海の風は沖へ

 宏樹は暗闇を歩いていた。自動車が減速しながら近付いて来た。彼はペットボトルのキャップを回して無理矢理水を自身の内奥へ流し込んだ。随分と温くなってはいたが、幾分かの冷たさは残っていた。車はゆっくりと、目の前を通り過ぎて行った。風もなかった、音楽だけが取り残されて、月のない空間にやがて溶けていった。白線が頼りなさげに伸びていた。彼は切望と衝動の歪みの中を静かに歩いて行った。

 歌は掴むものじゃなくて何も掴めなかった空の役立たずの手の皺から滲み出る何の役にも立たない汗とそこに流れる一滴一滴の音のない涙の構成物だから、歌や言葉が湧き出て来るのを抑えたかったら手首を今すぐ切り落とすしかないんだ。寄せ集めの光がその皺を伝って落ちていったら、次の汗は次の涙はどんな絶望を纏って手に溜まるのか。何がそれをそこに止めるのか。

 夏の夜に自動販売機の灯り、スマホの灯り、白と黒。

 月の見え隠れする毎日と反響して戻って来る歌声、風のささやき、道と家。

 宏樹はずっと雪観のことを想っていた。でも彼の紡いだ女性は彼女ではなかった、彼女であり得る訳がなかった、彼の手には何も掴まれていなかった。その手の空虚を彼が知ったのは随分と最近のことである。

 小さな残響がスタジオに漂うのであった。彼はそれを不思議に思うのであった。見渡す限り広がる大海原、それと瞬時に切り替わるライブハウスの熱狂、人々の頭、その真ん中で力強く発せられる歌声。これまで目に映っていた景色に不意に発生して昇って消えるうたかた。煙みたいに、目を閉じると身体の横に浮かび上がって、目を向けると消える影。何でもない様な言葉が不意に思い出されて、何度もそれが続くものだから、宏樹はこれまで歌っていた歌を一度止めてみねばならなかった。すると確かに聞こえたのである。これまで歌ったことも聞いたこともない、しかし瞬きもせぬ間に顔面から取り込まれて自分の中をめぐる静かな歌が。自分の歌を自分が歌うことは、この流動に身を任せることなのかもしれない。その歌声を信じるしかないのではあるまいか。それを手から流れゆくまま、放出するしかないのではあるまいか。

 それは綺麗な歌だった。綺麗なものを反射しているから綺麗なのだ。その歌を宏樹はまだ歌えない。その歌は静かに宏樹の中をめぐっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユーカリ 天池 @say_ware_michael

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ