木陰
彼は次第に苛立ちを募らせた。パエリアの黄色い米を見詰めるのもうんざりになって来た。それに周りのやけに陽気な人達の会話やテーブルクロスの小さなシミ、小窓を塞ぐ赤いカーテンも全て不快極まりない。この小さなスペイン料理店の店内で彼の色っぽい目の輝きや細やかな気遣いや巧みな話術や、その他強みと言えるものはみんな委縮し、パエリア二皿と水の入ったコップ二つを挟んだ向かい側では綺麗な女性がひたすらに口を動かしていた。同じ話題をいつまでも引きずるものだから、彼の包容力も限界を迎えてしまったのだ。しかしそれは彼女にとっても仕方のない選択だった。男性と二人で食事をした記憶なんて一つも思い出せない。真実、彼女は緊張していた。何を話せば良いのかも分からなかったから、一度始めた話を引き継ぎ引き継ぎ話すしかなかった。それに、その内に彼女は楽しくなって来てしまった。彼女が本当に興味を持っているのは、目の前の男でなく話の中の、つまり彼女の思い出の中の男の方だったから。
「ねえ、雪観さん」
「はい、どうしましたか」
しばらくの間押し黙っていた彼が急に口を開いたので彼女ははっとした。記憶の世界と現実の世界を繋ぐ深い井戸の上の方から大声で名前を呼ばれた様な感覚さえ覚えた。
「僕はもっと雪観さんの話が聞きたいな」
「私」
「そう、あなたの話。お仕事のこととか」
「出版社の話なんてそう面白いものではないですよ」
「本が好きだからそこへ?」
「ええ。いつから好きだったかは覚えていませんけれど」
彼女は少し逡巡して答えた。彼はまたスプーンを口に運び始めた。
「どんな本を読むの?」
「仕事柄色々なジャンルのものを読みますが、特に好きなのはガストン・ルル―の『オペラ座の怪人』とかユーゴーの『レ・ミゼラブル』とかですかね」
「二つともミュージカルや映画でしか知らないけど、随分ロマンチックなのが好きなんだね」
そう言うと彼は口元をやや綻ばせ、透き通る様な眼差しを彼女へ向けた。
「そうですね。小さい頃はディズニーのお姫様に憧れていましたし、そうかも知れないです」
そして彼女はパエリアを一口頬張り、その行為の最中、本当にそうだろうかと思った。確かにロマンチックな小説にはとても惹かれるが、私はそれだけの人間ではない。彼女は無性に自分の発言を訂正したくなった。私は日々日本語に触れ、紡ぎ、その海に溺れることを職業としている。それは何の為か。どうして人生の重要な局面でそれを選択したのか。私はロマンチックな本が好きだから今こうして生きているのではない。お姫様と王子様の夢の国の物語に憧れていまこんな顔をしているのではない。例えば私は、と彼女は思った。例えば私は、終始暗い小説やエッセイだって勿論読むし大好きだ。「孤独についての考察」はそんな本だった。そう、私にとって何かの始まりとなった本はそれだった。そうじゃないか。私はあんな難しい本を顔色一つ変えずに読める様な人間になりたかった。もっと複雑な人間になりたかった。他の人に単純に言語化される様な個性でなく、もっと神秘的で魅力的な器が欲しかった。一刻も早く彼に追いつきたくて、それから読書を始めたんだ。それで、それで……。
「ちょっと雪観さん、大丈夫?」
彼女が急に呼吸を荒げ、目の前の水を一気に飲み干してしまったので彼は吃驚した。彼女のコップが机を叩いた振動で彼の水も表面を大きく揺らした。
「ごめんなさい。ちょっと思い出したことがあって」
「それ、教えてよ」
彼はいたずら好きの少年の様な笑みを満面に浮かべてお願いした。
「いえ、きっとご気分を害してしまうと思うので」
彼女は彼が水を注いでくれたことに簡単に感謝してからこう言い放った。その理由は、一つには彼女がそれをきちんと言語化出来るかどうか自信がなかったからだった。彼はそう、と戸惑う様に言って、気まずそうに水へ手を運んだ。彼女もまた分厚いテーブルクロス越しに気まずそうな顔をしていた。
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