Lie of Lifetime

雨川りんご

Lie of Lifetime

なんとなく死にたくなって、屋上への階段を上っていた。死にたくなった、と言ってもべつにいじめられているわけではないし、勉強についていけないわけでもない。家庭環境だってごく平凡だ。だから死にたいわけではないのかも知れない。でも生きる理由がみつからない。生きているのは疲れる。死んでしまったって、かまわない。


屋上までの階段は長い。少しだけ息が苦しい。そう思って息を吸おうとすると、ふいに階段が途切れた。顔を上げると、目の前にドアがあった。教室についているものとは違う、金属製の圧迫感のあるドアだ。これを開ければ屋上だろうか。


背後からかすかに、能天気なチャイムの音がきこえた。6時間目の始まりのチャイムだ。けれど授業なんてものは、大して重要ではない。教室に僕1人いなくなったところで問題になったりはしないだろう。それに死んでしまえば、僕にはなにも関係のないことだ。


冷たいドアノブに手をかける。鍵がかかっていたらどうしようか、と一瞬考えたけれど、ドアノブはなんの抵抗もなく回った。


11月の風は冷たい。上着を着てくれば良かったな、と思った。セーターだけでは少し寒い。でも寒いなんてことは大して重要ではない。僕は今から死ぬのだから。


ゆっくりと歩いて、柵に手をかける。金属製で、冷たい。体温が奪われてゆくのがわかる。高さは胸のあたりまでしかなかった。これならあまり苦労せずに乗り越えられそうだ。


空を見上げる。とても綺麗な空だ。雲が見当たらない。空に雲がないと、空気が澄んでいる感じがする。澄んだ空気に体温を奪われるのは心地が良い。

太陽は優しく、温度のない光を放っている。


風に当たりながらぼんやり空を眺めていると、かすかに階段を上がってくる音がきこえた。とん、とん、とん。足音を刻みつけるようなリズムだ。やがて、足音は静かに止まる。それから、大きく深呼吸をするくらいの間、背後にあるドアは何かを躊躇うように沈黙を保っていた。


そして、キィーと静かな音が響いた。足音は3歩ほど進んで、僕の真後ろで止まる。リズムはゆっくりだけれど、軽い足音だ。女の子だろうか?


それから、奇妙な沈黙が流れた。足音のことなど、忘れてしまいそうなくらい長い時間だ。いったいどうしたのだろう?僕は仕方なく、音を立てないように慎重に深呼吸して、振り返る。


立っているのは髪の長い女の子だった。彼女は少し目を見開いて、驚いた顔をした。顔に見覚えはなかったけれど、瞳がとても綺麗だ、と思った。リボンの色が同級生たちとは違うから、たぶん上級生だろう。


「あの」


少し掠れた声で、彼女は囁いた。


「寒く、ないの?」


少し考えて、僕は答える。


「とても寒い。上着を着てくればよかったです」


上手く笑えただろうか?あまり自信がない。


「あげようか?」


と、彼女は自分の上着を指差して、微笑んだ。


「そういうのは、僕が貴方にやるものじゃないですか?それに、冷たい風に当たるのも気持ちが良いです」


僕は笑った。たぶんとても自然に。少し体温が上がった気がした。


「風邪、引かないようにね」


「はい。気をつけます」


彼女が微笑む。鼓動が速くなるのが分かった。彼女の声は柔らかくてあたたかい。僕は、とても自然に、彼女に好意を抱いていた。


「ねえ。君は星座占いとか、信じてる?」


彼女は少し首を傾ける。どういう意味だろう。


「朝のテレビ番組でやってるやつですか? 僕の家ではあまり朝にテレビは観ないけど、僕は、ああいうのは良いことだけ信じるタイプですかね」


「うん。私も、そうかな。今日の占いは良いことだったから、信じることにしたの」


「へえ、どんな内容だったんですか?」


彼女は大きく息を吸う。柔らかそうな髪が風に吹かれて揺れる。


「こんな感じ。『屋上で風に当たってみましょう。もしかしたら、運命の人に会えるかも?』」



時が止まったようだった。彼女は微笑みを崩さない。息ができない。心臓の鼓動を感じる。こんなのは夢だ、と思った。でも夢ではないということも分かっていた。何か言わないといけない。でも、何を?分からない。ふいに口から出てきた言葉に、自分でとても驚く。


「何座なんですか?」


そして、言い終わって、気づく。そう、僕は彼女に嘘をつくのだ。


「わたし?ふたご座、です」


僕は笑う。


「僕もです。僕も、ふたご座です」


僕は彼女に歩み寄る。彼女の頬が、少し赤く染まった気がした。









朝ごはんは1人だった。わが家では、特に珍しいことではない。大学生の兄は私が家を出た頃に起きてくることが多いし、父が家を出る時間は日によってまちまちだ。母はいつも私が朝食を摂る間、私の弁当を詰めている。母が「食べ終わったらテレビ消しといてね」と台所から言うのが聞こえたので、味噌汁を啜って返事に変える。


塩気の多い味噌汁を飲み干し、テレビを消そうとするとちょうど12星座占いをやっていて、ちょうど1位の発表をしているところだった。1位はいて座で、新しい趣味を始めると良いらしい。趣味というのはそう簡単に始められるものだろうか。次は最下位のようだ。無意味な「どよーん」という演出が煩わしいが、みる必要もないのについ目が離せなくなってしまった。何座だろう、と思っていたら、なんとふたご座、私の星座だった。とても不愉快だ。そういうのはもううんざりだった。内容をみもせずにテレビを消す。こんなことなら、さっさと消してしまえば良かった。もともと学校に行くのは憂鬱なのだ。


5時間目が終わって、教室の息苦しさに耐えられずに廊下を行くあてもなく歩きながら、6時間目の始まりのチャイムを聴いた。これまでにも、こうやって授業をサボることがあった。そんな時は、決まって屋上へ行く。


どうして屋上へ行くのかは、自分でもよく分からない。この時期、屋上はとても寒い。強いて言えば、死を連想させる場所だからかもしれない。死にたい、とよく思っていた。昔から色々なことがあまり上手くいかないのだ。でも本当は、たぶんそんなのは嘘なのだろう。だって、今まで何度も屋上に来たけれど、実際に飛び降りたことなんかない。ただ生きる理由が分からなくて、屋上に八つ当たりをしているだけなのだ。


屋上へのドアの前に立つ。見慣れたドアだ。ドアノブに手をかけて、少し躊躇っていた。何を? 分からない。今更、授業をサボって屋上に来ることに罪悪感をおぼえているのだろうか。そうかも知れない。私は臆病なのだ、と思う。授業をサボることに罪悪感をおぼえるように。死にたい、と呟くだけで、決して実行はできないように。


ドアを開くと、冷たい風が吹きつけてきた。空には雲ひとつ無い。空気が澄んでいた。前方でなにか黒いものが揺れている。よく見ると、それは男の子の髪の毛だった。細くて柔らかそうな髪だ。でも、どうしてここに生徒がいるのだろう。


傾きかけた太陽をバックに、柵にもたれかかって空を見上げる男の子は、端的に言ってしまえばとても綺麗にみえた。上着を着ていないので、とても寒そうだ。大丈夫なのだろうか。そして、ふと思う。彼は、もしかしたら死のうとしているのかもしれない。なんだか本当に、彼の後ろ姿は今にも死んでしまいそうにみえた。そしてなぜか、私にはそれがたまらなく嫌だった。


ふいに、彼は振り返る。大人びた表情だった。ネクタイの色を見る限りでは1年生だけれど、とてもひとつ年下にはみえない。


「あの」


うまく声が出ない。とても緊張していた。


「寒く、ないの?」


彼は微笑んで、答える。透き通るような、優しい声だ。


「とても寒い。上着を着てくれば良かったです」


鼓動が早くなるのがわかる。ああ、私は。たぶん彼のことが好きだ。誰かに対してこんな感情を抱くのは初めてだった。


「あげようか?」


「そういうのは、僕が貴方にやることじゃないですか?それに、冷たい風に当たるのも気持ちが良いです」


彼は笑う。とても綺麗な笑みだ。


「風邪、引かないようにね」


本当に。彼に風邪なんか引いてほしくはない。


「はい。気をつけます」


次にそれから私が口に出した言葉には、自分でも驚いた。


「ねえ。君は星座占いとか、信じる?」


どういう意味だ? 私は彼に、何を言おうとしているのだろうか。彼に愚痴を聴かせる? あまりに馬鹿げている。


「朝の情報番組でやっているやつですか?僕の家ではあまり朝にテレビは見ないけれど、僕はそういうのは、良いことだけ信じるタイプですかね」


ああ、もしかして。わたしは嘘をつくのかもしれない。臆病な私は、嘘くらいでしか彼を救うことができないのだから。いや、たぶん彼を救うのではない。私は自分が救われたくて、彼に嘘をつく。


「うん。私も、そう。今日のは良いことだったから、信じることにしたの」


「どんな内容だったんですか?」


とても緊張していた。大きく息を吸う。なにかを誤魔化すために。


「こんな感じ。『屋上で風に当たってみて。運命の人にであえるかも?』」


まったく、なんて嘘だ。滅茶苦茶だ。ふつう朝の星座占いはこんな風に具体的なことは言わない。それに彼は私を傷つけない答えを探そうとして、困ってしまうだろう。彼はとても驚いた顔をしていた。


「何座なんですか?」


何座?どういう意味だろう。


「わたし?ふたご座、です」


すると彼はふいに、笑う。


「僕もです。僕も、ふたご座です」


息が詰まる。顔が熱くなるのが分かった。どうして。物事がこんなに都合良く進んで良いはず無いじゃないか。こんなのは夢に決まっている。でも、夢ではないということも分かっていた。彼がゆっくりとこちらに歩み寄る。彼の手に触れた。温かくはない。けれど、温度のある掌だった。彼に、いつかきちんと、今日のは嘘だったと言えるだろうか。彼が笑って許してくれたなら、嬉しい。









僕は彼女の手をとって、階段に続くドアに向かった。彼女の手は冷たくて、でもたしかに温度のある掌だった。屋上は少し寒い。彼女が風邪なんか引かないように、暖かい場所に行こう。そして、いつか、彼女に今日の言葉は嘘だったんだと伝えよう。彼女は、どんな顔をするだろうか。もし笑って許してくれたなら、嬉しい。







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