トマソン

綿貫たかし

未来から来た男

大学に入ってからの時間というのは、驚くほど速く流れる。前期試験最終科目の終了を告げるチャイムを聞きながら、そんなことを思った。

友人たちはそのまま打ち上げに向かうらしい。彼らの様子からして、行けば今夜は帰れないだろうことは想像するに容易い。

「悪いな、今日は予定があるから」

友人たちの誘いを袖にし、ありもしない予定のために正門とは逆方向へ歩みを進めた。


総合大学を謳うこの学び舎は、都内でありながら膨大な敷地面積を誇る。大学一年の前期が終わった現在もその全貌を知るに至らない点でも、いかに広い敷地であるかが伺える。

見覚えのある場所がなくなってから数分。友人らとの帰宅をずらすために歩いていたはずが、途中からは散策が目的と化していた。こうなっては仕方がない。好奇心を抑えるすべも理由も持たないいま、自分は満足のいくまで散策を続けるのだろう、とどこか他人事のように思っていたときだった。

どの学科が使う施設なのかもよくわからない建物の角を曲がる。すると目に飛び込んできた、白。

「―――園田」

「……あれ、北見くん? 校内で会うなんて、珍しいね」

白を基調としたワンピースに身を包み、その足元や髪留めでは鮮やかなブルーが挿し色としての仕事を果たしている、実に夏らしく爽やかな装いの女子学生。

同じ高校出身である同級生、園田彩希だった。

「…………あぁ、久しぶり。園田も試験、今日までだったのか」

「そうなの、語学が残ってたから。北見君もでしょ?」

「まあな」

確かに授業内試験も多い中、最終日に残っていそうな科目は語学のみ。けれどもどうして園田はこちらの履修を知っているのか。その答えについて自分に都合のいい想像を挙げてみるが、そんな自身にどうにも白ける。

「……じゃあ、わたし友達と約束あるから」

「ああ、うん」

気のきいた言葉一つ返すことも、次会う口実も出て来ず。結局できたことと言えば黙って彼女の背中を見つめることだけだった。

振り向いた反動でゆらゆらと揺れる髪。卒業から五ヵ月近くが経って、随分伸びたように感じる。それに比例するように少女らしい愛らしさから大人の女性へと変化する彼女に、いよいよ声をかけることが難しくなるばかりの自分。なんて、ヒロイズムをこじらせたような感傷に浸るのは趣味ではない。気持ちがこれ以上暗くなるのはよろしくない。

気を取り直して、奥へ奥へと歩き出した。



こんなところがあったのか。

園田彩希と別れてから十数分。すっかり散策を楽しむ余裕を取り戻した頃にそこへ辿り着いた。

建物の裏手に入ったところに位置する少し拓けた空間。空地のようなその場所の真ん中にポツンと置かれた階段。当然そのようなところにあるからには続く場所は存在せず、階段としての機能を果たしていない。その何とも言い表せない異様さにのまれつつ恐る恐る上がってみる。

(いち、にい、さん………十二段か。にしても危なっかしいな)

バランスの悪い階段は上段に進むにつれて激しく軋む。通常続いていただろう建物はすでに取り壊されたのだろうか。であれば何故この階段のみ残されたのか。こんなに人気のない場所に忘れ去られたような階段があることを、一体どれだけの人が知っているだろうか。

じっくりと改めて周囲を見渡してみると、徐々に日が落ち始めていたことに気づく。日の長い季節だというのに、こんな日暮れまで自分は何をしているのか。急に白んだ気持ちになって、そそくさと、しかし上ったときよりもいささか慎重に下りてゆく。下手に乱暴に下りれば、簡単に朽ちてしまいそうに思えたからだ。

「――――ふぅ、……帰るか」

この階段のことは気になるが、ここにいても埒が明かない。明日にでも先生に尋ねてみよう。そう思って帰ろうとしたとき。

ひどく強い風が吹いた。

とっさに目を腕で覆い、顔を伏せる。呼吸さえもままならないような強風だ。風のない汗ばむ日であったのに、こんなに急に吹き荒れるなんて。

数秒、体感でいえばもう少し長かっただろうか。風が止んだのを見計らって、顔の前で組んでいた腕をゆっくりと下した。

次の瞬間飛び込んできたのは、目を疑うような光景だった。

一人の男が立っていた。

バランスの危うい階段の最上段、その十二段目に悠然と佇んでいたのだ。

「――ッ」

あまりの驚きに、鼻からとも喉からともよくわからない場所からか細く息が漏れた。つい先ほどまで自分の上っていた場所。周囲に人はいなかったはず。たった数秒目を離した隙に、強風で聴力も利かなかったとはいえ階段の目の前に居た自分に気づかれず、たどり着けるものなのだろうか。

男はまるで舞台役者のような立ち回りで、ゆっくりと語りだした。

「驚いた、って顔だな。更には胡散臭いって顔だ。あぁ、俺はなんでも知ってる。お前のこともよく知ってるよ。お前よりも、な」

「…………だ、」

「『誰ですか?』って? そうだな、ヤマダタロウとでも名乗るか? じゃあ俺はヤマダタロウってことにしよう」

こいつは、なんだ?

捲し立てるように話し、こちらからの質問に先回りする。異様としかいえない男と対峙しているこの状況からだろう。背筋に嫌な汗が伝う。しかし男はこちらの様子などお構いなしにまた大きな身振り手振りで話を続ける。その度に階段は軋む。

「お前はここに来てから最初に『何故こんな場所にこんな階段が』なんて考えたんだろうな。あぁ、俺はなんでも知っているんだ。こういうもの、他にも見たことがあるだろう――――」

古い建物や廃墟、忘れ去られたような場所にある不自然なもの。

利用不可能な位置にある扉や、ほとんど地面に埋まってしまっている標識。そしてこの途切れた階段だとか。こういうものを「トマソン」と呼ぶのだ、と男は言った。

「ここは未来につながってるんだ・・・・・・俺はそこからやってきた」

馬鹿らしい。そう思い眉を顰めると、男は歯茎を剥き出すように嗤った。

「信じられないって顔だな。そうだ、ひとつ予言をしてやろう。明日は酷い大雨だ。天気予報は大外れ、お前の母さんは布団を干して出かけて雨に降られ『もうあの番組の予報は信じないわ』ってぼやきながら晩飯の用意をするのさ」

いまにも朽ち果てそうな階段に腰かけ、男は煙草に火を灯した。

「また明日、きっとお前はここに来るよ」

暖かい陽気だ。こんな風に不審者が出てくるのも頷ける。最後に男を一瞥し、その場を後にした。

背後では「きっとだ、きっと来る」という声が聞こえたが、なにも聞かなかったことにした。そのほうが賢明だと、そのときは思ったからだ。




『天気予報のコーナーです。本日は全国的によく晴れ渡り、洗濯物日和と言えるでしょう。しかしその分日差しも強く、お出かけの際には帽子を被る、日傘を差すなどの対策が必要に―――――』

母がつけた毎朝お馴染みニュース番組では、すでに照り返しの強そうな日差しを浴びながら気象予報士が爽やかに原稿を読み上げている。

「これなら干してっても大丈夫みたいね。母さん今日は町内の集まりで出かけてくるけど、あんたは? 今日、出かけるの?」

「大学」

「あれ、昨日で終わったんじゃないの?」

「別に夏休みだからって行かないわけじゃないよ。だから昼飯、用意しないでいいから」

「あっ、ちょっと――」

「ごちそうさん、いってきます」

こういうときは、そそくさと荷物をまとめて外出してしまうに限る。町内会の集まりがあるときは、なにかと言伝を頼まれることが多いのだ。何か言いたげな様子の母に気づかないふりをして外へ出た。

気象予報士の言っていた通り、すっかり夏仕様の太陽が痛く照り付けている。アドバイスに従ってキャップでも被ってくるべきであったか。早くもじっとりと汗ばませてくる太陽を恨めしく見上げるが、目元がちかちかと光るばかりだった。

(…………なにが大雨だ)

脳内にあの男がちらついた。

あいつは一体何者なんだ。もちろん『未来人』だなんて眉唾な話は全く信じてはいない。しかしあの男の持つ異様さは確かに普通とは思えなかった。

『俺はなんでも知ってる。お前のこともよく知ってるよ。お前よりも、な』

ヤマダタロウ?

未来からやってきた?

もし本当なら、なんのために?

「…………」

どうかしているとしか思えない。あの男も、あんな言葉が気がかりな自分も。

このなんとも言えないもどかしい気持ちに急かされてか、足早に駅へと向かった。



「――――ってわけなんです。どう思いますか、先生」

「来て早々話し始めたと思えば、随分オカルティックな悩みだね。まあとりあえずお茶でも飲んで落ち着くといい。それに、何度も言うけれど僕は君の先生ではないよ」」

苦笑と共にお茶を差し出してくれる先生は、この大学で用務員をしている。入学当初に迷っているところを助けてもらってからの付き合いになるが、下手な教授などより博識で人格者なこの人を、いつからか“先生”と呼ぶようになっていた。

そしてそんな先生に尋ねたのは、当然昨日のこと。

階段、未来人、予言。

「にしても、未来人か。君はいつにも増して突拍子もない話を持って来たね」

「笑い事じゃないんですよ、先生。………ほんとにそんなことありえると思いますか」

自分でも馬鹿らしいとは思う。ありえないとも。けれど言いようのない不信感やらを解消するためには、どうしても良識ある第三者の意見が欲しかった。それにぴったりの人物を知っていればなおのこと。

「そうだね……それは難しい質問だ。現代に未来人が存在しているかどうかなんて証明のしようがないのだから。もう一つの方なら幸いに知った答えだが」

「え?」

「階段のことだよ。海洋学部の資料館の裏手にある広場のもので間違いないね?」

あんなものが校内に他にいくつもあるとは思えず、頷く。しかし、あの建物がなんなのか、昨日の時点ではまったく知らなかったので確証はなかった。

「まあ、おそらく間違いないだろう。君の言う通り校内に存在するトマソンはあそこだけだからね」

「あぁ、『トマソン』! あの男も言っていました。なんか、中途半端に残された過去の建造物の一部、みたいなもののことだって」

「大体はその認識で間違いない。トマソンというのは、赤瀬川原平らの発見による芸術上の概念で、不動産に付属し、まるで展示するかのように美しく保存されている“無用の長物”のことなんだ。存在がまるで芸術のようでありながら、その役にたたなさ・非実用において芸術よりももっと芸術らしい物を「超芸術」と呼び、その中でも不動産に属するものをトマソンと呼ぶ。その中には、かつては役に立っていたものもあるし、そもそも作った意図が分からないものもある…………理解は、難しかったようだね」

すっかり見慣れた苦笑で先生は「お茶のおかわりを淹れてこよう」と給湯室へ消えた。

こんなやり取りはいつものことで、先生に何かを尋ねると専門的要素の入った説明が返ってくる。打てば響くなんてものじゃなく、こちらから聞いたくせに理解の範疇を越えてしまうことが大半だ。

「さ、どうぞ。それで話の続きだが、何故あそこにトマソンがあるか、だったね。あそこは昔『トレビの広場』と学生たちに呼ばれるものだったらしい」

「トレビの広場? なんか、そんな名前の噴水みたいなのありましたよね」

「トレビの泉………ローマにある最も巨大なバロック時代の人工の泉のことだね。あの広場にはトレビの泉にある彫刻のレプリカが中央に置かれ、周囲にはベンチなども並べられていて、学生たちもよく利用していたらしい」

「それで、『トレビの広場』ですか。少し安直な気もしますけど……。でもいまでは考えられませんね、あんな寂れたところが憩いの場だったなんて。じゃあ、あの階段はその頃の?」

「ああ、らしいね。もっとも僕がここで勤め始めるよりも随分と前のことだから、詳しくは知らないんだ。偶然見つけて調べてみた程度だから」

先生が勤めだしたのは確か五年前だと聞いた覚えがある。それよりも随分前と考えれば、あれだけ朽ち果てそうなのも頷ける。

こうなると益々あの男の存在が気になる。多くの学生も知らないあんな大学の奥地で、あいつはなんの目的があってあの階段にいたのか。

「その人物のことが気になっているんだね。未来人とは俄かには信じがたいのは確かだが、同時にロマンを感じさせるものでもある」

「ロマンだなんて。未来人なんてありえないですよ、現にあいつ、予言だとか言って適当なこと言ってきて」

「……あれ、気づいていなかったのかい」

「はい? なんの話ですか」

「ここからじゃ窓が見えないにしても、中々に大きな音だと思うんだが」

「え……」

恐る恐る耳を澄ますと、確かに窓を叩く雨音が聞こえるのだった。



『気をつけて帰るんだよ。その傘は随分前からある忘れ物だから、返さなくてもいいからね』

先生の好意で忘れ物の中から比較的状態の良い傘を貰って、用務室を出た。しかし向かう先は駅ではなく、あの階段だった。

あの男は今日もあそこにいるのか?

まさか、本当に予言は当たったのか?

慌ただしく雨の中を急ぐ。すれ違う人々は不思議なものでも見るような顔で過ぎ去っていく。確かに酷い大雨だって言うのに、帰り道とは逆方向に急ぐ人がいれば目につくだろう。途中、園田とその友人らしい団体とすれ違ったが、何故か振り向く時間さえ惜しんで足を速めていた。園田がなにか言った気がしたが、都合のいい勘違いだろうと自分に言い聞かせる。友人と一緒にいるのに、自分なんかに話しかけるはずがないことは簡単に想像がつく。そんな悲しいことよりも、いまはあの男のことしか頭になかった。

(――――――いた!)

男は昨日去り際に見たときと全く同じ姿勢で腰かけていた。雨に身体を打たれながら、煙草を咥えているが、こんな大雨の中で傘も差さずに煙草が吸えるのだろうか。火が消えてしまうのでは、とここまで考えてから、ふと気が付く。

何故あの男は傘を差していないのか。

「よう、やっぱり来たな」

「なにが予言だよ。やっぱり適当なこと言ってただけなんだな」

「おいおい、なんだよ。お前はここに来た。それに、ほら。ご覧の通りの大雨さ」

まだ白を切るつもりの男に苛立つ。こんな男の予言を一瞬でも信じてここまでやって来た自分にも。

「じゃあなんで傘を差してないんだよ」

「生憎とこの時代の通貨は持ち合わせてなくてな」

「まだ未来人気取りかよ。お前は適当に大雨が降るなんて言ったけど、実際にはそんなこと思っちゃいなかったんだ。だから傘も用意してない、そうだろ?」

「……あーあ、わかっちゃいたけど、面倒せえな、お前。ああ、知ってたけどな」

「その、俺のことなんでも知ってるって風に振る舞うのもやめろよ、気持ちが悪い」

「気持ちが悪いってのは言い過ぎだろう……おい、どこへ行くんだ? 帰るのか? まだ話があるんだが、まあ良い。どうせ明日またお前は来るからな」

背後からはまたあの男がなにか言っていたが、無視を決め込んで今度こそ帰路へ着いた。

傘の一本も買えないような男のせいで昨日今日と悩んでいたとは腹正しい。二度とあそこには行くものか。

帰宅すると、不機嫌そうな母が夕飯の支度をしていた。

「おかえりなさい、傘持ってたの?」

「貸してもらった」

「そうよねえ、降るなんて言ってなかったから、コンビニで買う羽目になっちゃったわ。勿体ない」

「大変だったんだな」

「そうよー、お布団も干してっちゃったから、もう本当に大変。もうあの番組の予報は信じないわ」

「そう……え?」

いま、母はなんと言っただろうか。

初めて会ったとき、あの男はなんと言っていただろうか。

『信じられないって顔だな。そうだ、ひとつ予言をしてやろう。明日は酷い大雨だ。天気予報は大外れ、お前の母さんは布団を干して出かけて雨に降られ『もうあの番組の予報は信じないわ』ってぼやきながら晩飯の用意をするのさ』

途端に平衡感覚を失ってしまった。足元がおぼつかない気持ちになる。

まさか、やっぱり、本当に?

「ちょっと、どうしたの? 顔色、ひどいけど」

「いや……なんでもない。今日、飯いらない」

「ええ、ちょっと、宗二――――」

母の言葉がよく聞こえなかった。前後不覚のような足取りで二階の自室へなだれ込む。

本当にあの男は何者なんだ?

あいつは俺のなにを知っている?

なにがなにやらわからない。ただひとつわかっているのは、おそらく明日、また自分はあの男を訪ねるであろうということだけだった。




「ほらな、やっぱりお前はまた来たよ。気持ち悪かろうがなんだろうがお前のことは俺が一番知ってるんだ」

「……なんなんだよ、お前」

再び訪れたことに対して全く驚いてない様子が、予言を肯定する要素に思えて気に食わない。それに昨日こちらを“面倒くさいなどと”称しておきながらしっかりと「気持ち悪い」と言ったことを根に持っている辺り、人のことを言えない。

「『なんなんだよ』って言われてもな。初日に名乗ったろう、タナカタロウだ」

「ヤマダタロウだろ。自分の名乗った偽名くらい覚えとけよ」

「おっと、こいつは一本取られたな」

男――ヤマダはまた歯茎を剥き出して笑った。

相も変わらずヤマダは階段に腰かけ、煙草を咥えている。辺りに吸い殻が転がっていないところを見ると、きちんと処理はしているようだが。

「それで、話ってのはなんだよ。昨日言ってたろ。それと合わせて、なんで俺に構うのかも」

「慌てるなよ。結論を急ぐのは悪い癖だぞ」

知った口ぶりで話すヤマダの調子にもやっと慣れてきたが、こちらも暇ではない。視線で続きを促すと、やれやれと言った風に語りだした。

「俺が誰なのかっていうことはそんなに重要なことじゃない。大事なのは俺が未来人ってことだ。こっからは簡単な話、未来人が過去に来るような要件はなんだと思う?」

「……歴史を変えるため、とか」

「その通り! まさにそのオーソドックスな理由で俺はこの時代を訪れた。俺はこの時代で、どうしても変えなくちゃならない出来事がある。そのためにはお前の助けが必要不可欠なんだ」

出会ってから初めて見るような真剣な面持ちのヤマダ。瞳に浮かぶ感情は読み取れないが、なにか物々しさを感じる。その雰囲気に少々面食らいつつ、言われた言葉を反復すると、聞き捨てならない言葉に気づく。

「いや、ちょっと待ってくれよ。もうお前が未来人だとか、歴史を変えるためにタイムスリップしてきたとかは百歩譲って信じてやるよ。でも、なんで俺の協力が必要なんだよ」

「そいつは規則に触れる質問だな。いいか、時を超えるってのはそうそう簡単なことじゃない。いろんな契約、規則を持って施行される行為なわけだ。その質問に十全に答えちまえば、俺はこの時代に存在できなくなる。そうなりゃ俺の望みは潰える」

「規則……。そんなこと言われたって、きちんとした説明もなくて協力なんかできるかよ」

大体、何故俺でなくては駄目なのか。何の関わりもない一介の大学生に歴史が変えられるのか。

「なに、安心しろ。協力といっても別にお前にああしろ、こうしろなんて指示は一切出さない。俺はお前にあることを伝えるだけだ。そうすれば歴史は変わり始める」

こちらの混乱など構うことなく、さらに意味の分からないことを言い出した。

俺になにかを伝えるだけ? そんなことで一体何が変わるって言うんだ。

「それって一体……」

「北見君?」

聞き覚えのある声に、心臓が跳ね上がる。ゆっくり振り返ると、思い描いた通りの人物、園田彩希がいた。細かく花を模った刺繍が施された白いブラウスに、淡い黄色のスカート。長い髪を器用に編み上げた、先日と同じく夏らしい装い。どうしてここに、彼女がいるのか。

「園田……なんでこんなところに」

「昨日も、一昨日も、北見君こっちの方に向かって歩いてたから、なにかあるのかなって思ってたの。今日も見かけたから、なんだか気になっちゃって。……あ、こんにちは、お話し途中にすみません」

「……こんにちは、いやいや、気にしないで」

まるで俺がいたからここまで来たというような物言いに、先ほどから止まらない激しい鼓動がより一層騒がしくなる。俺の後ろにいたヤマダに対しても挨拶を欠かさない彼女に温かな気持ちになる。

自分の顔が緩んでいるだろうことは想像できたし、後ろでそんな俺をにやついた目で見ているだろうヤマダも目に浮かぶ。もっともそんなヤマダも園田に対する受け答えが妙に紳士的な猫を被っているように感じるが。

「こんなところがあるなんて、知らなかったな。私こういうちょっと神秘的な雰囲気の場所、大好きなの。なんだか北見君のおかげで得しちゃった気分」

「いや、その……」

「あっ、ごめんね、お話し中だったよね。すみません、お邪魔しちゃって」

「いやいや、気にしないで」

とっさになにも気のきいたことの言えない俺に代わって、何故かヤマダが返事をする。いや、確かにヤマダに対しても言っているわけだから間違いではないが、なんだか腑に落ちない。というか、『いやいや、気にしないで』って、さっきからそれしか言ってないじゃないか。ヤマダまで妙に照れたような態度なのが気に食わない。

「じゃあ、わたしお暇するね。北見君、またね」

「あ……ああ、気をつけてな」

園田は最後に周囲を見渡すと、こちらに笑いかけて帰っていった。

後姿が見えなくなるまで呆けて眺めていたが、ふとこの場にはもう一人いたことを思い出す。ヤマダが園田のことで俺をおちょくってくることがやけにリアルに想像できる。

慌てて振り返ると予想に反してヤマダは階段の定位置に腰かけ、肘をついて煙草をふかしていた。俺が向き直ったことに気づいてか、ゆっくりと視線を合わせてくる。そこには一切の感情が読み取れず、暗く光のない瞳に俺を映しこんでいた。

「お前、あの子のこと好きだろう」

「な、なんだよ急に。そんなことお前に関係、」

「あの子、もうすぐ死ぬぞ」

急にこの広場が、別世界のように感じた。この男と出会ってからというもの、日常は鳴りを潜めていたが、さらに遠くに来てしまったようだ。

こいつはいま、なんと言った? あの子が、園田が、死ぬ?

「は?」

「一週間後、あの子は。園田彩希は死ぬ」

初めてヤマダと出会った時のような風が、吹いていた。



その後、何を聞いてもそれ以上の言葉を発さなくなったヤマダを置いて、俺は先生の元へ歩いていた。

未来からやってきた男、ヤマダタロウ。なんでも知っているという未来人が予言する園田の死。たちの悪い冗談だと思いたかった。けれどもそう思い込めるほど楽観的にはなれないし、ヤマダのあの様子も冗談を言っているようには見えなかった。

(本当に園田は死ぬのか? どうやって?俺にどうしろって言うんだ!)

頭の中も、感情も、ぐちゃぐちゃだった。

「先生、あの、」

駆け込んだ用務員室では、先生がいつものように本を読んでいた。

「……なにか、あったみたいだね。今お茶を淹れるから、そこに掛けているといい」

話したいことは山ほどあった、けれどもこちらを気遣いながらもゆったり微笑む先生の顔を見て、少し落ち着いた。

「……ありがとうございます」

「いや、いいんだよ。もしかして、例の未来人絡みかな?」

「はい……それが――――」

あいつはどうやら本物の未来人らしいこと。

母の言葉をまるっきり予言したこと。

俺になにかをさせようとしていること。

園田彩希が死んでしまうらしいこと。

「俺は、どうすればいいんでしょうか……」

「ふむ、なるほどね……いくつか確認していってもいいかな?」

「あ、はい」

「間違いなく、未来人を名乗る男は君のお母さんの言葉まで予言したんだね?」

「はい、そうです。夕飯の支度をしながらってところまで、はっきりと」

「そのとき家にいたのは君と母さんだけだったんだよね」

「そうですけど……それがなにか?」

「いや、一応確認しただけだよ。あとは、北見君になにかをさせようとしているって話だけど、具体的にはなにも言っていなかった。そうだね?」

「はい、なんか規則だかに触れるって言って教えてくれませんでした。もう少し詳しく聞き出そうといたときに園田が来て……」

「彼女の死を予言された、と」

頷くと、先生は何度も「なるほど」と繰り返しながら給湯室へ入っていった。おそらくお茶のおかわりを淹れに行ったのだろう。

こちらも先生と話したおかげか、少し冷静さを取り戻していた。

もし、本当に園田が一週間後に死んでしまうとして、それは何故だ? 病死ではないとは思う。そういった素振りはないし、身体が弱いなどという話も聞いたことがない。同じように自殺も考えにくい。

なら事故? 一番ありえるのはこの辺りだろうか。殺人ということは考えにくいが、物騒な世の中だ。なにが起こるかわからない。

ともかく、なにかしらの突発的な事案によって園田彩希は死んでしまう。一週間後に。

「……やあ、お待たせ。少し落ち着いたようだね」

「ええ、ありがとうございます。先生のおかげです…………それで、先生」

「ああ、わかってるよ。どうやって園田彩希さんを救うか、だね?」

心得ているといった様子の頼もしい先生に、先ほど考えた彼女の死因について話してみた。

「ああ、確かに合理的に判断すれば、それがありえる話だろうね。問題は、どのようにしてそれを防ぐかだ」

「それなんですよね……」

唐突に「お前はもうすぐ死ぬ、気をつけろ」なんて本人に言えるわけもない。もちろん一番手っ取り早くはあるだろうが、信じてもらうのは難しいだろう。

それとなく外出をしないように仕向ける? いや、これで死因が火事とかなら意味がない。

(一体、どうすれば……)

「……うん、よしわかった。北見君、彼女をデートに誘うんだ」

「……えっ」

「君が彼女をデートに誘うんだよ」

「いえ、聞こえなかったわけではないです」

先生の言葉の意味が分からない。いま彼女の死を回避する手立てを考えていたはず。にも関わらず何故そんな話になるのか。

「……それは、後悔しないように思いは伝えておけ、とかって意味ですか」

「君は彼女が死んでもいいのか」

「そんなわけないでしょう!」

「もちろん、僕も彼女をみすみす死なせていいなんて思ってないさ。だからこその手段なんだよ」

手段。まさかデートに誘うことが彼女の死を防ぐことにつながるというのか。

「よくわからないんですけど、どういうことなんですか。それが彼女の死とどういう関係なんです?」

「慌てない、慌てない。結論を急ぐのは君の悪い癖だよ」

不意にヤマダに言われたことと同じ指摘を受ける。そんなにも急いでいただろうか。

先生は自身の行動でこちらを落ち着かせるように、ゆっくりとティーカップを傾けた。

「いいかい? 要は彼女のそばにいることで彼女の死を回避しようということなんだ。彼女の代わりに君が周囲に気を配る。差し当たって君に必要とされるのは、『彼女をデートに誘うこと』まずは彼女の一週間後のスケジュールを抑える必要がある。もたもたしていて予定を入れられてしまっては困るからね。そして『より正確な死亡時間を知ること』も必要だね」

「……デートに誘う理由は理解できました。でも、正確な時間というのは?」

「いまのままじゃ範囲が広すぎる。“一週間後”といっても、朝から晩まで二十四時間一緒にいるのは難しいからね。恋人ならともかく、君と彼女はそういう関係ではないんだろ?」

確かに先生の言う通り彼女と明確な関係性を持たない以上、丸一日拘束することはできない。より細かい彼女に死が迫る時間を把握すれば少しは口実も立てやすいのも理解した。

「でも、一体どうやって」

「そもそも北見君はどうやって彼女の死を知ったんだ?」

「……つまり、ヤマダに探りを入れろってことですか」

「ああ、それが一番だろう。もちろん規則とやらで彼は教えてくれないかもしれない。規則に反したときのペナルティも不明だからね」

「ペナルティ?」

「彼が未来で罪に問われるとか、未来に強制送還されるとか、ね。……考えられる最悪の事態は、関わってしまった君の記憶が抹消され、彼がこの時代に来たという事実すら消されてしまうことだ」

もしペナルティが存在して、その最悪の事態になってしまえばもうどうにもできない。彼女の死を事前に知っているからこうして対策を立てているというのに、それがすべて水の泡だ。

「……まあ、君の話によると今日彼から話を聞くのは難しそうだね。今日はもう帰って休みなさい。あっ、園田さんに連絡は入れること」

「はあ……えっ! もう連絡するんですか?」

「なにを怖気づいているんだ、彼女を助けたいんだろう。まだ約束を固めなくてもいい。予定が空いているかだけでも聞いておくといいよ」

「……はい」

こちらのカップが空いたの見て、先生は帰宅を促した。まだ園田になんと言えばいいか狼狽えているのも見て、ご丁寧に「くれぐれも必ず連絡をするように」と念を押される。まだ相談はあったが、先生はこの後やることがあるとのことだったのでまた明日にした。

「じゃあ頑張って」

最後にエールを送られるが、もう園田の件でいっぱいいっぱいだった。



「…………」

帰宅してからというもの、ベッドの上でひたすらにスマートフォンとにらめっこを繰り広げていた。

なんと言えばいいのか、皆目見当つかないのだ。極力自然な形で誘おうとは思っても、こちらから連絡を取ること自体が不自然に感ぜられてならない。

とはいえど、いつまでもこうしているわけにもいかない。意を決し、コールボタンを押した。コール音が二つ鳴った辺りで、激しい後悔に襲われる。何故自分はメールやSNSでなく電話を掛けてしまったのか。普段から彼女と話すのは酷い緊張感を持つというのに、よりによって。掛けてしまったからには切るのも憚られ、せめて留守電になってくれることを祈る。

しかしその期待は更に何度かのコール音を経て裏切られることになった。

『――――はい、もしもし、北見君? 電話してくるなんて、珍しいね』

名乗る前に認識されていたことに驚いて、頭が真っ白になる。

「……あ、ああ。え、俺の番号登録してたのか?」

『やだ、忘れちゃったの? 卒業の時に交換したじゃない』

確かに交換はしたが、個々でやり取りしたわけではなかった。

ありがちな青春ごっこの一部として、クラス委員やクラスカーストの上位に位置するような派手目の生徒たちの提案で、クラスメイト全員のアドレスと電話番号がまとめられた用紙が配られたのだ。もちろん親しい相手でもなければわざわざ携帯本体に登録することもない。そう思っていたし、少なくとも俺自身、勝手に園田の連絡先を登録してはいなかった。今回も仕舞っていた用紙を引っ張り出して掛けたわけだ。

しかしいまの園田の口ぶりでは、まるでわざわざ俺のアドレスを登録していたようで。

「……ああ、クラス全員の連絡先登録してんのか。マメだな、園田は」

そうだとしたら納得がいく。俺のアドレスだから登録してくれたなんて甘ったるい妄想よりもよっぽどありえる話だ。

「ええ? そんな大変なことしないよ。あっ、それよりも、なにか用事があったんじゃないの?」

「えっ……あ、ええ?」

これじゃまるで。

「用事、ないの?」

そうだった、いまはそんなこと考えている場合じゃない。

「い、いやある! その、来週って、空いてるか? いや……、こんなこと急に俺が言ってくるのって、すごく、変な感じだとは思うんだ。そんな資格って言うか、権利もないし。内容もまだ決まってないんだけど…………」

自分でも呆れるほどにしどろもどろで、要領を得ないことを言っている自覚はあった。電話の向こう側で困惑した雰囲気が感じられて、更に考えはまとまらなくなる。

『……いいよ、わかった。じゃあ、予定が固まったらまた連絡くれる?』

「えっ、あ、ああ! 決まったら、すぐに」

『うん、楽しみにしてるね。あっ、私そろそろ晩御飯だから……』

「あ、ああ。じゃあ、また」

通話を終了してからも、しばらくは茫然と画面を見つめていた。恐る恐る通話記録を確かめると、そこには“園田彩希”の名前が記されていた。少なくとも、どうやら俺の妄想や幻聴ではないらしい。

そうなると、確かに俺は園田に電話を掛け、問題の一週間後の予定を抑えたということになる。

「……まじか、…………まじでか」

じんわりと、実感が溢れ、手のひらに熱が伝わる。ここで初めて自分の手が異様に冷えていたことに気づく。随分と緊張していたらしい。

しかし同時に浮ついている場合ではないことも思い出した。いよいよ彼女を救うための作戦の一部が始動したのだ。必ず園田彩希の死を回避しなくてはならない。

手のひらからまた熱が引いていくのを、ぼんやり眺めていた。




「……ほー、あの子と、デートねえ。なんだ、悔いを残さないために告白でもするのか?」

もはや見慣れた階段で、いつも通りヤマダは煙草を吸っていた。昨日の感情を閉ざしたような様子とは打って変わって、初めて出会ったときのような皮肉さで俺を煽って来た。

こちらが黙り込んだのをいいことに、ヤマダは饒舌に語りだす。

「そうそう、悔いを残さないってのは実に大切なことだ。特に恋愛ごとに関しちゃな。いつかどこかで読んだなにかにも『好きなときに好きと言わず、好きじゃなくなってから好きだったことを伝えるのは悲しいこと』なんてフレーズがあった。お前も園田家の墓の前で告白はしたくないだろう?」

「うるさい、こっちが黙ってればぺらぺらと。そんなことはどうでもいいんだよ、お前には聞かなきゃならないことがある」

「『園田彩希の死亡予定時刻』だろう?」

話を先回りして来るヤマダは相変わらず腹正しいが、そうなれば話は早い。

「……わかってるんじゃないか。教えてくれ、あいつはいつ死ぬんだ」

「さあな」

「答えろよ!」

「ああ、デートなら一つ助言がある。無理に背伸びはしない方がいい、それで失敗するのが一番格好悪いしな。それとその日はまた予報に反して雨が降る、傘を持っていくといい」

「おい、そんなんじゃなくて……」

「そんなんってことはないだろ。……二人で一つの傘、横を向けば夕日に照らされた愛しいあの子ってのも乙なもんじゃないか」

「……話す気はないってことだな? そっちがその気ならもういい」

適当な話でまた煙に巻く気であろうヤマダから、これ以上の情報は期待できない。

「俺は確かに伝えたからな、これでお前のデートはばっちりだよ」

妙に穏やかな笑みを最後に浮かべたヤマダが気掛かりではあったが、一刻も早く先生と作戦を練るべきだと判断し、その場を後にした。



「なるほどね、それで僕のところへ来たわけだ。けれどもやはり死亡時刻は割り出せなかったか……予想通りといえば予想通りだけどね」

困り顔で紅茶を傾ける先生は、「やはり規則には逆らえないのか」と呟いた。

「俺、やっぱりもう一度あいつに聞いてみるべきですかね」

「……いや、その前に覚えている限りでいいから彼の言葉をそのまま教えてくれないか。なにかヒントがあるかもしれない」

言われた通りに、できるだけ一言一句違わずヤマダの言葉を伝える。先生は何度もそれを反芻しながら、考え込んでしまった。

「本当に、ヒントなんてあるんですかね。あいつが協力的とはどうにも思えません」

「……協力? そうだ、そうだよ思い出した。君、彼に言われていただろう。協力してほしいことがあるって」

「え、ええ。言われましたよ。結局なにをさせようとしているのかはわかりませんでした。でもあいつは「なにか」を俺に伝えることで歴史は変わり始めるとか、なんとか言ってました」

けれど、それが一体何の関係があるのか。

「もし、君に変えてほしい歴史が、『園田彩季の死』そのものだったとしたら?」

急になにか鈍器のようなもので頭を殴られたような気がした。筋が通っているといえば通っているように思える。俺の力が必要だと言っておきながら、俺に伝えたのは園田彩季の死くらいなもので、せいぜい例の大雨のことくらいだった。

「おおあめ……雨、そうだ、雨だ」

「雨? デートの日に降るっていう、あの話かい?」

「それですよ! 予報がまた外れて雨が降るって言ってました。それで、彼女を傘に入れてやれって」

「………ああ! そうか、その話が正しいなら、彼女が死ぬのは雨が降り出してからってことになる!」

「確かにヒントはあったんだ……それなら、やっぱりあいつの変えたい過去っていうのは園田の死だったんですね。でも、どうして……?」

あいつは時間を超えてまで彼女を救いたい理由があるというのか。一つなにかが解決すると、またわからないことが出てくる。ヤマダという男にあってからこんな感覚ばかりな気がする。あいつはどうして園田を救いたいんだ?

どうして俺が選ばれたんだ?

「そんなことはいま重要じゃないだろう。大事なのは、成功が見えてきたことにある」

先生の言葉にハッとする。確かにその通りであった。

やっと見つけた解決の糸口。

俺は園田の死ぬ日、彼女と過ごし、雨が降り出してからの彼女の運命を変える。

園田彩季の死は自分の手に掛かっているのだ。

そのことが改めて深く感じられて、背中に震えが走った。




そこからの展開は早かった。園田に待ち合わせの時刻(ヤマダのヒントから夕方までは安全だと考えて昼頃から)や場所を伝え、先生と話し合い、当日のスケジュールを決め、何度もシミュレーションを重ねて不測の事態に備えた。

更には「一応はデートなのだから同世代の意見も必要だ」という先生の指摘から、恥を忍んで友人たちに相談もした(当然ひどくいじられた)。

そして待ちに待った当日。待ち合わせより随分はやく到着した俺は、貰ったアドバイスの数々を振り返りながら園田を待っていた。

そろそろ時間になる頃かと辺りを見渡してみると、前方から彼女がやって来た。

淡いブルーのノースリーブ型サマーニットに、白のフレアスカートがよく似合っている。

だからついつい見惚れてしまったのも仕方がなかった。目が合っているにも関わらず言葉を発さない俺を、園田は不思議そうに見つめ返した。

「……こんにちは、北見君。ごめんね、待たせちゃった?」

「あ、いや……俺が早すぎただけだから」

「それならよかった。……それで、今日はどこへ連れてってくれるのかな?」

下から覗き込むように言われて心臓が跳ね上がる。まだ始まったばかりだというのに、早くも落ち着きのなくなった鼓動に自分でも呆れる。果たしてまともなエスコートが自分に出来るのか。

「えっと、その、とりあえずその辺で飯でも食ってから、プラネタリウムでもどうかなって」

高校時代天文部に在籍していた俺に、園田はよく星の話を聞きに来たのを覚えている。もっとも“よく”といっても数少ない会話の中ではという意味だが。

そのことから「園田は星が好き」というのがイメージであったため、行くとすればここしかないと思っていた。

「プラネタリウム……ってあそこのだよね。確か“満天”って言うんだっけ?」

「ああ、寝っ転がって星が見られるらしい」

「へー! そうなんだ、楽しみ。北見君って本当に星が好きだよね」

園田の言葉で途端に不安になる。まさか星が好きなのは勘違いだったのか、場所選びは失敗だっただろうか。

「いや、よく星のことで話しかけてくれたから、てっきり園田は星が好きなのかと思ってたんだ。気に入らなかったらごめん」

「……ううん、大丈夫。星も好きだから」

屈託なく微笑んだ園田と共に待ち合わせ場所から歩き出した。

そして俺は、今日たくさんの初めて見る彼女の一面を見つけることになる。

猫舌だというのにグラタンを頼んで、いつまでも冷ます園田。

満天の星空に子供のようにはしゃぎ、心奪われる園田。

ゲームセンターで、微妙なキャラクターのぬいぐるみを真剣に取ろうとする園田。

大人らしく、美しい女性になったと思っていた。高校の時よりも更に高嶺の花になってしまったと。けれども初めて一緒に出掛けた彼女は、まだまだどこか子供っぽく、身近な存在であった。園田彩希は同い年で大学一年生の、等身大の女の子だった。

そんな風に感じて、どこか浮かれてしまったんだと思う。園田の「雨だ」という言葉を聞いて、冷水を頭からぶっかけられたような気がした。

「参ったなぁ。私、傘持ってきてないや」

「……俺、持ってるから。一緒に入ればいいよ」

園田が「ありがとう」と微笑むが、こちらはもう気が気でない。気づくと時刻はとっくに十七時を回り、十八時に近づいていた。

いよいよ「そのとき」が迫っているのだと思うと震えが止まらない。

「どうかした? 顔、怖いよ」

ひどく強張った表情をしているのだろう。園田は心配そうにこちらを覗き込む。

一つの傘で身を寄せ合っているなか、夕日が園田の頬を染めている。ヤマダの言っていた通りの時間帯になっていることは確かだ。

どこだ、どこから。

「後ろだ!」

周囲に気を配っていると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。つられて弾けるように振り向くとふらふらと危なっかしく走る、猛スピードのバイクが一台。そしてそれに気づいた様子のない子供と、それを庇おうと駆け寄る彼女の姿が。

「くそっいつの間に……ッ」

こんなに近くにいて気づけないなんて。彼女が子供を抱えるが、バイクとの距離はもういくらもない。精一杯の力で駆け、腕がちぎれそうなほど彼女へと伸ばした。

数秒後、俺の記憶はブラックアウトすることとなる。

目覚めたのは更に数時間後だった。なんとかバイクと彼女たちの間に滑り込んだ俺はあっけなくはねられ、頭を打ったらしい。

「宗二、彩希ちゃんにお礼言いなさいよ。ずっと付いててくれたんだから」

病室で目覚めた俺に対して「無事でよかった」などの言葉一つなくそんなことを言う母。そもそもいつの間に「彩希ちゃん」なんて呼ぶ仲になったのか。

そして母の言った通り搬送されてから付き添っていてくれたらしい園田は、母に恐縮した様子で言葉を返した。

「いえ、そんな……そもそも私を庇った所為で怪我をしたんですから、そんなの当然のことです」

いやいや、そんなこと、なんて言い合いを繰り返す二人をしり目に窓の外へ目をやる。もうすでにとっぷりと日は暮れた様子で、暗くなっている。

確かめるように園田を見つめた。

「……北見君、どうかした? 頭が痛むの?」

頬に温かなものが伝う感覚はあった。安堵から涙腺が緩んだのだろう。園田は心配そうにしているが「いや、なんでもないんだ」とだけ返した。

園田彩希は生き残ったのだ。




「よう、久しぶりだな」

幸いにも大した怪我ではなく、検査などを終え翌日には退院となった。病院を出たその足で例の階段の前へ来ると、ヤマダがいつも通り腰掛けていた。

「ああ。おかげ様でなんとかなったよ」

あのとき、もう少しバイクに気づくのが遅れていれば、きっと間に合わなかった。なんのことかわからないといった風な顔をするヤマダだが、あの声は間違いなくこの男だろう。

「本来、彼女はあの日一人で外出し、バイクから子供を庇い亡くなるはずだった。家にいるように仕向けても、なんらかの理由で外へ出て家の前で。どこへ誘導しても必ず同じ状況になるんだ。何度やっても何度やっても。俺が庇ったって駄目なんだ。この時代の人間じゃなきゃな」

「………」

ヤマダは随分と晴れやかな顔をして、いつものように煙草に火をつけた。

「これからの未来はもう変動した。俺も二度とここへ来ることはないだろう」

「帰るのか、未来に」

「そりゃあ帰るさ。どうだ? 最後に聞きたいことがあるなら聞いてやるぞ」

「………そうだな、次のデートはどうすりゃいいと思う」

少々冗談めかしてそんなことを聞いてみる。俺の口からヤマダにアドバイスを乞うなんて、以外だったのかげらげらと笑われた。

「残念だったな、その質問には答えられない」

「なんだ、また“規則”ってやつか?」

「いや、俺は神様じゃなくて未来人だからな。自分の体験したことしか知らないのさ」

最後にまたにやっとした笑みを浮かべたヤマダ。

次の瞬間。

いつかのような強風とともに、未来から来た男は綺麗さっぱり消えてしまった。




それからというもの。宣言通りヤマダは二度と現れることはなかった。

あの男の痕跡はどこにも見当たらないが、確実にあいつのおかげで変わったことがいくつかあった。

あの日をきっかけに、園田との関わりも増えた。等身大の女の子であることを実感したからなのか、少しは緊張せずに話せるようになった気がする。

友人たちとレポートを片づけ、園田と勉強したり、出掛けたり。天文サークルに入ってみたり、先生とお茶したり。

先生はヤマダが未来に帰ったことを話すと、「そうですか」と一言返しただけだった。

季節が巡り、再び夏が来たいまでもあの数日間の出来事は鮮明に思い出せる。

未来人のヤマダタロウという男は、もうこの時代のどこにもいない。

でも確かにあいつは存在していたし、園田は生きている。それだけで十分な気がした。

未来人はいるかもしれない。

それを確かめることもできず、否定する手段も持たない俺は、いまだにあの階段に腰かけ笑う男の姿が瞼に浮かぶのだった。

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トマソン 綿貫たかし @nao0415

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