森の奥地へ、痕跡を追って 2
その部屋は小さなアパートの二階の真ん中にあって、形は綺麗な長方形、台所とトイレ、風呂場が辛うじて付いていた。窓の向こうには人が二人入るのがやっとだろうというくらいの小さなベランダがある。焦げ茶色に緑の混ざった様な色のカーテンは開けてあったのでベランダの床の白いタイルが玄関からでも確認出来た。コンパクトなエアコンが一台に可愛らしい背丈の冷蔵庫が一台、ベッド、それに焦げ茶色の机が一脚、同色の椅子が二脚。積極的に自炊をしている様子はないが、かといってコンビニ弁当のゴミやペットボトルが氾濫している訳でもなく、生活感というものが殆ど感じられない部屋、それがこの新人歌手の部屋だった。
香菜は昨日は予約していたホテルに泊まったので、今日はここに来る約束をしていた。
「ちょっとほこりっぽいね」
香菜が笑いながら言うと、錬は柔和な笑みを浮かべて、「そうかな」と言った。
壁紙は目立った汚れもない白のまま、電球も安定した光を供給しているのに、窓の外から雨上がりの暗がりの射し込む室内は、なんだか妙に薄暗く感じられた。
錬は冷蔵庫から150ミリリットルのペットボトルの水を取り出して、台所に二つだけあったガラスのコップに注ぎ、焦げ茶色のテーブルに置いた。水面が焦げ茶色の上に夜の静けさを閉じ込めてカーテンの様にゆらりと揺れる。
「着替え、どうしようか」
「私はこのままで良いよ。錬はお風呂入って来なよ」
「じゃあドライヤー持って来るよ。温風で無理矢理乾かそう」
香菜は錬の揺らす穏やかな温風にあたりながら、じっと窓の外を見詰めていた。錬の部屋の窓からはどんな景色が見えるのだろうと楽しみにしていたけれど、暗闇の向こうには別のアパートの壁が見えるばかり。肝心の部屋の中はというと、森でもなく、若い男の一人暮らしらしい有様でもなく、ただただ殺風景であるだけ。カーテンのあたりに立てかけてある黒いレスポールが妙に恰好良いけれど、まるで閉館後の美術館の展示の様な静けさがじめじめと輪郭をなぞる。次第にドライヤーの音が遠くなっていって、香菜は暗闇と静けさが逆転する様な奇妙な体験をした。
――錬?
――助けて。助けて
――どうしたの、ねえ錬、
――僕はこの部屋に、つまりは僕自身に、閉じ込められているんだ
――どういうこと、どこにいるの、錬、暗くて何も分からない
――ステージの上の僕は、所詮は消耗品なんだ、本当の僕はここにいる、ここにいる、それなのにどうしても僕はここを出られないんだ
――私が救い出してあげる、だからどこにいるのか教えて、手に触れさせて、
――誰も僕には触れられない。だってこれは僕の責任だから……
――私はあなたに寄り添うよ、その手を絶対に握りしめてあげる
――香菜、香菜なの?
――そうだよ、錬、錬
――ああ、香菜、香菜に会いたかった、ずっと香菜のことを考えていたんだ、香菜に愛されたい、永遠に二人でいたい、って……
――錬、私もそこへ行く、ここはどこなの
――森だよ
――こんなに暗くて怖いところがあなたの言う森なの?
――僕以外の人には見えないんだ……、きっとね
――錬、私あなたを助けたい
――でも香菜は、森に入ることが出来ない。僕の全部を知ってる訳じゃない……。僕の記憶、沈んでいかない記憶は僕が責任を取る他ないんだ。分かってるんだ
――熱い、熱いよ錬、熱い!
――香菜、逃げてくれ、僕以外の者にとってここは危険だ!
「香菜、起きて。髪の毛頑張って乾かしたけど、ちょっともさもさしちゃった」
暖かい胸の上から頭を起こして目を開けると、レスポールがぎらぎらと暗闇を反射させていた。
「私、寝てたの?」
錬が答えるよりも先に香菜はその肩に抱き着き、そのまま床へ押し倒した。
「もしかして寝ぼけてる?」
「寝ぼけてなんかいないよ。私ずっと錬のそばにいるよ」
眠そうな顔をしていた錬は急にしゃんとなって、口元をじわじわと綻ばせた。
「ありがとう」
「私も森へ入ってみたい」
「でもね、森は雷が落ちたりして危険なんだよ」
「それでも、錬を一人にしてはおけないもの」
香菜はじっと錬の眼を見詰めて、一つ息を吸った。
「一緒に暮らそう」
ざあざあと外で大雨が降り出した。
「うん。そうしよう」
机の上に置かれたままの二杯の水は、ただひたすらに自身の持つ冷たさとこの部屋の静けさを釣り合わせようとする運動を続けていた。時計の針は二時を回った。
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