木々とスコール

 職業とは一人の人間にアイデンティティを追加しその顔に嘗て見ぬ輝きを生むものであるか。職業とは、いや誰かが全力を傾け成し遂げようとしている何らかや、その藻掻き、一挙手一投足は、その選択と呼べるものは、その人にとって人生の最新情報としての価値を持つか。目移りさえも自己実現の糧としてしまうだけの強さが、情熱がその呼吸の瞬間にはあるか。その呼気には何かを得る為に赴いた境地の踏みしめられた土の残骸が含まれているか。その目は空の落とし物を見極めようと光ってはいるか。

 人々は森にいる。その森は日々絶えず変化していて、最も象徴的なのはそこに流れる清らかな水だ。人々は皆別の選択をする。私と彼が遠いからと言ってどこかで二人の選択がずれた訳ではなく、それは初めから別個のものだった。ある一時期その二本の線が川の両岸の様に至極接近して進んでいた、ただそれだけのことである。川の岸は、反対側の岸のことをどう思っているのだろう。自身の鏡として少しずつ削られ、自身にもあるかもしれずまたないかもしれぬ不思議な景色を背後に備えている、そこに確かにいはするのだけれど、触れ合うことのないだろう岸のことを私はどう思っていたのだろう。


 私はそんな文章を書いていた。私にとって最も身近な相談相手が文章だったからだ。私は私の証明として生を刻んでいるだろうか。今日の一日と明日の一日ではどちらの価値が大きいだろうか。それとも人生や愛に価値なんてなくて、それが何かのきっかけで実を結んだときに適当な評価が与えられるのだろうか。

 開け放った窓の向こうの深夜に雨が降り始めた。ここはまるで洞窟だ。人々は洞窟なんて辛気臭いところは嫌だと言うが、そこに迷い込んだ微生物や石や砂や風は、外の暴雨を細い眼で見つめながら絶対の保護を得るのだ。そしてそこは、ときに記憶や秘密の保管庫にもなる。ここでは一滴の水すら、美しい芸術の一員になることが出来る――。私は桜の木の様子を見に行った。すっかり花は散り、焦げ茶色の身体に水をはじく強い、強い桜の木。その枝の一本が緑色をした街灯に接触し、その街灯は明滅しながらじっとそこで雨に濡れていた。私は宏樹さんと同じバンドのジョーさんの教えてくれたある物語を思い出した。ジョーさんの高校の頃の先輩だったジンさんという人はプロの指揮者で、有名な女性バイオリニストと長く付き合っているのだそうだ。二人が仕事で共演することは稀だが、家では毎晩、二人だけで「演奏会」をしているのだという。その女性バイオリニストというのは若いのに類い稀なる才能だとしてよく雑誌で取り上げられている人物で、その話を聞いて以降仕事でその人の笑顔を見つけると私は鼓動の荒くなる思いをする様になった。類い稀なる素敵な笑顔だったからだ。ジョーさんは彼等の関係を「大人の関係」だとして羨望を露にしたが、私にとっては傷口を広げられる様な話だったし、あまりにも実感が湧かないので寧ろおとぎ話に聞こえた。勇気を出して恋愛相談じみたことをしたのは私の方だというのに、やはり洞窟の外へ無暗に出るものではない。

 私は窓を閉め、風の流れを良くする為に開けてあったドアを閉め、シングル・ベッドに横たわった。森は霞に覆われ、私は目を閉じた。宏樹さんに一緒に虹を描きたいなんて透き通った言葉を伝えられたのを思い出した。私はより強く、力の限り目を閉じた。洞窟の外から実感の湧かない言葉を投げ掛けるのは雨よりも残酷なことだ。

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