光射す花のかぐわしさ

 ――ネパールカレーの上の、スプーンを入れた数だけ滑らかに崩れている優し気で暖かい模様。宏樹さんは黒いキャップを被ったまま、静かに大きなナンを頬張っている。紛れもなく私は今、この人と同じ時間――ときに滑らかに形を崩し、ときに結合してたえず流動する主体的な時間――の中にいる。それを身体全体の器官を以て受け入れ、また受け流している。しかしそれは店の内部の時間をいう訳ではない。本屋の中で棚に並ぶ一冊一冊の本が静かに秘めている、世界を孕んだ時間にも似たそれは、この人のキャップのツバが光を遮って造り出す、水たまりの様な輝きの内部でのみ感受することの可能な時間。――

 雪観はこれまで、宏樹や彼と過ごす時間・空間に対して、この様に特別な安らぎを感じ、驚きを培養させたある種の恍惚へまで至る様なことはなかった。刻々と変わる風景の中に隠されていた全く未知の階段を、彼という存在の中に発見した様な気がした。それは蠱惑的な階段だった。森厳な階段だった。

 その日の宏樹に秘められた未知の精神は、元あったあのいたずらっ子的な、利己的さの突出していて芸術的だった小さな竜巻を消滅させて成立したのか、それともその周りを何かでかたく固め、無理矢理に誘惑的な静けさを獲得したのか。どちらにせよそれは彼の内的営力の産物なのであった。雪観はその結晶の寡黙なきらめきに近づき過ぎぬ様注意しながらも、気が付けばそっと手を触れようとしていたのだった。その瞬間、広い洞窟内にはその二つの意思が、運命への願いが音もなく充満し、他のものの入り込む余地はなかったと断言出来た。暗さに広がる乳白色の湖は、一人或いは二人の人間に愛を確信させるに最適な場所ではあった。

「体調は、もうすっかり大丈夫なんですか?」

「うん。もう大丈夫だよ。曲作りもちゃんとしてるし」

 宏樹が落ち着き払った口調で言うと、雪観は不意に宏樹の音楽性が恋しくなり身震いした。この人の想いや本質的な願望に、自分は全く目を向けて来なかったのではないか。そんな具合に驚きが次から次へと湧き出て来て化合する。

 三日前、雪観は風邪で、宏樹は熱中症で倒れ、それから二人とも家で休んでいたので、ネパールカレーは特別美味しく感じられた。しかしながら、宏樹の「静けさ」というものが、雪観にとっては何よりのスパイスとなっていたので、カレーの味はいくらか変質をしてしまっていたかもしれない。

 ぴちゃり、ぴちゃりと雪観の首筋から洞窟に垂れる溶けた石灰岩は、自身の営力の証拠として今まさに生まれ変わりのさなかにある複合体を近くに求めていたのかもしれない。そして、それに逆らう様な大胆な空間の歪みは、もしかしたら彼女に蓄積された古い層の導きなのかもしれなかった。人は自身の潜在意識と呼ばれる様なものを思いがけず知ったときに何とも言えぬ感動を覚えるが、それはこうした分かりにくいけれども圧倒的な、絶対的だとさえ言える「力」「志向」を初めて目にするからなのであろう。それが静かなる風の形を持っていた場合、呼吸と不可分だろう。それが時空のゆがみを身にまとっていた場合、記憶と不可分だろう。

 ――ところが、雪観の宏樹に関する見解は些か間違っていた。彼の竜巻は彼自身が消滅させた訳でも彼自身が包み込んだ訳でもなく、それは外界の事物に対して起こっていた無意識的な反応に彼が気が付いたことによって一気に生じた自己改革的追求運動――即ち化学変化であった。彼の本質的な願望とは、いまや少しでも雪観に近づきたいという呼吸の震えなのであった。彼の中に流れる音楽とは、いまや形而上的な自己批判と振り上げた手に感触を求める切望の歌なのであった。

「雪観さんは、僕が持っているものを何か知っていますか」

 宏樹はスプーンを不意に置いて、雪観の皿を見る様に尋ねた。

「持っているもの――ですか」

「何か僕に感じたり、求めたり――ごめん、別に変なことを言わせようとしている訳じゃないんだ、何か僕について知っていることを教えて欲しいんだ。それが本当の意味で僕なのか、僕には分からない。だけど、雪観さんが何か感じてくれるのなら、たとえもう立ち戻れない軌跡であったとしても、僕は大切にしたい」

「私はそれに、今日気が付いた気がします。宏樹さんに感じるもの、それを求める自分を不意に発見するもの。それはあなたの、その心です」

「心。今の僕の心がそう見えるのなら、それはあなたの反射かもしれないけれど」

「いいえ、私今日、宏樹さんを始めて間近で見ました。きっとそうです。これまで私は、目に見えない隔壁の外側から聞こえるあなたの声をさほど大切には思っていませんでした。声の聞こえる方へ近づこうとしない自分がいました。でも今日の私は、なんだか霧の中にいるみたい、あなたの声がずっと近くで聞こえます」

 雪観は「志向」の動揺をひとまず抑え込もうとでもするかの様に目の前のナンをちぎった。仄かに香る焦げ目の香ばしさが、何らかの決定から予想されなかった方向へ一歩を踏み出した雪観を援助する様だった。

「雪観さん、僕はあなたに必要とされたい。やっと気づいたんだ」

 残り少なくなったカレーに雪観が再びスプーンを入れると、宏樹が囁く様に――そしてそれは、他の一切の音声を遮断した――言った。

「必要としますよ。というか、もう恐らく」

「じゃあ僕も、あなたを必要として良いかな」

「ええ。もちろん」

 特別な意味を持った言葉のやり取りが交わされた後、辺りの装飾は次第に引き剥がされ、今日初めて互いの顔を見た二人の人間は砂浜に取り残された。聖別というのが恐らく対象の神格化である以上に自身の神話化であるのと同様に、彼等は互いに放った言葉の反射を存分に取り入れ、消化し、身震いした。雪観の額から、小さな汗の粒がつうっと頬をつたって、顎から落ちた。

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