ドン! ドドンドドン!  パカッ! パカッ!

カワサキ シユウ

ドドン!

 ――ドドン!


 ある者は驚いたように小さく悲鳴をあげた。ある者は期待するように息を飲んだ。ある者は感嘆するように溜息を漏らした。

 そして誰もが注目した。その音源があるだろう一点に向けて。一寸先も見えない完全な闇の中で、しかしながら、確かに会場にいるすべての人がその一点を凝視していた。


 ……ドドン、ドン、ドドン、ドン……。


 次第にその音に変化が訪れる。単調なはずの打撃音の響きが、あるときは無常を感じさせ、あるときは激しい焦燥を煽り、そしてあるときは幸福な心の安寧をもたらす。闇の中で見えないはずの色を幻視するかのごとき音の豊かさに、おさげとそばかすが可愛らしい純朴そうな少女は涙が溢れるのを抑えきれないでいた。


 ――お母さん、私は、これから伝説に会いに行きます。


 ドン、ドン、ドン……パカッ。


 不意に混じった甲高い音に、あご髭を蓄えた中年男はニヤリと口元を歪め、その自慢の髭を撫でた。


 ――ほう、そうきたか。


 それを皮切りとするかのように、ドンドンパカパカは見事なハーモーニーで混ざりあう。ふたつの流れが混濁する川のようにそれらは強烈な渦を巻き、そして、舞台に小さな光が差す。ステージの真上から降り注ぐ一条の光によって最初に人々の目に映りこんだひとつのドアだ。重厚そうな作り、古ぼけた赤色のペンキは所々剥げ、アンティークとも表現しがたい、一見するとただのボロボロのドアである。


 ――あれは……? えらく古ぼけた作りだが……いや、違う!


 それを見た青年の、牛乳瓶の底のように厚いぐるぐるメガネが光った。そのペンキの剥げた微かな箇所のサビの様子を目ざとく見つけた青年は、それがただのボロボロドアなんかではないことを看破した。青年はチラリと隣人の様子に目をやる。ゴシック調のドレスに身を包んだ金髪碧眼の少女はいつも通り無表情である。しかし、その瞳だけがギラギラとした輝きを放っていた。青年はぞっとするものを感じながら密かに舞台に視線を戻した。

 ドアの真上から照らすスポットライトは、徐々にその範囲を広げていく。やがて直径三メートル程の円を底面とした光の円錐が出来上がった。足元には白い煙が立ちこめており、暗闇の中にドアが浮かび上がっているようにも見えた。


 ――まぁ、これは私の舞台でもお願いしたいくらいだわ。


 腰まで伸ばしたストレートヘアーが自慢のスパンコール姿の女は、ニヒルに笑う。足元に広がる白い煙は、焚くタイミングもその広がり方も完璧だと女は評した。会場の風の通りや気温まで完璧に把握した上で、微調整に微調整をかけなければこうはならない。理想的な目元の泣きぼくろがセクシーに歪んだ。

 そのドアを挟んで客席から向かって左側に細身の男、右側には小柄な女がいる。男は肩幅に足をひらき、どっしりと腰を落とした体勢でドアを両の手で叩いている。時には指の関節を使ってノックするように。時には拳を使って殴りつけるように。時には指の腹でなぞるように。細身でありながらその身体についた無駄のない筋肉、立ち姿、技術。顔立ちはともすれば幼いとも思われかねないほど若くも見えた。


 ――若いのう。……じゃが、きゃつの積み上げてきた功夫は本物。まごうこと無き、猛者の風格じゃ。


 仙人のように真っ白な口髭を垂らした老人の糸のように細い瞳が鋭く光った。

 一方、右側の女はドアの側に座り込み、ドアにもたれたり、身体を離したりしながらも、ちょうど男の腰辺りにある郵便受けから男の殴打の隙をついて様子を伺うように開けたり閉めたりしている。そこに漂うすべての情報を逃すまいとするように、時に郵便受けから鼻や舌をつきだして、あるいはドアにそれらを直接触れさせながら、その感覚を研ぎ澄ましていた。


 ――奴は、化け物か!?


 その視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。いずれもが孤高の獣のように研ぎ澄まされていることを、迷彩服と暗視ゴーグルを装備した精悍な壮年の男は本能で理解していた。その視覚や嗅覚や味覚によってドアの向こうの男の様子を正確に把握し、息を合わせ、また主に舐めることによって楽器たるドアの状態を怖るべき精度で感知し、直接肌で触れることで温度や音の響き方を絶妙なレベルで調整する。それらをすべてを同時に高い水準で行える、そんな演奏者が一体この世界にどれだけいるのか。間違えなくこの女は天才だ。


 ――幾たびもの死線を潜り抜けてきたこの私だが、もしも彼女と戦場で遭遇したならば……。


 彼は背筋に伝う冷たいものを拭う余裕すらなく、ゴクリと生唾を飲みこんだ。


 ――隣のギュウニュウビンなんかにはきっとわかっていないだろうナー。


 金髪碧眼の少女は一人思う。高さ千九百ミリ、幅九百ミリのドアはこの手の楽器としてはよくあるサイズである。そこはたいして重要ではないのだ。よりこのドアを楽器として引き立てている、特別なものに仕立てているのはパカパカと開く郵便受けに違いないと彼女はにらんでいた。横二十五センチ、縦五センチという黄金比的サイズ感、そして左に立つ男の腰のあたりという計算しつくされた配置。このサイズのドアに備えるべき郵便受けとしては間違いなくベストな形状である。


 ――これだからジャパンのタクミは……アンビリーバブル!


 ドドンドドン! ドドンドドン! ドゴンドン! ……パカッ! パカッ!

 ドンドドン! パカッ! ドンドドン! パカッ!

 ドンパカドンパカドンパカドンパカッ! パカラッパカラッパカラッパカラッ! ドドンドドン! パッ! 


 やがて舞台に一人の蝶ネクタイの男が現れた。その両手のマイクより、驚愕の事実が明かされる。


「残り三十分しかありません!」


 人々は誰もが自分の耳を疑った。そして、各々が腕時計や懐中時計や腹時計をまさぐり、改めて突きつけられたその事実に打ちのめされる。演奏が始まってから、既に十一時間三十分が経過していたという事実に。

 それを耳にした舞台上の男女の瞳が一瞬キラリと光り、郵便受け越しにアイコンタクトを交わした。それを合図に演奏により熱が入る。燃え盛る炎のようにその勢いは留まるところを知らず、観客を巻き込みながらも、なお一層激しさを増していく。もっとここにいたい。


 ――あぁ、この演奏を、いつまでも聴いていたい。


 おさげとそばかすの少女が、顎髭の中年男が、牛乳瓶底眼鏡の青年が、スパンコールの女優が、白髭の仙人が、歴戦の軍人が、金髪碧眼のゴスロリ少女が、そして会場にいるすべての人が願い、想いがひとつになった。その儚い願いをも飲み込みながら、ふたりの演奏は後に伝説として語られるフィナーレに全速力で走りだしていった……。


 ドン! ドドンドドン! パカッ! パカッ!

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ドン! ドドンドドン!  パカッ! パカッ! カワサキ シユウ @kawasaki

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