岩肌の風
香菜は外を眺めていた。向かいの壁は止んだばかりの雨に濡れていた。ペンキのほんの少し溶けた匂いが漂って来る気がした。錬はスマホを机に置いた。
「やっぱり病院行ってみることにするよ。香菜も行く?」
「うん。そうだね」
香菜がぴしゃりと窓を閉めると、風が分断される音がした。
宏樹が熱中症で倒れたという知らせをジョーからうけて、錬はすぐに本人に連絡を取った。スタジオで朝から三時間曲作りをした後の帰り道で急に倒れたのだという。意識はすぐに取り戻したのだが、他の二人で肩を貸し近くの病院へ向かう途中で雨が降り出して大変だったらしい。本人は今点滴を受けていて、もう大丈夫だから心配するなと言っているが、まだ昼過ぎだというのにへとへとだろう他のメンバーを労う為にもお見舞いに行くべきだろう。
宏樹は体があまり丈夫ではなく、頻繁に体調を崩すので風邪薬を日常的に摂取している。それでは効き目も薄いのではないかと錬は一度言ったことがあるが、安心感が違うのだと返された。アパートの階段を香菜と一緒に下りながら、錬は彼等と知り合って間もない頃のそんな会話をふと思い出した。
雨上がりの空気は日光を包み込み、特にここ数日猛暑が続いたから比較的涼しいとさえ感じるが、熱中症というのは急に襲って来るものらしいので恐ろしい。香菜は黒いワンピースを着て腕を露出させているが、錬は真白な長袖の服に黒いタイトな長ズボンといういでたちだった。
人気のない細い道を二人で歩いていると、左右の家々はごつごつとした岩の連なりになって、そこに川が流れた。地下鉄の駅へ近づくにつれて川の水は寄り集まって、三車線道路は大河に変わった。蒼穹を反射しながら過ぎ去る車はまるで自動運転の無人船、行き先はどこかの森か砂漠。駅の階段を下るときも左右はやはり透明な水が静かに取り囲み、その一段一段は本当は何キロもの道程の先取りで、まばらに樹林や古代遺跡を覗き見ることが出来た。錬はその景色を香菜と共有していることを一秒たりとも疑わなかった。象のひと鳴きが空間に轟けば、電車が呼ばれた様にやって来た。
「お疲れ様だね、朝っぱらから」
錬がカーテンで仕切られた病室内の椅子に並んで座ってサイダーを飲んでいる江藤孝一とジョー、そして大人しく点滴をされながら横たわっている宏樹に声を掛けると、宏樹は照れ臭そうに横を向いた。
「香菜ちゃんまで来なくても良かったのに。元気?」
「元気です。毎日びっくりするくらい暑いんですから、身体大事にして下さいね」
終演後に大雨が降ったライブの翌日、香菜は錬達の打ち上げに参加して宏樹達ともすっかり打ち解けていた。
宏樹はそれ以降、しばらく無言になり、錬達が声量に気を付けながら歓談を始めて少ししたとき、急に話し始めた。
「僕は、――僕は、何かに奉仕する気なんてさらさらないんだ。ただ自分の歌いたいことを歌っていたくて、それだけなんだ。だからもしかしたら、僕は一人、カプセルの中で大声で歌っているだけの人生でも満足なんじゃないかな、結局のところそれが僕のすべてなのかもしれないな、って考えると、悲しくなった。それで気が付いたら――倒れていた」
「宏樹、少なくともお前の歌は、僕達の間に響いているよ」
錬は体中の感覚器を曝け出す様に言った。点滴はもう最後の数滴が時を名残惜しむ様に落ちているだけだった。宏樹は真っすぐにじっと香菜と錬を見詰めていた。
「宏樹、もう大丈夫か?」
江藤孝一が声をかけると、彼は静かに頷いた。間もなく女性看護師がカーテンを勢いよく開け放って入って来た。腕の針を抜くと、赤い彼の血が消毒液の染み込んだガーゼに吸い取られ、小さな穴はあっという間に塞がれた。
「これでもう終わりになります。気分はどうですか?」
「良くなったみたいです」
「お大事にして下さいね」
看護師に礼を言って廊下へ出ると、窓の外で大きな雲が欠伸をしていた。錬は、一瞬でガーゼに吸収された彼の血が窓を眺めてる自分の目の端にこびりついていることを不思議に思った。
江藤孝一が見舞金だとかなんとか言って治療費を払いたがり、一人で会計の列に並んでしまったので錬達四人は列の横で待っていた。そのとき、診療室の方からスーツ姿の女性がやって来て、その姿を一目見た宏樹は驚きを露にした。しかし女性の方は、宏樹達の存在を認めるなりぱっと方向転換をして、二つ隣の列へ隠れる様に並んでしまった。何本もの蛍光灯が落とす光の下を数多の人々が行き交う病院の窓口で、そんな一瞬の出来事に気が付いた者は誰もいなかった。
自動ドアが開くと、想像していたのよりずっと熱い温風が五人の顔に容赦なく吹き付けた。外はすっかり炎天下だった。病院内部の自販機で買ったスポーツドリンクを仲良く片手に持ち、五人は並んで歩き出した。
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