悲しき玩具
ミラドール丁稚さん
悲しき玩具
事務所の古い呼び鈴がジリリと鳴った。
助手の古谷は玄関へ向かった。新山が窓から外を見下ろすと、恰幅のいい郵便配達人がちょうど古谷に書状を渡すところだった。制服に身を包んだ男はふたたび自転車にまたがり、不安定な轍を描きながら向こうの通りへ消えていく。
新山は、そっとソファへと戻り細身の来訪者の前に座った。
「それで?」
足を投げ出し組んで待っていた来訪者は、いくぶん挑発的な目つきで新山に問うた。
「それで、保険金をお支払いいただけないというのはどういうことですかね?」
跡見玲の足元はこまやかな細工の入った男物の革靴で、とがった口吻は彼女のきびしい口調を代弁するかのようだ。上物の布地で仕立てられたスラックスは生真面目にプレスされている。ダークカラーでそろえられたジャケットはその下に秘められたフェミニンなボディラインをぎりぎりで意識させぬよう隠している。ただ胸元にネクタイを締めず、かすかに華を添えるブラウスとなっている点が彼女を凡庸なスーツの男性と違えていた。
「改めてご説明すれば、お父上の……」
「義父です」
跡見は間髪入れずに訂正を入れた。
「これは失礼。
あなた、跡見玲さんの義理のお父上の件は、死亡保険金支払いの除外事項に該当するということです」
「除外事項?」
跡見は落ち着いた声でそう聞き返しつつ、ジャケットの内ポケットからたばこを取り出してくわえ、火をつけた。
「失礼。ここは禁煙でしたか?」
「いえ、かまいませんよ」
「具体的にどんな除外事項でしょう」
新山は身を乗り出して説明をはじめた。
「義理のお父さまの死亡に際して、私の依頼主である東海保険では2億5千万を玲さんにお支払いするご契約になっていました。しかし当探偵事務所による調査の結果、故人の死因により今回はお支払いを見合わせていただきたく存じます」
彼は跡見の顔を上目遣いでそっと伺いながら言った。
「殺人です。義理のお父さまは殺されたのです」
玄関から戻ってきた古谷が、たばこを吸う跡見を見て血相を変え灰皿がわりのカップソーサーをもってきた。ついでに配達人から受け取った封書を非難をこめて新山の前にパシリと放り投げ、自席へ戻る。
跡見は
「ああ。ありがとう」
と当然のようにソーサーの上へそっと灰を落とし、聞き返した。
「それはおそろしい……。
でも警察の捜査では事故死と結論が出たのでは?
そもそも誰かに殺されただけなら支払いを求めるのは正当です」
「誰か、ならね」
新山はうなずいた。
「受取人のあなたが殺したのなら別ですよ。
玲さん」
今年二月上旬早朝。跡見物流社長・跡見裕一氏は世田谷区桜新町の自宅寝室で倒れているところを娘の跡見玲に発見された。午前5時過ぎのこと。サイドテーブルに置いたノートパソコンに手を伸ばし、床に転がっていた。同15分、いそぎ救急搬送されたが最寄り病院の医師が同40分に正式に死亡を確認。死因はリチウム中毒だった。富豪の変死、しかもめずらしい金属中毒とあって警察やメディアはいささか色めき立った。
実は裕一氏は生来の双極性障害、いわゆる躁うつ病を抱えていた。その緩和のために常用している炭酸リチウム錠剤は調整が難しく中毒を招きやすいことで知られる。結果として捜査本部は、すでに六十近く代謝の衰えた老人が運悪く中毒死したものと結論づけ解散をみた。
「警察とはずいぶん違うご意見のようですね」
「保険会社が警察と異なる見解に基づき支払いを拒否することは、めずらしいことではないんですよ。そのために私のような私立探偵が調査に雇われるわけです。おかげでちょっとした小遣い稼ぎになる」
跡見はややおもしろそうに笑みを浮かべながら新山を見た。
「私が義父を中毒死させたと?
医学の心得もないのに。
そもそも私に義父を殺める動機などありません。
十五のとき保護施設から養子として迎えられて以来、なに不自由なく暮らしてこられたのは義父のおかげですよ」
「ええ。存じ上げています。
調べましたから」
新山はテーブルの上のファイルから、一葉の写真を取り出した。黒いロングヘアと対照的な白い肌、つややかな唇に笑みをたたえた少女が写っている。学校の行事写真だろうか。女子校の制服に包まれた姿態は花開く寸前のつぼみのようだ。跡見はすこしうろたえて目をそらした。
「玲さんが実のご父母を亡くされ施設にいらした十五年前のものです。当時は髪が長かったのですね。成績も優秀だったそうで」
「義父は自分の事業を引き継げる優秀な人材を探していましたから。家族の経営は自分に向かないと判断した義父にとって、養子は合理的な選択肢だったのです。それだけです」
「ほんとうにそれだけですか?」
「ほんとうに、とは?」
跡見の声には焦燥がまじっていた。すでに燃え尽きていたたばこに代わり、もう一本を上着から取り出し火をつけた。古谷が遠くで舌打ちをする。
「十七歳のときでしたか。
玲さんは自殺未遂騒ぎを起こしていらっしゃいますね」
跡見はひときわ深くたばこを吸いこむと、新山から目をそらしながら煙を長く吐き出した。
「誰からそれを?」
「それは伏せておきましょう。
ただ、玲さんのことをとても心配していらっしゃいましたよ。
……なぜ自殺を?」
「思春期にはよくある悩みです。くだらない」
「お友だちは、未遂騒ぎ以来ずいぶんあなたが変わったとおっしゃっていました」
跡見は新山をにらみつけた。
「そのかっこう。髪を切られたのは自殺未遂以来だそうですね」
新山はソファから立ち上がると、ゆっくりと窓際まで行き外を見上げた。雑居ビルが林立するこのあたりでは西日の差すのが早い。まぶしさに目を凝らしながら、新山は跡見に語りかけた。
「玲さんは川島芳子という人物をご存知ですか」
「川島芳子? たしか太平洋戦争前の……」
「ええ。男装の麗人、東洋のマタ・ハリとか呼ばれて戦前・戦中に活躍したそうで。私が探偵志望の子どもだった時分、ひときわ興味をひく存在でした」
「それは今日こちらに伺った件と、どういう関係があるのです?」
「本名は愛新覺羅顯㺭と言って実は清朝皇族の王女だったんですよ。川島芳子。しかし辛亥革命が勃発し清朝が大陸を追われると、復位をねらう皇族らが日本人浪人で有力者の川島浪速へ養子として差し出した。そのとき芳子の父親は、養父となる川島浪速に手紙でこう伝えたそうです」
新山は跡見のほうを振り返るとこう言った。
「君に玩具を進呈する」
古谷がふと跡見の顔を見やると、西日に照らされるなか彼女は下唇をぎゅっと噛んでいた。
「そのあと実際に何があったかはわかりません。ただ十七歳。そう。奇しくもおなじ十七歳のとき、芳子はピストル自殺未遂事件を起こします。なんとか一命はとりとめるものの、断髪・男装をして《女を捨てる》という決意宣言文書を新聞に発表したのです。当時としてはずいぶん奇矯な行動に見えたはずです。それだけ女性ゆえの悲劇的な経験をされたんじゃないですかね」
「義父には世話になりました……」
と跡見は細い声でつぶやいた。
「ほう。だからといって、不満がなかったとはおっしゃらないでしょう?」
ふたたびソファに戻ってきた新山は、若干目線を落とす跡見の顔を覗き込みながら言う。
「死亡の遠因となった双極性障害は、ご本人が自発的に受診するほど社会性に悪影響を与えていた。部下の方にお聞きしたところ、ふだんは尊敬できる経営者でありながら、陽性症状のひどいときにはぎりぎりの暴力沙汰さえあったそうですね。ご家庭でもご苦労が絶えなかったと想像します」
跡見は答えなかった。
「とはいえ、ここまではただの病気だ。裕一氏自身も病を抱える身として深く悩んでいたことでしょう。
さて、ここからはあくまで仮定の話です。彼は、自分の精神的な問題ゆえにふつうに妻や子をもつことに自信がなかった。そう。玲さんがおっしゃっていたとおり。《家族の経営は自分に向かない》とね。代わりにある結論、とんでもない結論にたどりついてしまった。妻であり、かつ家督を継ぐ子でもあるものを手に入れる方法」
新山は跡見の耳元に口を寄せ、こうつぶやいた。
「玩具ですよ。玲さん」
跡見はキッと新山を見すえた。頬には赤みがさし、目にはうっすらと涙滴がにじんでいた。
新山は跡見の視線を無視しながら続けた。
「実は私は小説を書くのが趣味でしてね。一度も賞を獲れた試しがないのですが。ですからこれは私が小説のアイデアを話しているのだと思ってください。あくまでね」
カップソーサーに置かれたたばこは、いつのまにか灰になり消えていた。
「倫理にもとる計画を思いついた裕一氏は、十五年前に玲さんを養子としてもらい受ける。子、そして妻としてね。しばらくはごくふつうの娘としてかわいがられていた玲さん。だがある日から玩具として弄ばれはじめる……。
わずか十五・六の若い女性にとってどれほどの苦痛だったことか。友人にすら打ち明けることができず自傷行為に走ってしまう。逃げ道を失った玲さんが選んだのが女性として見られないようにするという選択肢。《男装の麗人》になるということだったんじゃないですかね」
跡見は口元に手をあてながら黙っていた。肩の動きからすると感情が昂っているのは間違いなく、古谷はハラハラと見守っていた。
「もちろん精神的・経済的に支配されている時期をすぎ、成人すれば裕一氏のもとから逃げ出す道もあったはずです。だが、玲さんはそうはしなかった。できなかったんでしょう。玲さんは聡明な方だ。裕一氏に見いだされたのはもちろん、こうして抜け目なく保険金の請求をしてくる点からしてもそれは明らかだ。それなのに、なぜ逃げなかったのか。
裕一氏は玲さんを完全に自分のものにすべく弱みを握っていたのです。おそらくはおぞましい行為の一部始終などを撮影したデータを持っていたのでしょう」
「そんなことを証拠もなく!」
跡見の声が爆発した。
新山は落ち着き払って答えた。
「玲さん。これはあくまで私が考えた小説です。仮定の話ですよ。
ただ、私の想像力は警察よりも豊からしい。
ご存知かもしれませんが裕一氏はネット上の文書保管サービスを利用していた。重要な写真などをアップロードしておける事業者ですよ。彼ならきっと秘密の画像をそこに隠していたでしょうね。
ところでこれは玲さんはご存知ないかもしれませんが、われわれ探偵や弁護士の業界は職務照会をかけることでネット事業者からアクセス履歴を取得できるんですよ」
跡見が目を大きく見開いて息を呑んだ。
「すると裕一氏が最後にサービスを利用したのは、亡くなった日の4時35分だということがわかった。これ、おかしくありませんか? 玲さん。たしか発見されたのは5時過ぎと伺っていますが」
「義父本人が触っていて、その直後に倒れたのかもしれないじゃないですか!」
「そうかもしれませんね」
新山は微笑んだ。
「警察もそう考え立証が難しいと見て立件を見送ったのかもしれません。
でも、これは私の小説ですから。
そうそう。リチウム中毒で即死するのはレアケースだそうで。随意筋のけいれんからはじまってじわじわと症状が進行し死に至ると聞きました」
「さらに筋書きの参考になる事実がひとつ。裕一氏の遺体がノートパソコンのそばに転がっており、腕を伸ばしていたということです。ご存知のように最近のパソコンでは指静脈認証といって、生きている人物の指をスキャンしてログオンするしくみが導入されています。
これは玲さんがまだ生きている裕一氏の指を使いパソコンにログオンし文書保管サービスにアクセスしたから──と考えたらおもしろくありませんか。新人賞獲れないかな、古谷」
古谷は目も合わせず首を振った。
新山は目の前に空想のホワイトボードがあるかのように、タイムテーブルを描いて説明をはじめた。
「私の筋書きではこうです。
4時30分ごろ。うめき声かなにかで裕一氏が倒れたことに玲さんが気づき、駆け付ける。
4時35分。玲さんは裕一氏のからだを引きずり、指を使ってパソコン操作。ネット上のいかがわしい画像を消去する。
5時すぎ。玲さん、裕一氏がほぼ死亡していることを確認
5時15分。玲さんが救急通報」
「仮にこんなことがあったら法的にはどう扱われるでしょう。
私は小説を書くために多少は刑法を勉強しているんです。保護責任者遺棄致死かな? 当初裕一氏を救護する意志があったとすれば不真正不作為の殺人罪になりますね」
新山の言葉に跡見は両手の指を組み合わせテーブルの上のソーサーを見たまましばらく答えなかった。
「証拠は? 証拠はあるんですか」
ようやく口を開いた跡見はこうつぶやいた。
「残念ながら……。
仮に私の小説が真実を衝いているとしても物証はない。動機を立証するデータも消されてしまった。ないないづくしですね。
証拠はなかったんです」
「《なかった》??」
「ええ。今はありますよ。
ここにね」
新山が指さしたのは、古谷が郵便配達から受け取り先ほどテーブルの上に腹立たしげに置いた、あの封書だった。
「これは……」
「裕一氏はね、あなたとの行為を映した画像データをプリントしていたんですよ。好事家の仲間内でのやりとり用にね」
「まさか!」
跡見は絶望的な視線を新山に向けた。
「かつてのブルーフィルムやスナッフフィルムも8ミリで流通しているほうが価値が高いと言いますからね。十分ありうる話です。彼のSNSのつながりなどから当たりをつけて相手を探したんですが、ようやく回収できました。きょう郵送で届く予定だったんです」
跡見はサッと封書に手を伸ばしたが、すでに新山が手にとったあとだった。新山は封書を見せつけながらいたずらっぽく言った。
「こんな写真がもし出てきたら、さすがに警察が再捜査に乗り出すのでは? 動機がはっきりするのですから。私の小説がフィクションからノンフィクションになる。貴重な写真です」
「よこしてください!」
跡見は叫んだ。
「私がこれまでどれだけ自分の人生をあいつに奪われてきたか! その写真のせいでどれだけ薄汚い関係を強要されてきたか!」
「でしょうね」
新山は事もなげに返す。
「でもね、あなたは人を殺した。少なくとも見殺しにしたんです」
新山の目はこれまでになく厳しかった。
「彼が助けを求めた4時30分から5時すぎまで。30分前後。あなたはけいれんして次第に弱っていく裕一氏を引きずりまわしてパソコンの認証鍵がわりに使った。そして確かに鼓動が止まるまで、彼の顔をじっと眺めていた。裕一氏は声に出せなくても命乞いをしていたかもしれない。あなたはそれも無視した。玲さん」
跡見は肩を上下させながらも無言だった。
「でもね」
新山は急に明るい声になった。
「ここまでの話はぜんぶ私の小説のアイデアですから。依頼人の保険会社にもまだなんの報告もしていません。そして……」
また急に声をひそめて、
「ここだけの話。私の報酬はね、請求が不当だと証明できた場合以外、請求者に権利放棄の書類を書いてもらえればいただけるんです」
跡見は状況が把握できていないようだった。
「要はね、玲さん。ここにある書面にサインして保険金の請求権を放棄してもらえれば、この写真はなぜか燃えてしまうかもしれないってことですよ」
跡見は無言で状況を反芻した。利発な彼女にしては少々長い時間を要した。
「これからのあなたにとって2億5千万など無価値でしょう。裕一氏の遺産、そして会社を引き継いで使い、本当の自分を取り戻すこと。それに比べたらしょせんもともとなかった金ですよ」
新山は跡見の手からライターを借りると、ソーサーの上で封書に火をつけた。茶色い封筒はしだいにこげ茶へと変わり、燃え上がり、そして灰の山になった。
「あなたはもう玩具じゃない」
跡見玲は書類にサインし、そのまま振り返ることもなく事務所を去った。
東海保険への報告書兼請求書をまとめながら、古谷が口を開いた。
「本当は」
やれやれ、という諦観がそのせりふには漂っていた。
「本当は何が入ってたんだ? あの封筒」
「この封書かい?」
探偵はカップソーサーの上の灰を見つめながら、少し楽しげな声で返事をした。
「ただの督促状さ。
報酬の振込があるまで、きみ、立て替えておいてくれたまえ」
(了)
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