森の奥地へ、痕跡を追って 1

 気の合うバンド。山川錬は彼等のことをそう紹介したし、それは彼等と錬がもう何度も同じステージに立って演奏を合わせて来ていることからも明らかである。そんな君川宏樹、ジョー、江藤孝一こういちからなるバンドの、まるでひとつの小さな体に押し込められた感情の、粘性を持った毒々しい固まりが、膨張してそのまま嗄れ声になったかの様な、絶妙に今に溶け込んだ破滅芸術を正面から受け止めながらも、川崎香菜はそのライブハウスの中の空気を台風一過の様に感じながら、ひとつの体に大切な風を匿う様にして、少しずつその遺構の整理を進めていた。彼女にとってそれは錬への義務であると同時に自身に対する責務でもあった。アートに正面から向き合うと言うことは、本当は二念を持たず、ただそこに信念のみを見据えて、自分の知っている自分というものにその処理を委ねることである筈だと彼女は考えていた。だから一刻も早く、自分の感情を真に理解し、自分を真に理解しなければならないのだ。彼のステージで歌う姿は素敵だった。その一音一音は香菜に生きるということの中で探し求める価値のあるもの、即ち生きる理由を見失ったときにふと舞い落ち、嘗て見えていた景色、今は忘却に覆い隠されてしまった景色を一目で思い出させてくれる様な希望をありありと示した。それは香菜がアートだと信じるものだったし、また錬の透明な心の象徴の様に感じていたものだった。彼の話す言葉は生まれる前から自分の持っていた肌の様にしなやかな言語と完璧に重なり合うものだと再確認出来たし、その眼は昨日重ね合わせた目線よりずっとぎらぎらと輝いて、屋根から滴り落ちる雨のかたみの様に優しくて、象の鳴き声の様に切実で、そして雄弁だった。香菜は道端の芸術にプロ画家以上の視線を傾ける性質の女性だったから、バンドの演奏を半分も聴いていなかったことを後からとても後悔したが、その感情はすぐに、川が流れていく様な流動芸術の読後感の元で存在感を流した。

 ばかとかあほとか、言ってやりたかった。アドリブでどんどん自分の世界へ入って行って、挙句その場でありがとうとだけ言って霧の中へ消えてしまうんだから。そして抱きしめてやりたかった。その骨が折れて皮膚は溶け合い、二人が一体になるまで。しかしそういった言葉は喉のところで堰き止められて引き返しを迫られ、そういった行動による主張も体が金縛りにあった様に固くなってしまったので無理だった。香菜に可能だったのは涙が零れ落ちそうになるのをほのかに口角を上げた無理なほほえみで止めることだけだった。並んで歩き出すと雨が降って来て、じきに大降りになったので香菜は助かった。傘のない二人は音の跳ね返るアスファルトの上を観念した様子でゆっくりと歩いて駅へ向かった。全身を濡らして電車に乗るのはためらわれたが、車内に人は少なかった。錬の家の最寄り駅で外に出ると、東京の夜の夏の雨はもう止んでいた。香菜はまるで錬の冷たい手に導かれて特別な世界――森――へ足を踏み入れてしまったかの様に思った。並ぶ電灯が道を示す暗い住宅街の区画には二人の他に誰もいなかった。香菜は錬の手を握りしめた。思った通り、雨の匂いをまだ含んでいる冷たい手だったのですっかり嬉しくなった。涼しい風が無断で立ち入ってはいけない森の木々が示す忠告の様にふと吹いて、香菜は隣の湿った服に体を密着させた。

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