恋蝶の夢

宮草はつか

恋蝶の夢

 夢をみた。

 とても不思議な夢をみた。


「お願い、入れてよ?」

「ダメ。あの子はワタシのお気に入りなの。勝手に触られたくないわ」

「お願い。どうしても、入りたいんだ」


 自宅の玄関先で、だれかの話し声が聞こえていた。

 磨りガラスの戸に、二つの影が映っている。


「それじゃあ、代わりに貴方のものをワタシに頂戴?」

「羽は?」

「ダメ。それは食べられないもの」


 影は、どこか人の形とは異なって、歪んで見えた。


「貴方はとても美味だった。だからもう一度、貴方を頂戴?」

「……わかった」

「ふふ、それじゃあ一ヶ月だけよ? 一ヶ月後のこの日、必ずここへ来ること。約束ね?」

「あぁ」


 一つの影の、頷く仕草が見て取れた。

 話し声が途絶える。

 玄関の戸が、音も立たずに、ゆっくりと開いていく。


 そこで、夢は途切れた。


     *


 目を覚ますと、私の目の前に見知らぬ青年がいた。

 同じくらいの歳で、黒の和服を身にまとい、柔らかな黒い瞳をしている。

 そして、最も目を引いたのは、背中からはえた黒縁に金緑色をした蝶の羽。


 異形の姿をした彼は、私に言った。


「僕は、君に弔われた蝶」


 それは三日前のことだった――。


 不思議な感覚に誘われるまま、私は自宅の玄関を開けた。

 軒下に、毎年のように巣を作るジョロウグモがいる。その巣に一匹のミヤマカラスアゲハがかかっていた。もう蜘蛛は蝶の体を食べ終え、大きな翅だけが糸に残されていた。

 風が吹き、翅が糸から外れ、私の足下に落ちた。

 私は気まぐれに、その一対の翅を庭先に埋めたのだった。


「少しだけ、この家にいさせてくれないか?」


 彼は現世で未練が残り、アヤカシになったと言う。

 その未練が晴れるまで、この家にいたいと願い出た。


「出て行って」


 私が彼に言った最初の言葉は、それだけだった。

 怖かった。不気味な異形と関わりを持つなんて、私にはできないと思った。

 逃げるように、私は自室から出て行った。


     *


「……まだいるの?」


 それでも彼は、この家に居続けた。

 私以外の家族には、彼の姿は見えていないようだった。

 時に棚の上から部屋を眺め、時に窓の外をぼんやり見つめ、時に観葉植物を揺らし戯れていた。

 何か悪さをしているようには見えない。かといって、益をもたらしているわけでもない。ただ、そこにいるだけ。ただただ、私たちの生活を見つめているだけ。


「ごめんね。ここしか、いられないんだ」


 私の問いに、彼は申し訳なさそうに、眉を歪めて答えた。


「……何か食べる? ここに来てから、何も食べていないけど」


 私は、彼が無害なものだと思い、警戒を少し解いてしまった。

 だれもいない台所へ行き、冷蔵庫を開ける。


「食べなくても平気だよ。でも、少し喉が渇くんだ」


 私は彼にミネラルウォーターを与えた。

 コップに注がれた水を飲み、彼は「美味しい」と微笑む。


「……他にも、何か飲む?」


 蝶ならば、花の蜜が好物ではないだろうか。

 冷蔵庫から果汁のジュースや果物を取り出し、テーブルに並べる。どれが好きなのか、彼に試飲させてみる。

 そのうち調子に乗り始め、ミキサーを引っ張りだし、いろいろなものを混ぜたり、砂糖や蜂蜜を加えたりして遊んでしまった。

 彼が一番好きだと言う味は、私には甘すぎて飲めたものではなかった。


     *


 彼は自分の名前がないと言う。

 だから私は、彼を「ミヤマ」と名付けて呼ぶことにした。

 

 ミヤマはいつも家のどこかにいた。

 自室へ勝手に忍び込んできたり、だれもいない部屋に座っていたり、居間や台所の隅で家族の様子を見守っていたり。その姿は、気まぐれなようで、所在なさげなようで、遠慮しているように見えた。

 けれども、なぜかミヤマは、玄関だけには近づかなかった。


「ミヤマ、おいで。どうせ暇なんでしょ?」


 家に家族がいなくなると、私はそう呼んで、ミヤマを自室に招いた。

 ミヤマが来たからと言って、私の生活は代わり映えがない。本や漫画を読んだり、ネットサーフィンをしたり、眠くなったらベッドで寝たり。たまにミヤマととりとめのない話をして、ネット動画を一緒に見たりした。


「ミヤマ、これ意味わかってる?」

「わからないけど、君が楽しそうに見ているから、楽しいものなのかなって思うよ」


 最近話題だという漫才の動画を見ながら、私はミヤマと話していた。

 ミヤマは画面に映った芸人ではなく、私の笑う顔を見て、微笑んでいるように見えた。


「面白いけど、楽しくなんかないよ」


 そう言って、私は動画の停止ボタンを押した。

 ミヤマは蝶であり、アヤカシだ。

 だから、人のことは何も知らない。

 私のことも、何も知らない。


「ねぇ、ミヤマはどうして外へ出ないの?」


 ミヤマは部屋にいて、私が話しかけないと、よく窓の外をぼんやり眺めていた。そして時折、背中の羽を意味もなく揺らす。

 天井の低いこの家の中では、飛ぶことができないだろう。

 私の問いに、ミヤマは微笑みを浮かべながら答える。


「君と、同じ理由だよ」


 その言葉の意味が、私にはわからなかった。


「……なにそれ」


 けれども、その先の意味を追求する勇気を、私は持ち合わせていなかった。

 自分が一番聞かれたくないことを訊いてしまった。後悔の念が胸を刺す。


「ミヤマ、これ面白そうだよ?」


 話を変え、パソコンの画面に戻る。「蝶」で検索した動画を再生してみる。

 どこか知らない森の中、コバルトブルーの蝶が、群れをなして飛んでいる。

 画面一杯に広がるその群れに、私とミヤマはそろって感嘆の息を吐いた。


     *


 それからも私とミヤマはこの家の中で一緒に過ごした。

 何の目的もなく、ただ時間を空費する。けれどもミヤマといるだけで、意味のない時間に彩りが添えられた気がした。

 ミヤマも最近はずっと、私が呼ばなくても、私の部屋にいるようになった。


 そして、ミヤマと出会って、ちょうど一ヶ月になる日。


「ミヤマ、お風呂入ってくるね」


 夕食を終えた私はそう言って、お風呂場へ行った。

 身体を洗い、湯船に浸かり、お風呂を出て着替え、自室へ戻ろうとした。

 けれどもその時、話し声が耳に入った。


「ねぇ、あの子最近変じゃない? 部屋にいて一人でぶつぶつ話して。さっきも、だれもいないのに、声を出して……」

「確かに、俺も夜中にあいつが台所でこそこそしているのを見たんだ。独り言を呟きながら、何かを作っていた」

「もしかして、幻覚とかかしら? 昨日テレビでやってたじゃない?」

「うーん……、家から出ていないから、変な物に手は出していないと思うが。一度病院に連れていくか?」


 両親の部屋から聞こえきた声。

 その言葉に、私は身動きができなくなった。


「でもあの子、来てくれるかしら? ずっと家から出たがらないのよ?」

「といっても、このままにしておけないだろう? 学校からも、何度か連絡が来ているんだろう?」

「そうね……。知り合いのお母さんたちからも、気を遣われちゃってるし……」


 ダメ……。

 これ以上、この人たちの話を聞いたら、ダメ……。

 心が叫んだ。やっとのことで、四肢が動いた。

 両手を耳に押し当て、両足で階段を駆け上る。


「どうかした?」


 部屋へ飛び込むように入り、ベッドの上に転がり、布団を被る。

 ミヤマの戸惑う声が聞こえた。

 けれども私は、その理由を答えられなかった。


「何でもない……。何でもないから、今は出て行って……」


 布団を深く被りながら、やっとのことでミヤマに言った。

 声が震える。今はだれとも、話したくない。


「大丈夫?」


 ベッドのすぐそばで、ミヤマの声がした。

 近づいてくる。

 心がざわめく。


「お願い、出てって……」

「震えているよ?」

「お願い、だから……」


 思考がぐちゃぐちゃになっていく。

 ミヤマが何を言っているのか、わからない。

 お願いだから、何も言わずに出て行ってよ。

 お願いだから、近づかないで。放っておいて。


「君を、放ってはおけない」


 これ以上近づいたら、触れられたら、私は……。

 私は……っ!


「触らないで! 出て行けって、言ってるでしょっ!!」


 布団の上に添えられた手を、起き上がってはねのける。

 そのまま私は、手近にある物を掴んで、ミヤマに投げつけた。

 枕を、本を、スマホを。

 最後に投げた置き時計が、ミヤマの脇腹をかする。

 そして、その後ろにある彼の羽にぶつかった。


「……っ!?」


 羽はまるで、障子紙のようにもろく破れた。

 辺りに、金色の鱗粉が舞う。

 置き時計が、無骨な音を立てて転がる。

 尾状突起が、破れた羽が、音もなく床に落ちた。


 一瞬の出来事が、私に、永遠の後悔を与えた。


「ミ……ミヤマっ!」


 私はベッドから飛び出て、ミヤマのもとへ行った。


「ミヤマ、ごめん……。ごめんね……。痛くない……? ごめん……。ホント、ごめんね……」


 何度も何度も謝った。その言葉しか知らないのかと思われるくらい「ごめん」と連呼した。足に力が入らず、その場にへたり込む。すぐ横に、壊れた羽がある。それを見て、涙が止まらなくなった。


「僕は、大丈夫だよ」


 泣き叫ぶ私のそばで、ミヤマの落ち着いた声が聞こえた。

 次の瞬間、私の身体が温かいものに包まれる。


「痛くはない。それにもともと、使いもしないものなんだ。だから、僕は大丈夫だよ」

「でも……でもっ……!」


 ミヤマは、私の身体をやさしく抱いてくれた。頭をやさしく撫でてくれた。

 ひどいことをしたのは、私なのに。傷つけたのは、私のほうなのに。


「……僕のほうこそ、ごめんね」


 どうしてミヤマが、こんなにやさしくしてくれるのか、こんなことを言うのか。

 私にはまだ、何もわからなかった。ただただ、ミヤマの胸の中で、赤子のように泣き続けることしかできなかった。


     *


 そして、その夜。


 私は、ミヤマが一番好きだと言っていたミックスジュースを作ってあげた。

 お詫びがしたいと言ったら、ミヤマはそれが飲みたいと言ったから。

 お詫びにはほど遠いかもしれないけれども、私は早速作ってあげた。

 家族から向けられた目も、まったく気にならなかった。


「おやすみ、ミヤマ」


 それから私は寝る準備をして、ベッドに入った。

 ミヤマはベッドのそばで膝をついて座り、私の手を握ってくれていた。

 明日はもっと、ミヤマにお詫びをしよう。それに少しだけ、私のことも話してみようかな。そう思いながら、目を閉じる。


「うん、おやすみ」


 ミヤマはそう言って、私と握った手に少しだけ力を入れた。


 それから、何時間が経っただろう。

 私はふと、目が覚めた。


「……ミヤマ?」


 手を握られている感触がなかった。寝返りを打つから、離したのだろうと思った。

 起き上がり、寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回す。

 けれども、部屋のどこにも、ミヤマの姿はなかった。


「ミヤマ!?」


 私は部屋を出て、ミヤマを呼んだ。いつもならすぐ来てくれるのに、辺りはしんとしている。

 階段を降りて、もう一度、名前を呼ぼうとした。

 けどその時、玄関から声が聞こえてきた。


「お願い、明け方まで待てないかな?」

「ダメ。これでも随分待っていたのよ?」

「だったらお願い、もう少しだけ。彼女に伝えたいことが、まだあるんだ」

「ダメよ。もう待てないわ」


 ミヤマの声と、聞き覚えのある知らない女性の声。

 私は廊下を走り、玄関へ行く。


「ミヤマ!?」


 玄関にミヤマはいた。戸越しに、外にいるだれかと話していた。

 磨りガラスに映った影は、私が認める前にどこかへ消えてしまった。


「だれと、話してたの?」


 ミヤマのそばへ行き、私は訊いた。

 ミヤマは何も言わず、眉をひそめて私を見つめる。

 初めて見る、悲しそうな表情だった。


「嫌だ……。お願い、いかないでよ……? ミヤマ、お願い……っ!」


 私は、なんとなく察しがついてしまった。

 ミヤマの両腕をぎゅっと掴む。

 ミヤマは私を見つめたまま、否定もしなければ、肯定もしない。


「まだ、何のお詫びもできてないのに……! もっと仲良くなりたいのに……! お願いだから、いかないで……、私を……私を……」


 また、独りにしないで……!


「ごめんね」


 ミヤマはそう言って、私を抱いた。さっきよりも強く、私を抱きしめる。


「限られた命なんだ。だからこそ、君のそばにいたかった」


 やっと止んだ涙が、また頬を伝った。

 私もミヤマの背中に手を回す。羽に触れないようにそっと、ぎゅっと、ミヤマを抱きしめる。


「私だって、ミヤマのそばにいたい……。いくんなら、私も一緒に連れていって……」


 離したくなかった。この手を、もう二度と。

 ミヤマの手が私の肩を掴む。ゆっくりと肩を押される。

 私は手に力を入れた。けれども顔が少しミヤマから離れ、ミヤマと目が合う。


「聞いて?」


 ミヤマがゆっくりと言葉を紡ぐ。


「僕が蝶だった頃、僕はただ、生きて、子孫を残し、死んでいくだけだった。けど、アヤカシとなって、君のそばにいて、いろんな想いが僕の胸を駆け巡った。喜び、悲しみ、寂しさ、そして、愛おしさ」


 ミヤマは私の肩を少し引き、互いの額を押し当てた。


「こんなに苦しいとは思わなかった。もう、限界なんだ。もうこの胸が、張り裂けそうなんだ」


 涙で滲んだ視界でもはっきり映るほど近くに、ミヤマのやさしげな目がある。


「君は生まれてからずっと、こんなにたくさんの想いを抱えているんだね。それだけで、君は強く、そしてとても、やさしいんだよ」


 その言葉の意味が、私にはわからない。わかってもわからなくて、どっちでもいい。


「ミヤマ……」


 いかないでほしい。いかないで。それだけしか、今の私にはなかった。

 けれどもミヤマは額を離し、話を続ける。


「これからのことは、君には見せたくないんだ。だから、目を閉じて」

「嫌……、絶対に、嫌……」


 閉じたら、ミヤマが見えなくなる。いなくなっちゃう。

 私は首を何度も何度も、横に振った。


「大丈夫。いなくなったりしない。僕は君の中で、生き続けるから」


 ミヤマはそう言って、私の頬の涙を拭う。


「君の中で生きること。それが、僕がこの世を生きた、証となるから」


 ミヤマの手が、私の両目をそっと覆い隠した。

 自らの目が、意思に反して閉じていく。


「ありがとう」


 唇に、柔らかく温かい感触が伝わる。

 その直後、力が入らなくなり、ミヤマを握っていた手が解ける。

 意識が遠のき、私はゆっくりと、床に倒れた。


 私の名前を呼ぶ、ミヤマの声が聞こえた。


     *


 夢をみた。

 とても儚い夢をみた。


「バカね、貴方は」

「そう?」

「貴方はあの子に、自らの死を押しつけた。自分の命だけで精一杯な人の子に、他者の命まで背負うことができるかしら?」


 自宅の玄関先で、だれかの話し声が聞こえていた。

 磨りガラスの戸に、二つの影が映っている。


「背負うことはないよ。彼女の中にいる僕は、きっと彼女を支えてくれる」

「彼女の中にいる貴方は、貴方ではないじゃない?」

「僕が、僕であることと、彼女の中の僕であることに、たいした差異はないよ」

「貴方は、それで満足なの?」

「あぁ。もう未練はない。夢みたいな時間だったからね」

「そう。羨ましいわ。そしてとっても、妬ましい」


 影は、どこか人の形とは異なって、歪んで見えた。

 一つは長い髪の女性のようで、手足が八本伸びているように見えた。

 一つは和装をした男性のようで、背中に蝶の羽がはえているように見えた。

 そして、片羽の下半分が欠けているように見えた。


「貴方を食べたら、ワタシはあの子に嫌われちゃう。もうこの家には、いられないわね」

「だったら、見逃してよ?」

「ダメ。約束は約束よ。それに貴方、どのみちもう命は残っていないのでしょう?」

「……そうだね」


 一つの影の頷く仕草が見て取れた。

 そして、話し声が途絶える。

 磨りガラスの奥から、光が差し込んだ。


 そこで夢は、途切れた。


     *


 目を覚ますと、私は玄関前の廊下に倒れていた。

 磨りガラスから差し込む朝日の光が、私を照らしている。

 起き上がり、玄関の戸を開ける。


 軒下にあったジョロウグモの巣がなくなっていた。

 

 素足のまま外へ出て、周囲を見回す。

 隣の雑木林から伸びる、カラスザンショウの若木が目に留まる。

 

 枝の上、一匹のミヤマカラスアゲハの幼虫が、葉を一心に食していた。



     【終】

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