樹木の香り
雪観は細い腕を撫でていた。まだ何物にも汚されていない腕。大切なものを守る選択を避け、冷たい水の中でじっとしている自分の、憎らしい程細く白い腕。本棚の前に体育座りをしてしげしげと眺めていると、鼓膜から出入りする静けさがナンセンスを嘲った。そう、文学・文芸という虚構への誘いに応じる様な格好で己の肉体をこうも長々と見詰めているのはナンセンスと言う他ない。並んだ背表紙の中には彼女が出版に関わった作品も幾つかあり、本棚は彼女にとって神聖なもので、存在意義で、豊満な香りで、そしてどうしようもない虚構であった。しかし本という虚構は、向こうから近づいてくることは絶対にない。個性豊かで美しい背表紙によって動きを封じられた本達、目を逸らせば視界からふっと消える本達、ページを開けばすぐさま誰かが本気で作り上げた一つの異世界へと手を引く本達。血管を持たず変わらぬ輪郭のみを持つ者達は、どうしてこうも優しいのだろう。春先の室温は少しだけ意地悪だ。
ベッドの布団の上で携帯電話が鳴った。雪観は体育座りのまま後ろへ平行移動してそれを手に取り、真後ろのベッドに頭を投げ出す様にして耳に押し当てた。そのまま脚も本棚に向けて大胆に投げ出した。
――もしもし、雪観です
――宏樹です。夜遅くにごめんなさい
――どうしたんですか?
――えっと、明日は土曜日ですが、日中空いてたりしますか
――空いてますけど
――良かったらランチを食べに行きませんか
ふふ。雪観は電話を持った腕をだらんと床に垂らして、明け放した窓に目をやった。一人暮らし向け1DKアパートの二階から覗く空は暗い。しかしその真下では桜が妖艶なポテンシャルを存分に発揮し、それを緑色の街灯が照らしているのだ。何という春だろう。雪観は黒く美しい髪の毛を優雅に揺らして頭を起こし、携帯を再び耳へ当てた。
――良いですよ。何時頃に集合します?
――やった。じゃあ、十一時にS駅でどうでしょう
――分かりました。お腹を空かせて行きますね
電話を切って、雪観はまた腕を眺め始めた。まるでレンズを通してみる様な、言葉を受け付けない腕だった。言語の通じない相手は嫌いだ。雪観はそう思った。
雪観は気が付いていないが、彼女が本好きになったのも、出版社に勤めることになったのも、よって東京に来ることになったのも、全て彼女が嘗てコアラと呼んだ一人の男の所為なのだ。しかし彼女は言葉に絶対的な信頼を置いているから、自分が言葉で誰かを傷付けた記憶を恐れるあまり、もっとも彼女自身は十分それを意識の上で背負っているつもりでいるのだが、自分の由来――存在理由――が何であるのか理解しようとはしなかった。否、出来なかった。それはつまり、別の人間にかけてやるべきだった言葉を無意識に特別化し、同時に過去を絶対化し、またそれを呑み込んだ記憶を無意識に拒絶していたということである。二十三歳の彼女の腕は、桜の様に艶やかで、鏡の様に狂気的だった。
何分かして彼女が窓を閉めに行ったとき、真下の桜が季節の主役として圧倒的な権力を見せつけたので彼女は少し怯えた。その顔の美しいことと言ったら、これまで数々の女性と交際して来た君川宏樹という新人バンドマンを心底惚れ込ませた程だった。
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