そして川の水面には自分の顔が映っていた
雪観がライブに訪れてから数日後、錬は一人で東京の街を歩いていた。ギターケースのショルダーストラップにかかる重力が、ほんの少し彼のアイデンティティーを彼自身に対して保証していた。それはすぐ切れたりするものではないから経年劣化が見え辛い。或いは、彼はもうギターケースの重さを苦痛には感じなくなっていたのだが、その事実が示す成長と呼んで良い軌跡についても、彼は観取出来てはいなかった。彼が彼にとって都合の悪い事物から目を逸らす限り、それと対を成す何らかもその目には映らない。何で家を出たのだろう。彼はただインスピレーションをのみ求めてさ迷っていた。茫漠たる東京をさ迷っていた。
あるやけに人の多い街で、錬は自分より少し年下に見えるカップルを見かけた。若いカップルなどどこにだっているが、彼がその二人に特別目をひかれたのは、彼等がお互いの腰のあたりで握り合っている手があまりにも美しかったからである。そして、その男の方が錬と同じ様な黒いギターケースを肩に引っ提げていたからである。錬が彼等とすれ違ったのは一瞬だった。しかしその一瞬を境として、錬の目の前に続いているやけに人通りの多い道は色を失ったのである。元々褪せていた壁のペンキが、業者によって剥がされるときの様に、それは救いのない消滅だった。街路樹の葉は懸命に主張していた命を露の様に落とし、それが反射していた日光はまるで不可視になったみたいだった。アスファルト――錬は雨が降ると水を湛え日差しが強いと熱を含むそれが何故だか好きだった――さえも、もう彼の足音を反響させはしなかった。それでも彼は歩き続けたのだった。引き返すことなくずんずんと歩を進めたから、夜になっていよいよ帰ろうと言う段になってその場所から家までの交通費を知って驚愕した。無論、また歩いて帰れる距離ではなかった。
その小さな旅で彼が得られたものは何もなく、失ったものは目に映る景色のグラデーションであった。しかしそれも、一晩寝れば回復するであろう。錬は疲れていたので冷蔵庫にあった少しの食料を胃に入れるとシャワーを浴びてすぐに眠ってしまった。翌朝、彼の肩と脚は人間的な悲鳴を上げることになるのであろう。
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