わたぼーはたんぽぽから生まれた猫だという
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わたぼーはたんぽぽから生まれた猫だという
祖母は猫を飼っている。『わたぼー』という名の猫だ。
白くて、丸くて、ふわふわしている奴である。外から見てると実体はどこにあるのかと思わせるのだが、手を伸ばすと、すぐモチモチした肌に指先が届く猫だ。
家にいるときのわたぼーは、いつも眠そうにしている。実際に寝ていることもある。私が小学校にいる間までは知らないが、きっと眠っているのだと思う。
少なくとも、私にそう思わせるくらい、動かない猫だった。
私の親は二人とも働いていたので、家には祖母と猫しかいなかった。しかもゲームもスマホも持たせてもらえず、小さい頃の遊び相手といえば、祖母とわたぼーだけだったのだ。
しかし祖母はともかく、わたぼーはいつだってまともに遊んでくれなかった。猫じゃらしを振っても目で追うだけだし、撫でても抱き着いても何も言わないのである。
引っ掻かれこそしなくて済んだものの、わたぼーが私を世話しているのか、私がわたぼーの世話をしているのか、分からなくなるくらいだった。
そんなわけで、私は遊び相手を求めて、公園までの外出をねだるようになった。
母は困ったような顔をして言った。
「公園には野良の犬猫だっているんだし、お義母さんだって大変でしょう?」
「ううん? 私は運動にもなるし、他の子と遊べないようじゃ、後で困るわよ?」
何がどう困るのかは私には分からなかったが、ともかく、公園で遊ぶ許可が出た。
それからの私は、学校から帰ると、祖母と一緒に公園に行くようになった。するとなぜか、わたぼーも後からついてくるようになった。それまでは動こうとしなかったのに、公園に行くとなると動くのだから、私は面白くなかった。
もっと面白くなかったのは、初対面の他の子たちと仲良くなれたのが、わたぼーがついてきてくれたおかげだったことだ。
わたぼー自身が特に何かしたわけではない。ただ祖母と、私と、私たちの後ろからついてくる綿毛の塊のような猫の組み合わせが、他の子供の関心を引いたのだ。
不本意な形ながら、私は公園で友達を得た。
公園に行くようになると、私はわたぼーの新たな一面を知った。
わたぼーは祖母がベンチに座るのを待ち、ふわりとベンチに飛び乗るのだ。それまでマトモに動くところを見ていなかったので、初めて見たときは驚いた。わたぼーは実は動けたのかと、悔しくなった。
とはいえ、一度ベンチに乗ってしまうと、わたぼーはいつもと同じになった。つまり、祖母の隣で丸くなり、じっとしているのである。以降は私が遊び疲れて戻るまでずっと、祖母の隣で丸くなっている。
毎日毎日そうなので、いつだったか、私は祖母に聞いた。
「なんでわたぼーは動かないの?」
「良い質問ね。わたぼーが動かないのは、たんぽぽから生まれた猫さんだからなの」
一瞬、私は言葉を失った。祖母は私のことをしょっちゅう子ども扱いするので、また子ども扱いしているのだと思った。
だから私は、学校で教わった知識で、そんな嘘には騙されないと示そうとした。
「嘘だぁ。たんぽぽは植物で、わたぼーは動物だよ? 植物が動物を生むはずない」
「――でも、本当なのよ? たんぽぽの綿毛が、お家の庭まで、飛んできたの」
「綿毛? 綿毛って、あの白いやつ?」
「そう。綿帽子。綿帽子から大きくなった猫さんだから、わたぼーって名前なのよ」
私はどう答えたものかと悩んだ。祖母は優しい人だとは思う。けれど年寄りだ。
母がたまに父に言っていた。年寄りは子供を侮るものなのだと。
私はそれを知っていて、祖母を悲しませたくなく、話に付き合おうと努力した。
「わたぼーは、綿帽子から生まれたから、白くて丸いの?」
「お婆ちゃんもたんぽぽから生まれた猫は初めて飼うんだけど、そうなのかもねぇ」
そう言って、祖母は、わたぼーに微笑みかけた。つられて私も目をやった。
白くて、丸くて、ふわふわしていた。
私は、なんとなく、祖母の話が本当だったら面白いのに、と思った。
それくらい、わたぼーは丸々としていて、ふわふわしていたのだ。
しかし誤魔化されるつもりもなかった。いくら白くて丸くてふわふわしていても、仮にたんぽぽから生まれた猫なんだとしても、動かない説明にはならない。
だから、私は、祖母に尋ねた。
「でも、なんで動かないの? たんぽぽの綿毛は、空を飛ぶんだよ?」
「わたぼーも空を飛んでるじゃない。毎日」
どうやら祖母は、ベンチまでのジャンプを言っているらしい。
なるほど。たしかにわたぼーの飛び上がる姿は、空を飛ぶ綿毛のように軽やかで――いや。
それはたんぽぽから生まれた説明にはなるが、動かない理由にはならない。
「お婆ちゃん、嘘ついてるでしょ?」
「私が嘘をつくはずないじゃない。わたぼーは本当にたんぽぽから生まれた猫よ」
「……ホントに?」
「ホントに決まってるでしょう」
なら、と私は息を吸い込み、わたぼーのふかふかした毛に吹きかけた。
その瞬間、わたぼーはぎゅっと目を瞑った。顔の周りの毛が少したなびいた。
そして私の息が途切れると、くぁ、と眠そうにあくびをした。
腹が立った。だから今度は吹き飛ばそうと、大きく、大きく息を吸い込んだ。
だけど吹きかける寸前で、
「こら。可哀そうなことしないの。もし本当に飛んでっちゃったら、どうするの?」
と、祖母に怒られてしまった。飛んでいくわけがないのに。
わたぼーはふいに頭を上げると、私の目を見て、ゆっくりと瞬いた。
私はバカにされたような気がしてムっとしたのだが、瞬き返してやった。猫がゆっくり瞬きするのは仲良くしたいときだと聞いていたから、わたぼーからの休戦の申し出だと解釈したんだ。
でも、わたぼーは私の瞬きを見て、またしても、くぁ、とあくびをしたんである。
「やっぱりわたぼーは眠いだけだよ! 飛んでったりするはずない!」
私はたまらず祖母に訴えていた。
祖母は困ったような顔をして、わたぼーを撫でた。うーん、なんて唸ったりしながら、かと思うと手を小さく叩いて、ごまかすようにいった。
「わたぼーはね? 待ってる間、お婆ちゃんが寂しくならないように、じっと丸くなって、風に吹き飛ばされないように、我慢してくれているのよ」
「……お婆ちゃん、本気で言ってるの?」
「もちろん、本気じゃないわ。ただ、本当のことを言ってるの。さっきだって目を瞑って我慢していたでしょう? いまも飛ばないように、頑張って丸くなってるのよ」
そんな話、信じられるわけがなかった。
だってわたぼーは、祖母の話を聞きながら、後ろ足で体を掻いていたんだ。
私は、いつの日かわたぼーが動かない理由を明らかにしてやる、と心に決めた。
けれど、いくら心に決めたとしても、そんな些細な話を覚えていられるほど暇でもなかった。
それは、私がわたぼー問題を忘れて友達と遊んでいた、ある日のことだ。
ベンチの祖母が手招きしていて、私はサッカーを切り上げなければいけなかった。
もっとも、すでに太陽は赤くなり始めていたし、一緒に遊んでいた友達もいつの間にか減っていて、皆が帰るのは時間の問題でもあった。
ともかく私がベンチに戻ると、祖母が言ったのだ。
「遊んでいたのに、ごめんね?」
「別にいいよ。皆も、もう帰るところだったみたいだし」
「そのことなんだけど、ちょっとの間だけ、わたぼーと待っててもらえる?」
「……ジュース買ってくれたらいいよ?」
「……仕方のない子ねぇ。あの子に似たのかしら? まぁ、いいわ。でも絶対にここを動いちゃだめよ? いいわね? 何かあったらすぐ逃げるように」
「もちろん! わたぼーと一緒に待ってるよ!」
ジュースを買ってもらえるのなら、いくらでも待っていられる気がした。
私はベンチに飛び乗って、わたぼーの背中を撫でた。白くて、丸くて、ふわふわしていて、奥の方では、もちもちしている。
いくら撫でてもわたぼーが動かずにいたから、例の疑問を思い出してしまった。
なんで、じっと動かないでいるんだろう。
ベンチから飛び降りた私は、わたぼーの顔に息を吹きかけてみた。
やっぱり、わたぼーが目を細めただけで、毛の一本すら吹き飛びはしなかった。
なぜ祖母は、たんぽぽから生まれた猫なんていう、変なウソを吐いたのだろう。
私は毛玉のような動かない猫を撫で――、
――ヴァゥッ!
突然、犬の鳴き声がした。すぐ後ろからだ。
ぐるぐる、唸っていた。恐る恐る肩越しに目を向ける。
公園に住み着いていた野良犬が、一頭、私に吠えかけてきていた。
私は迫力に慄いて、尻もちをついてしまった。しかも、立ち上がれなくなった。
食われる、と思った。
野良犬が私を見据えて、もう一度、吠えた。私の体は強張ってしまい、指の一本すら動かせなくなった。
すると、わたぼーが、ふわり、と野良犬の前に飛び降りた。
後ろ足を伸ばして、普段は見られない姿勢になった。短い尻尾が垂れていて、白い体毛の一本一本が、緊張がしていた。
ふやぁぁぁぁぁ!
という、今まで聞いたこともないような甲高い声をあげ、じり、じり、と右の前足を上げていく。私にも、わたぼーと野良犬が、牽制し合っていると分かった。
野良犬は唸りながら僅かに下がり、ぎゃんと威嚇した。
同時。
わたぼーが吠えた。
猫だから、吠えたというより鳴いたのだろうけど、
私は吠えたと思ったんだ。
わたぼーの短い尻尾が逆立って、綿毛みたいに、全身がぼわっと膨らんだのだ。
次の瞬間、わたぼーは野良犬に躍りかかって、首に噛みついていた。
ただ、野良犬の方も大したもので、わたぼーの噛みつきはすぐに振り払われてしまった。しかもすぐに追いすがり、食いつこうと首を伸ばしていた。けれど、
ぎゃん! とあがった悲鳴は野良犬のものだった。
それは、明らかに悲鳴だった。
わたぼーの高速パンチが、野良犬の鼻先に命中したのだ。
それで怯んだのか、野良犬は私とわたぼーを交互に見て、一目散に逃げだした。
助かった。そう思った。けれど腰が抜けて、立てなくなっていた。
わたぼーは、そんな私をバカにするかのように、じっと見つめて瞬いた。
呆気に取られた私は、瞬き返すくらいしかできなかった。
騒ぎを聞きつけたらしい祖母は、大慌てで戻ってきて、私に言った。
「大丈夫!? ケガは!? 犬はこっちにいるだなんて、あの人たち嘘ばっかり!」
「うん。大丈夫。わたぼーが助けてくれたんだ」
「ああ! 良かった! 良くやったわね、わたぼー!」
祖母はそう言って、私をベンチに座らせた。
それを見ていたわたぼーが、ふわりと、風に乗る綿毛のようにベンチに上がった。
私はつい先ほど目の前でみた光景を、興奮しながら祖母に話した。
わたぼーがパンチしたんだ! 猫が犬に勝つなんて!
すると祖母は、わたぼーに微笑みかけた。
「わたぼーが野良犬なんかに負けるはずがないじゃない」
「え? だって、わたぼー猫だよ!? 猫が犬を追っ払ったんだよ!?」
「わたぼーはたんぽぽから生まれた猫だって、そう言ったでしょ? だから子供をイジメる野良犬になんか、負けるはずがないのよ」
「え……え?」
まるで意味が分からなかった。たんぽぽから生まれた猫だからって、なんで犬に勝てるのか。たんぽぽなんか、猫より弱そうなもんなのに。
祖母は私の頭を撫で、空を見た。夕暮れから夜になろうとしていた。
「実はね? たんぽぽは、ダンディライオンとも呼ばれているの」
「ダンディライオン?」
「そう。外国の言葉で、ライオンの歯って意味があるのよ?」
「えと……ライオンの? 歯?」
「ライオンが犬なんかに負けると思う?」
いくら私が子供でも、ライオンくらいは知っている。動物園にも連れて行ってもらった。歩く姿……や、鳴き声……は見聞きしていないけど、だいたい分かる。
たしかにライオンなら野良犬なんかに負けないだろう。
でも、それはライオンが大きいからだ。
そりゃ、たしかに、わたぼーも大きくなりはした。でも、とてもじゃないけど、ライオンほど大きくなったわけではなかった。
でも、もしかしたら。とは思う。
ライオンは猫に似てるねって話は、したことがある。
「えと……わたぼーはライオンから生まれたの?」
祖母は、あっさり、首を左右に振った。
「たんぽぽよ。そう言ったじゃない」
「えと、タンポポは、ライオンなの……?」
「とにかく。わたぼーにちゃんとお礼を言うのよ? それから、もう、ふーって吹いたりしないこと。飛んで行ったりしたら、困っちゃうでしょ?」
「え、えぇ? えと、うん。分かった」
私はベンチから降りて、わたぼーと目を合わせた。
「助けてくれてありがとう。わたぼー」
わたぼーは、くぁ、とあくびをした。
あぁ、なるほど。と私は思った。
そのあくびは、動物園で見たライオンに、そっくりだった。
それなら、動かないのも、よく分かる。
わたぼーは、たしかに、たんぽぽから生まれた猫らしい。
わたぼーはたんぽぽから生まれた猫だという λμ @ramdomyu
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