波打ち際

 ――私も東京に出たい。――

 本題は錬が受け取った手紙の二枚目の真ん中あたりからしたためられていた。小さなアパートの焦げ茶色のフローリングの上に立ったままその便箋に含まれた全てを受け入れ理解しようとしていた錬は、その一節に自己の劣等感をみとめない訳にいかなかった。夏の足裏はぬめぬめと気持ちの悪い程の実感を伴い、イノセントな叫び、愛という感情の力に万物を委ねた破滅芸術の抗いは見慣れた部屋の中、すぐそこで潰えて落ちた。香菜。錬は声を漏らした。錬にとって、今に存在している彼女は自分が今を生きている唯一の証拠だった。ステージの上で何やら叫んでいる自分が脳裏に浮かんで、あれはいつのことだったかと少し考えたが分からなかった。そこにあるのは手紙と足裏の実感、レスポール、それとぼんやりとした過去の意識だけだった。

 翌週の土曜、錬は香菜と東京で会うことになった。その次の日は久しぶりのライブの予定が入っていた。一人で東京へ出て来てから、僕はステージで何を喋って来たろう。何を歌ってきたろう。錬の部屋にこうした孤独の後悔が立ち込め始めると、まるで飽和して逃げ出したかの様に外に雨音が響き始め、錬は髪の毛をかき上げて窓を閉めに行った。訣別の歌を、僕は歌って来た筈だった。過去との訣別。自分勝手な甘えとの訣別。嫌な感情との訣別。しかしながら唐突な見返り――いつからか自己完結の形態をとっていた、自分にとって無限大で絶対的なものであった筈の愛の見返り、そして確固たる感情を伝えるあの美しい文字――によって彼は、自分が何からも決別出来ておらず何からも逃れられていないことを一人暮らしの部屋に溶け出す無音の苦痛を伴って知らしめられたのである。雨は次第に強さを増していく。錬は次のライブで何を話そうかと真剣に悩み始めた。その日の雨は深夜には豪雨になって、東京中を洗い尽くした。

 待ち合わせの駅に着くと、真白なワンピースを着た香菜がいた。その目の優しい感じ、膨らすとあまりの綺麗さにどうかなりそうになるきめ細やかな頬、疑問文を発したときには必ず上目遣いになる独特の癖、すべて錬の記憶通りの彼女だった。寧ろ前進か後退か分からぬような変化を重ねて変わってしまったのは自分の方だということは彼にもよく分かった。その日の東京は灼熱地獄だった。

「東京へ出て来て、ここで絵を続けるの?」

「そう。私錬のそばにいたときが一番描けたの。こういう風に思ってしまうことが全く進歩してない自分を認める様で辛いの。少なくとも、――ひとまず、環境を変えたいって思ってる」

 錬は俯いて、香菜と一緒に暮らすことになったらどんなに良いことかと考えた。しかし彼は、自分にとって本当に良い選択はそうすることではないと分かっていたので、それが口の外へ出て来ることはなかった。全部本当は分かっているのである。そういう類の発見や悟りはただ事実としてそこにあるだけで彼の栄光や幸せに何の影響も及ぼしはしない。

「香菜の絵が見たい。最近のやつ」

 錬は絵を描いている彼女の姿が何よりも好きだった。

 香菜は渋々スマホを取り出して幾つかの画像を順に見せた。油絵にデジタル絵、一部にデジタル加工を施したハイブリッド絵、まだ下書き段階のもの、そのどれも錬の目から見れば比類なく素敵で香菜らしい絵だった。

「――納得していないの?」

「何か他に出来ることがある筈なの。絵に何か、もっと何か吹き込める筈なのに」

 錬は思わず目を閉じて息を吸い込んだ。

「ところで錬、明日ライブだよね」

「何で知ってるの」

「偶然知ったの。だから迷惑かとも思ったけど今日会うことにした」

「じゃあ、来る?」

 錬が渋々言うと、香菜は満面の笑みで答えた。

「行く!」

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