石の散在する風景と小さく無限大な試み
雛田さんがチケットを手配してくれたライブは明日に迫っていた。雪観の休日は時間というものを排した眠りから始まり、桜の木の香りの滑らかに充満する部屋で静かに進行する。本棚に目をやれば、嘗て憧れた壮大で雄弁な世界の向こう側で額縁に入った文豪達が鋭い目線でもってアイ・コンタクトを求める。雪観はにこやかに動物的で静的な求愛を受け止め、優しい瞬きと大き目のため息を落とした。
昔、一度だけラブレターの様なものを書いたことがあった。レター ――手紙と言うのは自分の中に留まらない何らかの思いをそのまま文章化して相手へ届けるというギャンブル的な決断力を要求する手段であるから、それはどちらかと言えば日記に近い代物だった。実家から持って来た小さな本棚の一段目には小型の引き出しが入っていて、それは昔工作の時間に投げやりな気持ちで作った木製のもので嘗てはささやかな宝箱として機能していたのだが、その小さく無限大な少女の世界はいつしかなくなってしまっていた。今その廃墟に残されているのは本屋で貰った素敵な栞に高校の校章、初めて作った名詞、そして一枚の四つに折り畳まれた手紙だけだった。それは宝箱ではないから、開くのに特別な儀式や真剣な眼差しは必要ない。しかしその内部では確かに時間が止まっていた。静かに取っ手を引くとすぐに見慣れた白い便箋が目に入り、時間が止まっているということだけを安心材料として雪観はそれを手に取った。四つ折りを二つ折りに戻すと過去の時間が突風となって彼女の呼吸器官を襲った。二つ折りを元あった一枚の便箋に戻すと彼女の中にこだまする空虚な風の音が突風に呼応した。縋るというのはこういった精神状態のことを言うのだと、見慣れた汚い字の一行目に目線をやりながら思った。この部屋の時間は止まっているのだからそんなことは一向に関係がないのだが。
錬はポストの手紙に二日経ってから気が付いた。彼は送り主を確認するなりすぐにそれを開いた。三枚に亘る文字列の字は恐ろしく綺麗で、錬はゆっくりとその内容を確認しながら、ふと送り主とは別の女性のことを思い出した。文字に恋すると言うのは変な話で、恐らくそれは文章や物語への憧憬から来たものだったのだが、当時の彼は黒板に整然と並んだ大き目でつつましやかな文字に、その距離を何倍にも感じさせる乾いた教室の空気に溶け込む様なかたちで愛情を感じていた。
それにしても、手紙と言うのはなんと相手を幸せな気分にさせる贈り物なのだろう。読み終えたそれを青色の封筒に仕舞ってシールを貼りなおすと錬は数日間の不運をすっかり忘れてしまった。すると、一度思い出してしまった罪悪感に満ちた記憶が決壊して顔に流れて来た。人は幸せな憧憬を断念せざるを得なかったとき、その記憶を一時の過ちとして処理して過去のものにしてしまうが、実はたいていの場合、それは次の情熱に無意識ながら引き継がれているのである。例えば手書きの文字という小さな事象が思い出させた過去の何か、というのはその人の本質にとても近いのである。錬は観念して、中学校時代の自分だけが知る思い出を一つ一つ丁寧に取り出し始めた。するとその疑似恋愛の罪が担う自己の本流の様なものにふと触れ、それは最終的に支流への想いを深める結果となった。
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