蒼の繰糸

刀魚 秋

1.めざめるもの

 ノイル・レンティスが騒ぎに気づいたのは、朝の七時を回ろうかという頃合いだった。

 いつもなら召使いの一人でも入ってきて、まだ惰眠を貪りたいと訴える彼から布団を剥ぐ時間だ。近いうちに二十の誕生日を迎えるノイルの方も、習慣的に目は醒めてしまうのだが、体が覚醒するかどうかはまた別の問題である。まして、そろそろ冷えてきた秋の空気を前にしているのだ。怠い眠いと訴えて、召使いをどうにか躱そうとするのが、飽きもせぬ毎朝の光景だった。

 それが。

 どうもおかしい――というのは、視覚より先に起きた聴覚が訴えた。

 立派な扉に隔てられた廊下を慌ただしく走り回る音がする。反射的に息を潜めて音を探れば、何やら怒声めいたものも聞こえてくる。

 ――父親の。

 珍しく跳ね起きた。屋敷が騒がしいことには慣れているが、これは尋常ではない。碌に身支度も整えず、普段は穏やかな父の声を頼りに、豪奢な自室のドアを蹴破るようにして開いた。

 ――走り回っていた従僕フットマンの一人が、突然開いた扉にしたたかにぶつかる音で、ノイルはようやく平静を取り戻した。

 よく考えれば酷い格好だ。手入れこそされているが、癖のある赤茶の髪はそう簡単には治まってくれない。服もほとんど寝間着同然で飛び出してきてしまった。また執事バトラーに苦言を呈されると慌てる彼をよそに、額をさする従僕は、青ざめた顔で声を上げる。

「ノイル様!」

「えっと、おはよう。何かあったの?」

 おはようございます――と、いつものように丁寧に頭を下げた召使いは、思い直したようにはっと顔を上げる。狼狽えるノイルをよそに、彼は懇願するかの如く、もう一度頭を下げた。

「申し訳ございません、私からは、何とも――なにとぞ、ご主人様にお伺いくださいますよう、よろしくお願いいたします」

 そう捲し立てられ、思わず頷いた。走り去る足音を茫然と見送る。

 厄介な来客に、思わず己を失ったのだと高を括っていた。非礼を詫びるにしろ、加勢をするにしろ、自分がいた方がいいだろうと思って出てきたのだが。

 ――いよいよ心に影が差す。

 先程よりも陰鬱な心地で、開いた扉をゆっくりと閉じる。実父とはいえ、世界でも指折りの貴族の当主に会うのだ。このままというわけにもいくまい。

 鏡の前の椅子へ座ると、のろのろと髪に櫛を入れる。普段なら、ノイルが寝ぼけている間に従僕が全て済ませるのだが、今日ばかりはそうもいかないようだ。癖のある赤茶の髪を梳かし、すっかりと醒めてしまった青い双眸を巡らせる。レンティス家の血族であることを示す赤いコートと、貴族の証たる黒いマントは、いつもなら給仕(メイド)が手渡しているのだが、今は机の上に丁寧に畳まれていた。その上に普段使いの黒い手袋が乗っている。

 この――。

 空気が落ち着かない。戦争とは無縁のこの国で、ノイルが自ら身支度に動かねばならないような事態は、物心ついてから一度も起こっていない。屋敷全体に余裕がないことが嫌でも伝わってきたとして――対処法もよく分からない。

 今は言われた通り、父に会いに行くしかないのだ。

 気に入っている水宝玉アクアマリンのピアスを手早くつけて、誰かにぶつからぬよう、今度はそっと扉を開く。打って変わって静まり返った廊下に人影はなかった。中途半端な安堵と緊張を孕んだまま、ノイルは息を潜めて、緊迫した空気の中へ踏み出した。

 結局、父の部屋に辿り着くまで、彼は誰にも会わなかった。

 世界有数の大貴族の屋敷でも、ひときわ豪奢な主人の一室である。ソファに腰かけた父親の前で、強張った肩に一層の緊張がのしかかるのを、どうすることもできない。

 重苦しい沈黙の中で――。

 ようやく、父は低く呻いた。

上級使用人アッパーが殺された」

 全員だ、と続く声に、ノイルは思わず俯く。

 理解できなかった。屋敷の異様な空気を通り抜ける間、相応の衝撃を覚悟していた。それなのに、突き付けられた端的な言葉は、彼の想像を遥かに超えて重い。

 間がある。窺うように、父が身じろぎするのをまざまざと感じた。ここにおいて、己もまた容疑者の一人であるということに、ノイルはようやく思い至る。

 声を――。

 発さねば。

「――どういう」

 たっぷりと時間を置いて、ようやく吸った空気が肺で淀む。続けるべき語尾は乾いた舌に縺れて消えた。

 言葉の通りだと父は言う。

家令スチュワードも、執事も、家政婦長ハウスキーパーも、全員が殺された。金庫からは金が消えてる」

 知りもしないはずの光景が、ノイルの脳裏にありありと浮かぶ。

 口やかましい執事の、時代遅れの礼服が、真紅に染まるさま。仕事ぶりは優秀で、従僕にはそこそこの信頼があったようだが、彼は給仕の事情に殊の外うとかった。その横に転がる家政婦長の年老いた肢体は、いつもきりきりと吊り上げた眦に恐怖を浮かべている。ノイル自身も、その厳しい態度にいい思いはしていなかったが、給仕たちにも好かれてはいなかったな――と、今更思い出した。動かなくなった家令の手から、誰かが鍵を奪って、金庫に挿し込む。もう誰も止める者はない。古びた音を立てて開く年代物のそれの中から、血に塗れた掌が札束を掴んで――。

「それから」

 その声で我に返る。

 酷い顔をしている自覚はあった。父の顔が気遣わしげに眉根を寄せるのを、首を横に振ることで遮る。

 ひときわ重く。

 レンティス家当主は、息子から視線を逸らした。

「――サラの行方が分からない」

 反射的に立ち上がる。机に叩きつけた手から、思いの外大きな音がして、ノイルは瞳を見開いた。

 サラは給仕の一人だ。

 腕と経験相応に年を経た召使いたちの中で、唯一ノイルと同年代の少女である。とはいっても、彼は彼女のことをよく知っているわけではない。貧民として生まれ、身寄りを失くしたという身の上を気に掛けてこそいたものの、彼女自身があまり自分のことを語らない。希薄な感情をつぶさに読み取れるほどの接点も与えられなかった。

 それでも。

 彼の知る、たった一人の同世代であることに間違いはない。

「サラを疑ってるわけじゃない。他の誰かの可能性だってある」

 だが――と、父親の声は弁明するように続ける。

「上級使用人を全員殺しておいて、給仕一人を攫う意味は――私には分からないんだ、ノイル」

 そう言ったきり、彼は重い口を閉じた。

 立ち込める沈黙を振り切って踵を返す。ノイルが疑われていないのなら、ここに留まって弁明を探す意味もない。

 ――それよりも。

「探してくる!」

 彼女への疑念を晴らす方が先決だ。

「ノイル! 待ちなさい!」

 自身の名を鋭く叫ぶ声を尻目に、赤いコートは駆け出した。後方からは、父が従僕たちを呼ぶ声がするが、今の使用人に応える余裕はあるまい。

 勉強を厭うときに使う、使用人の目を盗むための廊下を進んでいく。

 じきに玄関が見えた。ひときわ豪奢な作りの扉を開いて、勢いのままに外へ飛び出す。

 ――日差しがまともに目に刺さった。

 明滅する目の奥に、痛みがじわじわと凝固していく。揉み解すように目元に指を当て、煉瓦造りの道が反射する朝日に、瞼越しに目を慣らす。

 恐る恐る。

 開いた瞳に、先ほどのような痛みはなかった。眼球が固定されたような違和感を瞬きで誤魔化しながら周囲を見渡す。ノイルより頭半分ばかり低い背をした、薄水色の髪を探して、青い眼差しは、広大すぎる敷地を歩き出す。

 そう遠くには行っていない。

 サラは少女だ。使用人として雇われ、日々の雑務をこなすだけの体力はあるにしても、ノイルのように剣術の心得があるわけでも、魔術の修練を積む暇があるわけでもない。外をうろつく魔物に抗う術はないだろう。それに、下級使用人の身なりのまま一人で目的なくうろついていれば、少なくともレンティス領の外では怪しまれる。

 普段から遠い門までの距離が、ひどく長く感じられた。焦りに縺れる足を落ち着けるように息を吸う。

 少しばかり取り直した心地を、視界の端に揺らぐ薄青が乱した。

 息が止まる。

 門の外に立つ人影に名を叫ぼうとして、それが別人のものであると気付いた。

 歳は二十も後半だろうか。薄氷めいた長髪は、サラのそれとよく似た色をしている。しかし、纏っているのはグレーの燕尾服だ。ノイルよりだいぶ背が高いことも、近づけば伺える。端正な顔立ちは、一見するだけで行方不明の給仕を彷彿とさせる。いっそ女性的ですらある、優美で柔和な雰囲気とは裏腹に、しっかりと伸びた背筋と肩幅は男性らしい均衡を保っている。手持ち無沙汰に揺らぐ掌には、黒い手袋がよく映えていた。

 執事だな――。

 と、佇まいでおおよその見当はつく。

 それも上位の貴族に仕えているのだろう。ノイルのよく知る執事は時代遅れの私服を着ているが、社交の場では燕尾服を着た者を見かけたことがある。

 どこかぼんやりとした様子で立ち尽くしていた彼が、ふとノイルに気付く。赤い切れ長の瞳に穏やかな色を宿し、助かったとばかりに整った顔立ちへ笑みを描いて、サラによく似た見知らぬ執事は喜色に満ちた声を上げた。

「ああ、良かった。こちらのお屋敷の方ですか」

「――あなたは?」

 無意識のうちに、声に警戒が滲む。そこで初めて気付いたように、男は折り目正しく頭を垂れた。

「申し遅れました。こちらでお世話になっております、サラの兄、サフィラと申します」

 サラの――。

 兄だと言った。

 表情と語気から受ける印象はサラよりも柔和だが、確かに麗しい見目はよく似ている。使用人としての在り方にも慣れているようだし、発する言葉にも、執事として必要な教養が身についていることが滲んでいる。

 彼の言葉に。

 ――疑う余地はない。

「ええと、俺はノイル・レンティス、ここの主人の息子だよ」

「――これは、失礼致しました。なにとぞご容赦を」

 何から説明すべきかと迷った末の自己紹介に、サフィラと名乗った男は、懇願するかの如く深々と頭を下げた。

 良家の子息に対する平民階級のあり様としては、ごく正しい姿なのだが――。

 上級貴族に仕えていると思しき見知らぬ執事にこうまでされると、どうにもむず痒い。

 そもそも何の用があって――と、問うべき話題を思い出す。顔を上げてほしいと言えば、長身は徐に姿勢を正した。

「それで――サフィラでいいかな。どうして、ここに?」

 サフィラの方は、ご随意に、と相好を崩した。人当たりの良い表情を即座に引き締め、赤い瞳ににわかに宿る真剣みを帯びた光で、彼はノイルの赤茶の髪越しに屋敷へ視線を向けた。

「昨晩、不肖の妹が帰って参りまして、体調を崩したのでいとまを請いたいと申すものですから、その旨をお伝えに。しかし、お屋敷が尋常ではないご様子でしたので、いかがしたものかと――」

「じゃあ、サラは今、家にいるってこと?」

 実は。

 と、切り出しかけて口を閉じる。サラの兄だという彼は、見たところ何の事情も知らないようだ。妹の仕える屋敷で凄惨な大量殺人事件が起きて、挙句に彼女が疑われているなどという事実は、必要がないなら伏せておいた方がいいだろう。

 ――穏やかな人のようだし。

 中途半端に発した声を疑われる前に、ノイルは僅かにぶれた視線をサフィラへ定めた。妹とは違い、感情を真っすぐに映す赤い瞳を見上げる。

「なあ、俺も様子を見に行っていいかな」

「それは、光栄ですが。あばら家に貴方様をご案内するわけには」

「いいんだ。ちょっと訊きたいことがあって、それに、暇を出すなら本人に直接言いたいし」

 両親が健在であるうちは、ノイルに暇乞いを承諾する権限などないのだが。

 家政婦長をはじめとする統括者がいなくなった以上、現状の使用人統括は父と母だ。次期当主でもある息子の言葉を無視するというわけにもいくまい。

 ――どうにかなるだろう。

 笑顔を見せるノイルを暫し見詰め、サフィラは小さく唸る。

 逡巡の間があって――。

 薄水色をした執事は、小さく頷いた。

「畏まりました。こちらへ」


 レンティス領に居を構えているのだと、道すがら彼は言った。

「私は別の大陸で勤めておりまして。相応に給金も頂けるようになったので、紹介状を頂いて、こちらの大陸へ帰って参りました。領主のご子息のお顔を存じないなどと、大変お恥ずかしい話ですが――」

 どうかご容赦を、と。

 柔らかな苦笑の声と共に、サフィラは前を行く。軽快ながら、決してノイルから離れぬ執事の足取りに反して、レンティス家の象徴たる赤いコートの裾は、妙に重たくブーツに纏わりついていた。

 煉瓦造りの道を馬車が駆け抜けていく。路上に並んだ露店の呼び込みが、ざわめく人波を断つ。鐘の音で目覚めた街は、領主たちの憂いなど知りもせずに、呑気な朝日に照らされている。

 前を歩く長髪も同じだ。

 なびいた薄青を丁寧に整える手の隙間から、サフィラの赤い双眸が穏やかに笑うのが見える。彼は領主の邸宅で起きた惨事も、妹にかけられた重すぎる嫌疑も知らないのだと思うと、湧き上がる罪悪感に負けそうになる。ノイルは幾度か口を開こうとして、そのたびに閉ざすことを繰り返していた。

「――ノイル様? 先程から気もそぞろ、、、、、なご様子ですが、どうなさいましたか。お体がすぐれないのでは」

「ああ、ううん、違うんだ。まだ頭がぼうっとしてて」

 嘘ではない。

 心配げに振り返る瞳に笑いかける。

 気もそぞろ――などと、教育係ですらそうは使わない。執事の口から自然に零れた、随分と古臭い言い回しに、少しばかり気が紛れた。

 それで溜息を噛み殺す。ともかく、今は何を考えたところで憶測にすぎない。サラに事情を聴かぬことにはどうにもならないのは純然たる事実であるし、彼女が犯人であると決めてかかるべきことではない。

 聴いてどうするかは――。

 兄妹次第だろう。貴族という立場上、ノイルの両親とて、問題を内々に処理せねばならない。レンティス家に申し開きをするというのなら、ノイルがその場に立ち会えば、多少は助けになれるだろう。サフィラは紹介状をもらえるほどの優秀な執事であるというし、逃げるというのなら、できる範囲で手を貸したい。

 そう思えば、鬱陶しかった裾も、少しばかり軽くなった心地がする。先程より自然な苦笑を描いて、青年は赤茶色の髪を揺らした。

「ちょっと、朝に弱くてさ」

「そうでしたか。安心いたしました」

 執事の浮かべる柔和な笑みに、どこか愉快な色が混ざるのを、良家の子息は見逃さない。思わず眉根に力が籠る。

「なんだよ、その顔。笑うなよ」

「いえ、失礼いたしました。領主のご子息にも苦手なものがあったのだと」

「そりゃ、あるよ。勉強とか」

 口を衝いた声が思いの外拗ねたような色を帯びた。薄青の隙間に覗く頬が、喜色をありありと強めていることに、余計に内心で膨らませた頬を煽る。

 ――およそ不敬だ。

 けれど、ノイルの心を安らげたのも事実だった。散々に掻き立てられた不安と緊張が、少しばかり凪いだ心地がする。

 彼は余程いい貴族に仕えていたらしい。

 階級にしては気安く話しかけてくるのも、ノイルの不穏な心中を鋭敏に感じ取っているからだろう。事実、最初は形式ばって畏まった声をしていたのだ。その気遣いには応えねばなるまいと肩の力を抜けば、思いの外、心底から安堵することができた。

 青い瞳から緊張の色が抜けたのを見て取ったか、前を行く執事は安堵したように唇を緩めた。切れ長の赤い双眸に浮かぶ表情は窺えなかったが、きっと穏やかに弧を描いているのだろう。

「少しばかり、舗装が崩れておりますね。お足許にお気を付けください」

 引き締まった声音が気遣いの証左だった。軽くなった首を縦に振り、僅かにひび割れた煉瓦に視線を落とす。

 ――直してもらえるよう、後で進言せねば。

 心持ち大股に踏み出して罅を越える。ブーツがぶつかる音と同時に、後方の足を引き寄せるようにすれば、爪先にごつごつした隙間が絡まる感触がして、ノイルは知らず眉根を寄せる。

 ちょうど日が雲で陰って、視線の先の小さな奈落は黒く影に埋もれた。黒いブーツの先に白く擦れた石粉を一瞥してから、ゆっくりと顔を上げる。

 サラの家とは――。

 どこにあるのだろう。領内にあると言うが、屋敷の外を歩いたことはあっても、使用人の家を問うような貴族は、この世界にはいないだろう。給仕として雇ってから、サラを屋敷で見かけないときはなかったから、彼女には身寄りがないものだと思っていたというのもある。

 全てノイルの想像に過ぎないのだが。

 ――何しろ、彼は彼女に兄がいることすら知らなかった。

 のんびりと足を運ぶサフィラが、こちらを見て目を丸くする少女に、穏やかに笑いかけているのが目に映る。レンティス家を示す赤のコートをちらと見遣り、ノイルもなるべく彼女が気にしないよう、努めて相好を崩した。

 それでも、一瞬にして頬を紅潮させた娘は、慌てて走り去っていってしまった。

 その背を見送ってから歩き出す。

「あんなに走って、気にしなくていいのに。転ばないといいけど」

「そうですね。ご婦人の顔に傷がついては大変です。声を掛けて参りましょうか」

「ううん――今は、サラに話を訊く方が先かな」

「畏まりました。じきに見えて参りますよ」

 ノイルの青い瞳を写して、紅玉が微笑んで見せた。

 ――そのまま、執事の手は路地を示す。

 サラと出会ったその場所が、貧民街と呼ばれている場所に繋がることは、ノイルも知っている。血の気が引くような思いと共に、緩んだ気を引き締めて、彼は迷いなく進むサフィラの背を追った。

 少しずつ変わる空気を吸い込む。大通りにこだまする、活気のある声が遠ざかる。冷えた路地の大気に、口許が強張るのが、自分でも理解できる。反響する足音すらも硬く聞こえるような心地だった。

 貧民とは――。

 余裕のない人々なのだと聞いた。生まれてこの方、満足を知ったことのない民だと聞いた。誰もがサラのように在る場所ではないのだと聞いた。

 何があっても保証はないと、両親は言った。

「そのように、恐ろしいところではございませんよ」

 はっとして顔を上げる。

 いつの間にかノイルを捉えた赤い瞳が、ひどく寂しげに笑っている。身なりのお陰でそうとは感じられないが、彼もまたここの出身であるのだということを思い出して、脳が締め付けられるような心地がした。否定の言葉を口にしようとしても、乾いた舌が喉に張り付いて、声にはならなかった。

 それで再び視線を落とす。

「――ごめん」

「そのようなお顔をなさらないでください。慣れない空気でしょう。恐ろしいようにも感じられましょうが、人々が噂するほど、荒廃した場所ではございませんよ」

 あくまでも声音は穏やかだ。だが、参りましょう――と背を向ける刹那、サフィラの瞳が陰ったのを見逃すことはできなかった。

 胃に蓋をされたような気分がする。ここで俯いては余計に彼を傷付けるだろうと、ノイルはことさら道の奥へ目を凝らした。日の光が差し込んでいるのに、どこか暗澹と陰った空気に、罪悪感を余計に掻き立てられて、結局彼は視線を落とす。

 サフィラのブーツは高級そうだった。音を立てるヒールは、荒れた煉瓦の上に立つと、いっそ異様だ。

 その違和感を口にするより早く。

「こちらです。お入りください」

 恭しく頭を下げて、執事は小さな家の軋む扉を開いた。


「碌なおもてなしもできず、申し訳ございません」

「いや、いいよ。急に押しかけたのは俺だし」

 通された先にあったのは、殺風景で小さな部屋だった。

 硝子の曇ったランタンが壁にかかり、ひびの入ったテーブルが中央に鎮座している他は、ほとんど何もない。部屋数も少なく、応接間として用意されているのだろうこの部屋以外には、扉が三つほどあるだけだった。

 ノイルの知る豪奢な家とは――。

 全く違う。

 どちらかといえば小屋と呼んでいるものに近い作りだ。好奇を隠し切れない青の双眸が部屋中を見渡すのを、家の主であるサフィラは咎めもせずにいた。

 ふと、天井の片隅に蜘蛛が巣を張っているのを見る。サラがいるという場所にしては珍しいことだった。

 ――よほど体調が芳しくないのだろう。

 思わず寄せた眉根を見て取ったか、それまで穏やかにノイルを見詰めていた赤い切れ長の瞳に真剣な色を宿して、サフィラが徐に口を開いた。

「サラを呼んで参ります。少々お待ちください」

「俺が行こうか」

「ここまでご足労頂いたのです、お休みください。それに――不肖の妹とはいえ、あれも年頃の婦女に変わりはございませんので」

 ――年頃の婦女。

 一気に顔を朱に染めた青年の目に、サフィラが堪えきれずに笑みを漏らしたのが映る。思わず声を上げるより先に、薄青は扉の向こうに消えてしまった。

 見知らぬ静寂の中に取り残されて、ぼんやりとした気持ちのまま、手持ち無沙汰に机をなぞる。

 ざらざらとした感覚がして、砂混じりの白い埃が黒い手袋に纏わりつく。随分と長いこと放置されているらしい、古びた椅子と机をぼんやりと見詰めているうちに、心中を巡る疑問が、不意に鮮明に脳裏をひらめいた。

 サフィラはいつ帰ってきたのだろう。

 最近とはいっても、昨日今日のことではないような口ぶりだ。

 帰って来てからは、この殺風景な部屋で寝食を行っていたのだろうに、この積もった汚れを払おうとは思わなかったのだろうか。彼が汚れた部屋を放置する姿は、潔癖を体現するように整えられた見目からは想像しにくい。

 まあ――外と内が誰しも合致するとは限らないが。

 手袋の砂を払い、サフィラの背が消えた扉の向こうを見ようと視線を上げた瞬間である。

「サラ!」

 ――悲鳴のような声に、ノイルは弾かれたように走り出した。

 先から追っていた薄青を捉える。開け放たれた扉の前で立ち竦む彼がひどく動揺しているのは、遠目にも理解ができた。

 青褪めた端正な顔を歪めている。赤い瞳が強い混乱を湛えて揺れている。食いしばった歯の隙間から漏れる息が荒い。およそここまでの彼らしくもない振る舞いに、背筋を伝う冷えた予感を振り払って、ノイルは努めて冷静に執事へ近づいた。

「サフィラ、何が――」

 問うより先に。

 目に入った光景に眩暈がした。

 サフィラが立っているのだから、ここはサラの部屋なのだろう。

 しかし、そこに見慣れた給仕の姿はなかった。代わりのように、赤黒く錆びた液体が飛び散っている。ベッドを中心に広がるそれが何なのか、想像するよりも前に吐き気が込み上げた。辛うじて堪え切った苦い液体を飲み下し、浮かびかけた涙をぬぐう。

 ――何があった。

 屋敷で起きたという惨劇が頭をよぎる。倒れ伏す家令。転がった執事。動かない家政婦長。彼らを蹂躙した誰かの腕――。

 そして。

「サラ! ああ、サラ、どこへ行ったというのですか! 一体誰が!」

 ノイルの目の前で膝をつく、彼女の兄の慟哭。

 かけるべき言葉が見つからないまま、ノイルの視線は床に落ちた。広がった赤黒い染みから足を引く。再び込み上げてくる胃液に、胸が締め付けられるようだった。

 これがサラのものならば、彼女は生きてはいまい。しかし、同一犯だったとして、レンティス家には上級使用人の死体を残し、サラの死体だけを持ち去るのは不可解だ。偽装工作である可能性は、捨ててはいけないだろう。

 真実を受け入れられないのかもしれない。ノイルが無理に理由を紐付けているだけの、都合のいい願望かもしれなかった。

 それでもいい。

 まだ生きているかもしれない。

 そう思ったのは彼だけではないようだった。悲しみと混乱に打ち沈みながらも、サフィラの瞳は強い意志を孕んで持ち上がる。

「申し訳ございません。大変お恥ずかしいところを」

 衣服と表情を整え、彼は真っすぐにノイルの目を見る。満ちる決意に瞬きさえも奪われて、呼吸を深めて口許を引き締めた。

 続く言葉に予想はついている。

「ノイル様はお屋敷にお戻りください」

「サフィラはどうするつもり?」

「サラを探して参ります」

 そう――。

 言われれば、ノイルの返答は決まっている。

「俺も行く」

 サフィラの顔に、予期したほどの動揺と困惑はなかった。確かめるようにこちらを見下ろす紅玉を見据え、頷いて見せる。

 暫し――。

 沈黙したのち、執事は真剣な表情で頷く。

「承知いたしました。この身に代えても、御身はお守りいたしましょう」

 殊更に恭しい一礼の狭間に、彼は呻くように礼を述べた。

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