僕が脳味噌だけになってしまってから
ダリ岡
第1話
僕が脳味噌だけになってしまってからもう数年が経つけれど、別段悲しいとも苦しいとも思ったことはない。外の世界に触れる必要のなくなった世界というのは想像以上に快適で、こういう生き方を選ばない人たちはいったい何が楽しくて毎日毎日つまらない会社勤めをこなしているのだろう、と不思議でたまらなくなる。
人体バンクに登録したのは僕が二十九歳のときだ。臓器バンクでも
当時、十年近く無職のままで過ごしていた僕は、人体バンクの登場と共に即座に登録を済ませた。提供可能と指定した部位は、肝臓、
より正確に言えば、
〝意識さえ残してくれれば、それでいい〟
というのが僕の表明した提供意思だった。他に類を見ないケースだったそうだけれど、人体バンクの連中は特に
両腕と両脚、それから顔面の皮膚と肝臓を取られたところまでは見たけれど、その後目の玉をくり抜かれてからは確認のしようがなくなった。別に怖くはなかった。全身を余すところなく焼肉の材料にされる牛になったような気分だな、とか、そんなことをぼうっと考える余裕さえあったほどだ。
やがて
まあ、僕がどういう見てくれで生存を続けているかなんていうのは、考えるに足る問題じゃない。どうでもいいのだ。意識だけがあれば、あとはどうでもいい。
灰色の
僕の、思い通りになる世界を。
再開しよう、と思って意識を集中させると、目の前に学校の風景が浮かび上がる。とっくに両目とも失っているのに「目の前」というのも妙な表現だけれど、これは要するに僕のイメージの光景が鮮やかになっていく、という話だ。
例えて言うなら、夜見る夢を自在にコントロールしている状態。僕にはそれができた。もうずっと前から、そういう技術が僕にはあった。
十年近くの間、空想の中だけで生きていたから。
高校卒業とともに就職し、三ヶ月も経たないうちに退職し、それからずっと――人体バンクに登録するまで、本当にずっと、一歩たりとも家の外に出なかった僕だからこそ、簡単に使いこなせる能力。それがこの、恐ろしくリアルな空想世界を生み出す力だ。
今はこの空想世界の中で、僕は学校中の人間から一目置かれているバスケットボール部のエースになっている。教室に入ると大勢の友達が「おはよう」「おはよう」「おはよう」と笑顔であいさつをよこし、特に僕にむらがる女子たちといったら日に日に数を増していくばかりで、「ねえ、昨日の宿題のここのとこ、よかったら教えてくれない? 私全然わかんなくて〜」と見え
女の子たちの甘ったるい体臭が、本当は存在しない僕の
その日僕はいつものように、授業中は難しい問題にさらりと回答し続けて教師たちを
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
みみなりみたいなおとがした。
ベッドでブラウスをぬいでいるとちゅうのかのじょが、かたまったぼくをみてきょとんとめをまるくする。
なんなのだろう、これは。あたまにかんじがうかばない。
かんじ。かんじって、どんなのだっけ。
かんじをかんがえるちからだけ、だれかにぬきとられたような――
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
またおとがした。かのじょはぼくのこかんにそっとてをのばしていたけれど、ずぼんのなかにあるぼくのあれはふにゃんとやわらかくなっていた。かのじょがぼくのてをごういんにつかみ、あらわになったじぶんのむねにおしあてても、やっぱりぼくのあれはふにゃふにゃのなまこみたいになったままだった。
そもそも、なんでぼくは、かのじょをおしたおしているんだっけ。
ああそうか、セックスだ。
セックス。りくつではわかる。なにをすることなのか、りくつでは。
でもなぜかぼくは、それがきもちいいことだとはすこしもおもえない。
よくじょうするというかんかくだけ、だれかにぬきとられたような――
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
またおとがした。かのじょのかおがぐにゃ、とぼやけて、のっぺらぼうみたいになった。へやのまどにうつったぼくのかおもまったいらなはだいろになっていて、どんなひょうじょうをうかべているのかぜんぜんわからない。
ひょうじょう。そういうものがにんげんにはある。それはわかるのだけれど、でもぐたいてきにどういうしゅるいのひょうじょうがあって、それがどういうかんじょうをあらわしているのか、いまのぼくにはさっぱりわからない。
ひょうじょうをりかいするちからだけ、だれかにぬきとられたような――
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
おとがするたび、ぼくのなかから、いろいろなちからがなくなっていく。かんがえるちからとか、かんじるちからとか。ぼくをとりまくせかいは、いまはもうぐちゃぐちゃにつぶれたまっくらなくうかんになっていて、たぶん、かたちとかえいぞうとかをいめーじするちからももうのこっていないのだろうなときづいてしまう。
だれかがぼくから、ぼくののうみそから、ちからをうばっているのかな。
じんたいばんくのやつらかな。
ぼくのからだだけじゃなくて、ぼくのちからもちゅうしゅつして、だれかにわけあたえているのだとしたら。
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーー
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーー
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ぼくはもうあたまぐるぐるになってことばもうまくでてこない。まっくら。あたりぜんぶまっくらでこわいとかつらいとかのきもちもばー、ばー、ばー、ばー、っていうかんじだからたぶんぼくはもうぼくじゃないんだろう。でもまっくらなせかいはまっくらまっくらなままでいちおうそこにはずーっとずーっとあるのはなんでだろうなんできえないのかなとおもっていたら、ぼろぼろになっていくぼくのあたまのなかにふわっとうかんだそのことばは
”いしきさえのこしてくれれば、それでいい”
ああそうだそれいった。じんたいばんくのやつらやくそくはまもっているみたい。ある。いしき。いしきはある。かんがえるもかんじるもりかいするもなにもなくてでもいしきはあるからぼくはいしきだけのいしきだけがきえないあれになって
びぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーー
あー。
あー。あー。あー。あー。
あー。あー。あー。
あー。
僕が脳味噌だけになってしまってから ダリ岡 @daliokadalio
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