草の上

 「メランコリー」という名のそのライブハウスに、続々と人が吸い込まれていく。雪観は財布からチケットを取り出し、チケット確認のエリアで目当ての歌手名を告げて仄暗い内部へ進んで行った。冷房が効いていて内部の実験模様を決して外へ漏らさないその空間はまるで食物か何かの貯蔵庫である。暗さは昨日の夜空の様、人々の黒々とした頭は本棚に並んだ文庫本の背表紙みたいな虚構を醸し、ひんやりとした空気はすっかり舞い上がってしまっている雪観の頭を冷却した。背の低くない雪観は前の人の髪の毛をじっと見つめながら、静かに過去の記憶――嘗ての彼女がラブレターに止めおこうとした記憶、あの日の教室、あの町の夜の匂い――を反芻して時間を過ごした。しばらくして空間内に響いていた音楽が止み、視界はさっと静謐に包まれた。雪観の頬がさっと紅潮した。その顔とステージを結ぶ透明で硬い通路の先に、まるで桜が散る様に、――滝壺に一夜にして春が訪れる様に、山川錬は現れて、生まれたばかりの静謐に音楽が着地、壁は溶けて靴は波に呑まれた。桜の花は景色を確かめる様に何度も目を閉じる雪観の前を涼やかに舞い落ち、波は何度も何度も、その魂を何とかして洗い流そうとするかの如くふくらはぎを殴打した。この時間は昨日までの生とは切り離された特別な時間だ。この空気、潮風に遠くの地の森の匂いが運ばれて来るかの様なさざめきは、こんなにも高遠な場所で、世俗を離れた詩人の海に落ちる歌声の様に辺りを包むのに、それは同時に、それが確かに持っている時間というものを感じさせた。終わる、一曲終わる、二曲終わる、終わる、一時間終わる、そうして空気は次第に入れ替わっていく。

「僕は、今音楽を奏でることによって、これまで生きてて来た全ての証拠を忘れる様に、拾い上げる様に、今の僕の生を実感しています」

 山川錬は、透明な水を口に含み、その感覚によってそれまで歌に供給され続けていた感情を言葉に変換し直す様にして話し始めた。流れ出した言葉に誰もが耳を傾けていた。ガーン、と雪観の頭の中でノートルダムの鐘の音。

「でも一度音楽を中断すると、自分は何かから逃げているんじゃないか、という気持ちがどうしても湧き出て来て、止まらないんです」

「僕は昔いじめを受けていました。あのときの僕が何を考えていたのか、僕にも分からないんですから、相当異質に見えたのでしょう。そんな昔の僕を知っている人が、この世界には何人もいる。いじめられていたときのことだけじゃありません。今とは考えの違っていた昔の僕、今とは言葉の違っていた昔の僕、今とは情熱の違っていた昔の僕。皆だって、一か月前の僕や一秒前の僕のことをよく知っている」

「世界に誰もいなかったら、ってよく夢想します。鬱蒼と茂る森の奥深くで、僕は毎日たった一人、木にもたれかかったり、土に寝転んだりして、そうやって過ごすんです。時には雨も降るでしょう。時には匂いも変わるでしょう」

「僕はそれでも良いんですが、僕のことを何かしら知っている皆に、少しでも良いから今日の僕を知ってもらえたら、少しでも良いから僕という存在を認めてもらえたら、そんな風に思って、ライブの度にこうして顔を出しているんです」

 錬は熱せられた肌に水道の蛇口の水を思い切りかける様に水を追加した。のどぼとけの滑らかに動くのが雪観の位置から辛うじて視認出来た。ガーン、ゴーン、ガーン、ゴーン、と鐘は鳴りやまない。まるで自分の中に住み着いている声の小さな詩人の歌をどうにかして掻き消そうとでもするかの様に。

「もし愛されるということが、その人の暗い部分を照らしてあげる作業を要求することであるのならば、僕にその資格はありません。もし知ってもらうということが、その人の興味を満たす輝きを求めるものであるのならば、僕にその資格はないのです」

「でも偶然、こうして僕は沢山の人に知られてしまった。全ては偶然なのです。僕のこんな話をあなたが静かに聴いてくれているという事実、これは紛れもない偶然です。偶然は偶然として楽しむ余裕が僕にあったら良かったのですが、生憎それも持ち合わせてはいません。けれど皆は、どうかこの偶然の出来事に価値を見つけて下さい。そして僕をずっと見ていて下さい。ライブのときだけ現れて、初めから考えていたことやそうでないことを長々と話して聞かせる、こんな僕を見捨てないで下さい」

「今夜はありがとう。僕の歌を聴いてくれてありがとう御座いました」

 錬はそう言って舞台を去り、彼と気の合う三人組のバンドが次いで熱狂と共に現れた。波はざあ、と引いていき、雪観の裸足は砂浜に取り残されてしまった。空の色は紫や黄色のマーブル模様に様変わりし、鐘の音は次第に魂の共鳴する様な音楽に取って代わられた。魂、と雪観は誰にも聞こえない声で呟いた。私の魂は、自信を持って私のものだと言えるものではないのかもしれない。それはきっと記憶の世界の私、というものも同様である。私の取らなかった行動が今日の誰かにきっと少なからず影響を与えていて、その私に対して今の私は何をしてあげることも出来ない。ただこの世界には無価値な記憶や無意味な悲しみが溢れているだけで、そんな中の一つに過ぎない自分勝手な魂が愛することを覚えたとて、一体何が変わると言うのだろう。コアラの言っていた彼一人だけの世界――それは彼女が彼に対して抱いていたイメージと驚く程符合した――に私がいることは、どうしても許されないことなのだろうか。彼女は一人、人にまみれて、小さなライブハウスにいた。

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