ある高台で
何故僕は歌なのだろう。そう思う夜がたまに訪れる。
彼女が絵で賞を獲ったとき、僕は東京に出ることを決心した。あの日、僕の中で起こった不思議な出来事を僕は忘れることが出来ない。今まで自身の内外に対して隠して来たことが風に乗って寄り集まって、一本の道筋に収斂し、脳の上では凄まじい雨が降り続き、その中心で肩の震えの様な炎が燃えていた。僕はその光輝く道筋の誘いを鼻腔の奥深くまで吸い込み、その霊的な高揚に酔いしれた。
しかし、その選択は正しかったのだろうか。僕はどこまでも続く様な未知の物質による道に迷いなき一歩を踏み出し、ここまで来てしまった。もうここには僕の知っている人は誰もいない。寒い寒いと呻いたってその声は誰の元にも届かず、そして僕は「寒い」という言葉と自身の内部で起こっている出来事との間に存在するあまりにも大きな乖離に恐怖を抱く。何故僕は歌を選んだのだろう。僕の見たものを正確に伝える手段たりえない歌に、そもそも価値など、あるのだろうか。
錬はベランダに座って外を眺めていた。殆どマンションやアパートの壁の材質しか見えない。尻をつけているタイルはまるで絶縁体の様で、彼は完全な孤立のさなかにいた。肌を撫でる新鮮な外気によって上手く精神的な高揚を引き出すことが出来れば少しは納得のいく歌詞が書けると思ってこうしているのだが、風は上手く彼を避けて去って行く。彼は好きな女のことを思い描いた。彼女の眼はいつも燃え上がる様に美しくて、彼女の描く絵はいつだって「誰の目にも昔は映っていた景色」を鮮やかに浮かび上がらせた。彼女は僕を信頼してくれているけれど、そんな重荷今の僕には背負えない。錬は不甲斐なさにため息を吐いた。
ライブの最中と、ベランダのタイルの上。どちらかの場所でもう一方の場所にいる自分を思い出す度に、錬は自分が二人いる様な気がして来て、それ故に今の自分に疑念を抱き、それをぶつけられる対象を求めた。それが歌の筈だった。歌によって支えられている自分を認められない錬は本当に錬だと言えるのだろうか。
その夜、彼は声帯を弱弱しく震わせて歌を歌った。ほんの少し過去の、まるで別人の様な自分が作った歌を、静かに歌った。その声は道へ迷い出て、風に乗って消えた。伸び切った髪の毛が重力に身を投げていた。
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