海へ
人に評価されることを恐れたとき、人は他人と関わることを拒否する筈だ。何故なら人を評価するということこそ人間関係の素因数であって、それは人に評価されることの呼び水だからだ。だから他人に評価されることなしには他人を愛することも他人に愛される自分を思い描くことも不可能なのであり、またそれ等はきっとコインの裏表の様に密接な関係を構築していて、或いは全く同じものなのだ。それなら僕は一体何を求め何から目を逸らしているのだろう。答えは言語化すれば簡単な筈だった。だから僕は言語を拒んだ。孤独の世界の特に穏やかな部分に干渉する一切の感覚を遮断した。その世界を包むヴェールを通して周囲を見、自分を表現し得るインスピレーションを求めた。そんな日々が続いた。
川の水面には自分の顔が映っていた。その目は確かに僕の目と合っていた。僕は僕を見つめた。桜の季節だった。流れてくる花びらに時折輪郭を歪ませながら、しかしその目線は一向に僕を捉え続けていた。そこにいたのは嘗て恋した女性でもなく、今愛している女性でもなく、紛れもなく僕自身だった。その目はそう訴えかけていた。しかし僕には僕というものが分からない。桜の木、誰かを喜ばせ、ずっとそこにい続けることを許容され、またそのことを自分自身で認識し、そしてあらゆる人々の好意と評価に答える満開の花。その間を流れる黒みがかった川に揺れる僕をそれでもじっと見つめながら、僕はただ分からないんだと呟いた。桜も影も、それ以上の言葉も、すべて。沈まぬもの達よ、僕は一体なに。僕の刻んだ歴史の中には確かにドラマがあった。情熱も、心からの怒りも憎しみもあったろう。しかし今の僕には、自分がそれ等の歴史の総和であるとは到底思われないのだ。昨日には昨日の自問自答があり、今日には今日の苦しみがある。昨日の藻掻きとそのあったかどうか分からない成果を忘れている今日の僕が、過去の総和であるというのはどうも作り話やまやかしの様だ。僕はきっとねじ巻き式のおもちゃに過ぎない、そしてそのぜんまいがいつ動きを止めるのか、少なくとも意識のある内には僕は知ることが出来ないのだ。いつか動きを止めるおもちゃならば、わざわざ人前に出て行って単調な動きを見せてやる必要もない、とも思う。作り物の目から見える景色などはそれ以上に意味がない、とも大いに思う。しかしながら僕は、感情に身を任せて歌を歌い、家を飛び出し、帰って来たなり長い睡眠に落ちる。たとえそれがおもちゃの家の中の出来事であるとしても、僕には何か表現できることがある筈だとどこかで思っているからだろうと考えられる。そして、おもちゃの家の中にもきっと鼠の王様や小さく気高いくるみ割り人形が作り出す繊細で芸術的なドラマがあるのだろう。僕には自分が何がしたいのか分からない。なりたい自分が分からない。なった自分が分からない。そう言っている内に夜が更ける。僕は何も生み出せず眠りの誘いを待つ。
いや、そうではない。僕には炎がある。まだある。それはある。今日の悲しみが忘却の河へ沈もうと、明日には何かの結晶が遂に出来上がるかもしれない。だから生きている。自分とは即ち、藻掻いた海の感触と掴んだもの、掴めなかったものの総和なのではないか。生とは即ち、海に沈むまいと腕を動かすその瞬間の総和なのではないか。
桜の木の感触は冷たくて、生の確かな語りを聴いた。
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