、ノイルとは別の壁の前に立っていた。

 サフィラの剣は彼の気に入ったもののようであるし、買うつもりはないのだろう。先ほどまでより散漫な雰囲気で、彼は手持ち無沙汰だとでもいうように、ハンマーなどを手に取っていた。

 ――優美な彼がハンマーを扱うのは、何とも言い難い絵面になりそうである。

 感触の良かった二本ばかりを選び取り、手の内で武器を弄ぶ彼へ近寄っていく。重い刃の感触を取り落とさないよう、両腕に集中させていた意識を長身に向け、ノイルは笑いながら声を上げた。

「それ、買うの?」

「いいえ」

 青年が手にしている剣を見るや、手にしていた鈍器を軽々と壁へ戻し、サフィラは苦笑を返す。

「こういった武具を扱ってみるのも、悪くはないとは存じますが、なにぶん心得がございません」

 言いながら、彼の手がノイルの剣を受け取った。代わる代わる左手に握り、重みと感覚を確かめるように軽く上下させる。二本の刃先を見比べる赤い瞳に、真剣な色が宿った。

 しばしそうしてから――。

「――こちらですね」

 そう言って剣を差し出す。言われるがままに受け取ったそれを両手で握った。

「何が違うのか、よく分からないな」

「見慣れれば、そのうちに分かるようになりますよ」

 サフィラはそう笑った。選ばなかった得物を元の位置に戻すべく、悠々と歩く背をしばらく見てから、ノイルは手の中にある武具に視線を落とす。

 あまり――見慣れたいものでもないとは思うのだが。

 幾ばくかの銀貨を握り、こちらを見るサフィラの視線に応じるように、ノイルは店主のもとへ向かった。


 嗅ぎ慣れた紙のにおいを吸い込む。

 王都の門を出てしばらく、二人は街道を歩いている。隣で地図を開いたサフィラが、街々のおおよその位置取りを確認するのを横目に、ノイルは前を見た。

 定期市が終わったばかりの道では、馬車の蹄の音はまばらだった。騎士団による定期的な駆逐活動が行われているだけあって、王都周辺は魔物の数も多いわけではない。少なくとも昼の間は、問題なく先に進めるだろう。

 乾いた音がして、薄青の執事が手にした紙を畳むのが視界の端に見えた。こちらを見る穏やかな瞳が小さく笑みを浮かべる。

「街道と言えど、この時間は馬車が少ないのですね」

「定期市が終わっちゃったしね。戻る馬車も、今朝のうちに大体出たんじゃないかな」

 馬車が行きかう時間帯は、その分だけ危険でもある。荷台に食べ物があれば、そのにおいで魔物も寄ってくるし、単純に事故に遭う確率も高い。考えようによっては、定期市の直後は好都合だ。一角馬車が捕まらなかった理由でもあるのだが。

 そうでしたか――とにこやかな声を上げたサフィラが、ふと何かに気付いたように視線を移した。赤い瞳に険が宿るのを見て、ノイルも腰の剣に手をかける。

 果たして――。

 躍り出るのは小型の獣の群れである。新調したばかりの得物の重さに、僅かに手元が沈むのを瞥見して、サフィラもまたレイピアを抜く。

「まあ、しかし、魔物はおりますか。お下がりください」

「一人じゃ危ないよ。俺もやる」

「この程度の獣でしたら、どうとでもなりますよ」

「でも、サフィラ一人に任せておくのは――!」

 言うより早く。

 サフィラが馳せる。薄青の髪を躍らせ、獣の群れの中央へいとも容易く切り込んだ彼は、己の手にある得物を指でなぞる。

 空気が冴え渡る感覚で、ノイルまでもが身震いした。温度を下げる大気が肌を刺す。

 レイピアに冷気が収束した刹那――。

 氷花が咲く。

 その中央に立ち、薄氷を纏う武器を払うように振りぬいた執事は、こともなげにノイルを見遣り、ひどく穏やかに笑った。

「――お任せください」

 曖昧に頷くことしかできないまま、ノイルは行き場を失った切っ先を鞘に納める。

 一体――どこでどう執事をやっていたら、戦う術をこうまで磨くはめになるのだろうか。

 判然としない思いを抱える同行者をよそに、サフィラは今しがた穿った獣を見遣る。三角の耳を持つそれを拾い上げ、幾度か触ってから、彼は一人ごちるように、低い声を発した。

「適さないまでも、食せないことはありますまい。覚えておきましょう」

「え、食べるのか」

「いざとなればの話です」

「いざとなればって」

 平然と発される言葉に、慌てるのはノイルの方である。レンティス家で出る肉は、大抵は食肉用の家畜を調理したもので、彼が獣肉を食すような事態に陥ったことはない。下層階級が集まるという酒場では、獣からはぎ取った塊肉の塩漬けは、随分なご馳走になるとは聞くが――。

 ――あまり食べたいと思う代物ではない。

 赤茶の髪が動揺で揺れるのを尻目に、サフィラは獣の死骸を街道からどけていく。満ちていた冷気がほどける中、彼は当然だとばかりに唇を持ち上げた。

「野営の際には、獣肉を食す必要もございます」

 野営。

 というと。

 ノイルの脳裏をよぎるのは、やはり王都へやってくる商人の姿である。護衛にテントを張らせ、火を焚き、一晩中交代で周囲を窺う――というような話だったはずだ。

 確かに、食料が尽きれば、現地で調達することも考えねばならないのだろう。

 が――どうにも想像しがたい。

 思わず眉根を寄せたノイルの表情を知ってか、同行者は小さく苦笑の声を漏らした。

「テントの設営は私が行いますが、寝心地の解決には、力が及ばないかと――面目ありません」

「寝心地――悪いの?」

「それは、まあ。砂や土が吹き込むのばかりは、如何ともしがたいもので」

 想像する。

 ベッドはおろか敷くものもなく、コートを広げて寝そべる。テントの中には、火の番をするサフィラの影が差し込んでいる。外から流れてくる砂や土にまみれて、いつあるかも分からない敵襲に、浅い眠りを繰り返し――。

 ベッド以外での寝心地を知らぬ身では、そこまで想像するのが限界だった。夜更かしというのは嫌いでないが、不快な眠りはごめんだ。加えて朝も早いのだろうことを思うと身の毛がよだつ。

「今日は宿に泊まるんだよな?」

「ええ。日暮れまでに街へ辿り着ければ」

 思わず問えば、執事は悪戯っぽく笑って、買ったばかりのテントを詰めた鞄を揺らして見せた。

「――行こう。早く」

 大股に歩きだすノイルの後方で、ブーツの音が小走りに彼を追う。僅かに距離を置いて、元のペースを取り戻したそれには目もくれず、青年はじっと前だけを見た。

 既に日は傾きかけている。赤みを帯びた空が濃紺に変わるまで――普段ならば何気なく過ごしている時間に急かされるように、彼はますます歩調を速めた。

 それを落ち着いた声が宥める。

「ご安心ください。そう急かずとも、夕刻までには着けますよ」

「いや! それでも!」

 ――野営には心の準備が要るのだ。

 鬼気迫る足取りを、堪えきれないとでもいうような調子で、サフィラが笑うのが聞こえた。思わず振り返った先で、黒い手袋が口許を覆って目を細めている。

「お前、意外と失礼だよな!」

「申し訳ございません」

 当てつけのように発した声に、ここぞとばかりの恭しい謝罪の言葉が返ってきて、ノイルは思わず、言葉にならない苛立ちの咆哮を上げた。


 果たして、サフィラの言う通り、日暮れ前に街へと到着した。

 半分ほどが紫色に変わりつつある空を照らし、西日は赤く沈んでいく。地平に遮られる陽光を一瞥し、ノイルはベンチに座って、足許に視線を落とした。

「――街道って、結構歩きにくいんだな」

 ブーツに覆われた足が鈍痛を訴える。整備されているとはいえ、都市の中心部に並ぶほど平坦な道ではない。歩き慣れないうちは付きまとうであろう不快感に、彼は一つ息を吐く。

 その横で、停車した馬車の主へ声を掛けていたサフィラの方は、目的の情報が得られなかったことに眉根を寄せた。

「こちらには訪れていないようですね」

「早いうちに出たみたいだし、次の街かもね」

 王都の周辺には宿場が多い。明確な領主がいないままでも、国への納税さえ済ませていれば、商人向けの宿は経営が可能だ。王都への通行許可が出なくとも、人の多い近郊には出入りが活発だ。

 とはいえ――。

 斜陽に照らされる道を見る。沈みきれば、道を照らす灯りはなくなるだろう。

 サフィラがランタンを買っているのは確認したが、灯す火があるのかどうかは分からない。彼に心得があるとはいえ、得手としているのは氷のようだし、ノイルにとっては日常的な魔術すらも不得意な分野に入る。

 だが――進めるだけ進みたいのも事実だ。

 そもそも、ノイルは夜道の危険性も知識としてしか知らない。判断をしあぐねるまま、立ち上がってサフィラを見た。

「これからどうする?」

「本日は、こちらで宿泊いたしましょう」

 赤い瞳が気遣わしげに足許を見る。釣られて再び視線を遣った自分のブーツに、ノイルは密かに眉間に皺を寄せた。

 ――気にしなくても構わないというのに。

 サラの有事に、兄であるサフィラの気が急くのは当然だ。どちらかといえば、ノイルの方が同行者と言うにふさわしい状態なのは、彼とて自覚している。

 それに、何より――サラのためだ。

 多少なり無理はできる。

 それでも、気遣いはありがたかった。耐えがたいほどではないにせよ、足は痛い。

 それで頷く。

「――ありがとうございます。実は、私が少々疲れておりまして」

 穏やかな喜色を浮かべた目に罪悪感が募った。その立ち姿から、疲弊している様子は全く窺えない。完璧に隠しているとして、ここで口にしてしまったら意味がないだろう。

 ノイルが声を発する前に、執事は颯爽と踵を返した。赤いコートを瞥見した瞳が朗々と声を上げる。

「宿を取って参ります。ノイル様はお休みを」

「俺も行くよ」

 ――レンティスの証は、あった方が便利だろう。

 十五分ほどではあれ、座っているうちに痛みも和らいだ。サフィラの後をついて、訪れた宿屋の前で、薄青は小さく耳打ちする。

「貴方にはおよそ似合わぬ安宿です。ご容赦を」

「失礼だよ」

「事実にございます」

 咎める声にも、彼の調子は変わらない。大抵の馬車が立ち寄る街は、もうしばらく歩かねば辿り着けないのだし、贅沢を言っている場合でないのは理解しているのだが。

「俺はベッドがあればいいよ」

 呟けば、サフィラもそれで納得したようだった。

 質素な作りの扉を、執事の手が開く。中に入れば、後方で丁寧に閉じる音がして、吹き込む風の音が遮られた。

 街並みと違わない、煉瓦造りの質素な作りをした宿だ。客室は二階にあるのだろう。並んだ調度品は少なく、手入れはされているのだろうが、ノイルが普段使うような宿のそれと比べれば古びて見えた。

 周囲を見渡しながら、カウンターに座る主に声を掛ける。

「急なんですけど、部屋は空いてますか」

「こ、これは、只今!」

 にわかに騒然とするカウンターの奥を見送る。騒がれるのは好きではないが、忌避するほど慣れていないわけでもない。後方に控える同行者を振り返り、ノイルは悪戯っぽく相好を崩した。

「このコートって、結構便利だろ」

「ええ――」

 小さく漏れる笑声には、僅かに苦いものが混ざっていた。

 慌ただしく部屋が決まり、手続きのためのやり取りをサフィラが受け持つ脇で、ノイルの方はペンを取り出す。

 本――ひいては叡智を重要視するこの世界で、文字を書く行為は神聖な儀式だ。神官に連なる人間であることを証明する何よりの手段であり、相手を安心させるための最も有効な手段でもある。

 地図の端を切り取ったものに、滑らかに書いた自分の名前を店主へ渡す。これでサフィラだけでも滞りなく話は進むだろう。

 ちらと見遣った窓からは、まだ西日が覗いている。露店はとうに終わっただろうが、居を構える店はまだ閉まってはいるまい。

「俺、少し街を回って来たいんだけど」

「ご随意に。お供いたしますので、少々お待ちください」

「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」

 言えば――。

 サフィラは困ったようにノイルへ向き直った。

 言葉を続けようとする店主を、黒い手袋で穏やかに制し、彼は美しい相貌を真剣そうに歪める。その瞳が、幼子を宥めるような調子で瞬いた。

「お言葉ですが――ノイル様。貴方の身なりは、それだけで貴族であることを証明なさっています。この街は治安が良いようですが、それでも、不逞の輩は御身を狙っておりましょう。それをお忘れなきよう」

 そう一礼をして。

 結局、サフィラは彼の単独行動を許した。

「そうは言ってもなあ――」

 持たされた数枚の金貨を握り、ノイルは日用品を見ている。新しく入ったのだという、ふんだんに装飾が施されたランタンを勧められ、まんまと手に取りながら、密かに溜息を吐いた。

 赤いコートは確かに目立つが、それで危険な目に遭ったことはない。家にいたときから再三聞いた言葉ではあるものの、実感には薄かった。

 それよりも、今は買い物である。

 手にしたランタンを持ち上げれば、何となく馴染んだような気がした。この先使わないわけではないし――と理由をつけて、彼は店員を呼ぶ。

「これください」

「はい! 只今!」

 金貨を何枚かの銀貨に変え、代わりに受け取った火種のないランタンを片手に外に出る。随分と暗くなった空を見上げれば、街に着いたときより明るくなった月が視界に映った。星々の隙間に見える雲から目を逸らし、彼はふと街を見る。

 漏れ出る光はまばらだが、まだ閉まっていない店も散見される。目当てのものが売っているかは分からないが――。

「お菓子買わなきゃ」

 独りごちて、ノイルは光の漏れる家屋へ向かった。


 完全に日が落ちる前に帰り着いた部屋に、サフィラがいた。

 確か隣の部屋を取っていたはずなのだが――と考えるより先に、彼のしぐさでおおよその見当はついた。

 今はベッドを整えている。窓枠に薄く汚れた布がかかっているのを見ながら、掃除に夢中で、帰還に気付いていないらしい執事に声を投げた。

「ただいま」

 振り返った薄青が相好を崩した。仕上げのようにベッドの上を軽く払ってから、彼はにこやかに頭を下げる。

「お帰りなさいませ」

 折り目正しい一礼は、実に紳士的な出迎えである。頷いてから、備え付けのテーブルに買ったものを降ろせば、途端にサフィラの表情が陰った。

 その視線は買った菓子に注がれている。

「ご夕食が入らなくなります」

「大丈夫だって。執事みたいなこと言うなよ」

「――私は執事ですよ」

 それは――。

 そうであるが。

 ノイルの正式な使用人ではない。だが、彼にそれを言えば、恐らくレンティス領を出るときと同様に眉尻を下げられてしまう。ノイルのことをからかうようなそぶりも見せるのに、そういうところばかりは妙に生真面目だというのは、この一日で充分理解できた。

 ――現に、頼んだわけでもない部屋の掃除をこなしているのだ。

 声を呑み込んだノイルの内心を知らないまま、サフィラは穏やかに笑う。黒い手袋に覆われた人差し指を、自身の唇に近づけて、彼は明朗に言葉を発した。

「どうしても召し上がりたいのなら、ご夕食の後に、一つだけに致しましょう」

 渋々ながら。

 その言葉には頷くしかなかった。青年の子供じみた不服の表情に、小さく笑声を漏らした彼は、見開かれる青い瞳が新しい文句を吐き出すのを遮る。

「ところで、つかぬことをお聞きしますが」

 気色ばんだ目が思わず和らぐ。首を傾げたノイルの視線の先で、時計を一瞥したサフィラが、椅子に腰かけるよう手で促した。

 夕食までの時間に余裕があると判断したようである。

 言われるがままに引かれた椅子に座る。許可を出せば、軽い一礼ののちに、長身はテーブルを挟んで向かいに座った。

 一拍――。

 沈黙を孕んで、赤い瞳はノイルを見た。

「何故、そのように、愚妹に目を掛けてくださるのですか?」

 問われて言葉に詰まる。

 ――どこから話すべきだろうか。

 しばし考えるように視線を逸らす。サフィラは年が離れているようだし、サラの境遇から考えても、ノイルが彼女と出会ったときを知らないだろう。

 そう判断して一人頷く。テーブルに身を乗り出すようにすると、古びた椅子は僅かに軋んだ音を立てた。

「サラが街でふらふらしててさ、両親もいないって言うし、俺が雇わせたんだ」

 ――貧民街に近い裏路地だった。

 四年程前のことである。その頃のノイルは、使用人の目を盗んでは、よくレンティス領を一人で歩いていた。そこでサラを見かけたのである。

 見たところノイルと同年代の少女が一人でうろつくには、危険すぎる場所だというのは知っていた。生気のない瞳と覚束ない足取りもあって、思わず声を掛けたとき、彼女がぼんやりとした目でノイルを見たのを覚えている。

 それがあまりに危なっかしくて――。

 ノイルは彼女の手を引いて、半ば強引にレンティス家に招き入れた。このままでは死んでしまうと両親を説き伏せ、自身の意志も判然としない彼女を、給仕として雇うことで拾った形にした。

 それ以降――。

 屋敷の随所で見かける彼女を気に掛けるようになった。自分が無理やり雇ったに近い存在だという意識もあったが、それよりも。

「俺、ずっと勉強か剣術かって感じで、近くに同年代の子っていなくて――女の子だし、身寄りもないし、守らなきゃって思ってさ」

 使用人の仕事には鈍感だったが、彼女の仕事ぶりにだけは目がいった。失態があれば見つからぬよう隠そうとも思ったし、なるべくなら彼女の負担を減らしたいと思った。

 環境に慣れ親しんだノイルでさえ、時折違和感を覚えるのに、実績を積んできた年上に急に囲まれた彼女はさぞ居心地が悪かろうとも思ったし、彼女の処遇には何かと進言を重ねた。

 それも全て、自分は彼女を守るべき立場だと思っていたからだったのだが――。

 磨かれたテーブルに視線を落とし、頬を紅潮させて黙りこんだノイルを見て、サフィラが穏やかに笑い声を漏らした。余計に鼓動が煩くなる。

 ――いつの間にか目で追っていた。

 言葉少なな彼女と声を交わせるだけで嬉しくなった。無表情に仕事をする横顔を笑わせたくなった。薄青の長髪と、美しい相貌を見かけるたびに、彼女の視線がこちらに向くことを期待した。

 守るべきではなく――。

 守りたいと思った。

 感情を反芻するたびに、頬は赤みを増す。それを見られている相手がサラの兄であることが、余計に羞恥を煽った。思わず、指先でピアスの水宝玉を弄ぶ。

 押し黙るノイルを喉奥で笑って、サフィラは殊更穏やかな声を上げた。

「雇い主の御令息に、そのように想って頂けているとは。不肖の妹も喜びましょう」

「い、いや、そういうんじゃないって」

「私も嬉しく存じておりますよ」

 言い訳を封じられ、恐る恐る視線を持ち上げる。その先でひどく上機嫌に唇を持ち上げたサフィラの表情から視線を逸らし、想起した少女の面影を振り払って、彼は新しい話題を探した。

 ――目に映るのはランタンである。

「そ、それより」

 努めて平静を装った声音は、案の定裏返った。それでも、執事に口を開く隙を与えるわけにはいかない。

 耳が熱を持つ感覚をおして、彼は強く言葉を発する。

「サラも、やっぱり魔術って得意なのか?」

「ええ、そうですね」

 即答だった。

 考える素振りすらもみせない返答に、思わず声を失う。その間にも、顎を撫でた骨ばった指先が、ノイルにひらりと振られる。

 思いの外――。

 サフィラは粗野な所作をする。

 気品のある見目には、あまり似合わない行動だ。貧民街の出身であるなら、執事としての振る舞いの方が、仮面のようなものなのであろうが。

 ノイルの逸れた思考を引き戻すように、彼はにこやかに言葉を続ける。

「愚妹を評すのは憚られますが、私などより、余程才がありましょう。人の身には余る力でも、きっと受け入れて扱えるかと」

「そんなに?」

 サラはあくまでもただの給仕だ。サフィラが魔術を扱えるということは、家系的に魔力に適正があるのだろうが、まさか魔術に秀でた貴族と似た血が流れていることはあるまい。

 流石に――それは贔屓目が過ぎるのではないか。

 思いはすれども、ノイルにはその手のことは分からない。サフィラが平然と行使する魔術も、彼からすれば相当なものである。

 もしかすれば本当に、サラには魔術師の才があるのかもしれない。サフィラ以上の――となると、想像はしがたいが。

 難しげに顔を歪めるノイルを、サフィラがまた小さく笑った。

「――信じるか信じないかは、ノイル様次第とさせていただきます」

 抑えた声に目を見開く。悪戯が成功したとばかりに喜色を浮かべる赤い瞳に、思わず頓狂な声が漏れた。

「お前な! 結構本気で信じたのに!」

「ですから、信じて頂けるような話をしたのです」

「結局、嘘なんだな!?」

 返答はない。代わりに笑声だけを残して、サフィラは立ち上がる。

 更なる抗議を続けようとするノイルを制すように、黒い手袋を持ち上げて、彼はすがすがしく口許を緩めた。

「夕食のお時間ですよ。参りましょう」

 ――扉を開けて待つ彼を忌々しげに睨む。

 その眼差しに微笑みを返され、これは何を言っても無駄だと、何とはなしに悟る。それ以上の言葉を呑み込んで、ノイルは廊下に踏み出した。

 サフィラの先導で、食堂までを歩く。見上げた先の長身は、先ほどまでの雰囲気を引き締め、従者としての色を取り戻していた。

「食事の席をご一緒させていただくなど、不敬ではございますが、なにぶん、このような場所です。ご容赦ください」

「気にしないでよ。宿だし」

 それに、サフィラはノイルの正式な従者ではない。彼自身、使用人が食事を共にする程度で目くじらを立てるような気はないのだ。

 ――何しろ食事は大勢で食べた方が美味しい。

 サフィラの手で開かれた扉を潜る。

 広い食堂に人はいなかった。調度品は綺麗に磨かれ、テーブルには汚れ一つない。どうやら先に人払いを済ませておいたらしかった。

 引かれた最前の椅子に座る。向かい合う席を促せば、一礼したサフィラがそこに腰かける。

 運ばれてきた料理に――。

 手を伸ばそうとしたノイルを、黒い手袋が制す。

「毒見を」

「いや、大丈夫だよ、流石に」

 こんなところで堂々と毒を仕込む者があるだろうか。心配のしすぎだと苦笑する彼をよそに、執事はノイルの皿へ手を伸ばした。

 薄く切られた肉の切れ端を食し、付け合わせのニンジンも同様にナイフで裂く。スープにもスプーンを入れ、喉を上下させてから、彼はにこりと笑った。

「失礼いたしました」

 ――過保護だ。

 大抵の使用人のことはそう思っているが、それにしても真面目すぎはしないだろうか。そうでもなければ、執事に上り詰めることができないのは分かっているつもりだが、彼は気安くこちらをからかうこともあるというのに。

 職務に忠実なのはいいことかもしれないが――。

 曖昧に頷いてから、スープに手をかける。芋独特の質素な甘みが鼻に抜けるのが新鮮だった。

 ふと視線を持ち上げれば、同行者もスープに舌鼓を打っている。目を閉じ、噛み締めるような表情で口許を緩める彼に、思わず笑みがこぼれる。

「サフィラも、芋好きなんだ」

 至極幸福そうな顔をしていた彼が、我に返ったように目を開けた。こちらの発言の意図を問うように首を傾げる。

 特に――。

 何か意味があったわけではない。ただ、思い出したことがあっただけだ。

「サラも好きだって聞いたから」

「そうでしたか」

「兄妹だね」

 そう笑顔を向ければ、サフィラは照れたように眉尻を下げた。

 ――サラのこととなれば、そういう表情もできるのか。

 思わずまじまじと見つめた優美な顔立ちが、誤魔化すかのごとく温かな肉を噛む。見るからに塩気の強そうなそれを飲み下す彼の手に促され、ノイルも食事が冷める前にフォークを伸ばす。

 そうして刺したニンジンを見る。

 瞥見したサフィラの顔は、粛々と食事を噛み締めている。こちらに意識がないのを確認して――。

 野菜を刺したまま、彼の皿へ伸ばしたフォークが遮られた。

「あっ、こら、何するんだよ」

「こちらの台詞です。好き嫌いはお体に良くありませんよ」

 赤い瞳がいつの間にかこちらを捉えている。有無を言わせぬとばかりの視線を睨み返す以上の抵抗ができるわけもなく、ノイルは一つ溜息を吐いた。

「――嫌いなんだよなあ、これ」

 思いの外、心底厭うような声音が漏れる。自身の皿に目を移したサフィラが、上機嫌に唇の端を持ち上げた。

 腹いせのようにニンジンを齧る。柔らかく煮られているそれは、使用人たちが言ったような甘さを孕んでいるとは思えない。

 種々の不愉快を乗せて、眉間に皺を寄せる。

「だから笑うなって」

「これは、失礼いたしました」

 おどけた一礼に余計腹が立った。ナイフで切り取った肉の、強い塩の味に込み上げる咳を呑み込む。

 付け合わせの野菜を三度ばかり噛んで、出された麦酒と共に一気に流し込む。十八の誕生日に解禁されたとはいえ、そもそも酒が好きではないのだが――。

 ――次からは果汁を絞ったものにしてもらおう。

 苦い味に込み上げるえづきを飲み干して、そう心に決めた。

 最後のスープだけをまともに味わいながら胃に収め、彼らは食堂を後にした。

 膨れるだけは膨れた腹を抱え、ドアの並ぶ廊下を歩く。部屋の前に立ったノイルの横で立ち止まった執事がのんびりと声を上げた。

「明朝の七時に、お支度を手伝いに参ります。硬いベッドでは眠り慣れないでしょうが、どうぞ、今晩は早くにお休みください」

「分かった」

 素直に頷いておく。普段ならば、目を盗んでこっそりと長く起きているところだが、今日ばかりはそうもいかないだろう。

 何しろ疲れている。

 買った菓子を食べて、いつもよりは早く寝ておこう――と決める。夕食の塩気が口に残っているのをどうにかしたかった。

 それを――。

 見透かしたかのように、隣の部屋の扉を開いたサフィラがこちらを見た。唇に人差し指を当てて、彼は表情を緩める代わりに、瞳の色を強めて見せる。

「それから、夜中のお食事はお体に障りますので、お控えくださいませ」

 言い残して。

 颯爽と自身の部屋へ消えていった背を見送る。刺された釘を引き抜く暇も与えられず、ノイルは込み上げる文句を吐き出せないまま、自室の扉を開いた。

 テーブルに載せたままの紙袋の中に手を入れる。必要もないのに殺した息で周囲を見渡し、視線がないのを知りながらも、慎重に中の好物を取り出す。

 ――アップルパイである。

 作りたての香ばしさはすっかりと冷めている。それでも、口許に近づければ、甘やかな香りが鼻腔をくすぐった。いっぱいに吸い込んだ芳香を噛み締めるように堪能して、ゆっくりと口を開く。

 音を立てて崩れる生地に詰まった甘みと、大粒に切られた林檎の触感に、舌が蕩けるような錯覚を覚える。砂糖の味と、煮込まれた果実のとろとろとした感触を転がして、唾液で湿った生地を噛み砕く。

 至福の息を漏らし――。

 残りは一息に食べきった。細めた青い瞳に、名残惜しさを浮かべて、最後の一口を呑み込む。しばし口の中に残る甘さを楽しんでから、ようやく立ち上がった。

 備え付けの蛇口をひねる。

 王都の魔術師たちが、この国の水道を完全に整備したのは、今から百年ほど前になるらしい。それまでは水は今にも増して貴重だったというが、そのころの生活は、ノイルには想像しがたい。

 栓をしたシンクに水を溜め、家から持ち出した布を浸す。食事の汚れを取るように歯を拭いて、掬った水を口の中で掻き回しながら、再び布を浸して洗う。

 吐き出した水ごと――。

 栓を抜いて流した。水を吸った布を絞り、広げて吊るしてから、彼は寝間着に着替えてベッドに身をうずめた。

 すぐに襲ってくる眠気には抗わない。マルカへ向かう馬車が捕まらなければ、明日は一日歩き通しだ。

 思い浮かべた薄青の少女の輪郭に誘われるように、ノイルは意識を失った。


 カーテンが開いて目が覚める。

 差し込む日差しに身をよじったノイルが、開きかけた目を眩しげに閉じ、布団に潜り込む。

「おはようございます、朝ですよ」

 ――それを許さないのが、いつの間にか入り込んでいた執事である。

 勢いよく掛け布団を剥がれた。一気に体に纏わりつく外気に、身震いしながらも観念した赤茶の青年は、ようやく目を開いて薄青の長髪を睨み遣った。

「お前、どうやって入ってきたんだよ」

「鍵がかかっておりませんでした。不用心ですよ」

 言われて思い返す。

 ――そういえば閉じた覚えがない。

 仕方がないとばかりに眉根を寄せたサフィラが、穏やかな不服を湛えている。眠たげに欠伸をする同行者を横目に、執事服を潔癖に着こなした黒い手袋は、慣れた調子で服を拾い上げた。

「もしやと思い、失礼させていただきました。ご無事で何よりですが、用心なさいますよう」

「昨日、そのまま寝ちゃったから――ごめん」

「そのままですか?」

 笑って。

 示されたのは、テーブルに散らばるパイの欠片である。

「夜中のお食事はお体に障りますと、申し上げたはずですが」

「夕食の後に一つだけって、サフィラが言ったんだろ!」

「そうでしたね。しかし、一つ分というには些か量が多い気が致します」

 そう言って、赤い瞳は瞼の下に隠れた。全く目敏い――と内心で悪態を付きながらも、彼を納得させるだけの言い訳が思いつくわけでもなく、ノイルは拗ねたような声で膨らむしかなかった。

 着替えを手伝うサフィラの手が、シャツのボタンを閉じる。黒い手袋越しにも伝わる体温に、思わず眉をひそめる。

「今日、そんなに寒い?」

「いいえ。昨日と変わらないかと存じますが。どうなさいましたか」

「いや。手、冷えてるなと思って」

 上着を羽織らされ、コートを整えるサフィラの指先を見る。つられるように視線を落とした彼は、ああ、と合点がいったように頷いた。

「生来、体温が低いのです。お気になさらず」

 本人がそう言うなら――そうなのだろう。

 納得して立ち上がる。コートを羽織らされ、宿の店主の見送りを受けて、朝靄が薄れつつある街へ繰り出した。

 馬車の往来がない日の朝にしては、どこか騒がしい。今日は何か催しがあったろうかと首を傾げるノイルの横を、浮足立った子供の一団が駆け抜けていった。

 それで思い出す。

「ああ、そうか、今日は読書会があるんだな」

 神の叡智たる本を崇め、その恩恵を得るためには、字が読めなくてはならない。信仰を象徴する教会では、週に何度か、身分に拘らず、子供に字の読み方を教えている。

 尤も、平民が文字を書くことは教義で禁じられている。それは神官の専売特許だ。

 ――この辺りの子供は、王都の教会に行くのだろう。馬車に乗り込む背を見送りながら、ノイルは小さく笑った。

 その横顔を見て、落ち着いた声が問う。

「ノイル様も、斯様に学んだことがおありですか」

「いや、俺は教育係がついてたから。ずっと屋敷で勉強してた」

 小さい頃から、同年代には触れてこなかった。それでも、高位の神官に従事し、文字の書き方を教わるところまでは、少なくとも書き方を忘れぬ程度には真面目にやっていた。

 勉強には向いていないと――。

 漠然と感じ始めてからは、避けるようになっている。剣術の方が性に合っているのは事実だし、魔術の才能はおろか、恐らく治世の才もない自覚のまま本に向き合っていても、意味がないような気がしていたのだ。

 正直な話。

 サラを追って出てきたことで、解放された気にもなっている。

「サフィラは――」

 こちらを見る赤い瞳に問い返そうとして、一拍だけ口を閉じる。

 穏やかな笑みを浮かべ、小首を傾げる彼の幼少期というのが、どうにも想像しがたい。貧民街にあったことを思い返すと、曖昧だった想像が余計に判然としなくなった。

 それでも、子供時代のない人間はいない。

「小さいとき、こういうところに来たことある?」

 違和感を噛み殺して問う。視線を逸らしたサフィラが、一つ唸ってから、あまり聞こえの良い話ではございませんが――と声を発した。

「私どもは貧民の出身ですので、信仰よりも先に、まずは命を繋ぐことが優先でした。ですから、サラなどもご迷惑をおかけしたかと存じます」

「――そっか」

 それはそうかもしれない。

 貧民の子供は、身なりだけでもそうと分かるものである。貧富に関係なく、万人を受け入れるのは教会だけだ。よしんば通っていたとしても、偏見の目には晒されたろう。

 そこで一つ、思い出したことがあった。

「あれ、でもサラは字が読めたと思うんだけど」

 顔を上げて問うたノイルに、サフィラは小さく笑声を漏らした。僅かに混じる苦い物を押し殺すような表情を、即座に微笑に塗り替える。

「他の貴族ならまだしも、レンティス家にお仕えするのに字が読めないとあっては、使用人としては失格です。恐らく、サラは手すきの者に教わったのでしょう」

「なるほど、そういうものなんだ。サフィラは?」

「私は、執事としての教養のために、四年ほど前まで教会へ通っておりました」

 四年前――。

 というと、ノイルが十五の頃だ。見目からして、恐らく彼よりも十は年上であろうサフィラは、二十代の半ばだったことになる。

 思わず、まじまじとその顔を見る。

 視線を受けて、照れたように表情を崩したサフィラは、遠ざかる馬車の蹄の音に目を遣っていた。

「子供たちに混じって学ぶのは、少々気恥ずかしくもありましたが」

 懐かしげに遠くを見る眼差しは、言葉とは裏腹にひどく大人びていて、遥か昔から変わらぬままにあるような錯覚さえ抱かせる。最初から何でもできる人間であったような印象は、強まるばかりで拭えない。彼が子供に紛れ、教会で本を読むなどとは――。

「なんか、想像できないな」

「そうでしょうか?」

 ようやく、赤い瞳はノイルを見た。青い双眸に映る端正な顔立ちが、爽やかに微笑を描いて崩れた。

「最低限の教養は身につけたつもりですが、未だ浅学の身。ご迷惑をおかけすることと存じます。ご指導のほど、よろしくお願いいたします」

 それはむしろ――ノイルが発するべき言葉ではなかろうか。

 心によぎる居心地の悪さを知る由もなく、執事は深々と頭を下げた。


 街道の端で、携行食をかじる。

 干し肉の味気なさを噛み締め、昼の空腹を紛らわせる。先ほど立ち寄った、街というより村に近い宿場には、小麦畑と宿しかなかったのだから仕方がない。畑があるのだからパン屋くらいは――と恨み言を吐いたところで、現状は変わらなかった。

 既に太陽は天辺にある。宿泊した街を出てから五時間ばかり、少しの休憩を挟んだだけで歩き通しだ。途中、王都に向かう馬車とはすれ違ったものの、マルカ方面へのものとは出会わないままである。この先も期待はできないだろう。

 だが――それよりも深刻なのは。

「ううん、情報が何もないっていうのは厳しいな。どうしよう」

 ブーツの上から足をほぐして、ノイルは溜息を吐く。

 サラの情報が一つもない。平民と一緒にいる、サフィラによく似た少女――と言って、何も出てこないのだから、本当にどこにも訪れてはいないのだろう。服を着替えさせたにしろ、貴族的な身なりばかりは急場でどうにかなるものでもないし、サラの顔立ちを変えることもできない。

 ――前途多難だ。

 長距離の移動による疲弊に、思わず弱音がこみ上げる。挫けかけた心を奮い立たせる赤いコートの横で、薄青は目を閉じて唸った。

「虱潰しに当たる他はありますまい。この先も街道は続くのでしたね」

「そうだね。グリア山脈までは、宿場もそこそこあるはずだよ。歩いてくる商人もいないわけじゃないし」

 馬車を買えぬうちは、商人としてやっていくのは難しい。それでも最初から金があるわけではないし、新興の商家などには、徒歩で山を越えるものもある。

 危険ではあるが、腕に覚えのある者ならば、魔物を追い払いながら進めぬわけではない。事実、ノイルも魔物相手に何度か剣を振るっている。

 サラを連れ去った誰かが、戦うすべを持っているのかは分からないが、魔物のはびこる中を毎日野宿というわけにもいくまい。目指している地点がどこなのかは分からないが、物資の補給のために、街へ寄らざるを得ないときもあるはずだ。

 その望みにかけるほかない――と言った方が正しいか。

 考えても仕方がないとばかり、サフィラは息を吐いてその話題を終えた。さして美味くもなさそうに、干し肉を乱暴に噛みちぎった彼は、街道に視線を遣る。

「あとの心配は野盗ですか」

 ――王都から離れれば、自然と治安は悪くなる。騎士団がいない地方では、自警団が街を守っているというが、王直属の兵である騎士とは影響力が違う。

 野盗というものの恐ろしさについて、ノイルは実感を持って理解しているわけではない。だが、サフィラの瞳に宿る剣呑な色には、張り詰めるような緊張が湧き上がる。

 その面持ちを一瞥し、執事は殊更穏やかに笑った。腰のレイピアを一度揺らして、瞳にしたたかさを浮かべて見せた。

「不届き者の始末はお任せください。盗賊風情ならば、すぐに片づけられましょう」

「始末って――」

 当然のごとく発された言葉が、物騒な響きで耳を打つ。想起した赤黒い部屋を振り払い、思わず引きつった顔を逸らして、努めて冷静に声を上げる。

「そういうの、あんまりしなくていいからな」

「何を仰います。御身をお守りするのが私の使命です。脅かす者があるならば、それが誰であろうと、取り払いますよ」

 そうにこやかに――。

 言われても困る。

 いくら野盗とはいえ、相手は人間だ。魔物ではない。言葉が通じるのだから、なるべく穏当な解決法を取りたかった。武力へ訴えるのは、そのあとでも構わないはずだ。

 曖昧に唸ったノイルに、サフィラが苦笑を漏らすのを聞く。

「――ノイル様はお優しいのですね。ですが、それが危険に繋がることもございます」

 ご承知おきくださいと、彼は最後の一口を噛んだ。その心配げな表情にも、やはり判然としない声を漏らすことしかできず、ノイルは味気ない携行食を飲み込んだ。

「それでは、参りましょうか」

 促されて足を踏み出す。舗装の不十分な道で痛みが走るのを、思わず忌々しげに睨んだ。

「――あとどのくらいで着きそう?」

「そうですね。一時間ばかり」

 こともなげに言うサフィラに、意味のない恨み言が込み上げるのを呑み込んで、溜息に代えた。


 ようやく鞄を降ろして溜息を吐く。

 一時間ほどというサフィラの予想を覆し、三十分ばかり長く歩いて、彼らはようやく今日の目的地へ辿り着いた。

 宿場の中でも出入りの多い街だ。今日の夕食は少し期待してもいいかもしれない――などと思いながら、ノイルは調度品を見渡した。

 宿の手配を終えたサフィラに声を掛けられて、彼は意識をカウンターに戻す。

「部屋は離れてしまうようですが、お荷物はどういたしましょう」

「ああ――どうしようかな。サフィラ、任せていい?」

「畏まりました」

 ノイルの鞄を受け取って、彼の足は軽やかに階段を上る。疲弊の様子も見せない背に羨望の眼差しを向けた。

 彼が背負った荷物は、ノイルのそれよりずっと重いはずだ。見るからに重量のあるそれを見かねて、自分の荷物は自分で持つと言ったのだ。

 ――お気遣いの必要はありませんと、サフィラが言ったとおりである。

 宿の主な利用客である行商人たちは、昼の間は部屋を空けているようだった。静まり返った廊下を歩く中、ワインレッドの瞳がちらと同行者を捉える。

「ところで、気になっていたのですが、こちらの本には何が書いてあるのですか?」

 言って、背負ったノイルの鞄を指し示す。急な問いに青い目を瞬かせた彼は、それが――と声を上げた。

「何も書いてないんだよ」

 あのときは好都合だと思っていたが、今になって考えてみればおかしな話だ。いくら何でも、何も書いていない本を書架に収めるわけがない。

「持ち出しても問題ないかと思ったんだけど、これ、家にあった覚えがないんだよな。まあ、広い家だし、俺が全部知ってるわけじゃないけどさ――」

「ふむ。拝見しても?」

「いいよ」

 本来はそう易々と渡していいものではないが、この書に限れば問題はないだろう。何しろ白紙である。

 周囲にひと気がないのを確認してから、サフィラの黒い手袋が青い表紙の古書を取り出す。革製の表紙を確認するように撫でる所作が、妙にさま、、になっていた。

「――おや」

 表紙を捲った指が止まる。何度か視線を紙の上に滑らせ、彼は口許を覆うように手を当てた。眉間に僅かに皺が寄っている。

「日記のようですね」

「本当?」

「ええ。使用人でしょうか、随分な扱いを受けていたようです」

「おかしいな。何も書いてなかったし――そもそも、召使いが字なんか書けないと思うんだけど」

 ノイルが持ち出したときは、確かに白紙の古書だったはずだ。それに、字を書く行為は教義で禁じられている。よしんば独学で身に着けていたとして、迂闊に文字を残しては問題になろう。

 手を伸ばせば、執事は本を主へ返して寄越した。確認するように赤い瞳を窺ってから、ノイルはゆっくりと本を開く。

 ――細い字が、古い紙いっぱいに記されている。

「本当だ」

 思わず小さく声を漏らした。ページをつまんで左右させたあと、その内容に目を通す。

 サフィラの言う通り、使用人の日記のようだ。レンティス家に努めているらしい筆跡の主は、美しい字で延々と恨み言を綴っている。

 曰く――。

 家政婦長の当たりが強い。

 他の給仕と比べて給金が異様に低い。

 このところ、毎日のように早番ばかりを押し付けられている。

 こんな思いをするならば、いっそ死んでいればよかった――とさえ。

 綴られた辛苦に思わず眉根を寄せるノイルの脇から、サフィラがそれを覗き込む。

「お心当たりはございませんか」

「ない――なあ。俺、そんなに召使いのことは知らないんだ。給仕の誰かだから、女の人みたいだけど」

 この情報だけで個人を特定するのは不可能だ。首を捻るノイルの横で、殊の外深刻そうに唸り声を漏らしたサフィラの心配は、彼とは別のところにあるようだった。

「――よもや、サラのものということは」

「まさか」

 思わず笑みが零れる。

 サラには字が書けないはずだ。教会にも通っていなかったという彼女が、仕事をこなしながら、独学で字を覚えることは考えにくい。

 笑って否定するノイルにも、やはり心配げに眉尻を下げたまま、サフィラはノイルの手元で閉じられた本をじっと見た。安心させるように、手にした本を振った赤いコートの青年が、執事が開いた鞄にそれを戻す。

 さして納得はしていないのだが。

「なんだかよく分からないな、この本」

「高位の魔導書やもしれませんね」

「え、いや、それはまずい!」

「冗談ですよ」

 前に進み始めたサフィラを追って、焦燥の声を上げるノイルに、彼は微笑で振り返る。悪戯めいた光が、赤い瞳にひらめいている。

「そのようなものに、わざわざ日記を封じる者など、そうありますまい」

 当然だとばかり――。

 部屋を目指す背に脱力する。あまりに平然と言うものだから、どうにも彼の言葉の真偽が分からない。

「――お前、本当に楽しそうだよな」

「おかげさまで」

 皮肉のつもりの言葉には、ひどく上機嫌な声音が返ってきた。苛立ちと抗議を込めて、踏みしめる足に力を籠めると、疲弊したそれに鈍い痛みが走る。

 苦しんでいる間に、ノイルの部屋の前でノブを握るサフィラを恨めしげに睨み、彼は自身の部屋へ入り込む。

 すぐに椅子に腰かける。ブーツの上から足をほぐす同行者を横目に、落ち着かない様子で部屋の隅を見たサフィラが、自身の鞄から布を取り出す。

 部屋中を掃除して回る背を見る。

 ――潔癖のきらいがあるのは、立ち振る舞いから理解していたが。

 きびきびと働く背が、見慣れた使用人のそれと重なる。ノイルがいない間、一日目の宿でもこのように動いていたのだろうか。

 この調子であれば、自分の部屋も整えているに違いない――と思うと、やはり出立前に見た家の汚れ具合が気になった。あの埃にまみれた家では、一日とて耐えられたものではないだろうに。

 ぼんやりと思索を巡らせていたノイルに、ひとしきり掃除を終えたサフィラが近寄ってくる。彼の前で折り目正しく一礼した彼は、穏やかに問うた。

「荷物を部屋に置いて参ります。その後は、少々、一人で行動させていただいても?」

「いいけど、どうかしたのか?」

 ここまで散々ノイルを守ろうとしている彼だ。自ら単独行動を申し出る理由が思い当たらない。

 顔を上げ、窓に視線を移した執事は、小首を傾げる同行者に微笑みかけた。傾きかけた日にも、まだ青さを保つ空の色に似た髪が揺れる。

「見たところ、人が集まる宿場のようですので、詳しく聞き込みをして参ります」

「それなら俺も行くよ」

 立ち上がろうとする赤茶の髪を、黒い手袋が遮る。薄青の長髪の下で、悠然と微笑んだまま、サフィラは自身の唇に人差し指を当てた。

「ノイル様は、こちらでお待ちください。お疲れでしょう」

 ――結局。

 夕食の時間までには帰ってくるから、外に出るな――と婉曲的に示して、サラによく似た男は扉を閉じた。

 そう言われても、ノイルにやることがあるわけではない。昼寝というには時間が遅すぎるし、携行食を無為に齧れば、恐らく二重の意味で叱られる。

 とはいえ、あと二時間ばかりは暇である。

 立ち上がったノイルが扉を開く。荷物は全てサフィラに預けてあるし、鍵はかけずとも問題ないだろう。

 コートの内ポケットに、昨日残った銀貨と銅貨があるのを確認する。そのまま繰り出した街は、午後の気だるげな雰囲気を纏っていた。

 行商人の露店を見て回り、色めく婦女をかわしながら、あてもなくふらついていたノイルの目に、ふと少女の姿が留まる。

 年のころは十にも満たない。やせ細った姿から、恐らく貧民であろうことは分かった。溢れる涙を拭っているが、それを平民たちが気に掛ける様子はない。

 そういうものだと分かっていても――。

 ノイルには納得ができない。

 小さな子供が泣いているのに、身分の貴賤で無視をすることが、まかり通っていいものだろうか。

 その姿にかつてのサラを重ね見たのもあるだろう。彼女もこのようにして泣いていたのかもしれないと思うと、人目を気にする余裕もなかった。

「君、どうしたの」

 声を掛ければ、大きな瞳がノイルを見た。そこに映る自分が、思いの外心配そうな顔をしている。

 たっぷりしゃくりあげてから――彼女は、ノイルに縋るように声を上げた。

「大きいお兄ちゃんたちが、お姉ちゃんを連れてっちゃったの」

「それは――」

 ――人身売買か。

 知らず、怒りに瞳を細める。野盗よりもたちの悪いごろつきだ。

 人の命がかかっている。放っておくわけにはいくまい。

「どんな人だった?」

 少女の前にかがみこんで、努めて優しく彼女の涙を拭う。不安と悲しみに揺らぐ瞳が、ノイルをじっと見つめて瞬いた。

 応えるように――。

 唇を持ち上げる。

「待ってて、お姉ちゃんを連れてきてあげる」

「ほんと?」

 頷けば、少女は希望に満ちた笑みで、とつとつと男たちの特徴を語った。ひとしきり聞き終えた情報を頭に叩き込みながら、ノイルは立ち上がる。

「ありがとう! お兄ちゃん、気を付けてね!」

「うん。君も気を付けるんだよ」

 手を振り返し――。

 気を引き締める。眉間の皺を自覚しながらも、ほぐすことはできない。

 恐らくは貧民街に近い路地だ。具体的に場所を知っているわけではないが、サフィラに案内された、あの淀んだ空気は忘れていない。

 ブーツの音を響かせ、裏路地を歩く。大通りから外れ、薄汚れた煉瓦造りの道を猫が駆け抜けるのが、視界の端に見えた。

 この辺りだろうかと――。

 立ち止まったノイルに影が落ちる。

 振り返ったときには遅かった。長身の男に腕を掴まれ、汚れた手で乱暴に口を塞がれる。くぐもった声を漏らした彼を前に、いつの間にか現れた小汚い男たちは、下卑た視線で品定めを始めた。

「これが、例の貴族の坊ちゃんだろ。どこの出身だか分かるか」

「このコートはあれだろ、王都の方の図書館の――」

「レンティスか! ちょうどいい!」

 例の――。

 意味を考える間もなく、背筋が粟立った。

 ――このままでは、自分は碌な末路を辿らない。

 脳が揺さぶられるように、この先の想像すらも白く霞む。強い心音が耳の奥で反響して、ひどい頭痛に変わった。

 反射的に。

 饐えたにおいのする掌に噛みつく。

 解放された口許で大きく息を吸った。粗野な長身を睨み上げて気色ばむ頬を、容赦なく拳が打つ。

 ――耳もとで破砕音がして。

 次いで、熱い痛みがある。右耳で揺れていたピアスの装飾が、地に転げ落ちて割れた。

 痛みと衝撃でぐらつくノイルを前にして、貧民と思しき男たちは、怒りを隠しもせずに咆えた。

「暴れるんじゃねえ! 仕方ねえな、ちょっとばかり痛めつけて――」

「あんまり余計に傷はつけるなよ」

 取り出された――。

 刃毀れを起こしたナイフが、ノイルの首筋に向けられる。冴え冴えとした刃の冷えた感触が伝わって、思わず体を引きつらせた。

 ここで――死ぬと。

 渦巻く感情が明確な恐怖を湛え、彼は腰の柄に手を掛けた。そのまま抜き放った重たい金属が、その勢いで眼前の長身の脇腹を抉り。

 ――倒れ伏す。

 飛び散った生温い体液が頬を汚した。茫然と立ち尽くすノイルの眼前で、嫌な音を立てて男の体が崩れ落ちていく。

 抉られた腹から桃色の管が零れ落ちる。薄汚れた煉瓦を伝って、鮮紅がブーツの底にへばりつく。知らぬうちに一歩引いた、掠れた跡をも呑み込むように、焼け付く赤が広がっていく。

 鋭い痛みを孕む耳元の熱さが遠のいた。押し寄せる冷えた心地に、体の芯までも凍るような思いがする。

 膜を張ったように不明瞭な思考の中で――。

 生暖かく湿った頬をなぞる。

 指先を揺れる青い瞳に映した。ぬめる液体は黒い手袋にもなお赤い。

 その視界の。

 奥にあるそれと同じように。

 鋭く息を呑む。強引に引き戻された現実に、ひどい頭痛がする。体中を駆け巡る寒気で足が震える。不安定な呼吸で歯の根が合わない。目の前で動かぬこの男は。赤く汚れた剣は。溢れた鮮紅は。零れる中身は。

 ノイルが。

 混乱が喉を突き破るより先に――。

 冷えた空気が爆ぜる。

「――よくも主に手を出してくれたな」

 その向こうに立つ面影に声を上げるよりも早く。

 低く呻いた薄氷が駆けた。

 事態を呑み込めぬ小柄な男の左胸を、氷を纏うレイピアが穿つ。路地の奥まで下がり、壁にもたれかかるノイルをよそに、サフィラはもう一人の体を蹴り倒した。

 深い赤に憎悪を湛えた瞳が――。

 みすぼらしい男の体を容赦なく蹴り上げる。呻き声にも構わず、薄い唇を歪めて踏みつける。

 その背に。

 突き立てた細剣の怒りは、それでも収まらない。

 引き抜かれた白銀が赤く染まっている。刃を追うように噴き出した体液を掻き回すように、魔力で強化された剣がその背を引き裂く。

 襤褸の服に赤黒く染み込むそれに、ノイルは思わず口許を覆った。体中を這いまわる怖気が臓腑を締め付けるような心地がする。

 男の足が、既にこと切れた体を蹂躙する。荒々しく蹴りつけられた肉塊が、骨の折れる音と共に、壁にもたれて立ち尽くすノイルの方へと転がった。体中を鮮紅で染め、地面に軌跡を描き、彼の眼前で腹から薄桃を吐き出す。

 その。

 ――目が。

 ノイルを見ていた。

 込み上げるものを押し殺すすべはなかった。崩れ落ちた先の地面すらも汚す赤へ、饐えたにおいをぶちまける。逆流した胃の中身が喉を焼く痛みで、涙が零れ落ちた。

 滲む視界の中で顔を上げる。ぼやけて見えない塊の奥で、もう一つの骸に、サフィラが足を持ち上げている。

 ――嫌だ。

 ――もう嫌なんだ。

「サフィラ!」

 懇願の叫びで、男はようやく我に返ったようだった。膝をついたノイルに駆け寄る姿からは、今しがたの激高が抜け落ちている。

 レイピアをしまい込み、彼はこちらに手を伸ばした。

「ノイル様、ご無事ですか! 申し訳ございません、事態に気付くのが遅れてしまい――」

「いい、もういいから」

 震える声で首を横に振る。一刻も早く、この鉄錆のにおいから逃れたかった。

 差し出された手に縋るように掴まる。既に肉塊となった屍を一瞥したサフィラが、忌々しげに鼻を鳴らして、取り落としたノイルの剣を拾った。

 ――受け取ろうとした手がひどく震えているのを。

 見かねたかのように、サフィラの手が慎重にノイルの腰へ剣をしまう。血の気の引いた顔を覗き込む彼の、ワインレッドの瞳にさえも、あらかた吐き出したはずのものが湧き上がる心地がした。

 それでも――ここに来た理由を忘れたわけではない。

「女の子が、この辺に。人身売買かもしれない」

 呟いた声は情けないほど震えた。吐き出す息が荒くなる。咎めるように息を吐いた執事は、しばし考えるそぶりを見せてから、畏まりましたと頷いた。

「私が探して参ります。ノイル様は宿でお待ちください」

 微かに頷くノイルを支えた腕が、どこをどう歩いたのかを、彼はよく覚えていない。

 気づけば宿の自室に座り込み――。

 耳の傷跡に止血を施して、サフィラはいなくなっていた。

 執事の黒い手袋は、同行者に見えぬように、丁寧に血と脂を拭っていった。それでも熱を持った傷の痛みが、あれが現実であることを忘れさせてくれない。

 ノイルは。

 ――人を殺した。

 ありありと思い出す感触に腕が震える。骨を千切り、肉を断つ音が、耳にこびりついて離れてくれない。再び喉を焼く不快感に抗えずに、彼は洗面台へ向かうこととなった。

 ――夕食を食べることも叶わぬまま、胃液を吐き出し続けたノイルは、一睡もできぬままに夜を明かした。


 昼になっても、調子は戻ってこないままだった。

 眠ることが恐ろしいと思ったのは初めてのことだ。ともすれば意識を攫われそうになるノイルを気遣って、サフィラはもう一晩をこの街で過ごすと決めたようだった。

 気は急いているのだろうに――。

 思いながらも、今回ばかりは気にしなくていいと言える状況ではなかった。ありがたく好意に甘え、彼は宿の部屋で座り込んでいる。

 気を落ち着けるためにと用意された紅茶に口をつけながら、彼は茫洋と執事の姿を見上げた。青い瞳に映る美しい相貌が、眉尻を下げて目を閉じる。

「申し訳ございませんでした」

「いや、ううん、俺が悪かったよ。ごめん」

 思わず俯く赤茶の髪に、気遣わしげな吐息が聞こえた。

 ――サフィラはノイルを責めない。

 彼の消沈した様子を見て、語気を荒げることができないのかもしれない。もしくは、身をもって己の立場の危険性を理解した彼に、言葉での追撃を行うことをよしとしないのか。

 どちらにせよ――。

 救われるのと同時に、ひどく罪悪感を覚える。

 ノイルが口をつぐめば、サフィラは努めて明るく声を上げた。

「――その形状は、少々危険かもしれませんね。新しいものに致しましょう」

 言われて、左耳に触れる。残ったピアスの感触を確かめて、ノイルはぼんやりと思いを馳せた。

 十になる日に、両親からもらって以来、気に入ってつけているものだ。水宝玉の澄んだ色合いが髪に映えると褒められて、専らこればかりを選んでいた。

 それでも――。

 砕けた破片が耳を切る痛みを思い出す。傷口の熱が戻ってきたような感覚を振り払って、ノイルは首を縦に振る。

「そうだね」

 言いながらピアスに触れる。肌で温まったそれを手際よく外し、掌で転がした。

 透明度の高い薄青に、いなくなった少女の面影を想起する。こうして彼が立ち止まっている間にも、彼女はどこかで助けを待っているのかもしれないと思えば、立ち込めていた恐ろしい心地も、幾分かましになるような気がした。

 それに。

 ――サフィラを長く足止めするわけにはいかない。

「明日から、また進もうか」

 気遣わしげな視線が、無言でノイルを見る。その赤い瞳に、努めて自然に見えるように微笑みかけた。

「今日はしっかり寝るよ。俺のことよりも、サラの方が心配だ」

 本心だった。

 渦中の少女の足取りも掴めぬうちから、立ち止まっているわけにはいかない。

 それに、やらねばならないことがあると思う方が、気が紛れた。彼女を救うことを目標としているうちは、何があっても引き下がるわけにはいかない。

 決意を固め、真っすぐに見る。青い瞳に映るサフィラの表情は、やはり沈痛だった。

「――ノイル様」

「大丈夫だよ」

 もう一度。

 今度は自然に笑えたような気がした。未だ纏わりつく、重く張り付くような心地を誤魔化すように立ち上がる。

「ピアス、買いに行こう。護衛は頼むよ」

 そう言えば、サフィラは無言のうちに頷いた。

 テーブルの上の紅茶を飲み干す。寝不足の脳がぐらつくのを押し殺し、掌の青い結晶を見た。

 行方不明の少女を彷彿とさせる宝石は、その兄の髪色にも似ている。つまみ上げたそれをサフィラの方に翳すと、同じ色をした男が、装飾越しに首を傾げるのが見える。

「こうやって見ると、サフィラとお揃いって感じだね」

「――はあ。揃いでしょうか」

「色とかが?」

 何となく――と続ければ、執事は解せないとばかり首を捻った。

 それをよそに、ピアスを懐へしまう。促すように手を振れば、同行者の言葉の意味に頭を悩ませていたサフィラは、伸ばした背筋で隣に並んだ。

 コートは――。

 しばし迷ってから、鞄に押し込めた。

 街の喧騒は穏やかだ。貧民が数人死んだ程度のことは、何の問題にもなっていないようだった。それに救われたような思いを抱く己への嫌悪感が、背に重くのしかかる。

 振り払うように――。

 長身を見上げた。

「そういえば、何か手掛かりはあった?」

 サフィラは今朝も情報収集に出かけていた。朝のうちに発つ商人や、今日の拠点をここに定めた露店に、聞き込みを行っていたらしい。

 ノイルの期待とは裏腹に、彼はさも残念だとばかりに首を横に振った。悔しげに歯噛みする横顔に肩を落とす。

 ――いよいよ手掛かりがない。

「しかし、少々面白い話を」

 唸るノイルの気分を変えるためか、サフィラは殊更明るい声を上げた。

「この近辺に化け物が出たそうです」

「そういうのはやめてよ」

「おや、不得手でしたか。失礼いたしました」

 楽しげな声を漏らして口を閉じようとする彼を睨み、無言のうちに続きを促す。

 聞きたいわけではないが。

 ――途中で止められる方が怖い。

 その表情をしばし見詰めてから、サフィラはそれではと語り出す。ひどく面白そうに、低く抑えた声で目を細める彼から、周囲の人波に意識を遣るよう努めて、ノイルは続く言葉を待った。

「角を生やした人間とでも言いますか」

「あ、なんだ、化け物って言うから、もっとこう――わあっとしたものかと思った」

「わあっと?」

 安堵の息を漏らすノイルの言葉が、やはり理解できなかったようで、サフィラは僅かに眉根を寄せた。

 ノイルが想像していたのは、あらゆる動物の合成物のような、或いはどの動物にも当てはまらぬような――何にせよ、もっと人外めいたものだったのだ。それを伝えようと曖昧に手を広げてみせるが、執事は首を傾げるばかりである。

 一人格闘するのをやめて、彼は顔を上げて薄青を見た。

「で、それが何かしたの?」

「さあ――人を食っていただの、襲っていただのと聞きましたが、そのようなことがあったのなら、今頃死体が見つかっておりましょうし」

 誰ぞの放言でしょう――と、彼は言う。

「まあ、単なる噂です。お気になさいますな」

 赤い瞳が笑う。角の生えた人間の、不明瞭なシルエットを思い浮かべていたノイルは、足を進めるままに問うた。

「じゃあ、何で話したんだ?」

「失礼ですが、あまりその手の話が得手ではないようにお見受けいたしましたので」

 喉の奥を鳴らすような笑声がする。軽やかに前を行く背に目を二、三度瞬かせ、彼は肩を怒らせて息を吸い込んだ。

「お前な!」

 大股に後を追う。叫ぶような抗議の声にも、薄青は動じる様子がなかった。


 ピアスを買い替えて街を出てから五日ばかりは、何の収穫もなかった。

 道中で馬車を拾えたのが幸いして、王都からグリア山脈までの道中も半分に差し掛かっている。このまま馬車を拾えれば、山脈の麓までは、三日もあればたどり着けるだろう。

 ここまで来てサラの情報が何一つないのが――。

 一番の問題であるのだが。

 馬車の荷台で揺られながら、考え込む薄青を見る。眉根を寄せて押し黙る優美な横顔に、声を上げた。

「どうしようか」

 もしかしたら北に向かったのかもしれない――と、ノイルは薄々感じている。いくら何でも情報がなさすぎる。

 思索にふける赤い瞳が、彼に視線を遣った。眉間の皺をほぐすように、黒い手袋に覆われた指を当てて、彼は息を吐いた。

「万策尽きたり、とまでは申しませんものの、八方塞がりではありますね」

 それは。

 彼の口から初めて聞く弱音だった。心底弱りはてたような顔で目を閉じたサフィラから視線を逸らし、ノイルは思わず項垂れた。

 南に進路を取ろうと言い出したのは自分だ。

「北だったら、ごめん」

「いいえ。北には番兵がいるのでしょう。彼らの目を盗むにしても、雪原と――要塞谷でしたか。あれに向かう意味がございますでしょうか」

「それはそうなんだけど」

 何にせよ、普通ならば北に行く意味はない。だが、レンティス家の使用人の中でも下位に位置する年若い給仕を攫う不可解な人間が、常人には理解できぬ目的を持っていることもあるかもしれない。

 口ごもるノイルを一瞥した瞳が、安心させるように笑う。

「このまま進みましょう。山を越えた先では、必ず休息を取るでしょうから」

 力なく頷くと同時に――。

 馬車が止まる。

 手を引かれて降りた先の街を見た。そこまで大きくはないが、行き交う人々の声は、雲で陰った日差しにも賑やかだ。

 商人に銀貨を幾枚か握らせたサフィラが空を見る。雲を透かして薄く漏れる陽光に、彫刻めいた白い鼻梁を晒し、彼は乾いたにおいを確認するように頷いた。

「しばらくは降り出しませんでしょうが、この先は宿場もまばらなようです。本日はこちらで宿を取りましょうか」

「大丈夫?」

 急いて良いことはないだろうが、悠長に休んでいる時間もあるまい。上目に窺った先の薄青は、いつものようににこやかに笑んで見せた。

「私一人ならともかく、ノイル様のお体を、雨に晒すわけには参りません」

 大丈夫だよと――。

 軽々に言おうとして口ごもる。この辺りの雨はまだ冷たいはずだ。ただでさえ寝心地が悪いと聞くテントの中に、濡れた土がまとわりつくのには、心身共に耐えられる気がしない。

 頷いたノイルに、サフィラが満足げな表情をひらめかせる。

「それでは、部屋を押さえて参ります」

「頼むよ。俺は聞き込みに行ってるから、ここで落ち合おうか」

「畏まりました。――くれぐれも、危険なことはなさいませんよう」

「大丈夫だよ。何かあったらサフィラを呼ぶから」

 重々しい苦笑が自然と漏れた。単独での軽率な行動がもたらす恐ろしさは、既に痛感している。一週間も経たぬうちから、あの陰惨な光景を忘れることはない。

 一礼ののちに背を向けた彼から視線を外す。

 露店は未だ賑わっている。居を構えている店もいくつかあるようだし――。

 行き交う人のうちから、声を掛けやすい姿を探す。目星をつけた店に近寄って、宝石をあつらえたアクセサリを眺めた。

 紅玉ルビーのネックレスを手に取る。磨き上げられた大きな赤い石を中心に、散らされた水晶をまじまじと見詰めてから、四十代と思しき細身の店主へ声を投げる。

「水色の髪の女の子を見ませんでしたか。このくらいの背の」

 自身の唇ほどの高さで手を動かす。その動作に少し眉根を寄せた男は、首を横に振って見せた。

「俺は見てないなあ」

「そうですか――」

 旅を始めてから、幾度聞いたかもわからぬ言葉に肩を落とす。特に買う予定もなかったネックレスと銀貨を引き替えて、ノイルは再び歩き出した。

 幾つかの露店と、幾つかの店舗で同じことを繰り返して――。

 サラにまつわる情報を手に入れることもなく、彼は心なしか背を丸めたまま、集合場所へ戻ることとなった。

 薄青の髪に向けて徒労を示す。整った眉に諦めに近い落胆を浮かべ、サフィラは小さく頷いた。

 それでも一つだけ――。

 重要な情報がある。

 口許を引き締め、長身を見上げる。真剣みを帯びた表情に、薄氷の執事が瞬くのを瞳に映し、ノイルは周囲を窺いながら声を潜めた。

「追手が来た」

 その言葉に――。

 サフィラの眉根が寄った。深い赤を湛える瞳が、警戒するように細まる。張り詰めた空気を纏う彼に、宿への道を促して、ノイルは少しばかり、声音の真剣さを和らげた。

 それでも調子は落としたままだ。誰かに聞かれるわけにはいかない。

「一週間くらい前にここに来たっていうから、追い抜いていっちゃったみたいだけどね。うちの一角馬車を走らせたんだろうな」

 レンティス家の蔵書は、領民だけに貸し出されるわけにはない。遠方の貴族や、時には大陸をまたいだ王国に、その叡智を求められることもある。彼らの希望に応えるためには、通常の馬よりも早く駆ける一角馬が不可欠だ。

 本来は本のみを運ぶのが仕事である。それを駆り出したのだから、相当な有事として扱われているのだろう。

「俺が一人で歩くってことはないと思ったんじゃないかな。サフィラのことは知らないだろうし」

「好都合といえば好都合ですね」

 眉間の皺を緩めて、サフィラが頷く。確かに、ここではち合わせたり、追いかけられる恐怖に怯えたりするよりは、追い抜いてもらった方が気は楽だ。まだ希望もある。

 それでも――。

「して、何故そのようなお顔をなさっているのですか?」

 執事の指摘する表情に、ノイルはああと重たく声を上げた。

 ――一角馬車を操れる人間は、使用人の中でも一握りだ。

 家にまつわる仕事をする者たちの中では、殺された執事と家政のみであろう。彼らがいない以上、考えられるのは一人しかいない。

「カルロスだと思ってさ。俺の教育係。あいつとなると、ちょっと厄介だなって」

 想起するのは、初老の男である。

 白い髭を蓄えた厳めしい顔つきと、屈強な体つきをしている。身長は恐らくサフィラよりもやや低いが、隣に並んでも、カルロスの方が大きいような印象は覆らないだろう。見目の通りに規律に厳しい男で、元は別の大陸から渡ってきた血族であるらしい。

 退役した彼を父が雇ったのは、確かノイルが十二の頃だ。そのころには既に剣術にばかりかまけるようになっていた息子を、どうにかして机に向けさせるだけの、厳しい師を求めていたというのは、最近になってすっかり諦めた父から直接聞いた。

 尤も――誰が諦めたとて、カルロスは諦めていないのであるが。

 ノイルが幼い顔立ちを憂鬱に歪める。事情を知らぬであろうサフィラが隣にいるのをいいことに、思わず愚痴めいた色を孕んだ声を上げた。

「厳しいし、すぐ怒るし。嫌になって逃げても、すぐ連れ戻されるしさ。俺、他の召使いにはあんまり見つかったことないのに、あいつにだけはすぐ見つかるんだ」

「そうでしたか。付き合いの長い方なのですね」

「まあね」

 考えてみれば、彼から逃げ回って、もう七年になる。

 その間に積み重ねられたものは、何も辛苦だけではない。彼が何かとノイルを気に掛けているのは知っている。大図書館の主としての仕事で多忙な父親と、主である彼に強く言えぬ使用人に代わり、教育係として導こうとしてくれた気持ちは分かっている。

 根本的には――。

「良いやつなんだ。こわもてなんだけど動物好きで。でも、俺より猫に優しいのは、流石におかしいと思うんだよな」

「それは――」

 抗議の声にサフィラが苦笑した。言葉尻を曖昧に濁すあたりが、彼の優しさか。

 それからしばらく、カルロスが裏庭に居ついた猫を可愛がっていた話をした。たまたまノイルが部屋を抜け出したとき、優秀な退役騎士が猫を優しく抱きしめ、文字通りの猫なで声を上げていたことを話したころである。

「お強い方なのですか?」

 と。

 サフィラが問うた。

 大きく頷く。ノイルが実戦用の剣で戦えているのも、ひとえにカルロスの指導あってこそだ。

「昔は王都の騎士団にいたって聞いたよ。勉強もできるし、頭もいいんだ」

 それゆえに、敵に回せば厄介である。年を経るごとに頑なになった態度も、現状では不安要素にしかなりえない。

「説得できないかと思ったけど、カルロスじゃな――見逃してくれないだろうなあ」

 ともすれば、それを見越して寄越したのかもしれない。重苦しい溜息を吐き出すノイルを一瞥し、サフィラは思索にふけるべく目を閉じた。

 できることがあるとすれば、なるべく彼に会わないようなルート取りを考えることくらいだ。

 ――と、考えたのは執事も同じだったらしい。目を開けた彼は、眉根を寄せたまま、唸るように声を漏らした。

「どちらに向かったかは?」

「マルカの方だと思う」

「では、ポリネアでしたか。そちらへ参りましょうか」

「――それが、そうもいかないっていうか」

 できることならば、ノイルもそうしたいとは思っている。まず思い浮かんだ可能性ではあったものの、現実的な策ではない。

「マルカを通らない道は、街道が封鎖されてると思うんだ。迂回路はあるけど、山の中だし、かなり通りにくいと思う」

 ポリネアは商業都市ではあるが、マルカと比べれば小規模で、悪く言えば田舎だ。街道沿いに町村が多いわけでもなく、商人は大抵マルカを通ってポリネアへ向かい、同じルートを戻って山脈を越える。

 加えて、商業都市とはいえ王都からは遠い。野盗の話があれば騎士団は来ているようだし、魔物の掃討は月に一度ほど行われているが、それも街道周辺だけだ。狩り損じは全て自警団と商人に任せられている。

 その状況で、利用者の少ないマルカを通らぬルートを維持する意味を見出せなかったのだろう。一年前、町の一つが魔物によって被害を受けたのを契機に、両都市の合意で街道が封鎖された。

 現在は通行に許可証が必要だが――。

 そればかりは、レンティス家のコートではどうにもなるまい。大図書館を司る家の子息と分かれば、通してもらえなくなる危険性の方が高かろう。

 眉間の皺を深くしたサフィラが、一つ唸って口許を覆った。

「なるほど。それでそちらを選んだというわけですか」

 目を閉じた彼は、万事休すとばかりに諦めの吐息を漏らす。この先の方針を模索しているのだろうと、ノイルもまた思考する。

 長期滞在となれば必ずはち合わせることになろう。だからといって、人の出入りが多いマルカを素通りするのは、一縷の望みに縋る現状では不可能だ。

 結局――。

 希望的観測に賭けるほかはない。

 この旅を始めてから、およそ絶望的な可能性に縋ることばかりを考えていると思う。あまり良いことではないと思うのだが――。

 元々、状況は八方塞がりであるのだから、致し方ない。

「いないってなれば、いったん帰るかもしれないから。俺たちが向こうに着くのは――いつになるか分からないし」

 辿り着いた宿の前に立つ。今日のところは、部屋に着いたら地図と睨み合うことになるだろう。

「とにかく、前に行くほかにはございませんね。サラの情報もないようですし」

 考えるだけでも痛む頭を抱えるノイルの横で、サフィラもまた重苦しい声音で呻いた。


 鉄錆のにおいがする。

 血だまりの中に座り込んだノイルの横で、サフィラがレイピアを振った。こともなげに返り血を拭い、剣についた脂を布で拭きとる。

 漏れる溜息が厭っているのは、転がった死体の鉄臭さではない。

「馬車が捕まらねば、こうなりますか」

 ――王都から離れれば、騎士の目は及ばなくなる。ただでさえ街々の間隔が開きつつあるところに、国土の監視者がないともなれば、治安が良いわけもない。まばらな宿場で運悪く馬車を逃し、目算を誤って日暮れを迎えても街に着けなければ。

 野盗を迎撃することになるのも、致し方のない話である。

 そのくらいはノイルも理解している。これは身を守るための戦いだ。話し合いで解決したいなどと、旅を始めたころのようなことは、もう言っていられない。

 それでも――。

 剣が吸った血は、魔物のそれよりもずっと重い。

 転がった屍を見る。剣を抜く覚悟が決まっていた分だけ、以前に見たときよりは、気持ちが凪いでいる。むせ返った死のにおいも、どこか遠くに思えた。世界との間に膜でも張っているような感覚だ。

 のろのろと剣を拭うノイルの横に、土を踏みしめるブーツの音が並ぶ。

「誰も、ノイル様を責める者はございません」

 気遣わしげな声に小さく頷いた。現実感と共に、罪悪感すらも曖昧に揺らいだ青い瞳を見詰め、サフィラは小さく笑う。

 血と脂を拭った黒い手袋にも、においはこびりついている。

 それを気にする様子もなく――。

 薄氷の魔術を扱う男は、蹲ったままの同行者に手を差し伸べた。

「所詮は野盗風情。その剣が役に立たず、貴方のお命が喪われる方が大ごとです」

 そう。

 ――だろうか。

 ノイルには分からない。戦っているうちに街道から僅かに外れ、整えられていない土に染み込む血を、自分のものより軽いと思うことはできない。

 もしかすれば――命を奪わずとも済んだのではないかと思う。

 何も殺すのではなく、気絶させれば良かったのではないか。剣を抜く覚悟などと言い訳をして、易々と殺戮を選んだだけではないのか。

 自問を繰り返すままに手を取る。

 引き上げられた体がよろめいた。重苦しく吐いた息と共に視線を落とす。

 この辺りは土も柔らかい。既に日は落ちているが、ランタンに火を灯せば、光源もある。碌な道具もない状態ではあるものの、掘れないことはないだろう。

「せめて、お墓くらいは作れないかな」

 呟くように漏らせば、返ってきたのは溜息である。刺すような視線が頭上にあるのを理解しながら、彼は目を上げることはしない。

 偽善だと言われても。

 ――弔うくらいはしてやりたかった。

「どうしてもと仰るのであれば、私が埋めておきましょう」

 諦めるような声音が重くのしかかる。それが最大限の譲歩であることは分かっていても、頷くことはできなかった。

 重要なのは、埋葬することではないのだ。

 サフィラのブーツが視界を通り抜けていく。心なしか、苛立った様子で地を踏みつける彼に、おずおずと問うた。

「俺がやっちゃ――」

「なりません」

 遮る声はひどく冷たい。

 反射的に見上げた先の赤い瞳が、冷然とノイルを見ていた。扱う魔術と同じ、氷めいた表情で、サフィラは目を細める。

 整った顔にありありと浮かぶ剣呑な悪意に、思わず息を呑む。

 睨むような視線と沈黙に耐えきれず――。

 俯くノイルに、サフィラはようやく、普段と同じ温厚な声を上げた。

「斯様な死体に触れては、貴方の手が汚れます」

 ――そう言って。

 サフィラが死体を埋める間、ノイルは自分の手を見ていた。黒い手袋に染み付いた血のにおいは、汚れとは言わないのだろうか。

 野盗に身を落とす人間が嫌われているのは知っている。彼らのやっていることが、俗に悪徳とされているのも、理解しているつもりだ。商人とて襲われれば殺すし、自警団や騎士団などは積極的に壊滅をもくろんで、定期的に掃討作戦すら行っている。

 彼らは死ぬべくして死ぬのだと――。

 神官の跡継ぎであるノイルはそう言われてきた。神の叡智を拒み、あまつさえ略奪せんとする者は、死んでも構わないのだという。

 果たしてそれが正しいのか、彼は知らない。

 鈍い音を立てて折れる骨と噴き出した鮮紅が、断末魔を呑んでいくさまは、罪を犯さぬ人間とどう違うのかも分からない。

 その惨劇の一端を担ったのが自分であることだけが――。

 変わらぬ事実である。

 手袋の下にまで、赤黒く体液が染み付いていくような気がする。虚ろな視線をノイルに投げかけ、歪んだ表情のまま動きを止めた肉塊が脳裏をよぎった。

 振り払うように顔を上げる。

 サフィラは乱暴に死体の襟首を掴んで、無造作に穴に放り投げている。その粗野な動作は、普段の彼が纏う気品めいた穏やかさとはかけ離れていて、そういえば彼は貧民街の出身なのだと今更に思い知った。

 ――貧民であるなら。

 死体など見慣れているのだろうか。殺すことにも慣れていたのだろうか。野盗にとっても、サフィラにとっても、自らのためにやむを得ず、、、、、人を殺すことなど、当然なのかもしれない。

 何しろ彼らは、生きることすらままならないのだ。

 ぼんやりと見詰めた先の執事服は、自分たちに害をなさない限り、誰にでもひどく紳士的に接する。時に冗談めかしてノイルをからかってくる声も表情も、普通の人間と何ら変わりはない。

 彼もまた、簒奪者であることに変わりはないというのだろうか。

 死ぬべくして死ぬのだというのか。

 ――サラも。

「ノイル様」

 俯いたノイルの思考を遮るように、サフィラの声がする。弾かれたように上げた顔に、月に照らされる薄青が見える。

 明瞭になった視界で首を横に振った。大丈夫だと噛み砕くように呟いた言葉が、自分に言い聞かせるような暗い色を孕む。

「――サラのこと、早く見つけような」

 唐突に漏らした声に、サフィラは不可解そうに首を捻るまま同意を示した。彼の背に連れられ、街道に戻るために歩き出す直前で、一度だけ振り返る。

 乱雑に埋葬された骸に心中で詫びる。それでも歩みを止めるわけにはいかないのだと、誰かを納得させるように繰り返した。

 これは。

 ――サラのためだ。


 ランタンの火を灯してから一時間もしないうちに、彼らは宵の街にたどり着いた。

 駆け込みの客を受け付けてくれる宿をどうにか見つけ出し、辛うじて野宿を免れた彼らは、安宿のベッドで窮屈なまま夜を過ごした。ノイルでこれなのだから、サフィラほどの長身はどう眠っているのだろう――と、身をかがめて眠った彼は、身支度を手伝いに来た彼のにこやかな表情に目を瞬かせた。

「眠れた?」

 ノイルなどは、少しでも口を開くと、欠伸が続いてしまう状態だ。目の端に浮かんだ生理的な涙を拭い、彼はいつも通りきびきびと動くサフィラを見る。

 薄青の長髪は綺麗に整えられ、執事服にも乱れ一つない。相当早くに起き出しているのだろうに、思えばこれまでも寝不足の様子を見せたことはなかった。レンティス家に雇われる執事でさえ、時には不調を表に出すというのに、考えてみれば不思議だ。

 問われたサフィラが首を傾げる。

「ええ。どうなさいましたか」

「いや。ベッド、狭かったからさ。どうやって寝たんだろうと思って」

 そこで初めて気付いたかのように、彼は目を瞬かせた。ノイルが腰掛けるベッドを一瞥する。

「昨日はベッドに入らなかったもので」

「え、寝たんだろ?」

「もたれかかる場所さえあれば、眠ることはできますよ」

 冗談めかした声音で笑う。それは恐らく本当だろう――と、青年は青い瞳を曖昧に逸らす。彼が昨晩に何をしていたのかは知らないが、それでこれだけ平然としているのだから、きっとノイルとは人種が違うのだ。

 再び欠伸が込み上げて、大きく口を開けた。吸い込んだ大気を吐き出すと、同時に涙が溢れた。

 目尻を拭う。髪を整える櫛が、癖のある毛束に絡んで頭皮を引っ張る感覚も、既に慣れたものだ。何しろ二十年近く付き合っている髪質である。

「絡むだろ」

「痛みましたか。申し訳ございません」

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

 彼の手つきは丁寧だ。幾ら何でも、この程度で痛みを感じるほど、やわにできてはいない。

 ただ――。

 手にした鏡面で揺れる、ノイルと正反対の質をした薄青が目に付いた。

「サフィラの髪って、結構憧れなんだよな。さらさらで」

「そうでしょうか。癖がないわけではないのですよ」

「そうなの?」

 苦笑の声に想起する。朝起きてすぐに鏡に向かい、寝癖のついた髪を綺麗に整えるサフィラ――。

 なかなかに面白みのある光景だった。ノイルはどうにも、この完璧な執事の生活的な様子を想像できない。唯一共にしている食事も、好物であるという芋料理以外は、さして表情も変えずに流し込んでいるのだ。

 思わず笑った彼の、髪を引く感覚が消えた。おおよそ整え終わったらしい櫛がしまわれる音がする。

 準備が整えば、後は今までと同じように、街に繰り出して情報を集めるだけだ。今回も徒労に終わるような気がするが、一縷の望みに縋るほかにやりようがない。

 顔に吹き付ける風は、王都に比べて暖かい。護身を考えて、ここのところ着ていなかった赤いコートの出番は、もうしばらくなさそうだった。

 朝の七時だというのに、街は既に活気づいていた。行き交う声もどこか浮足立っている。

 そういえば――。

 来るときに小麦畑を見たと、ノイルは思い出して合点した。

「収穫祭の時期か」

 思いの外頓狂な声に、隣のサフィラが僅かに目を見開く。瞬く彼に気恥ずかしさを覚え、顔を赤くするノイルをよそに、執事はさして気にした様子もなく視線を巡らせた。

 街の出入り口に壁はない。街そのものに金があるわけではないし、そもそも、宿場には長めいた長もいない。単なる領民の集合体だ。近くの農村の畑に揺らぐ小麦は、直線的に舗装された道からよく見える。

「確かに、随分と実っておりますね」

「この辺りは早いんだ。時間があれば見て回るんだけど」

 収穫祭は神事であると同時に娯楽だ。付近の教会に集まる客を目当てに、商人がこぞって露店を出す。祈りを捧げたあとは、露店を見て回るのが主な過ごし方であった。

 そう思うと、先の街を出るのを急ぎすぎたような気もする。

 収穫祭を目当てに、これからこの付近を目指す馬車が増えるはずだ。それに乗れば、何か情報めいたものもあったかもしれないが――。

 全て結果論である。

「まあ、でも、王都の収穫祭までには、サラと戻りたいしな――」

 独りごちる声に、サフィラがちらとノイルを見た。

「祭りとなれば、出入りも多いでしょう。商人も集まるはずですから、それまではこの街を拠点に致しましょうか」

 その言葉には、長く振り絞るような唸り声を漏らした。ここまで来たら、諦めて進めるだけ進んだ方が、得策であるような思いも巡る。

 どちらにせよ――博打であるに変わりはないのだが。

 であれば、より希望のある方に賭けたかった。

「それじゃあ、教会でお祈りしてから、集まった人に訊いてみようか」

 言うと、薄青の執事が一瞬だけ表情を歪めたような気がした。首を傾げて瞬く間に、憎悪めいた嫌悪の色は消え、普段の温厚な笑みがノイルを捉えている。

「ご随意に」

 そう頷いて。

 彼はいつもと同じように軽い注意を口にして、ノイルに幾ばくかの金貨を握らせた。落ち着いた足取りが人波に紛れていく。

 それを見送って――。

 彼も歩き出した。情報収集もそうだが、そろそろ剣を新調したい。教わった通りに手入れはしているつもりだが、それでも、血と脂で濡れれば切れ味が落ちる。魔法が使えるならば、サフィラのように剣へ氷を纏わせて、刀身へのダメージを減らすことも可能なのだろうが。

 そもそも、魔法に精通していなくては、折れ曲がりやすいレイピアなど、到底扱えたものではない。

 周囲を見渡して、武具を扱う店舗を見つける。祭事を前にした明るい空気の中で、武器などと物騒なものを見る人間がそうそういるわけもなく、ノイルは閑散とした店内に一人立っている。

 暇そうな店主を一瞥して、壁に掛けられた剣のうち、何本かを手にする。慣れた調子で軽く振ってみれば、おおよその感覚は掴めた。

 三本ばかり、振りやすいものを選ぶ。見遣った刃の違いは分からなかった。

 それで、より手に馴染む方を選ぶ。

「兄ちゃん、商人じゃないだろ」

 金貨を渡せば、髭を蓄えた店主は、そう声を投げた。

 話し相手が欲しいのだろうと判断する。使用人も連れず、身分を証明するコートも脱いでいれば、富裕層に近い身なりの青年だとしか思われないようである。

 ここまで来てしまえば、レンティス領も遠い。肖像画の類は、そうそう庶民に出回る品ではないし、ノイルの顔など知らない人間の方が多いのだ。

「人探しをしていて」

「そりゃ大変だ。どんな人だい」

「女の子です。水色の髪で、このくらいの背の」

 自分の唇のあたりで手を動かす。しばらく考えるようなそぶりを見せたのちに、壮齢の店主は手を振って見せた。

 そうですか――と、知らず声は落ち込む。そのノイルを慰めるような調子で、彼は笑った。

「頑張れよ。しかし、それじゃ、祭りなんて待ってる場合じゃないな」

「いえ、教会で訊いてみようかと思ってて」

「そりゃいい案だ」

 そうからからと声を立てる。

 祭りのときに知り合いに声を掛けておいてやるよ、と言って、彼はようやく釣銭を渡した。以前の剣を渡し、新品の得物と銅貨をしまい込みながら、ノイルは問う。

「お店、開けないんですか」

「祭りの日に武器買いに来るやつなんて、碌なもんじゃないからな」

 ――それはそうかもしれない。

 祭日は荒事が禁止されているだけで、武器を持つこと自体に制限はない。行商人の中にも、武器を広げる者はあるだろう。

 それでも――大地の恵みに感謝し、神を讃える日に、武にかかわることを行うのには、何とはなしに忌避感がある。すべきことを一通り行えば街道に踏み出すわけであるから、勿論、魔物を殺す必要はあるのだが。

 そればかりは許してもらうしかない。商人たちとて殺生をしながら向かってくるのだ。

 礼拝が終わった昼過ぎに訪れることを約束して、ノイルは店を後にする。用が済めば、行く当てがあるわけでもなく、いったん宿の前でサフィラを待とうか――と考えたところである。

 目当ての長身は、街中で足を止めていた。

 前には金髪の女が立っている。そっとしておこうかと踵を返そうとして、言葉を交わしては深刻そうに俯く彼女の様子に目が行った。

 それで近寄ることにする。

「サフィラ? 何してるんだ」

「ああ、ノイル様」

 振り向いたサフィラが笑う。ノイルよりは年上であろう女の方は、名ばかりは伝わっているレンティス家の子息を見るや、急にうろたえるように背筋を正した。

 その彼女を一瞥し――。

「こちらのお嬢様が、お困りのようでしたので」

 促すように、執事は柔らかな笑みを描いて見せた。

「いえ、その、ええと」

 顔を赤くしたまま、緊張で裏返る声で口ごもった女は、今度は狼狽を湛えて俯いた。定まらない視線が、それでも懇願するように持ち上げられる。

 想像よりも深刻な所作に、思わずノイルは眉根を寄せた。一瞥したサフィラが同じような顔をしていることに、余計に張り詰めたような心地がする。

 祭りを前にした喧騒には似つかわしくない沈黙があって――。

 彼女は、振り絞るように声を上げた。

「木材を切り出す男衆が、取りに行ったきり帰って来なくて」

「それは――どこに行ってるんですか?」

「近くの林に。街の自警団が様子を見に行ってくれてはいるんですけど」

「その自警団が帰ってこない、と」

 サフィラの言葉に、金髪が小さく頷く。

 思わず顔を見合わせた。このままでは祭りの開催も危ういのだろう。人命もかかっている。

 ――火急の事態だ。

 女に目を遣って、ノイルは大きく頷いた。

「俺たちが見に行ってくるよ。いいよな、サフィラ」

「ええ。お嬢様はこちらでお待ちください」

 ありがとうございます――。

 そう何度も頭を下げた彼女に見送られ、彼らは街の片隅で地図を開いている。目的の林は、街を出てすぐの街道から、そう遠くない位置にあるようだ。少なくとも地図上で見ている分には、広くもないように見えた。

「――とは言ったものの、街道から逸れては魔物の巣でしょうね」

「魔物くらいならどうにかなるよ。そんなに広くないみたいだし。薬と――食料くらいは買っておこうか」

 剣は既に新調した。食料や薬が足りなくなる事態も考えにくいが、何があったのか分からない状態である。生命維持に必要なものは、できるだけ用意しておいた方がいいだろう。

 口許に手を当てて頭を悩ませるノイルを、赤い瞳が僅かな驚愕を湛えて見詰めている。疑問の視線を遣れば、彼は和やかに唇を持ち上げた。

「貴方も、随分と逞しくなりましたね」

 まるで――。

 兄か何かのような口調である。確かにノイルは彼の妹と同年代であるし、そうも思えるのかもしれないが。

「馬鹿にしてないか?」

「そんな。滅相もございません」

 目を細めて、睨むように見た先の彼は、そう苦笑して見せた。

 納得いきあぐねたまま、携行食と薬を買い足して、彼らは息を殺して街を出る。自警団が戻ってこない中、旅人が林に向かったなどと知れれば事だ。

 人が通った形跡を辿り、武器を抜き放ったまま中に入る。邪魔な蔦が払われ、土が踏み固められた道に、思ったほどの歩きにくさはない。

「剣を新しくなさったのですね」

 不意に問われて顔を上げた。ノイルの分まで荷物を背負い込み、舗装されていない道にも悠然とした歩調を崩さないまま、執事は手にある片手剣を見詰めていた。

 それで頷く。

 サフィラに選んでもらったときの、見様見真似だ。もしかしたら、彼ならばもっと良いものを選ぶこともできたのかもしれないが、自分の買い物くらいは一人でできねばなるまい。

「どうかな」

 白銀を木漏れ日に翳す。目を細めたサフィラの視線が、しばらく品定めをするように注視して、それから満足げに頷いた。

「良い剣かと存じます」

「本当? よかった」

 お墨付きをもらって安堵するノイルに、彼は噛み締めるように笑った。やはり、その目つきは、兄のような気安さと暖かさを孕んでいる。睨むような視線を返すと、噛み殺した笑い声がするのも、余計に腹が立った。

「――では、この辺りで試し斬りと参りましょうか」

 そう。

 言われて、反射的に柄を強く握る。茂みの奥の気配をめがけて、サフィラが放った氷の刃を避けて、躍り出た四つ足の獣が咆哮した。

 冴え渡る空気が頬を刺す。サフィラの扱う魔法は徐々に威力を増し、呼応するように満ちる冷気も鋭くなっている。まだ、動きに支障が出るほどのものではないにしろ――。

 時折、恐ろしいような心地もする。

 冷気そのものというより、その中でも平然と白い息を吐く、術者の方が。

 普段よりも軽やかに、しなやかな体が中空に踊る。薄青の長い髪を傷つけることも許さずに、獣たちのただなかに躊躇なく斬り込む彼は、およそ人間とは遠いもののようにも見えてしまう。

 妄念を払って――。

 ノイルは己の剣を構えた。首筋を狙う牙を剣で阻み、押し返しながら引き裂く。飛び散る鮮紅を視界の端に捉えるまま、飛び掛からんとした獣に向けて馳せる。

 嫌な音がする。

 脳天を叩き割られ、力なく伏した四つ足から、じわりと滲むものがあった。

 血と脂でぬめる剣を握り直す。爪を押しとどめるサフィラの後方へ回り、横薙ぎに払った刃が、彼を狙う心臓を捉えた。

 吹き荒れる氷が視界を覆う。悲痛な断末魔の声がして――。

 ――得物をしまう。

 拭き取った布も、随分と赤黒くなってしまった。そろそろ変えた方がいいだろうかと思いながら、サフィラに促されて足を進める。

「こんなに奥に来る必要、あるのかな」

 収穫祭は地域によって様式が全く違う。どういう催しをするのかは分からないが、木材が必要なだけならば、奥まった地に来る必要もないはずだ。

 漏らした言葉をちらと見た赤い瞳が、警戒を解かないままに声を上げる。

「この周辺で、最も樹齢の高いものを使用するそうです。何を作るのかまでは、聞き及んでおりませんが」

「そうなのか。大変だね」

 頷いて前を向いた。解消された疑問を置いて、踏み固められた道を行く。

 林といえど木々は茂っている。木漏れ日が薄まり、薄暗く陰る獣道は、あまり長居したい場所ではない。ひりつく緊張感の中を進んで――。

 不意に目の前が開けた。

 同時にひどい鉄のにおいがする。嗅ぎ慣れた独特の不快感に、眉根を寄せたノイルは、即座に悟る。

 手遅れだ。

「――ご婦人には良い報告をしたかったのですが」

 押し殺すように言って、サフィラがレイピアを持ち上げる。

 無数の死体が転がる中で、眼前にそびえるのは巨木だ。寄生型の魔物が、樹木の溜め込んだ魔力を吸い上げて、乗っ取ったものと見える。鞭のようにしなる蔦でもって、地を抉った。

 剣を構えたまま、力なく転がる死体を一瞥する。

 領域を荒らす者に容赦がないのは、何も人間だけではない。自警団が魔物を殺すのも、魔物が討伐者を殺すのも、似たようなものだ。

 誰もが――。

 それを承知でやっている。

「仕方ないよ」

 独り言のように、声が口を衝く。手にした剣が軽くなった気がした。

「ともかく、あれを何とかしないと」

「ええ。このまま放置しては、被害が拡大しかねません」

 面倒ごとは迅速に済ませましょう。

 言うが早いか、サフィラのレイピアが氷を纏う。それを横目にノイルが馳せた。

 向かい来る蔓を斬り裂く。そのまま地に叩きつけた剣を振り上げ、続く二波を斬り落とす。刃のように飛び交う葉はサフィラの氷が防ぎきる。

 凍える風に後押しされて、態勢も低く斬り込んだ剣が、木の幹に食い込んだ。標的をノイルに絞ったらしい蔓が伸びるのを、転がるようにして逃れれば、追撃は白刃で処理できる。

 しかし――と、ノイルは立ち上がりながら敵を睨む。思いの外硬質化しているらしい木の根元に、こちらの攻撃は有効でない。このまま一打ずつ与えていればいつかは倒れるだろうが、その前に、こちらの体力が尽きかねない。

 木の葉が頬を掠める。致命打になりかねないもののみを叩き落とし、熱に似た痛みから零れる真紅を拭う。

「サフィラ」

 下がりながら名を呼べば、男は応じるように目を細めた。

「俺の剣にも、氷って使えないかな」

「長く維持するのは難しいでしょうが、可能です」

「じゃあ、頼むよ。ごめん」

 こういうときに――魔術の素養がないのは、非常に不便だ。

 魔法が使えないノイルは、敵陣に斬り込むほかに戦う術がない。必然的に、状況を把握するために、サフィラが後方に控えることになる。魔力で補強された武器を扱わねばならない局面では、もどかしい思いをする。

 冷気を纏う右手の剣に、熱を奪われていく感覚がある。長く維持するのは難しい――と、サフィラは言うが、これではノイルの方が先に剣を取り落としかねない。

 これを常に手にしているのか。

 新たな術式を発動せんとする男を一瞥し、体温を奪う剣を両手で構える。一撃で決める覚悟でなければ、窮地に陥るのは彼らの方だ。

 伸びる蔓と木の葉は、サフィラの術式が撃ち落とす。加速をつけて、震える手で柄を強く握る。

 一閃。

 横薙ぎに払った剣の冷気が、幹に食い込んだ刃先から伝播する。みるみるうちに枯れ落ちた巨木は、断末魔のような音で崩れ落ちた。

 長く息を吐く。剣を覆っていた氷が溶け落ち、水が伝って零れていく。凍えて痺れた手の感覚を取り戻すようにこすり合わせながら、彼は薄青を振り返った。

 思いの外あっけなく戦いが終わったことよりも――。

 問いたいことがある。

「お前、普段から、こんなに冷たいの使ってるのか」

 この短時間だけでも、ノイルの手は限界を訴えている。これを平然と握って、片手で扱っているのだとしたら、寒さに強いというだけでは説明がつかない。

 もしかすれば魔術で身体能力を強化しているのかもしれないが――。

 そんなことができる人間は、お伽噺の賢者くらいしか知らない。

 疑念の眼差しに、サフィラが首を傾げて目を瞬かせる。思いもよらなかったとばかりの表情で、彼は口許を黒い手袋で覆った。

「咄嗟のことでしたから、加減に失敗したかもしれません。私が扱っているものは、そこまで冷えてはおりませんよ」

 そう――だろうか。

 納得はいかない。だが、本人がそう言っているのだから、そうなのだろうと思うことにした。

 曖昧に頷くノイルの眉間の皺を見たか、サフィラが思考を遮るように手を差し出す。

「それでは、戻りましょう」

 報告をせねばなりませんから――。

 そう言った彼が瞥見した、赤黒い体液に塗れた男たちの骸に、ノイルも目を移す。こんなところで喋っている場合ではないのだ。

「――そうだね」


 葬儀は粛々と行われた。

 危険性の高い場所に行ったのだ。死人が出ることは、町民にとっては織り込み済みの事態だったようである。特段、雰囲気が消沈する様子もなく、祭りの準備は滞りなく行われたようだった。

 そうして帰り着いた街で二日を過ごし――。

 教会で掛けた声も、武器屋の主人の心遣いも空しく、ノイルたちは賑やかな収穫祭の最中、徒労感を背負ったままで取り残された。

 本来ならば、午前の祈りが終わった時点で街を発つ予定だったのであるが。

 ――少し見てきていいかな。

 並んだ好物の菓子を見て、ノイルがそう目を輝かせた。金貨を渡して彼を送り出したサフィラが、パイとワッフルがたっぷり入った紙袋を手にした彼と合流したのは、それからおよそ二時間後のことである。

 大幅に予定を過ぎれば、後の予定にも響く。慌ただしく街を発ってから四時間ばかり経って、目的とした山脈の麓を前に、彼らは王都で買ったテントを引っ張り出すはめになっていた。

 半月に照らされる山々を見る。夜気が頬を撫でた。

 執事が灯した獣除けの火には、先ほど同行者が狩ってきた獣の肉がかけられている。結局、本当に獣肉を食べることになってしまったな――と、ノイルは他人事のようにそれを見た。

 溜息を吐くのはサフィラの方である。

「ここまで来て野営とは」

「ごめんって」

 責任があることは理解している。苦笑と共に謝れば、サフィラの手が、買い込んだ菓子の山に伸びた。

 ――持ち出したのは芋のパイである。

 甘みの強い種類を使った菓子だ。それで許してもらえるならば安いものだと、無言のうちに許容する。主の様子を見て、ひどく上機嫌にパイを口に運びながら、彼は片手で器用に地図を開いた。

「明日の夕刻には――グリア山脈と言いましたか。あの麓に到着するはずです」

「そこからは馬車だな。朝一のやつに乗れれば、どうにかなるか」

「一角馬車というものですね」

 頷けば、赤い瞳が地図越しに山を見た。

 命懸けで山道を整備したという話を聞いて、山を拓くより、海路を作った方が楽なのではないか――と思ったことがある。問うたこともあったが、何百年前だかの戦争のとき、海賊の被害が深刻だったころは、海路よりもむしろ安全な道だったらしい。

 今も、大陸間を渡る船を狙う海賊は多く、その危険性は高い。一角馬を扱える騎手も増え、山越えのための客車が豊富に用意されている今となっては、海よりも陸の方が便利なのだという。

 確かに、歩くのでなければ早いし楽だろう。大陸を渡るときは、毎回のように船酔いを起こしているし、波があれば恐ろしい心地にもなる。

「ノイル様、どうぞ」

 いつの間にか地図を畳んだサフィラが、獣の肉を差し出している。それだけでも感じられる熱気に手を伸ばして、まじまじと食物を見た。

 焚き火の赤い光に照らされている。断面がくっきりとした陰影を作っているが、焦げた部分はところどころにあるばかりなのはよく分かった。どうやらサフィラがそぎ落としてくれたらしい。

 湯気を立てるそれに噛り付いて――。

 唇が焼けるような痛みで、声にならない声をあげた。くぐもった悲鳴で悶絶する彼を、執事が喉の奥で笑うのだけは聞き取れる。

 しばらく時間をおいて、恐る恐る口をつける。痺れる舌先でも、再びもんどり打つ醜態は避けられた。安堵の息を吐いて噛み砕く。

「――結構おいしいな」

 普段食べている肉より筋ばってはいるが、家畜と遜色ない味をしている。うんざりするほど塩漬けを食してきた現況では、素焼きの味気なさにも感動できた。

 見れば、サフィラの方は食すようなそぶりもなく、ぼんやりと火を見詰めている。食べれば、と声を投げたところで、ようやく気付いたように、彼は表面が焦げた肉に手を伸ばした。

 ばりばりと黒い部分をそぎ落とす手を見て、ふと思い出したことがあった。

「そういえば、あの日記なんだけど」

 青い表紙の古書――であるはずが、ノイルの認識はそれをすっかり日記であるとしている。鞄から取り出してみせた本を翳し、読んだかと問えば、サフィラは首を横に振った。

 一度目に見せたとき以降、幾度か彼に預けていた鞄の中に入れっぱなしだったのだ。もしや彼が触れたかと思ったが、勘違いだったらしい。

 ――異変と言えば、言えるだろう、些細な変化が起きている。

「ページが増えててさ。やっぱり魔導書なのかな」

「ふむ。聞いたことはございませんが――文字が書けることを隠蔽する手段として、疑似的な魔導書に仕立て上げたのかもしれません」

 そんなことが。

 ――できるのだろうな。

 魔術に精通するサフィラが言うのだ。ノイルの想像よりは、きっと確かな推測であろう。

 同行者の黒い手袋が捲る本を、赤い瞳が見る。炎の光に照らされ、普段の落ち着いた色が明るさを増したように見えた。

「して、執筆者は?」

「それは、まだ。誰にでも当てはまりそうでさ――」

 増えた記述は全て恨み言だ。どんどん具体性を増していき、憎悪の矛先も広がっていくそれは、時には見るに耐えないほどの狂乱を綴っていた。

 給金を横取りされている。

 食事の質が落ちた。

 ここでは生きることもままならない。

 死んでしまいたい。

 ――殺してしまいたい。

 切々と訴えかける文字列から目を背ける。努めて明るく、冗談めいたような色を孕むように声を上げた。

「もしかしたら犯人のだったりしてな」

「その可能性がおありで?」

「まさか」

 サフィラに向けた眼差しには、今度こそ笑みを浮かべることができた。

「レンティス家の召使いでいなくなったのは、サラだけだよ」

 だから、これが犯人のものであるわけがない。

 ――犯人のものでないとしたら。

 脳裏をよぎる想像がある。薄青の少女が、茫洋とした緑の眼差しで、青い古書に何かをしたためている。怨嗟を込めた筆がざらつく紙を滑っていく。

 荒唐無稽な話だ。

 俯いて本をしまうノイルの前で、サフィラがふと赤い瞳を細めた。眉間の皺に剣呑な警戒を孕み、彼は静かに立ち上がる。

 ――焚き火の光が届かぬ、黒い茂みの向こう。

 蠢く気配がある。賢しい息の潜め方は、およそ獣のそれではない。

 サフィラの腰から、レイピアが抜き放たれる。黄色い光に照らされ、金色に似た色を纏ったそれを、瞬く間に氷が覆った。

「野盗どもの数も増えて参りましたね。王都から離れれば、致し方のないことですが――お下がりください」

「いいよ、俺もやる」

 制す燕尾服を押しのけるようにして前に出た。逡巡ののち、抜き放った剣は冴え冴えと月光を映した。

 頭をよぎるのは。

 自らが殺した死体の瞳だった。転がった肉塊だった。物も言わぬまま散乱した、かつての人間たちだった。それから。

 首筋に突き付けられた刃の冷えた感触と。

 ――薄青の髪をした、サフィラによく似た少女の顔だった。

 剣の柄を握り直す。青い瞳を火に照らされて、ノイルはじっと目を細める。

「仕方ないことだ」

 もはやその手に躊躇はない。

 躍り出る敵の最中に、彼は剣を振り上げた。

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