高原に濡れる昼と夜
部長と何か話している雛田さんのポニーテールが音を立てて社内を循環するエアコンの風に冷やされている。今バチっと鳴ったのは換気の時間に迷い込んだ夏の虫が白い筒の中の灯りにおびき寄せられて電気ショックで殺された音。ぼうっとしているとあの虫の様に何かにおびき出され、室内の冷気にじわじわと体温を失われて死んでしまいそう。窓の下、東京の街では夏がいよいよ猛威を振るう中、雪観はこのところすっかり気が抜けてしまっている様だった。キャスター付き椅子を無邪気な子供の様に引いてみたり、回してみたり、ゆらゆらと無表情、ぐるぐると何かが不機嫌な音を立てている。目を通していた原稿を置いて、雛田さんのデスクを見た。机上にはPCの他に各種辞書やペン入れや朱入れを待つ原稿等が置いてあるが、よく整理されている。彼女の不在時に社内文書が配達されるときも、担当者もなんとなくそうしてしまうのだろうが、その整然とした世界の邪魔をしない様によく目立つところへそっと丁寧に置かれるので、見落とされることがない。その草原のひまわりの様なデスクの椅子がすっと引かれ、雛田さんが優雅に腰を下ろした。
「高橋さん、だいぶお疲れみたいですね。栄養ドリンク、飲みます?」
「ううん、大丈夫。そこまで疲れてないよ」
「そうですか。最近本当に暑くて、私は結構きついです」
雛田さんのデスクの一番下の引き出しには、栄養ドリンクの小瓶が何本か入っている。慣れた仕草でそのキャップを回し、思い切りよく瓶を口へ運ぶ仕草は象の水浴びにも似ている。少し上を向いて特別な液体を取り込むその動きで、雪観のデスクまである種の潤いを得た様だった。象の鼻や体からどぼどぼと滴る冷水に己の枯渇を不意に感じる。
「雛田さんはさ、どうしても上手くいかない様な気がして、もう何もかも嫌になっちゃって、それでも止めることの出来ないものってある?」
瓶をデスクに置いた雛田さんは、神妙な顔をして体の正面をこちらに向けた。
「ありますよ。というか、私にとってはこの仕事だってそうですし」
「この仕事?」
「はい。私は本に関わる仕事がしたくて、この職を選びました。でも作家さん達と接していると、ふと私がこの人達の生活の結晶たる文章に手を加えているのはどうしてなんだろう、そんな資格が本当に私にあるんだろうか、職の価値に見合う仕事を私は本当に出来ているんだろうか、って思ってしまいます」
「だからね、栄養ドリンクでも常飲しないと、まともな仕事が出来ないんです」
私は――私は、今一体誰と向き合っているのだろう。雪観は一瞬分からなくなった。
「でも、江藤さんのことを思えば少し気分も和らぐでしょう」
私は、何を訊いているのだろう。
「孝一ですか。そうですね。大切な存在です。確かに、私は彼がいるから辛うじて頑張れているのかもしれません」
そのとき、雛田さんの綺麗な頬の上で、水が弾けた様な気がした。知らない。私はこの子を支えている幸せも、この子の安らぎも、潤いも、何も持ってはいない。何も返す言葉を持っていないのに、私は一体この子の口から何を訊きたかったのだろう。
雨が降り始めていた。昼間は暑すぎて出歩けないということなのか、蒸し暑い夜の大通りには活発な人々の流れがある。流行りの映画の上映でも終わったところなのか、総合商業施設の自動ドアから沢山の人々が出て来て、波に溶ける。東京の大きな波に、一人一人が独自の意識を抱いて、押し出されて、すれ違って――風の流れに翻弄されつつ、今日も大勢の人が生きている。アスファルトから立ち上る雨の匂いが雪観達を丸ごと包み、黒いヴェールが西から東から一枚ずつ、この街の上空に重ねられていく。ああ、今日という日がこうして終わっていくのか。何もしなかったとさえ言える私の今日が。電線の複雑に交差する雪観のアパートの辺りに辿り着いた頃には、すっかり雨も本降りになっていたのだが、彼女は歩を速めることもなく、ただその黒い髪とスーツと腕を目一杯濡らしながら地面を踏みしめて歩いた。少し寒いとさえ思い始めて、気が付いたらライブハウスのステージを思い出していた。その瞬間、間違いなく世界はあの日のままだった。その大きく広がった空間の小さな点である雪観も、そのまま――。ただその世界には、コアラだけがいない様に感じられた。
――野心は胸に秘めるから強いのです。恋心は自分の内に閉まっておくから美しいのです。美しい物語が美しい感情一つでは成り立たぬ様に、私達は誰にも言えない営力の複合体として、そうであるが故に存在している筈なのです。――
お風呂に入って髪を乾かしてから、雪観はそんな文章を書いて、早めに電気を消した。
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